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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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音のない世界が宇宙の実相

音のない世界が宇宙の実相

朝早く散歩に出かけようとすると、前日、前々日の澄み切った青空はうそのように一面の空を雲が覆い、雨がほんの少し降っていました。

そのまま傘もささずに森の中を散歩したのですが、鳥の声も風の音もなく、雨の音さえも聴こえません。

そこには音のない世界だけがありました。

しばらくすると、「キー」という鳥の声がしました。

それからだんだんいろいろな鳥の声が聞こえてきました。

遠くから車の走る音もかすかに聞こえてきます。

雨が少し強くなり、木々の葉っぱに当たる音も聴こえ、周りがだんだん賑やかになってきます。

そのとき、あらためてふと「こんな簡単なことなのに見失っているんだな」と思いました。

静寂は音と音の合間、あるいは、音の切れ目に現われるのではありません。

もともと音のない静寂の世界がずっと存在しているのであり、そのなかに現象として、いろいろな条件によって音が現われたり、続いたり、消えていったりしているだけなのです。

何かの音が鳴っているときでも、それらの現象とは別の次元において、音のない世界はそれらの音に乱されたり邪魔されることもなく、ずっと変らず完璧な静寂のまま存在し続けています。

このもともと存在し、どんな現象によっても乱されたり破れたりすることのない音のない静寂の世界こそが宇宙の実相なのです。

さらに言えば、このもともと音のない世界、つまり、静寂こそ自分自身の実相・本質なのです。

音のない静寂の世界の存在に気がつくのはこれほど簡単なことです。

たとえば、真夜中にそっと起きて耳を澄ませれば、もともと静寂の世界があるのであり、そこに何かの音がしていても、その音のために静寂が破られるわけではありません。

その証拠にその音が止んだとたんふたたび静寂の世界を感じることができるでしょう。

音のために静寂が乱され破られたと思うのはアタマの勘違いです。

音がどんなにしていても、それが静寂を乱したり、破ったりすることはできないのです。

ただ、そのように思う人にはそのように思えるというだけです。

それは青空と白い雲との関係に似ています。

白い雲が青空に浮かんでいるとき、白い雲は青空そのものを乱したり、破ったりすることは絶対にできません。

青空は白い雲が現われる前も、現われているときも、消えた後でも、ずっと変らず青空のまま存在しています。

雲が増えて空一面を雲が覆ったとき、青空はなくなったように思えるかもしれませんが、ただ、そのように思えるだけで、青空は雲の上にずっと変らず青空として存在し続けています。

音のない静寂の世界はこの青空と同じです。

瞑想の自然法はこの音のない静寂の世界、つまり、宇宙の実相、そして、自己の本質に戻るためのもっとも容易で効果的な瞑想法です。

瞑想の自然法に習熟してきたあとは、日常生活の中において、どんな状況においても、いつも本当の自分自身を見失わないように、常にこの音のない静寂にこころを据えて生きていけるように実践を深めていってほしいと思います。






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静寂のなかの風景

静寂のなかの風景

我が家は山の中腹に位置しています。

少し離れたところに数軒の家がありますが、畑や森が我が家を取り巻いています。

そのため、町に比べると随分と静かです。

何の音もしないということではありません。

すぐちかくで、ほとんどいつも、いろいろな子鳥のさえずる声、ニワトリの鳴き声、虫の音などが聴こえています。

時々遠くから自動車の音も聴こえます。

家の近くに道路があるので、たまには自動車が通過していくときもあります。

でも、とても静かなのです。

山道を歩いていると、木の葉が風に揺らぎかすかな音が聞こえます。

自然の中では草や花や樹木、小鳥、虫、風、空、雲などがいつもあるべきところにあるという感じで、ただ、そこここに落ち着いています。

それはたしかにいろいろな音は聴こえているのですが、にもかかわらず、すべてがそのままで静寂です。

何の努力や修行をすることもなく、いつもこのような静寂を味わうことができるのはぜいたくの極みです。

その静寂のなかに身を置いていると、そこにはなんとも言えない安らぎがあります。

それは、静寂の中ではアタマのハタラキが沈静するためだと思いますが、自然にその場に自分がすっぽりと溶け込んで、自他の境い目(仕切り)がなくなってしまうからだと思います。

ですから、もはや“自分“という意識する作用も起きてきません。

そして、そこにはたしかに、いろいろな音とともに木の葉の動きや風や雲の流れのような活動はあるのですが、時間というものはありません。

過去も未来も、そして、いまもない、というか、その区別がなくなってしまいます。


それは、いろいろなものが在りながら、同時に何もない世界です。

この静寂の中の風景、あるいは、静寂そのものを僕は“いまここ”と呼んでいるのです。

でも、感覚が何もなくなってしまうわけではありません。

道に沿ってちゃんと歩くこともできますし、周りを見て、景色を楽しむこともできるのです。

いろいろな思いを浮かんでは消えます。


でも、すべてが、自然に、ただ起きています。

アタマがボーっとしているわけでもありません。

そこにはいろいろな思いは浮かんできます。

でも、いちいち「自分は、あるいは、自然はどうのこうの」というような論理的、あるいは、分析的な思考はほとんど出てきません。

本当は、町の騒音のなかでも、その奥にはいつも完全な静寂な世界があります。

そして、ほんのちょっとしたコツのようなもので、いつもごく自然にそれを味わうことができるのです。

それができるようになると、どんな状況の中でも、存在の真実を実感しながら生活することができるようになります。

でも、残念ながら、そのコツを文章や話だけでお伝えするのは不可能です。

僕のセミナーに参加して説明と実習を通じて気づいていただくしかありません。

それも難しいということであれば、日ごろからできるだけ機会を作って、静かな公園などに行くことをお勧めしたいと思います。


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思いと静寂

思いと静寂

山の秋はすてきです。

木々の葉が少しずつ色づいてきて、青空にはいくつかの白い雲がぽっかり浮かんでいます。

そうです。雲があっても、厳然として青空があります。

それは誰でも肉眼で確認できる単純な事実です。

ところが、空一面が雲で覆われていると、青空は肉眼では見えません。

では、青空は消えてしまったのでしょうか?

そうではありません。たとえ、空一面が雲で覆われていても、青空は厳然として存在しているのです。

私たちは、覆っていた雲がしだいに晴れて、青空が少しずつ見えてくるのを見て、「もともとずっと青空はあったのだ」という事実を経験的に知ることができます。

でも、それは経験にもとづいたアタマの記憶でしかありません。

空が雲で覆われているときに、肉眼で確認している事実ではありません。


さて、この世界にはほとんどひっきりなしにいろいろな音がしています。

でも、そこには同時に絶対的な静寂が厳然として存在しています。

いろいろな音がしだいに消えていくと、少しずつ静寂を感じることができます。

そして、音がほとんどすべて消えてしまうと、「もともとずっと静寂はあったのだ」という事実を私たちは経験的に知ることができます。


でも、それは、事実を体験した記憶にもとづいて、アタマで推測しているだけで、“肉耳”、つまり、自分の耳で実際に確かめているのではありません。

これではダメなのです。理屈や推測などはいくらでも反論できるからです。

ですから、どうしても、“肉耳“で直接事実を確かめなければなりません。

でも、聞こえてくる音を相手にしているかぎりは、静寂を“肉耳“で確かめることができません。

ですから、聞こえてくる音をいちいち相手にしないことです。

そうして、“音なき音”を聴こうという態度でいれれば、そのうちに、「聞こえてくる音の奥に絶対的な静寂が厳然として存在している」という事実に、ハッと気がつくことができるでしょう。

一度“音なき音”に気がつくことができれば、その後はどんどん容易に気がつくことができるようになります。

そうなると、“音なき音”を聴こうとしなくても、いつも聞こえているようになるのです。

そのうちに、その静寂の中にいる自分自身が、実は、静寂そのものであることに気がつくでしょう。

ところで、ここまで、外から聞こえてくる音と静寂の関係について述べてきたのですが、思いや気分や体の感覚などについても同じです。

つまり、思い、気分、体の感覚などがあっても、そこには絶対的な静寂が厳然としてあるのです。

“思い”はあってもいいのです。

思いをなくさなければ、静寂が訪れないということではないのです。

「思いが静寂を邪魔している。だから、思いをなくさなければいけない。次から次へ雑念が湧いてくるので大変だ」などと思いをいちいち気にしているから静寂に気がつかないだけなのです。


とにかく、どんな思いや気分も相手にしないで手放しにすることです。

こんな簡単で楽なことはありません。




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スクリーン

スクリーン

眼を閉じて瞑想をして、しだいに思考が静まってくると、いろいろな音や声が聞こえているにもかかわらず、同時に、絶対的に静寂な世界があることがわかります。

音や声の世界と絶対的に静寂の世界と二つ別々に存在しているようにも感じます。

が、また同時に、絶対的に静寂な世界のなかから音や声が現れては、また消えていくようにも感じられます。

そして、さらに思考が静まってくると、聞こえている音や声が、実は、同時に、絶対の静寂そのものでもあることがわかってきます。

今度は、半眼の状態で瞑想して、しだいに思考が静まってくると、いろいろなものが見えているにもかかわらず、同時に、絶対的に透明な世界があることがわかります。

絶対的に透明なスクリーンの上にいろいろなものがずっと映っているようにも感じます。

が、また同時に、絶対的に透明なスクリーンの中からいろいろなものが現れては、また消えていくようにも感じられます。

さらに思考が静まってくると、見えているいろいろなものが、実は、同時に、絶対の透明なスクリーンそのものでもあることがわかってきます。

そして、眼を閉じていた時に感じた絶対的に静寂な世界は、この絶対的に透明なスクリーンと同じものであったことがわかります。

スクリーンは絶対的に、透明であるばかりでなく、静寂そのものなのです。

さらに瞑想が進んでくると、この絶対的に透明で静寂なスクリーンは平面として2次元的に前方だけに広がっているのではなく、3次元のこの空間を埋め尽くしていることがわかります。

それはもはや“スクリーン”と呼べません。まさに、“空”そのものです。

さらに、それを観察していた自分も絶対的に透明で静寂な“空”そのものであったことに気がつきます。

そして、自分が完全に素通しになって、周りの世界に溶け込んでいるのです。

どこにも境目がありません。

というか、もともと、“周りの世界から切り離された自分“というものは存在していなかったのです。

「自分が完全に素通しになって」と言っても、この体が消えてしまったわけではありません。

目を開ければ、ちゃんと体の少なくとも一部は見えています。体の感覚もあります。

周りの世界も見えています。音や声も聞こえます。

にもかかわらず、自分も周りの世界も“空”としか言いようがないのです。

ここで誤解がないように付け加えておきます。

ここに書いたのは、あくまで僕自身のいろんな体験のうちの“ある日の体験”にすぎません。

また、人によってまったく違った体験をされていることでしょう。

たとえば、
体の感覚がまったくなくなってしまった。

それまで見えたり聞こえていたものが全部消えた。

突然、まったく異次元の世界に飛び込んでいた。

何もない世界にいる自分に気がついた、などなど・・・。

ですから、ここに書いたことも、何かの参考になればと思っただけなのです。

良い悪いということでなく、「そんな体験もあるのか」ぐらいの感覚で捉えていただければと思います。



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静寂の世界―2

静寂の世界―2

瞑想が深まると、さまざまなものが存在し変化するこの現象界の奥には、絶対的に静寂で何もない世界が存在していることが分かります。

仏教ではこの現象界に存在し変化するすべてのものを色(しき)と呼び、絶対的に静寂で何もない世界を空(くう)と呼んでいます。

瞑想をすると、空と色は同じひとつのものであることがはっきりと分かります。

このひとつのものを五感を通してみると色として捉えられ、五感を超えたところでは空として捉えられます。

たとえば、聴覚を通して捉えるといろいろな音として、聴覚を超えたところで捉えると絶対的な静寂として捉えられます。

つまり、捉え方が異なるだけで、本当は音は静寂であり、静寂は音なのです。

分かりやすく言えば、いろいろな音は静寂より生まれて、再び、静寂に戻っていくのです。

つまり、すべてのものは同時に空っぽで何もないのです。

そして、空は空っぽで何もないようでいて、実際は、無限のエネルギーそのものです。

ここで『伊那谷の老子』加島祥造著(淡交社)という本の中の一節をご紹介しましょう。

土をこねてひとつの器を作る。
中がくりぬかれて、うつろになっている。
うつろな部分があってはじめて
器は役に立つ。
中までつまっていたら、なんの使い道もない。
家の部屋というものは、当たり前のことだが、
なかに空間があるから有用なのであり
そこがぎっしり詰まっていたら、使いものにならない。
その空間、その空虚が、その部屋の有用性なのだ。
我々が役立つと思っているものの内側に
空のスペースがあり、この
何もない虚のスペースが
本当の有用さなのだ。

(『老子』は紀元前5世紀頃の思想家である老子が書き残した書です。それを英文学者の加島正造氏が訳したのが『伊那谷の老子』です。)

この一節を書き写していたら、何だかこれ以上駄文を書き連ねる気がなくなってきました。なぜなら、この一節に、存在の真実の仕組みが実にたくみに説明されているからです。

でも、何とかもう少しだけ書いてみましょう。

私たちは普段「実」だけを実在であるとしています。

そして、「実」は「実」だけによって成り立っている、つまり、「実」だけで存在していると思い込んでいます。

そのために、ある「実」がなくなると、そのすべてがなくなってしまうと思い、それを恐れ、また、悲しみます。

ところが、存在の真実は、「実」は「実」だけで存在するのではなく、「実」は「虚」によってこそ成り立ち存在しているのです。

言葉を変えれば、「実」は「虚」より生まれ、刻々に姿かたちを変え、再び「虚」に戻っていきます。

つまり、「実」は常に変化していますが、その存在を成り立たせている「虚」はずっと変わりません。

さらに、瞑想を深めていくことによって分かることは、もともと「実」も「虚」もなかったということです。

生は死によってこそ深まり、死は生によってこそ輝きます。

そして、生死があってこそ永遠の“いのち”が輝くのです。



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