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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ただやる それだけだ

ただやる それだけだ

今回は特別に長文の原稿を掲載します。この文章は12月の整体セミナーの最終日にあった出来事に対して僕の感想を述べたものです。

そのセミナーの2日目と3日目に参加した方々にはすでにこの文章をメールに添付して送っています。参加しなかった方々には状況がよくの呑み込めないところもあると思いますが、とても重要なテーマだと思うので、年の締めくくりの意味とともに、新しい年の新しい出発に向けての研鑽資料としてお読みいただければと思います。


ただやる それだけだ。「ただ」は「無心で」ということです。この場合の無心の「心」とは「アタマ・思い」ということです。「ただやる」とは、言い換えれば、「不生でやる」ということです。ただやる、それだけなのです。

僕は大学生の時まではケチな根性のかたまりでした。学校で何かの役を選ぶという時などにはいつもイヤなことはやりたくないと逃げてばかりいました。ある役に選ばれても、いつもイヤだなあと思いながらやっていました。家の仕事の手伝いも同じでした。いつもゴネてばかりいて、やらないで済ましていました。結局は、母や姉や兄が代わりにやっていました。まったくダメな自分でした。それでも、親も兄弟たちもそんな僕のことを仕方のない子と思いながらも、愛情深く可愛がってくれたのです。でも、それに僕は甘えてばかりいたのです。今思い出しても自分が情けなく、家族のみんなに本当に申し訳なく思います。そして同時に、そういう家族みんなの愛のおかげで、なんとか今の自分があるのだなあといつも思っています。

大学を卒業して、22歳でしたが、和田重正先生の本を読んだり、先生が主宰される集いや合宿に参加するようになりました。何がきっかけだったかは忘れてしまいましたが、僕は突然「こんな自分ではいけない」とこころから思いました。そして、一気に生き方を180度転換したのです。そのように決心した瞬間、それまでの重苦しい気持ちが消え、とても軽やかで爽やかな気持ちになりました。それからは、いろいろな役を積極的にやるようになりました。

例えば、大きな公開場で500人ぐらいの聴衆の前で講演をしたり、友人たちの結婚式の司会進行を自ら手を挙げてやらせてもらったり、和田先生のところに集まってくる若い人たちの集いでも司会を率先してやったりしました。また、「まみず」という人生雑誌にも何度も投稿して、それが掲載されました。でも、それらは決して「自分にはデキる」という自信があったわけではありません。実際、それらの講演や司会が上手にできたとも思いませんでした。でも、そんな気持ちが僕の積極性を妨げることはありませんでした。自分を成長させるためにやるという気持ちもまったくありませんでした。ただやったのです! それ以外の何ものでもありませんでした。

そうは言っても、僕の内面は依然としてあい変わらず、とても内気の恥ずかし屋だったのです。でも、当時僕に出会った人たちは僕のことを「とても爽やかで明るく積極的な青年だ」と思っていたようです。そのくらい僕の生き様が変わったのです。そして、そうして、いろんなことに積極的に関わっているうちに、体験を通して少しずつうまくできるようになってきました。それが今日まで続き、僕なりには成長してこられたのだと思います。

ただ、内面的には、真実の自己、真実の生き方という点では、どのように工夫しても解決がつかず、悩んでいました。このように言っても、二重人格的に生きていたということではありません。内面的な悩みが僕の外面的な生き様に影響を与えることはまったくなかったと思います。今考えると、むしろ、内面的に悩みがあっても、外面的に明るく積極的に生きる生き様は正しかったと思うと同時に、そういう生き様をしていたからこそ、内面的に決定的に行き詰ってしまった時に、人生最大の思いがけない気づきがあったのだと思います。そして、その気づきと相まって、それまでの生き様がさらに発揮されるようになったのだと思います。


さて、今回の整体のセミナーの最終日の午後のセッションには僕は参加できなかったのですが、後でそこで起こったことについて奈央先生とエリカさんから聞きました。以下、僕の感想を述べてみたいと思います。その中にとても重要なことがあるので、セミナーのまとめとして、また、ぜひ今後よい人生を歩んでいく糧・ポイントとしてほしいと思います。

状況は僕には正確には分かりませんが、大まかには、普段セミナーに参加していない奈央先生の甥の秋秀が会場に入って来た時に、奈央先生が「秋秀にクンバハカを指導して伝えられますか? 誰がやりますか?」というような問いかけをしたところ、その問いかけに対して、誰も手を挙げなかった、あるいは、答えなかった、それで奈央先生がみなさんをとても強く叱ったというようなことであると聞いています。

もしかしたら、その時、奈央先生は怒っていたのかもしれません。でも、たとえ、そうだとしても、それを責めるつもりは僕にはありません。問題としなければならないことは、奈央先生が何に対して怒ったかということです。自然農法の創始者である福岡正信先生はしょっちゅう「みんな一番大切なことがちっともわかっていない」と怒っていたそうです。

実は、この午後の出来事を聞いて、僕自身は怒ることはまったくありませんでしたが、正直「やれやれ」と思いました。何が「やれやれ」なのかというと、「まだ本当のことが分からないのか」という思いです。

このところ、ブログに何回も書き、また、今回のセミナーでも「自覚のセミナーの締め」ということで、和田先生や盤珪禅師の存在の真実の開悟の体験談を読んだりしながら、不生、あるいは、不生の仏心ということをこころを込めて説明してきたにも関わらず、皆さんがまだアタマの人であるということを認めざるをえなかったからです。

もし仮に、その場に大学生以前の僕が参加していたとすれば、やはり、皆さんと同じように手を挙げなかったと思います。それは、それまで僕の中に濃厚にあったケチな根性のためです。でも、180度生き様が転換した22歳以降の僕であれば、躊躇なく、すっと手を挙げていたと思います。

セミナーの最終日の午後には、皆さんの気持ちは僕のようなケチな根性はなかったのだと思います。でも、皆さんの気持ちを推測すると、おそらく、次のような思いのどれかがあったのだと思います。

うまくやれる自信がない。

自分なんかでいいのかなあ?

自分より上手に教えることができる人がやるほうがよいのでは?

自分がやってもよいのだが、若い人たちに指導の機会を与えよう。

その他にもいろいろ思ったことがあるかもしれませんね。それらのどれかの思いが手を挙げるのをためらわせたのだと僕は推測しています。

でも、それではまるっきりダメなのです。

それはいつもアタマで生きているということです。アタマの人であるということであり、不生の人ではありません。

皆さんに僕のようなケチな根性があったとはまったく思いません。善意でそのように思ったということなのでしょう。でも、不生の人であれば、誰でも、何か思う前に、すっと手を挙げるのです。

自信がない、できるかな、もっと上手にできる人がやるのがよい、若い人たちに機会を与えたい、などなど、それは不生の仏心ではなくアタマの思いなのです。だから、そこで不生の気の流れがストップしてしまい、全体の気が何とも言えず沈んでしまうのです。沈んだ気は邪気です。

不生(の仏心)で生きるということは無心、無邪気、素直に生きるということです。できる、できない、うまくできるかなどという考えなどまったく関係ないのです。愉気で言えば、思わず手が必要なところに行って気が流れるのです。これが不生の仏心のハタラキの好例ですが、生きることのすべてが不生の仏心で自ずから整うのです。この世界は本来大安心の世界なのであり、アタマでいろいろ考えて生きるのでなく、不生の仏心でスイスイと生きていけばすべてがうまく行くのです。

和田先生は「ここが極楽というのではなく、極楽はここだ」と言っています。その意味は「極楽はどこかにあるというものではなく、極楽とはこの世界のことだ」ということでしょう。

つまり、世の中にはいろいろなことが起きているが、何が起きようと、それぐるみこの世界はそっくり極楽なのである、ということです。それは、この世界では何も心配することはないのであり、たとえ何かが起きて心配したとしても、その心配ぐるみ大安心の世界だということです。

不生でいれば、「誰がやりますか?」と問われた時には、できるかどうかなどと考える隙もなく、“思わず”手を挙げ、同時に、即「私がやります」という言葉が出てくるのです。後は、できるかどうか、自信がないなど考えもせずに、ただただ、相手のことを思い、実際にやりながら、できるように、できるようにやるだけです。気持ちとしてはそれだけです。余計な思いは微塵(みじん)も出てこないのです。

やってみて、思うようにできないこともあるでしょう。でも、そういうことばかりアタマで考えてから、やる・やらないの判断や決断をしているようでは、どこまでもアタマの人として,かすんだ妄想の世界の中で生きていくことになります。

ついでに言えば、みなさんが手を挙げて「やります」と言っても、実際に誰がやるかは、この場合には奈央先生が指名するのでしょう。あるいは、「では、誰がやるかみなさんで決めてください」と言われれば、ジャンケンするなり、話し合って決めればよいのです。ただし、「とても自分なんか」と最初から逃げ腰ではダメです。いつでも「自分がやる」という気持ちで、ジャンケンするなり、話し合うのです。アタマで考えるのは、必要であれば、それからでいいのです。

僕がこれまで赤城での整体のセミナーに参加して、毎回感じてきたことは、「ほとんどの皆さんが輝いていない。気が出ていない」ということでした。それはアタマの人だからです。アタマのいろいろな思いに振り回されて本来の自分を見失ってきたからなのです。だから、愉気をしている姿を見ていても、ほとんどの人から明るい爽やかな気が出ていないのです。そういうことで、これまで僕はセミナーに何回も参加していても、皆さんから愉気をしてほしいという気持ちが一度も出てこなかったのです。おそらく、奈央先生も同じだと思います。

だから、どんな時でも、不生の仏心一つで生きていればよいのです。何でもできる! 何でもやる! 何が起ころうとも「よしきた!」と受け止める。ひたすら、冷静に、そして、積極的に生きる。それで死ぬまで生き切るのです。

そのように不生の仏心で生きようと決定すれば、すべてが明るく爽やかな方向に転換します。それは今までの生き方から見れば、難しいことのように思えたかもしれませんが、真実はまったく難しいことではありません。「ただ、それしかない。それだけだ」ということを明らかにして、そう生きようと決めればよいだけなのです。

みなさんはこれまでセミナーやブログでいろいろと存在の真実について理解されていると思います。それで、雰囲気もずいぶんよくなり、精神的にも成長されてきたことを僕はとても喜んでいます。

でも、最後の一線というか、一番大切な一線を越えなければ、本当に生きていることは素晴らしいという人生にはなりません。その一線とはどこにあるのか? 実は、どこにもないのです。それが分かった時に、あなたは不安な世界から何があっても大安心という光り輝く世界に飛び出ている自分を見出すでしょう。そして、自分自身がどこまでも光り輝く存在だということを見出すでしょう。

繰り返しになりますが、それはどこかにあるのではありません。この世界、この自分こそが、すでにそうなのです。それをこれまでアタマを通して見ていたために、見失っていただけなのです。

だから、「ただ、そうだったのか」と認めればよいのです。その瞬間に、実際に、本当の世界、本当の自分はいまここにあるということに気づくでしょう。盤珪禅師も和田先生も同じことを言っています。だから、迷いに迷ったあげくに、この真実に気がついた人は、その途端、思わず大笑いしてしまうのです。「何だ! もともとそうだったのだ。これほど簡単なことにどうして気がつかなかったのだろう。何て見当違いの所に求めようとしてきたのか」というわけです。

ここまで読んできて、もうすでに皆さんは真実に気がつかれていると思います。ただその真実に決定して生きればよいのです。何も失うものはありません。得るものばかりです。ですから、何も恐れることはありません。

ただ、明るく楽しい気持ちでそう生きようと決めればよいのです。そうすれば何があっても、どんなことを言われても「よしきた。やるぞ」という不生の仏心で生きていくことが出来ます。それが腹の人です。簡単なことです。あなたが「そうしよう」と思いさえすればよいのですから、誰にでもすぐにできます。

ついでに言えば、不生の仏心とは感情的でなく、ただ冷静な心という静的なものではありません。不生の仏心とは、感情的でなく冷静ではあっても、それだけでなく、動的・ダイナミックな無限のエネルギーであり、愛そのものであり、すべてを整える麗明なハタラキなのです。だから、自分の小さなアタマであれこれ考えを巡らすのではなく、不生の仏心、本来の気の流れに素直に沿って生きればよいのです。愉気も大安心の中、不生の仏心でやってこそ、“よい”愉気となります。

奈央先生がみなさんを強く叱ったのは「これまでこれほど話をしてきたのに、まだ、そんなところで生きているのか。情けない!」というこころの叫びなのです。強く叱られれば、普通の人はイヤになるのでしょうが、奈央先生のこころの奥が読み取れる僕には、表現の仕方はともかく、奈央先生の気持ちはよく分かるのです。僕もまったく同感です。

みなさんが不生の仏心でいて、お互いに本当に透明でツーカーの爽やかで明るく爽やかな生き方に転じればそのように叱るはずもありません。

存在の真実に気づき、生き方が転換すれば、ひとりひとりが輝いた存在・真人類になり、その人がいるだけで周りが輝いてきます。そうすれば、気を出そうなどと思わなくても、よい気が互いに巡り合うようになるのです。

どうか、不生の仏心でさっと動ける人になってください。そうしていけば、まず自ずと放つ気が変わり、周りも変わります。すべてが自然によい方向に変わっていき、それがますます大きな流れになっていきます。それがネホサでもあります。


うまくやれる自信がない。: では、いつになったら自信が出るというのですか?

自分なんかでいいのかなあ?: この世界ではいつもあなたが主人公として生きていくのです。

自分より上手に教えることができる人がやるほうがよいのでは?: それではいつまでたってもできるようにはなりません。ずっと死ぬまで負け組として、亀の子として生きていくことになります。そんな人生でよいのですか?

自分がやってもよいのだが、若い人たちに指導の機会を与えよう。: いかにももっともらしく聞こえますが、それがダメなのです。そんな余計なことを考える前に、自分が率先して範を示せばよいのです。その気が周りに伝わり他の人を触発して真の生き方に目覚めさせるのです。それしかないのです。


最後に、勝手な、また、失礼な言い方ですが、次回のセミナーでは、僕が「あの人にぜひ愉気をしてもらいたい」と思うような人にみなさんなっていてほしいと思います。それが新年に懸ける僕の夢です。

もっとも、「アンタなんかに愉気はしたくない」ということであれば仕方がないのですが・・・。
僕はそんなことを思いながら、セミナーで話したり、ブログを書いているのです。

いまここで、みなさんが真の自己、真の人生に目覚めて、来年初めのセミナーには、明るく爽やかで積極的な不生の人として参加されることをこころから楽しみにしています。





けつじょうと真の自由

けつじょうと真の自由

前に『決定』というタイトルのブログに書きましたように、「決定(けってい)する」というのは広辞苑によれば「はっきり決めること」となっています。つまり、「“自分が“はっきり決める」ということです。

けれども、盤珪禅師が「親の産み付けたものは不生の仏心一つである」と“決定(けつじょう)して”と言われた“けつじょうして”ということの正確な意味は、“自分が”そのように決めて、というよりも、それ以前に「真実はもともとそのようになっている」ということであり、その真実を見定めて、心がそのようにはっきり決まり定まること」という意味なのです。

和田重正先生は禁煙しようとして、いろいろな方法でことごとく失敗したあげく、「タバコをやめるには方法はない。方法を以てしてはタバコはやめられない。タバコをやめるにはただやめればよいのだ」という真実に天啓のようにはっきりと気づき、そして、気がついたときには、タバコをきっぱりと苦もなくやめていたのです。

ここで、またもやタバコを例に説明しますが、スモーカーが健康その他の理由でタバコをやめようとする場合には、ほとんどの場合に、吸いたい気持ちを精神力でガマンして抑えつける“ガマンの禁煙”をしようと“自分が“決めます。でも、その結果は、それでタバコをやめられる人は非常に少ないのです。

これは、そもそも何を決めるかが見当はずれだからです。しかし、今回のブログで書きたいことは、何を決めるかということを問題にしているのではありません。

タバコをやめるためには、タバコには何のメリットもなく、デメリットばかりだというタバコの正体、真実にはっきり気づけば、その瞬間に「もはやタバコは吸いたくない!」と気持ちが転換して、「タバコは吸わない」と心が自動的に決まるのです。つまり、自分が意識的に決める、決断することではないということです。

以上のように、「決める」と「決まる」、つまり、「けってい」と「けつじょう」の違いに気がつくことはとても大事なことなのです。

人間は本来完全に自由です。その完全な自由において、不生の仏心でいることもできれば、それを修羅に変えることもできます。たしかに、どちらでも自由に選択し決めることができることは事実です

しかしながら、その選択の基準でもっとも重要となることは、真実を明らかにすることです。まず、真実を明らかにすること、タバコで言えば、タバコの真実、すなわち、正体にはっきりと気づくことができれば、私たちは、どちらを選択しようかなど考えるよりも早く、すいすいと正しい行動をとるでしょう。それが「決定(けつじょう)」ということの意味であり、真の自由ということです。


補足:今回のブログを読んで、前に書いた『決定』というブログに述べたことと「けつじょう」ということの意味が違うと思われた方がいらっしゃると思います。

けれども、どちらも同じことを述べているのですが、書いている時の視点が前回と今回では少し異なるのです。

前回はアタマ以前にすでにある真実に気づいたにもかかわらず、それを再びアタマで考えてぼかしてしまい、結局は真実に沿った生き方・行動ができなくなってしまう傾向の人がかなりいるということを考慮して書いたのです。

そういう傾向のある人は一度確認したアタマ以前の真実を自分で改めて確認して、自分の意思のレベルにおいて「はっきり決める」ことが大切です。そのことを「けつじょう」という言葉を使って言おうとしたのです。

もちろん、盤珪禅師の言われる「けつじょう」という言葉の真の意味は今回説明したとおりです。





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決定

決定

「決定」は通常「けってい」と読みますが、「けつじょう」という読み方もあります。「決定する」というのは、広辞苑によれば「はっきり決めること」となっています。ただ「決める」というだけでなく「“はっきり”決める」というところにより深い意味があるように思います。

少なくとも、盤珪禅師が「親の産み付けたものは不生の仏心一つである」と“決定(けつじょう)して”と言われているのは、まさに「“はっきり”決めて」という意味であったのではないかと思います。

では、「決める」ということと「“はっきり”決める」ということとはどのような違いがあるのでしょうか?

”決める“ということの意味にはもともと”はっきり“という意味が含まれているので、本来はどちらも同じ意味だと言えますが、あえて”はっきり“と付け加えた場合には、「決めたものが絶対に不動であり、半信半疑ではなく、確信して、ブレない」という明快さにおいて決める」ということが強調されているのだと思います。

和田重正先生は禁煙しようとして、いろいろな方法でことごとく失敗したあげく、「タバコをやめるには方法はない。方法を以てしてはタバコはやめられない。タバコをやめるにはただやめればよいのだ」という天啓にも似た気づきにより、ついにタバコをきっぱりと苦も無くやめることができたそうです。そして、「その気づきにより、タバコだけでなく、あらゆることにおいて真の自由を得ることができた」とも言われています。

ここでまたもやタバコを例に説明しますが、スモーカーが健康その他の理由でタバコをやめようとする場合には、ほとんどの場合に、吸いたい気持ちを精神力でガマンして抑えつける“ガマンの禁煙”をしようと“決め”ます。でも、その結果は、それでタバコをやめられる人は非常に少ないのです。

これは、たしかに「決めて」はいるのですが、事実としては「どこまでも吸いたい気持ちを抑えつけるのだ」と決めているのです。けれども、いくら吸いたい気持ちをガマンして抑えつけようとしても、それは「タバコをやめること」を決めたのではありません。

タバコをやめるためには「タバコをやめること」を決めなければならないのです。それが「“はっきり”決める」ということです。

以上の二つの違いがわかれば、何事においても真の自由を得て、自分の能力の範囲において、何でも思うようにスイスイとできるようになります。

というか、人間はもともと真の自由が具わっているのです。タバコで言えば、スモーカーであろうとノンスモーカーであろうと、今この瞬間にタバコを自由に吸うこともできれば、吸わないでいることもできるのです。それは何事においても同じです。

人間は本来完全に自由なのです。その完全な自由において、不生の仏心でいることもできれば、それを修羅に変えることもできます。どちらでも自由に選択し決めることができるのです。決定(けつじょう)つまり「”はっきり”決める」ということはそういうことなのです。

ですから、まず、自分が何を望むのか、何をしたいのかということを明瞭にすることが重要です。そのうえで決定すればよいのです。





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意志と決断力と実行力

意志と決断力と実行力

今回のテーマは「決断の強さ、あるいは、実行力には意志の強さは必要か?」ということです。

世間一般ではよく「何かを成し遂げるためには、意志を強く持ってしっかりと決断し実行しなければならない」あるいは「意志が弱いとしっかりと決断・実行できないのだ」と言われます。

しかし、僕の結論を先に述べると、「決断の強さ、あるいは、実行力には意志の強さは関係ない」ということです。さらに言えば、「決断の強さ、あるいは、実行力に関係があるのは意志の明確さである」ということです。意志が明確であれば、別に強さや力は必要はないのです。

たとえば、食卓に美味しそうな饅頭が置いてあるとします。あなたはそれを食べたくてしかたがありません。でも、お母さんに「それを食べてはいけないよ」と言われました。そこで意志の力を使って食べるのをガマンしています。でも、食べたくて食べたくてしかたがありません。お母さんがいなくなったらこっそり食べちゃうかもしれません。これではいつまでガマンできるかわかりませんね。

その時に、お母さんが「それは実はネズミ捕り用の饅頭なんだよ」と言ったのです。その言葉を聞いたとたんに、あなたは「その饅頭は絶対に食べないぞ」と思うでしょう。

それは意志の力・強さというよりも、物事の是非を明瞭あるいは明確に理解したためなのです。

「自分はいったん決めたことをなかなかやり通すことができない。それは自分の意志が弱いからだ」と思っている方がとても多いように思います。そして、「何とか意志の力を強く持って」と思うのですが、なかなか思うようには行かずに自信をなくしているというわけです。

でも、心当たりがある方々に、ちょっと見方を変えて見ることを提案したいのです。

それは意志の強さよりも、まず物事の是非を明らかにして、自分の意志を明確にするということです。

そういうことをアタマにおいて、自分の日常生活を振り返ってみると、それなりに大変であるはずのことを、自分が意志の強さなどと関係なく、それほど苦も無くこなしていることが案外いくつもあるはずです。

それらのことが、それなりにきちんとこなされて実行できているのは、意志を強く持っているからというよりも、自分の意志が明確になっているからなのです。それが盤珪禅師の言われる「決定(けつじょう)」しているということです。

かなりのヘビースモーカーであっても、ヨーロッパや北米行きの旅客機で10時間もタバコを吸わなくてもパニックや暴動にならないのは、「10時間タバコは吸わないぞ」という強い意志力のためではなく、「飛行機の中では10時間はタバコを吸えないのだ」という是非を明瞭に理解・納得しているためです。ですから、「吸わない」という意志が”明確“であり、決して「ガマン、ガマン」と思って耐えているわけではありません。

このような事例は大なり小なり自分自身の日常生活のなかで他にもたくさん発見できるのではないでしょうか。あなたは決して決断力や実行力がないのではありません。

何かを成し遂げようとする時には意志の力を頼りにするのではなく、本当に何をしたいのかをまず明確にすることがポイントなのです。





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