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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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大いなる働き

大いなる働き

『今週のことば』青山俊薫 
(東京新聞2021年10月12日火曜日掲載)

「釈尊は2500年前に直感でこの天地の働きに気付かれた。これをサムシング・グレートと呼んでいる。」「科学者に聞く(5)村上和雄」

釈尊の教えは一言でいえば「縁起」といってよいであろう。世間でいう「縁起が良いとか悪い」という、そんな意味のものではない。地上の一切の存在が、互いに関わり合い、助けあいながら存在している、ということである。

縁起の教えはよく「網珠(もうじゅ)」などに譬(たと)えられる。天地いっぱいに張りめぐらされた網の結び目の一つ一つに珠玉があり、それが互いに映じ、映じた珠がまた映ずるというように、重々無尽に交渉しあう姿に、この地上の一切の存在のありようを譬えたものである。一つ一つの珠、それが具体的には人間の一人一人であったり、動物であったり草木であったりする。

村上和雄先生(分子生物学)は「この働きを釈尊は直感で覚(さと)られた」と語り、英語圏の人などにも理解してほしい願いから、サムシング・グレート(大いなる働き)と表現したと語る。(愛知専門尼僧堂長)


昇平の注釈
僕は青山俊薫先生には直接お目にかかったことはないけれども、50年ほど前に柏樹社から発行されていた『まみず』に度々寄稿されていました。僕は先生の文章を読むたびに、まさに、お名前が表わしているとおりのお方だなあと感じていました。この度、再び先生の文章に接して、その思いを新たにしました。

この「網珠」というのは以前みなさんに紹介した司馬遼太郎氏が書かれた『華厳をめぐる話』(中公文庫『十六の話』の中の一話)の華厳(けごん)思想と同じだと考えてよいと思います。そこで、参考までに、以下に、あらためて、その箇所を掲載する次第です。

ただ、どうしても付け加えておきたいことは、ただ、アタマだけで「すべてが繋がっている」と理解して、満足してはいけないということです。

本当に「すべてが繋がっている」ということを理解したのであれば、そこから、溢れんばかりにすべての存在に対する親愛の情に満たされ、この世で苦しんでいるすべての存在に対する思いやりと慈しみの心が湧き上がり、それが惜しみなく実際の行動、ハタラキになって現れなければならないのです。

もし、そうでないとすれば、ただアタマでそう思って満足しているという、それこそどうしようもない人たちの一人だということです。かけがえのない人生をそんなつまらない生き方をしてあなたは満足ですか?


*****
華厳をめぐる話
司馬遼太郎

さて、于闐国のことどもから、書きはじめたい。まず于闐国をうるおす水が、南方の崑崙(こんろん)山脈の雪解け水であることが感動的だった。私がこの地を訪れたのは、昭和五十二年の夏だった。岸辺にポプラの植わった灌漑用の運河があり、その水辺に降りて手をひたすと、水は冬の鉄のようにつめたく、色までが黒がね色に流れていた。(中略)

私はこの地にきたとき、一歩ごと、華厳を感ずるような瞬間をもった。『華厳経』がたしかにここでうまれたという、実証を超えた感動も覚えた。大砂漠と、太陽のはげしさとブドウ棚と吹きわたってくる涼風とそれに運河の水、さらには人や生物の営みをみていて、つい華厳ふうに感じざるをえなかった。この地でさまざまな“因縁”(関係性)が構成され、それが“縁起”になって、オアシスの安全という“因果”をうんでいるのである。

華厳思想にあっては一切の現象は孤立しない。孤立せる現象など、この宇宙に存在しないという。一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にあるとするのである。
華厳の用語でいえば、“重々無尽”(じゅうじゅうむじん)ということであり、たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を華厳にあっては“世界”というらしい。

その世界が、唯心的に、つまり、浄められた心で観じられ、巨大な光明として絶対肯定されるときに真理の世界(法界)が生まれるというのが、華厳思想なのである。

これを光明の側から見れば、世界(自然)は、真理(真如)のあらわれとみる。つまりは、真理を得、真理そのものになった存在(毘盧遮那仏・ビルシャナ仏)の側からみるとき、世界はかがやいているらしい。つまり、前掲の無数・無限の関係体が、すべて光を放っているのである。

さらに重ねていうと、それらが刻々動いて変化してやまないながらも、一つとして欠けることなく満ち足り、まったき一体になって融けあっている。そのさまの美しさを法界円融(ほっかいえんゆう)というようである。

私ども凡下の身であっても、これをいきいきと感じ、これを正しく知り、これをほがらかによろこぶ者のみが、光明の世界へ至ることができるというのが華厳思想だと私は理解している。

砂漠は、一粒ずつの砂でできあがっている。その一粒の砂の中にも、生成されたいきさつがあり、またそれが構成されている成分がある。その一粒の砂の内部からたとえばタクラマカン砂漠そのものを感ずることができるし、さらには、宇宙までがその一粒の中に入りこんでいることを知覚することができる。

ときにその砂に崑崙の水が加わると、植物をそだてさせる。さらにはその植物を人や家畜がたべるといったぐあいに、“因縁”が構成され、それが”縁起“をおこし、さらに他の”因果“を生む。重々無尽、事々無礙(じじむげ)。精妙にしてやむことがない。

すこし話が飛ぶが、この地で成立したらしい『華厳経』は、やがて中国にわたり、この経を中心とする華厳宗(宗とは体系のこと)がつくられた。このとき、“一即一切”、“一切即一“(一はすべてであり、すべては一である)という説明のしかたがうまれた。一粒の砂は宇宙そのものである。宇宙はこの一粒の砂である、という言い方は哲学的表現としては、古今まれな絶妙さをもっている。

この国は、いわゆるシルクロードの南道にあったが、いまはまぼろしの国になっている。(以下省略)
*****

以上は司馬遼太郎氏が書かれた『華厳をめぐる話』(中公文庫『十六の話』の一部)を僕が無断で抜粋し、ご紹介するものです。(とても素晴らしいものなので、ぜひ原本を購入してお読みいただければ幸いです。)





スイスイ生きる

スイスイ生きる

先日、ある女性が書いた本を読んでいたら、たまたま、その中に、その女性のお父さんは27歳の時にタバコをやめることを決めた、という一文がありました。その文の後にはそのことについて何も書いてなかったので、きっと、お父さんはその後ずっとタバコを吸わなかったのだということだと思います。

僕自身はアレンカーと同じようにタバコの正体を見破ることにより、タバコを吸いたい気持ちが消えたので、タバコをきっぱりやめることができたのです。しかし、その女性の年齢やお父さんの年齢を考慮に入れると、お父さんはアレンカーの本が出版される以前にタバコをやめたのだと推測できます。だとすれば、これは面白い事例だと言えるのです。というのは、僕はこのお父さんと同じように、ある時、タバコをやめようと決心して、タバコをきっぱりやめて、その後ずっとタバコを吸いたいと思ったことがないという方を和田重正先生をはじめ何人か知っているからです。

この方々に共通しているのは、どのような動機からかはわかりませんが、やめると決めた後は、一切に吸いたい気持ちが出てくることもなく、吸いたい気持ちをガマンすることもなかったということです。

それは、おそらく、やめようと決めた瞬間に、吸いたい気持ちが消えたということだと思います。僕自身がタバコをやめた体験そのものではないのですが、他の何かを決断するといういくつかの体験から、僕にはこのことがよく理解できるのです。

どういうことを言いたいかと言えば、タバコでもお酒でも、その他のことでも、私たちは自分自身の気持ちを、自分自身の決断によってコントロールできるのだ、ということです。

けれども、自分自身にはっきりした確信がない。つまり、決心しようと思うのだけれども、以前にも何かを決心しても、うまくいかないという体験を何回もしてきた。いつも今度こそはと思って決心するのだが、途中で挫折してしまった。このような体験によって、「自分自身の気持ちを、自分自身の決断によってコントロールできるのだ」とは思えなくなっている人が多いのではないでしょうか?

僕自身もそのような体験を繰り返してきましたので、よくわかるのです。やろうと思えば思うほど、うまくいかないのです。でも、このような失敗の根源は、そもそも、決心しても、果たしてうまく行くかということに対して疑問を持っていたことなのです。

ところが、「できる」と思い、そのことに疑問を持たなかった人は、楽々と自分で決断したとおりの結果を得ているのです。ですから、ここでもっとも重要なことは、これまでの失敗はともかく、あらためて「本当は、自分自身の気持ちは、自分自身の決断によってコントロールできるのだ」ということを自分自身に確認することなのです。

そのためには、これまで、自分で「こうしよう」と決めて、そのとおりの結果を収めた自分自身の体験をいろいろと思い出してみることです。そうすると、結構、これまでにも、自分で決めた通りの成果を出した体験がいろいろとあることに気づくことができるでしょう。そういうことを思い出しながら「本当は、自分自身の気持ちは、自分自身の決断によってコントロールできるのだ」ということを自分自身に確認するのです。

要するに、一言で言えば、素直になることです。人にできたことは自分にもできるのです。タバコをやめることについても、お酒をやめることについても、怒らないということについても、その他のことについても、簡単にできたといっても、その人は決して特別な人ではないのです。ただ、たまたま「簡単にできる」ということに疑問を抱かなかったというだけなのです。

ですから、本当はあなたにもできるのです。強い決断力は必要ありません。それが必要だと思うのは、「自分が思ったようにはできないのではないか?」という不信感から出てくるのです。

真実は、誰でも、何でも思うように自分をコントロールできるのです。人生は苦しいものだとか、辛いものだとか、だから、頑張らなくてはなどと思わず、いつでも、明るく、爽やかに、スイスイ決断して生きていくのが本当の生き方です。







存在の明らかな秘密

存在の明らかな秘密

科学者によるとこの大宇宙は百何十億年前にビッグバンと共に始まったと言われます。ビッグバンの前には何もなかったという考えもあるかもしれませんが、無から有は生まれるはずはないので、おそらく、この大宇宙のスケールを考えると、ビッグバンの前には人間には捉えられない無限のエネルギーがあったのだと言えるでしょう。これは現代の先端を行く多くの天文物理学者も異論はないと思います。

その無限のエネルギーを“いのち”と呼びたいと思います。すなわち、この目に見えない一つの“いのち”が顕現したものが私たちの大宇宙だと考えてよいでしょう。この大宇宙はビッグバン以来、素粒子と呼ばれる非常に小さな粒子から、現在のようにいろいろな複雑巨大な物質その他が生成されてきました。

このように、この大宇宙はいろいろバラバラな個としての存在が寄せ集まって構成されているのではなく、この大宇宙はもともと一つの“いのち”が発現したものですから、この大宇宙は一個の存在なのです。そして、この大宇宙は誕生以来、常に、生成発展し続けているので、単なる、物理的な存在というよりも、一個の大きな生きている存在、すなわち、“一個の大きな生命体”であると言ったほうがよりふさわしいでしょう。

この一大生命体である大宇宙には、素粒子、原子、分子というレベルからそれらが結合したいろいろな物質が存在しています。しかし、それらは別々の独立した存在ではありません。あくまで、それらはすべてこの大宇宙という一個の大生命体を構成しているのであって、それらはすべて互いにバラバラではなく、分けることのできない存在、つまり、不可分一体なのです。それは、この大宇宙が一個の存在ということであり、それ以外にはこの世界には独立して存在するものは何もないということです。

重要なことなので繰り返します。この世界には大宇宙という一個の存在しかないのです。では、大宇宙にある? 存在する? たくさんの星は存在ではないのか?と思うかもしれませんね。そうです、それらは一個の存在である大宇宙のすべてに繋がっているある部分でしかなく、独立した個としての存在ではないのです。また、「一つの部分」とさえも言えないのです。

例としては、かえって混乱するかもしれませんが、仮にこの人体を一個の存在だとしましょう。その場合に、例えば、心臓や肺や胃や腸などの臓器、口、目、鼻、血管その他の器官、それらを構成する組織や細胞などはそれぞれ独立した個としての存在、すなわち、個体だと言えますか? 言えません。
全ては、不可分一体なのです。この場合にあるのは、全体としての一個の人体だけです。
つまり、人体はもともと一個の受精卵だったのですから、それがバラバラなものに分解して、それぞれが独立した存在になることはありえないのです。

けれども、その人体そのものが、実は、この大宇宙という一個の存在すべてにつながっており、独立した存在とは言えないのです。

すなわち、この大宇宙には実にさまざまなものがあるように見えながら、それら全部ぶっ続きであり、存在と言えるのはこの大宇宙が一個あるだけなのです。ですから、いわゆる、 “自分“も存在していないということです。そもそも大宇宙以外に独立した存在はないのです。

つまり、それは、“自分“も”あなた“も存在していないということです。言い換えれば、この大宇宙が“自分“であり、この大宇宙が”あなた“なのです。あるいは、“いのち”が“自分“であり、“いのち”が“あなた”ということです。あるいは、“わたし“は”あなた“、”あなた“は”わたし”とも言えるでしょう。

ここで、「波と海」の譬えについて話をしましょう。
まず、形になっていない海が一時的に形になって現れているのが波です。この大宇宙にはいろいろなものが存在している“ように思えます”。たとえば、太陽、月、星々、地球、イヌ、ネコ、鳥など、草花、樹木、家、自動車、雲、海、川、山、雨、雪など、そして、人間、あなた、わたし、などなど。それら形になって現れているのが、あるいは、見えるように現れているのが「波」です。

本当はこの世界には「独立した存在」と言えるものは大宇宙しかありません。しかし、一見、この世界にはいろいろなものが独立して存在しているかのように思えます。つまり、「見かけ上の存在」です。それらの見かけ上の存在が「波」です。そして、形になる、あるいは、見えるようになる以前の“いのち”が「海」です。

簡単に言えば、この大宇宙の中のいろいろなものが波であり、“いのち”が海というわけです。波はもともと海であり、一時的に形があるように見えているだけなので、そのような状態のときでも、ずっと海のままです。それと同じように、この大宇宙に存在しているかのように見えるいろいろなものも、外見はともかく、実は、ずっと“いのち”なのです。そもそも、この大宇宙自体が“いのち”が顕現したものなのですから、当たり前と言えば当たり前です。

要するに、 “いのち”しかないのであり、大宇宙という一個の存在があるだけなのであり、強いて言えば、それが真の自己であるということです。

プリズムに無色透明な光線を通すと赤や黄や青などいろいろな色の光に分かれますが、どんな色の光でももともとは透明な光なのであり、見かけ上、赤や黄や青などの光であるかのように見えているだけなのです。同様に、 “いのち”が見かけ上、いろいろなものがあるように見えているということです。

最後に、和田重正先生も「不思議なガラス板」の中で同じことを言われています。以下、抜粋して掲載します。

・・・・・・・・・・
不思議なガラス板  
  『もう一つの人間観』和田重正著 地湧社 より抜粋

特殊なガラス板が立っている。

その右側からは左側の様子が最大も漏らさず透けて見えるが、左側からは右側の様子は全く見えない。従って、左側にいる人はガラスの向こう側には何もないと思っている。
ところが、実は右側には「意味」の詰まった“いのち“が充満しているのだ。この“いのち“の中からは左側の風景が手に取るようにわかる。

 物の存在の本質と真相は、左側にあってどんなに精密に観察してみても捉え得るところではない。所詮分断孤立を更に再分化するだけで、どこまで行っても不可分一体そのものの証明にはならない。

(中略)
 
 しかし、左側の風景は右側の内容と無関係でないことはもちろんである。

人は、右側の世界に充満している“意味”を五感という特殊ガラスを透して、左側の時間空間の枠に具象化して投影したものを大脳が捉えて、「これは我」「あれは彼」と認めているのである。そして、その風景にのみ関心が集中しているわけだ。

もしこの理を納得したならば、誰でも直ちに右側の大調和の世界を体験し、すべてのこだわりを脱して自由を得るにちがいない。その自由の中でこそ、何億年かけてわれわれが単細胞時代以来の進化の途上で蓄積してきた無量の智慧が、われわれの現実の生活に発動するのである。

五感と大脳という特殊ガラス板を作った造化の妙。

このガラス板成立の進化論的意義を解明する人があるだろうか。―――そこから文明論が展開するのだが。
・・・・・・・・・・

名文ですね!





自分なんてない

自分なんてない

僕のブログを続けて読んだり、自覚のセミナーにも参加したにもかかわらず、この体と心がじぶんではないということが今一つしっくりと腹に落ちないという人は意外に多いようです。

そこで今回は「体と心は自分ではない」ということをはっきりわかるように説明しましょう。
まずは、何回か「川の瞑想」を実行して次のことを確かめてほしいのです。
何を確かめるかというと、川の流れの音が何回か鳴って、川の瞑想が深まってきたら、とくにブザーの直後に思考がほとんどハタライテいない時に、「自分というもの」があるか、「自分という思い」があるかどうかをじっと確かめるのです。

もちろん、その時に「体や心がある」ということはわかるでしょう。しかし、「自分というもの」「自分という思い」はないはずです。つまり、体や心はあったとしても、それがただあるだけです。思考がハタラキはじめて、しばらくして、それを「自分だ」と思うのです。

ということは、「自分」というものは、思考の産物、つまり観念だということです。つまり、思いにすぎないのです。生まれてからいつの間にかこの体と心を「自分」だと思うようになってしまって、それを当たり前だと思い込むようになっただけなのです。

繰り返しますが、体も心もあります。それは事実です。しかし、それだけです。いつのまにか、その体と心に「自分」というラベルを貼って、そのラベルに書いてあることを本当だと思うようになったというわけです。それは世界中のほとんどすべての人が同じようにしているので、それこそ疑おうともしないのです。でも、マチガイはマチガイです。

では、「自分」というのはないのか?と思うでしょう。
真実を言いましょう。
真実は、自分なんてないのです。

「ゲッ! ゲッ!?」と思うかもしれませんが、それが真実です。ブッダが気がついたように、もともと、この大宇宙がひとつの大生命体なのです。、大宇宙というものが1個しかなく、他には何もないのですから、大宇宙も「自分」なんて思わないはずです。自分というのは「他」があってはじめてあるのです。

「でも、この体はあの体とは違うじゃないか」と言う人もいるかもしれませんが、それも思考でラベルを貼っているだけなのです。眼を開けて川の瞑想をやっていると、いろいろなものが見えていますが、思考がほとんど働いていないのでいちいち「それぞれ別々だ」などと認識することもありません。いろいろなものが在るという認識だけで、別々という認識はありません。

そものそも、この世界はいろいろなものがバラバラにあるように見えながら、真実は、すべて不可分一体ですから別々のものなど存在しないのです。ですから、自も他もありません。にもかかわらず、自他があるように思うのは、自他があると思い込んでいるからなのです。

つまり、みんながこの世界はバラバラなものの寄せ集めだと思っているから、自があり他があると思い込んでいるだけなのです。「自他がある」と言うのは、間違った観念なのです。真実は、不可分一体で一つしかないのですから、自他なんかなく、したがって、「自分」もないのです。

自覚のセミナーで検べてわかったように、人間は所有、優劣、差別などの間違った観念を作って、それらをいつの間にか真実だと思い込むようになったのです。そのように、「自分がある。他がある」という自他の観念も真実ではなく、間違っているのです。他の間違っている観念と同じように、みんながそれを疑おうともしないので、みんなが真実だと思い込んでしまうのです。

たとえば、人間の体を考えてみれば、すべてが不可分一体です。その体の一つの臓器、例えば、肺について「肺は心臓や胃腸なんかとは違う別々の存在だ」なんて考えていたら、可笑しなことになってしまうでしょう。

でも、それは一箇の体の部分なのだから当然だ。しかし、この人間とあの人間は違う別々の存在だとは言えるじゃないか、と考える人もいるでしょう。

世間の、いわゆる、常識的観方から言えば、それはいかにも真実らしく思えるかもしれないが、その観方そのものが間違っていることを知らなければなりません。いわゆる、常識的観方自体が間違った観念に基づく観方なのです。

どんな人も、もともと、一つのものから生まれてくるのです。それを「それぞれ別の存在になったのだ」と考えるとしたら、それこそ、「そのように思考した」ということにすぎず、それは真実そのものではありません。

それでもぼんやりしている人は、自覚のセミナーの「一体」のテーマで検べたことをよく思い出してください。

というわけで、この世界には、本来、「自分」なんてないのです。もちろん、「死んでしまう”自分“」なんてもともといないのです。では、何もないのか?と思うかもしれませんが、強いて言えば、「大宇宙のすべてが”自分”である」と言いたいのですが、それは通常の「自他」という意味の“自分“ではありません。そういう意味では、“自分“というより、「真実の自己」と呼んだほうがよいでしょう。

ということで、体と心は自分ではありません。そもそも、自分なんていません。あるのは真実の自己だけで、それはすべて不可分一体の大宇宙そのものです。この世界のすべてが本当の自分ということです。

この小さな体や心が自分だなどと思って生きてゆくよりも、この世界全体が自分だと思って生きてゆけばよいのです。しかも、そのほうが楽な気持ちで生きられるのではないでしょうか。

最後に、「自分」という言葉を使ってはいけないということではないのです。なぜなら生活の上ではとても便利ですから、あくまで、便宜的に、「自分」「他」などという言葉を使うのは大いに結構なことで、何の問題もありません。ただ「自分」「他」などというのは存在の真実ではないことを自覚していさえすればよいのです。

昔、僕のスペインの友人に聞いたのですが、彼の尊敬するマスターは何でも、誰でも、「Nosotros」英語で言えば「We」というので、話を聴いていると、こちらがおかしくなってくると言っていました。(笑)






今こそ人間らしく

今こそ人間らしく

僕は時々自分を含めて人間が生きてゆくということに対してやりきれない気持ちになります。どういうことかと言えば、人間が生きてゆくこと自体が他、特に、他の動物や植物には大きな迷惑をかけているからです。

近頃は世界中で新型コロナが流行って、多くの人が亡くなるなど大変な状況が続いています。それで、とにかくコロナは怖いから、「とにかくワクチンを打たなきゃ」と大騒ぎになっています。

でも、本当に怖いのはコロナなんかではなく、人間ではないでしょうか? どうしてかと言うと、ほとんどの人間は自分たちが生きていくために多くの動物を殺して食べます。ほとんどの人はそれを当然のこととして、「うまい、うまい」と楽しんでいるのですが、殺される動物にとっては、人間ほど恐ろしいものはいないのではないでしょうか?

「人間が食べる動物のほとんどは家畜として人間によって食物を与えられて育つのだから、人間は殺して食べてもいいのだ。それに、人間は動物質を摂らないと健康を維持できない。また、大体彼らには知能がないから、何も感じないんだよ」などという人がいますが、自分がその家畜の一匹だとしたらどう感じるかなど、その家畜の身になって考えたこともないのでしょう。

時々テレビの番組で、例えば、肉牛を飼っている畜産家が牛をなぜたりしながら、「この子はかわいいんですよ」などと言っていますが、どういう神経でそんなことが言えるのかと思ってしまいます。肉牛でなく、乳牛も若い時はミルクを絞られるだけですが、ミルクを出さなくなると、結局は屠殺場で殺されて肉になるのです。

その過程をルポしたある本によれば、トラックで屠殺場に運ばれた牛たちは屠殺される建物の入口が近くなると、本能で何かを感じて異常な感じで鳴き騒ぐのだそうです。そして、最後にはロープか何かで無理やり力づくで引っ張られてゲートをくぐらされ、殺される現場に入ると大騒ぎして暴れるのですが、最後には、巨大なハンマーで頭を割られて死ぬのだそうです。そのようにして殺された牛の体にはかなり有毒な成分が形成されるのではないかと僕は推測するのですが、どうなのでしょうか? でも、多分「検査したけれども、人間に有害なものはない」ということで済まされるのでしょう。

いずれにしても、僕たちが食べている牛肉や豚肉や鶏肉などはこのような過程を経て、僕らの口に入って来るらしいのです。魚類はそこまでのことはなさそうな感じがしますが、人間に殺されて食べられるという点では、牛や豚や鶏などと同じです。

野菜類に関しては、植物ということで、動物のようには感じることはないのかもしれません。けれども、人間がこの地球の生態系を大規模に破壊し続けているということを考えれば、動物、植物、バクテリアやウイルスなどの微生物にとっては人間ほど迷惑で危険な存在はないのではないでしょうか? 

さて、自分自身がその一員であることをどう思いますか? 「そんなことを考えてもどうしようもないじゃないか。人間が生きていくためには、そうするしか仕方がないんだよ」という声があちこちから聞こえてきそうですね。

でも、せめて動物を殺して食べるのはやめて、コメや麦などの穀類、トウモロコシ、ジャガイモなどのイモ類などの野菜類、いろいろな果物類などの植物食だけにすることは可能ではないでしょうか。

現代の科学では、植物を加工して本物の肉とほとんど変わらない人工肉もすでに開発され、販売もされているのです。それらが普及すれば本物の肉類と同じようなところまで値段も下げることはむつかしいことではないはずです。科学というのは、そういう方向で生かしてこそ意味があるのではないでしょうか?それこそが人類の智慧と呼ぶのにふさわしいとは思いませんか?

コロナの話に戻りましょう。
今、そして、これまでも、これからももっとも危険なものは人間なのです。地球の人間以外の動植物、そして、自然環境にとって、人間はそれこそコロナよりも何千倍も危険な存在です。それは他の動植物になって想像してみればすぐにわかることです。彼らにとっては、人間こそが超危険な“ウイルス“であり、新型コロナはその人間という超危険なウイルスを抑え込む非常に効き目のある”ワクチン“と言えるのではないないでしょうか?

僕たち人間はどこかで「万物の霊長だ」などと思い上がっていますが、何かと言えば、他の人と争い、他の動植物をいじめ、地球環境を破壊しまくっている人間たちが何で万物の霊長などとと言えるでしょうか。

この世界で人間ほど罪深い存在はありません。もちろん、僕も含めて、ほとんど例外なしにです。親鸞聖人が自分自身を、そして、人々をみな「悪人」だと言われ、そのままでは絶対に救われることはないと言われたのは、まさに、そういうことでしょう。

だからこそ、コロナ禍の今こそ、私たちは本気で悔い改めなければならないのです。それが出発点です。後は言い訳をしないで、本気で人間らしく生きるということです。





 

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