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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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心が真実の自己

心が真実の自己

馬祖道一禅師はよく「即心是仏(そくしんぜぶつ)」、すなわち、心が真実の自己であると言いました。以下は「即心是仏」に関する非常に分かりやすい逸話の一つです。


汾州和尚は洪州の馬大師が禅門の第一人者であると聞いて、わざわざ出かけて礼拝した。(中略)
汾州は礼拝して尋ねた、「真理に至る三つの道の教えは、ほぼ究め尽くしました。かねて、禅門は『即心是仏』だと聞いていますが、まだ全く了解できません。お願いします。お教えください」。

馬大師は言った、「お前の了解できぬその心こそがそうだ。その外には特にない。了解できないときは迷いで、了解できたときは悟りである。迷えば衆生(あれこれ迷っている普通の人)であり、悟れば仏(悟りを得た真実の人)である。衆生を離れて別に仏があるのではない。手が拳(こぶし)となり、拳が手となったりするようなものだ」。

と聞いたとたんに汾州はカラリと大悟し、涙を流して咽(むせ)び泣きながら馬大師に申しあげた、「今まで私は仏道は深遠で、長い年月精進に精進を重ねて、始めて成就するものとばかり思っていましたが、法身(絶対的真実)のありのままがもともと具わっていること、一切のものは心から仮に生じ、ただ名前だけがあって実体はない、ということが、今日やっと分かりました」。

馬大師は言われた、「そうなのだ、そのとおりだ。一切の心の本性は不生不滅であり、一切のものはもともと空寂である」。(以下略)
(参考:『馬祖の語録』 入矢義高編 禅文化研究所出版)


この世界のすべてのものは不生不滅の“いのち“、すなわち、心が顕現したものです。つまり、心はあらゆるものにあるがままでもともと具わっています。逆に言えば、一切のものは仮に生じているのであり、名前はあっても実体はなく、そのままでもともと空であり、静寂そのものです。

アタマのはたらきも心、つまり、存在の真実の現れです。ただ、それはアタマで考えることは何でもよい、つまり、存在の真実に合致するということではありません。

つまり、アタマで考えた“内容”は存在の真実に合致するときも、しないこともあるということであり、合致した時が悟りで、合致しない時が迷いです。

ですから、勝手な妄想やデタラメな思い、あるいは、それらに引きずられた行為がよいわけはありません。

ただ、存在の真実に関して言えば、それ以前に、アタマを含めて、すべてがありのままですでに具わっていることを了解したならば、それが悟りなのです。

多くの人はせっかく具わっているアタマで妄想し、勝手な夢を見ているために、つまり、アタマモードになっているために、存在の真実そのものに気づいていません。

それはスモーカーのアタマがスモーカーモードになって、タバコは本来必要ないものというタバコの真実に気づいていないのとまったく同じです。

では、どうしたらよいのでしょうか?

アタマでは存在の真実そのものは摑えることはできません。存在の真実はそれ以前にすでに“いまここ”にすべてそっくりありのままに現れています。

それを求めようとする心こそが存在の真実であることに気付くことです。





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生で生きる

生で生きる

百丈が馬祖大師のお供をして山を散歩していると、突然野鴨が飛び立って行くのが見えた。
馬祖、「何だろう」。
百丈、「野鴨です」。
馬祖、「どこに去ったか」。
百丈、「飛び去ってしまいました」。(昇平コメント:鈍い!鈍い!)

馬祖は百丈の鼻をねじりあげた。 (昇平注:ここにいるじゃないか!)
百丈は痛さに思わず声を立てた、「あ痛、あ痛」。
馬祖、「また飛び去ってしまったと言う」。
百丈はここでドカン!と悟って、背中いっぱい汗が流れた。

寮に戻ると、わあわあと大声をあげて泣いた。
同僚が尋ねた、(中略)「なぜ泣いているんだ」。
百丈、「大師に鼻をねじりあげられ、痛くてたまらないんだ」。
同僚、「どんなわけがあって、大師に叱られたのだ」。
百丈、「自分で和尚に尋ねてくれ」。
同僚は馬大師に尋ねた、「百丈はどんなわけで和尚に叱られ、寮で泣いているのですか。どうか和尚、私におっしゃって下さい」。
馬祖、「彼はわかっておる。君が自分で彼に尋ねなさい」。
同僚は寮に帰って言った、「大師は君はわかっていると言って、君に尋ねてみよとのことだ」。すると百丈はハッハッハッと大笑いした。
同僚、「さっきは泣いていたのに、今はどうして笑うのだ」。
百丈、「さっきは泣き、今は笑う」。
同僚はぽかんとしていた。

翌日馬大師は、法堂に上がって説法の座についた。大衆が集まってくるや否や、百丈は飛び出して、礼拝の敷物をたたんでしまった。
馬祖はすぐに座を下り、方丈に帰った。
そして百丈に尋ねた、「さっきわしが堂に上がってまだ何も説かないのに、お前はどうして敷物をたたんでしまったのだ」。
百丈、「昨日私は和尚に鼻をねじりあげられ、痛かったです」。
馬祖、「昨日君はどこに心を置いたのだ」。
百丈、「今日は鼻はもう痛くありません」。
馬祖、「お前は今日のことをよくわかっている」。
百丈は礼拝して引き下がった。

(参考:『馬祖の語録』入矢義高編 筑摩書房 P168・P169)

この逸話はまさに、存在の真実を自覚するには、「生きた体験」すなわち「生の体験」が何よりも大切だということを伝えてくれます。

アタマの理解だけでは、悟りの日干しのようなものです。

この逸話の第一段の全般はそれまで百丈がいかにアタマの世界に生きていたかがよくわかります。

ところが馬祖に鼻をねじりあげられたとたん、その痛さのあまり、「あ痛、あ痛」と生の声がほとばしり、生きた真実の世界にはっきりと目覚めることができたのです。

こうして、百丈は存在の真実から遊離したアタマの世界を離れ、いつも“いまここ”に生きるようになりました。

それ以降の段は、ただただ、同僚の鈍さと馬祖の親切心が克明に描写されていると同時に、存在の真実に目覚めた百丈のきびきびした動きがとても印象的です。

泣きたければ泣き、笑いたければ笑う。これこそ、まさに、即心是仏そのものです。


さて、このブログのタイトル「生の声」の「生」はどのように読むのか? 「セイ」か?それとも「ナマ」か? 

「生(セイ)」は「生きていること」ですから、当然、「生(ナマ)」です。

生(ナマ)で生きるのでなければ死んでいるのも同じです。





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あなたの宝の蔵はどこに

あなたの宝の蔵はどこに

中国の禅は実質的には馬祖道一から始まったと言われます。馬祖は8世紀の中国に生き、趙州禅師の師匠・南泉禅師の師匠に当たります。

馬祖は数多くの弟子を持ち指導をする中で「平常心是道」や「即心即仏」など有名な言葉だけでなく、たくさんの逸話を残しています。以下はその一つです。


大珠慧海が初めて馬祖に面接した。
馬祖が尋ねた、「どこから来たのか」。
大珠、「越州の大雲寺から来ました」。
馬祖、「いったい何が目当てでここに来たのか」。
大珠、「仏法(真実の自己)を求めに来ました」。
馬祖、「自分の宝蔵には見向きもせず、家をほったらかして走りまわって、どうしようというのか。わしの所には何も無い。仏法なんぞ見付かりはせぬ」。
大珠は礼拝して尋ねた、「何が私の宝蔵なのですか」。
馬祖、「いま私に問うている君こそが君の宝蔵だ。一切が具わっており、何の欠けたものはなく、使おうとすれば思いのままだ。どうして外に求める必要があろう」。
聞いたとたん大珠ははたと自己の本心を識り、躍り上がって喜び感謝した。
師事すること六年であった。後に受業の寺に帰り、自ら『頓悟入道要門論』一巻を撰した。馬祖はこれを読んで大衆に言った、「越州にみごとな輝きを具えた大真珠がある。その光は自在に透過して、隔てるものもない」。
(参考:『馬祖の語録』入矢義高編 禅文化研究所出版)


とくに難しい文章ではないので、大体の文意は分かると思います。問題はその内容が実感として分かるか? 自分自身について、心からそう思えるか? ということです。

この馬祖の問いは、僕の言葉では、「あなたは一切欠けるところがなく、完結した存在ですか?」となります。

この問いこそが究極の問いなのです。あなたは全身で「ハイ」と答えられますか?

もし、腹の底から「ハイ」という答えが出てこないようであれば、今度の休日にでも、心掛けて一人になる時間を作って、朝から晩まで自分に問いかけてみてください。

すべてはこの問いに集約されています。これがはっきりしなければ何をやってもどうにもならないのです。

この問いに、心から全身で「ハイ」と言えることは自分の宝蔵を見つけたということです。その時、自分の心がどこまでも澄み切っていて、どこまでも開き、真心が溢れるように出てくるのを自ら感じることでしょう。

そして、この世界が「なるほど不可分一体なんだ」ということを全身で感じることができるでしょう。それは決して消えることはありません。

僕自身はとくに修行したわけでもないのですが、不思議なめぐり合わせで、自分が存在の真実について体験的に理解した内容については絶対的な確信があります。他からの何ものも保障や認定も必要ないと思っています。

このところ僕が過去の著名な禅師の言葉を取り上げてきたのは、言われていることが僕の体験的理解と符合するところが多いのが我ながらとても面白いからです。

その面白さをみなさんにも体験的に理解していただければというのが僕の気持ちなのです。




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