プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

自観法をうまくやるには

自観法をうまくやるには

今回のブログは自観法がうまくできている方は読む必要はないとも言えるのですが、参考になることもあると思いますので、そのような方にも読んでいただきたいと思います。

自観法とは、日常生活の中で、1回に1~3分間(慣れてくれば、もっと長い時間)、風景を、ただ、眺めているのと同じように、現れては消えていく思い(思考や感情)を一切の批評や判断等なしに、そのまま、ただ、眺めている、あるいは、見ているという行法です。

自観法の目的は、身体やアタマの思いや感情は自分ではなく、 “大いなるいのち”こそ“本当の自分”であり、“本当の自分”はどんな状況においても絶対に傷つくことなく、死ぬこともない永遠の存在であることに気づくことにあります。

このことが、はっきりすると一切の苦しみから解放されます。

自観法は非常に優れ、また、誰でも容易にできる行法です。

それで僕はいろいろな方に自観法を勧めているのですが、自観法がうまくできないという方がいらっしゃるのです。

そのような方々にどのようにやっているのかと訊いてみると、どうやらほとんどの方がある思い込み、あるいは、先入観に基づいて間違ったやり方をしていることに気づきました。

その先入観というのは、思いが現れてきた時に、「“自分”がそう思っている」と意識しながら、その思いを見ている、ということです。

つまり、思いと“自分という思い”が最初からくっついてしまっているのです。

そのために、「“思い”ほとんどイコール“自分”」という感じで思いを見てしまっているので、思いを離れたところから見ることができなくなってしまっています。

事実は、青空に白い雲が勝手に現れ、しばらく留まり、やがて、どこへともなく消えていくのと同じように、思いはただどこからともなく現れ、しばらく、そこに留まり、やがて、どこへともなく消えていっているだけです。

「“自分“がそのように思っている」とアタマで無意識の内に思い込んで、思いに“自分という思い”をくっつけていたために、思いとそれを離れて見ている“本当の自分”に明確に気がつかなかったのです。

自分が白い雲を創り出しているのではないように、思いも自分が創り出しているのではなく、ただ、勝手にそこに現れては消えていくだけなのです。

青空の白い雲を見ているときには、白い雲とそれを見ている自分との間はあきらかに離れています。

体のある部分の痛みを感じているときも、「体は自分だ」という先入観や思い込みさえなければ、その体の一部分の痛みとそれを見ている自分との間は離れているのは当たり前です。

「自分の感覚」、「自分の思い」という思い込みの間違いに気づき、外界の風景を見るのと同じように、体の感覚や思いが勝手に独りでに現れては、留まり、消えていくのを、ただ、眺めているのが自観法です。

もし、その感覚や思いに対して批評や判断という思いが湧いてきたときには、その新たな思いを、ただ、そのまま眺めていればよいのです。

以上が自観法のポイントです。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

自観法あれこれ その5

自観法あれこれ  その5
(その4からの続き)

いま、僕は今朝の体験を思い出しながら、これを書いています。

朝、かなり早い時間に眼が醒めたのですが、そのまま寝床で仰向けになりながら自観法をやってみようと思いました。

眼はつぶったままでしたが、眠気はほとんどありませんでした。

家の外からウグイスやその他の小鳥の鳴く声が聞こえてきます。それをただ意識しています。

この「意識」というのはどういうことかと言いますと、それは「聴いている」というよりも、「聴こえている」といったほうがより適切な表現でしょう。

というのは、小鳥の声を「聴こう」として「聴いている」わけではないからです。

でも、確かに「聴こえている」わけですから、それを「聴いている」もの、つまり、主体が“自分”ということになります。

それで、「では、主体である“自分”というのは?」と、こちら側の奥に気を向けてみると、その“自分”は感覚としては、静寂で、透明な空間、姿も形もなく、“なにもないもの”としか言いようのないもの、であることがわかります。

その“なにもないもの"がただいろいろな小鳥の鳴く声を聴いています。

そこに、ふと、「あれは何という鳥だろう?」という思いが浮かんできます。

でも、それを相手にしないでいると、気がつくといつの間にか消えてしまっています。

しばらくして、また、「今日は寒そうだな」という思いが浮かんできます。

それを相手にしないでいると、その思いもいつの間にか消えてしまっています。

それは、ちょうど、青空に現れた白い雲のように、時々現れてくる思いは、それをただ見ているだけで、そのまま相手にしないでいると、いつの間にか消えてしまいます。

自観法をやってみれば、思いや感情は雲のようにはかなく、力がなく、実体のないものだということがはっきりと分かります。

思いや感情は、それを相手にし、それを何とかしようともがいたり、それらに巻き込まれてしまうと、とても強固で、どうしようもないものであるように感じられますが、真実は、何の力もなく、浮雲のようにはかないものでしかないのです。

さて、それから、起床して、しばらくして、庭を眺めながら自観法をやってみました。

庭の緑がかった芝生の向こうに、梅や桃などいろんな花が咲いています。

その事実をただ眺めています。そこにはただ事実だけがあります。

眺めている主体である“自分”のほうに気を向けてみます。でも、そこには何もありません。

というか、“なんでもないもの”、があるだけです。それは“いのち”です。

ときどき、浮雲のように、思いが浮かんできます。

それを、相手にしないで、ただ眺めているといつのまにか消えていきます。

思いや感情が “自分”なのではありません。

目の前に、“いのち“の表現として、次々に事実の世界が展開され、それを “いのち”である“自分”がただ眺めています。

(終わり)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

自観法あれこれ その4

自観法あれこれ その4
(その3からの続き)

自観法は特殊なことを、たとえば、わざわざ昔の嫌だったことを思い出して、それを克服しようなどということを目的としてやる行ではありません。

まずは、普通のありふれた日常の中で、ごく普通の状況の中で、浮かんでくるアタマの思いをただ傍観するのです。

その第一の目的は、感情も含めて、思いは自分ではなく、それをただ見ているものこそが自分であることに明瞭に気づくことにあります。

第二の目的は、第一で気づいた本当の自分は、絶対的に透明で、静寂で境い目がなく、無限に広がっている空間であり、どんなことがあっても絶対に傷つくはずのものではなく、不生不滅の“いのち”そのものである、ということに気づくことです。

自観法に十分に習熟していくと、何かにつけて、自観法を無意識にやっているようになります。

そうしているうちに、気がついてみると、何かマイナスの感情にとらわれた時に、無意識のうちに自観法をやって、その感情が瞬時に消えるということも起きてきます。

自観法をやってみるとよくわかりますが、意識されているもの(客体)と、それを批判や批評や反省なしにただ意識しているもの(主体)は異なるものです。

つまり、体や思いや感情が自分なのではなく、それを意識している主体こそが”自分”です。

自観法をやっていると、その“自分”は形も姿もなく、どんなことがあっても傷つくことのない不生不滅の”大いなるいのち”であることが、はっきりとわかるようになります。

それは、個としての“自分”などどこを探してもないということです。

この世界にはただ全体としての“いのち”だけがあり、それがいろいろな姿、形として現れています。

大いなる“いのち”がこの体を使って動いたり、この眼を使って見たり、この耳を使って音を聴いたりなど五感を使っていろいろな感覚を得たり、このアタマを使って考えたり、感情を生じさせたりしています。

しかも、この体やアタマや、五感、思考、感情、感覚などもすべて大いなる“いのち”の現れです。というか、大いなる“いのち”そのものです。

それはこの世界のすべてについても同じです。

この世界のすべては大いなる“いのち”の現れであり、大いなる“いのち”の一人芝居がこの世界です。

そして、その大いなる“いのち”こそ“自分”なのです。

つまり、すべては大いなる“いのち”である”自分”のなかで、すべてがただ起きています。


以下、自観法を実習したある方の感想です。

朝、散歩に出て周りを眺めると、春霞の山々や街、空や木々が実に鮮明に映り、風の音・小鳥のさえずりなどすべてが調和し、今までにないような新鮮さが感じられました。

と同時に身の回りや社会の現象などがとてもクリアーに観えてきました。今まで何と自分の色眼鏡で見たり、フィルターをかけて見てきたことかと思いました。感情移入されないというか、感情に振り回されない冷静さでしょうか、とても穏やかな心境でした。

(続く)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

自観法あれこれ その3

自観法あれこれ  その3
(その2からの続き)

痒みだけでなく、痛みなどの感覚についても同じです。事実としては、ただ痛みがあるだけなのに、自分が痛いと思ったり、事実としての痛みに「苦しい」というような余計な思いや感情を重ねるために、痛みが増幅されて感じられるのです。

いずれにしても、この社会で生きていく中にはいろいろな痛みがあります。けれども、自分が苦しいのではなく、また、事実の中には「苦しみ」はありません。

事実としてあるのは「痛い」という感覚だけで、「苦しい」というのは人が「痛い」という事実に、勝手に重ねた思いや感情であり、「苦しい」という事実があるわけではありません。

多くの人がこの簡単な真実を理解しないで、社会的なことや個人的なことで、洗面器に張った10センチの深さの水に自ら顔をつけっぱなしにして、「自分は苦しい、苦しい」ともがき騒いで、自分だけでなく、周りの人にも迷惑や混乱を引き起こしています。

自観法は時や場所や状況を選ばずに、ごく普通の日常生活の中でやることが基本です。

たとえば、「これこそ自観法の格好の材料になると思ってやってみよう」とか、とか、「はっきりとしない感情だと、自観しづらいのではないか?」とか、「怒りのようなはっきりとした感情なら、自観しやすいのだろうか?」というように自観法の材料や状況を選んでやるということが、そもそも、自観法について根本的に誤解しているのです。

基本的には、自観法は何かを集中してやっていて自観法をやると仕事に差し支えるときや、自動車の運転中など危険性があるときなどを除いて、自分の思いを観察できるような状況にあるときにはいつでも(それには、プラスあるいはマイナスの感情が出てきたときなども含まれますが、)材料や状況を選ばずに、機会があればいつでも、さりげなくやることが基本です。

それはアタマに浮かんでくる思いをただ意識しているだけであり、ただ、眺めているだけであり、ただ、そっくりそのまま、批判や批評や反省などをすることなく、受け止めているということです。

どんなときでも、はっきりしないものははっきりしないままに、はっきりしているものははっきりしているままに、もやもやしているものはもやもやのままに、強烈な感情は強烈な感情のままに、そのまま、ただ、眺めているだけです。

また、自観法をやるときには、はっきりと目が覚めていることが必要です。

ですから、夜寝床に入ってやったり、朝、目が覚めて、まだ眠いのにそのまま寝床で自観法をやるというのは望ましくありません。

また、過去にあったことをあれこれ思い出しながら、それをじっと見ていようとすることも、自観法としては望ましくありません。

それから、自観法に習熟するまでは、強いネガティブな感情に囚われているときなどはやらないほうがよいと思います。強いネガティブな感情に巻き込まれてしまい、自観法の効果について自信がなくなったり、疑いが生じる懸念があるからです。

(続く)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

自観法あれこれ その2

自観法あれこれ  その2
(その1からの続き)

自観法をやるときに、自観しているという思いがなくなってしまって、瞑想と同じようになってしまう、とか、眠くなってしまう、というようなことについて、繰り返しになりますが、もう少し説明しましょう。

たとえば、僕が推奨している只管打坐式瞑想法においては、何も求めず、呼吸や体の特定の箇所など何かに集中することなしに、体の感覚や思いなど起きていることを、どうこうしようという意図なしに、ただ、起こるがままにしておきます。

「任せる」ということがポイントですから、時には、眠くなっても、やむをえないと思います。

けれども、自観法では覚めていることが肝要です。うっとりして眠くなるようではダメです。また、自観法をしている時には、自観法をやっていることをはっきり自覚しながらやらなければ、正しいい自観法にはなりません。

そのためには、まず自観法に習熟するまでは、1回の実習を1分から3分間ぐらいを限度にやるとよいでしょう。

長い間、自観法をやっていると、最初の内は、浮かんでくる思いをただ眺めていたのが、いつのまにか、浮かんでくる思いにいろいろな思いを重ねて見てしまっているということが起こるからです。

そういう場合にも、そのようにして新たに出てきた思いをただ眺めていられればよいのですが、これではいけない、とか、何とかしよう、などと思い、最初の思いと後からの思いが格闘したりして混乱状態になってしまいます。これでは、自観法ではなくなってしまいます。

また、普段、瞑想をやっているために、自観法をはじめると、思いそのものが消えてしまったようになって、自観法ができない、なんだか自観法をしたような気がしない、というような方もいます。

これは、そのまま続ければよいのです。つまり、そのような気分をただ眺めていればよいのです。

さらには、次のように言う方もいます。

「体の一部が痒くて掻いているのですが、掻きながら痒いという思いを自観するとその思いが消えて、痒みも感じなくなった気がします。全く何も感じなくなったというより、痒いという感覚にリアリティがなくなったという感じです。」

これは、自観法を実習している方に顕著に起きる大変望ましい現象です。

というのは、多くの人は起きていることに余計な思い、つまり、妄想を重ねて見ていますので、一つ一つのことについて、事実以上に誇張したり、ゆがめたりして感じてしまいがちだからです。

痒いという事実はただ痒いという事実であり、それ以上のなにものものではありません。

ところが、多くの人は痒いという事実に、思いによって、「自分が痒い」、「だから自分がつらい」、「イヤだ」とか、「このまま治らなかったらどうしよう」などというような感情を重ねて見るために、大変なことが起きていると感じてしまうのです。

事実は事実。ただ痒いだけ。それ以上のなにものでもでもありません。自分が痒いのではありません。思いは事実ではありません。

莫妄想(妄想なし)。




←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

| ホーム |


 ホーム  » 次のページ