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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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コロナで思うこと

コロナで思うこと

新型コロナウイルスは中国の武漢で最初の感染者が見つかって以来、爆発的なスピードで世界中に広がっています。

あなたはこのまま行けば日本そして世界はどうなると思いますか?

僕は武漢でのまだほんの初期の段階での感染者の広がり方をニュースで知った時にすでに、この新型コロナウイルスはこれまでのウイルスとは違って桁外れの感染力を持っており、各国が断固たる対策を早急に、かつ、果敢に取らなければ、今後短期間のうちに世界中がとんでもない事態に陥いる可能性が大きいと確信しました。

それ以来、家のものにも外出の際にはマスクの着用はもちろん、帰宅したら手洗いや消毒をマメにして、決して油断しないように何度も警告をしてきました。それが決してオーバーではなかったことを、残念ながら毎日のニュースで確かめています。

率直に言えば、日本だけでなく欧米諸国の政府や関係省庁の対策はあまりにも後手後手に回ってしまっており、今では、そのつけで、もはや手の着けられない状況となってきています。

たしかに、僕の予測は僕がかつて大学院の博士課程まで非常に特殊な微生物について研究していたことと無関係ではないでしょう。しかし、なぜこんなことになってしまったのでしょうか? それは多くの人は細菌やウイルスの恐ろしさをよく知らないということもありますが、日頃から、身の周りのことはともかく、社会的にどんな大変なことに対しても「何とかなるのだろう」という無知と無関心ゆえの楽観主義のせいだと僕は思います。

そして、それは日本はもちろん世界中の多くの人について言えると思います。同じことは、今現在、地球上の人間を何回も皆殺しできる1万発以上の核兵器と、それを敵国に30分以内に打ち込める何千基というミサイルを配置して、互いににらみ合っている状況、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島の原発事故を経験しながら、依然として原発を継続している日本はもちろん世界の国々、二酸化炭素の排出制限をしないで地球温暖化をはじめ地球環境を急激に悪化させている日本をはじめとする世界各国の状況などについても言えるでしょう。

この新型コロナウイルスにしても、いかに感染力が強いといっても、もし、それが1000年も前の世界であれば、流行したとしても地球のごく小さな地域の風土病としていつの間にか終焉してしまっていたでしょう。

けれども、新型コロナウイルスが爆発的に広がっているのは、現代の文明社会の在り方に大きな問題があるのです。
その主な原因は、まず、世界中の都市や町では人口が密集していること。そして、交通システムの発達により人の移動、物資の輸送などの点において、事実上、地球がほとんど一つになっていること。さらには、経済活動を含め人類のほとんど全ての生存活動が一体活動となっていることや、現代科学文明の発達により人間の野生が失われ、免疫力や自然治癒力が非常に弱くなっていることなどが挙げられます。

私たちはこの新型コロナウイルスの脅威は大自然の私たち人類に対する大きな警告、あるいは、反乱であるということをしっかりと理解しなければならないと思います。

「反乱」というのはこの地球の動植物にとっては人間ほど迷惑な存在はないからです。人間さえ消えてしまえば、地球環境問題も短期間のうちに回復し、地球の自然が蘇り、動物や植物たちは幸せに生きていけるからです。

とにかく、今や私たち人類は決定的な生存の危機に直面しています。でも、新型コロナウイルスをやっつけてしまいさえすればよいというものではありません。

今こそ、私たちは「自分は何者か? 何のために生まれてきたのか? どう生きればよいのか?」ということを真剣に考え、「自然全人皆一体」という存在の真実に立ち戻り、みんなが幸せで平和な世界の実現のために立ち上がる時ではないでしょうか。

どこかで声が聞こえます。
「みんな間違っている!!」



表と裏 その7

表と裏 その7
(その6からのつづき)

さて、では、色メガネを懸けずに裸眼でこの世界を見るとどのように見えるのでしょうか? 実は、どのように見えるかということを文字や言葉で正確に表すことは不可能です。しかし、それでは何の説明にもならないので手掛かりのようなものをいくつか列記してみましょう。

優劣や差別や所有などがないということについては前述したとおりです。ここでは、主に生と死について述べてみたいと思います。

1 この世界は不可分一体である。バラバラなものは一つもない。世界の中にバラバラなものが集まっているのではなく、この自分の中に全宇宙がある。すべての存在は自己の分身である。

2 自分はこの自分の世界とともに生まれ、この自分の世界とともに死んでいく。それは人と互いに決して貸し借りのできない生であり死である。そこに各々自分というものの絶対的な尊厳がある。

3 生は生、死は死、それだけ。死は怖いものでも悲しいものでもない。生も不生不滅の“いのち“の顕れ、死も不生不滅の“いのち“の顕れである。「生を慕い、死を厭(いと)う」という言葉は間違いである。この事実を裸眼で直視すること。バラとスミレを比較してどうする?

4 長い人生も短い人生もどちらも完璧。生は喜びで死は悲しみなのではない。今かりに「生は喜び」はそれでよしとしよう。つまり、生をプラスとすると、死はプラスがもとのゼロになることだ。でも、マイナスになるのではない!! これをマイナスになったと勘違いするから死は悲しいと思うのである。精々、生前しっかり互いに仲良くし生を楽しむこと。そうすれば、プラスの生が輝いているように死も輝くのだ。真実は生は生、死は死である。プラスマイナスで言えば、生もプラス、死もプラスである。

5 僕が生は生、死は死というとき、単にすべてを感情を入れずに無機的に「ただ起こっている」と言っていると誤解されては困る。それは僕の真意と真逆である。「生は生」というのは「生は生で宇宙いっぱいの“いのち“として完結している」、「死は死」というのは「死は死で宇宙いっぱいの“いのち“として完結している」ということである。

6 今目の前に1本のエンピツがある。存在の真実を一言で表せば、「目の前に1本のエンピツがある」で完璧である。それ以上でもそれ以下でもない。エンピツは何も語らないが、「今目の前に1本のエンピツがある」という事実には、この大宇宙の過去・現在・未来のすべてが含まれている。僕は「お釈迦様の悟りはそんなものだった」と思うのだが、エンピツが話すことができれば、「何を寝ぼけたことを言っているのだ」と一笑するだろう。それでいいのだ。

いずれにしても、僕のこれまでの一生のかなりの部分は、小3のときの「みんな間違っている!!」という叫びの正体を明らかにしようとしたものだったとあらためて思うのです。
一番間違っていたのは自分だけど。

追記:このシリーズの「表と裏」というタイトルは何を意味していると思いますか?

この世界の多くの人が存在の真実を裏側から見ていることに気がついていない。だから、「みんな間違っている!!」と少年は叫んだのです。


(おわり)





表と裏 その6

表と裏 その6
(その5からのつづき)

30歳のときに、それまでどのようにしても見えなかった存在の真実が、色メガネを懸けて見ていたことに気づいた瞬間、その色メガネは跡形もなく消えてしまい、裸眼ですっきりと見えるようになりました。和田先生が『葦かびの萌えいずるごとく』に書かれたいろいろなこともすっきりとわかるようになりました。

では、この色メガネとは何だったのでしょうか? それはこの洗脳社会に生まれ育っていく中でいつの間にか身に着けてしまっていたアタマの思いです。何を見る場合でも考える場合でも、いつも自分のアタマの思いを通して見たり考えていたのです。

例えば、本来、この世界には優劣なんかどこにもないのですが、この社会で生きていく中で「物や人には優劣がある」という優劣観を持つようになります。

本来、裸眼で見れば、透明で色も着いてなく歪みもないものでも、歪みのある色付きのメガネを懸けて見れば、歪んでいろいろな色が着いているように見えます。それと同じように、“優劣メガネ”を懸けてみると、自分ではあるがままに見ているつもりでも、優劣がそのものや人にあるように見えるのです。

そのほか、差別や所有や自由や幸福や善悪、バラバラ観などなど、この洗脳社会に生きる私たちは実に複雑に歪んだ複雑な色模様の着いたメガネを懸けて自分自身や周りの人やものを見ています。

でも、ほとんどの人は、かつての僕がそうであったように、自分がそのようなヘンテコなメガネを懸けて見ていることに気がついていません。そのために、この洗脳社会においては、何千年も何万年もの間、人も社会も混乱と争いのなかで苦しんでいるのです。

僕がこのブログやセミナーでノンスモーカーのみなさんに何度も何度もタバコの話をするのはまさにこの事実に気づいてほしいからなのです。

つまり、スモーカーもタバコを吸う前は今のあなたと同じようにノンスモーカーでした。ノンスモーカーはタバコを裸眼でありのままに見て、タバコなんか吸いたいとも思わないし、必要だとも思いません。すなわち、ノンスモーカーはタバコの真実を悟っているのです。

ところが、そのようなスモーカーが何かのきっかけでタバコを吸うようになると、タバコと周りのスモーカーに洗脳されて、いつの間にか「タバコには健康上害はあるが、タバコを吸うと安堵感がする。タバコは喜びだ、タバコならではの素晴らしいメリットがある。だから、タバコを吸いたい。吸わずにはいられない」と思うようになります。

スモーカーはタバコ色のついた歪んだメガネを懸けてタバコを見ているので、タバコの真の姿が歪んでいることに気がついていません。でも、どんなヘビースモーカーでもその事実に気がつけば、一瞬にして、何の苦も無くタバコをやめることができるのです。

同じように、この洗脳社会に生きるほとんどの人がヘビースモーカーと同じような状態で生きていることに気がつけば、短期間でこの世界はみんなが幸福で平和な世界になるでしょう。

では、どうしたらこの事実に気がつけるのでしょうか? それが自覚のセミナーであり、このブログであり、ネホサです。

(つづく)





表と裏 その5

表と裏 その5
(その4からのつづき)

なぜ26歳の時の気づきだけでは不十分だと思ったかというと、例えば和田先生の『葦かびの萌えいずる如く』を読み返すたびに、アタマでは分かる気がするのです。けれども、腹の底から「そうだ!!」とわかっていないということです。このようにして自分はやはりまだ存在の真実がよく分かっていないのだという思いが再び強くなっていきました。

そこで学校の冬休みを利用して期間を1週間とかぎり、これが人生で最後のチャンスだと一生を懸けるつもりで徹底的に極めることにしました。まず『葦かびの萌えいずる如く』のなかの鍵となると思われることをいくつかのテーマにしぼりました。そして、一つ一つのテーマを朝から晩まで、食事の時間も惜しんで休むことなく、納得のいく答えが出るまで、徹底的に考え検べ続けるのです。

けれども、結局は、1週間たっても何一つこころから納得できる答えを見出すことができませんでした。僕は完全な虚脱状態でした。その状態が3,4時間も続いたでしょうか、縁側に座ってぼんやり冬の空を見ていると、突然、たくさん古くて濁った水の溜まった大きな桶の底がザーッと抜けるような体感がすると同時に、上半身がどんどん軽くなりはじめました。

それと同時に、自分の中にあったいろいろな余計な思いや感情がどんどん抜けていきました。その感覚は数十分も続いて、ついには、体感的にまったく座っている上半身の重さを感じなくなると同時に周りのすべてが透明ですっきりと見えるようになりました。そのとき僕は心の中で「わかった!!」と叫んでいました。

この時の気づきは26歳のとき生き方への深い悩みとともに眼がとても痛くなってパニックの極限状態になったときに「何があっても自分は変わらない。大丈夫だ」という気づき、それから野口晴哉先生のご著書を読んで予備運動をして活元運動が自動的に起こるのを待っていても、いくら待っても起こらないので、ついに「もうダメだ」とあきらめたその瞬間にに活元運動が始まったこととも共通点があるような気がします。

つまり、僕のような凡人は自分の力で何とか「わかるようになろう、できるようになろうと」と心が緊張している間は存在の真実に気づくことはできないということです。存在の真実はそのような自分の思いをはるかに超えたところにあるので、その自分の思いが強ければ強いほど存在の真実に気が付けないということです。

もう一点は、存在の真実をどんなに求めてもわからないという状態は、求める本人にとっては苦しみそのものであり絶望そのものです。けれども、それでも求め続けていると、自分の力を超えたところで何かの力がはたらいて、自分のなかで何かの向きが変わり、突然、存在の真実が前々からそこにあったことに気づくというような仕組みがあるのではないかということです。

さて、では、その時僕は何に気がついたかと言えば、それまで僕はさまざまにレンズの色が変化し、角度によりモノが歪んで見え、一つのものがいくつにも分かれて見えるような特殊な色メガネを懸けてものを見ていたのだということです。

ところが、そう気がついた瞬間、その色メガネが消え、存在の真実がありのままに素通しで見えたのです。

(つづく)





表と裏 その4

表と裏 その4
(その3からのつづき)

「自分は本当は何を求めているのか?」ということをはっきりさせるために東京の大学院に入ったその年に縁あって和田重正先生に初めてお会いしました。

「それが本当によかったのかどうか?」と問われれば、「本当のところはわからない」としか答えようがないわけですが、僕自身の気持ちとしては「それはまさに幸運以外の何物でもない、そのようなことが起きたのは何かに導かれたとしか思えない」というのがより正直な気持ちです。

さて、本当の自分、真実の自己を発見しようと、和田先生を囲む集まりがあるたびに先生が主催する小田原の“はじめ塾”や山の合宿場“一心寮”、あるいは、東京お茶の水の湯島会館の会場に足を運びました。もちろん、先生のご著書は何回も熟読しました。

それは人生で初めてと言ってよいほどの希望に満ちた日々でした。しかし、それもいつか再び徐々に苦悩の日々に変わって行ったのです。和田先生が書かれたこと、お話になることはアタマでは分かるのですが、どうも「なるほど!! わかったぞ!!」という実感が伴わないのです。それは結局、何もわかっていないのと同じでした。

和田先生にお会いして以来、どんなことがあっても明るく積極的に生きようと決意して生きていましたので、外見的には、そのように見えたかもしれませんが、日が立ち、年月とともに、僕のこころはだんだん沈んで行きました。そうしているうちに、体がいつも重く疲れた状態になり、ついには緑内障で失明するかもしれないという絶望的な状態になってしまったのです。

このことについては、これまで何回も述べていますので、詳しくは書きませんが、眼が見えなくなるかもしれないという極限状態で奇跡的に僕のこころの眼が開いたのです。そのときはっきりわかったことは、自分というものは何があっても変わらない、大丈夫だということです。

それ以降、僕は見違えるように明るくなり、がぜん生きることが楽しくなりました。そして、その体験から1か月ほどしていくつもの出来事が連鎖した結果、野口整体に出会うことにもなりました。ここまでの一連の出来事も僕には偶然とはとても思えません。もしそれが偶然だとすれば、それこそ奇跡的な確率でしか起こり得なかったと思うのです。

こうして、僕はこころも外見もすっかり明るく活動的になりました。ついには自分が気づいたことを若い人たちに気づいてもらいたいという思いで、博士課程修了とともに公立の中学校の教師になりました。

ただ、当時の僕は、26歳のときの体験は自己の真実についての気づきの第一歩にすぎないと思っていました。あとは日常の生活のなかで深めてゆけばよいと思っていたのです。ですから、まだわからないことがあるからといって、それで落ち込むとか苦しむということはなく、毎日はつらつと生きていました。

そのようにして、中学校の教師として毎日楽しく過ごしていたのですが、2年半ほどして、26歳の時の気づきだけでは不十分だと思うようになりました。

(つづく)





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