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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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不可分一体 一つの証明

不可分一体 一つの証明

まず、1000年以上前、世界のある所に40歳まで生きた一人の人間を想定する。

次に、一人の人間の1日の水の平均的摂取量を
2リットル(2000ml)、つまり、2000立方cm=2X(10の3乗)立法cmと仮定する。

(10の3乗)というのは10を3回掛けること。つまり、
10X10X10ということ。
10の5乗であれば、10X10X10X10X10=100000で、つまり、
1の後に0が5個付く数字。

生きている間にこの人間の体の中を通過した水の量は
(40X365X2000)立方cm、すなわち、(2.92X10の7乗)立法cmとなる。

1立法cmの水は(3.34X10の22乗)個の水の分子を含んでいる
ので、(2.92X10の7乗) X (3.34X10の22乗)個
=(9.75X10の29乗)個の水の分子がこの人間が生きている間に体の中を通過したことになる。

飲んだ水は腸から吸収され、血液と一緒に心臓へ運ばれ、心臓から血液と共に全身の細胞に運ばれる。その後必要なくなった水は尿や汗として体外に排出される。

次に地球上に存在するすべての水の分子の量を概算で求める。

地球上の海の水の量(体積)=海の全面積X海の平均の深さ 
である。

地球の半径=6450km=6450000m=645000000cm
=(6.45X10の8乗)cm とすると、
球の表面積=4X3.14X(半径の2乗) だから、

地球の表面積
=4X3.14X(6.45X10の8乗)X(6.45X10の8乗)平方cm
=(5.22X10の18乗)平方cm となる。

海(大洋)の全面積は地球の表面積の約4分の3 であるから、
海の全面積=3/4X(5.22X10の18乗) 平方cm
=(3.91X10の18乗)平方cm となる。

また、大洋は一番深いところで約10000m、浅いところで
約2000mと考えて、ここでは大洋の平均の深さを4000m
=400000cm=(4X10の5乗)cm と仮定すると、

海の全体積=全面積X深さ
=(3.91X10の18乗)X(4X10の5乗)立法cm
=(1.56X10の24乗)立法cm となる。

1立法cmの水は(3.34X10の22乗)個の水分子でできており、また、陸地の水の量は海の水の量に比べて非常にわずかなので無視して0として計算すると、

地球上に存在するすべての水の分子の個数
=(1.56X10の24乗)X(3.34X10の22乗)個=(5.21X10の46乗)個 となる。

したがって、この地球上に存在する全水の分子(5.21X10の46乗)個
のうち、例の1000年前の人間の体を通過した全水の分子
(9.75X10の29乗)個の占める割合は、
(9.75X10の29乗)/(5.21X10の46乗)=1/(5.3X10の16乗) となる。

この人間の体を通過した(9.75X10の29乗)個の水の分子はほとんどその後海に流れ込み、あるいは、蒸発した後、雨の一部として地上に降った後、小川に流れ込み、最終的に海に入っていったはずである。

海は大小のいろいろな潮の流れや海流によって海水は常にかき混ぜられている。それらの流れは
およそ、1年に1000km=(10の8乗)cm から 
10000km=(10の9乗)cm 流れる。

地球の半径は(6.45X10の8乗)cm、あるいは、
地球の円周は(4.0X10の9乗)cm なので、
もっともゆっくり流れる海流が地球を1周するのに掛かる年数は、
(4.0X10の9乗)/ (10の8乗)=40 年 となる。

ということは、1000年間で1000/40=25回周回することになるが、平均的速度の海流であれば100回は周回したと推定できる。

それに加えて、1000年間におよぶ水の蒸発や降雨、降雪、風、川の流れや氾濫、洪水などによる水の攪拌を考えれば、
例の人間を通過した(9.75X10の29乗)個の水の分子は、すでに、
地球上の全水の分子 (5.21X10の46乗)個とほとんど均一に混じりあっているということである。

ということは、現在この地球上に存在するどんな水も、1000年前に生きた例の人間の体を通過した水の分子を、
その体積の1/(5.3X10の16乗)だけ含んでいるということである。

例えば、目の前のグラスに180ml=180立方cmの水が入っている
とすれば、
その中には180立法cm X (1立法cm中の水分子の個数)
=180 X (3.34X10の22乗)個=(6.01X10の24乗)個の水の分子が入っている。

そのうちの1/(5.3X10の16乗)、つまり、
(6.01X10の24乗)個X 1/(5.3X10の16乗)
=(1.13X10の8乗)個=113000000個
=1億1300万個 が1000年前に生きた例の人間の体を通過した水というわけである。

次に、体重50kgの人がいるとする。人間の体に含まれる全水分量は大体50パーセントから70パーセントで年齢とともに少なくなっていく。ここでは60パーセントと仮定する。

50kg=50000g=5X(10の4乗)gであるから、この人の体の全水分量は 
(5X10の4乗立法cm)X0.60=(3.0X10の4乗)立法cm である。

1立法cmの水は(3.34X10の22乗)個の水分子でできているので、
この(3.0X10の4乗)立法cm に含まれる水の分子の数は、
(3.0X10の4乗)X(3.34X10の22乗)個=(1.00X10の27乗)個 である。

そして、そのうちの1/(5.3X10の16乗)、つまり、
(1.00X10の27乗)個X 1/(5.3X10の16乗)
=(1.87X10の10乗)個=18,700,000,000個=187億個 が
体重50kgの人の体の中に存在している1000年前に生きた例の人間の体を通過した水である。

1000年前のこの人間だけではない。釈迦の体の一部となり釈迦を生かしていた水も、キリストを生かしていた水も今生きている自分の中にあって自分を生かしている。自分だけではない、生きとし生けるものの中にあって、すべてを生かしている。

私たちひとり一人が体の一部としている水の分子は、過去に生きたすべての生きとし生けるものの一部であったのであり、その後体外に出た水の分子は世界中のすべての生きとし生けるものの体の一部となっていく。

そして、地球だけでなく全宇宙において、水だけでなく、すべての存在が分子や原子ベルで集合・離散・循環している。

これが物質面から見た不可分一体の世界の一面である。

要するに、すべては一つの“いのち“が顕現している姿である。

あらためて問う。自分とは何者か?





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道本円通(どうもとえんつう)

道本円通(どうもとえんつう)

「原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通、争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん」(原点に立って言えば、道本より円通す。あらためてどうしなければならないということはない:昇平現代語訳)

これは道元禅師が中国から帰国して最初に書かれた『普勧坐禅儀』の冒頭にある語句です。

道元禅師はもっとも大切なこと、あるいは、言いたいことの結論を文の最初にズバッと書かれる傾向がありました。

また、道元禅師は「自分こそお釈迦様の仏教を正統に伝えるものである」という自負があったようです。

ということは、その後膨大な著作群を残された道元禅師の思想のすべて、そして、仏教のすべてがこの「道本円通」という一句に凝縮されていると言えるのです。

では、「道本円通」とはどういう意味なのでしょうか?

「道本円通」は「道本より円通す」と訓読みし、「本来・真実の道は本々全ての存在に円かに行き渡っている」という意味です。

この訳をさらっと読んでしまうと、見落としてしまう恐れがあるのが、「本」という言葉の意味です。

「本」というのは、「元」とも書き、「元来」あるいは「本来」あるいは「初めから」というような意味であることはもちろんです。

では、何に対して「本」なのでしょうか? 何に対して「初めから」なのでしょうか?

それは「アタマで作った思いや妄想や観念など」に対してということです。

つまり、道元禅師は、アタマで、ああだ。こうだと考えなくても、真実の道は、本々、自分の心や体を含めて、全ての存在に円かに行き渡っている。つまり、すべてが自ずから整うと同時に互いに調和している、あるいは、自ずから整うように、また、互いに調和するように働いている、と言っているのです。

これは「平常心是道」ということであり、アタマの思いや妄想や観念などに振り回されずに、本々備わっている平常心(不生の仏心・真心)に任せ、従っていくことこそが、すべてが自ずと整い、互いに調和する真実の道である、ということです。

そういう意味で、日々の生活の中では、アタマで勝手に作った思いに引かれて行動するのではなく、平常心や真心で生き、平常心や真心に沿って考えること、すなわち、平常心や真心に沿った真実の思いや正しい観念にしたがって行動することこそが肝要なのです。

そのように、状況に応じて自然に湧き上がってくる平常心や真心に従って生きている時にはいつも、まさに、「廓然無聖(かくねんむしょう)」です。

「廓然無聖」とは禅宗の初祖達磨大師の言葉で、「この世界はもともと、秋の青空のようにカラッと晴れて爽やかで広々として、汚れた迷いや煩悩、一切の観念、そればかりか尊い悟りさえひとかけらもない絶対的無一物の世界だ」ということです。

つまり、平常心というのは、不可分一体の“いのち“がそのまま顕現したものであり、それはすべての人間根性を超越した本来の心です。

その平常心に任せて生きて行くとき、もはや、何にも心配することもなく、いつもカラッと晴れた青空のようなさわやかな心境で全力で生きてゆくことができるのです。




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平常心是道  その2

平常心是道  その2
(その1からのつづき)

もともと誰でも、タバコを吸う必要はない。タバコを吸いたいとは思わない。タバコを吸えなくてもイライラすることはない。それが平常心です。

でも、誰でも、食べ物を食べる必要がある。お腹が空くと食べ物を食べたくなる。お腹が空いている時に食べ物を食べられないとイライラする。それが平常心です。

本来誰でもノンスモーカーです。これは当たり前の真実です。

本来誰でもイーター(eater:食べる人)です。これは当たり前の真実です。

もともとノンスモーカーだった人でも、タバコを吸い始めると、「タバコを吸う必要がある。タバコを吸いたい」と思い、タバコを吸えないとイライラします。それは平常心ではありません。

なぜなら、それは、タバコを吸い始めるようになって、アタマで勘違いして「タバコを吸う必要がある。タバコを吸いたい」と妄想して、タバコを吸っているだけだからです。

つまり、ノンスモーカーであった時はもちろん、アタマの妄想にひかれて実際にタバコを吸うようになっても、「本来は誰でもタバコを吸う必要はない。タバコなんか吸いたくない」という真実そのものは絶対に変わることはないのです。

ですから、タバコは必要だと思ってタバコを吸っていても、自分は今まで「夢を見ていたのだ。本来誰でもノンスモーカーであるという真実はどんな状況でも、どのように思っても、変わるものではないのだ。自分は今でも真実はノンスモーカーだ」ということに気が付けば、そのとたん一瞬にして、何の苦労もなくノンスモーカーに戻れるのです。その真実に沿って生きていくこと、すなわち、平常心こそが真実の道なのです。

タバコと同じように、バラバラ観、優劣観念、差別観念、所有観念、憎しみ、恨みなどマイナス感情を持つのは当然だとする思い、本来人間は不自由な存在であるという思い、自分の欲しいものが手に入って感じる一時的な幸福感を真の幸福だとする思い、本来自分は何か欠けているという思いなどなど、これらはすべてアタマが作り出した妄想にすぎません。

すなわち、本来すべての存在は不可分一体であり、優劣も差別も所有もありません。不自然なマイナス感情は出てきません。人間は本来どこまでも自由であり、一時的な幸福感は仮の幸福でしかなく、自分は何一つ欠けているものがなく完結した存在である、ということは、思い以前の真実として、いまここにすでに厳然として現れています。

ですから、妄想はもちろん、アタマで作り出した思いはどんなものであれ真実そのものではないこと、また、アタマの思いに関係なく、真実の道は変わることなく、いまここにすでにあることに気付くことが「平常心是道」ということです。

心も体もアタマで、ああだ、こうだと言ったり、外から何かを加えなくても、大自然と同じように、その自然・真実に任せれば、自ずから整うようになっています。

つまり、人の心も身体も大自然も真実は不生不滅の現れとして、一切の分別や妄想以前に、"あるがまま"で、何一つ欠けることなく完結しているのです。

だから、自分という存在はどこまでも大安心であり、何も心配することはないのです。

(おわり)





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平常心是道  その1

平常心是道  その1

ある時、趙州が師の南泉禅師に「真実の道とはどんなものでしょうか」と尋ねた。その答えが「平常心是道」(へいじょうしんこれどう:平常心こそが真実の道である)である。

趙州は「その心を目指して修行すべきでしょうか」と重ねて質問した。南泉禅師は「目指そうとすれども、逸(そ)れてしまう」と答えた。

趙州は「それを目指して修行しなかったら、どうして真実の道だと解るのでしょうか」とさらに質問した。

これに対して南泉禅師は答えた。「真実の道は考えれば理解できる(掴める)というものではない。考えて理解できるというものであれば煩悩・妄想になってしまう。逆に理解できないとすれば意味のないことになってしまう。

アタマで真実の道を掴もうとするのではなく、本当にもし、真に疑いようのない真実の道に達したら、そこはあたかも、晴れて澄みわたって、分別の入る余地の一切ない、カラッとした青空のようなもので、ああだ、こうだと言う筋合いなどまったくないところだ。」
趙州はその答えを聞いたとたん大悟した。(無門関第19則「平常心是道」)昇平現代語意訳)

真実の道というのは平常心で生きることです。けれども、平常心になろうとすれば、それ自体が作為であり平常心ではありません。

ところで、平常心とは何なのでしょうか? 平常心とは「常日頃の心構えや態度」、「ふだんの心」であるなどと言ってみても、それだけでは、何のことかわかりません。

では、「日常心」つまり、日常生活で現れてくるいろいろな思いや感情などのことでしょうか? でも、私たちの多くは日常生活において、往々にして、自分勝手な考えや思いに囚われたり、他人を羨み、憎んだり、腹を立てて、自分だけでなく人を苦しめたりしながら生きています。これを真実の道、つまり、平常心とはとても言えません。

それでは、「感情的でなく冷静な心」ということでしょうか? でも、どんなに冷静であっても、たとえば、悪だくみをしていれば、それは真実の道とは言えません。冷静だけでは平常心とは言えないのです。

趙州の悟った「平常心」とは「無心」ということです。無心とは、アタマで作り出した思いや観念や妄想ではなく、自然に湧いてくる心です。つまり、もともとすでに私たちひとり一人に備わって、状況に応じて、自ずと中から現れてくる心です。

たとえば、お腹が空いたら、ご飯を食べたいという思いが自ずから湧いてくる。

人と喧嘩すると楽しくない気分が自ずから現れてきます。

自分自身のせいではなく、誰か他の人のせいで苦しんでいる人を見ると思わず可哀そうになる。

あどけない幼子を見ると自然に心がなごむ。このような心も平常心です。

このように、真実の道である平常心とは、私たち人間がアタマで作り出した思いや観念などではなく、本来、私たちひとり一人にすでに備わって、自分自身を自ずから整えようと働いている心です。

それを盤珪禅師は「親が産み付けてくれたものは不生の仏心一つである。不生の仏心で一切が整う」と言っています。

僕はそれを「不生不滅の“いのち“の現れである真心」と呼び、「真心是道」と言いたいのです。
(つづく)





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以魚為水

以魚為水

道元禅師の『正法眼蔵』の『現成公案の巻』に次のような文章があります。

魚が水を行く時に、どんどん行っても水の際(きわ:尽きるところ)はなく、鳥が空を飛ぶ時に、どんどん飛んでいっても空の際はない。けれども、魚も鳥もいまだ昔より水や空を離れたことはない。水や空を大きく使う必要があれば大きく使う。使う必要が小さければ小さく使う。このように、魚は水のいたるところを泳ぎ回り、鳥は飛んでいかない空はない。けれども、鳥がもし空を出てしまえばすぐに死んでしまう。魚が水を出てしまえばすぐに死んでしまう。以水為命(水をもって命と為す)ということを知るべきである。以空為命(空をもって命と為す)ということを知るべきです。以鳥為命(鳥をもって命と為す)であり、以魚為命(魚をもって命と為す)である。以命為鳥(命をもって鳥と為す)であり、以命為魚(命をもって魚と為す)である。(以下略)

私たちの二元相対的アタマは、通常、(個としての)魚がそれとは異なる存在である水という場の中で泳ぎながら生きていると理解しています。

けれども、存在の真実は、以水為魚(水をもって魚となす)、つまり、水が魚を魚たらしめる)と同時に、以魚為水(魚をもって水と為す)、つまり、魚が水を水たらしめているのです。

すなわち、魚は水によって支えられて存在し、同時に、水も魚によって支えられ存在しています。

上の道元の文章の中で、「命」=「水」と読み替えれば、この僕の解釈が的外れとは言えないことは明らかでしょう。

「水」=「命」=「魚」であり、「空」=「命」=「鳥」です。

さらに言えば、「空」は「水」を支え、「水」は「空」を支えているのですから、「命」=「水」=「空」=「鳥」=「魚」(順不同)です。

水も魚も空も鳥もすべて大いなる“いのち“が一時的な姿として現れたものであり、もともと一つのものであるために、それぞれが相互依存して支えあいながら存在しています。

さらに道元の文章を紹介しましょう。

生というのは、たとえば、人が舟に乗った時のようなものである。この舟はわたしが帆を使い、わたしが舵を取る。わたしが棹(さお)を刺(さ)すと言っても、舟がわたしを乗せて、舟のほかにわたしはない。わたしが舟に乗って、この舟をまた舟たらしめる。この真実が明らかになった時には、すべては舟の世界である。天も水も岸もみな舟として現れているのである。それはわたしが舟に乗っていない時とは同じではない。だから、わたしが生をそのようにあらしめているのであり、生がわたしをわたしたらしめているのである。わたしが舟に乗っているのだから、わたしの心身も世の中のこともすべて舟のはたらきである。全大地・全虚空がすべて舟のはたらきである。生であるわたし、わたしである生というのは、こういうものである。

よく、道元禅師の『正法眼蔵』は非常に難解であり深淵だと言われます。たしかに、そういう面がないとは言えません。けれども、禅師の存在の真実についてのさとりは実に確かなものであり、書かれていることのポイントは簡潔明瞭であると僕は思います。




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