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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の最終目的

川の瞑想の最終目的

川の瞑想の第一段階の目的は自分の周りにあるこの現象界の奥に常に変わらない絶対の静寂の世界が存在していることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

第二段階の目的はこの自分と思っているものの奥に常に変わらない絶対の静寂の世界が存在していることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

第三段階の目的は自分の周りにあるこの現象界の奥にある絶対の静寂の世界と自分の奥にある絶対の静寂の世界が別物でなくぶっ続きの一つのものであることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

ここまでの第一段階、第二段階、そして、第三段階までは、自分の外側、あるいは、内側の音や体の感覚や思いなどの現象の奥にある絶対の静寂に”自分“という意識(我)が集中しているという状態で、いわば、”有我一念“の状態です。

そして、第四段階は、有我一念が深まり、音や体の感覚や思いなどとともに“自分“という意識(我)が消えて、“無我一念”の状態にある時に、突然訪れます。それは、努力でなく無意識のうちに絶対の静寂に集中している状態であり、絶対静寂三昧(ざんまい)、”無我無念“の状態です。

別の言葉で言えば、第四段階の目的は”無念無想“、つまり、純粋意識だけがある、心が最高に統一され安定した状態に入ることです。これが川の瞑想の最終目的です。

この状態では、アタマが作り出した”自分“という思いやその他の思いや心配・不安などの雑念に一切妨げられることなく、この大宇宙のすべてを創造し、そのすべてに常に働きかけ、調和させている大宇宙の根源の生命力と智慧、つまり、“いのち“が自分の生命と直結して圧倒的な力で自分の中に入ってくるのです。

この “いのち“こそが大宇宙の、そして、この自分自身の正体なのです。そして、「この自分はこの世界のすべてとぶっ続きの“いのち“である」ことをはっきり体感・体得した時に、心から「生まれてきてよかった!」と思えるのです。

そして、アタマに妨げられることなく、一切の心配や不安、あるいは、雑念から解放されて、大宇宙の根源の生命力と智慧、すなわち、 “いのち”とぶっ続きになるときに、心も体も最高に癒されます。

この状態が野口整体で言う「天心」です。ただ、何も考えないようにしようと、ボーッとしているのが天心ではありません。

野口先生は「雲の上にはいつも青空がある」と言われましたが、本当の天心は「すべて青空。青空っきり」の状態です。それは達磨禅師が言った「廓然無聖(かくねんむしょう)」、つまり、青空のようにからっと澄み切って何もない、(人間がアタマで思うような)聖なるものさえ超越した、“無”、あるいは、”空“と言われる状態です。

つまり、第四段階の目的は自分とこの世界の正体、“いのち“をはっきりと体得することであり、整体的には、天心を体得し、天心三昧の状態で愉気や活元運動をして、心身を常に整体に保つということです。

川の瞑想を必死になってやってほしいと繰り返し言っているのは、みなさんに、ぜひとも、第四段階の目的を達成してほしいからです。





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川の瞑想の実際  その9

川の瞑想の実際  その9
(その8からのつづき)

般若心経に「色即是空 空即是色」という言葉があります。ほとんどの方は、せいぜい、何かありがたい、凡人には計り知れない意味があるのかな、と思うだけで、お経の飾り文句のように感じているのではないかと思います。

仏教にはその教えをあらゆる角度から説明した膨大な量のお経があります。でも、「色即是空 空即是色」というこの言葉こそ仏教の心髄中の心髄であり、これほど、自己の本質と存在の真実を的確に表しているものはありません。

この場合、「色」というのは、直接的には「眼に見えるもの」、「空」は「眼にみえないもの」という意味です。したがって、色即是空は「色は、すなわち、空である」ということで、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないもの」ということになります。空即是色は「眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるもの」ということです。

これはまさに川の瞑想によって体感できる自己の本質と存在の真実に他なりません。川の瞑想では、最初に音を聞き、次に、その音の奥にある静寂の存在を体感します。そして、音は静寂より生まれ、また静寂に戻ることを体感します。それは「音即是寂 寂即是音」、つまり、「音は、すなわち、寂であり、寂は、すなわち、音である」ということです。

川の瞑想では最初は聴覚を通して、「音と静寂の世界」を、次に視覚を通して、「眼に見えるものと眼に見えないもの世界」を体感します。そして、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないものであり、眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるものである」、すなわち。「色即是空 空即是色」を体感するのです。

ついでですが、般若心経のこの文句で使われている「色」は直接的には「眼に見えるもの」、すなわち、「形姿を持って存在するもの」という意味ですが、ここでは、この世界に現れているあらゆる現象や存在(たとえ見えなくても)を表しています。

同様に、「空」は、直接的には、「眼に見えるもの」、すなわち、「姿形を持たないもの」という意味ですが、ここでは、それだけではなく、この世界のあらゆる現象や存在を顕現している、その奥、あるいは、内側にある本質を表しています。ですから、仏教で言う「空」はこれまで僕が使ってきた“いのち”と同じであると言ってもよいのではないかと思います。


このように、川の瞑想は単に「いい気分になって、くつろいで、安らぐ」など、精神を安定させるといったことを目的にしているのではありません。まさに、存在の真実を体感し体得することが目的です。しかも、それが、誰でも簡単にできると言うところが川の瞑想の一大特徴だと言えるでしょう。

そういう意味では、川の瞑想をして心が安らいだ、落ち着いたなどということは同然ありうることではあっても、あくまで副次的な効果にすぎません。このことを肝に銘じて、誤解のないようにしてください。

なお、川の瞑想の実習では、CDの川の流れの音のオン・オフに耳を傾けるとともに、眼を開けて、畳や壁など静止して、音を出していない何か外部のものに眼を合わせてその静寂を聴こうとすると、聴覚的な川の流れのオフ、つまり、静寂と、たとえば、視覚的な畳の静寂が合わさって、より静寂を聞き、見ることができて、はっきり確認することができます。

これを繰り返していると、CDなしでも、眼を、例えば、畳に合わせて、その静寂を見ようとすることによって、畳だけでなく、周りのすべてが静寂そのものであることを体感できるようになります。それに熟達してくれば、CDなしに、ただ周りの音がしていないものに視線を向けるだけで静寂を持続的に体感できるようになります。

そして、それに熟達すれば、音が出ているものを見ても、その奥に静寂を持続的に体感できるようになります。そしてついには、町の真ん中の通りに出て、周りを見ても、騒音の真っただ中で、ずっと静寂の中にいることができるようになります。

そうなると、テレビを見ていても、人と話をしていても、静寂の中にいられるようになります。ですから、心はいつも安定し安らいですっきりしています。これが本当の「平常心」です。日常生活で、いろいろなこと、いろいろな思いに振り回されて、やっさもっさしている心はとても「平常心」とは呼べません。

自分自身を振り返って、何かで心が動揺したり、アタマに来たり、心配性であったり、悲観的であるなど、しょっちゅうマイナス感情に振り回されながら生きているという人はこの川の瞑想を真剣に実践することをお勧めします。とにかく、貴重なかけがえのない人生をそんなつまらないことで自ら粗末にしながら生きていくことほどもったいなく愚かなことはないのですから・・・。

もう一つ、川の瞑想の延長で有効な方法は、川の流れのCDを聞きながら、眼を開けて自分の外を見ると同時に、その逆方向、つまり、自分の眼の奥の奥の方をずーっと見ると言うか、意識するのです。

そこに、何があるでしょうか?視覚的にはそこには何もありません。同時に、聴覚的にも何もありません。まさに、静寂・透明であり、空です。それが自分自身の本体です。それは僕が26歳の時に体験したものです。自分の体の感覚はもちろんあります。思いもあります。目の前のものも見えています。CDの音も聞こえています。でも、自分の体や心の奥には静寂・透明な空があるだけです。なにがあっても、それは絶対に変わるものではありません。

慣れてくると、CDも必要でなくなります。僕がよくやるのは、庭で空を見上げながら、同時に、視線を逆にするような感じで、自分の眼の奥の奥の方を意識することです。そこはいつも絶対の静寂であり、透明な空間です。その透明な空間には枠もありません。なにか、どこまでも透明な枠のないレンズのような感じです。その透明なレンズに外界の空が浮かんで見えています。空に雲や山が見えていると、よりやりやすいと思います。

この実習をやるときは、通りや何かではあぶないので、必ず公園や庭、あるいは、ビルの屋上、海岸、川の土手などで動かないでやってください。僕は、電車で窓側の席に座れた時は、窓から外を見上げながらやっています。そうすると、どのように見えるかというと、静寂で透明なく右である自分の中にすべての存在が入っているように感じます。

日頃の感覚では、自分は小さなアリのように、この広大な世界の中のちっぽけな存在だと感じていませんか? 確かに、広々とした戸外で自分の体とその周りを見ると、そう感じるかもしれません。でも、自分の眼の奥、その奥の自分の本体の中にこの世界、この宇宙全部が入っているのです。本当の自分は宇宙大の大きさなのです。

このシリーズのどこかで、特殊な二つのレンズがついたメガネの話をしましたが、それは以前ブログに書いた、「奇妙なガラス板」とよく似ています。この世界をそのガラスの右側から見ると、みんなバラバラにみえるのですが、左側から見ると、みんな一緒、一つに見えるのです。

私たち人間は肉眼の眼で表面的に見えるバラバラの世界と心の眼で見たこの世界の本質である不可分一体の世界という二重の世界の中で生きているのです。自分というのは個として生きながら、同時に、その本質である、この宇宙をすっぽり包んでしまうほど大きな“いのち“を生きているのです。つまり、別々でいながら、みんな一つという二重の存在性の中で生きているということです。

だから、肉体が死んでもどこにも行きません。いまここにある本質である空、“いのち“の世界から飛び出てどこかに行くわけではありません。簡単に言えば、自分の本質は“いのち“なのですから、どこにも行きようがないのです。だから、肉体が活動している時も”いまここ“にいて、肉体の活動が止んでも”いまここ“にいるのです。つまり、”あの世“というものは”いまここ“にあるのです。

(独り言:愛する人や親しい人がなくなっても、いつまでも嘆き悲しまなくてもいいじゃないか。ふと寂しく思う時もあるかもしれないけれど、死んでもいつも一緒にいるのだから、それで充分じゃないか・・・。)

もう一度、川の瞑想の目標を段階的に説明しましょう。

まず、いろいろな音の奥に静寂があることが分かった。いろいろな音があっても、いろいろな思いは出てきても、ずっと静寂の世界に留まっていることができるようになった。では、その次の段階ではどうするかということです。

それは視覚も使って、もちろん、いろいろなものが見え、音がし、思いや体の感覚がありながら、そのすべての奥に、まず、すべてが完全に静寂であること、次に、自分の内側に視線を向け、自分自身が絶対の静寂であることを体感することです。

そして、次は、外にあるものがすべてその奥は透明で空であること、そして、次に、自分自身が透明で空であることを体感することです。そして、その次の段階はCDなしでそれぞれ体感できるようになることです。

それから、川の瞑想を長時間やっていると、足がしびれてくることがあります。けれども、川の瞑想がきちんとできていれば、足がしびれてもそのまま放っておけば、なんの支障もなく、絶対的な安らぎの中で、快適に川の瞑想を続けることができます。このことがわかれば、一日中でも続けることができるような感じがするでしょう。

これは坐禅でも同じです。足が痛くてガマンできなくなるのは、やり方がまずいのです。足がしびれていても相手にしなければよいのです。アタマの思いも同じです。これが楽にできるようになると、思いも次第に出てこなくなって、心が澄んでくるようになります。この状態ですべてを任せて坐っている状態こそが本当の只管打坐なのだと言えるでしょう。

そういう状態になれば、道元禅師の言われる「心身脱落」と言えるかもしれません。ちなみに、道元禅師は『正法眼蔵』の『現成公案』の巻で次のように言われています。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
(仏道をならふ=存在の真実を究める、自己=真実の自己)
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
(前の自己=真実の自己、後の自己=見かけの自分)
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(自己=見かけの自分、万法=すべての存在)
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
     (自己=自分、他己=他の人、他の自分)  (注釈:昇平)

「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた状態になることです。「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」とは、個としての自分と個としての他というものが消えてなくなって、すべて、宇宙全体が不可分一体であることを体感することです。


最後に一言。この世界は見かけ上のバラバラの個という視点から見ると、本当に苦しいこともありますが、不可分一体の“いのち“という存在の真実の視点から見ると、そのままで「すべてよし」の世界なのです。それを簡単に体感できる川の瞑想は最高だと思います。

(おわり)





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川の瞑想の実際  その8

川の瞑想の実際  その8
(その7からのつづき)

ここで、質問します。「自分とは何ですか?」 しばらく、時間をとりましょう。

(間)

きっと、アタマの中で、「名前」とか、「自分」とか、「いのち」とか、「人間」とか、「日本人」とか、「生物」とか、「動物」とか、いろいろ思い浮かんだでしょう。

たしかに、世間では、一応それで質問に正確に答えたように思われるかもしれませんね。でも、あくまで、「世間では」という注釈が付くんです。でも、そんなものは、ただの一応の約束事で言っているだけです。例えば、「フランスとスペインの間に国境がありますか」というのと同じです。国境があるというのは単なる約束事にしか過ぎなくて、本当は国境なんかどこにもなくて、ぶっ続きなんですね。

そういうふうに人間が観念で約束事としてとりあえず取り決めているのであって、真実そのものではないんです。真理そのものではない。そういうことからいくと、「人間」と答えていても、約束事にしか過ぎない。「いのち」と言っても、それはこのグループだけで通用する約束事にすぎない。実物そのものではない。では「自分とは何か」と追及していくと、言葉では表現できなくなる。言葉というのは単なる、いろいろな約束事とか、言葉で外から規定しているだけで、それでは実物を表現できない。

禅の中でもそういう話があります。ある人が「自分とは何か」と問われ、10年とか20年、それを考えたり坐禅をしたのです。そして、最後に到達した答えは「言葉で表現することはできません。一言でも説明したら実物とは違ったものになってしまいます」というものでした。そういう答えしか出なかったわけです。

で、お師匠さんは「まあ、それでいいよ」と言ったんだけど。「言葉で表現することはできない」というのはただ「わかりません」と言っただけにしか過ぎない。「言葉で表現できるものではない」というそこまでは非常にいいんだけど。

では「何なんだ? 以前は、何でも言葉で説明できるものと君は思っていたね。お経の本を読んで、一生懸命、あれこれとアタマで考えてきたよね。でも、そういうことでは、自分自身はもとより、存在のひとつも捉えることはできない。それがわかったことは素晴らしい」と。でも、話はそこで終わっているのです。

「自分そのもの自体は言葉では規定することはできないんだ」と気が付いたことは素晴らしい。普通はそんなことにも気がついてないんです。「いや、自分は人間ですよ」、「いや、いのちですよ」、「いや、空です」とか、概念をくっつけて、実物自体にただラベルを貼っているだけです。

ラベルはそのものではない。紙に「キュウリ」なんて書いて何かに貼ったら、それがキュウリになるわけではないんです。そもそもラベルはその実物そのものではない。ただの紙です。そういうことにも気がつかずに、みんな、大騒ぎして「ああだこうだ」とやっている。では、そのもの、「それはただそれ」と答えるしかない。

でも、それはある面では答えにもなっていない。「では、何なんだ」。さらに追及していくというところは、その禅の本には出ていないんです。でも、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます。それをどういう言葉で言えば正解になるか。言葉で言ったら実は正解にはならない。ラベルにしか過ぎないから。

みんな言葉で答えられると思っているわけです。そこからもうすでに違っている。では、言葉で言わないでそれを表すにはどうするんだ。なんかテクニックがあるのかな、と、またアタマで答えを出そうとする。だからそういうものは全てアタマの世界のことであって、体得ということと全然違う。

「よっしゃーっ、やるっきゃない!」とキックして、バイクのエンジンをかける。「ブルブルッ」となるんだけど前に進まない。ギアを入れていないからバイクは進まない。一生懸命キックして、エンジンがかかっても、バイクは前に進まない。エンジンが空回りしているだけです。

まあ、言葉でどういうふうに表現しても、僕が禅のお師匠さんだったら「だめ、だめ」と言うんでしょうね。そうするとどんどんどんどん追い込まれていくわけです。後はもう坐るしかないと。もはや言葉ではだめなわけです。どうやるんだと。で、またアタマで考えるわけね。そんなことやっている間はいつまで経ってもだめなんです。だから坐禅で悟るということは非常に難しい。時間もかかります。

そんな世界です。それはそれで一つの文化ではあるかもしれないけども、そんなもので世界は救われない。時間の無駄です。

それを、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます、そのうちに。だから心の宿題にしておけばいいと思います。すぐ「はいそれは私です」とか「いのちです」なんてやるのは、だいたい学校の先生タイプが多いんです。あと坊さん。人に教えるという感じの人。アタマで言葉にすればそれが本物だと思っているんですね。

では、川の瞑想に入ります。

最初は目を開けてやったほうがいいと思います。時々疲れたら目を閉じるけれども、閉じっぱなしというのはあんまりよくないように思います。では入ります。

(川の瞑想開始)

目を半眼にして落とす。

もっときちっとしてね。背筋をまっすぐに伸ばして。静寂に集中する。

はい、静かに体を動かしてください。

(川の瞑想終了)

大変だなと思うのではなく、楽しみにしてください。また違う世界が見えてきます。

普通は、いろいろな音とかなんかあると、その音に気を取られて、そういう聞き方になっているので、音がうるさいなとか、いろいろ思ったりもする。そういう傾向が強いと思います。ところが、聞いているようで聞いてない。どっかでそういう音がしているというのは意識はしているけれども、そこにとらわれてもいない、というふうになっていくと、全然そのうるささみたいなものを感じなくなっていく。そしてその元にある、絶対的な静寂、土台というか土の部分、絶対の静寂は変わらない。しっかり感じられてくる。

今までは、瞑想しなさいとか、したほうがいいよとか、ちゃんとやってくださいと言われて、なんか義務みたいな感覚でやっていた人が多いのではないかと思います。これではだめなんです。苦行になってはダメです。やっていることが心地よくないとダメだと思います。

ちゃんとした瞑想だと、足が痛くても気にならないというか。ただ痛いなと思いながら、支障なく、瞑想が自然に流れていくみたいな感じになっていきます。

非常に心地よさと安定感を感じる。その理由というのは、いちいちいろいろな思いに引きずられない。それから、物音とか、体の痛さとか、そういうものに引きずられない。そういうことも非常に心が楽になるし、何よりも、絶対的な静寂というもの、その中に浸っている。いろいろな物音とか聞こえながらも、絶対的な静寂の中にある。絶対的な静寂の世界というのは、安らぎそのものなんです。気もそうですね、澄んだ気は安らぎです。同じことなんです。

ですから、当然、瞑想をやりたくてしょうがなくなるんです。もういくらでもやっていたい。暇さえあればという感じで、楽しさを感じるようになっていかないと、というか、そういう瞑想でないとだめだなと思います。

その安らぎと安定感はなかなか普段の日常生活の中では感じられない。川の瞑想をやると、こんな楽しい安らいだ世界があるのかと思います。普通は坐禅というと、「きちっとやる、修行でございます」みたいな感じでね。まじめ腐った顔してやっているわけです。それは、それでよいのですが、川の瞑想は苦行になっては、もはや川の瞑想ではありません。

気抜けになるのとは違う。全然違う。気抜けでは本当に楽しめないし、安らぎがない。やっぱり集中してなきゃだめです。その楽しさがあるためには。ボーっとしていたんではただの居眠りになってしまう。だから姿勢はとても大切です。

背骨、それと視線ですね。視線が、気張った感じで目をぱっちりでやるとまずいんです。かと言って、目をボーっとさせているわけではない。空、その静寂に、動かないものにきちっと目が合って、そこの音を聞き取ろうという方向性がないと、気抜けになってしまいます。

今回みなさんだいぶはっきりしたと思います。それが、いつの間にかまたマンネリになっていかないように、いつも真剣勝負、ある面で必死に瞑想をするのです。気張った必死さではなくて、すっきりしたというか。何があって、動じないみたいな、そういうところでの必死ということです。そんなような潔さで、川の瞑想に向かうということです。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その7

川の瞑想の実際  その7
(その6からのつづき)

音が鳴っているのに、その奥に静寂を感じる。また、そこに見えているものの奥に、“見えないもの“がある。「見えているものが、同時に見えないものである、というのはどういうことか?」ということですね。たしかに、ここまで、常識的には、変な話をしているわけです。

それについては、僕は、人間の五感は人間が本来持っている能力のごく一部にしかすぎないのだと思うのです。普段はその五感で捉えた情報をアタマで認識しながら生きていると思いがちですが、五感以外にも情報を得る感覚器がいくつもあり、それを認識する脳の仕組みも他にあるのだと想像できるのです。

たとえば、一方では目で見て、つまり、視覚とアタマによって、こうやって見えている。けれども、別の感覚器と認識脳で見ると、これが透明なものとして見える。また、普通の耳、聴覚で聞くと、音がしている。でも、他の感覚器と認識脳では静寂を捉えることができる、というようなことがあるのではないかと思うのです。

たとえ話のように聞こえるかもしれませんが、ここに不思議なメガネがあるとします。1本のタンポポの花を、現象が見える左のレンズで見ると、姿がそのままに見える。でも、本質が見える右のレンズで見ると、透明なるもの(空)として見えるのです。普段は左のレンズしかないと思い、すっかりそれを頼りにして、見えている現象の姿だけしかないと思っています。けれども、本質が見える右のレンズがあることに気づき、そちらで見ると、透明なるもの、空と見えるのです。右のレンズがあることに気がついて、それに慣れてくると、1本のタンポポの花を見ても、現象のそのままの姿と本質の透明なるもの、空が二重に重なって見えるというわけです。

左のレンズを現象が見える肉眼。右のレンズを本質が見える“心の眼”とでも呼べるのではないかと思います。つまり、肉眼で見ると、姿がそのまま見え、心の眼で見ると、本質の空が捉えられるというわけです。

五感のほかにも感覚器と対応する脳の認識部位の他に、別の感覚器とそれに対応する別の認識部位があるということは作り話のように思えるかもしれませんが、決してそうではありません。

野口整体を実践している皆さんは、すでにある程度それを使いこなしているのです。それは「気」です。手が(自分の、あるいは、他の人の)必要なところにすっとくっついていく。背骨の鈍っているところが黒く見える、相互活元運動でお互いに共鳴し合う、などなど。

みなさんはある程度そういう気の世界を体験しています。野口先生が言われている気というのは、それは明らかに神秘的なものではなくって、五感以外の確かなものとして、気をちゃんと感じられる。誰でも生きている以上は、それは働いているんです。ただ、アタマが五感を通してアタマで認識できるものしかないと思っているので、目で見えたものだけがあるとしか思ってない。だから、野口整体を本当に知らない人は、「そんなのは超能力じゃないの」なんて言うのです。

野口先生の場合は、幼い時に声が出なくなった。ジフテリアです。それで、苦しまれて、それを何とか全力で打ち破ろうとした時に、別の感覚器が、元々働いてたんだけどそれがバーッと活性化したということだったんだろうなと推測しています。

気の世界というのは単なる観念としてじゃなく、事実として明らかにあるんです。それをあるということがわかっただけじゃなく、僕らが目で見て、ここに茶碗がある、あ、これはちょっと冷たいなとか、それと同じような感じで、野口先生の場合は、気というものを確かな感覚として、使いこなされていたんだと思います。だから、先生は「誰にもそれがあるんだ」ということに気がついて、それを使っていけば、だれでも健康になっていく」と言われたのです。

ところが、現代人は「五感とアタマの認識力、人間の能力はこの程度なんだ」と封じ込めてしまって、こういう能力は特殊な人だけにある特殊能力であり、普通の人間は頼りなく、ひ弱な存在であり、薬や注射など外部からの助けがなくては生きてはいけないと思っています。そして、現代科学をすっかり当てにして、もともと誰にでも自分で自分を整え、健康を維持していける素晴らしい能力が具わっていることにも気がつかない。だから、もちろん、活用もしないのです。

だけど、現実にこうやって生まれてくること自体、呼吸していること自体、みんな五感だけの働きではない。五感を通してアタマで認識できるものとは違うところの働きがあって、こうやって生きているわけです。五感はごく一部でしかないのです。

むしろ、気とかそういうもののほうがより確かです。距離が離れていても通じるんです。直接見てなくても、壁を通してでも通じ合うことができる。これは普通特殊な能力と思われているけれども、実は、当たり前の能力なんです。

ですから、もう一回そこに立って、人間とは何なんだと考えてみるべきなのです。自分の能力を自ら封じ込め、限定したところで、野口整体で言われていることを捉えようとしても捉えきれない。だから難しい、難しいとなってしまうわけです。生まれつき特殊な能力を持った人だけができるようになるんだろうとか、特別な訓練をしてそういう能力を開発しようというようなことになるんですね。

でも、「そんなようなことやらなくても、元々誰にもあるんだよ」というところから出発しないとダメです。そうでないと、修行して、「自分が」そういう能力を身につけたいという、「俺が俺が」の競争になってしまう。俺はすごいだろうと。こんな力があるんだよ、ということになりがちです。

そんなものが一体人間の何の役に立つんだ。本当の幸せということから言うと、言葉では、「自分を向上させるのだ」などと、美化してるんだけど。それを一枚引っ剥がすと、「自分が人よりも勝っていたい」というところが見えてくるんですよ。一言で言って、「グダラナイ」。

それは余談ですけども、「ほら、見えるものの奥に、透明で見えないものがあるでしょう」なんて話を、普通の人が聞いたら、なんて言うでしょう。「この人は特殊能力の持ち主なのかな?」と思うかもしれませんが、僕が言おうとしているのは、誰でもそれが当たり前にならないと本当の生きている甲斐がないっていうことです。実は、みんなそういう能力を備えており、その力によって生きているけれども、それをこの社会の洗脳によって、無意識のうちに封じ込めているのだ、と言いたいのです。

いずれにしてもいきなり、「空」というようなところに行かなくても、まずは「絶対の静寂」ということがはっきりしていくと、自然にそういうものはわかってきます。ただ、静寂と音と空間、それは違うものみたいな観念でそれらを別々のものであると区別していれば、本質に気がつきにくいのです。静寂、それは透明な空間や空に通じる、ということがアタマに入っていると、そのうちに、「なるほど、みんな同じことなんだ」ということを体験的に理解できると思います。

大切なことは、できないと決めつけないこと、そして、ほんとは簡単だということ。それから、絶対の静寂ということは、別のほうから言えば、空ということでもあるのか、ということをアタマに入れておくということです。それが今わからなくても、そのうちに、あ、なるほどこういうことかと解ります。いっぺんにここで全員が「みんな空です」とならなくても、ひとりひとりの気づきの歩みというのがあるのです。でも、そのように思い込もうとするのではありません。

ということで、もう一度、川の瞑想に入ります。

今回の川の瞑想は長いです。25分くらいやります。時間が長いと、途中でだらけるみたいな、眠くなってくるような人は、気をしっかりとしてやっていくとより深く入っていきます。

整体の実習では、普段、この川の瞑想の時間をあまり取ってないと思うんですけども、家でやる時はできるだけ長く、最低20分、できれば50分やってほしいわけです。そうすると深まり方が全然違うので、さっき言ったように、あ、本当に何もない。体もない、消えちゃった、というようなことを当たり前に体験するようになるでしょう。

でも、そういうことを興味本位でやることではない。あくまで、五感を超えて、自己の本質、存在の真実を体験的に捉えるのだという気持ちでやってください。「見えるもの」が「見えないものである」、透明な空間でもあり、空であるというのは単なる観念的なことではないんだということです。

NHKで最近やった番組ですが、交通事故で脳に損傷を受けて、突然絵を描きたくなった。描いてみたら、緻密な幾何学模様で、すごいものが描けた。それ以来、描きたくて描きたくてしょうがない。いいものが描けたからもっと描いてみようとかそういうんではない。描きたいという気持ちが中から湧きだしてくる。それまで絵なんか全然描いたことがなかった人がそんな絵を描いてるわけです。

そういうようなことが、絵だけじゃなくって、アタマにいろんな数式が浮かんでくるとか、世界中にいろんな症例が見つかっているんです。やったことがないのに。何でできるんだと不思議でしょ。私たちの脳の中にはものすごい能力があるんです。でも、その一部しか使ってない。特にあなたは。いや、みんなそうなんです。すごい天才なんて言われている人だって、脳のごく一部しか使ってない。何パーセントも使ってない。ほとんど99パーセントは使ってない。

野口先生なんかは普通の僕らから比べるとすごいですよ。本を読むスピードが1ページ数秒。で、それを30年たっても一字一句、全部覚えている。昔の漢文とか。そういう難しいのを。和田先生もそういう方でした。

脳のある部分が開けているのです。というか、実はそっちのほうが当たり前だということです。野口先生にしても和田先生も同じ言い方をされている。できるほうが当たり前なんだと。できないのは自分で意識的にアタマを変な使い方をして、閉じ込めているからだと。だから私たちはまだまだ可能性があるのです。お互いによかったですね。

みんなすごい能力があるということです。感覚器も必ずしも五感だけではない。気なんていうのはごく当たり前の世界。ものが透明に見えたなんていうのは、昔から伝わっている坐禅の悟りの体験談を読むと、あちこちで出てくる。

「ここにこのようにあるのが何で空と言えるんだ」と最初は思うわけです。一体何を言っているんだと。あるいは、逆に、それをもって「悟りだ、悟りだ、とても凡人の及ぶところではない。すごいことを達成されたんですね」みたいになって崇め立てられているわけです。でも、それは誰でもできると思っていると、そのうちにごく当たり前にいろんな現象が起きてきます。

でもそれは決して自分が素晴らしいからじゃない。人よりも優れているからでも何でもない。ただそういうことが起きるんだなということです。他の人もそういう能力を持っている。誰だってできることが、自分にもそのうちのひとつが起きたんだな、と自然に謙虚でいられるわけです。だから、誰でもただの人。野口先生も和田先生もただの人なんです。

ただ、野口先生にしても和田先生にしても、ものすごく愛情深い方でした。キリストの話もしましたけど、とにかく愛情深い方々です。ひとりひとりの存在を本当に認める、それはすごいです。努力して認めているんじゃなくて、本当に存在として認めて、大切にする。このような方々に出会って、自分の目が開けました。

奈央先生もそれでいのちを救われたのです。だから野口先生に対してはもう信仰とかそういうんじゃなくって絶対的な信頼があるわけですね。ひとりの人間としてはっきり認めてもらった、どんなに生きていてよかったと言えるかということですね。それでここまでやって来たんですね。僕にとっては和田先生がそういうお方です。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その6

川の瞑想の実際  その6
(その5からのつづき)

静寂ということをテーマに川の瞑想をやっているわけですが、今目を開けてやったと思いますけど、目を開けているといろんなものが見えます。それは全くの静寂であり、実は、「空」なんです。いろんなものが見えているわけですけども、その実体は空であるというのがしだいにはっきりしてきます。

ちょっと理屈っぽく説明すれば、静寂というのは音が“ない”ということです。つまり、音はその“ない”という静寂から現象として現れて、そして、また、“ない”という静寂に戻っていきます。ですから、現象としての音の本質は何もない静寂だということです。

言い方を変えれば、静寂というのは “ない”ということですから、「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

同じように、眼に見えるものは“透明で見えないもの”、すなわち、“何もないもの”から現象として現れ、そして、また、“何もないもの”に戻っていきます。

“何もないもの”というのは「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

したがって、静寂=なにもないもの=空=透明で見えないもの、であり、「空」を聴覚を通して認識したものが「静寂」であり、視覚を通して認識したものが「透明で見えないもの」ということになります。

ですから、音を通してその奥にある静寂を実感することも、見えるものを通して透明で見えないものを実感することも結局は同じことであり、現象の奥にある空を実感しているのです。

そして、それは自分の外にあるものだけではありません。視線を反対方向、すなわち、自分の体の内側というか、奥に向ければ、そこに絶対の静寂と絶対の透明な空の世界が広がっていることに容易に気がつくことができます。

何かを見ている自分、あるいは、聞いている自分をどこかで意識しています。また、体の感覚を感じたり、思いも出てきます。けれどもそういうものは現れるままに放っておきます。

そうすると、静寂がはっきりしてきて、思いもぽつぽつとたまに出てくるという感じになって、心が穏やかになり、安らいで、まったく気にならなくなります。そして、とても澄んだ心になっていきます。

そのようになって来た時にはっきりすることは、自分というものの実体、ここに肉体があって、そこに、いろんな思いもあったりして、何かが詰まっている感じがしていたのが、今度は自分自身が何もない。その実体が空であるということがはっきりしてきます。

これが、道元禅師が言った、身心脱落という境地ではないかと思います。でも、境地というよりも、誰でも本当はもともとそうなんです。

道元禅師の身心脱落の体験のエピソードはこういうことです。道元禅師が、もう800年以上昔ですけども、中国の南宋の地に行かれて、そこで、如浄禅師というお師匠さんの下で修業されました。

夜、鐘の音か鳴り、みんなが坐禅堂に集まって坐禅をするわけなんですね。真夜中になってもみんな坐っていた。そしたら、如浄禅師が入って来られて、たまたま道元禅師の近くで居眠りをしていたお坊さんをしかるわけです。

「坐禅中に居眠りをするとは何事だ。真剣にやりなさい。身心脱落せよ」と大きな声で叱ったのです。脱落という意味は「抜け落ちる」ということです。

それで、道元禅師もあらため、真剣に坐りました。どのくらい時間たったのか、道元禅師が如浄禅師の部屋入って、お線香を立てて、礼拝した。そこに仏像か何か置いてあったんでしょうか。

で、如浄禅師が訊ねるわけです。「何しに来たのか」と。道元禅師の言葉は本当にかっこいい。「身心脱落して来たる」と。明らかに、道元禅師は悟られたのですね。身心脱落ということを、観念ではなくて、体感というか体得された。それが、道元禅師の教えの基本になっているんですね。「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」
というわけです。

その身心脱落というのは、今、みなさんのうちの、少なくとも何人かは体験された、その状態です。自分の身も心もその中身は空っぽである。空である。ただ澄み切ったものが、透明なものが、そのままあるだけだ。そして、いろんなものがあるけれども、みんな中身空っぽ、空である、ということです。

人間はいつも「何かがあるはずだ、あるはずだ」と思っているわけです。そう思っているから、本当のことに気が付かないけども、本当は何もないんだ。いろいろな現象や存在は何もないところから立ち現れている。それがわかってくる。この中にもわかった人がいると思います。

難しいことではない。非常に単純なことなんですが、このように、わかりやすく、説明したのを僕は聞いたことはありません。

昔からみんな、坐禅の本とかいろんな記録を見ても、悟ったというような体験はあっちこっちにあります。すごい修業をして、大変な思いをして、それで、何かがバーンと外れて悟った。中身空っぽである。空であるというようなことは書かれている

けれども、その身心脱落ということが文字通りどういうことであるかということはあまり説明されていない。今みたいに、こういうような、川の瞑想ですね、そういうものを通じて体験できるというふうに説明したものはありません。

偉ぶって言っているわけではなくと、事実として言っているのです。そして、誰でもできることなんです。

道元禅師が「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」と言われたのは、ご自身の心身脱落の体験から、「正しい態度で坐禅をすれば誰でもできるのだよ」ということが根底にあるのだと思います。実際に、道元禅師にそういうふうに言われて心身脱落を体験されたお弟子さんもいると思います。けれども、はっきり言って、少なくとも現代人には、それだけでは足らないように思います。

只管打坐ということで、ただひたすら坐りなさい、全てを任せて坐りなさい、自分のアタマの思いを追っかけないで、ただアタマの思いを手放しにして座りなさい、と言われます。

それは間違いではないですが、いろんな妄想が渦巻くような状態で、自分はアタマの思いを手放しているつもりでも、本当にアタマの思いを手放していることができるのか、疑問です。

只管打坐。思いを手放して坐る。そのこと自体が身心脱落だというふうに説明されています。確かに思いを手放しにして坐相をしっかりと守り、任せているという意味では、それでいいんです。

だけれども、全てが静寂の中から起こっている。全てが空から、無と言ってもいいですが、何もないところから現れているんだということを、体感しながら坐っていなかったら、それは本当の意味でのアタマの手放しにもならないし、ただ観念的に「坐ることがすなわち心身脱落だ、悟りだ」と思っているにすぎないのだと思います。いろいろな異なった考えはあるとは思いますが、僕自身の体験からはそう思うわけです。

それはそれとして、こういうふうに、畳があるけども、そこを見ていると、ただ静寂しかない。そこをさらに見ていくと、畳という形には現れているけど、その奥には、空があるだけです。

そういうようなことがはっきりして、見えているものだけではなくて、見ている本人自身も空なんだということが、観念ではなくはっきりわかる。それを確認しながら坐っている。

そこまでいかないと、といっても、そんな難しいことではないんです。誰でも10分とか15分の中で体験できるわけです。それをきちんと言わないと、「ただ坐りなさい」というだけでは、本当の意味では、道元禅師が言われた身心脱落にはならないだろうと思います。

言葉がちょっとかっこいいもんだから、どこかのお坊さんが「ただ坐りなさい」なんてやっているというのを聞いたことがあります。でも、「ただ坐る。それが悟りだ」と言われても、何の実感もなく、何にもなりません。

内山興正先生は「アタマの思いを手放しなさい全てを任せて坐りなさい」と的確に言われています。実際に、きちんと、アタマの思いを手放すことができるように、綿密に指導されたのだと思います。

坐禅だから動かないんですけども、活元運動みたいなもんですね。そこまでは、間違とはいないけども、その先が、静寂とか、空。それを自分自身の実体なんだ。周りの世界もそういう空の世界から立ち上がっている。それを体感しながら坐っていないと、かえって観念的な坐りになってしまい、本当の意味での、只管打坐にはならないと僕は思います。

身心脱落というのが一番難しいこととされているわけです。そんなものではない。では、ただ坐っていればそれが身心脱落かというと、そうでもない。そこが、自分が空だということ、これがはっきりしない限りはどこまでいっても自分というかたまりに固執するわけです。

自我。アタマで何とかしなきゃと、どこまで行っても、自我が抜けきらない。自分の本体が空であることを実感していなければ、どこまでいっても、自分と思っているもの、つまり、自我にしがみつきます。

かつての僕のように、普通の人は、なんか自分というころっとしたものがあると思っているわけです。単なるアタマの思いだけではなく、体も心もなんかころっとしたもの、これこそが自分だと思っているわけです。そのころっとしたものの奥を見て自分の本体そのもの、つまり、空であることを観るというのが川の瞑想です。

(つづく)





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