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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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二河白道

ここに掲載するのは恩師和田重正先生が昭和24年(1949年)に書かれた文章です。
僕はこの文章を読むたびに心が奮い立ちます。
どうかみなさんも心して読んでいただければ幸いです。


二河白道
和田重正
(和田重正に学ぶ会機関誌『ここに帰る』第74号より)

たとえ話がある。
血の河と火の河の間に一筋の白道が延々と続いていて時々血の波焔の舌がそれを侵すので道の先の方には何があるかはっきり見えない。
こちらの岸には人間が鬼や悪獣に追い廻されて息も絶え絶えになって最早逃げ場もなく最期の悲鳴をあげている。そうすると何処からか大きな声がして、
「その道を行け、怖くはないぞ、思い切ってその道を行け、大丈夫だよ、向こう岸は安全だ。まごまごしていると喰い殺されるじゃないか、早く早くその道を行け!」
おやっと思って白い道を見たとき、血の波焔の渦のうなりにまじって向こう岸からも微かな声が聞こえてくる。
「その道を来ればいいんだ。こっちは安全だ、一目散に走って来い! 途中の波や焔を恐れるな。思い切って走って来い!」
この人間が若し、この道は本当に安全なところへつづいているのかしら、途中で駄目になってしまいはしないかしら、などと疑ってまごまごしていたら忽ち鬼や獣の餌食になってしまうが、どうせ助からぬものならこの道を行ってやろうと決心して脇目もふらず走って行ったならば極楽という結構なところへ飛び込むことが出来るのである。
原子爆弾が発明されてから人類はちょうどこの話の人のような立場に追い込まれている。もし、第三次大戦が起こったら人類は殆ど滅んでしまうだろう。殊に日本人は人類学の資料になるほどにしか残らないだろうと言われている。
原爆戦の恐ろしさは世界中の誰でも知っている。
それだのに事態は刻一刻と戦争の危険に近寄ってゆくように見える。
一体人間は戦争がすきなのか、滅亡を欲しているのか。
決してそんなことはない。ただ人類は戦争を避けられないものと信じているからなのだ。避けられないものと考えながら避ける工夫をしてもそれは無駄である。平和の可能性を信じて行う努力でなければ何の足しにもならない。
われわれ日本人は他に生きる道はないのだ。理屈はあとでゆっくりつけるとして、先ず平和の可能性を信じること。自信でも迷信でもよい。信じて白道を驀地に猛進するのみだ。白道の先は模糊として見えない。果たして極楽があるのやら地獄があるのやら、しかしまごまごしても地獄なのだ。馬鹿になって信じて、兎に角彼岸へ走り抜けてみるより仕方はない。
利口ぶって、イズムだ宗派だときいた風な理屈を捏ね合っている間に原爆の黒雲はわれわれの頭上に一寸ずつ拡がっているのだ。
もうこうなったらイデオロギーや教義などの邪智悪智を振り廻しても大勢を変えることはできない。
最も単純な人間に還り確信して張り上げる“いのち“の叫びをそのままに爆発させるならば、二十億の共鳴を起こし嵐となって忽ちにして黒雲を吹き払うだろう。国際社会に座席を持たぬ日本人が自らを救い全人類に貢献し得る唯一の道だ。
             昭和24年6月18日
             平和運動の講演を聞いて
                                



悟りメモ付記

悟りメモ付記

Yさんの感想
「しかし、万物に同じように感じるとまでは言えません。人工的に作ったもの、思考や感情さえも仏性とは観念としてもまだピンときません。全てが仏性の現れであるとは受け入れられない事があります。そして、日々の仕事が始まると、朝の平和な静寂でいられなくなります。」

昇平のコメント
少し誤解があるようです。
Yさんの考えを推測すると、自然のものが仏性の現れであることは、例えば、物凄い暴風雨であるとか、ライオンが鹿を襲ってたべることとかも含めて、一応納得がいく。つまり、大自然はもちろん、植物や微生物そして人間以外の動物は本能に従って生きており全体と調和しているので、それらが仏性の現れであると言われれば一応そのように言える。

けれども人間がやることについては、人間は本能だけで生きていない。つまり二元相対的思考によるバラバラ感によるいろいろな思考や感情、そして、それらに基づいた行為、振る舞いには間違いが多々ある。例えば、人と人の対立や争い、国と国の戦争などを考えると、とてもそれらは仏性の現れとは言えないというわけですね。

でも、それらもすべて仏性の現れなのです。この世界、この大宇宙のすべてのものは仏性の現れだからです。人間について言えば、人間は仏性によってわざわざ間違いを犯すように創られているのです。
なんで? そんなものが「仏性の現れ」とはとても言えないのでは?と思うでしょうね。でも、それこそが仏性の現れの証拠と言ってもよいのです。

地球上の数多くの種類の生物の中で、なぜ人間だけが全体の調和からは逸脱して、自分を苦しめ他を苦しめているのか? 仏性によってなぜそのように創られているのか?

はっきり、言いましょう。それは仏性がこの世界において「自分が何ものであるかを自覚した存在」を創りたかったからです。つまり、この世界において、まず無生物は自覚することはできません。そして、植物や微生物も自覚することはできません。また、本能だけで生きて、常に大自然や他の存在と調和して、過ちを犯すこともなく生きているすべての動物たちも自覚することはできません。しょっちゅうアタマに頼って、判断を迷って、他の存在との調和を乱してしまう人間だけが「どうして生きるのがこんなに苦しいのだろうか?なぜ、いつも楽しく快適に、みんなと仲良く調和して生きられないのだろうか? 本当は自分はどう生きればよいのだろうか? どう生きれば本当に幸せになれるのだろうか?」と考えるのです。そうして、多くの人は必然的に次の疑問にぶち当たるのです。

そもそも、自分とはなんだろう?この世界って何だろう?

つまり、人間はもともと迷うように創られているのです。そして、人間は迷うことによって存在の真実、真実の自己を求め始め、そして、ついには、自分とは何か?ということを自覚するように創られているのです。

ですから、私たちにとっては迷うことは苦しみですが、苦しいからこそ、「なぜ、こんなに苦しいのだろうか?」とその原因を突き止めようとし、ついには「自分とは何か?」という問いにぶち当たり、それを突き抜けて存在の真実を悟った時に、ついには、「自分自身の正体」に気づくというわけです。

ですから、自分自身の苦しみ、世界の苦しみには大きな意味があるのです。苦しみ自体は何としても乗り越えなければならないのですが、それを突き抜けたところに、真のいのちの悦びがあるのです。その悦びをすべての人間に味わってほしいというのが仏性のハタラキなのです。

ですから、そのゴールに至る過程の中で、起きている現象の表面だけを見て、仏性の現れだったらこんな苦しみやデタラメは起こるはずがない、つまり、すべてが仏性の現れだとすれば、人間のすべての思考や感情や行為も調和しているはずだ、と思うのは見方が浅いのです。

逆に言えば、私たちはそのゴールに向かっているということを自覚して、大きな安らぎの中で、一瞬一瞬、すべてのことに対応してゆけばよいのです。

人は迷っては悟り また迷っては悟っていくのである。(道元)

迷いっぱなしではダメだけどね。(昇平)





悟りメモ 心身脱落について

悟りメモ 心身脱落について

前置き
庭やその他公園や山などどこかに生えている木々は自分の力で根から水を吸っているのでしょうか?
植物が葉っぱで光合成をする力、能力はそもそもどこから生まれたのでしょうか?
この地球に海が在ったり、雨が降ったりする力、ハタラキはそもそもどこから生まれたのでしょうか?
大自然の景色は誰が作り出したのでしょうか?
えっ!!? 神様ですか? それとも仏様でしょうか? 
仏教では「仏性」あるいは「仏の力」などと呼んでいるようですね。

さて、ここで心臓の上に手を当ててみましょう。
心臓が鼓動しているのがわかりますね?
では、誰が心臓を動かしているのですか?
心臓が動いているのはあなたの意志の力によるのですか?
というか、何が心臓を動かしているのでしょうか? 大自然の力? 大宇宙の力?

次にお腹に手を当ててください。呼吸していますね。
では、誰が、何が呼吸しているのですか? 
肺を動かして息を吸ったり吐いたりしているのはあなたの意志の力によってなのですか?
何の力で呼吸しているのですか? 大自然の力? 大宇宙の力?

食べたものを消化しているのはあなたの力ですか?
というか、あなたの意志によるのですか?
何の力で食べ物を消化しているのですか? 大自然の力? 大宇宙の力? みんなの力?
アマゾン川は? プーチンは?
空を飛んでいるカラスは? 地球の裏側に住んでいる人は? 太陽は?
月は? 火星は? 天の川は? 宇宙のどこかにいる宇宙人は? ネズミは? ネコは?

あなたが生まれたのは、そして、生きているのはあなたの力によってですか? 
そうではないですね。
では、その力はもともとどこから来たのですか?

道元 鎌倉時代 1200-1253年 26歳
少年のころからの疑問「人にはもともと仏性が備わっていると聞いている。なのに、なぜ修行が必要なのか?」 比叡山に行くが誰に訊いても満足できる答えは返ってこなかった。
失意の中比叡山を去る
正解は、「我々はもともと仏だからこそ修行ができるのである」 しかし、それがどうしてもわからなかった。
つまり、只管打坐(ひたすら坐禅をする。その姿こそが仏であり、悟りである)がこの段階ではまったくわかっていない。

心身脱落 
そこで中国に留学 宋の時代 1225年 天童山 如浄禅師
早朝坐禅 みんなで坐禅をしていると、一人の雲水が居眠り
如浄禅師が大きな声で叱った。「参禅は心身脱落でなければならない。であるのに、ひたすら居眠りするとは何事か!」
その瞬間道元は悟った。心身脱落したのである。
その後如浄禅師に「心身脱落しました」と報告すると、如浄禅師はその大悟を認めた。

道元は「これは釈迦の悟りと同じである。一生の参学が終わった。これ以上仏教について学ぶことは何もない。ただ悟ったことを実践するだけである」と書いている。

釈迦の悟り
釈迦は生まれてから数日後に「天上天下唯我独尊」、文字通りに解釈すれば「この世界で自分だけが尊い」と言ったそうだが、意訳すれば「この世界には一人の存在、自分しかいない」とも解釈できる。
釈迦は苦行6年の末、悟りを得ることが出来ず、ある明け方明けの明星を見た時に大悟したと言われる。
その時釈迦は「山川草木悉く成道す。我一切衆生と共に成道す」と言ったそうである。その意味はこの世界のすべては仏性(“いのち”)の顕れである。この自分もすべての存在と同様に仏性の現われだ。」ということである。
釈迦は最初に明けの明星や山や川や草や木などの外界の事物を見て、それが仏性の現われだということに気づいた。そして、次に自分を見て、この自分の心身も同じだ、すなわち、仏性の現われだということに気づいたのである。

へ~え、でも、釈迦の悟りがそんな単純なことであるはずがないと思う人もいるだろうが、真実はそれほど単純なのだ。単純だからこそ、人は逆に真実はもっと複雑で深いものに違いないという思いから、この単純な存在の真実を見失いがちになるのである。

道元と釈迦の悟りは同じ
道元は自分の悟りは釈迦の悟りと同じであると言った。それが「心身脱落」ということばである。すなわち、すべての存在はひとつの仏性の顕れであり不可分一体である。したがって、本来、これが自分の心身だ、あれが彼の心身だというものはない。言い換えれば、これが自分の心身、あれが彼の心身として他から切り離して所有することはできないのである。つまり、すべての存在はもともと、“あるがままで”心身脱落しているのである。すべては不可分一体で、その時々にあるがままにあるだけである。

人間ももともと心身脱落しているのだが、アタマが邪魔してその思考や行動が心身脱落、あるいは、不可分一体という存在の真実から逸脱する。すなわち、迷いである。そこで、心身を坐る姿勢に任せて、すなわち、(意識的に)心身を脱落させ、思いを手放しにして坐る只管打坐の重要性を主張したのである。すなわち、只管に坐禅をする時、人は心身脱落しているのである。

自覚のセミナーによる存在の真実の悟りは、表現の仕方は異なるところがあったとしても、釈迦や道元の悟りと同じである。

道元は次のように言っている。
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。

道元は釈迦と同じように、まず最初に外界のいろいろな事物を見て、それはすべて“あるがままで“仏性の現われだということに気づいた。そして、次にこの心身すなわち自分を見て、この自分というもの、この体も心も”あるがままで”仏性の現われだということに気づいたのである。
言い換えれば、今まで自分の体であり自分の心と思ってきたものも、真実は、自分のものではない、ということに気づいたのである。それを道元は「心身が脱落した、あるいは、心身が脱落している」と表現したのである。これは心身が視覚的に消えてしまったとか、外界に溶け込んだという意味ではない。

道元はその後まもなくして日本に帰った。その時のことを次のように書いている。
「ただちに眼横鼻直、眼は横に、鼻は直(たて)であることを悟って、空手(手ぶら」で故郷に帰った。だから従来の仏法なんかこれっぽっちも持って帰らなかった」と言っている。
その意味は、「すべてのものは、ただ、あるがままで、仏性というひとつのものの顕れであり、あるがままで完璧である」ということである。
これは従来わたしたちが考えている仏法というものを否定しているのである。

では、あらためて、心身脱落とはどういうことか?
この心身も、外界のすべてのものと同様に、ひとつの仏性の顕れである。したがって、もともと自分の心身など存在しないのである。もともと心身はあるがままで脱落しているという真実に気づくことを“心身脱落“と言ったのである。

道元の言葉 彼が書いた『現成公案』より
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(自己を忘れるというのは、自己はすべての存在と同じ “いのち”だと気づくことである。)

万法に証せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。
(自己がすべての存在と同じだと気づけば、これが自分の心身とかあの人の心身などという考えもなくなってしまうのである。)

道元の説く仏とは、
朝は太陽が東から登り、夕方になれば西に沈む、日中は鳥がさえずり、遠くに飛んでいく。山には雲がかかっている。雲が晴れれば山がくっきりと見える。庭の花が咲くのも、木の実が木から落ちるのも、われわれが呼吸をするのも、朝めざめるのも、夜眠るのも、すなわち一切の諸現象や存在、さらには自己の感情や思考、そして肉体の一切のハタラキも仏性の現われ、ハタラキなのである。このようにこの世界はすべて仏性(“いのち”)が現れたものである。

何度も繰り返すが、この心身もそのままでこの世界のすべてと同様に仏性(“いのち”)の顕れである。したがって、心身というものが他と切り離されて独立して存在しているのではない。すべては不可分一体でただひとつのものがあるだけである。だから、自分というものもない。これが心身脱落の意味である。

このように、道元が体験した心身脱落というのは、何かで興奮のあまり、あるいは、マントラのようなある言葉に集中するあまり、たとえば、心身が突然消えてしまったかのような感覚になったりする異常心理による錯覚や脳内現象に起因する神秘体験ではないのである。

その時道元のアタマは非常に冷静だったのだと思われる。その冷静さの中で、これは自分のもの、あれは外界のものなどとの区別するアタマのハタラキ、あるいは、気持ちが消えてしまって、物事がただありのままに見えたのだ。
それで、この心身も外界のいろいろなものと同じように仏性の現われだということが、先に説明した釈迦の悟りと同様に素直に見えたのである。

釈迦や道元の体験は、人間の陥りやすい観念や思い込みから脱して、当たり前のことが当たり前に見えたということである。そのものがそのものとして、あるがままに見えたということである。

しかし、我々はそれをただ観念的に理解するだけであれば、何の意味もないし、かえって実物を見失ってしまう。そういう意味で、日常において、実修をすることが肝要である。それが只管打坐である。

しかしながら、ただ訳も分からずに、「ただ坐ればよい」ということも間違いである。それはただの思い込みに陥っているだけだからである。私たちは道元や釈迦が言っていることをキチンと理解した上で、只管打坐しなければならない。

ところで、ある心理状態においては、感覚的にこの心身と外界のいろいろなものとの境目が消えるというか、はっきり認識できなくなると、この心身がまわりのすべて、外界に溶け込んでしまったかのように感じることはありうる。

事実道元について本を書いているある人は「心身が外界に溶け込んでしまうことが道元の心身脱落だ」という人もいる。この心身をも含めてこの世界の一切のものが仏性の現われであるという意味ではそのように言えるかもしれないが、「視覚的に心身が外界に溶け込んだ」ということであれば、自分はいくらか否定的である。

空の瞑想の実習
しかし、ここで念のために「空の瞑想」を実習しよう。しかし、あくまで、先に説明した心身脱落の意味を理知的にきちんと捉えることがポイントである。

空の瞑想 
胸の中心にあるツボ膻中(だんちゅう)で「リーン」という音を共鳴させるだけ。
そうすると、体と外界の境目が消えて、体が外界に溶けてしまうような感覚になる。

自覚のセミナー
  すべては不可分一体 
形姿は異なるように見えるが物そのものは、ただ、それだけ。
所有無し 好き嫌いなし
  好悪なし 差別なし 善悪なし 
心身=自分? 自分というものはない 
ただ「自分」と思う仕組みがあるだけ
この心身は外界のすべてのものと同じように誰のものでもない
自分のものでもない。 外界のものとなんら区別はない 
それがわかると心身あるいは自分は外界に溶け込んでしまう

ただ、思い、アタマは二元相対、バラバラ観に陥りやすく、不可分一体の存在の真実から逸脱しがちである。そこで、思いを手放し、手放ししながら坐禅の姿勢に任せていることが非常に大切である。ただ思いを手放し手放し坐っていれば、そこに本来の在り方、つまり、仏としての姿が現成する。それを重ねていると、坐っていない時でも、不可分一体の真実に沿った生き方になっていくのである。




いのちの塾メモ

いのちの塾メモ

1 まず、何があろうと、グジュグジュせずに、いつも明るく楽しく前向きに生きようと心の底から決断する。
2 幸せの対象を自分個人や自分の家族に限定しないで、すべての人の幸せのために全力で生きようと心の底から決断する。

この1と2の決断が生きていくうえで最も大切である。

3 1と2の決断に立って、自分自身を日々楽しくトレーニングしながら具体的に実践する。

4 具体的な実践としては、人と仲良くなること。人に親切にすること。困っている人を個人的にあるいはグループとして助けることなどがあるが、最も大切なことは、自分だけが頑張るというだけでなく、いろいろな方法を活用して、すべての人がそのような人になるように働きかけることである。その中でも現在考えるもっとも効果的な方法の一つは整体ライフスクールと自覚のセミナーに参加してもらうように働きかけることである。

5 もう一つはネホサの考え方をいろいろな方法を駆使してみんなで広めていくことである。

6 4や5と並行して大切なことは、自分自身を日々楽しくトレーニングすることである。それを具体的に述べていこう。

7 まず「いのちの瞑想」を毎日やる。すべての中に“いのち”を観る。一つ一つのものが姿形は異なっていても、すべて同じ一つの“いのち”であることを観る。自分自身が“いのち”であることを観る。静寂で透明。しかし、無機的な冷たく死んだものではない。躍動する、あるいは、静かな力強い“いのち”を感得するのである。

次にこの世界のすべてが同じ一つの“いのち”であり、一つの大きな生命体であることを観る。自分を含めてそれぞれのものに姿形は異なってはいても、“いのち”のレベルでどこにも境目がないこと。最初は動物や植物がやりやすい。次に山々、野原、川、海、空や雲、風、空気、水、太陽、星、月など大自然、大宇宙が同じ一つン“いのち”であることを感じる。
どこでも、いつでもできる。目を開けてやる。一日に何回でも。

8 自然一体感を感じる気持ちの良い音楽を聴く。
9 テレビ、新聞などで暗いニュースは見ない。たとえば、殺人、汚職、ゴシップなど。芸能関係もダメ。明るいニュースはOK。 
10 ネガティブな話はしない ネガティブなことは考えない。それらは潜在意識に入って自分や人をネガティブにする。
11 ネガティブな感情が出てくるたびに、自分はこんなイヤな気持ちになるために生まれてきたのではないとサッと明るい方向に気持ちを転換する。
12 人の悪口は言わない。愚痴を言わない。
13 明るい言動を心掛ける。ありがとう。嬉しいです。楽しいです。頑張ってください。
14 積極的に考え、行動する。いずれも自分と人の潜在意識に入る。
15 特別のことをしなくても、いつもどこでもだれとでも楽しく仲良くし楽しむ。
16 消極的な言葉を使ったら、すぐに積極的な言葉に切り替える。
17 以前なら大変な状況にあるように思うような場合にでも、発想を変えて逆にそのメリットなどを考える。
18 過剰な心配や取り越し苦労しない。
19 心配したり考えても意味のないことを考えない。
20 自分で墓穴を掘るようなことはしない。
21 ネガティブな考えや感情を治そうとするより、ポジティブに考え行動する。
22 ネガテイブな感情が出たら、グズグズしないで、一瞬で切り捨てる。
23 「自分はこうなりたい」と思うよりも「自分はこうなる!」と思う。もし違和感がなければ「自分はこうなった」と過去形で自分にすっきりと宣言する。
24 自分が生きていること、すべてのことを天に感謝する。いつも繰り返す。
25 騙されたつもりで、愚直に実行する。
26 いつも笑顔でいる。今を微笑む。人と会っている時。一人でいるときも。
27 毎日鏡を見て笑う。最低1分間。継続は力なり。
28 くよくよしているより、楽しく笑って生きる方が楽しいことを知って実行する。
29 腹を立てるより、楽しく笑って生きる方が楽しいことを知って実行する。
30 悲しんでいるより、楽しく笑って生きる方が楽しいことを知って実行する。
31 すべて天に任せて、すっきりと楽しくやることをやる。生ききる。
32 真心全開で生きる。無理はしない。


*バラバラ観の中ではプラス思考してもそれは一時的な幸福感にすぎず、真の幸福は達成できない。真の友達もできない。本当に仲良くはなれない。

*一体観 アタマだけで理解しても、その気になっているだけで、それではダメ。実際にそれに沿って行動し振る舞うことによって体得できる。

*人の話を自分自身のことのように聞く。
* 人を裁かない。人を罰しない。
* まずほめる。心が開いたところで注意する。
* 人を大切にする。自分自身のように。自分だと思って。
* 人を優しく励ます。
* 人には親切にする。
* 人には常に笑顔で接する。
* 人は自分の家族だと思って接する。
* 人に自分もそうなりたいと思われるような人になる。なりきる。
* 人に他人意識をみじんも持たない。
* まず相手の話を聞き届ける。
* よいことを思っていると、善いことが巡ってくる。
* 気がついたら笑顔をつくる。そうしていると自然に笑顔が出てくるようになる。
* 自分の人生は自分が思うようになる。自分の運命は自分が作っている。
* マネでも極致に達すると本物になる。
* 自分で生きているつもりで、実は生かされていることに気づく。
* 自分にできることは全体の1パーセントにも満たない。生活のほとんどすべては自分以外のものや動物、植物、大自然によってもたらされている。それをどう生かすかが自分のやるべきことである。

* 病気の人は健康な人のようにふるまう。貧乏な人はお金があるような気持ちで生きる。
* いつも心の中で「自分は人の何倍も幸福だ」と言い切る。
* もらう生き方から与える生き方に転換する。
* ケチな人生とは決別する。
* 理屈の人でなく、真心の人となる。
* 人に親切にし、その人が喜ぶのを自分の喜びとする。それが真の喜び。
* Take and take でなく、give and takeでもなく、give and give に徹して生きる
* なんでもいいからほめてあげる。
* 知恵でも知識でも情報でもなんでも提供する。
* 人と話すときは気持ちのいいことだけを話す。例えば、今日はいい天気だねえ!と。
* 心配、悲しみ、怒りなどが出ても、余裕で瞬間的に心を転換する。
* 仕事や教育を含め日常生活レベルでは、人の指導は長所進展法で行く。短所には触れない。
* けじめを付ける。先延ばしをしない。期限を決めてキチンと返事をする。
* 間違っていたと思ったら、すっきり認める。これがカッコイイということだ。
* 部屋や仕事場をキチンと片付ける。
* 自覚のセミナーは困っている人だけではなく、むしろ、いろんな面でできている人に勧める。整体のセミナーは体の具合が悪い人だけでなく、むしろ健康な人に勧める。

結局、何が問われているのか?
それは、アタマでどんなことを思っても、口で何を言っても、自分がよいと思って何年も受講している整体ライフスクールや自覚のセミナーに自分の家族は当然のことだが、それ以外の人をどんどん参加するようにすることができなければ、自分の本質は何も変わっていないということだ。





生き方の基本

生き方の基本

本能とは無数の成功体験の集積
 野生の動物は、すべて本能に従って動き、循環し、関連しあって自然と調和して生きています。それは本能によって自然の法則にしたがって生きているからです。本能は何十万年、何百万年、何千万年、さらに、何億万年の進化の歴史を通じて、無限回とも言える試行錯誤により、個と種の生き残りと繁栄のためのよりよい成功体験を積み重ねて、遺伝的に獲得・蓄積してきた最高の能力です。

 ですから、野性の動物は本能にしたがって行動し生活すれば、それがすべて自然の法則に沿った調和したものになるので、怪我や細菌による感染、あるいは食糧不足による身体の衰弱などを除いて、体の働きが異常になることがないのです。つまり、野生の動物は、基本的には、事故によるケガを除けば、病気にはなりません。

人間はアタマで生きる
 それに対して人間にはアタマ(発達した大脳)が備わっています。他の動物と異なって、人間の特性はアタマで考えることができるということです。しかしながら、アタマの判断能力は生きることの基本的な分野では本能に比べると非常に貧弱であると言えましょう。アタマによる判断能力にはせいぜい長くても数百万年の体験の蓄積しかありません。

 一方、前述のように、本能は地球上に生物が発生以来約10億年の成功体験が集積そして凝縮されたものです。例えば、動物の生存に不可欠な食物について考えてみましょう。野生の動物は本能にしたがって、好きなものを好きなだけ食べます。自分の体に合うものはよい味、好きなものと感じます。反対に体に合わないものはまずい味、嫌な臭いと感じます。それが本能の働きです。そして、本能の働きにより、必要量を食べると自然に満足して、それ以上食べるのをやめるのです。

野生動物に肥満はない
 したがって、野生の動物は体に合わないものを食べるということはなく、また、食べ過ぎということもありません。当然、野生の動物には肥満はありません。カバが太っていると思うのは、それを鹿などの別の種と比べるからそう思うのです。カバはその体つきが生存に適しているので、種として本来的に肥満しているのではありません。カバはその体つきがそのままで標準であり、同じ種の中に標準を超えて、異常に肥満したカバはいません。

人間に適した食べ物
 それに対して、人間は多くの場合何らかの知識や経験などに基づいて、食べ物の種類や量や食べる回数も、アタマで考えて決めることが多いのです。その結果、多くの場合食べ過ぎになっています。

 人間も本能にしたがえば、本来、肉や乳製品などはそれほど多くは食べないはずなのです。例えば、人間の歯は堅い生肉を噛み切るにはあまり適していません。人間が火を使用し、肉を焼いたり煮たりして軟らかくする技術を開発するまでの人間、あるいは、その先祖である類人猿の一種であった数百万年の間、他の動物の肉を食べることはあったとしても、主食は木の実や果物、木の葉のようなものだったと推測されます。

ネコと人間の違い
 また、本来は純然たる肉食動物であるネコなどを観察していると、チョコチョコ動く小動物が近くに来ると、本能的に彼らは興奮してその小動物の動きを眼で追いかけ、相手の隙をねらって飛び掛ろうとしています。

 それに対して、私たち人間は牧場の近くを散歩している時に、子ヤギなどが近づいてきても、一般には「可愛い」と思うことはあっても、「これは美味しそうだ」などと思うことはありません。ましてや、よほどの飢餓状態に直面しているのならともかく、通常の場合には、跳びかかって捕まえてやろうという衝動が本能的に湧き上がってくるようなことはないでしょう。

 これらは一例に過ぎません。もちろん、人間は肉を焼いたり、煮たりして軟らかくし、生肉のまずい味を隠すためによい香りや味を持つ野菜や果物のジュースや塩などの調味料を加え、肉を「美味しく」食べることはできます。それが、体に本当に適しているかどうかは別として、人間の食材の範囲を広め、食生活や食文化を豊かにし人間の生存を容易にし、その生息地域を飛躍的に拡大させたことは事実です。しかしながら、火に掛けたり、他の匂いや味のよい野菜や果物などと混ぜて調理しなければ、美味しく食べられないということは、肉は本来的には人間にはそれほど適した食べ物であるとは言えないということではないでしょうか。

ミルクはよい食べ物か
 乳製品はどうでしょう。動物のミルクはその種によって成分が異なります。人間の赤ちゃんには人間のお母さんのミルクが適しています。ウシの赤ちゃんにはウシのお母さんのミルクが適しているのです。
 その意味では、人間の赤ちゃんにウシのミルクを与えるのは問題があるといえるのではないでしょうか。ましてや、哺乳類は生まれてからある一定の年月が経過すると自然に離乳します。母親のミルクを必要としなくなるのです。

 哺乳類は大きくなれば自分で食べ物を捕って食べるようになります。ところが、多くの人間は大きくなってからもミルクを飲みます。それも自分のお母さんのミルクでなく、ウシのお母さんのミルクをです。何か変ではありませんか。

 ウシのミルクに人間にとっても栄養になるものが含まれているのは事実でしょうが、ウシのミルクには赤ちゃんウシにとって必要な成分が凝縮されています。ウシのミルクは人間の大人にとっても本当によい食べ物なのでしょうか。人間の大人はウシの赤ちゃん用のミルクを奪って飲んでいるわけですが、大人のウシでさえ牛乳なんか飲みません。

人間の体に適した食べ物
 では、人間の体にとってもっとも適した食べ物とはどんなものでしょうか。それは基本的には、焼いたり煮たりなどすることなく、生のままで、他のいかなるものとも混ぜないにもかかわらず、そのままで香りがよく、美味しいもの、ということになります。

 これは現代の多くの人びとの常識とはかなりかけ離れた考え方かもしれません。しかし、人間の体の自然とは何かという視点に立てば、決してとっぴな考えではありません。私たち人間の先祖は数百万年の長い年月、自然が与えてくれた最高の能力である本能に基づき、生のままで匂いがよく、味のよい食べ物を選んで食べながら生き抜いてきたのです。
 したがって、人間の体の構造はそのような食べ物に適応するようにできています。その後人間はいろいろの調理法を開発し食材などの範囲を広げてはきましたが、その歴史はせいぜい数万年というところでしょう。人間の体が新しい食物に充分適応しているとは言えません。

なぜ食べ過ぎるか
 多くの場合、人間はアタマの判断や知識に基づいて食べ物を選び食べます。本能にしたがえば、体に合うものを食べるので、ちょうどいいところ(比較的に少量)で満足して、食べるのを止めるはずなのです。

 ところが、アタマの判断や知識で食べているために、体に本当に合うもの(好きなもの)を食べないことが多いので、いくら食べても、本当には満足できません。それで、満足を得ようとして、もっともっと食べないではいられないのです。そのために、ついつい食べすぎになってしまうのです。

体の異常は不自然な生活から
 また、現代の生活ではあまり歩いたりすることがなくなりました。歩くことによって人間の体は自然にバランスなどが調整されるのですが、その自然の調整がうまく出来ません。
 また、運動不足になるので、仕事の後運動ジムなどに通っている人も多いようです。野生の動物はジムなどに通わなくても運動不足になることはありません。

 このような例は人間の生活のあらゆる場面に見られるのではないでしょうか。つまり、人間はアタマで判断するため、自然の法則から外れ、生活が不自然になり、そのために体が異常になるのです。ということは、原則的には、体の異常は生活を自然の生活に即して正し、自然の生命力(本能)に任せれば治るということです。





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