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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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カント少年の悟り

カント少年の悟り

インマヌエル・カントは18世紀、ドイツが生んだもっとも偉大な哲学者だと言われています。

カントは大学で哲学を学び、深い思索をもとに独自の考えを次々に発表し、有名な大学の総長にもなり、80歳まで生きました。

彼の著書『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』は今日に至るまで西洋哲学全体に大きな影響を及ぼしています。また、彼は当時の不安定な国際状況を憂い、『永遠の平和のために』という本も書いています。

このような彼の経歴を聞くと、ほとんどの人は、カントは裕福な家庭に育ち、アタマがとてもいいだけでなく、健康にも恵まれて丈夫な人だったようなイメージを抱かれるかもしれません。

けれども、カントは小さな村の貧しい馬具職人の四男として生まれ育っただけでなく、体が先天的に変形しており、背中には大きな瘤(こぶ)が載っていました。また、胸の乳と乳の間が6センチぐらいでとても狭く、そのため幼い時からいつも、ぜいぜいと苦しい呼吸し、脈拍もとても速く打っていました。けれども、家が貧しいので医者に診てもらうこともできませんでした。

カントが15,6歳の頃、村に巡回の医者がやってきたので、初めてカントは医者に診てもらうことができました。

医者は丁寧にカントの体を診察した後、カント少年に言いました。

「この体ではいつも苦しくてしかたがないだろう。この体は何をやっても治らないよ。でも、ご両親に苦しい、辛いと言っても、ご両親はただ辛い思いをするだけだ。だから、どんなに体が苦しくても、苦しいとか辛いと言わないようにしてごらん」

医者はさらに続けて言いました。

「確かに、体は治らないかもしれない。でも、君の心は病んでも苦しんでもいないじゃないか。だから、そのことを感謝して毎日を生きていきなさい。」

この言葉によってカント少年の心は180度転換しました。
「お医者さんの言うとおりだ。苦しい、辛いといくら言ってみても、体がよくなるわけではないし、苦しさがなくなるわけではない。よけいに苦しくなるだけだ。それだけでなく、お父さんやお母さんを苦しめ、悲しませる。僕は今までなんという親不孝をしてきたのだろう。本当に申し訳なかった。」

「これからはどんなに苦しくても、絶対に苦しいとは言わないようにしよう。心は何ともないのだから、その何ともない心でやれることをやっていこう。」

こうして、苦しい中にも勉学に励み、幸いにも、大学にも入って、ついには哲学の分野で偉大なる業績を上げることになったのです。

医者が言ったのは「体は病んでいても、心まで病ませることはない」ということです。しかし、それは単なるプラス思考ではありません。

心はもともと絶対の静寂・透明・空であり、絶対に何ものによっても傷付いたり、汚れたり、病気になったりするものではない、ということです。その真実にカント少年は気がついたのです。そして、この心の真実に立って、カントは生涯明るく積極的に生き切ったのです。

何ごとも心の持ち方一つに掛かっているのです。

掛け替えのない一生をどこまでも明るく、積極的に、みんなと仲良く、本当に幸せに生きるポイントは、まさに、ここにあります。

自分が心の主人公なのです。





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幽霊の正体見たり  その2

幽霊の正体見たり  その2
(その1からのつづき)

人間社会の苦しみや混乱などの問題も基本的な構図は、幽霊問題、そして、タバコ問題と同じです。

「人間社会の苦しみや混乱はこの世界はバラバラの対立世界であるというアタマの妄想(錯覚)が作りだしたものであり、本来、この世界は不可分一体の非対立の世界である」という存在の真実に気づけば、アタマの妄想は瞬時に、そして、永久に消え去り、そこに人間社会の苦しみや混乱を根本的に解決する道が開けてきます。

その一つが和田重正先生の「国に理想を掲げよう」(通称ネホサ、Neo Homo Sapiens)という提案です。

ほとんど同じ趣旨で小林多津衛先生が「日本を赤十字国家へ」という提案をされています。

僕が知る限り、不可分一体の存在の真実に立脚して、人間社会の行き詰まりを解決し、永久の平和世界を実現しようという根本的、かつ、具体的提案はこの二案以外にはありません。

この世界は真実は不可分一体の非対立の世界です。ところが、この世界をアタマを通して見ると、(妄想であり錯覚なのですが、)“見かけ上”すべてがバラバラであるかのように見えます。

そして、すべてはバラバラという妄想を存在の真実(本来の事実)と信じ込んでいることから、「この世界で一番大切なものは、自分であり、自分の家族であり、自分の国である」というエゴイズム(利己主義)が出てきます。

それが人間の個人的、社会的苦しみや混乱の根本原因です。

このエゴイズムという基盤(土壌)の上で何をやっても問題を根本的に解決することは不可能です。

なぜなら、エゴイズムという基盤(土壌)そのものはどこまで行っても変わらないからです。

不可分一体の存在の真実に立脚して、エゴイズムという基盤(土壌)そのものをまったく別の角度から解消していこうというのがネホサの提案です。

さて、幽霊問題でもタバコ問題でも、そして、社会問題でも、「存在の真実(本来の事実)そのものとアタマによる妄想・錯覚による“思い”」の違いが本当に分かったときには、「なるほど! そうだったのか! これまでトンデモナイ思い違いをしていたんだなあ!」という深い感動を伴います。そして、その後、その確信が揺らぐことは微塵もありません。

ところが、一応分かったように思っても、いま一つはっきりした感じがしないという方々もいます。

それは、まだ何かの思い込みに引っかかって、真実そのものがはっきりとは見えないような気がしているのです。

その思いの代表的なものは、存在の真実は“いまここ”にはっきり見えているのにもかかわらず、「存在の真実というのはこんな単純なことではないはずだ」という思い込みの眼鏡のせいで、無意識のうちに見えている存在の真実を疑っているということです。

そういう方は、繰り返し、これまでのブログを読み返してください。

眼鏡をはずして見れば、真実は、「本当にこんなに単純でいいの?」と言いたくなるほど、単純明快なものです。

ですから、そのうちに必ず「アハーッ!」という体感とともにはっきりと分かるでしょう。

(終わり)





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幽霊の正体見たり  その1

幽霊の正体見たり  その1

あなたは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という故事を聞いたことがことがあると思います。

文章の意味は、「夜、どこか暗いところで、何かボーッと白く揺れているものを見て、幽霊だ!と思ってものすごく怖くなったのだけれども、よく見たら、それは何と!枯れたススキの穂が風に揺らいでいただけだった。それで安心した。」ということです。

この故事は「疑心暗鬼で物事を見ると、悪いほうに想像が膨らんで、ありもしないことに恐れるようになる」ということを言いたいのでしょう。

まさにその通りです。

それと同時に、もう一つ、この故事が面白いのは、誰でも「幽霊」の正体が枯れたススキの穂だったと分かれば、そのとたん、“一瞬にして”「怖い!」という気持ちが消えてしまう、ということです。

この故事はタバコ問題にも見事に当てはまります。

またタバコの話かと思われるかもしれませんが、まあガマンして読んでください。

というのは、このタバコの説明は、タバコだけでなく、存在の真実や生き方の真実について、自分の考えていることや理解していることが、果たしてちゃんとした位置づけになっているかということをチェックするのに最適だからです。

何回も禁煙に挑戦したのだけれども、どうしてもタバコを吸いたい気持ちが消えずに禁煙に失敗し続けてきたにもかかわらず、タバコの正体についての説明を聞いたり読んだりして、「タバコにはメリットは一つもない。あるのはトンデモないデメリットばかりだ。そもそも、タバコを吸う必要はまったくなかったのだ」とタバコの正体(真実)に気付いたとたんに、一瞬にして「タバコを吸いたい」という気持ちがなくなってしまい、何のガマンも努力もすることなく、すっきりとタバコをやめていった人がいます。

つまり、「吸いたい!」という気持ちが、タバコの正体(真実)に気がつけば、「瞬時に、そして、永久に」消え去ってしまうのです。

ところが、タバコの正体についての説明を聞いたり読んだりして、アタマでは分かったような気がするのだけれども、実感としてははっきりとは分からないという人たちがいます。

それは、一応タバコの正体がわかったと思ったにもかかわらず、タバコに対する世間一般の考え方や過去の自身の禁煙の体験に影響されて、「タバコをやめるのはとてつもなく難しく苦しいのだ。そんな簡単に吸いたい気持ちがなくなるはずがない」などと、依然としてスモーカーモードの疑心暗鬼な気持ちで考えているために、せっかく見えていたタバコの正体が曇ってしまうのです。

これは、「あれは幽霊だとばっかり思っていたが、枯れたススキの穂だった」と一度はっきり分かったにもかかわらず、「あれは幽霊だ」と依然として“幽霊モード”で考えていることと同じです。

私たちは、真実(本来の事実)とアタマの思い(妄想)はまったく別物であること、そして、問題となっているのは、アタマの思いではなく、真実(本来の事実)は何か?ということだ、ということに気付くことが大切です。

(つづく)




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ドツボから抜け出るために

ドツボから抜け出るために

僕はしょっちゅうタバコの話をしています。タバコを吸わなくても、多くの人はその他のことでは同じようなドツボに嵌って実に不自由に生きているのではないでしょうか

自分がドツボに嵌っていることに気付かなければ、そのドツボから脱出しようとは思いもしないでしょう。

そして、ドツボの中で「結局、人生はこんなもんなのだ」と自分を慰めながら死んでいくことになるのです。

こんなことでよいはずがありません!

そこで、人が陥りがちな、というか、すでに陥っているドツボに気付いてほしいと思って、分かりやすいように僕はタバコを例にとって説明しているのです。

「やめてみたらわかる」と重正先生は言われましたが、何がわかるといわれたのでしょうか?

タバコについての僕の経験では、タバコはどうしてもやめられない、タバコははよいものだという思いや、タバコをやめようと思うときに感じる不安や恐怖は妄想だったことがやめてみたらわかりました。

その体験から得たものは、タバコをやめて不安や恐怖が出て来ても、それを妄想だとして相手にしないことがポイントだということです。

相手にしなければ、不安や恐怖はいつのまにか自然に消えていくものなのです。というのは、不安や恐怖は実体があるものではなく、たんなる妄想にすぎないからです。

2+3は4ではなくて、真実は2+3は5であることがわかったら、素直にその真実を受け取ればよいということは誰にとっても明らかなことです。

ところが、バラバラ観は存在の真実ではなく、真実は不可分一体であり、不可分一体観に沿って生きることこそ、みんな仲良く楽しく生きられる唯一の道であり、それがもっとも当たり前で楽な生き方であることがわかっても、実際にはバラバラ観に沿って生きている人が実に多いのです。

「それなのに、なぜ?」と聞いてみると、「それはそう思うのだけれども、不可分一体観に沿って生きた体験がないので不安だ」と言います。

ここではっきり言いましょう。

2+3=4と思い込んでいたのに、真実は2+3=5ということがわかったら、その真実をすっきり受け止めて、すっきりと生きるだけです。

もしそこに不安感や恐怖感が生じるとすれば、それはノイローゼだからです。

自分がノイローゼだということに気付いていないから、せっかく不可分一体という存在の真実に気付いたにも関わらずバラバラ観に沿った生き方を続け、自分を苦しめ、周りの人を苦しめながら生きているのです。

でも、ノイローゼで作り出した不安や恐怖をノイローゼのアタマで何とかしようとしても、何もできません。

かえって、事態を混乱させて、自らをさらに苦しむことになってしまいます。

ですから、唯一の道は、素直に自分がノイローゼであったことを認めて、仮に不安や恐怖を感じても相手にしないで、不可分一体の真実に沿って生きていくことしかありません。

そうすれば、そのうちに不安や恐怖はひとりでどこかに行ってしまい、すべてが、不可分一体の真実に沿って整っていくのです。





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境目が本当に見えるか?

境目が本当に見えるか?

「境目」という言葉を僕の広辞苑で調べると、
1 物と物との接する所。かぎり。
2 物事のわかれる所。わかれめ。きわ。

となっています。

この「物と物」という言葉は「それぞれ異なる二つの物」という意味に解釈するのが妥当でしょう。

いま、テーブルの上にコップが乗っていますが、この場合、表面的な形状や性質を見て、テーブルとコップは異なる二つの物と理解すれば、その二つが接するところが境目ということになります。

ところが、もし、テーブルもコップも表面的な形状や性質は異なっていても、その本質は同じものであるとすれば、本質的には境目はないということになります。

もう少し、深く検べてみましょう。

富士山とそれを取り巻く平野部との間に境目はあるでしょうか?

ありませんね。

では「一つの地球には境目はどこにもありません」と言い切ってよいのでしょうか?

でも、たしかに陸続きの所には境目はどこにもないけれども、例えば、陸と海、あるいは、陸と河の間には境目があるとも言えそうです。

これは何を意味しているのでしょうか?

もう一つ例を挙げて検べてみましょう。

人体の肩と腕の間に境目はあるでしょうか?  

胃と腸の間に境目はあるでしょうか?

心臓と肺の間に境目はあるでしょうか?

はっきりとした境目はありませんね。

では、肉と骨の間には境目はあるでしょうか?

あるように思えるし、ないようにも思えますね。

肉と骨は別々の物という考えがあれば、境目があるように思えるでしょう。

肉と骨は別々の物という考えがなければ、境目はないように思えるでしょう。

事実は、人体においてはそれぞれの構成要素は、それぞれ表面的には形状や性質が異なっていても、もともと同じ一つの受精卵から表面上分化したのです。つまり、本質はみんな同じものなのです。

しかも、人体においてはその構成要素は絶えず互いに離散・集合・交流・循環し続けています。

ですから、本質的には人体のどこにも境目はないのです。

それは地球の陸と海、陸と河についてもまったく同じです。

すべての無生物、生物、そして、人間を含むそれぞれの要素はもともと同じ一つのものから生まれたのであり、本質はみんな同じものです。

しかも、その構成要素は絶えず互いに離散・集合・交流・循環し続けているので、本質的には地球のどこにも境目はないのです。

さらに同じことが全宇宙の各構成要素について言えます。

この大宇宙はもともと一つのものが時を経るなかでいろいろな構成要素に分化したものです。

バラバラのものが寄せ集まってできているのではありません。

しかも、私たち一人一人をも含んでその構成要素は絶えず互いに離散・集合・交流・循環し続けているので、本質的には大宇宙のどこにも境目はないのです。

以上は一応理屈で説明したものですが、事実そのものは誰も否定することができないほど実に単純明快です。

ですから、素直に、物事を、特に、自然の風景や動植物などを見ていれば、この存在の真実は誰にでも容易に感得することができるのです。

難しい修業が必要などと誰が言ったのでしょうか?

莫妄想。それだけです。





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