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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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何も心配することはない  その3

何も心配することはない  その3

その1では存在の真実というところに、その2では進化というところに焦点を当てて、「何も心配することはない」ということを説明しました。

その3では、実際的な面に焦点を当てて説明しましょう。

「心配だ」という感覚は不快なものですが、本来は、ある状況において、「何かまずいことが起こっているようだ。何か先行きがはっきりしない」ということを自分に知らせてくれる警報装置であり、私たちが生存を全うするために、なくてはならない大切な機能です。

ですから、「心配だ」という感覚がなくなるということは、警報装置が働いていないということになり、それこそ大変なことになってしまいます。

ですから、「心配だ」という感覚が起こったら、“安心して”心配すべきなのです。

それは、つまり、「心配だ」という警報を素直に受け取るということです。

心配警報装置は「何かまずいことが起こっているようだ。何か先行きがはっきりしない」ということを自分に知らせるのが役目ですから、それを素直に受け取れば、それで「心配だ」という警報は鳴りやむのです。

後は、冷静に精一杯必要な対策を考え、それを実行すればよいのです。

後は、それ以上のことはできないわけですから、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の通りに、その結果が思い通りになってもならなくても、すっきりとその事実を受け止めるだけです。

また、「心配だ」という警報を素直に受け取って対策を考えても、それ以上何もすることができないという結論に達したら、何もせずに、ただ、その結果がどうなろうとも、事実を事実としてすっきりと受け止めるだけです。

心配し続けても事実を変えることができるわけではないのですから!!!

それどころか、心配し続ければ、もしかして状況を好転できる機会が出てきたとしても、それを見逃してしまう可能性があります。また、状況を一層悪い方向に導いていく可能性も強いのです。

要するに、最初に「心配だ」という警報に気付いたら、それを素直にすっきりと受け止め、冷静に必要な対策を考えて実行するか、あるいは、何をしても状況が変わらないと判断すれば、その事実をすっきりと受け止め、どんな結果になろうとも、事実を事実としてすっきりと受け止めていくだけです。

ですから、「心配だ」という警報を正面からすっきり受け取った時点ですでに警報装置は鳴りやんでいるのです。

心配し続けても、状況が悪くなることはあっても、よくなるわけではありません。

「人間だから心配するのは当然だ」などというような、世間の狂った常識?に感情的に浸っていないで、ここで、「心配しても何にもならない」ということを徹底的に腹の底の底に叩き込むことです。

「心配しても何にもならない」ということは子供にも分かる単純な真実ですが、、その真実を真実として生きている人のなんと少ないことでしょうか!!!


今日限り、心配におさらばしましょう。

バカバカしいから・・・。(自戒の念を込めて)






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何も心配することはない  その2

何も心配することはない  その2

その1で「この世界ではすべてが起きるべくして “完璧に”起きています」と書きましたが、もう少し詳しく説明してみましょう。

私たちのこの現象の世界を巨視的に観察し考察すると、この世界はその始まりから現在の姿に至るまで、その時々においてデタラメにただ変化しているのではなく、ずっと一定の方向に変化してきていることが分かります。

つまり、この世界は、いわば、一つの大生命として進化し続けているのです。

その進化の過程で、この地球においては進化の頂点として現生人類が誕生しました。

しかし、これが進化の最終点ではありません。進化はどこまでも続くのです。

では、私たち現生人類はどこに向かって進化していくのでしょうか?

これまでの進化の過程、現生人類の生態を巨視的かつ精密に観察したところから、推測できることは、次の段階では不可分一体の存在の真実を自覚した新人類に進化していくのだと思われます。

いずれにしても、この世界はより良いある一つの方向に向かって進化しているのです。

その進化の過程では私たち人間の眼から見れば、自然災害や戦争や飢餓その他の社会問題、さらに、病気や人間関係、家族関係など個人的な深刻な問題など、私たち人間がまともに進化しているとは思えないというような現象が数多く現れていることは事実です。

けれども、そのような自然災害や社会問題、個人的問題のすべてが私たち現生人類が次の進化の段階に向かう過程で必然的に起こっているのです。

つまり、私たち一人ひとりの善い悪い、好き嫌い、喜怒哀楽、あるいは、心配、不安などの思いや感情をはるかに超えた次元で、すべてが起きるべくして起きています。

そして、同時に、それらの苦しみや問題を何とか乗り越え解決していこうという思いや心配や不安などの感情のすべても、私たち現生人類が次の進化の段階に向かう過程で必然的に起こっています。

このように、この世界では、私たちのいろいろな思いや感情をはるかに超えた次元で、すべてが“必然的に”、つまり、“完璧に”起きているのです。

“完璧に“と言っても、それらの苦しみや問題をありがたく思って何もしなくてもよいと言っているわけではありません。

よく「病気になって初めて健康の有難さが分かる」と言われますが、それと同じように、自然災害も含めて、個人的、社会的な苦しみや問題があってはじめて、私たちは本気でそれらを乗り越えようとし、同時に存在の真実と真の幸福を求める気持ちが湧いてくるのです。

そういう意味で、事実としては、それらも進化にとって重要な要素となっているのです。


いずれにしても、すべてが完璧なのですから、何も心配することはないのです。

心配してもよいのです。大安心して心配していればよいのですから・・・。

個人的には、大安心のなかで進化の方向に素直に沿って思考し、行動していくことこそが、真の幸福であること言えるでしょう。

また、そのような人が増えていくことによって、より進化が促進され、全体の真の幸福が実現されていくのです。






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何も心配することはない  その1

何も心配することはない  その1

「何も心配することはないのだ」と言われて、「そうか」とこころから思える人は本当に幸せな人です。

このように書いてみて、そう言えば、和田重正先生もご著書『葦かびの萌え出ずるごとく』の中で、同じことを書いていらしたことを思い出しました。

そうなのです。この世界、この人生においては、何一つ心配することはないのです。

世の中にはとんでもないとしか思えないようなことがいろいろと起きているのに、なぜそんなことが言えるのか?と思われる方も多いことと思います。

実際、なぜそう言い切れるのかを言葉で直接的に説明するのは容易なことではありません。

でも、できるだけ説明してみようと思います。

何も心配することはないというのは、この世界、そして、自己の本質である唯一絶対の実体である “いのち”自体は何が起きようとも、どんな状況のなかにあっても、絶対に傷ついたり、消滅したりするものではないからです。

この存在の真実が理屈ではなく、体験的に理解できている方であれば、僕が「何も心配することはない」と言っても、何のためらいもなく「そうだ」と頷(うなづ)かれることでしょう。

今度はこの世界や自己の本質というところから少し角度を変えて説明してみましょう。

この世界の本質である“いのち”はこの世界に刻々といろいろな現象として顕現しています。

そこに顕れて来るものは、私たち一人ひとりの善い悪い、好き嫌い、喜怒哀楽、あるいは、心配、不安などの思いや感情をはるかに超えた次元で、自分の思いや感覚や行動なども含めて、すべてが起きるべくして“ただ”起きています。

言い換えれば、私たちのいろいろな思いや感情をはるかに超えた次元で、すべてが“完璧に”起きています。

この“完璧に”というところで、引っかかる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

たとえば、戦争や飢餓など世界には個人的にも社会的にもいろいろな問題で苦しんでいる人がたくさんいるではないか。それを”完璧に“とはとても言えないという訳です。

ここに、言葉の限界があります。ここではただ次のようにだけ言って起きましょう。

僕が言っているのは、すべてが刻々に変化しているこの世界を動的に捉えて言っているのであり、「とても“完璧に“とは言えないというような思いや感情をもすべて含んで、すべてが完璧に起きている」ということであり、「そのような思いや感情」を否定しているのではありません。

すべてが“完璧に“起きているというのは、別の言葉で言えば、「すべてよし」ということです。

でも、「すべてよし」なのだから、「何もしなくてよい、そのままでよい」と言っているのではありません。

それは問題だ、大変だ、なんとかしなくては、では、こうしたほうがよいのではないか、などという思いも自然に起きて来て、そのような思いに基づいて、何らかの行動をする、あるいは、しない、などということも自然に起きてきます。

それらのすべてを含んですべてが“ただ“起きています。それを”完璧に“という言葉で表しているのです。







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三人の若者

三人の若者

昔々、三人の仲の良い若者がいました。彼らはいつもあだ名で呼びあっていました。

顔が長くてアゴがとんがった子は「イノ」と呼ばれていました。何となくイノシシに似ていたからです。

丸顔の子は「トン」と呼ばれていました。何となくブタに似ていたからです。

体が小さくて、まじめな感じの子は「エノ」と呼ばれていました。ただただ、エノキ茸が好きという理由からでした。

イノの家はあまり裕福ではありませんでしたが、ユーモアのセンスが優れていたので、将来はそれを活かして世の中で成功したいと考えていました。

トンはとても優秀で将来が約束されていたのですが、アタマが良すぎるためか、「どうしてこの世にはいろいろな苦しみがあるのだろうか? 自分だって病気になり、戦争で死んでしまうかもしれない。このままでよいのだろうか?」と精神的に悩んでいました。

エノは母親との二人の貧乏暮らしで、健気に物売りをしたりして母親を助けていました。それだけに、将来はぜひとも学問をし、真理を極めたいと思っていました。


さて、その後の三人はどうなったのでしょうか?

まず、イノは都会に出ました。いろいろな苦労の末、ついにはお笑いの世界に飛び込み、ある有名なプロレスラーに顔が似ているのが幸いして、結構人気のあるタレントになりました。

トンは何が何でも苦しみを解決しようと家出しました。そして、何年間も瞑想、ヨガ、滝行、回峰行などあらゆる苦行を一心不乱にやりましたが、彼の疑問に対する答えを見つけることはできませんでした。

ついに、絶望のあまり何をする気力もなく、何日も大きな木の下にボーッと坐っていました。ところが、何ということでしょうか。ある未明に突然、大きな閃めきを得たのです。

「肉体や心を含めてすべては常に変わっている。変わるものは自分ではない。変わるものはコントロールできない。コントロールできないものに執着するから苦しむのだ」と。

こうして、彼は人生の苦から完全に解放されたのです。そして、彼の話の聞きたいという人々が彼のもとに少しずつ集まってくるようになりました。

その集まりは年を経るごとに大きくなりました。そして、ついには、何と世界3大宗教の一つとなったのです。涅槃に入ったとされる彼自身も、さすがに、これにはびっくりポンではなかったでしょうか。

さて、エノはある日町で行商をしているときに、向学心のあまりに、道端で一人のお坊さんが詠んでいるお経に耳を傾けていました。そして、「まさに住する所なくして、しかもその心を生ずべし」という一句を聞いて、突然大悟したのです。

「本来は何もないのだ。汚れたり傷ついたりするものなんて何もないのだ」と。

まさに彼は天才でした。その後、彼は禅の大師に見出され、師の後を継いで数多くの優秀な禅の指導者を育てました。

後年、三人はあらためて義兄弟の契りを結び、お互いを親しく、また、尊敬の念を込めて、「アントキノ・イノチ」、「アントキノ・ブッタ」、そして、「アントキノ・エノウ」と呼び合うようになりました。


さて、みなさんは3人のなかで誰が一番好きですか?



僕は3人とも大好きです。





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チビは生まれて3か月の頃免疫系統の大病に罹ってしまいました。

僕はチビを膝の上に乗せて、懸命に愉気を続けました。そのお蔭で、チビはぎりぎりのところで奇跡的に体力を回復することができました。

けれども、両方の眼球が溶けて落ちてしまい、明るさは少しは感じているようでしたが、まったく見えなくなってしまいました。

いずれにしても、チビがやっと回復し始めたことを確信したとき、僕は「チビの一生を一緒に寄り添って生きよう」と決意しました。

それから後、チビの生き様は目が見えないハンディをほとんど感じさせませんでした。

目が見えなくても、家の中ではどこに何があるかは全部把握していました。例えば、何かの台に乗りたいときに、台のすぐ近くまで行ったと思ったら、一々手で触ってその位置を確かめることなく、サッと台の上に飛び乗っていました。

少し大きくなると、エサを食べるのも、トイレに行くのも自分で行くようになりました。

ただ、外に出ると自分のいる位置が分からなくなって、迷子になってしまうので、いつも首輪をして、それにヒモを繋いで散歩させていました。1日平均10回以上は一緒に散歩に出かけました。
(以上のことについては、以前ブログに書いたので以下省略します。)

こうしてチビは5歳半になったのですが、今年の11月になって、急に食欲が落ちて、じっと眠っていることが多くなりました。

そうして、1週間ほど水だけは飲んでいたのですが、その水もとうとう自らは飲まなくなりました。

僕は「これが最期だな」と思い、チビを膝の上に乗せて愉気を続けました。

2時間ほどチビはゆっくり呼吸を続けていました。その時間はとても穏やかな一時でした。

そして、チビは2本の脚を2,3度ゆっくりと動かして、その後動かなくなりました。

とても静かで穏やかな死でした。

見事な一生であり、見事な死でした。

チビは当たり前に生き、実に当たり前に死んでいきました。

そのとき僕のこころにふと道元禅師のある言葉が浮かんできました。

「この生死は、即ち仏の御いのちなり。これを厭い捨てんとすれば、すなわち仏の御いのちを失わんとするなり。これに留まりて生死に著すればこれも仏のいのちを失うなり。仏の有様を留むるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて仏のこころに入る。ただ、生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。このときはじめて生死を離るる分あり。」(道元禅師著『正法眼蔵』生死の巻より)

なお、涅槃(ねはん)とは、『広辞苑』によれば、「煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地」となっています。

上の道元禅師の言葉が意味しているのは「生死の現実こそ、真実そのものの実現であり、いのちの実相であり、人間が身勝手な思いに惑わされて、嫌うことでも慕うことでもない」ということでしょう。

いまチビが「そんなこと当たり前でしょ。お父さん」と笑っているような気がします。

チビ、同じ生を一緒に生きて楽しかったよ。

  
チビ







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