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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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眼を瞑って自分を確かめる

眼を瞑って自分を確かめる

普通、ほとんどの人は「自分とは何か?」などと自分自身に問うことはほとんどないでしょう。

もし「自分とは何か?」と問われても、ほとんどの人は何となくその答えが分かっているような気がしているのではないでしょうか。

「自分とは何か?」と問われれば、ほとんどの人は他の人と区別することのできる自分自身の人間的な個人的特徴をいくつか並べるでしょう。それは、通常、その並べ立てたいくつかの個人的特徴が自分を表していると自分自身が思っているからです。

では、自分自身を他人と区別し、自分自身の自己証明となるような個人的特徴として挙げられるのは、通常どのようなものがあるでしょうか?

自分の名前、人種、国籍、年齢、性別、結婚関係、家族関係、体付き、仕事、住所、財産、学歴、友人関係、趣味などでしょうか。

その他に、個人的特徴として、過去の経験とか、思い出とか、考え方、体の特徴とか、もっと精密な特徴を挙げることもできるでしょう。

いま自分が日本でなく、ヨーロッパ、あるいは、アメリカにいるとすれば、皮膚の色、髪の色、眼の色などを挙げるかもしれませんね。

いずれにしても、ほとんどの人が、そういう個人的特徴によって、「自分」というものを他の人と区別できると漠然と考えています。

では、他のものに邪魔されない静かな場所で、眼を閉じて、心を静かに、それらの際立った特徴のどれか一つでも、いまここに存在しているかどうかを検べてください。最低1分間は掛けてください。イメージではありません。

そうすれば、そのような「個人的特徴」と呼ばれるものは何も存在していないということがはっきり分かるはずです。

分からなければ、分かるまで何回かやってみてください。

では、そこであなたは何を経験しているのでしょうか?

あなたは、いかなる個人的な特徴もない、「本質である自分自身」をありのままに経験しているはずです。

つまり、そこにあるのは、どんな人間としてあなたがあるか、ということではなく、ただ、「あなたが存在している」ということです。

先に挙げた他の人と区別するいろいろな“個人的特徴“というものは、何者でもない自分自身に、二元相対的思考しかできないアタマによって外から勝手に付けた”ラベル”、あるいは、規定にすぎません。

ほとんどの人は個人的特徴というものの総和が自分であると漠然と考えているようですが、個人的特徴というものは時と場合によってクルクル変わる幻影のラベルなのであり自分自身ではないのです。

重要なことは、「自分は~~である」ということではなく、「ただ自分は存在する」ということです。

さらに言えば、自分というものには、本当は、他と区別する個人的特徴はないということは、他の人、他の存在にとってもまったく同じだということです。

ということは、他の存在と自分とを区別するものがないということであり、結局、「みんな一つの同じ存在である」ということです。

この実験?のもう一つ大切なことは、眼を瞑って、ただ、自分が存在していることを意識していると、自分は死なない、つまり、不死の存在であることが分かるということです。

気負わないでやってみてください。




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自分は宇宙の中心

自分は宇宙の中心

俺の世界は俺の周囲を廻る
俺は此処にいる
   動かない
(野口整体の創始者野口晴哉先生の10代の頃の語録の一つ)


大洋を回遊しているイワシの大群の中のピム公とピン公とピキ爺さんという3匹のイワシの話

ピム「もの心ついたときからずっと昼も夜も朝も晩も、ピン公と並んでこの通り泳ぎ通しだ。俺達は何処へ行くんだろう。ピキ爺さん、後生だから教えてください」

ピキ「教えてやるが驚いてはいけないよ。実は何処へも行かないんだ。めいめい夢中になって何か考えているのだろうが、何を考えても兎に角みんなどんどん泳いでいる。そして泳いでいる気でいるから何処かへ行くかと思っているんだね。でも何処へも行きやしない。みんなただ泳いでいるぞ!」
(和田重正著『もう一つの人間観』「どこへ行く――ピン公の話」要約)

尽十方世界は是れ沙門の全身
(全宇宙が道を修める者の全身である)

尽十方世界は是れ自己の光明
(全宇宙が自己の光明である)

尽十方世界は自己の光明裏に在り
(全宇宙が自己の光明の中にある)

尽十方世界は一人として是れ自己ならざる無し
(全宇宙のすべての人が自己である)

尽十方世界は是れ你が心
(全宇宙があなたの本性である)
     唐代の禅僧・長沙景岑(ちょうさけいしん)の言葉

多くの人は、自分というものはこの不動の広い世界の片隅でいつもチョコチョコと動き回っている小さな、はかない存在である、と思っているようです。

でも、真実は違います。自分は常にこの大宇宙の中心にいて不動の存在であり、その自分の周りで全宇宙が廻っているのです。さらに正確に言うと、自分はこのダイナミックに廻っている大宇宙とぶっ続きであり、その中心に不動の意識点として存在しています。いや、さらに正確に言えば、自分は自分という意識点を中心としてダイナミックに廻っている大宇宙そのものなのです。

ここで断っておきたいことは、僕は最初に紹介した3つの引用文を解釈してこのように言っているのではありません。僕自身の体験によって確かめた存在の真実をそのまま述べているのですが、たまたま、同じようなことを言っている方々の言葉を引用したにすぎないということです。

つまり、僕が言いたいのは、存在の真実についての先人の言葉をどのように解釈するかということにアタマを浪費させるのでなく、自分自ら存在の真実を体験的に捉えることが重要だということです。

俺の世界は俺の周囲を廻る
俺は此処にいる
   動かない

「なんてかっこいい、すごいことを言うのだろう」と思うかもしれませんが、自分自身で体験してみると、これはごくごく当たり前のことを言っているのであり、かっこいいことでも、すごいことでもありません。

存在の真実は、もともと、実にシンプルなのです。見当違いの見方をしているから難しく見えるのです。

要は、思いでイメージを描くのではなく、視点を変えて直に見る、ということです。

縁側のソファーにでもゆったりと座って、自分の眼の奥の方を意識しながら、同時にのんびりと空を見上げていれば、ハッと気がつくかもしれませんね。

お勧めは、誰かが運転している車の助手席に座って前方の空を見上げていることです。

でも、なんと言っても、一番は川の瞑想を実践することです。





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自己の本質は真心

自己の本質は真心

太陽、月、星々などの天体、そして、山々、丘、平野、海、河、湖など、各種の草、花、樹木などの植物や様々な動物を含む大自然は一体何によって成り立っているのでしょうか?

そう思ってそれらをじっと見つめていれば、それらが決してバラバラなものの寄せ集めではなく、この大宇宙は、無生物、生物という言葉を大きく超えた、言わば、大きな一つの生命体であることは誰の眼にも明らかなことではないでしょうか。

その唯一絶対の大生命体の各構成要素は、常に、分離・集合・離散・交換を繰替えし、循環し続けています。

そこに見て取れるのは、一言で言えば、“大調和”です。

その大調和のなかにあって、各構成要素が刻々に姿を変えながら、それぞれの存在価値を宇宙大に発揮して輝いています。

すべてのものがそれぞれ所を得て生ききっているのです。

それは、大自然の空や雲、花や木や庭の一隅を歩いている一匹のアリなどを見てみれば、一目瞭然です。

でも、机の上の1本のボールペンについても同じことが言えるのです。

それを成り立たせている“力”こそ僕の言う“いのち”です。

“いのち”は不生不滅であり、この世界を現し、この世界のそれぞれの存在に常にハタラキ続けています。
その“いのち”が私たち一人ひとりにハタライテいる姿が“真心“です。

400年ほど前の江戸時代に生きた盤珪禅師は、僕の言う“いのち”を”不生”と呼び、さらに、”真心“を”仏心”と呼んだのだと僕は理解しています。

盤珪禅師は次のように言っています。

親が子に産み付けたのは不生の仏心一つである。

だから、寝ても覚めても何をするときでも、不生の仏心でいなさい。

決して仏心を修羅の心に替えないようにしなさい。

つまり、「自己の本質は真心である」ということです。

だから、自分を生きるためには、ただ、真心で生きるだけです。

なぜなら、妄想は本当の自分から出てくるのではなく、実体もなく勝手に幽霊みたいに現れてくるのですから、相手にする必要はないのです。

真心はすでにあなたの中にあります。

なぜなら、真心こそあなたの本質(本体・実体)だからです。

一人の赤ちゃん、庭の花一輪、木の一枚の葉っぱ、ネコ一匹、犬一匹が如実に証明しているように、素直に真心全開、真心全開で生ききることこそ“真の幸福な人生”なのです。

「自分が?」「自分なんかきっとダメだ」という思いがあれば、それこそ妄想なのです。

これまでそのように思っていたとすれば、それこそ「その思いには実体があると錯覚していたために、ノイローゼに罹っていたからです。

ノイローゼはもう辞めませんか?

大自然の花や木や動物と同じに、あなたの本質は“いのち”なのですから、この瞬間から何があったとしても、“いのち”のハタラキである真心丸出しで生きていこうと明快に決定(けつじょう)すればよいのです。

やってみれば誰にでも簡単にできます。

ここで「本当にそうだ、やっていこう」と決定した人は、その瞬間、素晴らしい人生を手に入れることができるのです。





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存在の真実を禅的に表現すると

存在の真実を禅的に表現すると

これまで真実の世界についていろいろな角度から書いてきましたが、今回は禅では存在の真実についてどのように表現しているかを書いてみようと思います。

禅の世界について書かれた昔の中国の本のなかに出てくるいろいろな表現はじつに難解ですが、それは決して存在の真実を表現する言葉が難解でなければならないということではありません。

昔の禅の本に書かれた存在の真実を表現した言葉を、僕が尊敬している禅の老師の言葉をお借りして、現代の私たちの理解できる言葉で表わすと、以下のようになります。

宇宙はただ一箇の存在である。

そのただ一箇の存在こそ真の自己である。

全宇宙一箇の自己である。

この現象界のすべての存在、たとえば、机、それで全宇宙。ペン、それで全宇宙。目の前の本、それで全宇宙、全存在である。

また、存在だけでなく、精神や心のハタラキ、たとえば、うれしい、それで全宇宙。悲しい、それで全宇宙、全存在である。

一人一人の衆生が全宇宙を尽くしている。

一つ一つの存在が全宇宙を尽くしている。

一つ一つの心のハタラキが全宇宙を尽くしている。

一つ一つの存在が全存在を含んでいる。


ところで、お釈迦さまは菩提樹の木の下で瞑想しているときに大悟されたと言われます。

その時に発せられた言葉は以下のとおりであったと言われています。

天上天下唯我独尊。

奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く智慧と徳相を具有す。
ただ、妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。


「天上天下唯我独尊」と言っても、「自分だけが偉くて、他のものはみんな馬鹿だ」という意味ではありません。

その意味は「全宇宙ただ一個の自己である」ということです。

「一切衆生悉く智慧と徳相を具有す」も結局は同じことを意味しています。

つまり、「一切の衆生一人一人が、一切の存在の一つ一つが全存在を含んでいるほど智慧と徳相を備えている」ということです。

「ただ、妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず」というのは、「二元相対的思考によりいろいろな妄想を抱き、物や人に執着するために、一元絶対の存在の真実を理解できないのだ」という意味です。

どうでしょうか? これまで僕が存在の真実についていろいろ書いてきたこととまったく同じであることがおわかりになると思います。

僕は決して僕の考えを権威づけるために、禅や仏教を持ち出してきたわけではありません。

なぜなら、僕がいろいろと書いていることは、僕自身の決して疑うことのできない体験に基づいているからです。

けれども、なかには、禅や仏教の考えとどのような関係にあるのか?同じなのか?違うのか?共通点があるとすればどんなところか?などと興味がある方もいらっしゃるかもしれないと思って書いてみたのです。

でも、もっとも大切なことは、これを読んでいるお一人お一人が、何事も決して盲信することなく、自ら体験的理解を明らかにし、深めていくことなのです。






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じっと手を見る

じっと手を見る

石川啄木の詩の一つにこの言葉がありますが、これから書こうとすることは啄木とは何の関係もありません。

個人的にも社会的にも苦しみと混乱から私たちが抜け出せない根本原因はこの世界のすべての存在はたがいに分離しているという間違った観念、バラバラ観をほとんどの人が真実だと思い込んでいるところにあります。

ですから、バラバラ観は間違いであり、不可分一体こそが存在の真実だとわかることは私たちにとってもっとも重要なことなのです。

それで、僕は普段からしょっちゅう「不可分一体という存在の真実を誰にでも納得できるように説明するにはどうしたらよいか?」ということを考えています。

その一つが「手をじっと見る」ということです。

手には5本の指があり、それぞれ名前が付いています。

それぞれの指はそれぞれ姿形が少しずつ異なっています。その働き方も微妙に違います。

では、それぞれの指は異なるものか?と言えば、なるほど、姿形、働きの違いだけを考えると「異なっている」ということになりますが、指の根元を見ると全部繋がっています。どこにも境目がありません。

それぞれの指は単独で動かすこともできないことはないのですが、もともと一緒に動くことによって一つの働きをするようにできています。

それは1本だけ動かそうとしても、他の指の筋肉が連動して微妙に動いていることからもわかります。

そう思って、手全体を見ると、指は手のひらや甲とも境目なく繋がっています。

指だけ動かそうとしても手全体の筋肉と骨も連動して動いていることがわかります。

手はもともと私たちの先祖が魚であった時代の一つのひれから進化してきて現在の私たちの手の形になったのです。

ですから、もともと5本の指も、手のひらも、手の甲も、筋肉や骨も、全部一つのもの、一つの手として不可分一体なのです。

そして、その手も腕や肩、筋肉や骨、血管などを通じて体のすべてに繋がり、そのすべてが不可分一体の一つの存在として働いています。

その人体ももともとこの地球の大自然の中から生まれたもので、人体とその大自然の関係も指と手全体の関係、あるいは、手と体全体の関係と全く同じで、不可分一体のぶっ続きの関係にあります。

その地球も太陽系全体と不可分一体でぶっ続きであり、その太陽系も銀河系星雲全体と不可分一体でぶっ続きであり、その銀河系星雲も大宇宙全体と不可分一体でぶっ続きなのです。

別の表現をすれば、事実としては、1本の指が手全体を支え、一つの手が体全体を支え、一つの体が大自然全体、地球全体を支え、地球が太陽系全体を支え、太陽系が銀河系星雲全体を支え、銀河系星雲が大宇宙全体を支えているのです。

ということは、この人差し指が大宇宙全体を支え、大宇宙全体がこの人差し指を支えているということです。

言い方を変えれば、事実上、この人差し指は小さな指のように見えながら、大宇宙そのものなのです。

同様に、あなたという人間は小さな存在であるように見えながら、事実は、大宇宙そのものなのです。





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