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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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MHさんからの手紙

MHさんからの手紙

昇平先生、奈央先生、エリカ先生

この度は(6月1日からの)整体のセミナーでは大変お世話になり、ありがとうございました。

自覚のセミナーからイギリス留学を経て2年、やっと先生方の伝えようとして下さっていることが届く自分になれました。

今はただ喜びに浸っています。2018年5月31日までの自分をなつかしく感じるほどです。物の見え方、聞こえ方がこれほどまでに転換するとは大きな驚きでもあります。と同時に、先生がおっしゃったように、こんなにも簡単で目の前にあったという事実に気の抜けたような思いもあります。

「自然体」「平常心」ということの本当の意味をつかめたというのは大きな喜びです。もちろんまだまだこれからですが、少なくとも進むべき方向性がハッキリしたことは、大きな安心感となりました。

いかに自分が五感、とくに視覚にとらわれていたか、それが故に盲目になっていたか、ということは、私だけの問題ではなく、世の中すべての問題であると再認識しました。

私はこれまでいつも変わりたい、変わりたい、とばかり思っていた気がします。もう変わりたいと思わなくていいのだ、そんな風に思う自分はいないだろうと思うと、とても楽な気持ちになります。と同時に、これから生きてゆくことが楽しみで仕方なくなりました。特に、人と出会ってゆくことが楽しみです。

怖いことがなくなるというのは自由ですね。大げさかもしれませんが、人生で出会う問題のほとんどは既に解決されたという興奮も感じています。

とにかく一番大切なことを教えて下さりありがとうございました。それ以上の言葉はありません。

とりあえず残りの学生生活を存分に楽しみ、日々磨いていくことを忘れずに、適度な緊張感を持って生きてゆけたら、と思います。

先生方もスペインのセミナー、お体に気を付けて出発してください。

また、秋に帰国の際にご連絡致します。

       2018年6月4日
                   M.H




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自分というもの  その3

自分というもの  その3
(その2からのつづき)

26歳の体験の前までは、僕には、この世界では自分を含めてみんな分離してバラバラに存在し、ここに自分というものが存在していて、その外にはすべて自分でないものが存在しているというように思っていました。

ですから、普段は意識することはないとしても、ふとした時に、この世界では自分はどこまでも孤独であると感じていました。だからこそ、何かの折に、自分の心の奥にケチな根性があるのに気がついて、時々、我ながらイヤになることもありました。

それが一変しました。この世界のすべてが自分の分身であり、自分の兄弟姉妹であり、自分自身でした。

空に浮かぶ雲が僕であり、風に揺れる木の葉が僕であり、遠くに見える山が僕であり、「キーッ」と鋭い声で鳴いている鳥が僕であり、膝の上に跳び乗ってきた子ネコが僕であり、テーブルの上のボールペンが僕なのです。

すべてが自分なのです。同時に、自分はどこにもいないのです。こんなことに、ふと気がついたのです。気がついてみれば、これがまさしくこの世界の真実の姿であり、それまで見ていたバラバラの世界は、そのように見えているにすぎません。

生き方も一変しました。「まごころ、本当の心」そのままで生きていけばよいのだ。人のため世のために自分の全てを出していこう、その結果、たとえ野垂れ死にしても、何の悔いもないと思いました。それが最高の生き方だと思いました。それは悲壮な決意でもなんでもなくて、非常に自由で軽やかな新しい人生の出発でした。

すべて手放しで、まごころ丸出しで生きていく。「まごころ」というのは、通常の思考や感情などの通常の心を超えたところに、元々存在する自分の本体である“いのち“から湧き出てきているのだと思います。それで生きられるだけ生きればいいと思いました。ケチな思いがまったくなかったとは言えないでしょうが、自分なりには精一杯まごころに沿って生きてきました。幸いにも、それでちゃんと食えてきました。まさに道中衣食有りです。

他の人からはどう思われるかわかりませんが、自分としては、これまで本当に満足して生きてきました。「満足」という言葉を「安心」と置き換えてもよいでしょう。

確かに、現象としては、いろいろと不都合なことが身に降りかかってきたこともあります。たとえば、緑内障は半年後には奇跡的に回復しましたが、もともと眼は何かと弱く、いろいろ不都合な症状が出てきます。交通事故に巻き込まれたこともあります。

でも、どんなことがあってもいつも自分自身は根底では安心の中で生きてきました。肉体が死ぬときも、恐らく、この安心の中で死んでいくのではないかと思います。

それはそれとして、この世の中にはいろいろなことで苦しんでいる不幸な人が犇めいています。一人も不幸な人がいない世の中を実現することこそが僕の人生の目標です。

こんなことを言うと、「偉いですね」と言われそうですが、それこそ見当違いというものです。みんな一緒、みんな自分なのであり、他人事ではないからです。

(おわり)





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自分というもの  その2

自分というもの  その2
(その1からのつづき)

26歳のときに、目が見えようが見えまいが、自分は変わることはない。したがって、自分の人生の価値と意味は変わらない、ということが体験としてはっきり分かりました。そして、それから1週間の間にそれまでの人生の悩みが全部解決しました。それまで人生に対するいろんな深刻な疑問があったのですが、その一週間のうちにその疑問自体が一切なくなってしまったのです。

では、「何がそれまでと違ったのか?」と問われても、なかなか言葉では説明できません。
でも、強いて言葉で表現すれば、「世界観が540度、1回転半変わった」、あるいは、「それまで見えていると思っていた世界とはまったく違う世界が見えた」と言うこともできるでしょう。

僕はその時まで、「いろいろな精神的活動(心)と肉体的な活動をしているこの体」が“自分”というものであると思っていました。簡単に言えば、この体と心が自分だと思っていたのです。

ですから、病気やケガでこの体が損傷したりすれば、それは「自分が損なわれた」ということであり、心の働きに何らかの異常が出てくれば、それは「自分が異常になった」ということであり、心の働きを含めてこの体の働きが停止すれば、それは「自分が死んだ」ということであると思い込んでいました。

ですから、肉体的に死ぬことは「自分がなくなる」と思っていたので、怖くて仕方がありませんでした。

同じように、眼が見えなくなるということは、「自分が大きく損なわれることである」と感じていました。ですから、怖くて仕方がなかったのです。

ところが、眼科医の説明を冷静に聞いている自分に気づいた時に、アレッと思い、何か自分の中を外から覗き込むような感じになりました。それからすぐに病院の玄関を出て、空を見上げた時に、前方に葉っぱがすっかり落ちたイチョウの木が見えているのですが、同時に、無意識の内に、逆方向の眼の奥の方を見ている感じになったのです。そして、そこには、ただ静寂で透明な空間だけがあることに気づいたのです。

もちろん、これは視覚的な錯覚に過ぎないのですが、それをきっかけに「本当の自分というものは、この体や心ではなく、それらの内側というか奥にあって、色も匂いも形も姿も音もなく、ただ空っぽで透明・静寂、それだけに、何があっても絶対に変わらない確かな実在である」ということにはっきりと体感的に気づいたのです。

その後は、時間を見つけては、体や心ではなく、それらの奥にある本当の自分を確かめるようにしてきました。それと同時に、この体の外にある人やネコや草や木、あるいは、机や畳、部屋など、あるいは、森や山や空など、いろいろなものに意識を向けるようにしてみると、やはり、それぞれの奥に同じ透明・静寂で空っぽな確かな実在が感じられるようになってきました。

それで、その実在を“いのち“と呼ぶことにしたのですが、結局、この世界にあるものは姿、形は違っていても、すべてこの同じ一つの“いのち“が現象として現れていることを知りました。すべては不可分(分けることができない)一体、すなわち、「みんな一緒」なのです。

(つづく)





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自分というもの  その1

自分というもの  その1

眼が見えても見えなくても、自分は決して変わらない。体や心、さらには外界の状況はいろいろ変わることはあっても、自分自身は決して変わらない。なぜなら、体や心は着物のようなもので、それらを着ている自分自身ではないからだ。自分は体や心のずっと内側にあって、絶対不変で完璧であり、何があっても傷つくものではない。だから、どんなことがあっても、恐れることも心配することもないのだ。

以上は、僕が26歳のときに眼科医に「緑内障です」と宣告された直後に体験した気づきを当時の僕の拙い言葉で表現したものです。

26歳の時の気づきをもう少し詳しく説明してみましょう。

眼が見えないということは、体の一部に不具合があるということであるが、それは自分が着ている洋服に穴が開いているようなものだ。しかし、たとえ洋服に穴が開いても自分自身に傷が付くわけではない。つまり、本当の自分自身は何があっても傷つくこともなく、絶対に変わらない、何一つ欠けるところがない完結した存在である。

それはまったく透明で静寂で何もなく「空っぽ」のように見えるが、実は、どこまでも何かが充満している。

それはまさに般若心経に書かれているように、もともと生まれたものではなく、何かによって消滅するものでもない。何かの条件によって増えたり減ったりするようなものではない。そして汚れたり清くなったりするようなものでもない。不生不滅であり、絶対不変の存在なのだ。

自分は何があっても死なない。いずれ時が来て肉体は滅びても、自分は死なない。肉体が滅びて、自分という意識があるのかどうかはわかりませんが、自分はどこにも行かない。これは魂(そんなものがあるのか知らないが)の話をしているのではない。肉体、心、魂(それがあるとして)などの着物の話ではなく、それを着ている奥にある本体、つまり、自分のことだ。とにかく、自分というものは絶対不変であり、何があっても傷つくことはない。だから、何も恐れることも心配することもないのだ。

この確信は今日に至るまでどんな状況にあっても微塵も揺るぐことはありませんでした。そのお蔭で、今日まで、文字通り、何物も恐れることなく楽しく生きてきました。


けれども、当時は、「自分は身体や心ではなく、その奥にあるもの」ということには気づいていたのですが、「その“自分”の正体は何なのか」ということが充分にはっきりしていたわけではありませんでした。

それまで、すでに自分というものについて、体験的に存在の事実をはっきりと捉えていたにもかかわらず、そのときはまだ「個としての自分はある」という観念に縛られて、自分と全体の関係ということにあまり関心が向いていなかったからだと思います。

でも、その後心が落着いて、全体との関りがだんだん見えてきて、次第にはっきりしてきたのは、自分が不生不滅の絶対の実在であるのと同じように、この世界のすべてのものが不生不滅の絶対の実在であること、そして、真実は、この世界のすべてがぶっ続きの同じ一つの不生不滅の絶対の実在であるということです。

すなわち、「自分は宇宙であり、庭の1本のタンポポの花が宇宙だ」ということです。

(つづく)






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本当にわかるということ

本当にわかるということ

タバコの実態を調べてみると、メリットは一つもなく、あるのは、とんでもないデメリットばかりだということがわかります。

このタバコの真実がはっきりわかれば、吸いたい気持ちは完全に消えてしまいます。吸いたい気持ちがなければ、いらない紙くずをゴミ箱にポイと捨てるようなもので、やめるのに精神力はまったく必要ではありません。やめたい気持ちと吸いたい気持ちとの葛藤もないので、禁断症状も出ません。ですから、簡単にタバコをやめることができます。

ところが、「タバコの真実が分かっても、吸いたい気持ちがなくならない」という人たちがいます。

ここで、問題です。
そういう人は、タバコの真実がわかっていないのでしょうか? だから、吸いたい気持ちがなくならないのでしょうか?

このように質問すると、ノンスモーカーの人たちは大体「そういう人たちはアタマでわかっているだけで、本当にはわかっていない」と自信たっぷりに答えます。

まだタバコを吸いたいと思っている人たちも「自分たちは多分本当にはわかっていないのだろう」と自信なさそうに答えます。

要するに、「本当にわかっていれば、吸いたい気持ちがなくなって、すぐにやめられるはずだ。そうでないということは、本当にはわかっていないのだ」と言いたいのでしょう。

タバコだけではありません。存在の真実についても同じような現象が見られます。

僕はセミナーやブログを通じて、存在の真実について、みなさんにわかるように説明しています。

一部の人たちはすっきり「わかった」と言い、その瞬間から存在の真実に沿った生き方に見事に転換し、その後も生き生きと生きています。

ところが、多くの人たちの反応の仕方はタバコの場合とよく似ているのです。その時は、「よくわかった」と、とても喜んでいるのですが、その後、はっきりと存在の真実に沿った生き方に転換したようには見えません。本人に聞いてみても、同じように感じているようです。

これはどういうことでしょうか?

どうやら、本人は「アタマで分かっただけで、本当にはわかっていないのではないか?」と思って、自分自身でも不甲斐ない思いをしているようです。

でも、ここで僕ははっきり断言します。

僕のタバコの説明を聞いたスモーカーの人たちも、セミナーで存在の真実を自分で確かめた人たちも、本当は、よくわかっているのです!!!

ただ、それ以前の、自分の感覚(妄想)がクセのようにその上にチラチラと重なって見えるために、真実がちゃんと見えていないように感じてしまい、自分はよくわかっていないのではないかと感じるのです。

雲の上にはいつも青空があります。

雲を何とか取り除こうとするのではなく、青空だけを見ていれば、いつのまにか自然に雲は消えてしまいます。

同じように、クセのように現れる妄想的感覚を相手にするのでなく、自分は真実を本当にわかっていることを確信し、それに沿って生きていけばよいのです。そうすれば、脳内に新しいプログラムが形成されて、クセのように現れていた妄想的感覚はしだいに現れないようになっていきます。

僕のセミナーで存在の真実を自分自身で確認されたかたは、自信を持ってください。

あなたは“本当は”わかっているのです!!!





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