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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自己の本質は真心

自己の本質は真心

太陽、月、星々などの天体、そして、山々、丘、平野、海、河、湖など、各種の草、花、樹木などの植物や様々な動物を含む大自然は一体何によって成り立っているのでしょうか?

そう思ってそれらをじっと見つめていれば、それらが決してバラバラなものの寄せ集めではなく、この大宇宙は、無生物、生物という言葉を大きく超えた、言わば、大きな一つの生命体であることは誰の眼にも明らかなことではないでしょうか。

その唯一絶対の大生命体の各構成要素は、常に、分離・集合・離散・交換を繰替えし、循環し続けています。

そこに見て取れるのは、一言で言えば、“大調和”です。

その大調和のなかにあって、各構成要素が刻々に姿を変えながら、それぞれの存在価値を宇宙大に発揮して輝いています。

すべてのものがそれぞれ所を得て生ききっているのです。

それは、大自然の空や雲、花や木や庭の一隅を歩いている一匹のアリなどを見てみれば、一目瞭然です。

でも、机の上の1本のボールペンについても同じことが言えるのです。

それを成り立たせている“力”こそ僕の言う“いのち”です。

“いのち”は不生不滅であり、この世界を現し、この世界のそれぞれの存在に常にハタラキ続けています。
その“いのち”が私たち一人ひとりにハタライテいる姿が“真心“です。

400年ほど前の江戸時代に生きた盤珪禅師は、僕の言う“いのち”を”不生”と呼び、さらに、”真心“を”仏心”と呼んだのだと僕は理解しています。

盤珪禅師は次のように言っています。

親が子に産み付けたのは不生の仏心一つである。

だから、寝ても覚めても何をするときでも、不生の仏心でいなさい。

決して仏心を修羅の心に替えないようにしなさい。

つまり、「自己の本質は真心である」ということです。

だから、自分を生きるためには、ただ、真心で生きるだけです。

なぜなら、妄想は本当の自分から出てくるのではなく、実体もなく勝手に幽霊みたいに現れてくるのですから、相手にする必要はないのです。

真心はすでにあなたの中にあります。

なぜなら、真心こそあなたの本質(本体・実体)だからです。

一人の赤ちゃん、庭の花一輪、木の一枚の葉っぱ、ネコ一匹、犬一匹が如実に証明しているように、素直に真心全開、真心全開で生ききることこそ“真の幸福な人生”なのです。

「自分が?」「自分なんかきっとダメだ」という思いがあれば、それこそ妄想なのです。

これまでそのように思っていたとすれば、それこそ「その思いには実体があると錯覚していたために、ノイローゼに罹っていたからです。

ノイローゼはもう辞めませんか?

大自然の花や木や動物と同じに、あなたの本質は“いのち”なのですから、この瞬間から何があったとしても、“いのち”のハタラキである真心丸出しで生きていこうと明快に決定(けつじょう)すればよいのです。

やってみれば誰にでも簡単にできます。

ここで「本当にそうだ、やっていこう」と決定した人は、その瞬間、素晴らしい人生を手に入れることができるのです。





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存在の真実を禅的に表現すると

存在の真実を禅的に表現すると

これまで真実の世界についていろいろな角度から書いてきましたが、今回は禅では存在の真実についてどのように表現しているかを書いてみようと思います。

禅の世界について書かれた昔の中国の本のなかに出てくるいろいろな表現はじつに難解ですが、それは決して存在の真実を表現する言葉が難解でなければならないということではありません。

昔の禅の本に書かれた存在の真実を表現した言葉を、僕が尊敬している禅の老師の言葉をお借りして、現代の私たちの理解できる言葉で表わすと、以下のようになります。

宇宙はただ一箇の存在である。

そのただ一箇の存在こそ真の自己である。

全宇宙一箇の自己である。

この現象界のすべての存在、たとえば、机、それで全宇宙。ペン、それで全宇宙。目の前の本、それで全宇宙、全存在である。

また、存在だけでなく、精神や心のハタラキ、たとえば、うれしい、それで全宇宙。悲しい、それで全宇宙、全存在である。

一人一人の衆生が全宇宙を尽くしている。

一つ一つの存在が全宇宙を尽くしている。

一つ一つの心のハタラキが全宇宙を尽くしている。

一つ一つの存在が全存在を含んでいる。


ところで、お釈迦さまは菩提樹の木の下で瞑想しているときに大悟されたと言われます。

その時に発せられた言葉は以下のとおりであったと言われています。

天上天下唯我独尊。

奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く智慧と徳相を具有す。
ただ、妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。


「天上天下唯我独尊」と言っても、「自分だけが偉くて、他のものはみんな馬鹿だ」という意味ではありません。

その意味は「全宇宙ただ一個の自己である」ということです。

「一切衆生悉く智慧と徳相を具有す」も結局は同じことを意味しています。

つまり、「一切の衆生一人一人が、一切の存在の一つ一つが全存在を含んでいるほど智慧と徳相を備えている」ということです。

「ただ、妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず」というのは、「二元相対的思考によりいろいろな妄想を抱き、物や人に執着するために、一元絶対の存在の真実を理解できないのだ」という意味です。

どうでしょうか? これまで僕が存在の真実についていろいろ書いてきたこととまったく同じであることがおわかりになると思います。

僕は決して僕の考えを権威づけるために、禅や仏教を持ち出してきたわけではありません。

なぜなら、僕がいろいろと書いていることは、僕自身の決して疑うことのできない体験に基づいているからです。

けれども、なかには、禅や仏教の考えとどのような関係にあるのか?同じなのか?違うのか?共通点があるとすればどんなところか?などと興味がある方もいらっしゃるかもしれないと思って書いてみたのです。

でも、もっとも大切なことは、これを読んでいるお一人お一人が、何事も決して盲信することなく、自ら体験的理解を明らかにし、深めていくことなのです。






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じっと手を見る

じっと手を見る

石川啄木の詩の一つにこの言葉がありますが、これから書こうとすることは啄木とは何の関係もありません。

個人的にも社会的にも苦しみと混乱から私たちが抜け出せない根本原因はこの世界のすべての存在はたがいに分離しているという間違った観念、バラバラ観をほとんどの人が真実だと思い込んでいるところにあります。

ですから、バラバラ観は間違いであり、不可分一体こそが存在の真実だとわかることは私たちにとってもっとも重要なことなのです。

それで、僕は普段からしょっちゅう「不可分一体という存在の真実を誰にでも納得できるように説明するにはどうしたらよいか?」ということを考えています。

その一つが「手をじっと見る」ということです。

手には5本の指があり、それぞれ名前が付いています。

それぞれの指はそれぞれ姿形が少しずつ異なっています。その働き方も微妙に違います。

では、それぞれの指は異なるものか?と言えば、なるほど、姿形、働きの違いだけを考えると「異なっている」ということになりますが、指の根元を見ると全部繋がっています。どこにも境目がありません。

それぞれの指は単独で動かすこともできないことはないのですが、もともと一緒に動くことによって一つの働きをするようにできています。

それは1本だけ動かそうとしても、他の指の筋肉が連動して微妙に動いていることからもわかります。

そう思って、手全体を見ると、指は手のひらや甲とも境目なく繋がっています。

指だけ動かそうとしても手全体の筋肉と骨も連動して動いていることがわかります。

手はもともと私たちの先祖が魚であった時代の一つのひれから進化してきて現在の私たちの手の形になったのです。

ですから、もともと5本の指も、手のひらも、手の甲も、筋肉や骨も、全部一つのもの、一つの手として不可分一体なのです。

そして、その手も腕や肩、筋肉や骨、血管などを通じて体のすべてに繋がり、そのすべてが不可分一体の一つの存在として働いています。

その人体ももともとこの地球の大自然の中から生まれたもので、人体とその大自然の関係も指と手全体の関係、あるいは、手と体全体の関係と全く同じで、不可分一体のぶっ続きの関係にあります。

その地球も太陽系全体と不可分一体でぶっ続きであり、その太陽系も銀河系星雲全体と不可分一体でぶっ続きであり、その銀河系星雲も大宇宙全体と不可分一体でぶっ続きなのです。

別の表現をすれば、事実としては、1本の指が手全体を支え、一つの手が体全体を支え、一つの体が大自然全体、地球全体を支え、地球が太陽系全体を支え、太陽系が銀河系星雲全体を支え、銀河系星雲が大宇宙全体を支えているのです。

ということは、この人差し指が大宇宙全体を支え、大宇宙全体がこの人差し指を支えているということです。

言い方を変えれば、事実上、この人差し指は小さな指のように見えながら、大宇宙そのものなのです。

同様に、あなたという人間は小さな存在であるように見えながら、事実は、大宇宙そのものなのです。





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不思議な映画館 その2

不思議な映画館 その2

この不思議な映画館ではタテ、ヨコ、奥行きと立体的に無限に広がった無色透明(かつ、絶対静寂)なスクリーンに立体的に映画が映っています。。

ところが、無限に広がったスクリーンいっぱいに映像が音や感覚などを含めて実にリアルに映っているので、ほとんどの人(映画の登場人物)はそれが事実・現実の世界であると錯覚しています。

ですから、まさか、それが単なる映画であり、その奥にスクリーンがあるなんて思いもしないでしょう。

こんなことを書くと、「昇平という人はなんとも変なことを考えているんだなあ」と思われる方も多いことでしょう。

けれども、この「不思議な映画館」で僕が言おうとしていることは、多くの方の世界観や人生観、簡単に言えば、「この世界はどうなっているのか? そもそも自分とは何か?」ということに対する捉え方や理解が実に曖昧で、いい加減なものではないだろうかということです。

私たち人間は生まれてしばらくの間は「~~ちゃん」などと呼ばれていても、“自分”とか“他“などということをまったく意識せずに生きています。

ところが、2歳前後になったある日、名前を呼ばれて、突然、“自分”というものがあると思うようになります。

つまり、「~~ちゃんというのが“自分”というもので、周りのものは“自分”ではないもの(“他“)」と思うようになるのです。

そして、その後家庭や社会のなかで成長するにつれて、その“思い”はますます堅固になっていき、そのうちに、それは自明のこと、絶対の真実であると思い、それを疑おうともしなくなります。

この“自他”の観念は、言い換えれば、この世界のすべてはそれぞれいくらかのつながりがあることもあるが、本来、すべてはバラバラの実体であるという考えです。 それを僕は”バラバラ観“と呼んでいます。

このバラバラ観は個人的、あるいは、社会的に分裂を引き起こし、混乱や対立など様々な苦しみを生み出します。

私たち人間のほとんどがバラバラ観を抱くようになるのには何か大きな意味があるのかもしれませんが、だからと言って、それをそのままにしておいてよいということではありません。

実際、バラバラ観によって引き起こされる様々な苦しみを何とか解決しようとしても、結局は、とことん行き詰ってしまいます。

ところが、そのような行き詰まりの中でもがいているうちに、ついには、突然、バラバラ観が脱落して不可分一体観の存在の真実に目覚めるという体験をした方がこれまでの人間の歴史のなかで、少なからずいらっしゃいます。

いったん不可分一体の存在の真実にはっきりと目覚めれば、これまでずーっと抱いてきた世界観や人生観、そして、それらの観念によって作り上げてきた個人的生活や社会の在り方が結局は、映画のなかの出来事のように、実体のない夢のようにはかないものであったことに気が付くことができます。

この目覚めこそ、真人生の出発点であり、同時に、真の平和と幸福な世界を築き上げる第一歩となるのです。






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不思議な映画館  その1

不思議な映画館 その1

私たちは映画館やテレビで映画を見ている時、時には映画の内容に引き込まれて、映画でのシーンがあたかも現実に事実として起こっているかのように錯覚することがあります。

そのように錯覚するからこそ、映画を見て感動したり、面白く思ったり、嬉しくなったり、悲しくなったり、怖くなったりするのでしょう。

でも、私たちはそのように錯覚しながらも、どこかで自分は映画を見ているのであり、これは現実ではないということに気付いています。

とにかく、映画が終われば、あるいは、途中で見るのをやめれば、映画は消えてただスクリーンだけが残ります。

ですから、自分は映画を見ていたのであり、それが現実ではなかったことに気が付かない人はいないでしょう。

では、もし次のようなスクリーンと映画があったらどうでしょうか?

そのスクリーンは完全に静寂透明であり、形は長方形ではなく、3次元の立体で、前にも後ろにも、右横にも左横にも、上にも下にも無限に広がっています。

そして、その立体スクリーン一杯に立体的に映画が映っています。

しかも、自分も映画の登場人物の一人として、演技をしているのを忘れるほど完全に役にはまり込んでいます。

また、この映画のなかでは視覚や臭覚、味覚、触覚などの体の感覚も実にリアルに体感できるようになっています。

さらに、この映画は誰も知らないずーっと昔から続いています。

その映画の中で、ある時自分は生まれて、しだいに成長していまの姿として演技しています。

周りの登場人物の様子から判断すると、いずれ自分も年を取り死んでしまうのでしょう。

でも、その後もこの映画はずーっと続いていくのです。

さて、このようなスクリーンと映画があったとしたら、あなたは、それが全部映画であり、自分が映画の中の一登場人物だとは夢にも思わないでしょう。

私たちが通常映画を映画だと認識するのは、まず、映画が映っているスクリーンの大きさに限定があり、その周りには映画ではなく生の現実と感じている世界が広がっているからです。

そして、何よりも、自分は映画を見ている人(観客)であり、映画のなかの登場人物ではないからです。

ところがこの不思議な映画館で上映されている映画にはそのようなものは何もありませんから、そこに登場している人たちはみんなそれぞれの役にはまり込んで、演技をしているという意識もなく演技し続けています。

ここまで読んでちょっと不気味な感じがしてきたかもしれませんね。

多くの人は普段この世界に起きていることをすべて事実だと思い、自分はこの世界にある時に生まれ、成長し、今の姿となり、これからも年を取って、やがて死んでこの世界から消えていく存在だと思って生きています。

けれども、真実の自己はそんなはかない存在ではありません。

コインは表と裏があって一つのものであるように、真実の世界は表の映画(常に移り変わっていく現象世界)と裏のスクリーン(不生不滅の本質である“いのち”)とで一つのものです。

そして、その真実の世界全体こそが真実の自己なのです。









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