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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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改訂版 目に見えないもの

改訂版 目に見えないもの
 (以前書いたものをわかりやすく書き直しました)

フランスの小説家サンテクジュペリの書いた『星の王子さま』のなかで、星の王子さまは次のように言っています。

「こうして目の前に見ているのは、人間の外がわだけだ。一ばんたいせつなものは、目に見えないのだ。」

『星の王子さま』のなかでは、僕にはこの言葉がもっとも印象的です。

サンテクジュペリがこの言葉で何を言いたかったのかは、僕には推測するしかありません。

でも、僕もいつもこの言葉のように思って生きているのは事実です。

では、目に見えない「自分」とは何なのでしょうか?

たとえば、思い、気分、感情、知識なども含めて、目に見えないものはたくさんあります。また「こころ」という言葉はいろいろな意味で使われていますが、たしかに「こころ」と呼ばれるものも目には見えません。

その他にもまだまだ目に見えないものがありそうですね。その中でも、僕が一番大切だと思うのは“いのち”です。

誰でも生きているのですから、“いのち”がないとは言えませんね。誰でも“いのち”があるから生きているのです。

“いのち”というのは「自己の本質」、あるいは、「自己の本体」と言ってもよいと思います。

でも、ほとんどの人は「自分の“いのち”はこの体のことだ」とか、「この体とこころが自分だ」と思い込んでいるようです。

しかし、それは、ほとんどの人が目に見えるものだけを頼りにしているところからくる思い込みです。真実の自分である“いのち”は見えないのです。これは健全な常識を使えばすぐに分かることです。

たとえば、この体を構成しているすべてのものは、何一つ自分で作り出したものではありません。この体はすべて体の外から食べ物や水、空気などとして取り入れたもので作られています。

そして、それらの食べ物や水、空気などは、その前はどこにあったのか? そして、さらにその前は? その前は?と考えてみれば、この地球全体のすべての存在、さらには、宇宙全体にまで広がっていきます。

でも、それらのものを体に取り入れることができることこそ自分の能力ではないのか?という人もいるでしょう。
では、その能力を「自分」だけで作ったと言えますか? 言えませんね。その能力も両親から受け継いだものです。そして、両親はその両親から、その両親は・・・。これも追求していくと、地球全体、宇宙全体にまで広がっていきます。

こころはどうでしょうか? これも結局は同じことだとすぐに分かるのではないでしょうか。

要するに、この大宇宙のすべてのものがそうであるように、体もこころもそれら自身の力でできたものではありません。ある一つの大きな力のようなものが働いてできたのです。その力を僕は “いのち”と呼んでいます。その “いのち”が体とこころを作り、それらを道具として使っているのです。

ですから、真実は、「自分」というようなコロッとした“かたまり”はないのです。ただ、「自分」と感じる仕組みがあるだけで、あるのは、目に見えない「宇宙一杯の“いのち”」だけなのです。つまり、 “いのち”こそが本当の自分なのです。

花も木もネコもイヌも、この世界のすべての植物や動物はみんな同じひとつの “いのち”を生きています。ですから、すべての存在が「自分」だと言えるのです。

その真実は、本当は誰にも実感できます。
たとえば、我が家では昔からネコを何匹か飼っています。周りの人は僕がネコを可愛がるのは大のネコ好きだからだと思っているようです。たしかに、その通りなのですが、僕がネコを可愛がるのは、彼らのなかに僕とまったく同じ“いのち“を感じるからなのです。

ネコだけではありません。僕はネコもイヌも虫、たとえば、蟻でも蝶々なども自分と同じ“いのち“だと感じます。つまり、彼らは全部僕の分身なのです。

余談ですが、僕は食べ物に寄ってくるハエを追いやる時も、いつも「ゴメン」と謝ってしまいます。肉や魚を食べるハメになったときも同じです。





改訂版 自分とは何だろう

改訂版 自分とは何だろう
(読みやすく書き直しました)

今回は自分とは何か?ということをわかりやすく説明してみましょう。

現代に生きる多くの人は、「自分」とは体と心という二つの要素から成り立っていると考えているようです。つまり、

(普通の人が考える)自分=体 + 心 ・・・・① 
というわけです。

ここで、心というのは、大まかに、脳における体の各部分の活動を司る神経作用と思いや感情や記憶などを司る精神作用に分けることができます。

けれども、静かにしてじっと自分を見つめているとわかりますが、体と心という二つの要素に加えて、「自分という意識(存在感)」があることに気がつきます。この自分という意識は、アタマの思いや体の感覚ではなく、それよりも、もっと深いところ(源)から出てきています。

そこで、普通の人が考えている自分というものは、より正確には次のように表すことがでます。
(普通の人がより正確に考える)自分=自分という意識の源+体+心 ・・・・②

ここで、コンピュータを例にして、これをもう少し「自分という意識の源」について検べてみましょう。
コンピュータを動かすためには、ハードデイスクという機械、つまり、「ハード」に加えてOSやアプリケーションやファイルなどの「ソフト」が必要です。

つまり、コンピュタを動かすためには、ハードとソフトを組み合わせて使う必要があります。
けれども、これだけではコンピュータはビクとも作動しません。おわかりでしょうか?

そうです!
動かすための電力、つまり、エネルギーが不可欠なのです。でも、それだけではありません。

そうです! 
そのコンピュータを何らかの意図を持って操作する主人公の存在です。

そうすると、次のように表わすことができます。
コンピュータの作動=操作する主人公+エネルギー+ハード+ソフト ・・・・Ⓐ

つまり、コンピュータの作動は(何らかの意図を持った)操作する主人公がエネルギーを供給しながら、ハードとソフトを道具として使って操作することによって成り立っているということです。

この「コンピュータの作動」の式を「(普通の人がより正確に考える)自分」という式と比べてみると、

コンピュータの作動=操作する主人公+エネルギー+ハード+ソフト ・・・・Ⓐ  
(普通の人がより正確に考える)自分=自分という意識の源+体(ハード)+心(ソフト) ・・・・Ⓑ  
となります。

したがって、ⒶとⒷの2つの式を対照することによって、自分という意識の源は、コンピュータで言えば、操作する主人公+エネルギーに相当することがわかります。

それを式で簡単に表わせば、次のようになります。
自分という意識が出てくる源=操作する主人公+エネルギー ・・・・Ⓒ

ここで、「操作する」というのは、人間の場合には、「体や心を操作する」ということになります。
また、コンピュータの場合には、主人公とエネルギーは別々のものですが、人間の場合には、その二つの要素が一つになったものです。
つまり、次のようになります。
操作する主人公 = エネルギー ・・・・Ⓓ

そこで、式Ⓒをわかりやすく書き直すと、次のようになります。
自分という意識が出てくる源=自分のエネルギーで体と心を操作して生きている主人公 ・・・・Ⓔ

式Ⓔから、次のことがはっきりとわかります。
自分という意識が出てくる源=本当の自分 ・・・・Ⓕ

本当の自分=自分のエネルギーで体と心を操作して生きている主人公 ・・・・③

以上をまとめると、“自分”というものを外側から表面だけを見ると、体+心=自分 と見えるかもしれませんが、真実は、“エネルギーである本当の自分”が体と心を道具として使いながら生きているのです。

この“本当の自分”を、禅では、真の自己と呼ぶようですが、昔から霊魂とか気と呼ぶ人もいるようです。

このように、“本当の自分”はある意図を持ったエネルギーです。そのエネルギーは単なる物理的なエネルギーではありません。すべてを生み育む無限の愛のエネルギーです。それで、僕はそれを“いのち”と呼ぶのです。

もともと、この大宇宙はこの眼には見えない“いのち”が現象として顕現したものであり、その顕れの一つがこの“本当の自分”です。つまり、“いのち”こそがこの大宇宙のすべてを生み出し育んでいるのであり、この“いのち”の、いわば、分派が本当の自分なのです。その “いのち”である本当の自分が体と心を作り、それらを道具として使いながら生きているというわけです。この“いのち”の分派はすべての“いのち”と同質でありぶっ続きです。(けれども、同時に、個的な要素もあるような気もしますが、果たして、真実はどうなのでしょうか。)

そして、“いのち”が現象として顕れた体が時を経て動かなくなれば、“いのち”は体から離れます。しかし、“いのち”がなくなったわけではありません。“いのち”はなくならないのです。だから、体は死んでも、自分はなくならないし、どこにも行きません。

自分自身ではっきりと確かめたわけではありませんが、いろいろと調べていくと、どうやら、そのうちに別の肉体を使って生まれ変わってこの世界に出て来るということを繰り返している例も沢山あるようです。また、よくはわかりませんが、他の世界に移って行く場合もあるようです。

それから、自分がこの肉体や心を道具として使いながら得たいろいろな知識や記憶も決して失われることはなく、別の次元の世界のどこかに、この世界で得たすべての知識や記録や記憶の保管場所があるとも言われています。

確かに、このような世界については、でたらめをいかにも真実だと言うペテン師のような人も多いですし、また、一部分は真実かもしれないけれど、その他に自分の妄想などが混じっていたりもするので私たちは十分気をつけなければなりません。しかし、その全部を否定できないようにも思えるのです。どう見ても確かな証拠らしきものが時々出てくることも事実です。

いずれにしても、この世界で私たちの五感と大脳が捉えているものは精々時間を加えても4次元の世界のことですが、真実の世界はもっともっと多次元の世界ではないかと僕は想像しています。

たとえば、サイコロは正六面体で、僕らが認識できるのは6つの面にすぎません。けれども、真実は、例えば、64面体になっていることには気づかないで、精々6つの面にしか気づかずに、その中で、「この世界はこうなっている、ああなっている」とワーワーと論じ合っているようなものではないかと、僕は時々想像しています。今回は、そのような中で、自分が確信できることだけ書いてみたしだいです。




すべてを否定しない生き方

すべてを否定しない生き方
(『すべてを否定しない生き方』 東儀秀樹著 KKロングセラーズ 17P-22P 抜粋)

二十五歳のときにガンになった。本人に告知されることはなく、家族と医者の 会話を盗み聞いて知ってしまったのだ。
でも僕は、そのときですら、いわゆる「達観的」だったようにも思える。
「何かの間違いではないか」と検査に疑問を持ったり、なぜこんな目に遭うのかと運命を怨んだりすることはなかったからだ。
本当にまったく怖くはなかった。
僕に与えられた事実は、左膝にガンが見つかったということだった。この年齢だったら あと一年ももたないで死ぬんだろうなと、僕は想像した。
……とにかく、あと少ししか生きてはいられない。
そう思った僕は、それなら死ぬ予定日を知りたいと思った。病院で医者をつかまえたり、看護婦をつかまえては尋ねまくった。
「僕はガンでも怖くないから、絶対に大丈夫だから、だいたいどのくらい生きられるのか 教えてください」
つかまえられた医者や看護婦は、固い表情に無理やり微笑みを浮かべ、誰もがこう答え た。
「……大丈夫。ガンなんかじゃないから、心配しないで」
結局、僕の夕イムリミットを誰も教えてくれることはなかった。けれど、その事実も僕はものすごく冷静に受け止めていた。
当時は「患者自身に告知する」という意識は社会的にはあまりなかった。
この若さでガンがあったのなら、そんなに長くはないだろう。じゃあ、死ぬまでの時間 があと一年か半年かわからないけれど、そのときまで一生懸命生きれば僕の人生はそれでまっとうすることになるんだ。
二十五歳で終わる人生を思いっきり生きれば、僕の人生が完全燃焼できる。たまたまそれは、人より短いというだけで、長く生きればいいというものではないんだ。
とにかく死ぬまで生きることだ。
本気でそう考えていた。だから、僕の残りの短い人生を納得して死ぬためにも、充実した生き方を思いっきり生きていこうと、あくまでも自然に思っていた。頑張ってそういうふうに思ったのではなかった。

結局、死の予定日を誰も教えてくれないから、知ることはあきらめた。
「死」は自然に与えられるべきものだ。今考えてみれば、人間が人間に「死」を告知することのプレッシャーはかなりのものだと思う。
それとは別にこっけいな光景もあった。長いこと会っていない親戚がやたらとお見舞いにきたり、家族が「会いたいでしょ」なんて可愛がっていたネコを連れてきたりして、明らかに普通ではなかったのだから。
僕は「明日死んでもいいくらい、目いっぱい生きてやろう」と思っていた。
親戚がお見舞いに持ってきてくれた花を「ああ、これは絵になるな」と思うと、スケッチブックを広げて描いたり、曲のフレーズが浮かぶと、すぐにメモして五線紙に書いていった。
他人が見たら「どうせ死ぬのにそんなことをしても」と思うようなことも、「やりたい」と自然に湧き上がってくることは、全部一生懸命やって、わくわくする気持ちを味わっていた。
お見舞いに来てくれる人との時間も最大限楽しむようにした。いっさい深刻になることもなく、本当に笑いながら楽しく過ごした。
そんな毎日を繰り返していると、奇跡は起こった。
ある日の検査で、医者がクビをひねり始めたのだ。
毎曰わくわくしているせいか、僕の体の調子は前より良くなっていったのだ。
ガンの存在がわかる数値がどんどん下がっていったらしい。そしてやがて、消えてしまったのである。
僕は健康な体に戻ってしまったのだ。
以来、再発することもなく、今にいたっている。

「ガンになって治った」と単純に語ると「だから達観できるようになったんですね」と言う人が多いが、これを読んでもらえば、僕はガンで死ぬとわかった時点で、すでにその事実を受け止めて冷静でいられたということがわかってもらえるだろう。
「命が助かった」という経験が「今を大切にする」という考えをより深めたのかもしれないが、結局は性格の問題かもしれない。楽天的で自然体で、かけひきもなく、好奇心がいつでも旺盛で、いつでもやることがあって・・・・。そんな僕だったからかもしれない。


昇平のコメント:お勧め本です。




考え方そのものが狂わされている

考え方そのものが狂わされている

「まだ思いや感情が自分だという思いから抜け出れません。」
これは「いのちの塾」の受講者の一人の感想です。

以下はそれに対する僕のコメントです。

それはそうでしょう。ロジック(考え方、論理)そのものが狂わされているのですから当然です。

たとえば、ほとんどのスモーカーは自分ではまともに考えているつもりでも、そのロジックそのものが喫煙によって狂わされていることに気がついていません。だから、いつまでたってもタバコは必要だと思い、タバコを吸いたい気持ちがなくならないのです。

だから、僕は「アタマをぶっとばして」と言うのです。今タバコについてどう思っているかと言うことを横に置いて、その真意は、もう一度タバコを吸わなかった時のことを思い出して、「タバコは吸う必要があるか?」と、まっすぐに自分自身に問いかけるのです。そうすれば、簡単に真実に気がつくでしょう。

それと同様に、「体や心が自分だ」ということ自体が、すでに、この社会で洗脳されてい、長年そう思い込んできたのですから、そのままではそう思えないのは当然です。何しろ、ロジック自体が狂っているかどうかを洗脳されて狂わされたロジックで検証しようというのですから・・・。

では、どうしたらよいのでしょうか? そこのところで、昔から禅ではとにかく座りなさいとか、お師匠さんから普通のロジックでは解けない公案を与えられて、その答えを出しなさいとぎゅうぎゅう責められるのです。その挙句、アタマがパンクしてしまった時に、その根底にあったものに気がつくというわけです。

僕の場合は、これまで考えたことのない説明をして、それを素直に聞いてわかるようにしています。また、川の瞑想や自分自身を見る実習なども使って、これまでのアタマでなく、「気づける」ようにしています。

さて、自分の思いはいつも正しいでしょうか?
そうは言い切れませんね。

その思いはどのようにして出来上がったのでしょうか?
つまりは、生まれてから、周りの影響で作り上げていったものですね。

そんな思いや感情そのものがが自分だとはとても言えません。
あなたが言おうとしているのは、その思いや感情の内容ではなく、思いや感情を生み出すものが自分だということではないでしょうか?

だとすれば、僕が言っていることと同じかもしれません。でも、それは心というハタラキ(機能)ではありません。。
僕が言っているは、人間は体や心が働いて生きています。その体や心を生み出し働かせているもの、あるいは、力こそが自分だということです。
それを僕は“いのち”と呼んでいるのです。それはこの大宇宙、大自然を生み出し、そこに働いている生命力と同質です。ただ、それを実感することは感覚が鈍った人には難しいのです。なにしろ、それは「気」なのですから・・・。感覚が鈍っている人には、ただ、何もないとか静寂とか透明としか感じられないでしょう。でも、それでよいのです。それが本当の自分です。

いずれにしても、いつもアタマを自分だと思うがゆえに、アタマに振り回されて生きるのは、地獄です。

アタマの思いや感情はどんなにしっかり考えているつもりでも、いかようにも変化してしまいます。

そんな当てにならないものに引っかからないで、いつも気楽に思いや気分を手放し手放しして座っていれば、そのうちに、その奥にある本当の自分に気づくことができるでしょう。
超能力しゃではない普通の人にとっては、“まったく何もないと感じるもの”こそが“いのち”であり、本当の自分です。

その目的に最適な実修が川の瞑想です。





すごいことではないからこそ

すごいことではないからこそ

ある方から、僕のオンラインの講義を聴いて、僕の子供時代から26歳の体験のすごさがわかった、というコメントをいただきました。

僕は思わず「すごいことではないからこそなんだよ」と思いました。そして、次のように返事をしました。
「決してすごいことではない。当たり前の真実に気がついたということ。真実が本当に明らかになれば、自然に空を自由に飛びまわっている自分に気づくのです。」

今回はその真意についてくわしく書いてみたいと思います。

ご存じの方もいらっしゃることでしょうが、フランスの小説家アレクサンドル・デユマに『モンテ・クリスト伯』という長編の小説があります。邦訳では『巌窟王』とも訳されているようです。僕は若いころにこの小説に出会って何回も夢中になって読みました。

小説の主人公はエドモン・ダンテスという青年です。彼は貧乏な家に生まれ、母親が早死にした後、年老いた父親の面倒を見ながら誠実に明るく生きていました。友達にも好かれ、将来を約束した恋人もでき、彼が働く船会社の経営者も彼を将来有望な若者と見込んで何かと面倒を見てくれていました。

ところが、そういう彼をねたんでいる人たちがいたのです。彼らは密かに共謀して、彼をとある事件の犯人だと警察に密告しました。

こうして、彼はまったく無実にもかかわらず、無期懲役の罪でマルセーユの沖合の孤島にある監獄に閉じ込められます。彼は恋人をはじめ、前途洋々の未来を失い、年老いた父親のことを心配しながら、ほとんど日も差さない暗くジメジメした独房で生きてゆきます。脱出を何回も試みますが、いずれも失敗します。こうして絶望のどん底での獄中生活が14年にも及んだ時に、最後の望みを駆けた命がけの脱出に奇跡的に成功するのです。・・・・その後は興味がある人は図書館で借りるか文庫本でも買って読んでみてください。

さて、ここで質問です。
あなたがこの主人公エドモン・ダンテスだったとしたら、ついに監獄から脱出できて完全に自由になったことを確信した時、どんな気持ちになると思いますか?

その喜びと感激はどんなだったか想像できるでしょう。嬉しくて嬉しくて世界中を駆け回りたい気持ちだったでしょう。

以上は小説の話ですが、実例をもう一つあげましょう。
彼は父親がいつもタバコの害によって苦しみ、とうとう早くして亡くなったのにもかかわらず、彼自身いやだいやだと思っていたタバコを10代の初めごろに吸い始めました。本数は次第に増え、30代のころには1日に100本、少ない日でも60本も吸うようになり、体はボロボロになって、このままでは近い将来死ぬのは確かだろうと思わずにはいられませんでした。何回もやめようとするのですが、しばらくするとまた吸ってしまうということを繰り返していました。禁煙がこんなに苦しいのなら、タバコを吸って苦しんだ方がマシだとさえ思っていました。でも、本心はタバコの奴隷として生きるのが嫌で嫌で仕方がなく、どうしてもタバコをやめたいと思っていたのです。

こうして43歳になった時に、ほんの偶然によって、まさに奇跡的にタバコの正体に気づいて、いとも簡単にタバコをやめることができたのです。彼自身の言うところによると、タバコの正体を見抜いた瞬間、最後のタバコをもみ消す前に、彼はすでにノンスモーカーになっていたそうです。

そして、彼は目の前にいた奥さんに静かに言いました。「世界中の喫煙者をタバコから救ってみせるよ!」と。

でも、ご主人が過去に何度も何度も禁煙に失敗してきたのを見てきた奥さんは、ご主人がタバコの吸いすぎでアタマがおかしくなったのではないかと思ったそうです。

しかし、その後夫婦はタバコをやめるためのクリニックを立ち上げ、評判が評判を呼び、「読むだけでタバコをやめられる」という本を出版し、それが世界中でベストセラーになり、世界中にネットワークが広がり、彼の方法でタバコを簡単に止めた人はすでに数千万人に上るとのことです。彼の活動はタバコだけでなく、アルコールその他の依存症からの回復などにも広まっています。

彼の名前はアレンカーといいます。僕は彼の書いた本は全部買いました。日本語だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語などの本も持っています。それらを何回読んだことでしょう。

そのたびに「同じだなあ!」と感激します。でも、彼の気づき(悟り)をすごいとは思わないのです。ただ、当たり前のことだと思うだけです。

どういうことかと言えば、エドモン・ダンテスの場合でも、牢獄に閉じ込められないで、自由にどこにでも行け、なんでもできるのは、本来、誰にとっても当たり前のことだからです。

エドモンが歓喜したのは、無実の罪で暗くてジメジメしていた牢獄に閉じ込められて、つまり、長い間本来、当たり前の自由を奪われ、苦しんでいたからこそ、当たり前の自由がとても素晴らしく思えたのです。

これは、タバコを吸って大きな安堵感や喜びを感じるのは、実は、(前に吸ったタバコが引き起こした)ニコチン切れのストレスや渇望感を新たにニコチンを補充してホッとしているだけなのです。タバコを吸わないのは、本来、当たり前のことで特別なすごいことではありません。

ですから、アレンカーの気づきはただ当たり前のことに気づいたというだけで、すごいことではありません。ただ、彼が何十年と苦しんできたからこそ、それは大きな喜びだったというわけです。

そういう意味で、僕の26歳の時の気づきも、それまで右の世界の錯覚と妄想で大きくマイナスに落ち込んでいたからこそ、「本来は、人間は誰でも、何があっても変わらない。大丈夫だ。真に自由でどこまでも幸福なのだというごくごく当たり前のこと、つまり、ゼロに戻ったこと」をとても嬉く感じ、その幸せを世界中の人と共有したいと思ったのです。

でも、この世界に生きるほとんどの人がかつての僕と同じように、体や心を自分だと錯覚して、大きくマイナスに落ち込んでいます。そして、そのほとんどの人が、どこか変だぞと感じながらも、それが当たり前だと思っているのです。「だって人間だもの・・・」というわけです。

それは病だからです。そのように全力で生きることはすごいことでもなんでもないのです。当たり前のことです。当たり前だから誰にでもできるのです。ただ自分がサングラスかけていたことに気づいて、それを外して見るだけです。そうすれば、誰でも本当の色に気づきます。少しも難しくありません。簡単なことです。このように、当たり前のことだから楽しくてしかたがないのです。

ここのところを何回も読んで、「こんなことで自分はいいのか!これでは生きている価値がないじゃないか!」と奮起して、即行動に移らなければ、何度このようなブログや講義を聴いても無意味です。


僕はいつもそう感じながらブログを書いたり話をしています。それは誰のためでもありません。自分がそうしたいから、楽しいし、最も楽だからそうしているだけです。このように生きることが最高の幸せな生き方だと確信しています。そして、僕はこのように生きる幸せを世界中の人に味わってほしいのです。

ここで標語を作りました。
暗い牢獄? みんな同じだ 怖くない
鈍い? それがなんで悪いんだ?

確かに、自分がどんなに臭くても、周りの人がみんな臭ければ、何か変だなと思いながらも、気にならないかもしれませんね。

このように、真実がどうかということより、周りがどうかということを基準生きていくと、とんでもない一生になってしまいます。





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