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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自観法あれこれなど

自観法あれこれ  その1
自観法というのは、日常生活のなかで、何かに集中しなければならないときや危険な状況にあるときなどを除いて、いつでもよいのですが、毎回1分間から3分間ぐらい、浮かんでくる思考や感情などの思いを、批判したり、批評することなしに、ただ、“もう一人の自分”が見るという“行“です。

この自観法はとても簡単で容易にできる行ですが、禅やヨガ、その他の瞑想など、存在の真実を体得するためのいろいろな優れた行のエッセンスとも言える実に効果的な行です。

自観法をやると、これまで“自分”だと思っていたのが、実は、“自分”ではなかったこと、そして、その思いをただ見ている”もう一人の自分“こそ、”本当の自分”だと分かります。

さらには、その、”本当の自分”はというと、無色透明で絶対に静寂な無限に広がった空間、形も姿もない空っぽ、なにものでもないもの、とでも表現するしかないもの、すなわち、僕がいつも言っている“大いなるいのち”であることにはっきりと気づくことができるのです。

自観法の目的は、存在の真実、すなわち、身体やアタマの思いや感情は自分ではなく、 “大いなるいのち”こそ“自分”であり、その“自分”はどんな状況においても絶対に傷つくことなく、死ぬこともない永遠の存在であることに気づくことにあります。

このことが、はっきりすると、どんなことが起こっても、感情に振り回されることもなく、一切の苦しみから解放されます。

そんなことがあるのか?と思われるかもしれませんが、毎日、1回に1分から3分、何回か実習していくと、上に書いたようなことを確実に体験的に捉えることができるでしょう。

ただ、やり方は実に簡単なのですが、それだけに、勘違いや見当違いの思い込みを持ってやると、ちゃんとした成果が出ないこともありますので、これからいくつかの注意点やポイントについて書いていきます。

まず、自観法は特別にあらたまった気持ちでやらないことです。日常生活のごく普通の場面で、さりげなく、無邪気に、起こってくる思いを、ただ眺めていればよいのです。

また、自観法をやっていると眠くなるという人もいますが、自観法では覚めていることが肝要です。うっとりして眠くなるようではダメです。また、自観法をしている時には、自観法をやっているのだということをはっきり自覚しながらやらなければ、自観法にはなりません。

せいぜい、毎回、1分から3分ぐらいやればよいのですから、はっきりと目が覚めていることは難しいことではありません。

自観法をやっていると、瞑想のときと同じように、うっとりして、思いを見ている意識もなくなってしまうという人がいますが、それは1回にやる時間が長すぎるからです。

また、「自観法は瞑想とは違う」ということを、始める前に確認してから実習するとよいでしょう。

といって、気張って自観法をやらないようにしてください。ただ、無邪気に、浮かんでくる思いをただ眺めるだけです。

自観法あれこれ  その2
自観法をやるときに、自観しているという思いがなくなってしまって、瞑想と同じようになってしまう、とか、眠くなってしまう、というようなことについて、繰り返しになりますが、もう少し説明しましょう。

たとえば、僕が推奨している只管打坐式瞑想法においては、何も求めず、呼吸や体の特定の箇所など何かに集中することなしに、体の感覚や思いなど起きていることを、どうこうしようという意図なしに、ただ、起こるがままにしておきます。

「任せる」ということがポイントですから、時には、眠くなっても、やむをえないと思います。

けれども、自観法では覚めていることが肝要です。うっとりして眠くなるようではダメです。また、自観法をしている時には、自観法をやっていることをはっきり自覚しながらやらなければ、正しいい自観法にはなりません。

そのためには、まず自観法に習熟するまでは、1回の実習を1分から3分間ぐらいを限度にやるとよいでしょう。

長い間、自観法をやっていると、最初の内は、浮かんでくる思いをただ眺めていたのが、いつのまにか、浮かんでくる思いにいろいろな思いを重ねて見てしまっているということが起こるからです。

そういう場合にも、そのようにして新たに出てきた思いをただ眺めていられればよいのですが、これではいけない、とか、何とかしよう、などと思い、最初の思いと後からの思いが格闘したりして混乱状態になってしまいます。これでは、自観法ではなくなってしまいます。

また、普段、瞑想をやっているために、自観法をはじめると、思いそのものが消えてしまったようになって、自観法ができない、なんだか自観法をしたような気がしない、というような方もいます。

これは、そのまま続ければよいのです。つまり、そのような気分をただ眺めていればよいのです。

さらには、次のように言う方もいます。

「体の一部が痒くて掻いているのですが、掻きながら痒いという思いを自観するとその思いが消えて、痒みも感じなくなった気がします。全く何も感じなくなったというより、痒いという感覚にリアリティがなくなったという感じです。」

これは、自観法を実習している方に顕著に起きる大変望ましい現象です。

というのは、多くの人は起きていることに余計な思い、つまり、妄想を重ねて見ていますので、一つ一つのことについて、事実以上に誇張したり、ゆがめたりして感じてしまいがちだからです。

痒いという事実はただ痒いという事実であり、それ以上のなにものものではありません。

ところが、多くの人は痒いという事実に、思いによって、「自分が痒い」、「だから自分がつらい」、「イヤだ」とか、「このまま治らなかったらどうしよう」などというような感情を重ねて見るために、大変なことが起きていると感じてしまうのです。

事実は事実。ただ痒いだけ。それ以上のなにものでもでもありません。自分が痒いのではありません。思いは事実ではありません。

莫妄想(妄想なし)。

自観法あれこれ  その3
痒みだけでなく、痛みなどの感覚についても同じです。事実としては、ただ痛みがあるだけなのに、自分が痛いと思ったり、事実としての痛みに「苦しい」というような余計な思いや感情を重ねるために、痛みが増幅されて感じられるのです。

いずれにしても、この社会で生きていく中にはいろいろな痛みがあります。けれども、自分が苦しいのではなく、また、事実の中には「苦しみ」はありません。

事実としてあるのは「痛い」という感覚だけで、「苦しい」というのは人が「痛い」という事実に、勝手に重ねた思いや感情であり、「苦しい」という事実があるわけではありません。

多くの人がこの簡単な真実を理解しないで、社会的なことや個人的なことで、洗面器に張った10センチの深さの水に自ら顔をつけっぱなしにして、「自分は苦しい、苦しい」ともがき騒いで、自分だけでなく、周りの人にも迷惑や混乱を引き起こしています。

自観法は時や場所や状況を選ばずに、ごく普通の日常生活の中でやることが基本です。

たとえば、「これこそ自観法の格好の材料になると思ってやってみよう」とか、とか、「はっきりとしない感情だと、自観しづらいのではないか?」とか、「怒りのようなはっきりとした感情なら、自観しやすいのだろうか?」というように自観法の材料や状況を選んでやるということが、そもそも、自観法について根本的に誤解しているのです。

基本的には、自観法は何かを集中してやっていて自観法をやると仕事に差し支えるときや、自動車の運転中など危険性があるときなどを除いて、自分の思いを観察できるような状況にあるときにはいつでも(それには、プラスあるいはマイナスの感情が出てきたときなども含まれますが、)材料や状況を選ばずに、機会があればいつでも、さりげなくやることが基本です。

それはアタマに浮かんでくる思いをただ意識しているだけであり、ただ、眺めているだけであり、ただ、そっくりそのまま、批判や批評や反省などをすることなく、受け止めているということです。

どんなときでも、はっきりしないものははっきりしないままに、はっきりしているものははっきりしているままに、もやもやしているものはもやもやのままに、強烈な感情は強烈な感情のままに、そのまま、ただ、眺めているだけです。

また、自観法をやるときには、はっきりと目が覚めていることが必要です。

ですから、夜寝床に入ってやったり、朝、目が覚めて、まだ眠いのにそのまま寝床で自観法をやるというのは望ましくありません。

また、過去にあったことをあれこれ思い出しながら、それをじっと見ていようとすることも、自観法としては望ましくありません。

それから、自観法に習熟するまでは、強いネガティブな感情に囚われているときなどはやらないほうがよいと思います。強いネガティブな感情に巻き込まれてしまい、自観法の効果について自信がなくなったり、疑いが生じる懸念があるからです。

自観法あれこれ その4
自観法は特殊なことを、たとえば、わざわざ昔の嫌だったことを思い出して、それを克服しようなどということを目的としてやる行ではありません。

まずは、普通のありふれた日常の中で、ごく普通の状況の中で、浮かんでくるアタマの思いをただ傍観するのです。

その第一の目的は、感情も含めて、思いは自分ではなく、それをただ見ているものこそが自分であることに明瞭に気づくことにあります。

第二の目的は、第一で気づいた本当の自分は、絶対的に透明で、静寂で境い目がなく、無限に広がっている空間であり、どんなことがあっても絶対に傷つくはずのものではなく、不生不滅の“いのち”そのものである、ということに気づくことです。

自観法に十分に習熟していくと、何かにつけて、自観法を無意識にやっているようになります。

そうしているうちに、気がついてみると、何かマイナスの感情にとらわれた時に、無意識のうちに自観法をやって、その感情が瞬時に消えるということも起きてきます。

自観法をやってみるとよくわかりますが、意識されているもの(客体)と、それを批判や批評や反省なしにただ意識しているもの(主体)は異なるものです。

つまり、体や思いや感情が自分なのではなく、それを意識している主体こそが”自分”です。

自観法をやっていると、その“自分”は形も姿もなく、どんなことがあっても傷つくことのない不生不滅の”大いなるいのち”であることが、はっきりとわかるようになります。

それは、個としての“自分”などどこを探してもないということです。

この世界にはただ全体としての“いのち”だけがあり、それがいろいろな姿、形として現れています。

大いなる“いのち”がこの体を使って動いたり、この眼を使って見たり、この耳を使って音を聴いたりなど五感を使っていろいろな感覚を得たり、このアタマを使って考えたり、感情を生じさせたりしています。

しかも、この体やアタマや、五感、思考、感情、感覚などもすべて大いなる“いのち”の現れです。というか、大いなる“いのち”そのものです。

それはこの世界のすべてについても同じです。

この世界のすべては大いなる“いのち”の現れであり、大いなる“いのち”の一人芝居がこの世界です。

そして、その大いなる“いのち”こそ“自分”なのです。

つまり、すべては大いなる“いのち”である”自分”のなかで、すべてがただ起きています。

以下、自観法を実習したある方の感想です。

朝、散歩に出て周りを眺めると、春霞の山々や街、空や木々が実に鮮明に映り、風の音・小鳥のさえずりなどすべてが調和し、今までにないような新鮮さが感じられました。

と同時に身の回りや社会の現象などがとてもクリアーに観えてきました。今まで何と自分の色眼鏡で見たり、フィルターをかけて見てきたことかと思いました。感情移入されないというか、感情に振り回されない冷静さでしょうか、とても穏やかな心境でした。

自観法あれこれ  その5
いま、僕は今朝の体験を思い出しながら、これを書いています。

朝、かなり早い時間に眼が醒めたのですが、そのまま寝床で仰向けになりながら自観法をやってみようと思いました。

眼はつぶったままでしたが、眠気はほとんどありませんでした。

家の外からウグイスやその他の小鳥の鳴く声が聞こえてきます。それをただ意識しています。

この「意識」というのはどういうことかと言いますと、それは「聴いている」というよりも、「聴こえている」といったほうがより適切な表現でしょう。

というのは、小鳥の声を「聴こう」として「聴いている」わけではないからです。

でも、確かに「聴こえている」わけですから、それを「聴いている」もの、つまり、主体が“自分”ということになります。

それで、「では、主体である“自分”というのは?」と、こちら側の奥に気を向けてみると、その“自分”は感覚としては、静寂で、透明な空間、姿も形もなく、“なにもないもの”としか言いようのないもの、であることがわかります。

その“なにもないもの"がただいろいろな小鳥の鳴く声を聴いています。

そこに、ふと、「あれは何という鳥だろう?」という思いが浮かんできます。

でも、それを相手にしないでいると、気がつくといつの間にか消えてしまっています。

しばらくして、また、「今日は寒そうだな」という思いが浮かんできます。

それを相手にしないでいると、その思いもいつの間にか消えてしまっています。

それは、ちょうど、青空に現れた白い雲のように、時々現れてくる思いは、それをただ見ているだけで、そのまま相手にしないでいると、いつの間にか消えてしまいます。

自観法をやってみれば、思いや感情は雲のようにはかなく、力がなく、実体のないものだということがはっきりと分かります。

思いや感情は、それを相手にし、それを何とかしようともがいたり、それらに巻き込まれてしまうと、とても強固で、どうしようもないものであるように感じられますが、真実は、何の力もなく、浮雲のようにはかないものでしかないのです。

さて、それから、起床して、しばらくして、庭を眺めながら自観法をやってみました。

庭の緑がかった芝生の向こうに、梅や桃などいろんな花が咲いています。

その事実をただ眺めています。そこにはただ事実だけがあります。

眺めている主体である“自分”のほうに気を向けてみます。でも、そこには何もありません。

というか、“なんでもないもの”、があるだけです。それは“いのち”です。

ときどき、浮雲のように、思いが浮かんできます。

それを、相手にしないで、ただ眺めているといつのまにか消えていきます。

思いや感情が “自分”なのではありません。

目の前に、“いのち“の表現として、次々に事実の世界が展開され、それを “いのち”である“自分”がただ眺めています。
(終わり)

自観法をうまくやるには
今回のブログは自観法がうまくできている方は読む必要はないとも言えるのですが、参考になることもあると思いますので、そのような方にも読んでいただきたいと思います。

自観法とは、日常生活の中で、1回に1~3分間(慣れてくれば、もっと長い時間)、風景を、ただ、眺めているのと同じように、現れては消えていく思い(思考や感情)を一切の批評や判断等なしに、そのまま、ただ、眺めている、あるいは、見ているという行法です。

自観法の目的は、身体やアタマの思いや感情は自分ではなく、 “大いなるいのち”こそ“本当の自分”であり、“本当の自分”はどんな状況においても絶対に傷つくことなく、死ぬこともない永遠の存在であることに気づくことにあります。

このことが、はっきりすると一切の苦しみから解放されます。

自観法は非常に優れ、また、誰でも容易にできる行法です。

それで僕はいろいろな方に自観法を勧めているのですが、自観法がうまくできないという方がいらっしゃるのです。

そのような方々にどのようにやっているのかと訊いてみると、どうやらほとんどの方がある思い込み、あるいは、先入観に基づいて間違ったやり方をしていることに気づきました。

その先入観というのは、思いが現れてきた時に、「“自分”がそう思っている」と意識しながら、その思いを見ている、ということです。

つまり、思いと“自分という思い”が最初からくっついてしまっているのです。

そのために、「“思い”ほとんどイコール“自分”」という感じで思いを見てしまっているので、思いを離れたところから見ることができなくなってしまっています。

事実は、青空に白い雲が勝手に現れ、しばらく留まり、やがて、どこへともなく消えていくのと同じように、思いはただどこからともなく現れ、しばらく、そこに留まり、やがて、どこへともなく消えていっているだけです。

「“自分“がそのように思っている」とアタマで無意識の内に思い込んで、思いに“自分という思い”をくっつけていたために、思いとそれを離れて見ている“本当の自分”に明確に気がつかなかったのです。

自分が白い雲を創り出しているのではないように、思いも自分が創り出しているのではなく、ただ、勝手にそこに現れては消えていくだけなのです。

青空の白い雲を見ているときには、白い雲とそれを見ている自分との間はあきらかに離れています。

体のある部分の痛みを感じているときも、「体は自分だ」という先入観や思い込みさえなければ、その体の一部分の痛みとそれを見ている自分との間は離れているのは当たり前です。

「自分の感覚」、「自分の思い」という思い込みの間違いに気づき、外界の風景を見るのと同じように、体の感覚や思いが勝手に独りでに現れては、留まり、消えていくのを、ただ、眺めているのが自観法です。

もし、その感覚や思いに対して批評や判断という思いが湧いてきたときには、その新たな思いを、ただ、そのまま眺めていればよいのです。

以上が自観法のポイントです。





川の瞑想の実際  その9

川の瞑想の実際  その9
(その8からのつづき)

般若心経に「色即是空 空即是色」という言葉があります。ほとんどの方は、せいぜい、何かありがたい、凡人には計り知れない意味があるのかな、と思うだけで、お経の飾り文句のように感じているのではないかと思います。

仏教にはその教えをあらゆる角度から説明した膨大な量のお経があります。でも、「色即是空 空即是色」というこの言葉こそ仏教の心髄中の心髄であり、これほど、自己の本質と存在の真実を的確に表しているものはありません。

この場合、「色」というのは、直接的には「眼に見えるもの」、「空」は「眼にみえないもの」という意味です。したがって、色即是空は「色は、すなわち、空である」ということで、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないもの」ということになります。空即是色は「眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるもの」ということです。

これはまさに川の瞑想によって体感できる自己の本質と存在の真実に他なりません。川の瞑想では、最初に音を聞き、次に、その音の奥にある静寂の存在を体感します。そして、音は静寂より生まれ、また静寂に戻ることを体感します。それは「音即是寂 寂即是音」、つまり、「音は、すなわち、寂であり、寂は、すなわち、音である」ということです。

川の瞑想では最初は聴覚を通して、「音と静寂の世界」を、次に視覚を通して、「眼に見えるものと眼に見えないもの世界」を体感します。そして、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないものであり、眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるものである」、すなわち。「色即是空 空即是色」を体感するのです。

ついでですが、般若心経のこの文句で使われている「色」は直接的には「眼に見えるもの」、すなわち、「形姿を持って存在するもの」という意味ですが、ここでは、この世界に現れているあらゆる現象や存在(たとえ見えなくても)を表しています。

同様に、「空」は、直接的には、「眼に見えるもの」、すなわち、「姿形を持たないもの」という意味ですが、ここでは、それだけではなく、この世界のあらゆる現象や存在を顕現している、その奥、あるいは、内側にある本質を表しています。ですから、仏教で言う「空」はこれまで僕が使ってきた“いのち”と同じであると言ってもよいのではないかと思います。


このように、川の瞑想は単に「いい気分になって、くつろいで、安らぐ」など、精神を安定させるといったことを目的にしているのではありません。まさに、存在の真実を体感し体得することが目的です。しかも、それが、誰でも簡単にできると言うところが川の瞑想の一大特徴だと言えるでしょう。

そういう意味では、川の瞑想をして心が安らいだ、落ち着いたなどということは同然ありうることではあっても、あくまで副次的な効果にすぎません。このことを肝に銘じて、誤解のないようにしてください。

なお、川の瞑想の実習では、CDの川の流れの音のオン・オフに耳を傾けるとともに、眼を開けて、畳や壁など静止して、音を出していない何か外部のものに眼を合わせてその静寂を聴こうとすると、聴覚的な川の流れのオフ、つまり、静寂と、たとえば、視覚的な畳の静寂が合わさって、より静寂を聞き、見ることができて、はっきり確認することができます。

これを繰り返していると、CDなしでも、眼を、例えば、畳に合わせて、その静寂を見ようとすることによって、畳だけでなく、周りのすべてが静寂そのものであることを体感できるようになります。それに熟達してくれば、CDなしに、ただ周りの音がしていないものに視線を向けるだけで静寂を持続的に体感できるようになります。

そして、それに熟達すれば、音が出ているものを見ても、その奥に静寂を持続的に体感できるようになります。そしてついには、町の真ん中の通りに出て、周りを見ても、騒音の真っただ中で、ずっと静寂の中にいることができるようになります。

そうなると、テレビを見ていても、人と話をしていても、静寂の中にいられるようになります。ですから、心はいつも安定し安らいですっきりしています。これが本当の「平常心」です。日常生活で、いろいろなこと、いろいろな思いに振り回されて、やっさもっさしている心はとても「平常心」とは呼べません。

自分自身を振り返って、何かで心が動揺したり、アタマに来たり、心配性であったり、悲観的であるなど、しょっちゅうマイナス感情に振り回されながら生きているという人はこの川の瞑想を真剣に実践することをお勧めします。とにかく、貴重なかけがえのない人生をそんなつまらないことで自ら粗末にしながら生きていくことほどもったいなく愚かなことはないのですから・・・。

もう一つ、川の瞑想の延長で有効な方法は、川の流れのCDを聞きながら、眼を開けて自分の外を見ると同時に、その逆方向、つまり、自分の眼の奥の奥の方をずーっと見ると言うか、意識するのです。

そこに、何があるでしょうか?視覚的にはそこには何もありません。同時に、聴覚的にも何もありません。まさに、静寂・透明であり、空です。それが自分自身の本体です。それは僕が26歳の時に体験したものです。自分の体の感覚はもちろんあります。思いもあります。目の前のものも見えています。CDの音も聞こえています。でも、自分の体や心の奥には静寂・透明な空があるだけです。なにがあっても、それは絶対に変わるものではありません。

慣れてくると、CDも必要でなくなります。僕がよくやるのは、庭で空を見上げながら、同時に、視線を逆にするような感じで、自分の眼の奥の奥の方を意識することです。そこはいつも絶対の静寂であり、透明な空間です。その透明な空間には枠もありません。なにか、どこまでも透明な枠のないレンズのような感じです。その透明なレンズに外界の空が浮かんで見えています。空に雲や山が見えていると、よりやりやすいと思います。

この実習をやるときは、通りや何かではあぶないので、必ず公園や庭、あるいは、ビルの屋上、海岸、川の土手などで動かないでやってください。僕は、電車で窓側の席に座れた時は、窓から外を見上げながらやっています。そうすると、どのように見えるかというと、静寂で透明なく右である自分の中にすべての存在が入っているように感じます。

日頃の感覚では、自分は小さなアリのように、この広大な世界の中のちっぽけな存在だと感じていませんか? 確かに、広々とした戸外で自分の体とその周りを見ると、そう感じるかもしれません。でも、自分の眼の奥、その奥の自分の本体の中にこの世界、この宇宙全部が入っているのです。本当の自分は宇宙大の大きさなのです。

このシリーズのどこかで、特殊な二つのレンズがついたメガネの話をしましたが、それは以前ブログに書いた、「奇妙なガラス板」とよく似ています。この世界をそのガラスの右側から見ると、みんなバラバラにみえるのですが、左側から見ると、みんな一緒、一つに見えるのです。

私たち人間は肉眼の眼で表面的に見えるバラバラの世界と心の眼で見たこの世界の本質である不可分一体の世界という二重の世界の中で生きているのです。自分というのは個として生きながら、同時に、その本質である、この宇宙をすっぽり包んでしまうほど大きな“いのち“を生きているのです。つまり、別々でいながら、みんな一つという二重の存在性の中で生きているということです。

だから、肉体が死んでもどこにも行きません。いまここにある本質である空、“いのち“の世界から飛び出てどこかに行くわけではありません。簡単に言えば、自分の本質は“いのち“なのですから、どこにも行きようがないのです。だから、肉体が活動している時も”いまここ“にいて、肉体の活動が止んでも”いまここ“にいるのです。つまり、”あの世“というものは”いまここ“にあるのです。

(独り言:愛する人や親しい人がなくなっても、いつまでも嘆き悲しまなくてもいいじゃないか。ふと寂しく思う時もあるかもしれないけれど、死んでもいつも一緒にいるのだから、それで充分じゃないか・・・。)

もう一度、川の瞑想の目標を段階的に説明しましょう。

まず、いろいろな音の奥に静寂があることが分かった。いろいろな音があっても、いろいろな思いは出てきても、ずっと静寂の世界に留まっていることができるようになった。では、その次の段階ではどうするかということです。

それは視覚も使って、もちろん、いろいろなものが見え、音がし、思いや体の感覚がありながら、そのすべての奥に、まず、すべてが完全に静寂であること、次に、自分の内側に視線を向け、自分自身が絶対の静寂であることを体感することです。

そして、次は、外にあるものがすべてその奥は透明で空であること、そして、次に、自分自身が透明で空であることを体感することです。そして、その次の段階はCDなしでそれぞれ体感できるようになることです。

それから、川の瞑想を長時間やっていると、足がしびれてくることがあります。けれども、川の瞑想がきちんとできていれば、足がしびれてもそのまま放っておけば、なんの支障もなく、絶対的な安らぎの中で、快適に川の瞑想を続けることができます。このことがわかれば、一日中でも続けることができるような感じがするでしょう。

これは坐禅でも同じです。足が痛くてガマンできなくなるのは、やり方がまずいのです。足がしびれていても相手にしなければよいのです。アタマの思いも同じです。これが楽にできるようになると、思いも次第に出てこなくなって、心が澄んでくるようになります。この状態ですべてを任せて坐っている状態こそが本当の只管打坐なのだと言えるでしょう。

そういう状態になれば、道元禅師の言われる「心身脱落」と言えるかもしれません。ちなみに、道元禅師は『正法眼蔵』の『現成公案』の巻で次のように言われています。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
(仏道をならふ=存在の真実を究める、自己=真実の自己)
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
(前の自己=真実の自己、後の自己=見かけの自分)
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(自己=見かけの自分、万法=すべての存在)
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
     (自己=自分、他己=他の人、他の自分)  (注釈:昇平)

「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた状態になることです。「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」とは、個としての自分と個としての他というものが消えてなくなって、すべて、宇宙全体が不可分一体であることを体感することです。


最後に一言。この世界は見かけ上のバラバラの個という視点から見ると、本当に苦しいこともありますが、不可分一体の“いのち“という存在の真実の視点から見ると、そのままで「すべてよし」の世界なのです。それを簡単に体感できる川の瞑想は最高だと思います。

(おわり)





再び自観法について

再び自観法について

以前ブログで何回かに分けて自観法について説明しましたが、その後ずっと自観法を続けて実修している方が少ないようなので、それではみすみす宝の山を見過ごしていることと同じで、あまりにもったいないとの思いから今回のブログを書いています。

自観法については以前説明したように、特別に何かに集中しなければならない時を除いて、普段の日常生活において、特別な場面や状況を選ばずに、約1分間自分の思い、あるいは、意識の流れを批判や批評や反省などすることなしに、ただ眺めているというものです。できれば、1日に何回もやったほうが効果的です。

”効果“と書きましたが、自観法を1か月も毎日続けて実修していると、素晴らしい成果があるでしょう。けれども、自観法のコツは何か素晴らしい成果を得ようというような余計な考えを持たずに、自分の思いを “ただ”眺めているだけです。

私たちの心は、次から次にいろいろな雑念を思い浮かべています。青空に次々と雲が自由に現れては流れ消えていくのに似ています。その次々に浮かんでは消えていく雑念をそのまま自由に遊ばせながら勝手に眺めているのです。

通常、多くの方々は、そのような思い、あるいは、そのように思っているものこそが”自分“だと何の検証もなしに思い込んでいます。けれども、毎日自観法をやっていると、”見られているもの“と”見ているもの“がだんだんはっきり分かれてきます。つまり、” そのような思い、あるいは、そのように思っているもの“が”見られている自分“であり、それを”もう一つの自分“がじっと見ている、ということにはっきりと気づくことができます。

そして、この“もう一つの自分”こそが本当の自分、真の自己です。真の自己はどんなものかと言えば、姿も形もありません。色も着いていません。それは強いて言えば、完全に静寂で無限に広がった空間です。簡単に言えば、何もない「空」です。でも、本当は何もないのではなく、「空」でありながら、いや、それだからこそ、この大宇宙のすべてを含んでいます。ヨガではそれを“大我”と呼んでいるようです。(僕はそれを“いのち”と呼んでいます。)

それに対して、”見られている自分“をヨガでは”小我“と呼んでいるようですが、それは生活上の表面意識であり、この社会における個人的また社会的な対立や混乱を引き起こしている元凶です。(でも、真実は、そんな”個としての自分”などはもともと存在しないのです。この体とアタマを使って生きているのは“いのち“なのです。もともと自分など存在しないのです! これは驚き以外の何者でもありません。この存在の真実に気づく時に本当の大安心が得られるのです。)

自観法のもう一つの効果は、習熟するにつれて、感情に振り回されることがどんどん少なくなります。心は楽しくなります。そして、怒りっぽい所がなくなり、悲観癖もなくなり、人に対する偏見や恨みごとやひがんだ気持ちもなくなり、この世界がますます美しく見え、心が優しくなり誰とでも打ち解けて話せるようになります。一言で言えば、生きることがとても楽しくなります。

まさにいいことずくめなのです。ですから、自観法をやらなきゃ本当にもったいないのですよ!





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自観法をうまくやるには

自観法をうまくやるには

今回のブログは自観法がうまくできている方は読む必要はないとも言えるのですが、参考になることもあると思いますので、そのような方にも読んでいただきたいと思います。

自観法とは、日常生活の中で、1回に1~3分間(慣れてくれば、もっと長い時間)、風景を、ただ、眺めているのと同じように、現れては消えていく思い(思考や感情)を一切の批評や判断等なしに、そのまま、ただ、眺めている、あるいは、見ているという行法です。

自観法の目的は、身体やアタマの思いや感情は自分ではなく、 “大いなるいのち”こそ“本当の自分”であり、“本当の自分”はどんな状況においても絶対に傷つくことなく、死ぬこともない永遠の存在であることに気づくことにあります。

このことが、はっきりすると一切の苦しみから解放されます。

自観法は非常に優れ、また、誰でも容易にできる行法です。

それで僕はいろいろな方に自観法を勧めているのですが、自観法がうまくできないという方がいらっしゃるのです。

そのような方々にどのようにやっているのかと訊いてみると、どうやらほとんどの方がある思い込み、あるいは、先入観に基づいて間違ったやり方をしていることに気づきました。

その先入観というのは、思いが現れてきた時に、「“自分”がそう思っている」と意識しながら、その思いを見ている、ということです。

つまり、思いと“自分という思い”が最初からくっついてしまっているのです。

そのために、「“思い”ほとんどイコール“自分”」という感じで思いを見てしまっているので、思いを離れたところから見ることができなくなってしまっています。

事実は、青空に白い雲が勝手に現れ、しばらく留まり、やがて、どこへともなく消えていくのと同じように、思いはただどこからともなく現れ、しばらく、そこに留まり、やがて、どこへともなく消えていっているだけです。

「“自分“がそのように思っている」とアタマで無意識の内に思い込んで、思いに“自分という思い”をくっつけていたために、思いとそれを離れて見ている“本当の自分”に明確に気がつかなかったのです。

自分が白い雲を創り出しているのではないように、思いも自分が創り出しているのではなく、ただ、勝手にそこに現れては消えていくだけなのです。

青空の白い雲を見ているときには、白い雲とそれを見ている自分との間はあきらかに離れています。

体のある部分の痛みを感じているときも、「体は自分だ」という先入観や思い込みさえなければ、その体の一部分の痛みとそれを見ている自分との間は離れているのは当たり前です。

「自分の感覚」、「自分の思い」という思い込みの間違いに気づき、外界の風景を見るのと同じように、体の感覚や思いが勝手に独りでに現れては、留まり、消えていくのを、ただ、眺めているのが自観法です。

もし、その感覚や思いに対して批評や判断という思いが湧いてきたときには、その新たな思いを、ただ、そのまま眺めていればよいのです。

以上が自観法のポイントです。





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自観法あれこれ その5

自観法あれこれ  その5
(その4からの続き)

いま、僕は今朝の体験を思い出しながら、これを書いています。

朝、かなり早い時間に眼が醒めたのですが、そのまま寝床で仰向けになりながら自観法をやってみようと思いました。

眼はつぶったままでしたが、眠気はほとんどありませんでした。

家の外からウグイスやその他の小鳥の鳴く声が聞こえてきます。それをただ意識しています。

この「意識」というのはどういうことかと言いますと、それは「聴いている」というよりも、「聴こえている」といったほうがより適切な表現でしょう。

というのは、小鳥の声を「聴こう」として「聴いている」わけではないからです。

でも、確かに「聴こえている」わけですから、それを「聴いている」もの、つまり、主体が“自分”ということになります。

それで、「では、主体である“自分”というのは?」と、こちら側の奥に気を向けてみると、その“自分”は感覚としては、静寂で、透明な空間、姿も形もなく、“なにもないもの”としか言いようのないもの、であることがわかります。

その“なにもないもの"がただいろいろな小鳥の鳴く声を聴いています。

そこに、ふと、「あれは何という鳥だろう?」という思いが浮かんできます。

でも、それを相手にしないでいると、気がつくといつの間にか消えてしまっています。

しばらくして、また、「今日は寒そうだな」という思いが浮かんできます。

それを相手にしないでいると、その思いもいつの間にか消えてしまっています。

それは、ちょうど、青空に現れた白い雲のように、時々現れてくる思いは、それをただ見ているだけで、そのまま相手にしないでいると、いつの間にか消えてしまいます。

自観法をやってみれば、思いや感情は雲のようにはかなく、力がなく、実体のないものだということがはっきりと分かります。

思いや感情は、それを相手にし、それを何とかしようともがいたり、それらに巻き込まれてしまうと、とても強固で、どうしようもないものであるように感じられますが、真実は、何の力もなく、浮雲のようにはかないものでしかないのです。

さて、それから、起床して、しばらくして、庭を眺めながら自観法をやってみました。

庭の緑がかった芝生の向こうに、梅や桃などいろんな花が咲いています。

その事実をただ眺めています。そこにはただ事実だけがあります。

眺めている主体である“自分”のほうに気を向けてみます。でも、そこには何もありません。

というか、“なんでもないもの”、があるだけです。それは“いのち”です。

ときどき、浮雲のように、思いが浮かんできます。

それを、相手にしないで、ただ眺めているといつのまにか消えていきます。

思いや感情が “自分”なのではありません。

目の前に、“いのち“の表現として、次々に事実の世界が展開され、それを “いのち”である“自分”がただ眺めています。

(終わり)





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