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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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佛様でいる

佛様でいる

私たちは何かのきっかけで、“自分“を真剣に見つめざるをえなくなることがあります。でも、自分を見つめれば見つめるほど自分のケチな根性(エゴ)の根深さに気づき、どうしようもなくやるせない気持ちになります。

そのエゴを何とかしたいと、いろんな本を読んで考えたり、工夫をしたりするのですが、なかなか思うようにはなりません。結局は、もうこれ以上考えるのはやめようと思っているうちに、いつの間にか日常生活に埋没していく人が大部分です。でも、いつも心のどこかで引っかかっているので心から晴れ晴れすることはありません。

中には、それがどうにも気になり、その解決を宗教的信仰や修行に求める人もいます。でも、心からの安心に至る人はとても少ないようです。

このことについて、江戸時代に生きた盤珪禅師は次のように言われています。
「厳しい修行をして悟りを開いて佛になろうとするより、佛でいるほうが簡単で近道ですよ。」

この言葉を聞いて「ああ、そうなのか!」とスッキリ納得された方は本当に幸せです。でも、現代人は中々「そうか」とはなりにくいのではないでしょうか。僕なりに説明してみましょう。

 
ケチな根性(エゴ)は人間の生まれつきのものではありません。二元相対的に思考するアタマ(大脳)によって、この世界をバラバラな存在が集まってできた世界だと認識するバラバラ観による“身びいき”から生じるのです。

多くの人はアタマ、あるいは、アタマで考えることが自分だと思い込んでいるために、ケチな根性を何とかなくしたり、出てこないようにいろいろ工夫したり努力をします。でも、アタマを頼りにしているために、思うようにはならないのです。それは自分の坐っている座布団を持ち上げようとするようなものです。

でも、自分の本体はアタマでも体でもありません。その奥にあるハタラキ・真心です。“いのち“が創り出したこの世界は、本来、調和の世界です。それは大宇宙の星々や大自然の循環・調和の有様を観察すれば、誰にもすぐに分かる真実だと思います。

真心は“いのち“が創り出したこの世界の本質であり、この宇宙に充満しているハタラキです。しかし、ハタラキの結果は五感で捉えることはできても、そのハタラキの本体は五感では捉えることはできません。

そこで、それを仏教では”空“とか、”仏性“などと呼び、盤珪禅師は”不生の佛心“と呼ばれ、僕はそれを阿弥陀如来の心、あるいは、真心と呼んでいます。

その真心こそが自分の本体なのであり、僕はいつもそれを意識して生きるようにしています。

それを趙州禅師流に言えば、
平常心が道である。

盤珪禅師流に言えば、
短気や迷い(エゴ)は生まれつきのものではない。
我が身の身びいきが迷い(エゴ)を生み出す。
佛心の尊さを知れば、迷いたくとも迷われない。
迷いが無いのが悟りであり、佛でいるということ。
不生の仏心が本当の自分であることに決定する。

僕流に言えば、
アタマの錯覚による“自分“がなければ、人に何を言われても傷つかない。
怒りは道徳の問題ではない。怒りが出てこないのが本来の姿だ。


佛様でいる。これが “エゴフリー”で生きる秘訣です。




佛様になる

佛様になる


(以下は、和田重正に学ぶ会機関誌『ここに帰る』第62号 令和元年7月15日発行に掲載された和田重正先生の文章です。)

少しかけ離れた話で、みんなには分からないかもしれませんが、私にはとても面白かったので話しておきます。
 鎌倉の円覚寺の管長さんは朝比奈宗源さんという偉い坊さんです。二、三年前このお坊さんに来ていただいてお話を聞いたことがあるのですが、その時こんなことを言われました。
 「人間は死んだら誰でも佛になる。一生修行を積んだ人も、積まない人も、宗教を信じた人も信じない人も、みんな同じ佛様になるのだ。少しも変わらない。悪いことをしたから地獄に行くとか迷って死んだら行くところへ行けないで人に祟(たた)るとかいうのはみんなウソで、どんな人でも全部立派な佛になるのです。」
 そのとき質疑に立った女の人に、宗源さんは声を励まして言われました。
 「死んで無差別の涅槃に入るというのでは、この世で善根を施したり(善いことをしたり)、修行をしたりして苦労することが無意味ではないかとあなたは考えるのだろうが、そんなケチなことではだめだ。」

 まことに、ケチな根性のために人間は、道理にあったものの考え方が出来ないのです。


以上の朝比奈宗源老師の言葉とそれに対する和田先生のコメントはまさに私たちすべてにとっての福音です。折に触れて何度でも読み返したいものです。

私たちは無垢の“いのち”の現れにより人として生まれ、その後人の特性として本能だけでなくアタマを使って生きていくために、正しいことだけでなく間違いを犯しながら生きて行きます。でも、いずれ肉体の生が尽きて、再び無垢の“いのち”そのものに戻って行きます。この存在の真実を朝比奈宗源老師はわかりやすく説いていられます。

このように、自分自身が間違いをしばしば犯しながら生きているだけでなく、人間の社会ではある人の間違った考え方や行いのために他の多くの人が被害や迷惑を被るということが頻繁に起こっています。

では、自分自身を含めて、間違いを犯し、他の人々を苦しめている人は“悪い人”なのでしょうか? これが今回のテーマでもあります。時間をとってよく考えてください。


結論から行きましょう。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。この言葉はまさに真理であり、福音です。その人の考え方や行いが真理に照らして間違っているのであって、その人の本体は無垢の“いのち”そのものです。ですから、ある人の考え方や行いを憎んでも、その人自身を憎まないのです。

朝比奈宗源老師の話を僕なりに言えば、本当は、死んでから佛様になるのではありません。その人の本体は生きている時からずっと佛様なのです。

だから、誰かが自分がそうすべきでないと思うことをした時にその人に対して腹を立てるということは、佛様に対して腹を立てていることであり、それこそ“罰当たり”なのです。

また、腹を立てるということは、相手の考えや行いではなく、相手そのものを憎むということです。相手がどんな意図で間違いを犯そうとも、その人を憎むということは天に向かってツバすることであり、ひいては、自分にツバすることなのです。




山は山 水は水

山は山 水は水

昔の中国の禅師、青原惟信(せいげんいしん)は次のような言葉を残しています。

「わしが30年前にまだ参禅しなかったときに、山を見たら山は山であり、水を見ると水は水であった。
  その後参禅し親しく禅の師匠に相見(しょうけん)して一つの見性体験があった。そのとき山を見ると山は山でなく、水を見れば水は水ではなかった。
 そして、今日一切解決の無事の境地を得てみると、依然として山はただ山であり、水はただ水であった。」

未だ参禅しないときには、AはAであり、BはBであったということは、すべての存在がバラバラの個として見えていたということです。だから、もちろん、AはBではないと見えたのです。

一つの見性体験があった時に、AはAではなかった、BはBではなかったというのは、AはAという個、BはBという個ではなかったということです。つまり、AもBも個を超えた“いのち“だったということです。AはBでありすべてだったとも言えるでしょう。

そして、一切解決の無事の境地を得てみると、やはりAはただAであり、BはただBであったというのです。でも、それは、もちろん、AもBもそれぞれバラバラな個ということではありません。AもBも“いのち“の顕れ、ハタラキであるという存在の真実を悟ったという意識さえも潜在意識のレベルに沈み込んで、AがA、BがBであることがそのまま“いのち“の顕れなのです。それが真のAであり、真のBということです。

真のAについて簡単に言えば、
AがAであるのは Aが “いのち“ だからである
Aは“いのち“であり、“いのち“がAとして顕れ、はたらいている
もはやAあるにあらず。“いのち“Aの内にてはたらくなり。(昇平語録より)

自分について言えば、本来の自己、真の自己とは個としての実体ではありません。“いのち“の顕れ、ハタラキとしての自己があるだけです。

また、すべての存在について言えば、真実は、すべての存在は個としての実体ではなく、 “いのち“の顕れ、ハタラキとして存在しているのです。

さらに、自分について言えば、“自分“というものの殻、いわゆる、自我の殻がはずれると、そこに塵(ちり)や埃(ほこり)さえも含めてこの世界のすべての存在と素通しの自己を見出すことができます。

アタマですべての存在をバラバラな個として捉えたときには、そこには生滅があります。けれども、すべての存在をひとつの“いのち“が顕れ、はたらいている姿と見るときには、そこには生滅を”超えた”不生不滅の世界がただ展開しているだけです。

それは自分についても同じです。真実は不可分一体のひとつの世界しかありません。けれども、アタマで相対的に表現すれば、私たちは不可分一体の中の個的存在という二重性を生きているのです。

和田重正先生は「わたしたちは死んだらどこに行くのでしょうか?」という問いに「死んでもどこにも行きませんよ」と笑顔で楽しそうに答えられました。

道元禅師は、「全宇宙はそのままで仏のあらわれである」という意味のことを言いながら、「しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」と言われています。





自分ってなんだろう

自分ってなんだろう

自分はと何か?と自分自身問うて、名前を言ってみても、人間だ、男性だ、女性だ、日本人だなどと言っても、自分の周りのことをアレコレ述べているだけで、自分そのものを「コレだ」と表してはいません。

では「自分はこの大宇宙のすべてにずっとはたらいている大いなる“いのち“である」というのはどうでしょうか?
 
それはそれで間違ってはいません。しかし、それは自分についての概念的な“説明”にすぎず、「自分とは何か?」という問いに対する生(なま)の答えではありません。

仏教の第一の目的は、少なくとも過去においては、この生の真実の自己を悟ることであり、多くの出家者がその悟りを目指して血の出るような修行を続けました。しかし、悟りを得ることは決して容易なことではありませんでした。

というのは、上に述べたように、私たち人間はどうしてもアタマに頼り、観念的にいろいろな外的ラベルを貼ってそのラベルを自分だと思い込んだり、あるいは、概念的な説明を持って真実の自己が分かったつもりになる傾向が非常に強いからです。

で、結局、「自分とは何か?」という問いに対する生の答えは何でしょうか? 実は、自分は自分を知ることはできないのです!!

わたしたちは対象化したもの、つまり、自分でないものだけを「それはこういうもの、ああいうもの」と知ることができます。たとえば、Aは自分でないBを対象化して知ることができます。しかし、AはA自身を対象化することはできないので、AはA自身を知ることはできないのです。

たとえば、眼は周りのものを見ることはできても、眼自身を見ることはできません。それと同じように、自分は自分以外のものを知ることはできても、自分自身(生の自分)を知ることはできないのです。

また、「自分は何か?」と自分に問いかけるということ自体、自分をアタマでイメージで空想して、自分を対象化しています。でも、対象化されたイメージとしての自分は生の自分ではありません。何しろ「自分は何か?」と問いかけているもの自体がその答えなのですから。

生の自分とは対象化することのできないものであり、これだと言って対象化したら、それはもはや生の自分ではありません。仮にこれだと摑まえたと思っても、それは観念の自分にすぎません。生の自分(自己)とは見たり聞いたり、「自分とは何か?」という問いかけるハタラキそのものであり、そのようにハタラク実体はないのです。

昔、中国で、懐譲は六祖慧能禅師にはじめて相見したとき「お前は何者か?」という意味の問いに答えられませんでした。しかし、それをテーマに厳しい修行を8年間続けます。

そんなある日忽然として悟ったのです。早速慧能禅師に相見して答えます。

懐譲:「説示一物即不中:これがそうだと、どのように言ってみても真実に的中させることはできません。」

慧能禅師:「汝(なんじ)徹せり。」

この世界の中に自分というカタマリがあるという分別で勝手に構築した世界像と自己像が突然脱落して、すべてが素通しの世界にただ自分という意識とハタラキだけがあることに懐譲は気がついたのです。

二人とも超かっこいいですね。





意識点から自覚点へ

意識点から自覚点へ

私たちは生後成長する過程でいつのころからか、自分というものを意識するようになります。それは、この世界における自分というものの意識点となったということです。

植物も人間以外の動物も自分というものを意識しません。人間は進化の過程でアタマが非常に発達しました。そのおかげで? 五感とアタマを通して他と切り離された自分がここにいると意識するようになったのです。そして、ほとんどの人は死ぬまでそのように意識しながら生きていきます。

このように、多くの人は 「“自分”というものは他と切り離された個としての存在」であると意識してそれを疑おうともしません。それは、前に述べたように、五感と通して捉えたものを相対二元的にしか思考できないアタマで認識するからです。でも、そのおかげで、人間は生物の進化の過程ではじめて”自分“という意識を持つ最初の生物となったのです。
そういう意味で、人間は生物進化の頂点に立つ存在だと言えるでしょう。

ところが、奇妙なことに、進化の頂点に立っているはずの人間が「自分というものは他と切り離された存在である」という認識するゆえに、他と争ったり、孤独や不安に陥ったりするようになり、そのために悩んだり苦しんだりするようになったのです。

そして、その中には悩みや苦しみを乗り越えようとして、「本当の自分とは何だろう?」と疑問を抱き、真剣に本当の自分を探求し始める人も出てきました。そして、真実に気がつく人が出てきたのです。

たしかに、自分というものを他と切り離された存在であると意識しているからといって、本当にそれが真実だと言えるでしょうか? つまり、「AがBである」と意識すれば(思えば)、「真実は、AはBである」と言えるでしょうか?

探究の結果、ついに本当の自分というものに気がつくということは、存在の真実を悟るということですが、別の言葉で言えば、存在の真実、あるいは、真実の自己を自覚するということです。

それは、具体的には、自己とは「他、あるいは、他人と切り離されたこの人間」ではなく、この世界の万物がことごとくそうであるように、自己もまた大宇宙、大自然の理法、すなわち、大いなる自己である“いのち“によってこの自己があり得ているという自覚です。

したがって、もはやこの自分はバラバラな存在のなかの一つの個としての存在の意識点(自分)ではなく、大いなる自己である“いのち“が顕現した大宇宙、大自然とぶっ続きの存在であるという個としての自覚点(自己)となるのです。それこそが真実の自己を自覚した新しい人類、ネオ・ホモ・サピエンス(ネホサ)への進化です。


道元の『正法眼蔵有時の巻』における「われを排列してわれこれをみるなり」という言葉は、この存在の真実を明快に言い切ったものです。

初めの「われ」は大いなる自己、つぎの「われ」は個としての自己です。両方とも同じ「われ」を使っているのは、ともに「自己」であるからです。

文章の意味は次のとおりです。

「大いなる自己である“いのち“が顕現した大宇宙、大自然における万物の整然とした有様を、それらとぶっ続きのこの自己が見て(自覚して)いるのだ」





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