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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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あるがまま

あるがまま

この世界のすべてのものはバラバラに分離して存在しているのではなく、一つの大いなる“いのち“が顕現したものである。それは、たとえば、人体のいろいろな細胞や組織や器官が一見異なったもののように見えながら、実は、互いに密接に繋がり、互いを支え合いながら、全体として一つの人体を構成し生きているのと同じであり、すべての存在はどこまでも一つのものなのである。

僕が主宰する「自覚のセミナー」を受講した方々は、この存在の真実を体得、あるいは、かなり深いレベルにおいて知的に理解し納得されていることと思います。

禅に関する本などを読むと、真実の自己は「あるがまま」という言葉に出会うことがあります。

趙州大禅師は「真実の自己とは?」と問われて、「庭前の柏樹(庭の柏の木)」と答えました。これは、真実の自己とは「あるがままの自分、あるいは、あるがままの世界、あるいは、あるがままの事実」と言っているのです。

けれども、気をつけなければいけないのは、「あるがまま」と言っても、この自分や世界のナンでもカンでも「あるがまま」で「すべてよし」ということではありません。

なるほど、たしかに、大宇宙や大自然の姿をつぶさに観察してみると、すべてが“あるがまま”で互いの存在や現象が調和して整っています。もちろん、地震や台風その他の「自然災害」はそこに生きる人間やその他の生物にとっては大変困った現象であり、「調和して整っている」とは思えないかもしれませんが、地球の誕生から現在の地球環境を大きな目で観れば、地殻変動、火山の噴火その他の自然災害もさらなる調和に向かっての大宇宙、大自然の営みであることがわかります。

それでは、たとえば、戦争、各国間の対立、経済競争、あるいは、「自分さえ、自分の家族さえ、自分の会社さえ、自分の国さえよければ」という利己主義、個人個人の対立や争い、劣等感、優越感、孤独感、怒りその他の悪感情や苦しみなどはどうでしょうか? 

それも「あるがまま」で「すべてよし」ということでしょうか?

「それも人間、あるいは、人間社会の自然なのだから、すべてよしなのだ」という人もいるようですが、そういう人はそれらの惨めさを生で体験していないので、アタマで分かった風なことを言っているのだと思います。

そういう発言を含めて、個人あるいは人間社会の苦しみや混乱は人間がアタマで作り出したバラバラ観をはじめとするいろいろな観念によって作り出されたものです。それは大宇宙、大自然に働いている“いのちの摂理、あるいは、真理からまったく逸れているのです。

そういう意味で、人間個人、あるいは人間社会の苦しみと混乱はどこまで行っても、さらなる苦しみと混乱を引き起こします。ですから、とても「あるがままで、すべてよし」など間違っても考えるべきではありません。

「あるがまま」というのは大いなる“いのち“の摂理、あるいは、真理に沿って生きることです。それは大宇宙、大自然にはすでに顕現されています。

私たち人間は、アタマを頼りにしてバラバラ観で生きるのではなく、大宇宙、大自然に学んで不可分一体の真のありのままの生き方をしていかなければならないのです。





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当たり前に生きる

当たり前に生きる

僕は子供のころ、アフリカの奥地で原住民の医療に尽力したシュバイツァー博士の伝記を読んでこころから感動しました。

いまでも、人のために尽くした人たちのことを本や新聞などで知るたびに、世の中には本当に立派な人がいるものだとこころを打たれます。

理屈ではないことははっきりしています。こころの奥の方で何かがそのような話に自動的に、あるいは、自然に共鳴しているのだと思います。

多分、私たちは、本来、すべての存在とぶっ続きのこの不可分一体の世界において、その真実を理屈抜きに直感的に感得する本能的機能を生まれながらに備えているのだと思います。

それを僕は「集団的本能」と呼んでいます。

このように、僕はそんな話を聞くたびに「立派だなあ」と感動するのですが、よくよく考えてみると、本当はごく当たり前のことなのです。

おそらく、そのような“立派な”ことをされた方々も、自分自身では「自分は立派なことをやっている」などとは思ってはいらっしゃらないのではないでしょうか?

「立派ですね」などと人に言われたら、「当然のことをしただけです」とお答えになる方が大多数ではないでしょうか。

人はそれを聞いて「ますます立派な人だなあ!」と感じてしまいます。面白いものですね。

実は、あなた自身も同じではないでしょうか?

たとえば、家族のなかにある困った問題が起こったとします。

多くの方は自分も家族のメンバーの一人として、自分のことだけでなく、家族のことを自分のこととして受け取り、自分のできることがあれば、精一杯解決に向けて努力するのではないでしょうか。

そのようなことやっても、多くの人は自分では決して”立派なこと“をやっているなどと思ってやってはいないでしょう。

なぜなら、「家族だから当然のこと」だからです。

では、なぜ、家族では当然のことなのでしょうか?

それは、家族は不可分一体だからです。

そのなかでは、他の家族のメンバーや全体の問題は自分自身の問題だからです。

ですから、家族だけでなく、本能的に人のことを自分と同じ仲間のように感じている人は、困っている人のために一生懸命に尽くすことは「当然のこと」なのです。

ただ、本来は当たり前のことであっても、バラバラ観に立脚したこの社会においては、そのような行為は“立派なこと”、“崇高なこと”と私たちは感じてしまうのです。

このように、本来、この世界は不可分一体、つまり、みんな一つの家族なのですから、他人などいるはずもなく、人のことのために尽くすのは、ごくごく当たり前のことなのです。

ネホサでは「自分の国の福祉と同じように世界の福祉に国力を尽くして貢献するという理想を日本に掲げよう」と提案しています。

でも、それはバラバラ観の社会では「理想」と見えるかもしれませんが、本当は「当たり前のこと」なのです。

そうではあっても、日本がそのような国になって行くと考えただけでも、何かとても誇らしい気持ちになるのも事実です。

本当の当たり前の世界は決して無味乾燥なものではなく、とても情緒豊かな世界なのです。





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よい友達をつくるには

よい友達をつくるには

「よい友達をつくるには」などと言うと、何だか安っぽいノウハウ本のタイトルように聞こえますが、よい友達を持っていることは人生の幸せの大きな要素です。

よい友達をより多く持てば持つほど幸せに生きることができると言っても決して過言ではありません。

そういう意味で、ここで「よい友達をつくるにはどうすればよいのか」ということについて考えてみることはとても大切だと言えましょう。

でも、これまでこのテーマを本気で考えてみた人は意外と少ないようです。

それは心のどこかで、そういう友達ができるかどうかは、ただの成り行き次第だと思っていたからではないでしょうか?

でも、それは違います。よい友達ができるかどうかは自分次第なのです。

では、あらためて、本当によい友達をつくるにはどうしたらよいのでしょうか?

それは、実際は、「何で今まで気がつかなかったのだろう」と驚くほど簡単なです。

そのためには、「自分はどんな性格の友達が“本当に”欲しいか?」ということを心のなかで具体的にしっかりと確かめて(それを整理して、紙に箇条書きにして、すぐに見れるようにするとよいでしょう)、そのような人に“自分自身がなればよい”のです。

「いや、そんな人になるなんて、難しくてできないよ!」と考えないでください。

やってみれば簡単にできます。

誤解を招かないように言っておきますが、そのような人の“ふり”をするのではありません。

こころのなかでよく確かめてみればわかりますが、先に確かめたそのような性格は、実は、自分自身がこころの中でずっと望んでいたことなのです。

これは、そうありたいのだけど・・・、という意味ではありません。それが「自分自身の本当の望みだ」という意味です。

そのことが納得できたら、「自分自身が心の底から望むからそうやるのだ」という気持ちになれて、実際に、そのような性格がどんどん中から出てくるようになるのです。

あなたが心の底から望むような人になれば、自然によい人があなたの周りに集まってくるようになるでしょう。真理(宇宙の法則)はそのように働いているからです。

聖書にも、次のように書かれています。

「それで何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」新改訳聖書 マタイの福音書 7章12節

僕の恩師和田重正先生の「日本を自ら率先して、世界の環境問題の解決と貧困や飢餓や病気、戦争の惨禍に苦しんでいる人々の福祉に国力を挙げて貢献する国にしていこう」という提案(略称:ネホサ:Neo Homo Sapiens : 新人類)もまったく同じ真理に沿ったものなのです。

よい友達をつくるには、自分から仲良くしていく。

自分が理想の友達になる。

「自分はどういう友達がほしいか?」と考え、自ら率先してそのような人になる。

また、私たちが整体ライフスクールでやっている愉気や相互活元運動の根本も同じ真理に沿ったものです。

さらに、人だけでなく、真理は普遍的なものですから、国の在り方も同じです。






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真実は一つ  

真実は一つ  

この世界は不可分一体の世界です。

不可分一体という存在の真実に基づいた観念(思い)が不可分一体観であり、その存在の真実に基づいて生きるとき、それは正しい生き方ということになります。

けれども、存在の真実を正しく理解しないで、「みんなバラバラだ」と思うところから「バラバラ観」という間違った観念(思い)が生じます。

そして、この「バラバラ観」という間違った観念(思い)に基づいて生きるとき、それは間違った生き方ということになります。

でも、間違ってはいても、“それぐるみ”この世界は不可分一体であり、不可分一体という事実そのものは何があっても変わることはないのです。

つまり、何があっても不可分一体の世界しかないのであり、不可分一体の世界から絶対に落ちこぼれることはありません。

その意味で、この世界は絶対安心の世界であると言えるでしょう。

ただ、実際には、不可分一体の世界でその真実に沿って生きれば、スムーズに何の問題もなく生きていけるのですが、バラバラ観を持ち不可分一体の真実に逆らって生きて行けば、本来の川の流れに逆行するようなわけですから、何かにつけて問題が起きて、生きていくこと自体が苦しみと混乱となってしまいます。

それは個人的なことだけでなく、社会的なことについてもまったく同じことが言えるのです。

いずれにしても、この世界には不可分一体という真実一つしかありません。

ですから、そもそも、不可分一体観に沿った生き方とバラバラ観に沿った生き方の二つを同列において、どちらがよいかと論じることはできないのです。

なぜなら、不可分一体は「観念」というよりも、存在の真実(本来の事実)そのものであり、バラバラ観はアタマが描いた妄想(錯覚)にすぎないからです。

この世界には、もともと、不可分一体という存在の真実しかないのであり、それは何があっても変わることがないのですから、真実の生き方をしたいと思えば、誰でも素直に不可分一体の真実に即して生きるだけであり、不可分一体観で生きるか、それとも、バラバラ観で生きていくか、それの二つの選択肢が対等のものとして存在しているわけではありません。

それがあるように思えるとしたら、それは存在の真実(本来の事実)そのものとアタマの思い(妄想・錯覚)を同列の同次元のものと、それこそ、妄想・錯覚しているということです。

要するに、真実(本来の事実)は一つしかないのですが、一方、思い(考え)はそれこそいろいろなものがあります。

そして、思い(考え)には真実に合致した正しいものと、合致しない間違ったものがあります。

存在の真実についていえば、真実に沿った不可分一体観が正しく、真実に沿わないバラバラ観は間違いです。

ですから、いったん不可分一体の存在の真実をはっきりと確認したら、バラバラ観に沿った生き方などもともとはなかったことにすぐ気がつくはずなのです。

この当たり前の事実に気がついたら、素直に不可分一体の真実に沿って行くだけです。

他に、どのような生き方があるというのでしょうか。





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地球探訪レポート

地球探訪レポート

以下は銀河系の高度に発展した文明を持つX星から地球探訪に派遣された宇宙人Yの『地球探訪レポート』の一部です。


38億年前にこの地球上に最初の生物が誕生して以来、生物は数多くの困難を乗り越え進化を続け、今日地球上には実に様々な生物が生息しています。

彼らは地球環境に見事に適応し、互いに調和して生きています。ただ、一種類の生物を除いて・・・。

それは現生人類です。

人類は発達した大脳を駆使して、社会組織や科学技術、産業、経済、さらには、芸術その他の文化など、他の動物に比べて実に高度な文明を発展させてきました。

けれども彼らの生態をつぶさに観察をすると、理解に苦しむような事実が次々と判明してきたのです。

1 この地球上ではあらゆる場所で、人と人、グループとグループ、国と国の間で争いが絶えないこと。

2 地球上で多くの人々が食物が足りずに苦しんでいるのに、一方では、食べ過ぎによる病気で多くの人が苦しんでいること。

3 人類すべてを何回も繰り返して虐殺できるほどの原水爆とミサイルを大量に擁して、大国が何十年もの間にらみ合っていること。

4 自分たちで安全に処理できる目途がまったく立たない超危険な放射性物質を大量に使って発電をしていること。

5 自分たちが吸っている空気や、自分たちが飲んでいる水や、自分たちの食べている食物や、自分たちの住んでいる大地や山々や森や草原、海や川や池や湖を有毒な物質で汚染していること。

などなど。

大自然の法則は大自然の中ですべての存在が調和して生きていけるように働いているのですが、人類以外の動物は大自然の法則に見事に沿って他のものたちと調和しながら生きています。

人類は高度な文明を築いてきたのですから、当然、みんな幸福に生きているのだろうと思ってよく観察してみると、なんと!この地球上で幸福そうに生きている人はごくわずかで、実態は不幸な人が犇(ひし)めいているのです。

信じられません! 人類は超馬鹿だ!としか思えません。

そのくせ、人類は「自分たちは他の動物よりははるかに進化した上等の生き物だ」というような驕り高ぶった気持ちを持っています。

だから、他の植物や動物の棲息環境を破壊しても何とも思わないのです。

しかも、それが、人類自らの首を絞めていることにも気づいていません。

人類の抱えている問題点の根本原因は、他の動物に比べ大脳が発達したために、それを過信して、大自然の法則を無視してもやっていけると思っているところにあります。

このままでは人類たちはそう遠くない未来に滅びてしまうでしょう。

なぜなら、それが大自然の法則だからです。

大自然の法則は、大自然に害をなすものを自動的に排除するように働くのですから・・・。

しかしながら、万一人類が助かる可能性が少しでもあるとすれば、それは人類が破滅に至る前に、どれだけ多くの人々が人類の危機を切実に感じると同時に、大自然の法則、すなわち、不可分一体の存在の真実に目覚め、人類の危機を回避するために本気で行動するかの一点にかかっていると言えるでしょう。(終わり)





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