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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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どこへ行く?

どこへ行く?

和田重正先生が書かれた『もう一つの人間観』という本のなかに『どこへ行く――ピン公の話』という文章があります。これは和田先生の書かれた文章のなかで僕が一番好きな文章です。以下、その要旨を簡単にご紹介しましょう。

どこへともなく向かって泳ぎ続けているイワシの大群のなかで、若者のピン公とその友達のピムが突然「自分たちはこうやって何年も泳ぎつづけているのだが、一体どこに向かっているのだろう?」という疑問を抱きます。

それで二人であれこれといろいろ話し合ったのですが、どうしてももわかりません。気になって仕方がないので、二匹はちょっと風変わりな年寄りのピキ爺さんに尋ねてみることにしました。

 最初はピキ爺さんは「わしは知らん」とぶっきらぼうに答えていましたが、二匹が食い下がってさらに尋ねると、次のように答えてくれました。

 「実はどこにも行かないんだよ。この大群集が日に夜をついで泳ぎに泳いでいるから、どこに行くのだろうと誰でも思うのだが、別にどこにも行きはしないのだよ。めいめい夢中になって何かを考えているのだろうが、何を考えても考えなくても兎に角みんなどんどん泳いでいる。どこへも行きやしない。みんなただ泳いでいるぞ」。


 私たちはこの世界の中であれこれ考え、いろんなことをしたりしながら生きています。

ほとんどの方は、そのように生きることによって,自分、あるいは、自分たちがどこかへ向かっていると思っているのではないでしょうか?

でも、真実は、私たちはどこにも行かないのです。ただ生きているのです。

例えて言えば、私たちが生きている現象の世界はスクリーン(いのち・本質)に投影された映画(現象)のようなものであり、この現象の世界のいろいろな存在は映画の中に出てくるいろいろな物や植物や動物や人間たちであると言えましょう。

そして、個としての意識を持った人間はそれぞれ登場人物の一人であり、自分が「主役」だと思っています。

映画の中ではそれぞれの登場人物があれこれ考えたり、いろいろなことをします。そして、そうすることによって、自分がどこかに行ってしまうと思っています。

けれども、真実の自分はスクリーンそのものなのですから、何を考えようと、考えまいと、何をしようと、しまいと、だれもどこにも行きません。

夜寝ていて、どこかに行く夢を見たとしても、夢から醒めてみれば、実際にはどこにも行っていないのと同じようなものです。

ピン公たちはピキ爺さんの言葉を聴いて、自分の本質が不生不滅の“いのち”(スクリーン)であることに目覚めたのです。

たしかに、現象の世界だけを見ていると、自分(あるいは、自分たち)がどこかに向かって行っているように感じることは事実です。

それが悪いと言っているわけではありません。でも、真実は自分はどこにも行きません。

また、死んでもどこにも行きません。というか、真実の自分は死なないのです。

私たちはただ生きています。だれもどこにも行かないし死なないのです。





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真実の世界と幻想の世界  その2

真実の世界と幻想の世界  その2
  (続き)

真実の世界は“いまここ”にありのままに現れています。

このそのままの現実こそ真実の世界です。

そのありのままの現実には、分離や“個”や“自分”はどこにもありません。

“いのち”がただいろいろに現れているだけです。

良いも悪いもありません。

これは「良いとか悪いとか思ってはいけない」と言っているのではありません。

良いとか悪いと思うことも良いことでも悪いことでもありません。

でも、もともと、良い悪いはありません。その事実を言っているにすぎません。

要するに、この世界は良い悪いなどあらゆる思い、悲しい嬉しいなどあらゆる感情、あらゆる観念や概念を超えて、ただ起きているだけです。

ですから、この世界はいろいろにありながらも、そのままで完璧です。(ここに言葉による表現の限界があります。)

その完璧さの中ですべてがただ起きています。

何もしなくてもよいとか、しなくてはいけないなどと言っているのではありません。

でも、本当はとてもシンプルな世界です。

そこには完全なる自由と安らぎと悦びがあります。

この世界に入るのは実に簡単です。なぜなら、もうすでに入っているからです。

ですから、ただ、「ああ、そうなのか」と認めればよいのです。

例えば、禁煙するのはとても難しいと言われます。

でも、それは「タバコがなければ楽しく生きていけない。自分にはタバコは絶対必要だ」と思い込み、吸いたい欲望をガマンしようとするからです。

現在スモーカーである人でも、もともと、昔、タバコを吸ってなかった時にはタバコはまったく必要なかったということを思い出してみれば、タバコを吸うことはまったく必要がないことが容易にわかるはずです。

そうすれば、吸いたい欲求も出てこなくなります。吸いたい気持ちがなければ、タバコを吸わないでいるのに何のガマンも努力も必要もありません。

このように、タバコをやめるには、誰でももともとノンスモーカーだったことに気が付けばよいのです。

それと同様に、もともと“個”も“自分” があると思っていたのは錯覚だったことに気が付けばよいのです。

人間以外の動物は“個”という意識も“自分”という意識もありません。

そして、誰でも赤ちゃんだった時には、“個”という意識も“自分”という意識も持っていなかったのです。成長してから、勝手に“個”や“自分”という意識を持つようになっただけです。

“個”や“自分”というものがないことに気が付くのは、実に、簡単なことです。

でも、切実な問題意識がなければ、アタマの先っぽだけの理解に終わってしまうかもしれません。

それではダメです。

いずれにしても、動物や植物と違って、人間は逆説的な道を歩まなければならないようにできているのかもしれません。

でも、もともとがそうなのですから、気が付くのは、実に、単純なことなのです。

存在の真実は実にシンプルに“いまここ”にあります。

(終わり)


次回からは、このところ集中して書いているブログをより深く理解していただくために、以前アップした『奇妙なガラス板』の1~6を再掲載します。じっくり読んでみてください。





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真実の世界と幻想の世界  その1

真実の世界と幻想の世界  その1

真実の世界は“いのち”の世界です。

“いのち”だけが実在であり、その他には何も実体としては存在しません。

この世界は“いのち”が瞬間瞬間に無数のいろいろな模様を織りなす不可分一体の世界です。

分離したものは一つもないので、“個”はありません。したがって、“自分”もありません。

人間は相対的にしか思考できない大脳(アタマ)を持っているために、五感を通して捉えたこの世界をバラバラに分離した“個”の寄せ集めだと認識します。

つまり、無数の“個”という実体があり、その中の一つとして“自分”という実体があると錯覚してしまうのです。

逆に言えば、「“自分”というものがある」という思い込みを持って真実の世界を見ると、この世界はすべてバラバラな“個”の寄せ集めに見えてしまうのです。

でも、それは幻想の世界にすぎません。

では、どうしたら真実の世界が見えるのでしょうか?

真実の世界は“自分”という意識が消えて、全体に溶け込めば見えてきます。

アタマを持っていない人間以外の植物や動物、そして、アタマがまだほとんど働いていない人間の赤ちゃんは、“自分”という意識を持つことなく不可分一体の世界でそのまま素直に生きています。

実は、人間もアタマでなく、本能のレベルでは“自分”という意識はなく、不可分一体の真実の世界で素直に生きています。

それは人間の体のいろいろな本能的なはたらきを観察してみればすぐにわかる事実です。

そして、体だけでなく、人間は本能、あるいはそれを超えたどこかで真実の世界に気が付いてはいるのですが、人間はアタマでこの世界をバラバラの世界だと捉えています。

ただ、それが幻想であるとは言っても、その幻想ぐるみ人間は真実の世界で生きているのも事実です。。

なぜなら、この不可分一体の真実の世界からはみ出るものは何もないからです。

ただ、なにかスムーズでない感じがするのは事実です。

でも、それも“いのち”の表現の一つです。

人間的に考えれば、“いのち”が何かの意図を持って、そのように表現しているのかもしれません。

では、どうしたら“自分”という意識が消え、全体に溶け込むことができるのでしょうか?

それは分かりません。

「いつ、どのようにして」と言うことはできません。なぜなら、それは起こる時に、ただ起きるからです。

それは坐禅などの瞑想などがきっかけで起こるかもしれません。

何かで、文字通り、絶体絶命の行き詰まりに遭遇した時に起こるかもしれません。

何気なくぼーっとして歩いている時に起こるかもしれません。

台所で皿を洗っている時に起きるかもしれません。

でも、真実の世界はどこかにあるのではありません。

真実の世界は“いまここ”にあります。

“いまここ”が真実の世界です。

それは離れたことなどないのです。

“いのち”の世界では、良し悪しという”思い”を超えて、そのままですべて完璧であり、「すべてよし」です。





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悠久の今

悠久の今

ある日の午後、玄関から外に出ると、階段の手すりの上でアッピ(3歳のオスのトラネコ)が眠っていました。

近寄ってそっと撫ぜてやると、アッピは目を覚まし、いつものように体を摺り寄せてきました。

空を見上げると、冬の太陽の下、風もなく、何とも言えず穏やかで暖かな景色が広がっています。

遠くには雄大な山並みが連なっています。

目に見える範囲だけではなく、それを越えて、この宇宙のすべてが連なった不可分一体の世界です。

空間的にすべてが連なっているだけではありません。時間的にも過去―現在―未来のすべてが連なって、「いまここ」に存在しています。

たしかに、「いまここ」には五感で感じられるものや計器で感知できるものしか存在していないように感じるのは事実でしょう。

でも、五感で感じられなくても、計器で感知できなくても、実際に存在しているものが無数にあることはすでに科学的な常識です。

でも、ここで言おうとしていることはそういうことではなく、過去のすべても未来のすべても「いまここ」の(観念ではなく)事実としてすべて現れているということです。

この世界は私たちの五感やアタマを通すと、すべての存在がバラバラにしか認識されません。

ところが、五感や通常のアタマの認識を超えて、存在の真実をこころの眼で直視すると、この世界は空間的にも時間的にも不可分一体の世界だということが明らかになります。

あの日の午後アッピと一緒にいた瞬間には、空や雲、山々、木々、草など、目の前に展開していることだけでなく、この宇宙にその瞬間に起きているすべてのこと、過去に起きたすべてのこと、これから未来に起きるすべてのこと、すべてが凝縮されて存在していたのです。

釈迦は「この世界は無常である」と言っています。つまり、この世界のすべては一瞬一瞬、姿、形、中身は変化しています。

それはその通りですが、でも、それは過去の存在や起こったことが消滅してしまったということではありません。過去はいまここの事実に「織り込まれて」厳然と存在しています。

未来のことについても同じです。実は、いまここの事実の中にすでに「織り込まれて」厳然と存在しています。

生死が事実であることも真実には違いがありません。でも、同時に、釈迦もキリストも、あの人も、あの人も、あの人も、そして、父も母も兄もみんないまここに、僕の中に、アッピの中に、庭の松の木の中に、空の雲の中に生きていることも、勿論、自分が死なないことも厳然たる真実なのです。

僕はその短い時間アッピと一緒にいて無上に幸せでした。何一つ欠けているものがなく、すべてが完結しているからです。

僕は嬉しくて思わずにっこりと微笑みました。そして、同時に全宇宙の存在が微笑んだのを確かな感覚で感じました。

「いのち」は、この世界において、存在の真実を自覚する存在が現れるのを期待しているのだと思います。

なぜなら、それが「いのち」の本性であり、そして、自己の本性であるからです。





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時は流れず

時は流れず  

「時」というものに関して、ほとんどの方は「やって来ては流れ去るもの」、あるいは、「自分やいろいろな存在の外でたゆまず流れているもの」つまり、「去来するもの」というような確固たるイメージを持っているのではないでしょうか。

例えば、変な質問ですが、「昨日はどこにありますか?」と訊かれたら、あなたは何と答えますか?

多くの方は「今という瞬間しかないのだから、昨日は去ってしまってもうどこにもない。強いて言えば、このアタマのなかに記憶としてあるだけだ」というように答えられるのではないでしょうか。

同じように「明日はどこにありますか?」と訊かれたら、やはり「今という瞬間しかない。明日はまだ来てないのだからはどこにもない。強いて言えば、このアタマのなかにあるだけだ」と答えられるでしょう。

たしかに、落ち着いて考えてみれば、「いつも今という一瞬があるだけ」というのはその通りだと言えるでしょう。

ですから、「昨日はすでに去って、明日はまだ来ていない」、つまり、過去も未来も記憶やイメージ、「思い」としてあるだけで、事実としてはない、というわけです。

僕も「そうだ」とは思うのですが、存在の真実から言えば、「時は去来する」というのは「時」というものの単なる一面的表現でしかありません。

つまり、時は去来するように見えるだけなのです。

ということは、過去も未来も厳然として存在しているということです。

「えっ! どこに? 今しかないのに、何を言っているの?」と思われるでしょうね。

そうです。その「今」(ここでは「いまここ」といったほうがいいかもしれませんね)の中に過去のすべても未来のすべても、アタマの中の記憶やイメージとしてではなく、厳然たる事実として存在しているのです。

「でも、そう言われても、過去も未来も見えないし、手で触って感じることもできない」と言われるかもしれませんね。

本当にそうでしょうか? 

「過去も未来もない」という思い込みで、そのように思うのが当然だと決めつけてはいませんか?

今、目の前のテーブルの上にミカンが1個あります。

この1個のミカンはたしかに1個のミカンにすぎませんが、このミカンがここに存在しているという事実にはビッグバン以来の138億年におよぶ過去の宇宙のすべての存在とはたらきが凝縮しています。

同時に、いまこの1個のミカンが全宇宙を支えています。

そして、この1個のミカンの存在が全宇宙の未来を創造していくのです。

これは厳然たる事実です。

過去のすべての存在や出来事は過ぎ去ったのでも消えてしまったのでもありません。

「いまここ」に過去のすべてが織り込まれて事実として存在しています。

未来のすべての存在と出来事もまだ来てないのでも現われていないのでもありません。「いまここ」に未来のすべてが織り込まれて存在しています。

全宇宙、全世界の過去、現在、未来のすべてがいまここに不可分一体のいのちとして現成(げんじょう)しているのです。

ということは、いのちの世界には本当は時間はないということです。




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