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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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母の死に思ったこと  

母の死に思ったこと  

 以下は私の古くからの親しい友人が書いた文章です。ほとんど僕の考えと同じであり、「自分とは何か? 死とは何か? 生とは何か?」というテーマを考えるのに好材料だと思い、本人の許可の下にここに転載したしだいです。

*****
                        
母の死から2週間がすぎました。
もうすぐ97歳になるところでしたし、一ヶ月以上前から脳梗塞で意識がない状態であったので、母の訃報を聞いて深い悲しみに落ちることはありませんでした。
それで、孫の励ましを喜んでいるようなゆとりがあったのです。
お通夜の日となったちょうどその日は、私が主催者になって、ある方を私の住んでいる町に招いて講演会を開くことになっていました。
その会を優先し、夜の9時に会が終わってから母のもとに向かい、深夜に母と対面しました。
その顔は大変穏やかであったことにひとまず安堵しました。

翌日の火葬場でのことです。
二年前には父が97歳で亡くなり、そのお骨を拾う時、「死ぬとこのとおり、骨だけになってしまうのだ!」と、この歳になってはじめてまじまじと死の実態を見つめることができました。
今回も母の遺骨を通して、この世の無常を再確認するつもりでいました。
ところが今回は全く違いました。
遺骨を骨壷に入れる役割を最初に果たし、他の人が次々に同じ動作をするのを無心で眺めていた時のことです。

「アレ!骨に執着している!」
突然こうひらめいたのです。
「嗚呼!ここからすべての間違いが始まっている!」
こう叫びたくなったほどです。

ありとあらゆる因と縁の結果によって母がこの世に生まれ、そしてまたありとあらゆる因と縁によって母がこの世から消え去っていった。
ただそれだけのこと。
感情は別にして、事実は事実としてそうあるだけ!
それなのに、個我の消滅した後に、あくまでもその個我を延長させて「遺骨」というものにまで執着しようとしている。
焼いた骨の成分はリン酸カルシウムであり、それに個性があるはずがありません。
遺体が焼かれ、そのほとんどが二酸化炭素と水に分解され空中に気体として放出されます。
その気体に執着する人は誰もいないのに、なぜ遺骨と遺灰に人は執着するのでしょう。

火葬場でのひととき、このようなことが次々と思われてきました。
故人の追悼や供養を否定するわけではありません。
ただ、人の死についての真実を考えたいだけです。
仏教では「色即是空、空即是色」の通り、すべては「空」であると教えています。
だから「本来無一物」「万物一体」であり、「個我」は観念が作り上げたものでしかないと説いています。
空や無執着を説く仏教が、なぜ遺骨を尊び、お墓をつくるのでしょうか。
これは人の死について真実を求めることではなく、ただ社会通念上の慣習以外の何ものでもないとすら思えてきます。
葬式仏教と言われる原点を発見した思いでした。
かつて、ネパールのカトマンズでヒンズー教の葬儀を目撃しましたが、河原で荼毘に付せ、骨も灰もそのまま川に流してすべて終わりでした。
最近、散骨を希望する人が増えてきたことは自然な流れのように思います。

では、人の死を弔うことの真意は何なのでしょう。
もう死者には何もできないのですから、遺された者が己の生き方を真摯に振り返ることだと思うのです。
わたしはこれまでにも親しい人の死に際して「生とは何か、死とは何か、どう生きるべきか」を真剣に考えさせてくれる、またとない機会となってきました。

たらちねの わがははうえは ひたすらに
なにをせよとて われをうみたまいしか

この和歌は私の座禅の師匠である原田湛玄老師の作だとおもうのですが、母の遺骸を前にしてこの歌が口をついて出てきました。
「ひたすらにすべきこと」がおろそかになっていたことを母の死によって気付かされました。

 合掌 九拝 大真玄光





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春秋

春秋

春と秋は10年ほど前に一緒に生まれた2匹の兄弟ネコです。

2匹はいつも一緒でとても仲良しでした。

でも、春と秋の姿形や性格、そして、鳴き声やいろいろな仕草は、お互いに兄弟ですからもちろん似たところもありましたが、それぞれかなり違っていました。

2匹は順調に成長していたのですが、1歳近くになったとき、秋がウイルス性のひどい風邪に罹ってしまいました。

春は心配なのか、いつも秋の周りで静かにうずくまっていました。

けれども、懸命な看病にもかかわらず、秋の様態はますます悪くなってしまいました。

とうとう、秋は静かに息を引き取りました。

そのとき!

春がすっと立ち上がって僕の方に寄って来て鳴きました。

「ミャーッ!」

その鳴き声は秋の鳴き声そっくりで、僕はびっくりしました。

その後、春の様子を見ていると、鳴き方も歩き方も顔の洗い方も、何から何まで秋にそっくりです。

どう見ても秋が春の体に入り、春の体を使って春と秋の2匹が仲良く生きているとしか思えないのです。

我が家のみんなも同じ意見です。

それからはみんな春のことを「春秋」と呼ぶようになりました。

正直に言って、何がどうなっているかは分からないのですが、我が家で生まれ育った数多くのネコたちの間では時々このような不思議な現象が起きます。

僕には「私たちの肉体が死んだ後も魂は生き続ける」、つまり、輪廻転生ということが本当かどうかは分かりません。

本当かもしれませんが、どちらかと言えば、輪廻転生説については僕の考えは否定的であり懐疑的です。

最近では臨死体験などを含めて、「大きな光を見た」とか「神様に出会った」などという神秘体験したという方も数多くいらっしゃるようです。

僕はそういう体験を実際に体験されたということは認めるとしても、それらはある種の極限状態で起きた脳内現象ではないかと考えています。

「自分の肉体が死んでも自分の魂は死なない」というのは、僕には本当かどうかは分かりませんが、「個である自分、他と切り離された自分」に執着するところから、そのような説にかじりついているようにも思えるのですが、どうでしょうか?

でも、真実は、自分は天地一杯の“いのち“であり、他と切り離された”個である自分”などないのです。

ただ、人が見かけ上個人としてこの世界に生まれてから死ぬまでのすべての思考体験や実際の体験のデータは決して消えてしまうわけではないように思います。

以下はあくまで僕の推察であり仮説にすぎません。

私たちの思考体験や実際の体験のデータは私たちの本質である“いのち“のデータバンクに何らかの形で保存されるようになっている。

そのデータを別の個体がこの世界に生まれてくるときに、それらを取り込んで生まれてきたり、それらのデータを別の個体がアクセスして活用できるようになっている。

このように考えると、生物の進化の仕組みや春と秋のことなどもある程度うまく説明できるように思うのです。





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豆助

豆助

僕の名前は豆助です。

僕はまだ生まれて6ヶ月の子ネコです。

この山の家には現在僕のほかにも親やお祖母さんや叔父さんや叔母さん、そして兄弟たち、全部で11匹のネコが暮らしています。

僕たちはみんな血が繋がった一つの大家族です。

他の兄弟たちはどう思っているのかよくわからないのですが、実は、僕はネコの姿はしていても、ネコと人間のハーフだと思っています。

つまり、僕はお母さんはネコですが、お父さんは間違いなく人間だと信じているのです。

お母さんは僕たち兄弟を生んでからも毎日何回も僕たちにミルクを飲ませてくれたり、おしっこの世話などをしてくれました。

だから、僕には生まれたときから、いや、まだお腹のなかにいたときから、お母さんが誰かということは分かっていました。

生まれて1ヶ月ほどまでは、まだ、足が弱くて上手に歩けなかったので、毎日ほとんどの時間をお母さんのミルクを飲んだり、お母さんや兄弟たちと一緒に寝て過ごしていました。

そうしているうちに、ベッドの周りを少しずつ歩けるようになってきたのですが、「僕のお父さんは誰だろう?」ということが気になってきました。

しばらくして、家の中を少しずつ少しずつ活発に歩けるようになってきました。

ある日よちよちテーブルのほうに歩いていったときに、ズボンを履いた大きな足にぶつかってしまいました。

その瞬間、僕はなんだかとてもなつかしい気持ちがしました。そして、「ずっと前から僕はこの足を知っている!」と思ったのです。

僕はまだ手足の力は弱かったのですが、勇気を出して、少しずつそのズボンを登り始めました。

その時、ズボンを履いたその人は「おやっ!」と思ったようです。

こうして何とか頑張ってイスに坐っているその人の膝まで登りました。

そうして、はっきりわかったのです。

「僕は生まれる前もいつもこの膝に坐って眠っていた!」

そして、その人の顔を見上げました。

「なぁんだ! お父さんだったのか!」

お父さんもそんな僕を見て、微笑みながら「やっと分かったようだなぁ」と言いました。

その時以来、その膝は僕の定位置になりました。

もちろん、僕は他の兄弟や叔父さん、叔母さんたちと一緒に追いかけっこしたり、家の外に冒険に出かけたりもします。

でも、やっぱりお父さんの膝の上が一番落ち着くので、しょっちゅうポンと飛び乗ってはお父さんの膝でくつろいでいます。

でも、一緒に生まれた他の兄弟は何となく「その人がお父さんだ」とは感じているようですが、僕のようにズボンを登っている様子はあまりありません。

そのうちに、アッピという大きいお兄さんも時々僕と同じようにお父さんの膝でくつろいでいることに気がつきました。

そこで、アッピ兄ちゃんに尋ねてみました。

アッピ兄ちゃんはびっくりしたような感じで言いました。

「そんなの当たり前だろ! 生まれるずっとずっと前から僕らのお父さんはお父さんだったんだから。」

それを聞いて僕はとても嬉しくなりました。

やっぱり、僕のお父さんは人間だったんだ!






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水と氷 その1

水と氷 その1

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて

水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず


これは江戸時代に生きた白隠禅師の『坐禅和讃』の冒頭の部分です。

私たちの多くは成長する過程で「自分とは何か?」という疑問にぶち当たるようです。

その疑問は簡単に答えが出ずに、どこかに引っ掛かった気持ちは残ったとしても、いつの間にか忘れられてしまうことが多いのではないでしょうか?

それでも、なかにはその疑問に対する答えを何としても見つけ出さずにはいられないという方もいらっしゃいます。

そのような方々の多くはその答えを哲学や心理学、あるいは、その他の精神世界について書かれた本やそれらをもとにした思索を通じて見い出そうとしたり、坐禅や瞑想などに取り組んでみたり、さらには宗教のなかに見出そうとされます。

僕自身もそのような一人でした。それでもなかなか答えが見出せず、とことん行き詰ってしまい、とうとうすべての努力を放棄せざるをえなくなってしまったときにその答えが奇跡的に与えられました。

それは自分にとっては実に不思議な現象でしたが決して神秘的なことではありませんでした。

そのときに気付いたことは、実に当たり前すぎるほど当たり前の事実でした。

簡単に言えば、「このままでよかったのだ」ということです。

それをもう少し詳しく表現してみると、上記の白隠禅師の坐禅和讃の冒頭の数行とぴったり一致するのです。

いま水の表面にいろいろな姿をした大小の氷が浮かんでいます。

ひとつ一つの氷だけを見ていると、それらはみんなバラバラに切り離され、それぞれが実にハカナイ存在であるかのように見えます。

でも、それぞれの氷はそれぞれの縁によって、いまそれぞれの姿をしながら、少しずつ変形しています。

いずれの氷もその本質はみんな同じ一つの水であり、それぞれの氷はある時を経過すると、再びもとの水に戻ります。

そして、また、時が経過して、再びいろいろな姿をした氷が現われてきます。

僕が「人は死なない」というのはそういう意味です。

私たちはどこまで行っても水(“いのち“)そのものなのです。

水であるときはもちろん、氷の姿になっているときも水に違いないのです。

そもそも、「どこまで行っても」という表現自体が正確ではありません。

私たちは(肉体が)死んでもどこにも行きません。

たとえ私たちが肉体を使って生きているときでも、その肉体が朽ち果てても、私たちは変らずずっと“いのち“だからです。

ですから、私たちはもともと生まれもしなかったし、死ぬこともないのです。

生きていくなかで、この自分の本質に、知的にだけでなく、体験的にはっきりと気がつくことが何より大切だと僕は思います。

存在の真実に気付くことは本当はとてもシンプルなことなのです。

アタマの思いをはずしてただ事実を見ればよいのですから・・・。






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明らめと覚悟

明らめと覚悟

今までは 人のことだと 思ふたに

   俺が死ぬとは こいつはたまらん

これは江戸時代に生きた狂歌師であり洒落本作家であった大田南畝(なんぽ)の辞世の句です。

これを読んであなたはどのように感じましたか?

よほど人生に絶望して自ら死を望むという方を除いて、たいていの方は「まさにそうなのだろうな」というような感じを抱かれたのではないでしょうか。

それでも、よほど老年にならないかぎり、やはり死は依然として他人事(ひとごと)であって、自分の死を身近に感じることはないのでしょう。

それはそうなのでしょうが、いよいよ自らの死に直面して、「こいつはたまらん」とジタバタしたとしても、誰でもそのジタバタごと「立派に」死んでいくのです。

自らの死に直面して泰然自若(たいぜんじじゃく)として死んでいくのも、ジタバタしながら死んでいくのもどちらも見事な死です。

泰然自若として死んでいくほうがジタバタしながら死んでいくことより立派だということでは決してありません。

“いのち“の世界は本質的には合格・不合格の世界ではありません。

ですから、「安心して」ジタバタしながら死んでいけばよいのです。

それはそうなのですが、死の問題は別として、その他のことについては、自分の望まない事態に直面したとき、できるだけ動揺したり、ジタバタしないほうがよいと思います。

そのほうが、自分も楽だし、起きてしまった事態はそれはそれとしてすっきり受け止めることによって、もし事態を好転させうる可能性がある場合には、事態をよりよく好転することができるからです。

そういう意味で、どんなに自分が望まない状況に直面しても、つねにその状況をまずすっきりと受け止め、こころを陽にして、よりよい状況を創造していくことこそ、最も人間らしい生き方だと思います。

そんな場合に、「起きてしまったことは仕方がない」と気丈に歯を食いしばって頑張ることも立派と言えば立派だと言えましょう。

けれども、そのような態度・生き方はとても前向きであるように見えて、実は、根底に後ろ向きの感情が潜んでおり、それでは本質的に苦しみからのがれられないと思うのです。

なぜなら、起きることは自分の思いを超えて、ただ起きているからです。

ですから、僕は「起きてしまったことは起きてしまったこと。事実は事実」とすっきり受け止め、“いまここ”の事態に爽やかに対応し、将来に向けて明るく方策を練ることこそ真実の生き方、“いのち“のハタラキに沿う正しい態度・生き方だと思うのです。

悲しんでも、悩んでも、悔やんでも何にもなりません。

それでは、こころを後ろ向きに使って、こころが消耗するだけです。

こころに何かを持って放せないと、それに引っ掛かって、物事をありのままに見えなくなります。

そのようにして、真実の世界、真実の自己を見失って生きることは本当にもったいないことだと思います。

真実を明らめ、それを覚悟して生きたいものです。






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