プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

川の瞑想の最終目的

川の瞑想の最終目的

川の瞑想の第一段階の目的は自分の周りにあるこの現象界の奥に常に変わらない絶対の静寂の世界が存在していることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

第二段階の目的はこの自分と思っているものの奥に常に変わらない絶対の静寂の世界が存在していることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

第三段階の目的は自分の周りにあるこの現象界の奥にある絶対の静寂の世界と自分の奥にある絶対の静寂の世界が別物でなくぶっ続きの一つのものであることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

ここまでの第一段階、第二段階、そして、第三段階までは、自分の外側、あるいは、内側の音や体の感覚や思いなどの現象の奥にある絶対の静寂に”自分“という意識(我)が集中しているという状態で、いわば、”有我一念“の状態です。

そして、第四段階は、有我一念が深まり、音や体の感覚や思いなどとともに“自分“という意識(我)が消えて、“無我一念”の状態にある時に、突然訪れます。それは、努力でなく無意識のうちに絶対の静寂に集中している状態であり、絶対静寂三昧(ざんまい)、”無我無念“の状態です。

別の言葉で言えば、第四段階の目的は”無念無想“、つまり、純粋意識だけがある、心が最高に統一され安定した状態に入ることです。これが川の瞑想の最終目的です。

この状態では、アタマが作り出した”自分“という思いやその他の思いや心配・不安などの雑念に一切妨げられることなく、この大宇宙のすべてを創造し、そのすべてに常に働きかけ、調和させている大宇宙の根源の生命力と智慧、つまり、“いのち“が自分の生命と直結して圧倒的な力で自分の中に入ってくるのです。

この “いのち“こそが大宇宙の、そして、この自分自身の正体なのです。そして、「この自分はこの世界のすべてとぶっ続きの“いのち“である」ことをはっきり体感・体得した時に、心から「生まれてきてよかった!」と思えるのです。

そして、アタマに妨げられることなく、一切の心配や不安、あるいは、雑念から解放されて、大宇宙の根源の生命力と智慧、すなわち、 “いのち”とぶっ続きになるときに、心も体も最高に癒されます。

この状態が野口整体で言う「天心」です。ただ、何も考えないようにしようと、ボーッとしているのが天心ではありません。

野口先生は「雲の上にはいつも青空がある」と言われましたが、本当の天心は「すべて青空。青空っきり」の状態です。それは達磨禅師が言った「廓然無聖(かくねんむしょう)」、つまり、青空のようにからっと澄み切って何もない、(人間がアタマで思うような)聖なるものさえ超越した、“無”、あるいは、”空“と言われる状態です。

つまり、第四段階の目的は自分とこの世界の正体、“いのち“をはっきりと体得することであり、整体的には、天心を体得し、天心三昧の状態で愉気や活元運動をして、心身を常に整体に保つということです。

川の瞑想を必死になってやってほしいと繰り返し言っているのは、みなさんに、ぜひとも、第四段階の目的を達成してほしいからです。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

カント少年の悟り

カント少年の悟り

インマヌエル・カントは18世紀、ドイツが生んだもっとも偉大な哲学者だと言われています。

カントは大学で哲学を学び、深い思索をもとに独自の考えを次々に発表し、有名な大学の総長にもなり、80歳まで生きました。

彼の著書『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』は今日に至るまで西洋哲学全体に大きな影響を及ぼしています。また、彼は当時の不安定な国際状況を憂い、『永遠の平和のために』という本も書いています。

このような彼の経歴を聞くと、ほとんどの人は、カントは裕福な家庭に育ち、アタマがとてもいいだけでなく、健康にも恵まれて丈夫な人だったようなイメージを抱かれるかもしれません。

けれども、カントは小さな村の貧しい馬具職人の四男として生まれ育っただけでなく、体が先天的に変形しており、背中には大きな瘤(こぶ)が載っていました。また、胸の乳と乳の間が6センチぐらいでとても狭く、そのため幼い時からいつも、ぜいぜいと苦しい呼吸し、脈拍もとても速く打っていました。けれども、家が貧しいので医者に診てもらうこともできませんでした。

カントが15,6歳の頃、村に巡回の医者がやってきたので、初めてカントは医者に診てもらうことができました。

医者は丁寧にカントの体を診察した後、カント少年に言いました。

「この体ではいつも苦しくてしかたがないだろう。この体は何をやっても治らないよ。でも、ご両親に苦しい、辛いと言っても、ご両親はただ辛い思いをするだけだ。だから、どんなに体が苦しくても、苦しいとか辛いと言わないようにしてごらん」

医者はさらに続けて言いました。

「確かに、体は治らないかもしれない。でも、君の心は病んでも苦しんでもいないじゃないか。だから、そのことを感謝して毎日を生きていきなさい。」

この言葉によってカント少年の心は180度転換しました。
「お医者さんの言うとおりだ。苦しい、辛いといくら言ってみても、体がよくなるわけではないし、苦しさがなくなるわけではない。よけいに苦しくなるだけだ。それだけでなく、お父さんやお母さんを苦しめ、悲しませる。僕は今までなんという親不孝をしてきたのだろう。本当に申し訳のなかった。」

「これからはどんなに苦しくても、絶対に苦しいとは言わないようにしよう。心は何ともないのだから、その何ともない心でやれることをやっていこう。」

こうして、苦しい中にも勉学に励み、幸いにも、大学にも入って、ついには哲学の分野で偉大なる業績を上げることになったのです。

医者が言ったのは「体は病んでいても、心まで病ませることはない」ということです。しかし、それは単なるプラス思考ではありません。

心はもともと絶対の静寂・透明・空であり、絶対に何ものによっても傷付いたり、汚れたり、病気になったりするものではない、ということです。その真実にカント少年は気がついたのです。そして、この心の真実に立って、カントは生涯明るく積極的に生き切ったのです。

何ごとも心の持ち方一つに掛かっているのです。

掛け替えのない一生をどこまでも明るく、積極的に、みんなと仲良く、本当に幸せに生きるポイントは、まさに、ここにあります。

自分が心の主人公なのです。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

火星は丸かった!

火星は丸かった!

人類で初めて宇宙空間に飛び出したソ連のガガーリンは地球に帰還した時、「地球は青かった!」と言った。

その言葉はメデイアを通して全世界を駆け巡った。多くの人々と同じように、僕もこの地球をこの上なく愛おしく思った。そして、その上に住む生きとし生けるものの幸福と平和を心から祈った。

テレビなどでは、このところ火星の大接近が話題になっている。都会ではどうなのかは分からないが、山の中腹にある我が家からは町の明かりに妨げられることなく、ほとんど毎晩火星をはっきりと見ることが出来る。

たしかに、今までに比べると輝きが一段と大きくなっているようだ。けれども、火星は明るい光を放っているが、「火星大接近」と言っても、僕にとっては夜空に輝く多くの星々と同じように、火星はたんなる光の一点にすぎなかった。

ところが、昨夜家の中に熱気がこもって、あまりにも暑いので、外に出て山の冷気を楽しんでいる時に、東南の夜空に火星が赤っぽい光を放っているのが見えた。その時、たしか我が家のどこかに望遠鏡があったことを思い出した。

「そうだ。あの望遠鏡で見てみよう」と思って、家の中に戻って、書斎の隅のほうにあった望遠鏡を外に持ち出して、早速火星に照準を当てて、レンズを覗き込んだ。

その瞬間、僕は何十年に一度あるかどうかという何とも言えない感動に包まれていた。その時、僕の口から飛び出したのは「火星は丸かったんだ!」という言葉だった。

火星はもはや大きさもない無機質な点ではなく、小さくはあるが、実体のある生きた球体の星であることを理屈や知識としてでなく、自分の眼ではじめて知ることができたのだ。まさに火星は地球に大接近して、その真の姿を私たちに見せてくれたのだ。

そして、その時思ったことは、火星から自分たちが生きている地球を見れば、地球もこの火星と同じように、実体のある生きた丸い小さな星として見えているにちがいない、ということだった。

その時、僕は初めて、自分たちが生きている地球が広大な宇宙の中の一つの星であることを実感することができたのである。

たしかに、これまで度々テレビなどで、宇宙船や月から撮影した地球や火星の写真を見たことはあったが、昨夜は望遠鏡は通したとしても、この自分自身の肉眼で火星の実像をみて、それを実感することができたのである。

こんなことを書けば、天文学者の方々やアマチュアの天文フアンの方々からは、何をいまさら言っているのだと笑われるだろう。しかし、それらの方々も初めて望遠鏡で火星や他の星の姿を認めた時には、僕と同じような感激を味わったにちがいないと思うのである。

それはともかく、今、我が家の外に目の前に見えているこの景色は、もはや、ただの見慣れた景色ではない。僕には、今この瞬間太陽の周りを回っている地球という小さな星の姿として見えるようになった。

それだけに、あらためて、この地球という小さな星に住む生きとし生けるものの永遠の幸福と平和を実現するために微力ながら全力で頑張りたいと思わずにはいられないのだ。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

川の瞑想の実際  その9

川の瞑想の実際  その9
(その8からのつづき)

般若心経に「色即是空 空即是色」という言葉があります。ほとんどの方は、せいぜい、何かありがたい、凡人には計り知れない意味があるのかな、と思うだけで、お経の飾り文句のように感じているのではないかと思います。

仏教にはその教えをあらゆる角度から説明した膨大な量のお経があります。でも、「色即是空 空即是色」というこの言葉こそ仏教の心髄中の心髄であり、これほど、自己の本質と存在の真実を的確に表しているものはありません。

この場合、「色」というのは、直接的には「眼に見えるもの」、「空」は「眼にみえないもの」という意味です。したがって、色即是空は「色は、すなわち、空である」ということで、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないもの」ということになります。空即是色は「眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるもの」ということです。

これはまさに川の瞑想によって体感できる自己の本質と存在の真実に他なりません。川の瞑想では、最初に音を聞き、次に、その音の奥にある静寂の存在を体感します。そして、音は静寂より生まれ、また静寂に戻ることを体感します。それは「音即是寂 寂即是音」、つまり、「音は、すなわち、寂であり、寂は、すなわち、音である」ということです。

川の瞑想では最初は聴覚を通して、「音と静寂の世界」を、次に視覚を通して、「眼に見えるものと眼に見えないもの世界」を体感します。そして、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないものであり、眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるものである」、すなわち。「色即是空 空即是色」を体感するのです。

ついでですが、般若心経のこの文句で使われている「色」は直接的には「眼に見えるもの」、すなわち、「形姿を持って存在するもの」という意味ですが、ここでは、この世界に現れているあらゆる現象や存在(たとえ見えなくても)を表しています。

同様に、「空」は、直接的には、「眼に見えるもの」、すなわち、「姿形を持たないもの」という意味ですが、ここでは、それだけではなく、この世界のあらゆる現象や存在を顕現している、その奥、あるいは、内側にある本質を表しています。ですから、仏教で言う「空」はこれまで僕が使ってきた“いのち”と同じであると言ってもよいのではないかと思います。


このように、川の瞑想は単に「いい気分になって、くつろいで、安らぐ」など、精神を安定させるといったことを目的にしているのではありません。まさに、存在の真実を体感し体得することが目的です。しかも、それが、誰でも簡単にできると言うところが川の瞑想の一大特徴だと言えるでしょう。

そういう意味では、川の瞑想をして心が安らいだ、落ち着いたなどということは同然ありうることではあっても、あくまで副次的な効果にすぎません。このことを肝に銘じて、誤解のないようにしてください。

なお、川の瞑想の実習では、CDの川の流れの音のオン・オフに耳を傾けるとともに、眼を開けて、畳や壁など静止して、音を出していない何か外部のものに眼を合わせてその静寂を聴こうとすると、聴覚的な川の流れのオフ、つまり、静寂と、たとえば、視覚的な畳の静寂が合わさって、より静寂を聞き、見ることができて、はっきり確認することができます。

これを繰り返していると、CDなしでも、眼を、例えば、畳に合わせて、その静寂を見ようとすることによって、畳だけでなく、周りのすべてが静寂そのものであることを体感できるようになります。それに熟達してくれば、CDなしに、ただ周りの音がしていないものに視線を向けるだけで静寂を持続的に体感できるようになります。

そして、それに熟達すれば、音が出ているものを見ても、その奥に静寂を持続的に体感できるようになります。そしてついには、町の真ん中の通りに出て、周りを見ても、騒音の真っただ中で、ずっと静寂の中にいることができるようになります。

そうなると、テレビを見ていても、人と話をしていても、静寂の中にいられるようになります。ですから、心はいつも安定し安らいですっきりしています。これが本当の「平常心」です。日常生活で、いろいろなこと、いろいろな思いに振り回されて、やっさもっさしている心はとても「平常心」とは呼べません。

自分自身を振り返って、何かで心が動揺したり、アタマに来たり、心配性であったり、悲観的であるなど、しょっちゅうマイナス感情に振り回されながら生きているという人はこの川の瞑想を真剣に実践することをお勧めします。とにかく、貴重なかけがえのない人生をそんなつまらないことで自ら粗末にしながら生きていくことほどもったいなく愚かなことはないのですから・・・。

もう一つ、川の瞑想の延長で有効な方法は、川の流れのCDを聞きながら、眼を開けて自分の外を見ると同時に、その逆方向、つまり、自分の眼の奥の奥の方をずーっと見ると言うか、意識するのです。

そこに、何があるでしょうか?視覚的にはそこには何もありません。同時に、聴覚的にも何もありません。まさに、静寂・透明であり、空です。それが自分自身の本体です。それは僕が26歳の時に体験したものです。自分の体の感覚はもちろんあります。思いもあります。目の前のものも見えています。CDの音も聞こえています。でも、自分の体や心の奥には静寂・透明な空があるだけです。なにがあっても、それは絶対に変わるものではありません。

慣れてくると、CDも必要でなくなります。僕がよくやるのは、庭で空を見上げながら、同時に、視線を逆にするような感じで、自分の眼の奥の奥の方を意識することです。そこはいつも絶対の静寂であり、透明な空間です。その透明な空間には枠もありません。なにか、どこまでも透明な枠のないレンズのような感じです。その透明なレンズに外界の空が浮かんで見えています。空に雲や山が見えていると、よりやりやすいと思います。

この実習をやるときは、通りや何かではあぶないので、必ず公園や庭、あるいは、ビルの屋上、海岸、川の土手などで動かないでやってください。僕は、電車で窓側の席に座れた時は、窓から外を見上げながらやっています。そうすると、どのように見えるかというと、静寂で透明なく右である自分の中にすべての存在が入っているように感じます。

日頃の感覚では、自分は小さなアリのように、この広大な世界の中のちっぽけな存在だと感じていませんか? 確かに、広々とした戸外で自分の体とその周りを見ると、そう感じるかもしれません。でも、自分の眼の奥、その奥の自分の本体の中にこの世界、この宇宙全部が入っているのです。本当の自分は宇宙大の大きさなのです。

このシリーズのどこかで、特殊な二つのレンズがついたメガネの話をしましたが、それは以前ブログに書いた、「奇妙なガラス板」とよく似ています。この世界をそのガラスの右側から見ると、みんなバラバラにみえるのですが、左側から見ると、みんな一緒、一つに見えるのです。

私たち人間は肉眼の眼で表面的に見えるバラバラの世界と心の眼で見たこの世界の本質である不可分一体の世界という二重の世界の中で生きているのです。自分というのは個として生きながら、同時に、その本質である、この宇宙をすっぽり包んでしまうほど大きな“いのち“を生きているのです。つまり、別々でいながら、みんな一つという二重の存在性の中で生きているということです。

だから、肉体が死んでもどこにも行きません。いまここにある本質である空、“いのち“の世界から飛び出てどこかに行くわけではありません。簡単に言えば、自分の本質は“いのち“なのですから、どこにも行きようがないのです。だから、肉体が活動している時も”いまここ“にいて、肉体の活動が止んでも”いまここ“にいるのです。つまり、”あの世“というものは”いまここ“にあるのです。

(独り言:愛する人や親しい人がなくなっても、いつまでも嘆き悲しまなくてもいいじゃないか。ふと寂しく思う時もあるかもしれないけれど、死んでもいつも一緒にいるのだから、それで充分じゃないか・・・。)

もう一度、川の瞑想の目標を段階的に説明しましょう。

まず、いろいろな音の奥に静寂があることが分かった。いろいろな音があっても、いろいろな思いは出てきても、ずっと静寂の世界に留まっていることができるようになった。では、その次の段階ではどうするかということです。

それは視覚も使って、もちろん、いろいろなものが見え、音がし、思いや体の感覚がありながら、そのすべての奥に、まず、すべてが完全に静寂であること、次に、自分の内側に視線を向け、自分自身が絶対の静寂であることを体感することです。

そして、次は、外にあるものがすべてその奥は透明で空であること、そして、次に、自分自身が透明で空であることを体感することです。そして、その次の段階はCDなしでそれぞれ体感できるようになることです。

それから、川の瞑想を長時間やっていると、足がしびれてくることがあります。けれども、川の瞑想がきちんとできていれば、足がしびれてもそのまま放っておけば、なんの支障もなく、絶対的な安らぎの中で、快適に川の瞑想を続けることができます。このことがわかれば、一日中でも続けることができるような感じがするでしょう。

これは坐禅でも同じです。足が痛くてガマンできなくなるのは、やり方がまずいのです。足がしびれていても相手にしなければよいのです。アタマの思いも同じです。これが楽にできるようになると、思いも次第に出てこなくなって、心が澄んでくるようになります。この状態ですべてを任せて坐っている状態こそが本当の只管打坐なのだと言えるでしょう。

そういう状態になれば、道元禅師の言われる「心身脱落」と言えるかもしれません。ちなみに、道元禅師は『正法眼蔵』の『現成公案』の巻で次のように言われています。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
(仏道をならふ=存在の真実を究める、自己=真実の自己)
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
(前の自己=真実の自己、後の自己=見かけの自分)
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(自己=見かけの自分、万法=すべての存在)
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
     (自己=自分、他己=他の人、他の自分)  (注釈:昇平)

「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた状態になることです。「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」とは、個としての自分と個としての他というものが消えてなくなって、すべて、宇宙全体が不可分一体であることを体感することです。


最後に一言。この世界は見かけ上のバラバラの個という視点から見ると、本当に苦しいこともありますが、不可分一体の“いのち“という存在の真実の視点から見ると、そのままで「すべてよし」の世界なのです。それを簡単に体感できる川の瞑想は最高だと思います。

(おわり)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

川の瞑想の実際  その8

川の瞑想の実際  その8
(その7からのつづき)

ここで、質問します。「自分とは何ですか?」 しばらく、時間をとりましょう。

(間)

きっと、アタマの中で、「名前」とか、「自分」とか、「いのち」とか、「人間」とか、「日本人」とか、「生物」とか、「動物」とか、いろいろ思い浮かんだでしょう。

たしかに、世間では、一応それで質問に正確に答えたように思われるかもしれませんね。でも、あくまで、「世間では」という注釈が付くんです。でも、そんなものは、ただの一応の約束事で言っているだけです。例えば、「フランスとスペインの間に国境がありますか」というのと同じです。国境があるというのは単なる約束事にしか過ぎなくて、本当は国境なんかどこにもなくて、ぶっ続きなんですね。

そういうふうに人間が観念で約束事としてとりあえず取り決めているのであって、真実そのものではないんです。真理そのものではない。そういうことからいくと、「人間」と答えていても、約束事にしか過ぎない。「いのち」と言っても、それはこのグループだけで通用する約束事にすぎない。実物そのものではない。では「自分とは何か」と追及していくと、言葉では表現できなくなる。言葉というのは単なる、いろいろな約束事とか、言葉で外から規定しているだけで、それでは実物を表現できない。

禅の中でもそういう話があります。ある人が「自分とは何か」と問われ、10年とか20年、それを考えたり坐禅をしたのです。そして、最後に到達した答えは「言葉で表現することはできません。一言でも説明したら実物とは違ったものになってしまいます」というものでした。そういう答えしか出なかったわけです。

で、お師匠さんは「まあ、それでいいよ」と言ったんだけど。「言葉で表現することはできない」というのはただ「わかりません」と言っただけにしか過ぎない。「言葉で表現できるものではない」というそこまでは非常にいいんだけど。

では「何なんだ? 以前は、何でも言葉で説明できるものと君は思っていたね。お経の本を読んで、一生懸命、あれこれとアタマで考えてきたよね。でも、そういうことでは、自分自身はもとより、存在のひとつも捉えることはできない。それがわかったことは素晴らしい」と。でも、話はそこで終わっているのです。

「自分そのもの自体は言葉では規定することはできないんだ」と気が付いたことは素晴らしい。普通はそんなことにも気がついてないんです。「いや、自分は人間ですよ」、「いや、いのちですよ」、「いや、空です」とか、概念をくっつけて、実物自体にただラベルを貼っているだけです。

ラベルはそのものではない。紙に「キュウリ」なんて書いて何かに貼ったら、それがキュウリになるわけではないんです。そもそもラベルはその実物そのものではない。ただの紙です。そういうことにも気がつかずに、みんな、大騒ぎして「ああだこうだ」とやっている。では、そのもの、「それはただそれ」と答えるしかない。

でも、それはある面では答えにもなっていない。「では、何なんだ」。さらに追及していくというところは、その禅の本には出ていないんです。でも、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます。それをどういう言葉で言えば正解になるか。言葉で言ったら実は正解にはならない。ラベルにしか過ぎないから。

みんな言葉で答えられると思っているわけです。そこからもうすでに違っている。では、言葉で言わないでそれを表すにはどうするんだ。なんかテクニックがあるのかな、と、またアタマで答えを出そうとする。だからそういうものは全てアタマの世界のことであって、体得ということと全然違う。

「よっしゃーっ、やるっきゃない!」とキックして、バイクのエンジンをかける。「ブルブルッ」となるんだけど前に進まない。ギアを入れていないからバイクは進まない。一生懸命キックして、エンジンがかかっても、バイクは前に進まない。エンジンが空回りしているだけです。

まあ、言葉でどういうふうに表現しても、僕が禅のお師匠さんだったら「だめ、だめ」と言うんでしょうね。そうするとどんどんどんどん追い込まれていくわけです。後はもう坐るしかないと。もはや言葉ではだめなわけです。どうやるんだと。で、またアタマで考えるわけね。そんなことやっている間はいつまで経ってもだめなんです。だから坐禅で悟るということは非常に難しい。時間もかかります。

そんな世界です。それはそれで一つの文化ではあるかもしれないけども、そんなもので世界は救われない。時間の無駄です。

それを、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます、そのうちに。だから心の宿題にしておけばいいと思います。すぐ「はいそれは私です」とか「いのちです」なんてやるのは、だいたい学校の先生タイプが多いんです。あと坊さん。人に教えるという感じの人。アタマで言葉にすればそれが本物だと思っているんですね。

では、川の瞑想に入ります。

最初は目を開けてやったほうがいいと思います。時々疲れたら目を閉じるけれども、閉じっぱなしというのはあんまりよくないように思います。では入ります。

(川の瞑想開始)

目を半眼にして落とす。

もっときちっとしてね。背筋をまっすぐに伸ばして。静寂に集中する。

はい、静かに体を動かしてください。

(川の瞑想終了)

大変だなと思うのではなく、楽しみにしてください。また違う世界が見えてきます。

普通は、いろいろな音とかなんかあると、その音に気を取られて、そういう聞き方になっているので、音がうるさいなとか、いろいろ思ったりもする。そういう傾向が強いと思います。ところが、聞いているようで聞いてない。どっかでそういう音がしているというのは意識はしているけれども、そこにとらわれてもいない、というふうになっていくと、全然そのうるささみたいなものを感じなくなっていく。そしてその元にある、絶対的な静寂、土台というか土の部分、絶対の静寂は変わらない。しっかり感じられてくる。

今までは、瞑想しなさいとか、したほうがいいよとか、ちゃんとやってくださいと言われて、なんか義務みたいな感覚でやっていた人が多いのではないかと思います。これではだめなんです。苦行になってはダメです。やっていることが心地よくないとダメだと思います。

ちゃんとした瞑想だと、足が痛くても気にならないというか。ただ痛いなと思いながら、支障なく、瞑想が自然に流れていくみたいな感じになっていきます。

非常に心地よさと安定感を感じる。その理由というのは、いちいちいろいろな思いに引きずられない。それから、物音とか、体の痛さとか、そういうものに引きずられない。そういうことも非常に心が楽になるし、何よりも、絶対的な静寂というもの、その中に浸っている。いろいろな物音とか聞こえながらも、絶対的な静寂の中にある。絶対的な静寂の世界というのは、安らぎそのものなんです。気もそうですね、澄んだ気は安らぎです。同じことなんです。

ですから、当然、瞑想をやりたくてしょうがなくなるんです。もういくらでもやっていたい。暇さえあればという感じで、楽しさを感じるようになっていかないと、というか、そういう瞑想でないとだめだなと思います。

その安らぎと安定感はなかなか普段の日常生活の中では感じられない。川の瞑想をやると、こんな楽しい安らいだ世界があるのかと思います。普通は坐禅というと、「きちっとやる、修行でございます」みたいな感じでね。まじめ腐った顔してやっているわけです。それは、それでよいのですが、川の瞑想は苦行になっては、もはや川の瞑想ではありません。

気抜けになるのとは違う。全然違う。気抜けでは本当に楽しめないし、安らぎがない。やっぱり集中してなきゃだめです。その楽しさがあるためには。ボーっとしていたんではただの居眠りになってしまう。だから姿勢はとても大切です。

背骨、それと視線ですね。視線が、気張った感じで目をぱっちりでやるとまずいんです。かと言って、目をボーっとさせているわけではない。空、その静寂に、動かないものにきちっと目が合って、そこの音を聞き取ろうという方向性がないと、気抜けになってしまいます。

今回みなさんだいぶはっきりしたと思います。それが、いつの間にかまたマンネリになっていかないように、いつも真剣勝負、ある面で必死に瞑想をするのです。気張った必死さではなくて、すっきりしたというか。何があって、動じないみたいな、そういうところでの必死ということです。そんなような潔さで、川の瞑想に向かうということです。

(つづく)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

| ホーム |


 ホーム  » 次のページ