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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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バトンタッチ

バトンタッチ

毎年お盆を迎えるたびに、いつも、両親や兄弟をはじめご先祖様、そして、これまでお世話になった方々など、すでに亡くなった方々からバトンタッチされているという感覚が何回となく浮かんできます。そして、そのたびに「僕は頑張る」という思いが心から湧いてきます。

何をバトンタッチされたというのか?と思われるかもしれませんね。それを言うと誇大妄想狂だと思われるかもしれないので、これまで自分から人にそれを言うのは控えてきました。

でも、今年はなぜか分かってもらえそうな人には言ってもよいのではないかと思ったので、このブログに書くことにしました。読まれた人のなかには「独りよがりの思い付きを書いて、まったくいい気なものだ」と思う人もいるでしょうが、僕の正直な気持ちなので、そう思われても気にしないことにします。

さて、亡くなった方々から何をバトンタッチされていると感じるのかと言えば、「動植物を含め全人類が本当に幸福で平和になるように全力を尽くしてほしい」という願いです。

もちろん、亡くなった方々の多くは生存中にそんな意識を持ったことはないでしょう。でも、そうであったとしても、それはアタマのハタラキに支配された表面の意識がそうであったというだけで、その方々の内なる本心(真心)は間違いなく、動植物を含め全人類が本当に幸福で平和になることを切望していたに、いや、今でも切望していらっしゃるに違いない。その切なる願いを僕だけでなく、すべての人はバトンタッチされて託されているのだと僕は確信しています。

実は、この感覚はお盆にかぎらず、常時僕にはあるのです。ですから、誤解されるかもしれませんが、亡くなった身内や親しい方々の墓参りとか命日などには僕はあまり関心がありません。そんなことばかりやっても、その本人の生き方がいい加減であれば、それは単なる気休めや形式的で後ろ向きなものでしかなく、本当の供養にもならないでしょう。また、どんなに心がこもっていてもペイ・バックでは不充分なのです。

もっとも大切なことは、後に残った私たちが、本当の生き方をする、つまり、すべての存在が本当に幸せで平和に生きることができる世の中を創るために全力で生きていくことです。それが亡くなった方々の本当の願いであり、それをバトンタッチされ託された私たちがその願いに沿って生きることこそが本当の供養なのです。

そして、このように感じながら生きてきて思うことは、“亡くなった“方々は本当は亡くなってはいないという感覚がすることです。

それは、すべての存在は不生不滅の“いのち“の顕われであるという意味でもありますが、実感としては、それらの“亡くなった“方々が今でもしっかりとこの自分のなかに生きていらっしゃるという感じがいつもしているからです。

もちろん、それらの“亡くなった“方々はこの自分のなかだけに生きていらっしゃるということではないでしょう。でも、自分の中にその実在を感じられるのは何とも幸せな気持ちになります。

このように、ペイ・フォワード・ピースは必ずしも、現在生きている姿が見える人たちだけの間で行われるものではないと僕はいつも感じています。




不生で生きる

不生で生きる

盤珪禅師は「親が産み付けたものは、不生の仏心だけである。その不生で一切が整う。だから、とにかく不生でいなさい」と言っています。

「不生」とは “いのち“と同じ意味であり、この世界を顕現し、この世界のすべてを調和し整えるように働いている根源的な力のことです。

では、実際に、不生で生きるということはどういうことでしょうか? タバコ図に似た“世界図”を使って分かりやすく説明してみましょう。

世界図の右側の世界は二元相対的にしか思考することのできないアタマによって認識したバラバラ観に基づいて構築された対立・競争の(タバコ図で言えば、タバコは必要だ。本音でタバコを吸いたいという)世界です。この右側の世界では大まかに3つの道に分かれています。

右側の右は“自分(たち)さえよければ”という思いで生きる道(タバコ図で言えば、“タバコを吸いたいから吸う”という喫煙の道)です。そして、右側の左は“自分(たち)さえよければ”という思いを精神力で抑えながら生きる、言わば、道徳的に生きる道(タバコ図で言えば、“タバコを吸いたいのだがガマンしよう”という禁煙の道)です。そして、その中間で生きる道(タバコ図で言えば、節煙の道)があります。

これに対して、世界図の左側の世界は本来の一元絶対の不可分一体の真実に基づいた非対立・調和の(タバコ図で言えば、“タバコは必要ない。本音でタバコは吸いたくない。だから吸わない”という)世界です。これが“いのち“(不生)が顕現し展開するあるがままの世界です。

「不生(の仏心)で生きる」ということは、世界図の左側の不可分一体、非対立・調和の世界で生きるということです。より具体的に言えば、どんな状況にあっても、本来のありのまま心のままに、不可分一体、非対立・調和の心で生きるということです。

「難しそうだな」と思う人もいるでしょうが、真実は不生の仏心こそが私たちの本来の心なのですから、誰にでもできるもっとも簡単で楽な生き方なのです。

つい身びいきで右側の対立感情(迷い)が出てきても、これではダメだと思ったり、何とかしようなどと相手にしなければよいのです。対立感情が出ても放っておけば、そのうちに消えてしまいます。決して、意志の力で抑えつけようとしたり、コントロールしようとは思わないことです。それでは、いつの間にか世界図の右側の左、つまり、ガマンの禁煙と同じく心と心が格闘することになってしまいます。その結果、自分の本体である不生の仏心を見失ってしまいます。だから、そんな思いは放っておいて、ただ不生の仏心でいればよいのです。

不生の仏心が真実の自己なのです。それは全宇宙とぶっ続きです。だから、自分が不生の仏心でいることで一切が整うようになっているのです。

不生の仏心が発動したものが生きとし生けるものに対する親愛の情・真心です。ですから、真心丸出しで生きていくことこそが自分自身にも周りの人にも全世界の生きとし生けるものにも真の幸福をもたらすのです。

ノンスモーカーは、タバコに関するかぎり、努力することもなく不生で生きています。このように、不生で生きるには、ただ不生でいればよいのです。




あるがまま

あるがまま

この世界のすべてのものはバラバラに分離して存在しているのではなく、一つの大いなる“いのち“が顕現したものである。それは、たとえば、人体のいろいろな細胞や組織や器官が一見異なったもののように見えながら、実は、互いに密接に繋がり、互いを支え合いながら、全体として一つの人体を構成し生きているのと同じであり、すべての存在はどこまでも一つのものなのである。

僕が主宰する「自覚のセミナー」を受講した方々は、この存在の真実を体得、あるいは、かなり深いレベルにおいて知的に理解し納得されていることと思います。

禅に関する本などを読むと、真実の自己は「あるがまま」という言葉に出会うことがあります。

趙州禅師は「真実の自己とは?」と問われて、「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」と答えました。これは、一つの表現としては、「真実の自己とはあるがままの自分、あるがままの世界、あるがままの事実」と言っていると言えるでしょう。

けれども、気をつけなければいけないのは、「あるがまま」と言っても、この自分や世界のナンでもカンでも「あるがまま」で「すべてよし」ということではありません。

なるほど、たしかに、大宇宙や大自然の姿をつぶさに観察してみると、すべてが“あるがまま”で互いの存在や現象が調和して整っています。もちろん、地震や台風その他の「自然災害」はそこに生きる人間やその他の生物にとっては大変困った現象であり、「調和して整っている」とは思えないかもしれませんが、地球の誕生から現在の地球環境を大きな目で観れば、地殻変動、火山の噴火その他の自然災害もさらなる調和に向かっての大宇宙、大自然の営みであることがわかります。

それでは、たとえば、戦争、各国間の対立、経済競争、あるいは、「自分さえ、自分の家族さえ、自分の会社さえ、自分の国さえよければ」という利己主義、個人個人の対立や争い、劣等感、優越感、孤独感、怒り、憎しみ、妬みその他の悪感情や苦しみなどはどうでしょうか? 

それも「あるがまま」で「すべてよし」ということでしょうか?

「それも人間、あるいは、人間社会の自然なのだから、すべてよしなのだ」という人もいるようですが、そういう人はそれらの惨めさを生で体験していないので、アタマで分かった風なことを言っているのだと思います。

そういう発言を含めて、個人あるいは人間社会の苦しみや混乱は人間がアタマで作り出したバラバラ観をはじめとするいろいろな観念によって作り出されたものです。それは大宇宙、大自然に働いている“いのちの摂理、あるいは、真理からまったく逸れているのです。

そういう意味で、人間個人、あるいは人間社会の苦しみと混乱はどこまで行っても、さらなる苦しみと混乱を引き起こします。ですから、間違っても,「あるがままで、すべてよし」などと考えるべきではありません。

「あるがまま」というのは大いなる“いのち“の摂理、あるいは、真理に沿って生きることです。それは大宇宙、大自然にはすでに顕現されています。

私たち人間は、アタマを頼りにしてバラバラ観で生きるのではなく、大宇宙、大自然に学んで不可分一体の真の「あるがまま」の生き方をしていかなければならないのです。





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当たり前に生きる

当たり前に生きる

僕は子供のころ、アフリカの奥地で原住民の医療に尽力したシュバイツァー博士の伝記を読んでこころから感動しました。

いまでも、人のために尽くした人たちのことを本や新聞などで知るたびに、世の中には本当に立派な人がいるものだとこころを打たれます。

理屈ではないことははっきりしています。こころの奥の方で何かがそのような話に自動的に、あるいは、自然に共鳴しているのだと思います。

多分、私たちは、本来、すべての存在とぶっ続きのこの不可分一体の世界において、その真実を理屈抜きに直感的に感得する本能的機能を生まれながらに備えているのだと思います。

それを僕は「集団的本能」と呼んでいます。

このように、僕はそんな話を聞くたびに「立派だなあ」と感動するのですが、よくよく考えてみると、本当はごく当たり前のことなのです。

おそらく、そのような“立派な”ことをされた方々も、自分自身では「自分は立派なことをやっている」などとは思ってはいらっしゃらないのではないでしょうか?

「立派ですね」などと人に言われたら、「当然のことをしただけです」とお答えになる方が大多数ではないでしょうか。

人はそれを聞いて「ますます立派な人だなあ!」と感じてしまいます。面白いものですね。

実は、あなた自身も同じではないでしょうか?

たとえば、家族のなかにある困った問題が起こったとします。

多くの方は自分も家族のメンバーの一人として、自分のことだけでなく、家族のことを自分のこととして受け取り、自分のできることがあれば、精一杯解決に向けて努力するのではないでしょうか。

そのようなことやっても、多くの人は自分では決して”立派なこと“をやっているなどと思ってやってはいないでしょう。

なぜなら、「家族だから当然のこと」だからです。

では、なぜ、家族では当然のことなのでしょうか?

それは、家族は不可分一体だからです。

そのなかでは、他の家族のメンバーや全体の問題は自分自身の問題だからです。

ですから、家族だけでなく、本能的に人のことを自分と同じ仲間のように感じている人は、困っている人のために一生懸命に尽くすことは「当然のこと」なのです。

ただ、本来は当たり前のことであっても、バラバラ観に立脚したこの社会においては、そのような行為は“立派なこと”、“崇高なこと”と私たちは感じてしまうのです。

このように、本来、この世界は不可分一体、つまり、みんな一つの家族なのですから、他人などいるはずもなく、人のことのために尽くすのは、ごくごく当たり前のことなのです。

ネホサでは「自分の国の福祉と同じように世界の福祉に国力を尽くして貢献するという理想を日本に掲げよう」と提案しています。

でも、それはバラバラ観の社会では「理想」と見えるかもしれませんが、本当は「当たり前のこと」なのです。

そうではあっても、日本がそのような国になって行くと考えただけでも、何かとても誇らしい気持ちになるのも事実です。

本当の当たり前の世界は決して無味乾燥なものではなく、とても情緒豊かな世界なのです。





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よい友達をつくるには

よい友達をつくるには

「よい友達をつくるには」などと言うと、何だか安っぽいノウハウ本のタイトルように聞こえますが、よい友達を持っていることは人生の幸せの大きな要素です。

よい友達をより多く持てば持つほど幸せに生きることができると言っても決して過言ではありません。

そういう意味で、ここで「よい友達をつくるにはどうすればよいのか」ということについて考えてみることはとても大切だと言えましょう。

でも、これまでこのテーマを本気で考えてみた人は意外と少ないようです。

それは心のどこかで、そういう友達ができるかどうかは、ただの成り行き次第だと思っていたからではないでしょうか?

でも、それは違います。よい友達ができるかどうかは自分次第なのです。

では、あらためて、本当によい友達をつくるにはどうしたらよいのでしょうか?

それは、実際は、「何で今まで気がつかなかったのだろう」と驚くほど簡単なです。

そのためには、「自分はどんな性格の友達が“本当に”欲しいか?」ということを心のなかで具体的にしっかりと確かめて(それを整理して、紙に箇条書きにして、すぐに見れるようにするとよいでしょう)、そのような人に“自分自身がなればよい”のです。

「いや、そんな人になるなんて、難しくてできないよ!」と考えないでください。

やってみれば簡単にできます。

誤解を招かないように言っておきますが、そのような人の“ふり”をするのではありません。

こころのなかでよく確かめてみればわかりますが、先に確かめたそのような性格は、実は、自分自身がこころの中でずっと望んでいたことなのです。

これは、そうありたいのだけど・・・、という意味ではありません。それが「自分自身の本当の望みだ」という意味です。

そのことが納得できたら、「自分自身が心の底から望むからそうやるのだ」という気持ちになれて、実際に、そのような性格がどんどん中から出てくるようになるのです。

あなたが心の底から望むような人になれば、自然によい人があなたの周りに集まってくるようになるでしょう。真理(宇宙の法則)はそのように働いているからです。

聖書にも、次のように書かれています。

「それで何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」新改訳聖書 マタイの福音書 7章12節

僕の恩師和田重正先生の「日本を自ら率先して、世界の環境問題の解決と貧困や飢餓や病気、戦争の惨禍に苦しんでいる人々の福祉に国力を挙げて貢献する国にしていこう」という提案(略称:ネホサ:Neo Homo Sapiens : 新人類)もまったく同じ真理に沿ったものなのです。

よい友達をつくるには、自分から仲良くしていく。

自分が理想の友達になる。

「自分はどういう友達がほしいか?」と考え、自ら率先してそのような人になる。

また、私たちが整体ライフスクールでやっている愉気や相互活元運動の根本も同じ真理に沿ったものです。

さらに、人だけでなく、真理は普遍的なものですから、国の在り方も同じです。






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