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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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もう一つの人間観

もう一つの人間観

『もう一つの人間観』は僕の恩師の和田重正先生の著作です。この本は50年ほど前に柏樹社より初版が発行されましたが、その後地湧社によって発行されました。この度在庫がなくなったのを機に再販されることになりました。稀に見る良書ですので、みなさんにお勧めいたします。なお、再版には若干の期日を要しますので、その節にはこの『いのちの塾』のブログを通じて、改めてみなさんにご連絡いたします。以下の文章はぼくが地湧社に依頼されて書いたものです。ご一読ください。


推薦の言葉
本書の著者、和田重正先生は10代半ばに「自分とは何か?自分はどう生きるべきか?」という大疑問に直面され、苦悩すること約10年、ついに完全に行き詰まり、まさに命を絶とうとした時に、桃の花を見て、この世界の真の姿と真の生き方に目覚められたそうです。その後は生涯市井にあって青少年の人間教育に尽力されました。ご著書も多数あり、それぞれ特色がありますが、本書は言わば、それらの本の集大成と言ってもよいでしょう。

私たちはもの心がついて以来、家庭、学校教育、友人関係、テレビや新聞の報道など周囲の影響を強く受けながら育っていきます。それは社会人になってからも続きます。その結果、よくよく確かめてみると、真実でないことをあたかも真実であるかのように思い込んでいたり、本当はよくわかっていなければならない大切なことがほとんどわかっていないことが意外にあります。その代表が「この自分とは何だろう?」というテーマです。

しかし、このテーマは「真実は~~だから~~である」などと単に理屈を教えてもらったとしても、「なるほど!」と実感的に理解し納得することは非常に難しいと言わざるをえません。それは、学んでいる“生身の自分“自身がテーマだからです。その点、和田先生の人間教育の特徴は「教えない教育」だと言えます。すなわち、“生身の自分“が先生の書かれたものを読んで行くうちに、内面から触発されて、自然に真実に目覚めるように導かれて行きます。

本書においては、和田先生独自の観点から、まず人間の欲望や本能の特徴やその働きの持つ意味について、次に、生物の進化と人間の一大特徴である大脳の役割やその意味についても述べられ、そもそも人間はどのような特徴と役割を持ってこの大宇宙に誕生したのかということについて明確に説明されています。読者はそれを読み進みながら、自分自身を振り返り「自分とは何ものか?どう生きればよいのか?」ということについて自覚を深めて行くことでしょう。

そういう意味で、和田先生が書かれたことの真意を本当に理解するためには、一つ一つの段落を味わいながら繰り返し読むことが秘訣だと言えましょう。心掛けてそうして、ある箇所を読んでいるうちに、突然目から鱗が落ちるように、「なるほど!」と心から納得するようなことが何回も起きます。そういう体験を繰返しているうちに、いつの間にか、まったく新しい心の眼で本書を読み返している自分自身に気がつかれるでしょう。

私自身は、本書をはじめて読んでから今日まで約50年になりますが、お陰様でその間どんな状況にあっても、心の底ではいつも深い安心の中で生きてきました。そういう自分自身の体験からも、本書は自分というものを深く知り、真に意義ある人生を生きるための絶好の書だと思います。今でも読む度に新しい気づきがあり、感謝の念で一杯です。本書を心からお勧めいたします。
               
             


再掲一輪のバラ

再掲一輪のバラ

朝、庭に出たら、そこに数本のバラが咲いていました。

一輪のバラに目が留まりました。

上品なピンク色のバラです。

「君、すごいねえ」と、思わずそのバラに声をかけてしまいました。

色がきれいだったからだけではありません。

その一輪のバラが宇宙を尽くしているからです。

一輪のバラは一輪のバラであって、しかも、バラではないのです。

その一輪のバラは単独でこの世に生まれてきたわけではありません。

また、単独でこの世に存在することもできません。

その一輪のバラには宇宙のすべてが含まれています。

同時に、その一輪のバラは宇宙のすべてを支えています。

その一輪のバラもいずれ萎(しお)れて、地に落ち、微生物に分解されてしまうでしょう。

やがて、あなたはこの地上や空中のすべてのものの中にそのバラを見出すでしょう。

そして、長い長い無限に近い時が経過した時、この宇宙のすべてのものの中にそのバラを見出すでしょう。

でも、「その一輪のバラは宇宙を尽くしている」という事実は、そんなことを考えなければ分からないのではありません。

朝の光の中で緑の樹木や草花に囲まれて輝いているその一輪のバラをそのまま素直に見れば、誰にでも分かる単純な事実です。

その一輪のバラだけではありません。

この世界のすべての存在、起こっている現象のすべてがそれぞれすべてを含み、同時に、支えている、つまり、“尽くしている”のです。

私たち一人ひとりが宇宙を尽くしています。

庭を歩くその一歩が宇宙を尽くしています。

この一呼吸が宇宙を呑み吐き出しています。

バラの花の下の地面を見ると一匹の“小さな”アリが歩いています。

この一匹の“小さな”アリが“大きな”宇宙を尽くしています。

本質の世界には大小なんてないのです。

私たちは大脳の発達により自我を持つようになりました。

そのため、私たちは存在を自分と自分でないものに分けて意識すると同時に、すべての存在は、それこそ、バラバラであると意識するようになりました。

でも、バラはバラバラではありません。

バラは宇宙のすべての存在とひとつなのです。

大海の表面に生じる一つ一つの波はバラバラでしょうか? 

波は海とは別のものでしょうか?

この世界に存在するものはもともとみんな同じひとつのものなのです。

ところが、この一つ一つの波がそれぞれ自我意識、つまり、“他と切り離された自分”という意識を持つようになってしまったのです。

それが私たち人間です。

僕はきっとそれには深い意味があってのことだと思います。

私たちは自我意識を持ったためにある面ではとても発達した文明を持つようになりました。

けれども、逆に、人々の自我意識により、個人的にも社会的にも、さまざまな混乱と苦しみが引き起こされるようになってしまいました。

その根本原因は、私たちが表面的な“自分という個“だけを意識し、「すべての存在はみんなひとつの同じ“いのち”なのだ」という真の事実を見失っているところにあります。

一輪のバラはバラであって、しかも、バラではないのです。

“真の自己”は“いまここ“に当たり前の顔をして存在しています。






心観法でわかること

心観法でわかること

(今回のブログを読む前に、まず、その前にアップした『心観法のすすめ』を読んで心観法を充分に実習してください。)

心観法の実修ではまず自分自身の方を観ます。すると、そこにはただ静寂で透明な空間が広がっています。次に、前方を観るといろいろなものが見えているのと同時に、そこにただただ静寂で透明な空間が広がっています。

静寂で透明な空間とは「空っぽ」ということです。空っぽとは仏教でいうところの「空(くう)」、すなわち、般若心経で言う「色即是空 空即是色」の「空」のことです。

つまり、仏教では、この世界のすべての現象や存在のことを「色」と呼び、「色」を顕現する根源の力のことを「空」と呼ぶのです。

なぜこの世界のすべての現象や存在を「色」と呼ぶのかと言えば、この世界の現象や存在の多くは私たち人間の五感で捉えたものを大脳を通して、眼に見える色のついた姿や形あるものと認識されるからです。

それに対して、この世界の現象や存在を顕現する根源の力は姿や形あるものでなく、目に見えず、何もないように見えるので「空っぽ」すなわち「空(くう)」と呼んだのです。

このように、この世界の現象や存在を顕現する根源の力は、一見「空っぽ」にしか見えないのですが、それは人間の五感で捉えられないというだけで、この世界のすべての現象や存在を生み出す無限のエネルギーそのものです。それも単なる物理的エネルギーというよりも、同時に、無限の愛のエネルギーなのだと言えましょう。

繰り返しますが、「空っぽ」というのは我々の五感や大脳では捉えられないためにそのように見えているだけで、真実は無限のエネルギーそのものだということです。

けれども、こんな説明を聞いて、「へー、そうなのか!?」と他人事のように思ったらとんでもありません。なぜなら、心観法で確認したとおりに、真実のあなた自身が「空っぽ」すなわち、無限のエネルギーそのものだからです。

ですから、心観法の実習をしながら自分自身の方を観て「なにも見えない。静寂で透明だ」で終わっていては何の意味もないのです。「何も見えない、静寂で透明だ」ということは、あなた自身が無限のエネルギー」だということだからです。

そして、それは自分の前方を観ても同じです。そこにはいろいろなものが見えているのと同時にまったく静寂で透明な空間がどこまでも広がっており、それはこの世界、すなわち、色がまさに空、すなわち、無限のエネルギーであることを示しているからです。

この「空」のことを仏教では「仏性」とも言うようです。それを僕はあらためて「“いのち”」と呼んでいるのです。

すなわち、心観法はあなた自身の本質は“いのち”であり、そして、この世界の本質も“いのち”であることを示しているのです。






心観法のすすめ

心観法のすすめ

これまで何回か説明してきた「自観法」は自分の「思いや感情」を観るという行法なので、僕の造語ですが、「思観法」という言い方がふさわしいと思います。一方、「心観法」という言葉も僕の造語です。心観法(しんかんほう)の「心」というのは「本質・本体」という意味で、心観法は自分の本質(本体)とこの世界の本質そのものを観る行法です。

つまり、これまでやってきた自観法(つまり思観法)は自分自身を観るというよりは、どこからに浮かんでくる思いや感情などを観るのに対して、心観法は、自分の心(本質・本体)をそのまま観るのです。それができたらこの世界の心本質・本体)をそのまま観るのです。

多くの人は「心」を思いや感情などという意味だと考えていますが、実は、「心」には三つの意味があり、心観法で言う「心」というのは「本質」とか「本体」という意味なのです。すなわち、心観法は自分の思いや感情などを観るのではなく、自分というものの本質あるいは本体を観るということです。(ですから、本当は、思観法よりこの心観法の方が「自観法」という名によりふさわしいと言えるのかもしれません。)

さて、これから心観法の説明に入るわけですが、実は、すでにみなさんは以前にやったことがあるはずです。でも、あらためてこれから順を追ってやってみましょう。と言っても、簡単すぎるほど簡単なのですが・・・。なお、以下の行法をやる時に慣れてきたら「川の瞑想」のCDをバックグラウンドにしてやると、より一層分かりやすいと思います。

1 まず目を少し大きめに開けて前方を見ます。当然前方にはいろいろなものが見えているはずです。
2 その状態で、片手の人指し指だけ伸ばして、他の指は軽く握ります。
3 次に、手を少し伸ばして前方を指差します。指の前方にはいろいろなものが見えているはずです。
4 そこで、手首を手前に折り返して、20センチほど離れたところから、人差し指を自分の眼に向けます。人差し指の先っぽは両目の真ん中あたりを指してください。
5 その状態で前方を観れば、前方の景色とともに、その中央にはと人差し指の先っぽと他の4本の指を握った手が見えているはずです。
6 次に、その状態で、意識を反転して、人差し指の差している方向、眼つまり顔の方向を観ます。注意を前方ではなく、後方つまり自分に向けるのです。いわば、眼の奥を覗き込むのです。そこに何が見えていますか?
7 そこには絶対に静寂で透明な空間がどこまでも広がっています。それを簡単に確認できるように、意識と視線の方向を工夫してみてください。
8 この絶対に静寂で透明な空間こそが「真の自己」であり、「自分の本質」であり、「自分の本体」すなわち「心」です。(くどいようですが、ここで言う「心」は思いや感情などではなく、本質・本体という意味です。)この絶対に静寂で透明な空間は、言い換えれば、「空っぽ」ということであり、「般若心経」では「空」と言っています。いわゆる、「空即是色」の「空」です。
9 ここまで確実にできるようになったら、前方に視線と意識を向けてください。そこにはいろいろなものが見えていますが、それらのものをじっと観ます。
10 そこにはいろいろなものが見えていますが、その見えているものの奥に、というか、見えているものと重なって、絶対に静寂で透明な空間がどこまでも広がっています。つまりこの世界のいろいろな存在や現象は絶対に静寂で透明な空間すなわち「空」の顕れなのです。
11 この行法に習熟すると、どんな状況でも、どんな場所でも、例えば、大都会の騒音の奥にも絶対に静寂で透明な世界があり、すべての本質は「空」すなわち「心」であることがわかるようになります。
12 絶対に静寂で透明な空間は五感で捉えると「空っぽ」ということで、「空」と呼ぶわけですが、そこには何もないように思われるかもしれませんが、真実は、「空」は無限の創造エネルギーを秘めているのです。それを道元は「一心一切法 一切法一心(心がすべてであり すべてが心である)。あきらかにしりぬ。心は山河大地なり。日月星辰なり。」と言っています。
13 つまり、「空」すなわち「心」は自己の本質であると同時にこの大宇宙の本質なのです。この場合の「空」すなわち「心」は仏教的に言えば、「仏性」ということであり、僕流に言えば、「“いのち”」ということです。
14 このように、大宇宙自体そして真の自己が「空」すなわち「心」ですから、例え、肉体が滅びても、自分は永遠に生き続けるのです。つまり、自分は不生不滅の永遠の“いのち”そのものです。
15 ここで一つ言っておきたいことがあります。それは、心観法のやり方をこのように説明すると、そんなものは視覚の錯覚を利用したトリックにすぎない。トリックを用いて「自分の本質がどうのこうのなどとは言えない」という人がいます。たしかに、トリックと言えば、そう言えなくもありません。けれども、トリックと見えるものをうまく活用して、思いを超えた真の自己を体感させるのがこの行法なのです。

では、これまで書いてきたことをあらためてまとめてみましょう。
最初に結論を言います。体は自分そのものではありません。体は自分が使っている道具です。また、「思いや感情」も自分そのものではありません。「思いや感情」も自分が使っている道具です。真の自分は「空」(=心=“いのち”)です。それは宇宙一杯に広がっている無限の空間です。そういう意味で、大宇宙が自分だと言えるでしょう。
私たちは育っていく過程でこの体と“思いや感情”が自分だと信じ込んで生きています。ですから体の調子が思うようでないと、自分自身がダメになったような感じがして不安になります。また “思いや感情”がマイナス的になると、自分そのものがマイナスになったような気になります。そしてマイナスになったところから何とか抜け出したいと思っていろいろ試みて、その結果何とか抜け出せたように思っても、またいつの間にかマイナスに落ち込んでしまったりします。多くの人はそうやって一生を過ごしていくわけです。この様に、体や“思いや感情”はいつも安定しているわけではないので、いつもどこか不安です。調子がよい時も、それがどこまで続くかと不安になってしまいます。

本当の自分は「心」(=「空」= “いのち”)であり、無限の創造エネルギーです。ですから本当の自分は何があっても変わることはありません。何があってもいつも澄み切っています。本当の自分が何かが分かると、どんなことがあっても不安になることもなく、絶対の安心の中でいつもすっきりと生きていくことができるのです。

昔、徳川家康は「人生とは遠い道を重い荷物を背負って一歩一歩歩いていくようなものだ」と言いましたが、この言葉に共感する人は多いのではないでしょうか。でも、それは本当の自分というものを知らないからです。本当の自分は外的な条件には全く左右されないのです。何があってもどんな状況でも変わることがない絶対の存在です。

この文章を読んでいるみなさんもその体と“思いや感情”が自分だと信じ込んで生きてきたのではないでしょうか。そのような人生の中で、ある時、野口整体に出会って、体こそ何よりも大切だと思うようになります。体が調子が悪くなれば自分自身がダメになると思うからです。またそのうちに、セミナーやブログで「体は道具である」と言われ、そうかなと思いながらも、やはり本音では体が自分だと思っています。

中には「体が自分でない」と思いながら、今度は「“思いや感情”が自分だ」と思うようになります。けれども、それに対して、「“思いや感情”は自分ではないよ」と言われると、訳が分からなくなってしまいます。でも、結局は、「この体とこの“思いや感情”が自分だ」というところから一歩も外には出ていないのです。そのくらい「この体と“思いや感情”が自分だ」という思い込みは根強いのです。けれどもその思い込みがある限りは、いつもどこか不安な状態で生きていくことになります。

確かにあるときは調子が良いのでそのまま気分よくやって行けているような気になっていても、ふとしたことで調子が狂うと、途端に不安な気持ちになります。そしてだんだん歳をとっていくと、やがてどこかで自分も死ぬんだなあと思い、それを考えるとますます不安な気持ちになります。ただ日常的には、そういう思いが出てきても、何か他のことで気が紛れてしまうので、何もないような感じで日々が過ぎて行くように思うかもしれませんが、潜在意識的にはいつもどこか不安な状態で生きています。

このように人生そのものが根底のところでの大安心に立っていないので、人生というものはどこか頼りないものだなあと感じながら、何とか不幸に陥らないようにと願いながら生きているのが多くの人の実態ではないでしょうか。

けれども、この文章でお伝えしたいと思っていることは、「体や“思いや感情”は自分ではない」ということです。本当の自分は何ものにも傷つけられない「心」すなわち不生不滅の“いのち”だということです。けれども「そういうふうに言われたから信じ込む」ということではなくて、ちゃんと自分自身で確かめることが大切です。

仏教では真の自己を悟るのは非常に困難だとされています。けれども、僕は「本当のことを悟ることがそんなに難しいはずはない」と思っているのです。ちょっとやり方を工夫すれば、容易に誰もが真の自己を悟れるはずです。

この世界は“いのち”の世界です。天地一杯に“いのち”が広がっています。自分の眼の奥をじっと見れば、その奥に絶対に静寂で透明な空間がどこまでも広がっています。それが“いのち”であり真の自己です。また、前方にあるいろいろなものをじっと見つめれば、そこにも絶対に静寂で完全に透明な世界がどこまでも広がっています。それを見る時に、自分が天地一杯、不生不滅の“いのち”であることを実感します。

でも、ただ、それだけではダメです。この存在の真実をしっかりと悟って、毎日楽しく爽やかに生きとし生けるもののために全力を尽くして生きていくことこそが真の幸福なのです。それが人間として生まれてきた意味であり、生き甲斐でなければならないのです。

最後にもう一度。自分は不生不滅の“いのち”です。ですから、体は死んでも、何があっても、絶対に自分は死にません。

付け足し
心観法をやる時、はじめの内は、もしできれば、室内でやるよりは、なるべく広い場所、遠くまで見える所、木々や草花がある所、川岸、海岸、山や森などが見える所、空が見える所、公園、屋上、ベランダなどでやるほうがやりやすいかもしれません。
そんな場所がなければ、もちろん室内でよいと思います。いずれにしても、どこでも、いつでも、心観法が自在にできることが目標です。




自分は死なない

自分は死なない

存在の真実の悟りを得るためには大変な努力をしなければならないとよく言われます。しかし、僕は必ずしもそうではないと思うのです。

お釈迦様は悟りを得たときに「山川草木悉く成道す」と言われたそうです。たしかにそのように言われると、悟りを得るのは何だか大変難しそうに思えるかもしれません。けれども、実はお釈迦様はそんな難しいことを言っているのではないと思うのです。事実、植物はもちろん、大脳が未発達な犬や猿やネコ等の動物達は、自覚はないかもりれませんが、すべて一切平等、つまり、悟りの世界に生きているようです。

人間が存在の真実を理解するのが難しそうに思えるのは、人間が発達した大脳を持っているからなのです。私たち人間は大脳の二元相対的思考によって、五感で捉えた表面の形や姿などにとらわれて、それぞれの存在をみんな別々だと思っています。そのために人間だけが大脳で勝手に想像して、それぞれが別々で不平等の世界に生きているつもりになっているのです。

要するに、存在の真実というのは、「山も川も草も木も石ころも人間もすべてひとつの共通の何かだ」というだけのことです。(そのひとつの共通の何かを僕は“いのち”と呼んでいます。)ですから、お釈迦様が言われた「山川草木悉く成道す」というのは、全く当たり前のことを言ったのだと思うのです。僕は、そもそもこの世界にそんなに難しいことがあるはずはないと思うのです。

ところで、ほとんどの人は、その人生のどこかで、「自分とは何だろう」という疑問、言い換えれば、「生死の問題」にぶつかるのではないでしょうか?けれども、大部分の人はその解答を見出すこともなく、いつの間にか世間の波にもまれていくうちに、その問いを忘れてしまったり、たまに昔そういうことを考えたことを思い出すことがあったとしても、それはすでに過ぎ去った青春の思い出の一コマだとして、生きていっているのではないでしょうか。しかし、それで人生の根本問題にケリがついたわけではないので、多くの人は病気や事故など不慮の出来事に遭遇した時、あるいは、肉親や身近な人が病気になったり、死んだりしたときに、あるいは、年を取って心のどこかで死の影を感じて、何となく不安な日々を過ごさざるをえなくなっていくようです。

いずれにしても、この生死の問題は、考えれば考える程、自分はどっちに向かって生きる努力をしていったらよいかが決まらなくなってしまうので、それを意識するかどうかは別として、それぞれの人の心の奥にずっと潜んでいて、その人の考え方や生き方に少なからず影響を与え続けています。それでも、日常的には雑事に追われて、大部分の人はその問題から目を逸らしているわけですが・・・。

中には、この問題を考えれば考える程、分からなくなって、宗教に解決を求める人も少なからずいます。でも、それで本当の解決に至る人は少ないようです。伝統的な宗教、例えば、仏教やキリスト教に救いを求めて、「とにかく、素直になって、言われた通りに信じなさい」と言われても、その内容というのは、科学文明の時代に生きる現代の人々には、とてもそのまま信じられない迷信のようなもので、結局は、そこに本当の救いを見出すことは非常に難しいように思われます。仮に目を瞑るような気持ちで言われることを信じれば、一応の安心感は得られるかもしれませんが、それは本当の安心と言えません。中には、変なカルト的な宗教に洗脳されて悲惨な境遇に落ち込んでしまう人も少なからずいます。

そもそも本当の安心というのは、安心を支える条件がなくなっても、それでも安心はなくならなくならないのでなければならないのです。例えば「大企業に就職できたから安心だ」というようなのは、もしクビになったら安心も同時になくなります。私たちにとって本当に必要なのは、そんな条件付きの中途半端な安心ではなく、何があっても変わらない無条件の安心ではないでしょうか。

「そんな無条件の安心などあるのだろうか」と思うかもしれませんが、真実は、誰でも今日ただ今、その無条件の安心の中にいるのです。ただ、それに気づいていないだけなのです。もしかしたら、まともな宗教はその安心に気づかしてくれようとしているのかもしれません。そして中には、それで無条件の安心を得る人々もいるのかもしれませんが、一般的には、非常に難しいのではないでしょうか。

いのちの塾でいろいろ工夫してみなさんに伝えようとしているのは、「もともとこの世界は安心の世界なのだ」ということです。でも、そのように思い込めというのでも、難しい修行をしたり深い信仰を持てばわかるということでもありません。この世界の有様とその中で生きる自分の正体を見極めれば、「誰でも、もともと無条件の安心の世界にいる」という真の事実に気づくことができるのです。そのためには、素直に「当たり前のこと」に気づけばよいのです。

では、「どんな当たり前のことに気付けばよいのか?」と言うと、「たとえ死んでも、自分はなくならない」ということに気づけばよいのです。そんなことを言えば、「そんなことできるはずがない」と思うかもしれません。でも、この真実は、本当は誰にでも簡単にわかることなのです。

僕自身について言えば、肉親や身近な人が死んだ場合に、「その人はもはや存在していない」という感覚を持ったことは一度もありません。亡くなった人はいつまでも霊魂として生きているということを信じているというわけではないのです。ただ、亡くなってからも、その人はいつも一緒に生きているという感覚がずっとあるのです。何か宗教的に信じているということでもありません。むしろ、何も信じていないから素直にそう思えるのだと思います。また、その人は僕の心の中に生きているということでもありません。ただ、いつもその人たちが自分のまわりに以前と同じように存在しているという、ある意味で、生々しい感覚があるのです。かといって、その人の姿形が見えているというわけではありません。とにかく、肉親や身近な人が亡くなっても、その人がいなくなったという感覚がないので、悲しいという気持ちもないし、困ったなというような気持ちもありません。

この感覚は誰かに何かを教わったので、そう思うようになったということではありません。ただ、小さい時からそういう感覚で生きてきたということであり、その結果、自分の死についても怖いとか悲しいという気持ちは一切ありません。ですから、僕自身はいつか肉体的に死んだとしても、自分というものはずっと生き続けていくのだと確信しているのです。

変な言い方ですが、今の自分には、この体が生まれる前にも「自分は生きていた」という感覚があります。そしてさらに、将来この体が死んだ後にも「自分は生きている」という感覚があるのです。「このような感覚があるのはなぜか?」と考えてみると、それはこの世界の中に自分が存在しているのではなく、この世界がそっくり自分だからです。だから、自分はこの体が生まれる前にも生きていたと感じるのであり、将来この体が滅びても自分は生きているという確かな感覚はずっと続いて行くと感じているのです。

「それはいま肉体を持って生きているからそういう感覚になっているのではないか?」と反論されるかもしれませんが、そうではありません。というのは、僕はいつも亡くなった自分の家族や身近な人がまだ生きているように感じていることもありますが、「この世界は不可分一体の世界である」という存在の真実を知ってからは、死んだ後も自分はあるということを素直に納得しているのです。

多くの人は、この世界はいろいろ異なったバラバラのものがよせ集まって形成されていると思い込んでいます。(これを私は「バラバラ観」と呼んでいます。)しかしながら、それぞれのものの成り立ちを検べていくと、それらバラバラの寄せ集めと思われるものは、実は、もともとひとつのものの現われであり、すべての存在や現象は「不可分一体」であることがはっきりわかってきます。要するに、この世界の始まりより今日まで、すべては一つなのです。この存在の真実がわかると、すべてがそれ以前と異なって見えてきます。自分もあなたもこの世界の初めより今日までずっと存在していたのです。そして、これからもずっと永遠に存在し続けるでしょう。

例えて言えば、自分という存在は肉体と共に生きている時には、大きな川の流れの中に浮かんでいる無数の泡粒の一つのようなものです。でも泡粒の一つと言っても事実としては、川の水そのものです。そして、ある時間が経過するとその泡粒の膜?が破れて、泡粒は消えて、川の水と一つになって流れて行きます。人の見かけの一生というのは、ある時に川の中に無数の泡粒に混じって一つの泡粒が生じ、川の表面に浮かびながら川と一緒に流れて行き、やがて、その泡粒は形としては消えても再び元の川の水と一つになって流れて行く間のことであり、泡粒としての姿は消えても、それで自分というものが消滅したわけではなく、依然として川の水と一つになって生き続けているのです。ただ、「一つになって」と言っても、個としての意識や記憶が全部なくなってしまうということではなく、同時に個としての意識や記憶も保持されているのではないかと僕は推測しています。

ですから、常識的には、人には生死があるように見えるかもしれませんが、本当は人には死はなく、どこまで行っても、あるのは生だけで、人はずっと永遠に生き続けているのです。この真実がはっきりとわかれば、自分のことであろうと、他の人のことであろうと、もはや死は怖いものとか悲しいもの、あるいは、寂しいものというような気持ちが湧いてくることはなくなります。今まで死んだと思っていた肉親や親しかった人も、いつもあなたのそばで生き続けているのです。(いわゆる、亡くなった人は、多分、この世界と重なりながら次元の異なる世界に生きているのだろうと、僕は勝手な想像をめぐらしています。)

とにかく、人でもネコでも犬でも、誰も、体は死んでもいなくならないのです。そうだとしたら、これ以上の安心そして喜びがあるでしょうか?僕はこの存在の真実にできるだけ多くの人に気づいてほしいと切に思います。また、みんな一つの“いのち”だということが分かれば、戦争その他の争いなどはバカバカしくて、とてもやっていられなくなるでしょう。みんなどこまでも、どこまでも、仲良くともに生きて行きたいと思うようになるのではないでしょうか。というのは、人と人が争うのは、煎じ詰めると、みんなバラバラだという思い込みと心の底に死に対する恐れがあるからなのです。

といっても、この世界はどのように出来ているか、その中で自分はどのような形で存在しているのかということについて間違った思い込みを持っていれば、感覚的に理解するのは難しいかもしれません。というのは、この真実を確かめるためには“自分本来の素直な感覚”を信頼する必要があるのです。“自分本来の素直な感覚“と言いましたが、多くの人はこの社会の中で育っていく過程でその影響を受けて、不自然な感覚を身につけ、それをあたかも自分本来の感覚であると思い込んでいるところが多々あるからです。

僕は無理に「生まれる前にも自分はいた」という気分になれと言っているのではありません。でも、「生まれる前には肉体はなかったのだから、自分がいたはずがない」と短絡的に思い込んで、結論を出さないようにしてください。ポイントは、肉体というのは、あくまで、自動車のように、あなたが動くのに使う道具にすぎないのではないかということです。ほとんどの人は子供の頃から、自分とは生まれてから死ぬまで、つまり、肉体のある間だけ自分は生きていると思い込んで生きてきたのではないでしょうか?たとえそうであっても、その思い込みを一応横に置いてみれば、生まれる前も死んだ後も自分というものはあるような気がしてくるのではないでしょうか?

さて、どっちのほうが本当でしょう。現代の科学的見方から言えば、肉体の存在だけが自分の存在ということになりますが、一体科学は存在の真実についてどれだけ解明できているのでしょうか?ともかく私は自分というものの本体はこの肉体があってもなくてもあるのだと思います。このことは人間である自分に限りません、犬でもネコでも草でも木でも同じです。肉体的に死んでも生きても、“そのもの”自体はなくならないと思うのです。このことは残念ながら科学という半端な方法では確かめることはできません。しかしもっと完全な働きをする我々の直感力によれば明らかに捉えることができるのです。(もちろん、思い込みではダメですが・・・。)

とにかく、我々そのものは、形、姿がどうであろうとなくなりはしません。もしかしたら、またこの世界に生まれてくるのかどうかは分かりませんが、とにかく、死んでもこの自分というものは大宇宙の無限に大きな“いのち”の流れの中に存在しています。結局、そういう肉体でない自分を認めるかどうかが、絶対の安心を得るか否かの分かれ目なのです。

以上、自分が自分自身について素直に感じていることを根拠として「自分は死なない。肉体は死んでも自分はなくならない」ということを立証しようとしてきたわけですが、文章として書こうとすると、どうしても「何々だと思う」というような書き方しかできません。でも、自分自身としては、決して思い込みではなく、素直な気持ちで「そうなのだ」と確信しているのです。






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