プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

改訂版 自分とは何だろう

改訂版 自分とは何だろう
(読みやすく書き直しました)

今回は自分とは何か?ということをわかりやすく説明してみましょう。

現代に生きる多くの人は、「自分」とは体と心という二つの要素から成り立っていると考えているようです。つまり、

(普通の人が考える)自分=体 + 心 ・・・・① 
というわけです。

ここで、心というのは、大まかに、脳における体の各部分の活動を司る神経作用と思いや感情や記憶などを司る精神作用に分けることができます。

けれども、静かにしてじっと自分を見つめているとわかりますが、体と心という二つの要素に加えて、「自分という意識(存在感)」があることに気がつきます。この自分という意識は、アタマの思いや体の感覚ではなく、それよりも、もっと深いところ(源)から出てきています。

そこで、普通の人が考えている自分というものは、より正確には次のように表すことがでます。
(普通の人がより正確に考える)自分=自分という意識の源+体+心 ・・・・②

ここで、コンピュータを例にして、これをもう少し「自分という意識の源」について検べてみましょう。
コンピュータを動かすためには、ハードデイスクという機械、つまり、「ハード」に加えてOSやアプリケーションやファイルなどの「ソフト」が必要です。

つまり、コンピュタを動かすためには、ハードとソフトを組み合わせて使う必要があります。
けれども、これだけではコンピュータはビクとも作動しません。おわかりでしょうか?

そうです!
動かすための電力、つまり、エネルギーが不可欠なのです。でも、それだけではありません。

そうです! 
そのコンピュータを何らかの意図を持って操作する主人公の存在です。

そうすると、次のように表わすことができます。
コンピュータの作動=操作する主人公+エネルギー+ハード+ソフト ・・・・Ⓐ

つまり、コンピュータの作動は(何らかの意図を持った)操作する主人公がエネルギーを供給しながら、ハードとソフトを道具として使って操作することによって成り立っているということです。

この「コンピュータの作動」の式を「(普通の人がより正確に考える)自分」という式と比べてみると、

コンピュータの作動=操作する主人公+エネルギー+ハード+ソフト ・・・・Ⓐ  
(普通の人がより正確に考える)自分=自分という意識の源+体(ハード)+心(ソフト) ・・・・Ⓑ  
となります。

したがって、ⒶとⒷの2つの式を対照することによって、自分という意識の源は、コンピュータで言えば、操作する主人公+エネルギーに相当することがわかります。

それを式で簡単に表わせば、次のようになります。
自分という意識が出てくる源=操作する主人公+エネルギー ・・・・Ⓒ

ここで、「操作する」というのは、人間の場合には、「体や心を操作する」ということになります。
また、コンピュータの場合には、主人公とエネルギーは別々のものですが、人間の場合には、その二つの要素が一つになったものです。
つまり、次のようになります。
操作する主人公 = エネルギー ・・・・Ⓓ

そこで、式Ⓒをわかりやすく書き直すと、次のようになります。
自分という意識が出てくる源=自分のエネルギーで体と心を操作して生きている主人公 ・・・・Ⓔ

式Ⓔから、次のことがはっきりとわかります。
自分という意識が出てくる源=本当の自分 ・・・・Ⓕ

本当の自分=自分のエネルギーで体と心を操作して生きている主人公 ・・・・③

以上をまとめると、“自分”というものを外側から表面だけを見ると、体+心=自分 と見えるかもしれませんが、真実は、“エネルギーである本当の自分”が体と心を道具として使いながら生きているのです。

この“本当の自分”を、禅では、真の自己と呼ぶようですが、昔から霊魂とか気と呼ぶ人もいるようです。

このように、“本当の自分”はある意図を持ったエネルギーです。そのエネルギーは単なる物理的なエネルギーではありません。すべてを生み育む無限の愛のエネルギーです。それで、僕はそれを“いのち”と呼ぶのです。

もともと、この大宇宙はこの眼には見えない“いのち”が現象として顕現したものであり、その顕れの一つがこの“本当の自分”です。つまり、“いのち”こそがこの大宇宙のすべてを生み出し育んでいるのであり、この“いのち”の、いわば、分派が本当の自分なのです。その “いのち”である本当の自分が体と心を作り、それらを道具として使いながら生きているというわけです。この“いのち”の分派はすべての“いのち”と同質でありぶっ続きです。(けれども、同時に、個的な要素もあるような気もしますが、果たして、真実はどうなのでしょうか。)

そして、“いのち”が現象として顕れた体が時を経て動かなくなれば、“いのち”は体から離れます。しかし、“いのち”がなくなったわけではありません。“いのち”はなくならないのです。だから、体は死んでも、自分はなくならないし、どこにも行きません。

自分自身ではっきりと確かめたわけではありませんが、いろいろと調べていくと、どうやら、そのうちに別の肉体を使って生まれ変わってこの世界に出て来るということを繰り返している例も沢山あるようです。また、よくはわかりませんが、他の世界に移って行く場合もあるようです。

それから、自分がこの肉体や心を道具として使いながら得たいろいろな知識や記憶も決して失われることはなく、別の次元の世界のどこかに、この世界で得たすべての知識や記録や記憶の保管場所があるとも言われています。

確かに、このような世界については、でたらめをいかにも真実だと言うペテン師のような人も多いですし、また、一部分は真実かもしれないけれど、その他に自分の妄想などが混じっていたりもするので私たちは十分気をつけなければなりません。しかし、その全部を否定できないようにも思えるのです。どう見ても確かな証拠らしきものが時々出てくることも事実です。

いずれにしても、この世界で私たちの五感と大脳が捉えているものは精々時間を加えても4次元の世界のことですが、真実の世界はもっともっと多次元の世界ではないかと僕は想像しています。

たとえば、サイコロは正六面体で、僕らが認識できるのは6つの面にすぎません。けれども、真実は、例えば、64面体になっていることには気づかないで、精々6つの面にしか気づかずに、その中で、「この世界はこうなっている、ああなっている」とワーワーと論じ合っているようなものではないかと、僕は時々想像しています。今回は、そのような中で、自分が確信できることだけ書いてみたしだいです。




すごいことではないからこそ

すごいことではないからこそ

ある方から、僕のオンラインの講義を聴いて、僕の子供時代から26歳の体験のすごさがわかった、というコメントをいただきました。

僕は思わず「すごいことではないからこそなんだよ」と思いました。そして、次のように返事をしました。
「決してすごいことではない。当たり前の真実に気がついたということ。真実が本当に明らかになれば、自然に空を自由に飛びまわっている自分に気づくのです。」

今回はその真意についてくわしく書いてみたいと思います。

ご存じの方もいらっしゃることでしょうが、フランスの小説家アレクサンドル・デユマに『モンテ・クリスト伯』という長編の小説があります。邦訳では『巌窟王』とも訳されているようです。僕は若いころにこの小説に出会って何回も夢中になって読みました。

小説の主人公はエドモン・ダンテスという青年です。彼は貧乏な家に生まれ、母親が早死にした後、年老いた父親の面倒を見ながら誠実に明るく生きていました。友達にも好かれ、将来を約束した恋人もでき、彼が働く船会社の経営者も彼を将来有望な若者と見込んで何かと面倒を見てくれていました。

ところが、そういう彼をねたんでいる人たちがいたのです。彼らは密かに共謀して、彼をとある事件の犯人だと警察に密告しました。

こうして、彼はまったく無実にもかかわらず、無期懲役の罪でマルセーユの沖合の孤島にある監獄に閉じ込められます。彼は恋人をはじめ、前途洋々の未来を失い、年老いた父親のことを心配しながら、ほとんど日も差さない暗くジメジメした独房で生きてゆきます。脱出を何回も試みますが、いずれも失敗します。こうして絶望のどん底での獄中生活が14年にも及んだ時に、最後の望みを駆けた命がけの脱出に奇跡的に成功するのです。・・・・その後は興味がある人は図書館で借りるか文庫本でも買って読んでみてください。

さて、ここで質問です。
あなたがこの主人公エドモン・ダンテスだったとしたら、ついに監獄から脱出できて完全に自由になったことを確信した時、どんな気持ちになると思いますか?

その喜びと感激はどんなだったか想像できるでしょう。嬉しくて嬉しくて世界中を駆け回りたい気持ちだったでしょう。

以上は小説の話ですが、実例をもう一つあげましょう。
彼は父親がいつもタバコの害によって苦しみ、とうとう早くして亡くなったのにもかかわらず、彼自身いやだいやだと思っていたタバコを10代の初めごろに吸い始めました。本数は次第に増え、30代のころには1日に100本、少ない日でも60本も吸うようになり、体はボロボロになって、このままでは近い将来死ぬのは確かだろうと思わずにはいられませんでした。何回もやめようとするのですが、しばらくするとまた吸ってしまうということを繰り返していました。禁煙がこんなに苦しいのなら、タバコを吸って苦しんだ方がマシだとさえ思っていました。でも、本心はタバコの奴隷として生きるのが嫌で嫌で仕方がなく、どうしてもタバコをやめたいと思っていたのです。

こうして43歳になった時に、ほんの偶然によって、まさに奇跡的にタバコの正体に気づいて、いとも簡単にタバコをやめることができたのです。彼自身の言うところによると、タバコの正体を見抜いた瞬間、最後のタバコをもみ消す前に、彼はすでにノンスモーカーになっていたそうです。

そして、彼は目の前にいた奥さんに静かに言いました。「世界中の喫煙者をタバコから救ってみせるよ!」と。

でも、ご主人が過去に何度も何度も禁煙に失敗してきたのを見てきた奥さんは、ご主人がタバコの吸いすぎでアタマがおかしくなったのではないかと思ったそうです。

しかし、その後夫婦はタバコをやめるためのクリニックを立ち上げ、評判が評判を呼び、「読むだけでタバコをやめられる」という本を出版し、それが世界中でベストセラーになり、世界中にネットワークが広がり、彼の方法でタバコを簡単に止めた人はすでに数千万人に上るとのことです。彼の活動はタバコだけでなく、アルコールその他の依存症からの回復などにも広まっています。

彼の名前はアレンカーといいます。僕は彼の書いた本は全部買いました。日本語だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語などの本も持っています。それらを何回読んだことでしょう。

そのたびに「同じだなあ!」と感激します。でも、彼の気づき(悟り)をすごいとは思わないのです。ただ、当たり前のことだと思うだけです。

どういうことかと言えば、エドモン・ダンテスの場合でも、牢獄に閉じ込められないで、自由にどこにでも行け、なんでもできるのは、本来、誰にとっても当たり前のことだからです。

エドモンが歓喜したのは、無実の罪で暗くてジメジメしていた牢獄に閉じ込められて、つまり、長い間本来、当たり前の自由を奪われ、苦しんでいたからこそ、当たり前の自由がとても素晴らしく思えたのです。

これは、タバコを吸って大きな安堵感や喜びを感じるのは、実は、(前に吸ったタバコが引き起こした)ニコチン切れのストレスや渇望感を新たにニコチンを補充してホッとしているだけなのです。タバコを吸わないのは、本来、当たり前のことで特別なすごいことではありません。

ですから、アレンカーの気づきはただ当たり前のことに気づいたというだけで、すごいことではありません。ただ、彼が何十年と苦しんできたからこそ、それは大きな喜びだったというわけです。

そういう意味で、僕の26歳の時の気づきも、それまで右の世界の錯覚と妄想で大きくマイナスに落ち込んでいたからこそ、「本来は、人間は誰でも、何があっても変わらない。大丈夫だ。真に自由でどこまでも幸福なのだというごくごく当たり前のこと、つまり、ゼロに戻ったこと」をとても嬉く感じ、その幸せを世界中の人と共有したいと思ったのです。

でも、この世界に生きるほとんどの人がかつての僕と同じように、体や心を自分だと錯覚して、大きくマイナスに落ち込んでいます。そして、そのほとんどの人が、どこか変だぞと感じながらも、それが当たり前だと思っているのです。「だって人間だもの・・・」というわけです。

それは病だからです。そのように全力で生きることはすごいことでもなんでもないのです。当たり前のことです。当たり前だから誰にでもできるのです。ただ自分がサングラスかけていたことに気づいて、それを外して見るだけです。そうすれば、誰でも本当の色に気づきます。少しも難しくありません。簡単なことです。このように、当たり前のことだから楽しくてしかたがないのです。

ここのところを何回も読んで、「こんなことで自分はいいのか!これでは生きている価値がないじゃないか!」と奮起して、即行動に移らなければ、何度このようなブログや講義を聴いても無意味です。


僕はいつもそう感じながらブログを書いたり話をしています。それは誰のためでもありません。自分がそうしたいから、楽しいし、最も楽だからそうしているだけです。このように生きることが最高の幸せな生き方だと確信しています。そして、僕はこのように生きる幸せを世界中の人に味わってほしいのです。

ここで標語を作りました。
暗い牢獄? みんな同じだ 怖くない
鈍い? それがなんで悪いんだ?

確かに、自分がどんなに臭くても、周りの人がみんな臭ければ、何か変だなと思いながらも、気にならないかもしれませんね。

このように、真実がどうかということより、周りがどうかということを基準生きていくと、とんでもない一生になってしまいます。





存在の真実を体得するために

存在の真実を体得するために

「いのちの塾のセミナー、頭の先っぽからの理解を脱出です。
昇平先生のお話しを素直に聴き直しています。
事実の側からみたいのちの世界、全身で感じて生き切りたいです。
はっきりとした意識の転換。
昇平先生があらゆる角度で伝えてくださる真実、本物の気づき、発見を楽しみに取り組みます。」

これはある人から個人的にいただいたメールです。
これこそ、存在の真実を心からわかるために絶対に必要な姿勢・態度です。
ぜひこの姿勢・態度で僕の言うことを聴いたり読んだりしていただきたいと思います。

存在の真実はタバコ図で言えば、左側の世界です。右側はアタマで描いている妄想の世界です。
アタマの側から見ても存在の真実はアタマでわかったように思っても、実感として「なるほど~!」と深く捉えることはできません。
なぜなら、真実とは本当の事実ということであり、「事実は思いとは違う。事実は思いそのものではない」のです。これは自覚のセミナーの各テーマを体得するうえで、まず最初に気づくべきもっとも大切な基本的真実です。

それなのに、自覚のセミナーを受講した後も、何かと存在の真実をアタマで捉えよう捉えようとしている人がかなりいます。要するに、自分の思いの枠組みのなかに存在の真実という事実を組み込んでしまっているのです。そのために、自覚のセミナーでやったテーマは記憶には残っていても、自分のアタマで作り上げてきた右の世界のいろいろな思いのなかの単なる一つの知識になってしまっています。

ですから、存在の真実を検べて体得する、つまり、心から納得するためには、事実を思いを通して検べても、ただアタマの先っぽで分かったような気がするだけで終わってしまうのです。

では、どうしたらよいか? 
それは思いではなく、事実自身を検べるという態度・姿勢に徹することです。それ以外にありません。

「本当の自分とは何か?」というテーマについて説明してみましょう。一つ一つの説明を読んだら、子供のように無邪気な気持ちで、その一つ一つを事実としてどうか?と検べていってください。

まず最初に、“個という観点から”「本当の自分とは何か?」ということを検べてみましょう。「本当の自分とは何か?」ということは「自分とは本当は何か?」と言い換えてもいいでしょう。

まず、体の外には何がありますか? 体の外には自分がその中で生きていく外界がありますね。

では、その外界は自分そのものですか? 明らかに外界は自分が生きていく舞台のようなもので、もちろん自分ではありませんね。

次に、体は自分そのものですか? 今までは体が自分だと思ってきたのかもしれませんが、本当はどうですか? うう~ん、どうも自分のように思えますか? それは思い込みではないですか? 

では、質問を変えてみましょう。体と心、つまり、思いや感情などは同じでしょうか? これは直感的に別々だと思うでしょうね。たとえば、体温が37度に上がった時に、まあ普通は「イヤだな」と思うかもしれませんが、状況によっては、逆に「これで仕事を休める口実ができたぞ。よかった!」などと思うこともあるのではないでしょうか? もし心、すなわち、思いや感情が体と同じだったら、同じ体の状態であれば、絶対にいつも同じ思いや感情が出てくるはずです。でも、そうではありませんね。それは外界の状況がまったく同じであっても、その時々でいろいろ異なった思いや感情を持つことができる、つまり、選択することができるのと同じです。つまり、体と心は関連性はあったとしても異なるものです。

このように、体と心は異なるものですから、体が病んでいても、必ずしも、心まで悩ませなければならないということではないのです。たとえ、重度の結核であろうと、半年後に眼が見えなくなっても、心は体そのものではありませんから、心が必然的に悩んでしまうわけではないのです。つまり、体が病んでも、自分の意志で自由に心の持ち方を選択できるということです。ということは、体がどうなろうと、本来、心自体は変わらないということです。もし、変ったとしたら、自分がそのようになることを選んだということです。

では、思いや感情などの精神作用、つまり、心が自分そのものなのでしょうか? さて、どうでしょう。なんだか、心が自分という感じがしてきたのではないでしょうか。
でも、違いますね。思いや感情や記憶その他の顕在意識も潜在意識も脳のハタラキによるものです。確かに、脳から神経組織を使って体の各部に指令が送られたり、逆に、体の各部からいろんな状況が報告されたりするところだけを見ると、何だか脳が体全体をコントロールしているようにも見えます。そう考えると、脳が体のご主人みたいに思えるかもしれませんね。つまり、脳が自分だという感じがするかもしれませんね。

でも、これも違います。現代脳科学でもすでにかなり解明されていますが、人間の体は脳を含めて体のそれぞれの部分がお互いに協力しながら機能しています。つまり、脳も体の一部であり、その脳に大きく分けて体の生理作用と心という精神作用を司る部分があるというわけです。ただ、繰りかえしになりますが、体の生理状態が不調でも、必然的に心まで不調になるわけではありません。ですから、その意味で、心は、本来、いつも自由なのです。

ここまで検べてきたわけですが、ちょっと別の角度から体と心と本当の自分ということを検べてみましょう。

つまり、それは、多くの人のように、「体と心が自分である。体や心が働いていること自体が生きていることだ」とキメツケルのでなく、「自分という人間にとって体や心は一体何なのだ?」と検べてみるのです。

たとえば、草の葉っぱは草のいのちにとって何なのでしょうか? それは太陽のエネルギーによって空気中から吸収した二酸化炭素と根を通して地中から吸収した水からデンプンを作るための工場というか、道具なのです。

では、デンプンは草のいのちにとって何なのでしょうか? それは草が生きるための体を構成する材料になる栄養というか、道具です。つまり、根や茎や葉など草の体のいろいろな部分はそれぞれ草のいのちをよりよく生かし成長させるための道具なのです。

自分という人間にとっても同じです。体の各部分は不可分一体として協力し、この体を生かし成長させるための道具です。それは心といういろいろな精神作用についても同じです。そして、この体も心も、本来、自分という人間のいのちを生かし成長させるための道具です。

そういう意味で、真実は、体の外にある外界も、草のいのちにとって外界がそうであるように、自分という人間のいのちを生かし、成長させるための道具なのです。

ここまでの結論としては、体も心も本当の自分が生きて成長するための道具であるということです。ということは、体も心も本当の自分ではないということです。ということは、体がどうであろうと、心がどうであろうと、自分は絶対に傷つくこともなければ、自分はなにがあっても変わることがなく、大丈夫だということです。

つまり、自分は本当は体や心のさらに奥にあり、体や心を道具として使いながら生きている存在だということです。では、その自分という存在自体は何なのでしょうか?

それを確かめるには自分の体や心のさらに奥をじっと見つめて確かめるしかありません。早速、やってみてください。
何か感じますか? 体がほてっていたり、疲れていたり、あるいは、心が緊張していたり、思いや感情が渦巻いているような状態ではなかなかその奥までは感じられないでしょう。

ここは、結論から言いましょう。その奥には何も感じられないし、見えもしないし、聞こえもしないのです。
では、何もないのでしょうか? ここが右側の世界でいろいろ考えてもわからないところです。よく説明を聞いて、後で、自分で確かめてください。

確かに、何も感じられず、見えもせず、聞こえもしません。しかし、それは何もないということにはならないのです。可能性としては何もないのかもしれません。でも、例えば、電波は見えませんが存在することはわかっています。引力もそうです。エネルギーもそうです。そのようなものは無数にあるのです。ですから、アタマを柔軟にしてください。

可能性としては、何もないかもしれないが、何かがあるかもしれないということです。では、どうやってたしかめたらよいのでしょうか?

たとえば、「気」は眼に見えません。聞こえもしません。だから、多くの人はそんなものはないと思っています。でも、本当は、ネコでも人間でも誰でも感じることができるのです。感じられないのは、それこそ、鈍っているからです。

天風先生は「体と心の奥にあるのは気である。それが本当の自分だ」と言っています。天風先生は、実は、ヨガの偉大なマスターです。ですから、今の人の感覚では考えられないほどの、いわゆる、超能力の持ち主でした。でも、本当は私たちはみんなそのような能力を持っているのです。鈍らしてしまっているけど・・・。

つまり、感じられない、見えない、聞こえないといっても、ちゃんと「気」があるのです。それが本当の自分です。その気を僕は“いのち”と呼んでいます。仏教では「無」とか「空」などと呼んでいるようですが、何も無いのでもなく、空っぽなのでもありません。この世界のあらゆる存在や現象を現している無限の愛のエネルギーです。

幸いにも、私たちはその見えもしない聞こえもしない“いのち”こそが(本当の)自分であるということを川の瞑想や自観法や自分の目の奥を見る実習によって容易に確かめることができます。気や“いのち”のことを昔から「霊魂」などと呼ぶ人もありますが、自分である“いのち”は個的要素を持ちながら、同時に、この世界、この大宇宙を顕現し働いている“いのち”そのものでもあります。

いずれにしても、体や心は自分が生きていくための道具であり、その自分はその奥にある“いのち”です。ですから、自分というものは、外的状況がどうであろうと、体や心の有様がどうであろうと、まったく変わることもなく、傷つくこともありません。

道具である体や心はいずれ物質として老朽化して使いものにならなくなっても、“いのち”である自分自身は死ぬことはありません。ただ、体や心から離れて大宇宙の“いのち”として存在しながら、いずれまたあらたな体や心を使ってこの世界に生まれて、生きて、そして死んでいくということを繰り返しています。ですから、自分というものは、絶対に自由で無限に幸福な不死の存在なのです。

この自己の真実に気がつけば、思いという妄想によって描かれたタバコ図の右側の世界に無限大の分の1のちっぽけな存在として、いつも優劣観(感)に苦しみ、対立感にいら立ち、孤独感に浸り、まわりに気を使い、根底ではいつかは死ぬことを恐れ、不安にさいなまれながら、自分を何とか守ろうとしている自分がいかに罰当たりでツマラナイ生き方をしてきたかに気づいて、あらためて、愕然として、思わず笑ってしまうでしょう。

なかには、この世の中で要領よく生きることによって、社会的に高いと言われる地位を得たり、財産を築いて、周りからもチヤホヤされて、自分もたいしたもんだなどと自己満足している人間たちもいるけれども、それらの人たちを見る度に、なんてみすぼらしい生き方か、何のための人生かと思わず悲しくなってしまいます。それは右の世界で小さく閉じこもってオドオドと生きている人についても同じです。

人間はだれでも、本来、そのままで無限に自由で、どこまでも幸福で本当に素晴らしい存在なのです。それはみなさんが自覚のセミナーで気がつかれたとおりです。それなのに、その尊い真実を再び右側の世界の間違った汚い価値観で汚してしまってはあまりにももったいないではありませんか。

長い大宇宙の歴史の流れの中で、この人生はたった1回きりです。それを自らドブに捨ててしまうような生き方をしているのはあまりにももったいないことです。

真実の自己に気がついた瞬間、肉体の死を含めてすべてから解放されて生きている自分に気づき、生きることがどこまでも軽やかで楽しく、どんな人とでも会うのが嬉しくてしかたがなく、人の悲しみを自分の悲しみとし、困っている人に思わず手を差し伸べ、自分の気づいた真実をどうしても人に伝えたい、伝えずにはいられないと、自分の喜びを人の喜びとする気持ちで毎日を生きることほど幸せな生き方はないのです。

最後にお馴染みのタバコを例にとって本当の自由、大空を自由に飛び回るような生き方について説明しましょう。

人間はもともとはノンスモーカー、つまり、タバコを吸わない存在、吸いたくない存在であり、タバコを吸わなくても何の不足もありません。つまり、タバコにとらわれていなくて完全に自由です。

ところが、タバコを吸い始めてスモーカーになると、タバコを吸う存在、タバコを吸わずにはいられない存在になります。つまり、タバコにとらわれていて、自由を失っています。

ですから、喫煙は健康に悪いとか人に迷惑がかかる反社会的な行為であるという理由で、スモーカーがタバコをやめようとしても、結局は、吸いたい気持ちを頑張ってガマンする禁煙になってしまいます。どこまでも元々はないはずの「吸いたい!」という気持ちにとらわれているので、いつまでたっても本来のノンスモーカーにもどれません。

つまり、どんなに頑張っても右側の「どうしてもタバコを吸いたい! 吸う必要がある」という観念、つまり、妄想が自分のアタマを縛っていて、そのために一生懸命タバコをガマンはしていても本当にはタバコから自由になれないのです。これがタバコ図の右側の人が「自由に大空を飛び回りたい!」と思って、どんなに頑張ってもいつまでたっても自由に大空を飛べない理由です。

では、どうしたらタバコから本当に自由になれるのでしょうか? それは「これまで、どうしてもタバコを吸いたい! 吸う必要があるとアタマが社会的な洗脳やタバコ自身に騙されて錯覚していただけである。本来は、自分はノンスモーカーであり、タバコは必要なものではなく、タバコを吸いたいという気持ちもないのだ、という自己の真実に気がつけばよいのです。その真実にあらためてはっきり気づけば、その瞬間に、「タバコを吸いたい」という気持ちは消えて、タバコから完全に自由になっています。ですから、ただタバコをやめるだけです。吸いたい気持ちがないので、頑張って吸いたい気持ちをガマンする必要はありません。つまり、タバコに関して真実の自己に気づいた瞬間、完全に自由になり、すでに大空を思い切り自由に飛び回っているのです。

このように本当は、本来、誰でもすでに完全に自由なのです。その真実に気づきさえすればよいのです。もし、気づけないとしたら、それは自分のアタマの思いを真実だと錯覚しているからです。アタマの思いは本当の自分ではないのです。つまり、真実ではありません。いつまでも、思いを真実だと思い込んでいるので、真実の自己を見失い、本当の自由と幸福を見失っているのです。

こんなバカなことをほとんどの人がやっています。そして、それを見て、ただみんながやっているからという理由だけで、他に何の考えもなく、それが本当だと信じ込んでしまいます。だから、いつまでたっても、「何か変だぞ」と感じながらも、右側の思いにしばられて、自分が思いの牢獄に繋がれているのにも気がついていないのです。

あなたはそんな一生でいいのですか? あなたの家族がそうであってもいいのですか? みんながそうであってもいいのですか? 

自分が本当に真実に気がついたら、その時にはすでに行動しています。それが本当にわかったということであり、何にもとらわれることなく大空を思い切り飛び回っているということです。

もし「徐々に、とか、少しずつ」などと思っていたら、いつまでたっても地べたをはいつくばって生きていくことになります。

しっかり瞑想してとか、本を読んでなど、準備運動をいくらやっても飛び立つことはできません。

飛行場で飛行機が滑走路を走り続けています。飛行機の場合にはその結果離陸して空に浮かび上がり空を飛ぶことができるでしょう。

でも、人間の場合には本当に自由に大空を飛び回るためには、いくら準備運動や瞑想をやっても、滑走路を走り続けても本当に自由に大空を飛び回ることはできません。

唯一の方法は本当の自分に気づくこと、本当の自分は完全に自由であり、幸福であること、その真実をすべての人に伝えたいという真心こそが真実の自己であることに気づくことです。

それは誰にでもできます。頑張ってやるのではありません。そうしたいと心から思うのからやるのです。そう生きるのが一番楽しからそう生きるのです。

僕にはこれ以上は書けません。まだ引っかかっている方は、どうか、すべてがはっきりするまで繰り返しこの文章を読んでください。




カント少年の悟り(改訂版)

カント少年の悟り(改訂版)

インマヌエル・カントは18世紀、ドイツが生んだもっとも偉大な哲学者だと言われています。

カントは大学で哲学を学び、深い思索をもとに独自の考えを次々に発表し、有名な大学の総長にもなり、80歳まで生きました。

彼の著書『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』は今日に至るまで西洋哲学全体に大きな影響を及ぼしています。また、彼は当時の不安定な国際状況を憂い、『永遠の平和のために』という本も書いています。

このような彼の経歴を聞くと、ほとんどの人は、カントは裕福な家庭に育ち、アタマがとてもいいだけでなく、健康にも恵まれて丈夫な人だったようなイメージを抱かれるかもしれません。

けれども、カントは小さな村の貧しい馬具職人の四男として生まれ育っただけでなく、体が先天的に変形しており、背中には大きな瘤(こぶ)が載っていました。また、胸の乳と乳の間が6センチぐらいでとても狭く、そのため幼い時からいつも、ぜいぜいと苦しい呼吸し、脈拍もとても速く打っていました。けれども、家が貧しいので医者に診てもらうこともできませんでした。

カントが15,6歳の頃、村に巡回の医者がやってきたので、初めてカントは医者に診てもらうことができました。

医者は丁寧にカントの体を診察した後、カント少年に言いました。

「この体ではいつも苦しくてしかたがないだろう。この体は何をやっても治らないよ。でも、ご両親に苦しい、辛いと言っても、ご両親はただ辛い思いをするだけだ。だから、どんなに体が苦しくても、苦しいとか辛いと言わないようにしてごらん」

医者はさらに続けて言いました。

「確かに、体は治らないだろう。そして、そんなに長生きはできないかもしれない。でも、君の心は病んでも苦しんでもいないじゃないか。だから、そのことを感謝して毎日を生きて行きなさい。」

この言葉によってカント少年の心は180度転換しました。
「お医者さんの言うとおりだ。苦しい、辛いといくら言ってみても、体がよくなるわけではないし、苦しさがなくなるわけではない。よけいに苦しくなるだけだ。それだけでなく、お父さんやお母さんを苦しめ、悲しませる。僕は今までなんという親不孝をしてきたのだろう。本当に申し訳なかった。」

「これからはどんなに苦しくても、絶対に苦しいとは言わないようにしよう。心は何ともないのだから、その何ともない心でやれることをやっていこう。」

こうして、苦しい中にも勉学に励み、幸いにも、少しずつ元気になり、大学にも入って、ついには哲学の分野で偉大なる業績を上げることになったのです。

医者が言ったのは「体は病んでいても、心まで病ませることはない」ということです。そう言われてカント少年は「その通りだ」と心から思い、カントは生涯明るく積極的に生き切ったのです。

本当の自分はもともと絶対の静寂・透明・空であり、何ものによっても絶対に傷付いたり、汚れたり、病気になったりするものではありません。体や心は本当の自分が生きていくための道具にすぎません。しかも、心は体ではありません。だから、体が病んでも、心まで悩ませることはないのです。

自分が体と心の主人公であり、何ごとも心の持ち方一つに掛かっています。

掛け替えのない一生をどこまでも明るく、積極的に、みんなと仲良く生きていくポイントは、まさに、ここにあります。

人間は、本来、どこまでも自由で幸福に生きて行けるのです。





天風先生最初の悟り 

天風先生最初の悟り   
  『成功の実現』日本経営合理化協会出版局 P208~P224 より

(重度の結核を患った若き日の中村天風先生は、ふとした機縁からヨガの大家カリアッパ師に出会い、インドの奥地で修業をすることになった。これは天風先生の最初の大きな気づきについてのご自身による話である。)


いったい何だろう、我れとは。
私はね、この体が自分だと思ってた。それで、いちばん先それをペシャンとやられちゃった。
ある朝、熱があって、前の晩に痰の中に少し血もまざっておったんで、
「きょうはひとつ、山行きの取り止めをお許し願いたいんですけども」と言ったら、カリアッパ師が、
「なぜ?」
「頭が重くて熱があるようです」
「だれが?」
「私でございます」
「お前が頭が痛くて熱があるの?」
「へえ」
「ほう。お前、頭あるの?」.
「へえ、ございます」
「あ、それ、お前?」
「へぇ」
「お前はそれ?」
「へぇ」
「ふうん。そういう考え方してるから、お前はいつまでたってもその病が治らないんだな」
「これ、私じゃないんですか」
「さあねえ、それがお前だと考えてるかぎりは、お前はほんとうのお前を知らないことになるなあ」
「けど、おかしいなあ。どうもこれは私のようですがなあ」
「私のようだから、お前か」
「だけど、私、お叱りを受けるか知らないけど、ずいぶん今まで、学問もしましたし、それから仏教もヤソ教も、フィフィ教もやりましたけど、これが私だということをだれもまちがってるとは言いません」
「だれもまちがってると言わなかったら、まちがいは正当になるかい、え?いやさ、だれもがまちがっていないと言ったら、それがまちがいでも、それが正当になるかって言ったんだ」 .
「いや、それは、まちがってることだったら、百人がほんとうだと言っても、まちがいですな」
「そうだろう。それをお前、今何て言った?学者も宗教家も、これが自分だということに何とも言わないから、それが自分だと思い込んでると言ったろう」
「へぇ」
「それ間違いなんだよ」
「あれ!これは私じゃないんですか」
「そうだよ」
「おかしいなあ。これ何でしょう」
「俺に聞く奴があるか。自分のものは自分で考えろ、馬鹿め」
「はてなあ、何だろう」

考えたって、考えきれやしませんわね、この頭では。それっきり何にも教えてくれないんだから。そらもう三日、五日、考えどおしに考えているうちに、「ああ、心が自分の正体なんだなあ。よく考えてみりゃ、心がいろいろとあれを思い、これを思ったりすることを行うための用うに当てるために、肉体は働いてる場合が多い。そうだ、こう言えば、きっと満点だぞ」と思って、また一週間ばかりたって、

「この間の、私でございますが」
「ああ。あれからずっと考えた?」
「へえ」
「考えてちゃわからないだろうな」
「ええ?」
「考えてたんじゃわからないだろう、お前の頭じゃ、ねえ」
「だって、考えなければ、わかるところにいかないでしょう」
「それがすでに間違いだな。考えて考えつくようなことはね、およそたかが知れてる」
「あれ?どうもあなたのおっしゃることが、私には時々わからなくなっちゃうんです。それじゃあ、考えないでわかることがあるんですか」
「ああ、それがほんとうのわかり方じゃ|
「あれっ、考えないでわかる・・・」
「そうじゃよ。それがなあ、ほんとうの自分てものがわからないと駄目だ。そのほんとうの自分がヒョイと思ったことが、ほんとうにわかったことになるんだ」
「何だかまるで謎のなかに入っているようですが、おぼろげながらも何かわかるような気もします。間違っていたらお叱り願いたいんですが、自分ていうものがこれでないことはわかりました」
「おお、感心、感心。何だね、自分は?」
「心です」
「心?ほう。心って何だ」
「困ったな、これは。何だといって、心っていうのは心でございます」
「だから、その心は何だね」
「问だねって聞かれると困るな。そのう、文明のほうの生理科学でいくと、心っていうのは脳髄の中にあるんです」
「そんなこと聞いてんじゃない。心とは何だと聞いてんだ」
「心とは、えーわかりません」

わかりますか、あなた方、心とは何だと聞かれて。私はわからなかった。なるほどふだんは心だとか、心持ちだとか言ってるけど、さて、その心とはと聞かれて、わからなくなっちゃうんだ。哲学者である我々、そういうことを考えるべき学問のなかに生きてる私でさえわからなかったんだから、あなた方、わからないだろう。心とは何だ。

「心とは何だというご質問が非常に厳しいようですが、今お答えした自分というのは心じゃないんですか」と言ったら、
「お前は心だと思ってるんだろ」
「へえ、そうなんです」
「だからお前が心をお前だと思ってるというから、その心とは何だ、つまり、お前とは何だと聞いてるんじゃないか」
「わかりません」
「わからないことを、お前だと思ってるのか」
「そう言われりゃあ、そうなります」
「そんな答えはだめだ。お前はね、どうも心や肉体のどっちかがお前だと思ってるらしいなあ」
「そうじやないんですか」
「そうじやないねえ」
「はてなあ?心も自分でなく、肉体も自分でないとしたら、それじゃあ何が自分です」
「お前ねえ、もう少し頭がいいかと思ったら、案外よくないな。心や体はね、お前でなしってことはひと目で自分自身わかるはずだ」
「わからないから、私さっきからあなたの言うことがわからないで困ってんです」
「俺はまた、お前は俺の言うことがわからないで困ってるとは思わないで、お前の言ってることがお前にわからないで困ってる、と思ってるんだがねえ。心や体はお前じゃないんだよ」
「あれっ、体も心も私でない?」
「そうよ」
「それはどういうわけで」
「どういうわけ?それがわからないのか。心や体が人間でないからだ」
「ありや。なるほど」
「わかったか」
「何かこうわかったような気持ちがします」

そこで私、心や体が人間じゃないとすると、心や体は何だろうとまた考えたよ。考えれば 、すぐわかるだろ。これは三日ばかりですぐわかった。「心や体は人間じゃない。人間でないとすると、人間というものから考えたときに、この心や体は何だろうと考えた。これは哲学的な客観的相対思索という考え方なの。科学の方じゃ教えてない考え方なの。三日ばかりたってハッと気がついた。そこで、

「わかりました」と言ったら、
「わかったか」
そのとき、ヒョイと私の顔を見るとね、この人、現在の私みたいな力をもっているんだね。あ、こいつはほんとうにわかったことを言うなとか、わからないことを言うなということがわかるらしい。
「わかったらしいな。うーん、きょうはりっぱなことを言うらしいな。わかったか」
「わかりました」
「わかったなら言わなくてもいいけれども、ひとり言でもいいから言ってごらん」
「はあ、体も心も生きるための道具です」
「そうだ、満点だ。それでいいのだ。そこで、それがわかったら、お前は?」
「それがまだわからないんです」
「何にもなんねえ。せっかくいいとこまでわかってんだぞ、なあ。今お前の言ったことが わかろうまでにはな、この国にも百歳を越した奴はいくらもいるけど、わからないで、いっこうにその行が進まずに山の奥にも行けないで困ってる奴が幾人もいるんだ。感心だ。心と肉体は、お前が生きるための道具だ。しかし、そのお前は何だよ、お前は?」
「それがその、まだ考えついておりません」
「考えろ、考えろ。そこまでいきゃあ、これから先はわけないだろう」

わけないだろうと言われたんだけど、このお前なるものを考えるのにね、ほんとうに今度は三日ってわけにいかなかった。正直なことを言えば、少なくとも二週間ぐらいかかった。

そのとき私ね、フウッとこういうことを考えたんだよ。人間が人間としてこの世に出てくる前に、人間となるべき要素が必ずやあったに違いないと。この世の中に、蒔かないで花が咲いたり、実がみのるものは絶対ないんだから。
冬、雪や霜や寒さに閉じ込められた泥のなかからは、何にも出ないように見えるけれども、春や三月、水ぬるみ出すと、ちらりほらりと泥のなかから草の双葉が芽生え出す。でも、芽生え出す前に、冬の霜、水の張っているときに泥の中かき回したら何か出てくるかというと、何も出てはこない。顕微鏡で見れば、どうか知らんけども、普通の肉眼では見られません。それがとにかく、春三月ともなると不思議や、ただたんに泥からばかりじゃない、葉っぱひとつなくなっちゃった木から青い葉が出てきて、そして季節をまちがえないでちゃんと花が咲いてくる、ねえ。
これは、宇宙のなかに遍満存在する生生化育のエネルギーであるということがわかってます。生生化育、物を生み出しつくり上げる「気」がある。現在でも形は見えないけど、-遍満存在してます。
(省略)

これを、ありがたいことに、私は基礎医学を研究してたものだから、ヒョイと考えついて、二週間ばかりたってから、

「わかりました」と言ったら、「またわかったな。そうだそうだ。そのわかったものがお前だ」
「そうでしょう」
「そうだ。わかったものがお前だ」
私はこの見えないひとつの気、これが俺だと思った。

見えないひとつの気が、現象世界にその生命を表現しようとする場合に必要な道具として与えられたのが肉体と心なんです。
 だから、肉体を使うだけ使えば、この気はその肉体という道具をもう使っていかれないから、肉体から離れるだけなんです。

人間の体もそのとおり。五輪五体が全きときは、この気が生きるために必要な役割はつとめる、肉体が。けれど、この気がいくら強い力をもっていても、働かそうとする扇風機が壊れていればだめと同じように、肉体が壊れていたらだめだろう。結局、物の役に立たなくなっちまう。つまり肉体は死という位置転機によってこの現象界から姿を消しちまう物質だから。
けれども、その肉体を今まで使っていた気というものは、永久に無くならない。気がなくなってたまるか、ねえ。いかなる時代が来ようとも、この気であるものは、要するに、エレクトロンとブロトンだ。エレクトロンとブロトンというものは永久にこの世から無くならない。これが人間の正体だ。これを、宗教では「霊魂」と言いている。だから、便宜上、その名前をそのまま自分だと思っていればいい。霊魂という見えざるひとつの気体、これが自分なんだ。
だから、今まで自分だと思っていた肉体は、自分ではありゃしない。自分という気体が生きるための必要な仕事を行う道具なんだ。
心またしかりo
どんなあわてん坊だったって、道具がそこに転がっているときに、道具が本物だとは言わないだろう。たとえば、絵かきが絵筆をそこへおっぼりだしているとき、そこへ飛んで出てきて、「あ、絵かきがここで寝てる」とは言わないよ、なあ。ノミやカンナがそこに置いてあるとき、「大工、ここでサボってるな」とは言いませんよ。
それを、人間の場合だけはだね、大工のカンナに等しく、絵かきの絵筆に等しい肉体を、よろしいか、自分だと即座に思っちまう。この思い方を本能階級的自己意識と言う。もっと むずかしい言葉をつかうと、肉体に表現する我の片鱗を自分の全体だと思う思い方。
これは、猫や犬よりもまだ劣ってるのよ。猫や犬はね、いやさ、人間以外の動物や虫けらは、自分の肉体を自分だと思う自己意識もないのです。それはありゃしませんよ。だって、彼らには理性的精神がないんだから。
ともかくも、ほんとうの自分は見えない気なんです。それを、自分でない自分を自分だと思っちゃっているから、そこにとんでもない過ちができちゃって、たとえば、自分が腹が痛いとき、あなた方は「あたしのおなかが痛い」とこう言いますよ。ほんとうを言ったら、そうじゃないんだよ。あなた方の生きるために必要な道具の腹のところが痛いのを、心があなた方に報告しただけなんだ。
「あのう、お道具のおなかのところがただいま痛んでおります」といったのを、あなた方がヒョイと感じた。
ほんとうからいったら、隣の人が腹が痛いのと同じような気持ちで、自分の腹の痛いのを感じていれば、早く治っちまう。それを、自分が腹が痛いと思っちまう。
それだから、何したってなかなか病の治りは遅い。私が喀血してる、私が熱があると思っていたから。そうじゃないんだ、よく考えてみれば。私の体の肺に黴菌がついて蝕んだため に、ときどき結合が破れてそこから血が出て、それで熱があると心が感じて、それを私に報告しただけなんだ。

ということがわかってから、こんど気楽になっちゃった。直接的に自分が患っているんじゃない。おれの道具がそうなっているんだから、道具を心配しないで、道具を治す方に一 生懸命にかかればいいんだ、と。心配がなくなったら、ひとりでにぐんぐん治る病は治ってくるに決まってるという真理によって治っちゃったわけだ。気にしてるときには、注射だ、薬だ、いくらやったって治りゃしない。
それはね、簡単なことから考えてごらん。「病は忘れることによって治る」という実例を考えてごらん。(省略)

こういう、考えてみると、考えるほど神韻縹緲(しんいんひょうびょう)たる消息。考えないと、当たり前のような消息。これが結局、人間が強く生きられるか、弱く生きるかの分岐点なんだ。
(以下省略)


昇平のコメント: お勧め本です。





| ホーム |


 ホーム  » 次のページ