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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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意志と決断力と実行力

意志と決断力と実行力

今回のテーマは「決断の強さ、あるいは、実行力には意志の強さは必要か?」ということです。

世間一般ではよく「何かを成し遂げるためには、意志を強く持ってしっかりと決断し実行しなければならない」あるいは「意志が弱いとしっかりと決断・実行できないのだ」と言われます。

しかし、僕の結論を先に述べると、「決断の強さ、あるいは、実行力には意志の強さは関係ない」ということです。さらに言えば、「決断の強さ、あるいは、実行力に関係があるのは意志の明確さである」ということです。意志が明確であれば、別に強さや力は必要はないのです。

たとえば、食卓に美味しそうな饅頭が置いてあるとします。あなたはそれを食べたくてしかたがありません。でも、お母さんに「それを食べてはいけないよ」と言われました。そこで意志の力を使って食べるのをガマンしています。でも、食べたくて食べたくてしかたがありません。お母さんがいなくなったらこっそり食べちゃうかもしれません。これではいつまでガマンできるかわかりませんね。

その時に、お母さんが「それは実はネズミ捕り用の饅頭なんだよ」と言ったのです。その言葉を聞いたとたんに、あなたは「その饅頭は絶対に食べないぞ」と思うでしょう。

それは意志の力・強さというよりも、物事の是非を明瞭あるいは明確に理解したためなのです。

「自分はいったん決めたことをなかなかやり通すことができない。それは自分の意志が弱いからだ」と思っている方がとても多いように思います。そして、「何とか意志の力を強く持って」と思うのですが、なかなか思うようには行かずに自信をなくしているというわけです。

でも、心当たりがある方々に、ちょっと見方を変えて見ることを提案したいのです。

それは意志の強さよりも、まず物事の是非を明らかにして、自分の意志を明確にするということです。

そういうことをアタマにおいて、自分の日常生活を振り返ってみると、それなりに大変であるはずのことを、自分が意志の強さなどと関係なく、それほど苦も無くこなしていることが案外いくつもあるはずです。

それらのことが、それなりにきちんとこなされて実行できているのは、意志を強く持っているからというよりも、自分の意志が明確になっているからなのです。それが盤珪禅師の言われる「決定(けつじょう)」しているということです。

かなりのヘビースモーカーであっても、ヨーロッパや北米行きの旅客機で10時間もタバコを吸わなくてもパニックや暴動にならないのは、「10時間タバコは吸わないぞ」という強い意志力のためではなく、「飛行機の中では10時間はタバコを吸えないのだ」という是非を明瞭に理解・納得しているためです。ですから、「吸わない」という意志が”明確“であり、決して「ガマン、ガマン」と思って耐えているわけではありません。

このような事例は大なり小なり自分自身の日常生活のなかで他にもたくさん発見できるのではないでしょうか。あなたは決して決断力や実行力がないのではありません。

何かを成し遂げようとする時には意志の力を頼りにするのではなく、本当に何をしたいのかをまず明確にすることがポイントなのです。





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あるがまま

あるがまま

この世界のすべてのものはバラバラに分離して存在しているのではなく、一つの大いなる“いのち“が顕現したものである。それは、たとえば、人体のいろいろな細胞や組織や器官が一見異なったもののように見えながら、実は、互いに密接に繋がり、互いを支え合いながら、全体として一つの人体を構成し生きているのと同じであり、すべての存在はどこまでも一つのものなのである。

僕が主宰する「自覚のセミナー」を受講した方々は、この存在の真実を体得、あるいは、かなり深いレベルにおいて知的に理解し納得されていることと思います。

禅に関する本などを読むと、真実の自己は「あるがまま」という言葉に出会うことがあります。

趙州禅師は「真実の自己とは?」と問われて、「庭前の柏樹(庭の柏の木)」と答えました。これは、真実の自己とは「あるがままの自分、あるいは、あるがままの世界、あるいは、あるがままの事実」と言っているのです。

けれども、気をつけなければいけないのは、「あるがまま」と言っても、この自分や世界のナンでもカンでも「あるがまま」で「すべてよし」ということではありません。

なるほど、たしかに、大宇宙や大自然の姿をつぶさに観察してみると、すべてが“あるがまま”で互いの存在や現象が調和して整っています。もちろん、地震や台風その他の「自然災害」はそこに生きる人間やその他の生物にとっては大変困った現象であり、「調和して整っている」とは思えないかもしれませんが、地球の誕生から現在の地球環境を大きな目で観れば、地殻変動、火山の噴火その他の自然災害もさらなる調和に向かっての大宇宙、大自然の営みであることがわかります。

それでは、たとえば、戦争、各国間の対立、経済競争、あるいは、「自分さえ、自分の家族さえ、自分の会社さえ、自分の国さえよければ」という利己主義、個人個人の対立や争い、劣等感、優越感、孤独感、怒り、憎しみ、妬みその他の悪感情や苦しみなどはどうでしょうか? 

それも「あるがまま」で「すべてよし」ということでしょうか?

「それも人間、あるいは、人間社会の自然なのだから、すべてよしなのだ」という人もいるようですが、そういう人はそれらの惨めさを生で体験していないので、アタマで分かった風なことを言っているのだと思います。

そういう発言を含めて、個人あるいは人間社会の苦しみや混乱は人間がアタマで作り出したバラバラ観をはじめとするいろいろな観念によって作り出されたものです。それは大宇宙、大自然に働いている“いのちの摂理、あるいは、真理からまったく逸れているのです。

そういう意味で、人間個人、あるいは人間社会の苦しみと混乱はどこまで行っても、さらなる苦しみと混乱を引き起こします。ですから、とても「あるがままで、すべてよし」など間違っても考えるべきではありません。

「あるがまま」というのは大いなる“いのち“の摂理、あるいは、真理に沿って生きることです。それは大宇宙、大自然にはすでに顕現されています。

私たち人間は、アタマを頼りにしてバラバラ観で生きるのではなく、大宇宙、大自然に学んで不可分一体の真の「あるがまま」の生き方をしていかなければならないのです。





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盤珪禅師とネホサ

盤珪禅師とネホサ

江戸時代後期に生きた盤珪禅師は次のように述べています。

「私たちが親から授かったものは仏心一つです。仏心は不生にして麗明なものですから、不生の仏心でいれば一切事が整います。なんと尊いことではありませんか。仏心の尊いことを知れば、迷いたくとも迷われません。一切の迷いは身のひいきにより迷うのです。身のひいきにより不生の仏心を修羅に変えてしまいます。身のひいきさえしなければ、一切の迷い出てきません。」

禅師の使われた用語を僕なりに現代風に表現すれば、
不生の仏心=もともと具わっている真心
迷い=精神的混乱や苦しみ
身のひいき=アタマで思い込んだバラバラ観により、何よりも自分が大切、自分さえよければと思うこと
修羅=真心の反対。バラバラ観に基づいた間違った観念、自分さえよければという思い、そこから出てくる怒りや妬みなどの悪感情など。

盤珪禅師の言葉は仏教の心髄と、それを日常生活の中でどう生きればよいのかということを実に的確に分かりやすく表現しています。

私たちがこの人生を十全に生き切るためには以下の二つの点がもっとも大切だと言えるでしょう。

第一点:「私たちひとり一人が親から授かったものは仏心(真心)一つである。真心を丸出しでいきていけば一切事が整う」ということを真実であるとしっかり“決定”(けつじょう)して生きていくこと。

第二点:アタマに振り回されないように、毎日の生活の中で、瞑想の自然法、あるいは、只管打坐、あるいは、川の瞑想を実修し、アタマを手放す時間を持つことがとても重要。ちょっとした時を見つけては、一日に何回も自観法をやるととてもよい。

この二つの点をきちんとやっていけば、人生を十全に生き切ることができるのですから、簡単と言えば、とても簡単なことです。人生を生きることは本来困難なものであるはずがないのです。本当は誰でも容易に周りの人とも仲良く楽に生きていけるのです。

でも、それはあくまで個としての人生を考えた時であると言えましょう。というのは、この世界、この社会にはバラバラ観を根底とする個人的、社会的な争いや対立によって引き起こされた大きな混乱と苦しみの中で不幸な人が犇めいています。

こういう社会的な苦しみや混乱を考えると、個々人が盤珪禅師の教えをしっかり理解し、あるいは、只管打坐その他の瞑想法をどれだけ一生懸命にやっていても、何の解決も見いだせないということは誰にも容易に分かるはずなのです。それでも、瞑想さえやっていればよいのだ、すべてうまく行くはずだと思っているとすれば、それは盲信的な思い込みか、あるいは、社会的な諸問題の解決などまるで眼中にないということなのでしょう。

私たちは個として存在であると同時に、この世界に生きる社会的な存在でもあります。個に当てはまることは全体にも当てはまります。ですから、盤珪禅師の教え、真心丸出しの生き方を個人の生き方にするだけでなく、日本の理想として掲げることが社会の混乱や苦しみの解決し、世界の平和を創造するための“切り札“となるのです。 

それがネホサです。それは決して困難なことではありません。




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再び自観法について

再び自観法について

以前ブログで何回かに分けて自観法について説明しましたが、その後ずっと自観法を続けて実修している方が少ないようなので、それではみすみす宝の山を見過ごしていることと同じで、あまりにもったいないとの思いから今回のブログを書いています。

自観法については以前説明したように、特別に何かに集中しなければならない時を除いて、普段の日常生活において、特別な場面や状況を選ばずに、約1分間自分の思い、あるいは、意識の流れを批判や批評や反省などすることなしに、ただ眺めているというものです。できれば、1日に何回もやったほうが効果的です。

”効果“と書きましたが、自観法を1か月も毎日続けて実修していると、素晴らしい成果があるでしょう。けれども、自観法のコツは何か素晴らしい成果を得ようというような余計な考えを持たずに、自分の思いを “ただ”眺めているだけです。

私たちの心は、次から次にいろいろな雑念を思い浮かべています。青空に次々と雲が自由に現れては流れ消えていくのに似ています。その次々に浮かんでは消えていく雑念をそのまま自由に遊ばせながら勝手に眺めているのです。

通常、多くの方々は、そのような思い、あるいは、そのように思っているものこそが”自分“だと何の検証もなしに思い込んでいます。けれども、毎日自観法をやっていると、”見られているもの“と”見ているもの“がだんだんはっきり分かれてきます。つまり、” そのような思い、あるいは、そのように思っているもの“が”見られている自分“であり、それを”もう一つの自分“がじっと見ている、ということにはっきりと気づくことができます。

そして、この“もう一つの自分”こそが本当の自分、真の自己です。真の自己はどんなものかと言えば、姿も形もありません。色も着いていません。それは強いて言えば、完全に静寂で無限に広がった空間です。簡単に言えば、何もない「空」です。でも、本当は何もないのではなく、「空」でありながら、いや、それだからこそ、この大宇宙のすべてを含んでいます。ヨガではそれを“大我”と呼んでいるようです。(僕はそれを“いのち”と呼んでいます。)

それに対して、”見られている自分“をヨガでは”小我“と呼んでいるようですが、それは生活上の表面意識であり、この社会における個人的また社会的な対立や混乱を引き起こしている元凶です。(でも、真実は、そんな”個としての自分”などはもともと存在しないのです。この体とアタマを使って生きているのは“いのち“なのです。もともと自分など存在しないのです! これは驚き以外の何者でもありません。この存在の真実に気づく時に本当の大安心が得られるのです。)

自観法のもう一つの効果は、習熟するにつれて、感情に振り回されることがどんどん少なくなります。心は楽しくなります。そして、怒りっぽい所がなくなり、悲観癖もなくなり、人に対する偏見や恨みごとやひがんだ気持ちもなくなり、この世界がますます美しく見え、心が優しくなり誰とでも打ち解けて話せるようになります。一言で言えば、生きることがとても楽しくなります。

まさにいいことずくめなのです。ですから、自観法をやらなきゃ本当にもったいないのですよ!





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徳川家康とタバコール

徳川家康とタバコール

「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。」

この句は徳川家康の辞世の句であると言われています。その真偽はともかく、この句に対する感想は人それぞれだと思います。

では、次のような辞世の句があったら、あなたはどう思いますか?
「人の一生は、わざわざ必要もないのに、重い荷物を背負ってあちこち歩き回っては、荷物を降ろして小休憩をしてホッとする。それもつかの間、またその重い荷物を背負ってあちこち歩き回っては、荷物を降ろして小休憩をしてホッとする。このプロセスを延々と繰り返すようなものだ。急がなくてもいいんだ。こんな苦労は当たり前のことだと思えば何の不満もない。」

「いい句だなあ!」と思いますか?それとも、「人生って素晴らしいなあ!」と思いますか?

もちろん、思いませんよね。誰でもこんな人生なんてイヤだと思うでしょう。

でも、タバコを吸う人や日頃お酒を飲む人は、上に書いたのと同じようなイヤな人生を毎日送っているのです。あっ、それから、もし日頃ヘロインを摂取していれば、その方々も同じです。

(ところで、「タバコール」というのは、僕が作った「タバコやアルコール」という意味の造語です。なぜ、このような造語を創ったかと言うと、いちいち「タバコやアルコール」と書くのが面倒だからです。タバコもアルコールも化学的な成分は異なりますが、いずれも強力な依存性薬物であり、その依存性に関しては、非常によく似た仕組みをもっています。最初はヘロインも含めた造語も考えてはみたのですが、ヘロインは非合法であり、それに対して、タバコとアルコールはいずれも合法的に市販されているために、私たちの日常生活に、ある意味で、ごく自然なものとして、溶け込んでいるので、この二つをひっくるめた名前を考えてみたというわけです。)

さて、そのようなイヤな人生を歩んでいる人は、ヘロインをはじめ、タバコやアルコールなどの依存性が強い薬物を常習的に摂取している人たちだけではありません。この社会に生きているほとんどの人は、ある意味では、同じようにイヤな人生を歩んでいます。そういう意味で、家康の「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くが如し。」という句はまことに的確な表現だと言えましょう。

それはどういうことかと言えば、この社会自体が存在の真実はどういうことかということも知らずに、アタマで妄想したバラバラ観を基盤として構築されているために、社会のシステムはもとより、そこに生きるほとんどの人は、バラバラ観を当然のこととして生きているということです。だから、結局は、まずは、自分が、そして、自分の家族こそ、自分の仕事こそ、自分の会社こそ、自分の国こそが何よりも大切だと思っている人が大多数である社会が出来上がったというわけです。その結果、ほとんどの人が他人を苦しめ、自分を苦しめ、自分たちを苦しめながら生きています。

私たちの人類社会は狂っているのです。それをまったく別の次元から切り開いて、不可分一体観を基盤にした新しい人類社会を創ろうというのがネホサの目的です。





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