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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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不生

不生

盤珪禅師は「親が産み付けたのは不生の仏心ひとつである。仏心は不生にして麗明なものである。だから、不生の仏心で一切の事が整うのである。一切の迷いは身のひいきから生じる。迷わないのが悟りである。だから、常に不生の仏心ひとつでいなさい」と説いています。

盤珪禅師の言う「不生」とはどういう意味か、僕は本人ではないので、これと断定はできないのですが、以下、僕なりに推測したものです。

「不生」と言うと、まず、「不生不滅」という言葉が思い浮かびます。盤珪禅師は「不生」、つまり、「生まれないもの」は滅することはないのだから、わざわざ、「不滅」と付け加える必要はないと言っています。

ということは、「不生」とは「不生不滅」を略して言っているのだということになりますが、僕にはそれだけが盤珪禅師が使った「不生」の意味ではないように思えるのです。

盤珪禅師は「この世界は不生が顕現したものである。つまり、この世界の本質は不生である。すなわち、この世界は現象界(生まれたもの)である。それに対して、この世界の本質は不生(生まれないもの)である」と言っているのでしょう。

さらに、付け加えれば、「この世界(現象界)においては、一見、それぞれのものが生滅(生まれたり滅したり)しているように見えます。それに対して、この世界の本質は不生不滅である」ということなのでしょう。

ただ、「不生不滅」と言うと、生滅する世界が顕現した後で、生滅を否定しているような感覚として捉えられかねないので、「この世界が顕現する“以前”の何もないもの」という意味をはっきり伝えるために「不生不滅」ではなく、あえて、「不生」という端的な言葉を使ったのだと僕には思われます。

盤珪禅師の言うように、存在の真実を本当に悟りもしないで、“不生不滅”という言葉だけを覚えて、分かった風に「不生不滅、不生不滅」と言ったり、理解されることを避けたかったということも確かにあるのでしょう。

この現象界においてはすべての存在は私たちの五感と大脳(アタマ)を通して認識すると、一見、すべてのものがバラバラに存在し、生滅しているように見えます。しかしながら、この世界の本質は不生であり、その働きによってこの世界が存在しているのです。つまり、この世界はバラバラなものが寄り集まってできたのではなく、不生不滅の不可分一体の世界なのです。

ですから、この不可分一体の世界は、人間のアタマの錯覚や妄想で作りだしたものを除いて、麗明な不生のハタラキによってすべてが互いに調和して自ずから整っているといます。

「不生の仏心」についてもまったく同じです。私たちひとり一人の本質は不生の仏心だけなのです。体、知識や知恵、マイナス感情などその他のものはすべて後天的に身に付けたものでしかありません。ですから、不生の仏心で自分も、周りも、一切のことが自ずと整うようになっているのです。

本当の自分はこの世界を在らしめている不生ですから、何が起こっても決して変わることはありません。だから、何も心配することはないのです。





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「天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊

「天上天下唯我独尊(てんじょう・てんが・ゆいが・どくそん)」とはお釈迦様が悟りを開かれた時に、思わず発せられたお言葉だと言われています。その文字通りの意味は「この世界においてただ自分一人が尊い」ということです。

この言葉を巡ってはいろいろな解釈があるようですが、今回は僕の存在の真実の体験を通して、この言葉の真の意味について書いていきたいと思います。

もちろん、この「天上天下唯我独尊」というのは「全世界で自分だけが尊く、他の者はみんな卑しい」というような、バラバラ観の中での優劣の話をしているわけではありません。
「尊い」という言葉はそのような浅薄な意味で言われているのではありません。

では、本当はどういう意味でしょうか?

それは、「この世界には自分しかいない。他には誰もいない」という真の事実を言っているのです。

では、他の人は? たとえば、家族や何々さんたちはいないの? とてもそんな風には考えられないと思われるでしょう。でも、本当に、自分以外は誰もいないのです。

それでも、他の人は? と聞きたくなるでしょうが、他の人はこの自分の中にいる。自分の中にすべての存在があり生きているのです。分かりやすく言えば、「自分の中にこの世界・大宇宙があり、すべてが存在している」ということです。

真の事実は、自分は、英語で言う、「ワン・オブ・ゼム(one of them)」、つまり、大勢の中の一人ではありません。この世界には自分しかいないのです。だから「我一人尊い」のです。

別の言い方をすれば、「自分がこの世界の主人公である」ということです。誤解を恐れずに言えば、「自分は自分という王国(全世界・全宇宙)の王様である」ということです。だから、自分の生き方はすべて自分で決めることができるのです。

と言っても、他の人の考えや意見を無視してもよいと言っているのではありません。自分は他の人の考えや意見を無視することもできますし、尊重することもできます。どちらでも自由にできるのです。その完璧な自由に立って自分がすべてを決めるのです。

もちろん、すでに起きてしまった状況・事実そのものを変えることは絶対にできませんが、自分がすべてを決めて生きていくことができるという自由がもともと具わっているということです。

実は、その真実を自覚しているかどうかにかかわらず、すでに誰でもそのように生きています。

つまらない、嫌だ、嬉しい、楽しい、などなど、どのように思っているかに関わらず、決めているのは自分なのです。

たとえば、すでに起きてしまったことを悔やみながら生きることもできます。人が自分の思うようなことに反するようなことを言ったりしたとき、腹を立てこともできます。「あっそう」とさらっと事実を受け止めることもできます。


このありのままの世界を真の意味で楽しく、積極的に生ききれるかどうかは、すべて自分次第なのです。

自分という存在は、無限の宇宙の歴史のなかで、ただ一人しかいません。その自分を、そして、すべての生きとし生けるものを幸せにできるかどうかは, な!なんと!まさに自分一人にかかっているのです。

だから、「天上天下唯我独尊」なのです。

自分を本当に大切にする人だけが周りの人を幸せにできるのです。





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眼を瞑って自分を確かめる

眼を瞑って自分を確かめる

普通、ほとんどの人は「自分とは何か?」などと自分自身に問うことはほとんどないでしょう。

もし「自分とは何か?」と問われても、ほとんどの人は何となくその答えが分かっているような気がしているのではないでしょうか。

「自分とは何か?」と問われれば、ほとんどの人は他の人と区別することのできる自分自身の人間的な個人的特徴をいくつか並べるでしょう。それは、通常、その並べ立てたいくつかの個人的特徴が自分を表していると自分自身が思っているからです。

では、自分自身を他人と区別し、自分自身の自己証明となるような個人的特徴として挙げられるのは、通常どのようなものがあるでしょうか?

自分の名前、人種、国籍、年齢、性別、結婚関係、家族関係、体付き、仕事、住所、財産、学歴、友人関係、趣味などでしょうか。

その他に、個人的特徴として、過去の経験とか、思い出とか、考え方、体の特徴とか、もっと精密な特徴を挙げることもできるでしょう。

いま自分が日本でなく、ヨーロッパ、あるいは、アメリカにいるとすれば、皮膚の色、髪の色、眼の色などを挙げるかもしれませんね。

いずれにしても、ほとんどの人が、そういう個人的特徴によって、「自分」というものを他の人と区別できると漠然と考えています。

では、他のものに邪魔されない静かな場所で、眼を閉じて、心を静かに、それらの際立った特徴のどれか一つでも、いまここに存在しているかどうかを検べてください。最低1分間は掛けてください。イメージではありません。

そうすれば、そのような「個人的特徴」と呼ばれるものは何も存在していないということがはっきり分かるはずです。

分からなければ、分かるまで何回かやってみてください。

では、そこであなたは何を経験しているのでしょうか?

あなたは、いかなる個人的な特徴もない、「本質である自分自身」をありのままに経験しているはずです。

つまり、そこにあるのは、どんな人間としてあなたがあるか、ということではなく、ただ、「あなたが存在している」ということです。

先に挙げた他の人と区別するいろいろな“個人的特徴“というものは、何者でもない自分自身に、二元相対的思考しかできないアタマによって外から勝手に付けた”ラベル”、あるいは、規定にすぎません。

ほとんどの人は個人的特徴というものの総和が自分であると漠然と考えているようですが、個人的特徴というものは時と場合によってクルクル変わる幻影のラベルなのであり自分自身ではないのです。

重要なことは、「自分は~~である」ということではなく、「ただ自分は存在する」ということです。

さらに言えば、自分というものには、本当は、他と区別する個人的特徴はないということは、他の人、他の存在にとってもまったく同じだということです。

ということは、他の存在と自分とを区別するものがないということであり、結局、「みんな一つの同じ存在である」ということです。

この実験?のもう一つ大切なことは、眼を瞑って、ただ、自分が存在していることを意識していると、自分は死なない、つまり、不死の存在であることが分かるということです。

気負わないでやってみてください。




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自分は宇宙の中心

自分は宇宙の中心

俺の世界は俺の周囲を廻る
俺は此処にいる
   動かない
(野口整体の創始者野口晴哉先生の10代の頃の語録の一つ)


大洋を回遊しているイワシの大群の中のピム公とピン公とピキ爺さんという3匹のイワシの話

ピム「もの心ついたときからずっと昼も夜も朝も晩も、ピン公と並んでこの通り泳ぎ通しだ。俺達は何処へ行くんだろう。ピキ爺さん、後生だから教えてください」

ピキ「教えてやるが驚いてはいけないよ。実は何処へも行かないんだ。めいめい夢中になって何か考えているのだろうが、何を考えても兎に角みんなどんどん泳いでいる。そして泳いでいる気でいるから何処かへ行くかと思っているんだね。でも何処へも行きやしない。みんなただ泳いでいるぞ!」
(和田重正著『もう一つの人間観』「どこへ行く――ピン公の話」要約)

尽十方世界は是れ沙門の全身
(全宇宙が道を修める者の全身である)

尽十方世界は是れ自己の光明
(全宇宙が自己の光明である)

尽十方世界は自己の光明裏に在り
(全宇宙が自己の光明の中にある)

尽十方世界は一人として是れ自己ならざる無し
(全宇宙のすべての人が自己である)

尽十方世界は是れ你が心
(全宇宙があなたの本性である)
     唐代の禅僧・長沙景岑(ちょうさけいしん)の言葉

多くの人は、自分というものはこの不動の広い世界の片隅でいつもチョコチョコと動き回っている小さな、はかない存在である、と思っているようです。

でも、真実は違います。自分は常にこの大宇宙の中心にいて不動の存在であり、その自分の周りで全宇宙が廻っているのです。さらに正確に言うと、自分はこのダイナミックに廻っている大宇宙とぶっ続きであり、その中心に不動の意識点として存在しています。いや、さらに正確に言えば、自分は自分という意識点を中心としてダイナミックに廻っている大宇宙そのものなのです。

ここで断っておきたいことは、僕は最初に紹介した3つの引用文を解釈してこのように言っているのではありません。僕自身の体験によって確かめた存在の真実をそのまま述べているのですが、たまたま、同じようなことを言っている方々の言葉を引用したにすぎないということです。

つまり、僕が言いたいのは、存在の真実についての先人の言葉をどのように解釈するかということにアタマを浪費させるのでなく、自分自ら存在の真実を体験的に捉えることが重要だということです。

俺の世界は俺の周囲を廻る
俺は此処にいる
   動かない

「なんてかっこいい、すごいことを言うのだろう」と思うかもしれませんが、自分自身で体験してみると、これはごくごく当たり前のことを言っているのであり、かっこいいことでも、すごいことでもありません。

存在の真実は、もともと、実にシンプルなのです。見当違いの見方をしているから難しく見えるのです。

要は、思いでイメージを描くのではなく、視点を変えて直に見る、ということです。

縁側のソファーにでもゆったりと座って、自分の眼の奥の方を意識しながら、同時にのんびりと空を見上げていれば、ハッと気がつくかもしれませんね。

お勧めは、誰かが運転している車の助手席に座って前方の空を見上げていることです。

でも、なんと言っても、一番は川の瞑想を実践することです。





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自己の本質は真心

自己の本質は真心

太陽、月、星々などの天体、そして、山々、丘、平野、海、河、湖など、各種の草、花、樹木などの植物や様々な動物を含む大自然は一体何によって成り立っているのでしょうか?

そう思ってそれらをじっと見つめていれば、それらが決してバラバラなものの寄せ集めではなく、この大宇宙は、無生物、生物という言葉を大きく超えた、言わば、大きな一つの生命体であることは誰の眼にも明らかなことではないでしょうか。

その唯一絶対の大生命体の各構成要素は、常に、分離・集合・離散・交換を繰替えし、循環し続けています。

そこに見て取れるのは、一言で言えば、“大調和”です。

その大調和のなかにあって、各構成要素が刻々に姿を変えながら、それぞれの存在価値を宇宙大に発揮して輝いています。

すべてのものがそれぞれ所を得て生ききっているのです。

それは、大自然の空や雲、花や木や庭の一隅を歩いている一匹のアリなどを見てみれば、一目瞭然です。

でも、机の上の1本のボールペンについても同じことが言えるのです。

それを成り立たせている“力”こそ僕の言う“いのち”です。

“いのち”は不生不滅であり、この世界を現し、この世界のそれぞれの存在に常にハタラキ続けています。
その“いのち”が私たち一人ひとりにハタライテいる姿が“真心“です。

400年ほど前の江戸時代に生きた盤珪禅師は、僕の言う“いのち”を”不生”と呼び、さらに、”真心“を”仏心”と呼んだのだと僕は理解しています。

盤珪禅師は次のように言っています。

親が子に産み付けたのは不生の仏心一つである。

だから、寝ても覚めても何をするときでも、不生の仏心でいなさい。

決して仏心を修羅の心に替えないようにしなさい。

つまり、「自己の本質は真心である」ということです。

だから、自分を生きるためには、ただ、真心で生きるだけです。

なぜなら、妄想は本当の自分から出てくるのではなく、実体もなく勝手に幽霊みたいに現れてくるのですから、相手にする必要はないのです。

真心はすでにあなたの中にあります。

なぜなら、真心こそあなたの本質(本体・実体)だからです。

一人の赤ちゃん、庭の花一輪、木の一枚の葉っぱ、ネコ一匹、犬一匹が如実に証明しているように、素直に真心全開、真心全開で生ききることこそ“真の幸福な人生”なのです。

「自分が?」「自分なんかきっとダメだ」という思いがあれば、それこそ妄想なのです。

これまでそのように思っていたとすれば、それこそ「その思いには実体があると錯覚していたために、ノイローゼに罹っていたからです。

ノイローゼはもう辞めませんか?

大自然の花や木や動物と同じに、あなたの本質は“いのち”なのですから、この瞬間から何があったとしても、“いのち”のハタラキである真心丸出しで生きていこうと明快に決定(けつじょう)すればよいのです。

やってみれば誰にでも簡単にできます。

ここで「本当にそうだ、やっていこう」と決定した人は、その瞬間、素晴らしい人生を手に入れることができるのです。





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