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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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いのちの世界について

いのちの世界について 

この世界は本来バラバラの物質が寄り集まってできた世界ではない。この世界は、本来、ひとつの “いのち“が顕現した、不可分一体の調和と平和の世界である。その真実は自然、すなわち、大宇宙の星々の運行や大自然や人体のハタラキ、人間の本能の現れである真心などを考えれば明らかである。

しかしながら、現実の世界では、我々人間のバラバラ観に基づく種々の妄念、すなわち、優劣、所有などの間違った観念による混乱と苦しみなどの歪みや曇りが本来不可分一体の調和と平和の世界を覆っている。

従って、我々は我々自身の妄念、すなわち、バラバラ観の過ちに気づくことが必要である。そうすれば、間違った観念や考え方や行為が正され、様々な混乱と苦しみは急速に解消されて真実の世界が全面的に顕現するのである。

次に、いわゆる、死について考えてみよう。

この世界では我々の肉体は刻々に変化しながら、やがて、その活動を完全に止めて、その構成物質は分解し散らばっていく。人は我々の体の活動が止まることを「死」と呼ぶ。確かに、この体はいずれ“死ぬ“という言うことはできるかもしれないが、その体を造り、その体に働き、その体を使っている生命自身は死ぬわけではない。
体はたんなる物質であり、時がくれば変化し分解したりするが、生命は物質ではないので死なない。つまり、生命は生き通しなのである。

この世界においては、現象として、個々の生滅が繰り返されて、この肉体に働いている生命は個としての“いのち“であるように見えながら、同時に、この生命はこの世界のすべてを生かしている生き通しの大いなるひとつの“いのち“そのものである。つまり、この世界にはもともとバラバラな個というものはない。真実は、この世界においては、“いのち“という同質のものがべったりと一様にこの世界を満たしていながら、同時に、その表現形式としては、いろいろなものが個別的存在しているように見えるのである。

我々一人ひとり、この自分はこの生き通しのひとつの大いなる“いのち“であり、何があったとしても決してなくなること、つまり、死ぬことはないのである。

次に、病について考えてみよう。
不可分一体、調和と平和の“いのち“が顕現した世界には大宇宙や大自然が調和しているように、本来、すべては調和しているので病はない。ほとんどの人がこの世界では病があると思い込んでいるが、真実は、病は人間の「病はあるものだ」という妄念によって、その影がこの現象世界に発現しているのである。

であるから、「本来、病はない。本来、病は生じるものではない」ということに気がつきさえすれば、直ちに「病がある」という妄念が消えて、その妄念が凝り固まって作っていた病が消えるのである。病を治すのではない。病を取り除くのでもない。もともと、病はないのだということに気がつけばよいのである。

このように、すべての苦しみや混乱は人間の間違った妄念が引き起こしたものである。本来、調和と平和の“いのち“の世界しかないのだ。この真実に気がつきさえすれば、すべての苦しみや混乱は急速に解消されていくのである。





世界平和の実現は易しい その2

世界平和の実現は易しい その2
(その1からの続き)

ぺイ・フォワード・ピースは僕が創案したものですが、2018年の1月7日に書いたブログをもう一度読んでいただければわかると思います。

ぺイ・フォワード・ピースとは簡単に言えば、「一人の人から受けたある“平和のメッセージ”を確実にこのメッセージをまだ受け取っていない二人以上の人に伝えていく」ということです。

たとえば、一人の人が平和のメッセージを1週間で確実に重複しないように二人以上の人に伝えていけば、1,2,4,8,・・・と、計算上は、34週間以内に世界中の大人の大多数が“平和の人”となることになります。

いずれにしても、もし、この方式がうまく作動すれば、短期間のうちに世界中で平和の人が圧倒的な多数を占めるようになる可能性は充分にあります。そうなれば、もはや、戦争は起こらなくなるはずです。

この方式がうまく作動するための条件としては、まず第一にメーッセージがごく普通の庶民に感動をもって強く響き、このやり方であれば必ず平和な世界が実現できるに違いないと思わせ、読んだ人自身が自分が直接に知る限りの人、あるいは、直接には知らなくても、可能な限りの人々に知らせたい、知らせようと思わせるような内容であるということです。

そんなことは難しい、あるいは、できないと思いますか? 

もし、そうだと言うのであれば、それこそ思い込みです。従来の考え方や思いを棚上げして、方法しだいで必ずできるはずだという視点に立って考えれば必ずよいアイデアが出てくるはずです。

僕は、そのメッセージの内容の骨格にはネホサの考え方がもっともふさわしいのではないかと考えています。後は、それをどれだけわかりやすく要約できるかということと、それをいかに感動的に伝えることができるかということです。

そこまでできれば、さらには、当然のことながら、どうして、今この考えを広める必要があるのかということ、そして、この考えを広げるために、ぺイ・フォワード・ピース方式がもっとも易しく、確実性があるだけでなく、やること自体が楽しいかというようなことです。

ただ、文章や内容が独りよがりになっては、通じるものも通じなくなります。このようなテーマについて、自分自身の思いを伝えるためのもっとも基本的な態度は客観的な態度・姿勢をくずしてはならないということです。

このブログを読んでいる人の多くは僕のセミナーに何回も参加し、拙著『国の理想と憲法 国際環境平和国家への道』も読まれていると思いますが、メッセージは、ごく普通一般の方々に向けられているということを強く意識していかなければならないと思います。

それは自分の思いや考えは尊重するにしてもメタ認識(客観的に認識すること)を常に意識しているということです。

これはある意味ではかなり難しいことです。自覚のセミナーに参加された方々は、それまでいかに自分の思い込みに捉われていたかということに気がつかれたと思いますが、うっかりしていれば、気がつかないうちに自己流の思い込みに陥ってしまいます。それはせっかく苦労して手に入れた宝物を自ら捨ててしまっているのと同じです。





世界平和の実現は易しい その1

世界平和の実現は易しい その1

あなたは「世界平和の実現は易しい」という言葉を聞いて、正直どのように思いますか?

多くの方の正直な思いは、概ね、「そんなことはない。もしそうだったら、とっくの昔に世界平和は実現しているはずだ。平和な世界の実現が非常に困難なことはこれまでの人類の歴史が証明しているではないか」というようなものではないでしょうか。

僕もこれまで多くの心ある人々の懸命な努力と祈りにもかかわらず今日までこの世界に平和が実現していないという事実を否定するつもりではありません。また、多くの人々が「だから、平和な世界を実現するのは非常に困難なことなのだ」と考えるのも無理はないと一応は思うのです。

しかしながら、ここであらためて「本当に平和な世界を実現するのは難しいことなのだろうか?」と考えてみたいのです。というのは、これまで平和を実現することができなかったという事実をもって「平和を実現することは難しいことだ」とは必ずしも言えないのではないでしょうか?

「平和な世界を実現することは難しいことだ」と決め詰めつけないで、ここであらためて「平和な世界を実現することは難しいことなのか? 本当はどうか?」と問い直す姿勢が今こそ必要だと僕は思うのです。

そういう姿勢でこのテーマを見直してみると、これまでに見えなかったことが見えてくるのです。それは、これまで多くの人々の懸命な努力にもかかわらず平和な世界が今日まで実現していないという事実は、もしかしたら、平和を実現するその“方法”が間違っていたのではないかということです。

たとえば、ここでまた例によってタバコを引き合いに出しますが、一般にタバコを止めることはとても困難だと言われます。事実、多くの人が精神力でタバコをガマンして禁煙に挑戦するのですが、その大部分は禁断症状の辛さに負けてしまい、禁煙に成功する人は非常に少ないという事実があります。一応禁煙に成功したという人でも、心の奥にはいつもタバコを吸いたい気持ちを抑えており、完全にタバコから解放されているとは言えないという人も多いのです。その証拠に、禁煙に成功したという人でも、何かの折に「1本ぐらいいいだろう」と吸ったために、また、元のように喫煙生活に戻ってしまう人が後を絶ちません。

ところが、一方で、「もうタバコを吸うのはやめた」と言って、それっきり何のガマンも努力もなしにタバコを吸いたいとも思わず完全にハッピーなノンスモーカーに戻る人もいるのです。

なぜ、このような違いが生じるのか? それは方法が違うからです。この方法を最初に一般に提案した人はアレン・カーという人です。彼はその方法を「EasyWay(イージー・ウェイ・易しい方法)」と名付けましたが、名前の通りに、その方法によれば、タバコを止めるのは本当に易しく、世界中で何千万人という人たちが彼の“易しい方法”でタバコを止めているのです。

同様に、私は「平和な世界は方法によって必ず実現できるはずだ」という信念に基づいて、平和な世界を実現する一つの易しい方法(EasyWay)として、ネホサの考えをPay Forward Peace(ペイ・フォワード・ピース)方式で広めることを提案しています。

(続く)






自分は完璧である その2

自分は完璧である その2
(その1からのつづき)

この社会においてはほとんどの人が五感とアタマによって、この世界をバラバラのものの寄せ集めの世界だと思い、世間的あるいは個人的な価値基準やモノサシを真実であると思い込んでいます。その結果、人はちっぽけで、はかない存在であると思い、そこで潜在的にいつも世間的な評価を気にし、他を恐れ、死の影におびえながら生きています。

でも、実物の世界は自分を含めてすべて一つの“いのち”の世界であり、萌える“いのち”の活々とした行き詰りのない世界なのです。

つまり、この世界のすべての存在は、本来、人間がアタマによって作りあげたあらゆる分類や比較や評価などの規定以前に、あるがままで完結して厳然と存在しています。

もちろん、現実の生活においては、事実に沿った正しい規定も沿わない間違った規定もあり、それらによっていろいろと外的に規定されているように見えるかもしれません。でも自分の本来の存在価値とはそれらの規定とはまったく無関係で、厳然として輝いているのです。

もちろん、自分には、本来、無条件の絶対的存在価値があるのだから、どんなに間違ったことをしてもよいということではありません。また、私たちのこの社会における現実の考え方や行為は、真理に照らしてそれが正しいか、間違っているかが判定され、適切に対処されなければならないことは当然のことです。

タバコ図を応用した“社会図“の右側はバラバラ観に立脚した社会ですが、その中に生きていると思っている人にとっては、自分は善人、悪人、その中間の人、色で分ければ、真っ白、真っ黒、灰色のどれになるかと問われれば、正直に答えれば、善悪の中間、灰色の人と答える人がほとんどだと思います。

確かに、右側の社会の一般的なモノサシで測ればそのような答えが出てくるかもしれません。でも、真実の世界では、すなわち、本来は、人の心はそのままで誰でも真っ白、純白なのです。絶対の透明、絶対の静寂と言ってもよいでしょう。

もともと純白なのですから、灰色の黒を苦労して洗い流す必要もありません。もともと純白であることを認め、純白のままでいるほうがずっと容易で楽です。

盤珪禅師が言われるように、迷いをなくそうとするよりも、迷わないでいるほうが簡単で楽なのです。灰色を純白にするには超天才のミロク菩薩でも懸命に修行して56億7千万年も掛かると言われているのですから、灰色から純白になろうと懸命に努力するより、最初から純白でいたほうが楽です。不生でいればみんな純白なのですから・・・。

白隠禅師が「衆生本来仏なり。悟りたい! 悟りたい!と悟りをどこかに求めようとするのは、水の中の魚が喉が渇いた! 喉が渇いた!と叫んでいるようなものだ」と言われたのもまったく同じことを言われているのです。

このように、真の自分をはっきりと確認すれば、自分というものは何があっても変わることがない生死を超えた存在であるということがわかります・

自分だけではありません。この世界の全ての存在が何があっても、そのままで絶対的存在価値を持って純白であり、絶対安心、“すべてよし”なのです。




自分は完璧である その1

自分は完璧である その1

もし、「自分とは何か?」と問われたら、あなたはどう答えますか?

名前や性別や年齢を言ってみても、〇△国人、人間などと言ってみても、あるいは、 “いのち”、“エネルギー”、“大いなる存在”などと抽象的に答えてみても、それらはすべて“自分”という実物の上に貼ったラベルにすぎず、実物そのものではありません。

このラベルを貼ること、つまり、外的規定はアタマを通して抽象化した概念を言葉で表したものであって、どこまでいっても、実物そのものをそっくり捉えて「こうだ」と言うことはできないのです。結局は、自分という実物そのものを何か言葉で表現しようとすると、すべて外れてしまうということです。

ですから、たとえば、あの人は優れている、あるいは、劣っていると言っても、それはその価値を外から勝手に作ったモノサシを勝手に当てはめて測っている外的な比較・評価、すなわち、外的規定にすぎず、その中身、つまり、実物そのものはどんな規定をも超越しています。

それは人間だけに限りません。その他の動物や植物などの生物、そして、無生物も、すべての存在は如何なるモノサシ・外的規定・相対的評価・世俗的評価・個人的評価などをも超えた絶対的価値を備えた完璧な存在なのです。

この世界のすべての存在は不生の“いのち“が顕現したものであり、大宇宙の星々の運行や大自然の循環・調和に見られるとおりに霊明そのものです。ところが、例えば、ほとんどの大人はこの世界には優劣というものがあると思い込んでいます。そのために、いつも自分を他の人と比べて、劣っている、優れていると思いながら生きています。他よりも劣っていると感じれば、いつもオドオドしながら生きていくことになります。一方、他よりも優れていると思っていい気になっているかもしれませんが、その分だけ他の人を蔑んでいるわけですから、これも困ったものです。

でも、真実は、この世界のどこにも優劣というものはありません。優劣というものは人間が勝手に作った観念にすぎません。その証拠に、たとえば、大宇宙や大自然に優劣はありません。

人間は成長するにしたがって、周りとの兼ね合いでアタマのなかに作りあげたいろいろなモノサシによって規定したものを自分だと思い込むようになります。つまり、いろいろな外的規定を着物のように身にまとい、その着物を自分だと思い込んでしまうのです。

でも、着物は自分ではありません! どんなにきらびやかな着物を身にまとっても、自分の本体はどこまでも裸なのです。人間は誰でも裸で生まれ、裸で生き、裸で死んでいくのです。この裸であるからこそ、自分というものは優劣その他のすべての世俗的そして個人的な評価や比較を超越した絶対的な価値があり完璧であるということです。

その絶対的価値、あるいは、完璧さは何ものによっても絶対に侵されることはありません。
つまり、自分という存在は、世間の人がどう思おうとも、また、自分自身がどう思おうとも、心身の能力がどうであれ、どんな姿で生きていても、どんな死に方をするにしても、、それらをすべて超越した絶対的な価値を備えた完璧な存在なのです。

(つづく)





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