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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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二度とブレないために

二度とブレないために

かつて盤珪禅師は「親が生みつけたものは不生の仏心一つである。不生にて一切が整う。これをよく決定(けつじょう)して、二度と迷わぬように、平生仏心でいるようにしなさい」と言われました。

広辞苑によると、「決定(けってい)」とは次のようになっています。
A:「はっきり決めること」
B:「はっきり決まること」

けれども、盤珪禅師の「決定(けつじょう)」という言葉には辞書が定義している意味よりもずっと深い意味があるのです。

盤珪禅師の「決定」にもAとBの意味があるわけですが、Bの「はっきり決まること」というのは、「たまたま状況的にそうなっている」という意味ではなく、「存在の真実はそうなっている」ということであり、「それは動かしようがない普遍の真実である」という意味です。

ですから、盤珪禅師の「決定」というのは、「そうしたほうがよいと思うから、自分でそのように決める」という自分のアタマによる「判断と決定」ではなく、(B)「動かしようがない普遍の真実」をはっきりと認識したうえで、(A)あらためて自分の意思で「はっきりとそのように決める」ということです。

つまり、盤珪禅師の決定は、状況や条件やアタマの思いや気分や感覚などによって変わることのない存在の真実に立脚した、「行き着くところに行き着いた完全な生き方」であり、どんなことがあっても動かしようもなく、また、絶対にブレようもないのです。

わかりやすくタバコを例に説明しましょう。
あるスモーカーが喫煙はデメリットばかりでメリットはひとつもないというタバコの正体に気づきました。
その結果、もはやタバコを吸う必要はないと思い、また、吸いたい気持ちもなくなったので、タバコをやめました。(でも、ガマンの禁煙ではありません。)
こうして、しばらくは快適に過ごしていたのですが、ある時ふとタバコを吸いたいような感じがしてきたので、迷った挙句1本だけと思って吸ったら、次々に吸いたくなり、いつの間にかもとの本数に戻ってしまいました。(アレンカーの本にはこんな事例がかなり出てきます。)

再喫煙をなくすためには、(A)タバコの正体(真実)にはっきり気づいて、(B)タバコをきっぱりやめれば、その時点で「タバコ問題はすでに最終的かつ完全に解決し、再び本来のタバコのない生き方が始まっている」という事実をはっきりと認識することです。

ですから、タバコの正体に気づいてタバコをやめた後は、どんな思いや気分などが現れても、「タバコにメリットがあると思って吸っていた時の思い出がまだ残っているんだなあ」と思うだけで、それ以上一切相手にしなければよいのです。そうすれば、そんな実態のない思いや気分はいつの間にか消えてしまいます。

このように、存在の真実がわかったつもりなのにブレてしまうことの根本原因は、タバコ図で言えば、左側の存在の真実と右側のアタマの思いや気分をアタマで同列にごっちゃにして考えるところにあるのです。

決定(けつじょう)とはアタマで強く思い込むことではありません。存在の真実を確かめて、そのうえで、存在の真実をそのまま生きるしかないのだとはっきり認識して生きていくということです。





本音か建前か

本音か建前か

「自分さえよければいい」、「助け合った方がいい」、みなさんはどちらが本音で、どちらが建前だと思いますか? 

この問いを数十人の中学生にすると、「自分さえよければいい」が本音で、「助け合った方がいい」が建前だと思うという意見がいつも多数です。

なぜ、そう思うかと尋ねると、次のような意見が出てきます。
教室の掃除なんかでも「みんな助け合わなければならない」と言われるから、仕方なくやっているけど、本心では、「嫌だなあ、面倒くさい」と思っている。家でもそんなことがしょっちゅうだから。

普通一般の大人でも、この中学生たちと同じような結果が出ているそうです。
もちろん「助け合った方がいい」とは思うけれども、この社会にはいろいろ難しいことがあって、生きていくのは結構厳しい。だから、何と言ってもまず、自分を、あるいは、自分の家族を何とかしなければ生きてはいけない。だから、「自分さえよければいい」が本音で、「助け合った方がいい」は建前だというわけです。

このように言われると、「なるほどなあ」とか、「その通りだ」と思う人も多いのではないでしょうか?

けれども、子供の時はともかく、大人になると体験を通して、いろいろなことをやっていくのには、お互いに協力し合わなければできないということをだんだん理解するようになっていきます。

たとえば、住んでいる地域の清掃作業などを共同で行わなければならない時や職場で何かみんなで協力して作業をしなければならない時、自分はできればやりたくはないと思いながらも、協力してやらなければと、みんなと一緒に協力して作業をする場合に、「自分さえよければいい」と「助け合った方がいい」のどちらが本音で、どちらが建前だと思いますか?

「みんな助け合わなければならない」と言われるから、仕方なくやっているけれども、本心では、「嫌だなあ、面倒くさい」と思っているのか? 
それとも、「嫌だなあ、面倒くさい」と思う気持ちはあるけれども、「やはり、みんな助け合わなければならない」という思いのほうが本音だと思うのか?

このように、いろいろと気持ちを分析してみると、何だか分からなくなってくるかもしれませんね。

これから先は時間をじっくりかけて、自分で答えを出すほうがよいでしょう。
そのためのヒントになりそうなことをいくつか以下に書いてみましょう。

1 「掃除はしたくないなあ」という気持ちは“本音”というより、その時の”気分“と言った方が当たっているのではないでしょうか?

2 「みんなで助け合って掃除をしなければならない」と言われて、結局、「掃除をしよう」と思って掃除をする場合には、「みんなで助け合わなければならない」ということが本音ではないでしょうか?

3 「助け合った方がいい」が建前、「自分さえよければ」が本音だと思っているとしても、心の奥底では「助け合ったほうがよい」と思っていて、それが本音ではないでしょうか?

4 どうせ掃除するのならイヤイヤやるのではなく、「イヤだ」という思いを切って、「よっし、やろう」とすっきりやった方がよいと思いませんか? ということは何が本音なのでしょうか?




カント少年の悟り

カント少年の悟り

インマヌエル・カントは18世紀、ドイツが生んだもっとも偉大な哲学者だと言われています。

カントは大学で哲学を学び、深い思索をもとに独自の考えを次々に発表し、有名な大学の総長にもなり、80歳まで生きました。

彼の著書『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』は今日に至るまで西洋哲学全体に大きな影響を及ぼしています。また、彼は当時の不安定な国際状況を憂い、『永遠の平和のために』という本も書いています。

このような彼の経歴を聞くと、ほとんどの人は、カントは裕福な家庭に育ち、アタマがとてもいいだけでなく、健康にも恵まれて丈夫な人だったようなイメージを抱かれるかもしれません。

けれども、カントは小さな村の貧しい馬具職人の四男として生まれ育っただけでなく、体が先天的に変形しており、背中には大きな瘤(こぶ)が載っていました。また、胸の乳と乳の間が6センチぐらいでとても狭く、そのため幼い時からいつも、ぜいぜいと苦しい呼吸し、脈拍もとても速く打っていました。けれども、家が貧しいので医者に診てもらうこともできませんでした。

カントが15,6歳の頃、村に巡回の医者がやってきたので、初めてカントは医者に診てもらうことができました。

医者は丁寧にカントの体を診察した後、カント少年に言いました。

「この体ではいつも苦しくてしかたがないだろう。この体は何をやっても治らないよ。でも、ご両親に苦しい、辛いと言っても、ご両親はただ辛い思いをするだけだ。だから、どんなに体が苦しくても、苦しいとか辛いと言わないようにしてごらん」

医者はさらに続けて言いました。

「確かに、体は治らないかもしれない。でも、君の心は病んでも苦しんでもいないじゃないか。だから、そのことを感謝して毎日を生きていきなさい。」

この言葉によってカント少年の心は180度転換しました。
「お医者さんの言うとおりだ。苦しい、辛いといくら言ってみても、体がよくなるわけではないし、苦しさがなくなるわけではない。よけいに苦しくなるだけだ。それだけでなく、お父さんやお母さんを苦しめ、悲しませる。僕は今までなんという親不孝をしてきたのだろう。本当に申し訳なかった。」

「これからはどんなに苦しくても、絶対に苦しいとは言わないようにしよう。心は何ともないのだから、その何ともない心でやれることをやっていこう。」

こうして、苦しい中にも勉学に励み、幸いにも、大学にも入って、ついには哲学の分野で偉大なる業績を上げることになったのです。

医者が言ったのは「体は病んでいても、心まで病ませることはない」ということです。しかし、それは単なるプラス思考ではありません。

心はもともと絶対の静寂・透明・空であり、絶対に何ものによっても傷付いたり、汚れたり、病気になったりするものではない、ということです。その真実にカント少年は気がついたのです。そして、この心の真実に立って、カントは生涯明るく積極的に生き切ったのです。

何ごとも心の持ち方一つに掛かっているのです。

掛け替えのない一生をどこまでも明るく、積極的に、みんなと仲良く、本当に幸せに生きるポイントは、まさに、ここにあります。

自分が心の主人公なのです。





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幽霊の正体見たり  その2

幽霊の正体見たり  その2
(その1からのつづき)

人間社会の苦しみや混乱などの問題も基本的な構図は、幽霊問題、そして、タバコ問題と同じです。

「人間社会の苦しみや混乱はこの世界はバラバラの対立世界であるというアタマの妄想(錯覚)が作りだしたものであり、本来、この世界は不可分一体の非対立の世界である」という存在の真実に気づけば、アタマの妄想は瞬時に、そして、永久に消え去り、そこに人間社会の苦しみや混乱を根本的に解決する道が開けてきます。

その一つが和田重正先生の「国に理想を掲げよう」(通称ネホサ、Neo Homo Sapiens)という提案です。

ほとんど同じ趣旨で小林多津衛先生が「日本を赤十字国家へ」という提案をされています。

僕が知る限り、不可分一体の存在の真実に立脚して、人間社会の行き詰まりを解決し、永久の平和世界を実現しようという根本的、かつ、具体的提案はこの二案以外にはありません。

この世界は真実は不可分一体の非対立の世界です。ところが、この世界をアタマを通して見ると、(妄想であり錯覚なのですが、)“見かけ上”すべてがバラバラであるかのように見えます。

そして、すべてはバラバラという妄想を存在の真実(本来の事実)と信じ込んでいることから、「この世界で一番大切なものは、自分であり、自分の家族であり、自分の国である」というエゴイズム(利己主義)が出てきます。

それが人間の個人的、社会的苦しみや混乱の根本原因です。

このエゴイズムという基盤(土壌)の上で何をやっても問題を根本的に解決することは不可能です。

なぜなら、エゴイズムという基盤(土壌)そのものはどこまで行っても変わらないからです。

不可分一体の存在の真実に立脚して、エゴイズムという基盤(土壌)そのものをまったく別の角度から解消していこうというのがネホサの提案です。

さて、幽霊問題でもタバコ問題でも、そして、社会問題でも、「存在の真実(本来の事実)そのものとアタマによる妄想・錯覚による“思い”」の違いが本当に分かったときには、「なるほど! そうだったのか! これまでトンデモナイ思い違いをしていたんだなあ!」という深い感動を伴います。そして、その後、その確信が揺らぐことは微塵もありません。

ところが、一応分かったように思っても、いま一つはっきりした感じがしないという方々もいます。

それは、まだ何かの思い込みに引っかかって、真実そのものがはっきりとは見えないような気がしているのです。

その思いの代表的なものは、存在の真実は“いまここ”にはっきり見えているのにもかかわらず、「存在の真実というのはこんな単純なことではないはずだ」という思い込みの眼鏡のせいで、無意識のうちに見えている存在の真実を疑っているということです。

そういう方は、繰り返し、これまでのブログを読み返してください。

眼鏡をはずして見れば、真実は、「本当にこんなに単純でいいの?」と言いたくなるほど、単純明快なものです。

ですから、そのうちに必ず「アハーッ!」という体感とともにはっきりと分かるでしょう。

(終わり)





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幽霊の正体見たり  その1

幽霊の正体見たり  その1

あなたは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という故事を聞いたことがことがあると思います。

文章の意味は、「夜、どこか暗いところで、何かボーッと白く揺れているものを見て、幽霊だ!と思ってものすごく怖くなったのだけれども、よく見たら、それは何と!枯れたススキの穂が風に揺らいでいただけだった。それで安心した。」ということです。

この故事は「疑心暗鬼で物事を見ると、悪いほうに想像が膨らんで、ありもしないことに恐れるようになる」ということを言いたいのでしょう。

まさにその通りです。

それと同時に、もう一つ、この故事が面白いのは、誰でも「幽霊」の正体が枯れたススキの穂だったと分かれば、そのとたん、“一瞬にして”「怖い!」という気持ちが消えてしまう、ということです。

この故事はタバコ問題にも見事に当てはまります。

またタバコの話かと思われるかもしれませんが、まあガマンして読んでください。

というのは、このタバコの説明は、タバコだけでなく、存在の真実や生き方の真実について、自分の考えていることや理解していることが、果たしてちゃんとした位置づけになっているかということをチェックするのに最適だからです。

何回も禁煙に挑戦したのだけれども、どうしてもタバコを吸いたい気持ちが消えずに禁煙に失敗し続けてきたにもかかわらず、タバコの正体についての説明を聞いたり読んだりして、「タバコにはメリットは一つもない。あるのはトンデモないデメリットばかりだ。そもそも、タバコを吸う必要はまったくなかったのだ」とタバコの正体(真実)に気付いたとたんに、一瞬にして「タバコを吸いたい」という気持ちがなくなってしまい、何のガマンも努力もすることなく、すっきりとタバコをやめていった人がいます。

つまり、「吸いたい!」という気持ちが、タバコの正体(真実)に気がつけば、「瞬時に、そして、永久に」消え去ってしまうのです。

ところが、タバコの正体についての説明を聞いたり読んだりして、アタマでは分かったような気がするのだけれども、実感としてははっきりとは分からないという人たちがいます。

それは、一応タバコの正体がわかったと思ったにもかかわらず、タバコに対する世間一般の考え方や過去の自身の禁煙の体験に影響されて、「タバコをやめるのはとてつもなく難しく苦しいのだ。そんな簡単に吸いたい気持ちがなくなるはずがない」などと、依然としてスモーカーモードの疑心暗鬼な気持ちで考えているために、せっかく見えていたタバコの正体が曇ってしまうのです。

これは、「あれは幽霊だとばっかり思っていたが、枯れたススキの穂だった」と一度はっきり分かったにもかかわらず、「あれは幽霊だ」と依然として“幽霊モード”で考えていることと同じです。

私たちは、真実(本来の事実)とアタマの思い(妄想)はまったく別物であること、そして、問題となっているのは、アタマの思いではなく、真実(本来の事実)は何か?ということだ、ということに気付くことが大切です。

(つづく)




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