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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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一本の花

一本の花

我が家の庭に一本の花が咲いています。

その花は一般的には「タンポポ」と呼ばれています。

ちょっと見ると可憐な花ですが、近くでよくよくよく見るとなかなか豪華な花です。

我が家のその一本の花はそのようなものなのですが、真実はもともと「タンポポ」という名前があるわけではありません。

また、もともと「花」でもないのです。

また、「小さいもの」でも「可憐もの」でも「豪華なもの」でもありません。

ただ、そこに「なにか」があるだけです。

我が家の一本のその「なにか」は、「花」、「タンポポ」、「小さい」、「大きい」、「可憐」、「豪華」、「好き」、「嫌い」、「野の花」,「お店で買った花」、「値段が高い」、「値段が安い」など、人間がアタマによって作りあげたあらゆる規定や比較や評価以前に、あるいは、それとはまったく無関係に、もともとあるがままで完結して厳然と存在しています。

同じように、この世界の生きとし生けるもの、そして、すべての人は人間がアタマによって作りあげた、優・劣、好き・嫌い、明るい、暗い、良い・悪い、金持ち・貧乏人、所有、差別、国籍、職業、家柄、年齢、学歴、地位、既婚・未婚など、あらゆる規定や比較や評価以前に、あるいは、それとはまったく無関係に、もともとあるがままで完結して厳然と存在しています。

でも、ほとんどの人は他との兼ね合いにおいて自分を規定し比較し評価したものが存在の真実であると錯覚して、本来、あるがままで欠けるところが一つもない完結した自分や世界を見失ってしまっています。

人が苦しみ、あるいは、他を苦しめてしまうのは、まさにここに根本原因があるのです。


ここで、我が家の庭の一本の花をもう少し事実に沿って検べてみましょう。

多くの人は一般的に花を愛(め)で、その花をたたえます。でも、花だけを見ているようです。

我が家のその一本の花は、事実は、花は茎と葉とともにあるだけでなく、茎を支える地中の根を通して、この植物体をはぐくむ水分や養分を吸収しながら大地と繋がり、葉を通して水分を空気中に蒸散するとともに、呼吸しながら大気と交流し、さらに、大気や大地を通して天地一杯のすべてのものによって支えられ、はぐくまれながら、それらと交流・循環しています。

我が家の庭のその一本の花はただ一本の花であるのではなく、その個体的あり方を通して天地一杯ぶっ続きのいのちを生きているのです。

あなたも同じです!!!

あなたはこの広大な世界のなかのちっぽけな存在なんかではありません。

あなたはその個体的あり方を通して、天地一杯ぶっ続きのいのちを生きているのであり、もともと何一つ欠けるところがない完結した存在なのです。

この存在の真実には落ちこぼれはありません。

「自分はちっぽけなはかない存在であり、ダメな人間だから、頑張って生きなければ」というのは、初めから出発点を決定的に間違っています。そこでどんなに頑張っても、本当の意味でよい結果が出ることはありえません。

そんな陰気で後ろ向きの生き方は即、止めて、天地一杯のいのちである自己を自覚して、その絶対安心のなかで、どこまでも明るく、自分を含めた生きとし生けるもののために、創造的に生きていきたいものです。




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人類進化と文明の進歩 その2

人類進化と文明の進歩 その2
(その1からのつづき)

ここで一つの例として、病気について考えてみましょう。人間はいろいな病気にかかります。では、「なぜ」病気になるのでしょうか? たいていの病気は食生活を中心とする生活の間違いが積み重なって起こります。生活の間違いというのは体の自然の法則に沿っていない生活と言い換えることもできます。では、質問を変えて、「何のために」病気になるのか?と考えてみましょう。「何のために?」というのは、病気になるのは、ただ意味もなく病気になるのではなく、何かの目的があると考えることもできるからです。

結論から言えば、病気は間違った生活への警告、つまり、私たちに生活の間違いに気付かせ、それを正させるために起こるのだと言えるでしょう。たいていの病気は(特に初期の段階であれば)その警告に従って生活の誤りを認め、生活を正すことによって治ります。そうであるならば、人間は最初から本能だけで生きていれば、自然の法則に沿った正しい生活ができるのだから、わざわざ、自然の法則からはずれ、病気になるような知能を獲得しないで、本能だけで正しい生活ができるサルの段階に留まっていたほうがいいのではないかとも考えることができます。

しかしながら、私たちは病気になって初めて、健康のありがたさに気付くことができるのです。そして、初めて正しい生活の重要性を「自覚」できるのです。ということは、大自然の生命の力は、ただ、本能に従って、「無自覚に」自然の法則に沿った正しい生活を営む動物の他に、「自覚して」自然の法則に沿った正しい生活を営む存在を造る意図があるのではないかと思われるのです。

 病気だけでなく、私たちは大脳の限られた能力によって、しょっちゅう自然の法則(あるいは存在の真実)からはずれた判断や選択をします。その結果、争いや苦しみなどいろいろな間違いを犯します。そして、私たちは誰でも、それらの間違いを何とかなくしたいという気持ちが心の底から湧いてくるのを感じています。ということは、私たちは間違いを犯すことによって初めて、間違いの基盤となった存在の真実に対する認識、すなわちバラバラ観の間違いに気付き、存在の真実に対する正しい認識、すなわち一体観を「自覚」することができるのです。

 ここで、人類が「狂ったサル」ではなく、人類が進化の頂点にあることを認め、ダーウインの進化論に捉われずに、あらためて進化の原理を考えてみますと、少なくとも脊椎動物の進化の目標は、生存そのものではなく、「精神的価値」であり、その内容は存在の真実、すなわち、不可分一体の「自覚」であると思われます。つまり、大自然の生命の力の意図するところは進化によって「自覚した存在」を造ることにあると思うのです。

 進化の原理は「自覚を追求すること」にあることは、いろいろな生命的事実や現象が示唆していると思います。例えば、進化の段階において、「自我意識」が最初に現れるのは、すでに両棲類であるサンショウウオの段階で見られるという報告があります。つまり、サンショウウオはすでに他の存在を意識すると同時に「自分」というものを意識しているというのです。そして、進化が進むにしたがって自我意識はますます明瞭になっていくのだそうです。確かに、自我意識は人間の段階になって、サルなどに比べると桁違いの強さになります。そして、人間は「自分とは何か?」「自分はどこから来たのか?」「自分はどこへ行くのか?」「自分の生きる世界はどうなっているか?」などと自らに問いかけ、ついにはそれを求めて世界中を歩き回ったり、山奥にこもったりして、何とか知ろうと長年苦しい修行をする人まで出てくるのです。

 以上述べてきたことは一つの仮説にすぎません。しかしながら、もしこの仮説を認めるならば、現代のいろいろな深刻な問題によって人類社会が直面している生存自体の危機は決してでたらめに生じたものではないことになります。この世界において、進化の頂点に立った人間として、個人としては、何千年前も前から時に、お釈迦様を初めとして、存在の真実、つまりこの世界の本質が不可分一体であることを深く自覚した人が現れました。そして、数多くの人々が内なる心の要請により、それこそ「本能的に」存在の真実の自覚を求めてきました。しかし、今日に至るまで、自覚を成就する者は、能力と縁に恵まれたわずかな人たちだけでしかありませんでした。

しかし、その間にも大自然の生命の力による進化は力強く推し進められていたのです。人類はこの間いろいろな間違いを犯し、自他を苦しめてきました。そして、心ある人々は何とかして人間の犯した間違いをなくし、人々が幸せに生きられるように努力してきました。その努力は不可分一体観を自覚することなしにはできないことです。こうして、今人類は核戦争の危機、地球環境問題、原発事故などの危機に直面しています。人類はいずれそう遠くない未来にこの危機によって滅びてしまうか? それとも、この危機を乗り越えて輝かしい新たな文明を開くのか? 私たちはまさに一大岐路に立っています。

この危機を乗り越えるためには、人類はその根源的原因であるバラバラ観の誤りにはっきりと気付き、不可分一体の真実を深く自覚することが必須条件となります。いや、「逆に、人類が不可分一体の真実を深く自覚するために、大自然の生命の力の働きにより、今人類はこのような絶対絶命の危機を迎えているのだ」というのがおそらく真実であると思います。それを信じるかどうかは別として、人類は、不可分一体の真実を深く自覚することによって初めて、新たな次の進化の段階へと進むのです。そして、この人類の行き詰まりは、人類が存在の真実を深く自覚する絶好の機会であるとも言えるのです。このようにして、進化の新たな段階へと進んだ人類は「新たなる人類」(ネオ ホモ サピエンス:Neo Homo Sapiens) あるいは、「自覚した人類」と呼ばれることになるでしょう。





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人類進化と文明の進歩 その1

人類進化と文明の進歩 その1

 現代の人類が直面している諸問題の根本原因を解明するためには、人類の歴史を概観し、人類がこれまでどのように生きてきたかということを知るということは大変重要な視点です。それと同じように、人類がここまでどのように進化してきたのか? 今後どのように進化していくのか? 人類はどこから来て、どこへ向かうのか?ということは、人類の諸問題の根本原因を解明し、世界の平和を実現するためにも、またさらに、人類が新たな文明を切り開いていくためにも非常に重要なテーマです。

 動物と人間との違いは、道具を使うかどうか? 言語を使えるかどうか? 二足歩行であるかどうか? などいろいろな観点から説明されているようです。それぞれの観点にはそれなりの意味があると思いますが、動物と人間の決定的な違いは、本能による全面的な支配を受けているかどうか? ということだと思います。つまり、動物はほとんどすべて本能にしたがって生きています。本能は、何十万年、何百万年、何千万年、さらに、何十億年の進化の歴史を通じて、無限回とも言える試行錯誤により、生き残りと繁栄のための成功体験を積み重ねて、遺伝的に獲得してきた最高の能力です。

したがって、本能にしたがって行動し生活すれば、すべての行動や生活が自然の法則に沿った調和したものになります。例えば、体の働きが異常になることもないのです。野生の動物には、生活習慣病と呼ばれるような病気はありません。それは野生の動物が自然の法則にしたがって生きているからです。

それに対して、人間は本能による全面的な支配を受けてはいません。もちろん、人間も生物的な身体を持った動物であることには間違いありません。ですから、身体的な機能そのものは自然の法則に従って働いています。ところが、人間の具体的な行動は、必ずしも本能によって規定されているわけではありません。人間は動物と違い、ほとんど大脳の働きによって、思考し判断して、行動を決定するからです。

 本能に従って行動し生きていくのが動物だとするならば、見方によっては、人間はその本能の仕組みが「狂って」しまっていると言うこともできるかもしれません。つまり、人間は「狂ったサル」であるというわけです。「狂った」という表現が適当であるかどうかは別として、もし、「自由」とは、物理的、あるいは動物的な規定から逃れているという意味であるとすれば、人間は「狂った」おかげで、「自由を得た」ということも可能でしょう。つまり、人間は大脳の働きによって、意思による選択を行う「自由」を持った存在だということもできます。しかしながら、その「自由な意思」により選択を行いながら生きていくことによって作られていく世界は「良くも悪くも」必ずしも自然の法則に沿わない、つまり調和していない世界として現れてくるのです。

 ダーウインは、進化の原理は生存価値の追求、つまり、「如何に安全な生存に役に立つ仕組みを作るか?を追求することにある」としています。その点、動物は無限回の成功体験の集積のエッセンスである本能だけに従って、自然の法則に沿い自然環境や仲間同士とも調和した生き方をしているのですから、最も安全な生き方をしているということになります。

一方、人間は、本能に頼らず、知能によって思考し行動を選択していくのですから、当然、しばしば自然の法則からはずれます。その結果、人と人が争ったり、自然を破壊したりというように、自らの生存自体をも脅かしかねない不安定な生き方をすることになります。ということは、本能に従って生きる動物の方が高い知能を持つ人間より高等であるということになります。人間は他の動物には見られない桁違いに高い知能に加え、豊かな意識や感情を持っていますが、それらは、場合によっては、生存価値の追求に寄与するどころか、生存そのものを脅かしかねない一面を持っています。こうなると、やはり、サルの方が人間よりよっぽど高等であり、人間は「狂ったサル」ということになるのでしょうか? 人間の作り上げてきた世界には、今日に至るまで、苦しみや争いが絶えず、その結果、今日私たち人類がその生存そのものが危ぶまれるような状況に至ったのはやはり人間が「狂ったサル」だからなのでしょうか? 

 もし、人間が本当に「狂ったサル」であれば、互いに争い、自他の苦しみを作り、いろいろな間違いを犯し、母なる自然を破壊して、ついには自ら滅びていくことこそ当然のことと言わなければなりません。自然の法則に外れれば、外れた結果になるのが「自然の法則」なのですから・・・。だとすれば、こういう状況に直面しても、何を考えても、何をしても無駄ということになります。しかしながら、私は、高い知能や豊かな意識や感情を持った人間を「狂ったサル」と見るのでなく、やはり、人間は「進化したサル」だと思うのです。その最も大きな根拠は、自分だけでなく、多くの人々が「何とかして、争い、苦しみ、間違いをなくしたい。自然と調和していきたい。人類が滅びるのを防ぎたい」と思っているからです。

ところで、人間が「進化したサル」であるとすると、ダーウインの進化の原理そのものを見直す必要が出てきます。大自然が指向している進化の目標が「生存」ということであれば、しばしば間違いを起こす人類よりも昆虫の方が優れているし、昆虫よりバクテリアの方がもっと優れているので、生命は、単細胞生物から多細胞生物になったり、さらに、複雑な組織や器官を備えた動物などになる必要はなかったということになります。ところが、実際には、生物は、単細胞生物から多細胞生物へ、単純な構造の動物から複雑な組織や器官を備えた動物へと変化してきたのです。この変化を生命が「狂った」結果だと言うことは理屈ではできるかもしれませんが、よりよく生きたいと心から願う生身の私たちとしては、やはり、進化の原理とは何か?とあらためて考え直さなければならないと思います。

 すなわち、人間を「進化したサル」だとすれば、何のために、自然の法則からそれた選択をし、争いを起こしたり、自他を苦しめたり、いろいろな間違いを犯すのでしょうか? そこには何か深い意味があるはずなのです。





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本当の平和を実現するために 

本当の平和を実現するために  

 第二次大戦の終結以来今日までの数十年間日本は直接的に戦争に関与することなく「平和」と呼ばれる日々が続いてきました。これは平和を求める多くの人々の思いとその働きによるものだと言えるでしょう。

通常、「平和」という言葉は人間同士の間で社会的な奪い合い、殺し合いがないという状態という意味で使われています。簡単に言えば、「戦争がない」という状態です。戦争は一種の積極的な行動です。では、「戦争がない」という平和は、「消極的」という言葉は適当でないとしても、「何もしない静的な状態」と言ってよいのでしょうか? 

「人類の歴史は戦争の歴史である」と言われます。ある歴史学者によれば、人類の歴史始まって以来今日に至るまで、この地球上に戦争がなかった日々はほんのわずかしかないということです。戦争をしていない、俗に「平和」と呼ばれる日々においてさえも、つねに外敵や次の来るべき戦争に備えて、軍事的にはもちろん、政治、経済、産業などにおいても、いろいろな措置や対策が取られてきたのだそうです。それは今日でもまったく変わっていません。
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これを言い換えれば、「平和」と呼ばれる日々においても、実施的には、世界各国は本質的あるいは潜在的には常に対立関係にあり、対立関係が表面化すれば「いつ戦争が起こってもおかしくない」という体制にあるということであり、その意味では、潜在的にはずっと戦争は続いており、戦争が人類社会の常態だということです。これは、戦後における日本の「平和」は決して安定し永遠に続いていく「真の平和」ではなく、「仮の一時的な平和」にすぎないということです。

それは日本だけではありません。第二次大戦終結まではヨーロッパやアジアをはじめ、世界の各地で戦争が頻発していました。その意味では、当時の国際情勢は国際戦国時代であったということができるでしょう。

その後、第二次大戦終結から今日までの世界は戦争が起こる頻度はいくらか減ったかもしれませんが、「世界はいつも戦争状態にある」という根本的体制が変わったわけではありません。大量の核兵器と大陸間弾道ミサイルを擁して米ソを中心として対峙した東西冷戦、ソ連崩壊後の東欧各地での内戦、アジアでは朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争、アフリカや中南米での内戦や戦争などが勃発しています。

幸いなことに、日本が戦争に「直接的」に関わることはありませんでしたが、日本だけでなく世界各国は依然として第二次大戦以前の状態、いつ戦争が起こるかもしれないという体制から脱したわけではなく、世界は依然として戦国時代の真っただ中にいると言ってもよいのです。

これらのことから言えることは、「戦争をしなければいい」「軍備を止めればいい」と言い、ただ平和を祈ったり、戦争の当事者を非難したり、当事者にお願いして、戦争を止めてもらおう、みんなで話し合おうという消極的受身的態度によっては根本的戦争解決・真の平和の実現はできないということです。これまでの世界中の平和運動、反戦運動、軍縮運動などはほとんどこの類のやり方です。多くの人が「止めろ」と言いいさえすれば、当事者が止めるとでも思っているのでしょうか? 歴史的事実として実際にそのようにして戦争が止んだ例はほとんどありません。核兵器削減やその他の軍縮でも同じです。いざと言う時には戦争をしなければやっていけない、そのためには、軍備を拡大しなければならないと各国の当事者は固く信じているのです。

もちろん、武力の行使や武力による威嚇によって無理やりに戦争を止めさせるとすれば、それこそ、平和実現どころか、その反対の行動であり、それによって仮に一時的に「平和」が実現されたと言っても、それは「真の平和」ではないことは明らかです。真の平和は、ただ戦争のない静的消極的状態ではなく、積極的平和創造行動によってのみ実現維持される動的積極的状態なのです。

わかりやすく説明しましょう。平和は戦争がない状態だとすれば、ただ争わないでじっとしていればいいことになります。確かに、何もしないでいれば、相手も警戒しないので一時的には平和は保てるかもしれません。しかし、そのような平和を永遠に保つことができるでしょうか? 相手はこちらが何もしないことをよいことに、占領しようとして攻めてくるかもしれません。私たちが目指さなければならないのはこのようにすぐに壊れてしまうような「平和まがい」のものではなく、確固たる真の平和なのです。この真の平和というのは何も動かない何もしないという静的平和状態ではなく、活発に動いていながら争いが起こらないという動的平和創造状態なのです。これは国と国の間でも、個人と個人の間でも同じです。

争いを防ごうとするには、争わないと決意することはもちろんですが、それよりも、争う必要のない状態をお互いの行動によって作ることが最もポイントなのです。戦争は、国と国、民族と民族との助け合いが実行されることによってのみ積極的に防止されます。そして、そのために、もっとも確実な方法は、相手が「争おう」という気を起こす前に、こちらから率先して、相手と全面的に仲良くする実際的行動を取ることです。言葉でいくら「仲良くしよう」と言っても何にもならないことは、個人個人にしても国家と国家のあいだであっても、数多くの事実が裏付けています。実際的に、こちらが相手にとって「なくてはならない」大切な存在になるような具体的行動を取ることが絶対必要なのです。その行動こそ、平和を創造する力なのです。

平和は口だけでは得られないし、黙っていても手に入るものでも、どこかに転がっているものでもありません。平和は自ら創らなければ出来ないのです。世界のこの行き詰まりの状況においては、まず、日本が自ら世界に対して平和的積極行動を取ることによってこそ、世界平和の道が開けてくるのです。




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左と右の世界  その6

左と右の世界  その6

これまで説明してきましたように、左側の本来の、一元絶対、不可分一体の世界ではすべてが一つですから、たとえば、大小、生死というような物理的な比較も、優劣、所有というようなアタマの妄想による観念も一切ありません。

ですから、左の世界の中にはその中にさらに左中右、あるいは、上中下といった区別もありません。

それに対して、右側の五感とアタマで捉えた見かけ上の二元相対、バラバラの世界では、大小、生死というような物理的な比較観念が存在し、また、多くの人が優劣、所有というようなアタマの妄想による観念を真実だと錯覚しています。

ですから、右側の世界には、比較や観念によって、その中に左中右、とか、上中下などという区別ができてきます。たとえば、改憲は右の右、護憲は右の左、どっちつかずは右の中、あるいは、金持ちは右の右、貧乏人は右の左、ほどほどに豊かな人は右の中というわけです。

左側の世界にはそのような区別はまったくありません。みんな同じです。

では、僕が主催する自覚のセミナーはその中の何を理解・捉えることを目的にしているのかということを、説明してみましょう。

自覚のセミナーではアタマを超えた直感に至るまでに、アタマを使うので二元相対的な思考は変わりませんが、アタマが妄想的な思考に陥らないように、意味の正確な言葉を意識的に使って思考します。

その結果、右側の世界の、たとえば、大小、生死などの物理的な比較観念は右側の世界の物理的な事実を妄想でなくありのままに表しているけれども、たとえば、みんなバラバラであるという観念、優劣の観念、所有の観念などはアタマが作り出した妄想であり、間違いであったことに気がつきます。

その理解の深さは人さまざまですが、それでも、ほとんどの人が少なくとも知的なレベルではっきりとバラバラ観念、優劣の観念、所有の観念などの間違いに気づいて不可分一体の存在の真実を理解することができます。

これはこれまでのアタマの妄想により理解した「妄想的右側の世界」の間違いに気づき、アタマを正しく使って理解した見かけ上の「正しい右側の世界」を見出したということであり、同時に、左側の本来の世界を少なくとも知的にはっきりと理解できているということです。

また、自覚のセミナーでは、本当は実にシンプルな問いなのですが、これまで一度も考えたこともないようなことをいくつか質問します。そうしているうちに、五感とアタマの通常の思考を一気に飛び越えて、直感的に、深浅はともかく左側の世界、すなわち、不可分一体の存在の真実を体得する人がかなりいます。

これは禅における悟り(見性)と言われるものと同じだと思います。

自覚のセミナーでは、参加者がアタマを妄想的でなく正しく使い、知的に本来の一元絶対の不可分一体の左側の世界の存在をはっきりと認識するとともに、それを直感的にできるだけ深く体得し、同時に、理解体得した左側の世界を基盤として、知的に見かけ上の二元相対の右側の世界を正しく認識し、それをもとに真実の生き方を見出すことを目標としています。

(おわり)


(お願い:今回のブログは特に丁寧に読んで、自覚のセミナーの仕組みをよく理解してください。)





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