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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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アタマが主人公ではない

アタマが主人公ではない

この世界はアタマで認識する以前にすでに事実として存在しています。

ところが、多くの場合、私たちはこの事実の世界を見て、アタマでそれを認識し判断しています。

アタマにはいろいろな“思い“があり、実際には、アタマは事実の世界を、例えば、「好きだ。嫌いだ」というようないろいろな思いを通して見て認識しています。

つまり、アタマはいろいろな思いによって歪んだり曇っているメガネに例えることができるでしょう。

ですから、私たちがこれが事実だとしていることは、ほとんどの場合、アタマという歪んで曇ったメガネを通して見た”像”に過ぎないのです。

しかも、アタマはバラバラ観を基とした二元相対的思考しかできないので、その“事実という像”に基づいて判断することも、一元絶対の存在の真実から観ると、狂ってしまいます。

例えば、一輪のスミレを見る場合にでも、多くの方は、「スミレというものはきれいなものなのだ」とか、「私はスミレよりバラのほうが好きだ」など、いろいろな思いを通して見ており、そのスミレ自体をそのまま見ていないのではないでしょうか。

これでは、”見ている”とは言えません。

ところで、瞑想にはいろいろな種類があり、目的にもいろいろあります。

多くの瞑想は「アタマの思いを鎮めて(最終的には、思いを消して)”安らかな気分になる”」ことを目的としているようです。

それはそれで結構だと思います。

一つの“思い“を別の“思い“でもって消してしまおうとしても、“思い“と“思い“が対立するばかりです。

それで、普通の瞑想では、いろいろなやり方でなるべく考えないように静かにしていようとするのです。

けれども、存在の真実、あるいは、真実の生き方に立脚した”真の瞑想”は「アタマの思いを鎮めて安らかな気分になる」ことを目的とするものであってはいけないのです。

私たち人間は石ころではありません。

私たちはアタマを持っており、アタマは私たちの意志とはほとんど関係なく、勝手に“思い“を”分泌”します。

“思い“は勝手に浮かんでは、また、しばらくして消えていきます。

そして、また、しばらくして、新しい“思い“が浮かんでは、また消えていきます。

“思い“が浮かび、また消えていくのは、空の雲が浮かびまた消えていくのと同じように存在の真実(“いのち“)の一つの風景なのです。

それが“思い“の真実の姿です。

ですから、“思い“を鎮めよう、消してしまおうというのではなく、“思い“を手放して、“いのち“の風景の一つとして見ているのが僕が言う”真の瞑想”です。

繰り返しになりますが、真の瞑想は”安らかな気分”になることを目的とするものではありません。

日ごろ、アタマというメガネをかけて、事実の世界を歪んで見ていることにも気がつかず、アタマの思いこそ”主人公”であり、「それがすべてだ」という思い込みから、瞬時に目覚めることこそが”真の瞑想”なのです。



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手段ではない瞑想

手段ではない瞑想

瞑想には様々なものがあります。

そのほとんどの瞑想が何らかの効用を得るためにするのだとされています。

つまり、それらの瞑想は効用を得るための手段であるということです。

それはそれで大変結構なことだと思います。

ただ、ここで僕がみなさんにはっきり理解していただきたいことは、僕が勧めている瞑想の自然法をはじめとするいくつかの瞑想法は悟りを含めて何かの効用を得るための“手段としての瞑想”ではないということです。

では、“手段としての瞑想”ではないとすれば、一体どういう瞑想なのかと思われることでしょう。

僕が勧めている瞑想はそれ自体がそのまま“目的”なのです。

瞑想することがそのまま“ゴール”であると言ってもよいでしょう。

私たち人間は発達した大脳を持っているために、多くの方々はありのままの存在の真実をそのまま捉えるのではなく、存在の真実についてアタマで捉えたと思いを存在の真実であると勘違いしています。

でも、それは絵に描いた餅が実物の餅ではないのと同様に、実物の存在の真実ではありません。

どんなに理性的にアタマが働いて捉えたものであっても、実物そのものではなく、単なる映像のようなものでしかありません。

しかも、アタマの能力は非常に限られているだけでなく、そのハタラキそのものが狂っている場合も多く、それを通して捉えた像自体が歪んでいたり曇っていたりします。

このように、アタマではありのままの存在の真実をそのまま捉えることはできないのです。

本当は、存在の真実、言い換えれば、真の自己は思い以前に、すでに“いまここ”に生き生きと現成しています。

では、思いを無くせばよいのでしょうか?

でも、それは不可能です。

なぜなら、私たちは石ころのような単なる無生物ではないからです。

私たち人間は発達した大脳を持っています。

ですから、思いは自然に湧いてくるので、それを止めようとしても止めることはできないのです。

では、どうしたらいいのでしょうか?

湧いてくる思いを捉えようとしないで、次々に湧いてくる思いを手放し手放しにしていることです。

思いを手放しにして、坐相をキチンと維持しながら、ただ坐っているのです。

その際、思いを手放しやすいように、数息観など何かに集中したりしながら坐っていてもよいでしょう。

いずれにしても、そのとき、存在の真実が思いに邪魔されずに素通しになっています。

道元禅師の只管打坐(ただひたすら坐る)もまったく同じです。

坐るのは何かを得るためでも、悟るための手段でもありません。

存在の真実は思い以前にすでに“いまここ”に現成しているのですから、思いを手放しにしてただ坐っていること自体が存在の真実に身も心も任せているということです。

ですから、「ただ坐る」それで完結です。

ですが、そうしてただ坐っていると、あるときふと、“自分“という意識が消え、存在の真実だけがまざまざと現成していることに気がつくでしょう。



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ただ呼吸する

ただ呼吸する

私たちは病気にかかった場合やスポーツをしている時などを除いて、自分の呼吸をとくに意識することは普段めったにありません。

(それは心臓の鼓動や血液の循環、消化活動などについても同じです。)

普段、私たちは、意識するしないに関わらず、「自分が呼吸している」と思っています。

それはそうなのですが、私たちは通常は自分の意思で呼吸をコントロールしているのではなく、体が勝手に呼吸をしています。

だからこそ、私たちは眠っている間でも、呼吸をちゃんとしなければならないなどと心配する必要がないというわけです。

瞑想、とくに随息観(呼吸をただ意識しながら坐っていること)が深まってくると、そのうちに、“自分“という思い、あるいは、意識が消えてしまいます。

その状態では、はっきり眼は覚めていますが、“自分“が消えるとともに、ほとんど意思も働いておらず、ただ、呼吸しています。

もちろん、生理的に言えば、鼻や口、気管、肺などの呼吸器やそれに連動する心臓などの循環器の働きによって呼吸というハタラキが営まれています。

けれども、随息観で“自分“、あるいは、意思が消えている状態では、ただ、呼吸しているだけです。

「ただ、呼吸が呼吸を呼吸している」という表現がもっとも適切かもしれません。

その状態にあっても、半眼であれば目の前にいろいろなものが見えています。

どこかで鳥の声や自動車の音なども聞こえています。また体の感覚もいくらか感じられます。

ただ、呼吸を含めてそういういろいろなものがありながら、すべてがひとつになっています。

その状態においては、呼吸はもはや呼吸として独立にあるものではありません。

いろいろなものがすべてひとつになって呼吸しています。

そこにはもはや呼吸しかありません。

それは同時に、何もない世界でもあります。

そのひとつのものにはもともと名前もありません。

ですから、“いのち“、"空"、"無"、"心"、"大いなる存在"、“真実の世界”、“真実の自己”、"大宇宙"、"大自然"、あるいは、“呼吸”、“ソレ”など、どのように呼んでもいいでしょう。

多くの方々は「いまの自分には何か足りないものがある。それを満たしてくれるものがどこかにあるはずだ。それを手に入れないかぎり安心できない」思い、常に物質的なものであれ、精神的なものであれ、「もっと、もっと欲しい」と追い求めています。

一言で言えば、私たちの多くはいつも「物足りよう」という思いに振り回されながら生きています。

けれども、真実は、“いまここ”において、“自分“に足りないものなどひとつもありません。

その真実に気がつくためには、「物足りよう」という思いを手放しにして、ただ呼吸を意識しながら坐っていればよいのです。

そこには、自分の思いがどうであろうとも、すでに、すべてが満ち足りた世界が現成しています。

そして、やがてそのうちに、その真実をはっきりと自覚する日が来るでしょう。


つとめて瞑想をして本来の自分に戻りましょう。



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事実丸出しの世界

事実丸出しの世界

前回のブログで正法眼蔵随聞記のなかの道元禅師の言葉を紹介しました。

僕は坐禅についてはその言葉ですべて言い尽くされていると思います。

けれども、ここに僭越ながら僕なりの説明を加えてみたいと思うのです。

まず「坐は佛行なり。坐は不為なり」の「坐」は道元禅師がいつも言われている「只管打坐」、つまり、「ただ坐る」という意味だと思います。

つぎに「不為」は文字通りの意味では「何もしないこと」ですが、同時に「何も求めないこと」、さらには、「アタマの思いを追わないこと」という意味で言われているように思います。

つまり、「坐」は「何も求めないで、アタマの思いを手放しにして、ただ坐る」ということです。

これまでも言ってきましたが、“いまここ”は事実丸出しの世界であり、それが自己の正体です。

私たちはいつも事実丸出しの世界に生きているのですが、アタマの思いに引きずられて、自己の正体を見失いがちです。

「坐」は、何も求めず、アタマの思いを手放しにして、ただ坐ることであり、それは“いまここ”において、自己の正体である事実の丸出しです。

真実の生き方は真実の自己、つまり、“いまここ”の事実をそのまま生きるということです。

そのためには、毎日たとえ15分、20分であっても、「アタマの思いを手放して、ただ坐る」時間を持ち、本来の自分自身に戻ることがとても重要です。

その際にもっとも大切なことは「坐」は手段であると同時にゴールであるということです。

「坐」がそのままソレ、つまり、自己の正体そのものなのです。

思いを手放して坐るためには、とくに何もしないで思いを相手にしなければよいのです。それが只管打坐です。

ただ、それが意外に難しいという方も多いようです。

その場合には、只管打坐の便法として、つぎのようなものでもよいでしょう。

1 数息観:静かに息を吸って、息を吐きながら「ひとーつ」とこころのなかで数える。10(とう)まで行ったら、「ひとーつ」に戻る。
途中で、思いが出て、意識がそれたときは最初に戻って数え直す。

2 随息観:静かに息を吸い、静かに息を吐く。いまの吸う息、いまの吐く息だけを意識する。それを繰り返す。

3 無字の拈提(ねんてい):静かに息を吸って、息を吐きながら「ムー」とこころのなかで唱える。いまの「ムー」だけを意識し、それになり切る。

いずれのやり方でも、思いが出てきても相手にしない。思いで気がそれたことに気づいたらすぐに元に戻ることです。

もう一つは、いまの一息しかないということ。いまの一息ですべて完結しているということです。前後の呼吸は際断しているのです。

また、何か結果を求めようと気張ると、かえって「自分」という思いが邪魔になることがあります。

とにかく、安心してただ静かにやっていれば、いつのまにか自分を忘れてしまいます。

そして、そのうちに、ふと気がつくでしょう。

結果は自分が出すのでなく、向こうからやって来るのです。


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人山を見 山人を見る 

人山を見 山人を見る 

「人山を見 山人を見る」というのは大智禅師という方の言葉です。

「人山を見る」というのは当たり前だけど、「山人を見る」というのがどうも分からないという方も多いでしょう。

まずは次のようなSF的な場面を想像してみてください。

世界を創造した万能の神様の官制室には、数え切れないほどたくさんのコンピュータが設置されています。

それぞれのコンピュータはこの世界のすべての存在の一つと無線ランのような回路で結ばれています。

いま、神様は一つのコンピュータのスクリーンを面白そうに眺めています。

そのスクリーンにはAという一人の人間に備わった視覚で得た情報を脳が認識したBという人間の姿が映像として映し出されています。

ところが、人間Aは「自分がこちら側にいて、人間Bを見ている」と思っています。

そうではないのです。

見ているのは神様だからです。

人間には大脳という非常に能力の限られた、いわば、ウインドウズ3.1程度のコンピュータが備わっています。

そのために、大脳は「見ているのはこの自分だ」と勘違いしてしまうのです。

つまり、大脳は「この体とその中に存在するものが自分である。その外にあるものは自分以外の存在だ」と思い込んでしまいます。

これが私たちの多くの有り様です。

でも、実際は人間Bを見ているのは神様なのです。

そもそも、自分なんていうものはないのです。

では、ここで言っている神様とは誰、あるいは、何のことでしょうか?

実は、驚くことには、神様も誰もいない、何もないのです。

それこそ“虚空”であり、空っぽです。

私たちが通常“自分”と思っていたものの正体、つまり、真実の自己、あるいは、本来の自己を徹底的に明らかにしてみると、何もないのです。

つまり、虚空です。

でも、この虚空はただの空っぽではありません。無限の性能と徳を持っています。

この虚空こそがこの大宇宙のすべての存在を創造し、生かしているのです。

それを仏教では仏性と言い、僕は“いのち“と呼んでいます。

この世界のすべての存在はこの“いのち“のハタラキそのものです。

ですから、本来、すべての存在、そして、一人ひとりの私たちは無限の性能と徳を備えています。


さて、最初の「人山を見 山人を見る」について考えてみましょう。

まず、本当は、山を見ている「人」もいません。

つぎに、「山人を見る」については、「山は眼がなくても人を見ている」とだけ言っておきましょう。

以上、存在の真実についてたとえ話と理屈で説明してきましたが、「事実しかない。自分なんてない」という真実を体験的に捉えるには、“自分“を忘れる、つまり、思考が停止するまで徹底的に瞑想を深める以外には方法はありません。

要するに、“自分“というものは、相対的な思いにすぎません。

それを不動の実体と勘違いするところから、すべての迷いと混乱が生じてくるのです。

瞑想を深めましょう。



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