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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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誰でもすでに完結している

誰でもすでに完結している

今日地球上に生息する生物は、生命の発生以来数十億年の間に生命を脅かす無数の危機に遭遇しましたが、その度に遺伝子の突然変異により、いろいろな機能を獲得・進化させることによってその危機を乗り越えてきました。

人類は生物進化の頂点に立っていると言われますが、体の面でも心の面でも、その生存能力の素晴らしさは過去数十億年の実績により実証済みであると言えましょう。

その証拠に、医学が生まれるまで、人類は医者や薬に頼ることなく地球上のほとんどあらゆる所に生息地を広げ繁栄してきました。

ところが、近代医学が発展するに従って、私たちは、人間は体も心もか弱い生き物だと信じるようになってしまいました。

野生の動物にとっては妊娠、出産は自然の営みで、医者や薬なしに自分ひとりでちゃんとこなします。

ところが、人間はと言えば、妊娠や出産をまるで病気のように扱い、何度もいろんな検査を受けたり、出産に際しても促進剤を使ったり、医者や看護婦や助産婦の補助なしにはできないというのが常識となっています。

学校での定期的な健康診断、あらゆる種類の予防接種も人間はか弱い生き物であり、薬や医者なしには生きてはいけないという考えを子供心に植え付けます。健康診断や予防接種は大人になっても奨励され、私たちは「人間はか弱い生き物だ」とますます洗脳されていきます。

私たちは、あらためて、人間には野生の動物と同じように、本来、自分自身で体や心を整えて健康を保っていく力が十分に備わっていることをしっかりと認識することが重要です。

薬や医者など外部の助けに頼るのではなく、体の不調の原因は食生活を含めた不自然な生活態度にあるのですから、まず、生活態度を見直し、健全な生活に戻すことが肝要です。そのうえで、自分自身にもともと備わっている体を整える機能をより活発にすればよいのです。

心についても、ほとんどの人がストレスや恐れ、不安、心配は不都合なことと勘違いしています。

でも、アタマで妄想をたくましくして必要以上に感じすぎるのは問題ですが、真実は、「何かがうまくいっていないよ。何とかしなければいけないよ」と警告してくれているのであり、生存をよりスムーズにするために人間にもともと備わっている大切な機能なのです。

ですから、たとえば、ストレスがあるからと言って、甘いものを大食いしたり、お酒や鎮静剤などを飲んだりして神経を麻痺させてストレスを感じなくするというのはとてもマズイのです。

一時的にストレスを感じなくさせても、酔いや薬の効果が醒めればストレスは戻ってくるわけで、大食いやアルコールや薬そのものによるストレスも加わり状況はさらに悪くなります。

ストレスは警告シグナルですから、ストレスを解消するにはその原因そのものを見つけてそれを取り除くしかないのです。まさに、そのために必要であるからこそストレスは生じるのです。恐れや不安や心配などについても同じです。

このように、人間は、本来、体も心も何一つ欠けることなく、すでに完結しているのです。





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徒然の思い

徒然(つれづれ)の思い

幼かった時の子と父の会話
父、「なぁ、将来お前は何になりたい?」
子、「大人」
父、「だから、大人になったら何になりたいんだ?」
子、「何にも」

少年になった時の子と父の会話
父、「将来お前は何になりたい?」
子、「大人」
父、「偉くなりたくないのか?」
子、「ただの人が一番いいな」

彼が何かをやっていた時の母と子のいつもの会話
母、「そんなに一生懸命何のためにやっているの?」
子、「面白いからさ」

幼い時から、彼はどんな小さな生き物でさえ、殺すのを嫌がった。
母は、ある時彼が自分の手の甲にとまって血を吸っている蚊を面白そうに見ているのに気づいた。
母が蚊を叩こうとすると、彼は手を振って蚊を逃がしてやった。
母、「どうして?」
子、「腹を空かさせちゃ可哀そうじゃないか」
動物も魚も彼の友達であり、遊び仲間なのだ。
誰が友達を捕まえたり、友達を食べたりするだろうか?
彼は肉も魚も一切口にしない。

いろいろ質問されても、彼の答えはいつも直截で簡単だった。
いつでも本心しか言わないからだ。
彼は生まれてから方便のための嘘をついたことがない。
口に出したことはすべて本気なのだ。
約束や誓いはいつも心からのものだ。

彼は何事も先取りして考えたり悩んだりすることが大嫌いだった。
明日のことなど人間風情に分かるわけがない。
分からないからこそ、生きるのが楽しいのではないか。
現実にぶつかってみて、知力と体力の限りを尽くして対応すればいい。
それで駄目なら死ねばいい。
彼にとって人生は極めて簡単で楽しさに溢れたものだった。
予測や不安でその楽しさを消してしまう人間の気持ちがわからない。
「その時はその時のことさ」彼はいつも自然である。
明日への方策を明るくしっかりと巡らしながら、
今日を精一杯生きられれば、それでいいじゃないか。
いつ死ぬかは分からないが、死ぬまで清々しく生きたい。
一点の曇りもなく、晴れた空の下で生き、そして、死んでゆきたいと思う。

大人になった時の、父と子の会話
父、「お前はいつ見ても世の中に何の憂いもなさそうな顔をしているな。毎日がそんなに楽しいかね?」
子、「そりゃあ、楽しいですよ。当たり前じゃないですか」
父、「なぜだ?」
子、「私は運がいいんです」
父、「そうだ、お前は運がいい。だからその運を十二分に生かしなさい」
子、「私は好きなように生きます。自分を抑え、自分が自分でなくなってまで、長生きする気はありません」

彼は、少年の日の自分自身との約束だからこそ守らなければならないと思う。この約束を破ることは、そのまま少年期の無垢への裏切りだと思う。

人は環境によって不幸になる生き物ではない。
人を不幸にするのは確実にその人の心である。
心さえ健やかに爽やかであれば、どんな境遇にいても幸せを見つけることは可能なのだ。
みんなにもそれを見つけてほしいと思う。

生まれてから今まで、好きなように生きてきた。
この世の素晴らしさも充分に味わってきた。
「いつ死んでも悔いはない」それが彼の本音だ。
だからこそ、きっと長生きするんじゃないかな。





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あなたの宝の蔵はどこに

あなたの宝の蔵はどこに

中国の禅は実質的には馬祖道一から始まったと言われます。馬祖は8世紀の中国に生き、趙州禅師の師匠・南泉禅師の師匠に当たります。

馬祖は数多くの弟子を持ち指導をする中で「平常心是道」や「即心即仏」など有名な言葉だけでなく、たくさんの逸話を残しています。以下はその一つです。


大珠慧海が初めて馬祖に面接した。
馬祖が尋ねた、「どこから来たのか」。
大珠、「越州の大雲寺から来ました」。
馬祖、「いったい何が目当てでここに来たのか」。
大珠、「仏法(真実の自己)を求めに来ました」。
馬祖、「自分の宝蔵には見向きもせず、家をほったらかして走りまわって、どうしようというのか。わしの所には何も無い。仏法なんぞ見付かりはせぬ」。
大珠は礼拝して尋ねた、「何が私の宝蔵なのですか」。
馬祖、「いま私に問うている君こそが君の宝蔵だ。一切が具わっており、何の欠けたものはなく、使おうとすれば思いのままだ。どうして外に求める必要があろう」。
聞いたとたん大珠ははたと自己の本心を識り、躍り上がって喜び感謝した。
師事すること六年であった。後に受業の寺に帰り、自ら『頓悟入道要門論』一巻を撰した。馬祖はこれを読んで大衆に言った、「越州にみごとな輝きを具えた大真珠がある。その光は自在に透過して、隔てるものもない」。
(参考:『馬祖の語録』入矢義高編 禅文化研究所出版)


とくに難しい文章ではないので、大体の文意は分かると思います。問題はその内容が実感として分かるか? 自分自身について、心からそう思えるか? ということです。

この馬祖の問いは、僕の言葉では、「あなたは一切欠けるところがなく、完結した存在ですか?」となります。

この問いこそが究極の問いなのです。あなたは全身で「ハイ」と答えられますか?

もし、腹の底から「ハイ」という答えが出てこないようであれば、今度の休日にでも、心掛けて一人になる時間を作って、朝から晩まで自分に問いかけてみてください。

すべてはこの問いに集約されています。これがはっきりしなければ何をやってもどうにもならないのです。

この問いに、心から全身で「ハイ」と言えることは自分の宝蔵を見つけたということです。その時、自分の心がどこまでも澄み切っていて、どこまでも開き、真心が溢れるように出てくるのを自ら感じることでしょう。

そして、この世界が「なるほど不可分一体なんだ」ということを全身で感じることができるでしょう。それは決して消えることはありません。

僕自身はとくに修行したわけでもないのですが、不思議なめぐり合わせで、自分が存在の真実について体験的に理解した内容については絶対的な確信があります。他からの何ものも保障や認定も必要ないと思っています。

このところ僕が過去の著名な禅師の言葉を取り上げてきたのは、言われていることが僕の体験的理解と符合するところが多いのが我ながらとても面白いからです。

その面白さをみなさんにも体験的に理解していただければというのが僕の気持ちなのです。




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不可分一体 一つの証明

不可分一体 一つの証明

まず、1000年以上前、世界のある所に40歳まで生きた一人の人間を想定する。

次に、一人の人間の1日の水の平均的摂取量を
2リットル(2000ml)、つまり、2000立方cm=2X(10の3乗)立法cmと仮定する。

(10の3乗)というのは10を3回掛けること。つまり、
10X10X10ということ。
10の5乗であれば、10X10X10X10X10=100000で、つまり、
1の後に0が5個付く数字。

生きている間にこの人間の体の中を通過した水の量は
(40X365X2000)立方cm、すなわち、(2.92X10の7乗)立法cmとなる。

1立法cmの水は(3.34X10の22乗)個の水の分子を含んでいる
ので、(2.92X10の7乗) X (3.34X10の22乗)個
=(9.75X10の29乗)個の水の分子がこの人間が生きている間に体の中を通過したことになる。

飲んだ水は腸から吸収され、血液と一緒に心臓へ運ばれ、心臓から血液と共に全身の細胞に運ばれる。その後必要なくなった水は尿や汗として体外に排出される。

次に地球上に存在するすべての水の分子の量を概算で求める。

地球上の海の水の量(体積)=海の全面積X海の平均の深さ 
である。

地球の半径=6450km=6450000m=645000000cm
=(6.45X10の8乗)cm とすると、
球の表面積=4X3.14X(半径の2乗) だから、

地球の表面積
=4X3.14X(6.45X10の8乗)X(6.45X10の8乗)平方cm
=(5.22X10の18乗)平方cm となる。

海(大洋)の全面積は地球の表面積の約4分の3 であるから、
海の全面積=3/4X(5.22X10の18乗) 平方cm
=(3.91X10の18乗)平方cm となる。

また、大洋は一番深いところで約10000m、浅いところで
約2000mと考えて、ここでは大洋の平均の深さを4000m
=400000cm=(4X10の5乗)cm と仮定すると、

海の全体積=全面積X深さ
=(3.91X10の18乗)X(4X10の5乗)立法cm
=(1.56X10の24乗)立法cm となる。

1立法cmの水は(3.34X10の22乗)個の水分子でできており、また、陸地の水の量は海の水の量に比べて非常にわずかなので無視して0として計算すると、

地球上に存在するすべての水の分子の個数
=(1.56X10の24乗)X(3.34X10の22乗)個=(5.21X10の46乗)個 となる。

したがって、この地球上に存在する全水の分子(5.21X10の46乗)個
のうち、例の1000年前の人間の体を通過した全水の分子
(9.75X10の29乗)個の占める割合は、
(9.75X10の29乗)/(5.21X10の46乗)=1/(5.3X10の16乗) となる。

この人間の体を通過した(9.75X10の29乗)個の水の分子はほとんどその後海に流れ込み、あるいは、蒸発した後、雨の一部として地上に降った後、小川に流れ込み、最終的に海に入っていったはずである。

海は大小のいろいろな潮の流れや海流によって海水は常にかき混ぜられている。それらの流れは
およそ、1年に1000km=(10の8乗)cm から 
10000km=(10の9乗)cm 流れる。

地球の半径は(6.45X10の8乗)cm、あるいは、
地球の円周は(4.0X10の9乗)cm なので、
もっともゆっくり流れる海流が地球を1周するのに掛かる年数は、
(4.0X10の9乗)/ (10の8乗)=40 年 となる。

ということは、1000年間で1000/40=25回周回することになるが、平均的速度の海流であれば100回は周回したと推定できる。

それに加えて、1000年間におよぶ水の蒸発や降雨、降雪、風、川の流れや氾濫、洪水などによる水の攪拌を考えれば、
例の人間を通過した(9.75X10の29乗)個の水の分子は、すでに、
地球上の全水の分子 (5.21X10の46乗)個とほとんど均一に混じりあっているということである。

ということは、現在この地球上に存在するどんな水も、1000年前に生きた例の人間の体を通過した水の分子を、
その体積の1/(5.3X10の16乗)だけ含んでいるということである。

例えば、目の前のグラスに180ml=180立方cmの水が入っている
とすれば、
その中には180立法cm X (1立法cm中の水分子の個数)
=180 X (3.34X10の22乗)個=(6.01X10の24乗)個の水の分子が入っている。

そのうちの1/(5.3X10の16乗)、つまり、
(6.01X10の24乗)個X 1/(5.3X10の16乗)
=(1.13X10の8乗)個=113000000個
=1億1300万個 が1000年前に生きた例の人間の体を通過した水というわけである。

次に、体重50kgの人がいるとする。人間の体に含まれる全水分量は大体50パーセントから70パーセントで年齢とともに少なくなっていく。ここでは60パーセントと仮定する。

50kg=50000g=5X(10の4乗)gであるから、この人の体の全水分量は 
(5X10の4乗立法cm)X0.60=(3.0X10の4乗)立法cm である。

1立法cmの水は(3.34X10の22乗)個の水分子でできているので、
この(3.0X10の4乗)立法cm に含まれる水の分子の数は、
(3.0X10の4乗)X(3.34X10の22乗)個=(1.00X10の27乗)個 である。

そして、そのうちの1/(5.3X10の16乗)、つまり、
(1.00X10の27乗)個X 1/(5.3X10の16乗)
=(1.87X10の10乗)個=18,700,000,000個=187億個 が
体重50kgの人の体の中に存在している1000年前に生きた例の人間の体を通過した水である。

1000年前のこの人間だけではない。釈迦の体の一部となり釈迦を生かしていた水も、キリストを生かしていた水も今生きている自分の中にあって自分を生かしている。自分だけではない、生きとし生けるものの中にあって、すべてを生かしている。

私たちひとり一人が体の一部としている水の分子は、過去に生きたすべての生きとし生けるものの一部であったのであり、その後体外に出た水の分子は世界中のすべての生きとし生けるものの体の一部となっていく。

そして、地球だけでなく全宇宙において、水だけでなく、すべての存在が分子や原子ベルで集合・離散・循環している。

これが物質面から見た不可分一体の世界の一面である。

要するに、すべては一つの“いのち“が顕現している姿である。

あらためて問う。自分とは何者か?





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道本円通(どうもとえんつう)

道本円通(どうもとえんつう)

「原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通、争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん」(原点に立って言えば、道本より円通す。あらためてどうしなければならないということはない:昇平現代語訳)

これは道元禅師が中国から帰国して最初に書かれた『普勧坐禅儀』の冒頭にある語句です。

道元禅師はもっとも大切なこと、あるいは、言いたいことの結論を文の最初にズバッと書かれる傾向がありました。

また、道元禅師は「自分こそお釈迦様の仏教を正統に伝えるものである」という自負があったようです。

ということは、その後膨大な著作群を残された道元禅師の思想のすべて、そして、仏教のすべてがこの「道本円通」という一句に凝縮されていると言えるのです。

では、「道本円通」とはどういう意味なのでしょうか?

「道本円通」は「道本より円通す」と訓読みし、「本来・真実の道は本々全ての存在に円かに行き渡っている」という意味です。

この訳をさらっと読んでしまうと、見落としてしまう恐れがあるのが、「本」という言葉の意味です。

「本」というのは、「元」とも書き、「元来」あるいは「本来」あるいは「初めから」というような意味であることはもちろんです。

では、何に対して「本」なのでしょうか? 何に対して「初めから」なのでしょうか?

それは「アタマで作った思いや妄想や観念など」に対してということです。

つまり、道元禅師は、アタマで、ああだ。こうだと考えなくても、真実の道は、本々、自分の心や体を含めて、全ての存在に円かに行き渡っている。つまり、すべてが自ずから整うと同時に互いに調和している、あるいは、自ずから整うように、また、互いに調和するように働いている、と言っているのです。

これは「平常心是道」ということであり、アタマの思いや妄想や観念などに振り回されずに、本々備わっている平常心(不生の仏心・真心)に任せ、従っていくことこそが、すべてが自ずと整い、互いに調和する真実の道である、ということです。

そういう意味で、日々の生活の中では、アタマで勝手に作った思いに引かれて行動するのではなく、平常心や真心で生き、平常心や真心に沿って考えること、すなわち、平常心や真心に沿った真実の思いや正しい観念にしたがって行動することこそが肝要なのです。

そのように、状況に応じて自然に湧き上がってくる平常心や真心に従って生きている時にはいつも、まさに、「廓然無聖(かくねんむしょう)」です。

「廓然無聖」とは禅宗の初祖達磨大師の言葉で、「この世界はもともと、秋の青空のようにカラッと晴れて爽やかで広々として、汚れた迷いや煩悩、一切の観念、そればかりか尊い悟りさえひとかけらもない絶対的無一物の世界だ」ということです。

つまり、平常心というのは、不可分一体の“いのち“がそのまま顕現したものであり、それはすべての人間根性を超越した本来の心です。

その平常心に任せて生きて行くとき、もはや、何にも心配することもなく、いつもカラッと晴れた青空のようなさわやかな心境で全力で生きてゆくことができるのです。




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