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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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身心脱落 2

身心脱落  2

仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心、および佗己の身心をして脱落せしむるなり。

この生死はすなわち仏の御いのちなり。
「中略」

厭うことなく、したうことなき、このときはじめて仏のこころに入る。

ただし、こころをもて計ることなかれ、ことばをもて言うことなかれ、ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたより行われて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこおるべき。

(以上、読みやすいように、一部漢字に変換し、現代仮名遣いに換えました。)

これらはいずれも道元禅師の『正法眼蔵』という書のなかにある言葉です。

僕は、これこそ真実の生きる道の真髄ではないかと思っています。

自覚のセミナーを受講したり、これまでこのブログを読んできていただいたみなさんにも、少なくともその大意は理解していただけるのではないかと思います。

さて、野口整体の活元運動は人間にもともと備わっている本能的健康維持機能をより活発にする自然自発的に発動する運動で、野口整体ではとても重要なものとされています。

僕は活元運動の原理と対比すると、この道元禅師の言葉をさらにより深く実感的に理解できるように思います。

まず、「自己をならう」は「本当の自分に戻る」、
「自己を忘れる」は「自分という思いを手放す」、

「万法に証せられる」は「すべての存在が自分である」、

「自己の身心、および佗己の身心をして脱落させる」は「自も他もないという本来の事実の人に戻る」、

途中を省略して、「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて」は「アタマの思いを“自分“という思いも含めてすべて手放して、自分を生かしている“いのち“のハタラキにそっくり任せて」、

「仏のかたより行われて、これにしたがいもてゆくとき」は「そうして、“いのち“のハタラキにすべて任せきるとき」、

「ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」は「そうすると、自分で何とかしなければと余計な力を入れたり、思い煩うこともなく、すべてがうまく行き、生死を超えた本来の自分そのものになることができる」と解釈します。

以上をまとめると次のようになります。

真実の生きる道は本当の自分に戻ることであり、自分という思いを手放し、自も他もないという本来の事実の人に戻ることである。

こうして、アタマの思いを“自分“という思いも含めてすべて手放して、自分を生かしている“いのち“のハタラキにそっくり任せれば、自分で何とかしなければと余計な力を入れたり、思い煩うこともなく、すべてがうまく行き、生死を超えた本来の自己そのものになることができるのである。


活元運動は瞑想の自然法とともに最高の瞑想法です。




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活元運動をしましょう

活元運動をしましょう

今回は瞑想という観点から活元運動について考えてみましょう。

活元運動は私たちの体や心にもともと備わっている機能で、体と心の働き自体をより活発にするために、必要なときに自動的に発動する運動です。

例えば、あくびや嘔吐、赤ちゃんが手足をバタバタしているのも活元運動です。

そういう意味では、誰でも活元運動をすることができると言えるでしょう。

けれども、活元運動を必要な時によりスムーズに、より活発に発現させるには、最初に3つの予備運動をしたほうがよいでしょう。

(そのやり方については、『健康生活の原理』 野口晴哉著 ちくま文庫 をお読みください。)

私たちの体と心は私たちの思い(考え)によって動く部分もありますが、大部分は思い(考え)を超えた大きな力によって働いています。

そして、実は、私たちの思い(考え)さえもそれを超えた大きな力によって働いています。

つまり、私たちの体と心の働きはすべて思い(考え)を超えた大きな力の発現そのものなのです。

にもかかわらず、多くの方々はその真実(真の自己)を見失って、アタマの思い、あるいは、思いで捉えた自分を“自分“であると錯覚してしまっています。

ところが、アタマの思いは、いつも「いまここに満足できない」というやっかいな性質を持っているのです。

そのため、いつも「物足りよう。物足りよう」として、結局は、いつも物足りることができないのです。

なんとか頑張れている間は、「もう少し頑張りさえすれば、きっと満足できる結果が得られるはずだ」と、いつも「もう少しだけ頑張ろう」と思って何とかやれている気になっています。

でも、結果は他の人には見えているのです。

自分の思うように行かないことが重なってくれば、かならず最後には、体だけでなく、心もへばってしまいます。

そういう中で、瞑想しても雑念ばかり出てきて、瞑想すればするほど疲れて厭になってしまいます。

本当は、雑念が出るのは体と心のストレスを解消しようとしている自然の働きなので、実にありがたいことなのです。それを“相手にしないで“いれば何の問題もないのですが、思いで何とかしようとして結局は疲れてしまうのです。

そういうときこそ、雑念が出ることも厭わず、どういう結果が出なければならないなどという思いをすべて投げ出して、活元運動をすればよいのです。

要するに、自分の思いではどんなにしようとダメなのです。

結局は、行き詰ってしまい、思いで固めた小さな“自分“に閉じこもってしまうことになります。

“自分“の小さな思いなどすべて投げ出して、自分の本体である大いなる力、“いのち“に任せきるのです。

以下は、道元禅師の言葉です。(一部、漢字混じり、現代仮名遣いに直しました。)

ただわが身をも心も放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これに従いもて行く時、力もいれず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる。誰の人か、心に滞るべき。



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瞑想と愉気

瞑想と愉気

手当て療法を野口整体では“愉気(ゆき)”と呼んでいます。

でも、愉気は単なる手当て療法ではありません。

たとえば、歯が痛い時、思わず歯のうえに手を当てます。そこには手を当てようという意識もありません。

小さな子供がお腹が痛いといえば、お母さんは「どうしたの?」と、思わず子供のお腹に手を当てるでしょう。

ただ、本能的な自然のハタラキがあるだけです。それが愉気です。

私たちにはもともと、自分の体の異常な箇所を本能的に感じ取り、そこに“思わず”気を集中し、自然治癒力を活発にする機能が備わっています。

大変面白いことに、愉気は自分の体でなく、他の人の体にも自分の体と同じようにはたらきます。

これは、普段、お互いに分離しているとと思っている存在が、事実は、同じひとつのものであるからです。

愉気は決して超能力でも何でもありません。私たち人間のごく当たり前の能力です。

いや、人間だけではありません。動物、植物、微生物など、おそらく、すべての生物、そして、無生物にさえ、同じようにはたらく普遍の能力なのです。

愉気で言う“気”の正体は大いなる“いのち”そのものです。

そして、たとえば、他の人に愉気をする場合に、気を送るのは“自分”ではありません。

大いなる“いのち”が自分の体を経由して、相手の体の気を必要としている箇所に、自動的に、そして、自然に流れ込んでいくのです。

愉気の力は“自分”の持っている力ではありません。だから、自分は何もする必要はありません。

ただ、“自分”という意識、つまり、自我があると、大いなる“いのち”とこのの体を繋いでいる経路がかなり閉ざされてしまいます。

ですから、自然の愉気をする前には瞑想などにより思考を鎮めることが大切です。これは活元運動の場合とまったく同じです。

また、「“自分”が愉気をするのだ」という意識があるかぎり、自分と相手はバラバラであるという邪念によって、大いなる“いのち”による自然の愉気が妨げられます。

愉気をするのは大いなる“いのち”そのものです。そのためには、思考を鎮めて静寂の中にあることが肝要です。

あとはすべて“手”に任せるだけです。

大いなる“いのち”に繋がった手は気(大いなる“いのち”)が不足しているところを自動的に感知します。

そして、そこに手を経由して、気が自動的に、また、自然に流れ込んでいきます。

そして、その部分が必要な気で十二分に満たされれば、自動的にそこから自動的に手が離れます。

愉気は単なる“体治し”ではありません。

相手の人だけでなく、すべてと一体であることをあることを体感し、確認し、実証する営みです。

また、愉気自体が自然の瞑想法と言ってもよいでしょう。

愉気は人間の本能的なハタラキですから、本来だれにでもできるのです。

と言っても、自分ひとりでやっても自己流になりがちです。

ですから、きちんとした指導者について習得されることをお薦めします。

僕のお薦めは「整体ライフスクール」です。



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瞑想と活元運動

瞑想と活元運動

瞑想の自然法をやっている際に、時々、自分の意志とは関係なく、体が動き出す方がいます。

これは体がバランスが偏ったり鈍ったりして異常な箇所を自ら整えようとする自動的な調整運動です。野口整体ではそれを活元運動と呼んでいます。

活元運動は体の異常を正し、健康を自ら保とうとするもともと体に備わっている機能なのです。

人間は活元機能によって本来健康に生きられるようにできているのです。

たとえば、誰でも睡眠中にはいろいろな寝相を取ります。そして、睡眠から覚めると体のバランスが整っています。これも活元運動のひとつです。

ところで、睡眠中になぜ寝相、つまり、活元運動が起こるのでしょうか?

それは睡眠中は通常の思考活動が停止しているので、体と大いなる“いのち”を繋いでいる回路が開いているからです。

そのために、大いなる“いのち”が体に風のように吹き込んで活元運動が起こってくるのです。

それは、中空の笛に大空の息吹、つまり、風が吹き込んで音楽を奏でるようなものです。

音楽を奏でているのは自分でもなく笛でもなく、大空の息吹なのです。大空の息吹が笛で音楽を奏でているのです。

つまり、活元運動をしているのは “自分”ではなく、体でもなく、大いなる“いのち”なのです。

活元運動をずっと実習している方は、動いているのは自分ではないということを実感として体験されていると思います。

でも、もしかして、「体が自動的に運動しているのだ」と思っていませんでしたか?

それは決して間違っているとは言えませんが、思考によって大いなる“いのち”との回路が閉じていれば、体の活元機能はフルにはたらくことができないのです。

いずれにしても、活元運動を起しているのは“自分”ではなく、大いなる“いのち”そのものが体にはたらいて起こっているのです。

活元運動は大いなる“いのち”が体を使ってダンスしているのです。“自分”がダンスをしているのではありません。

ですから、活元運動をする前には、まず瞑想の自然法などで“自分自分”という意識、つまり、思考を鎮(しず)めることがとても大切です。

もっとも自然な活元運動は静寂のなかからスタートするのです。

思考が静まったあとは、ポカンとして、すべてを大いなる“いのち”に任せてくつろぐことです。大いなる“いのち”こそ、本当の自分なのですから・・・。

でも、「任せよう」と気張りすぎると、それは “自分”意識・自我を増強しているわけですから、さらっとすべてを大いなるものに任せてくつろいでいることです。

もちろん、どんな運動が出なければいけないということもありません。

体が動かなくても、それはそれで最善のことが起きているのですから、すべて起きていることに任せることです。

どんどん活元運動をやりましょう! 

体も心も整ってきます。

そして、そのたびに、“自分”が大いなる“いのち”そのものであることを容易に実感できるでしょう。



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活元運動と愉気

活元運動と愉気

私たちが健康に生きるために非常に効果的な方法がもう一つあります。

それは私たち自身が持っている自然治癒力そのものを自律的に活発にする方法です。

実は、もともとその機能自体が私たちの体に備わっているのです。

それを呼び覚ましさえすればいいのです。

あとは何の努力も必要ありません。

それが野口整体の基本である「活元運動」と「愉気」です。

私たちは眠くなったときなどに、酸素をもっと取り込もうとして無意識にあくびをします。

また、睡眠中に体の偏りを調整しようとして、無意識にいろいろなポーズを取ります。いわゆる、寝相です。

さらに、赤ちゃんはよく体をバタバタ動かしています。

一見、何の意味もなくデタラメに動いているように見えます。

でも、これも体の偏りを調整しようとして、無意識に、そして、自律的に体の中から自然に起こってくる自然治癒力の働きです。

活元運動はこれらの働きと質的には同じものです。

いったん活元運動が呼び覚まされると、起きている時でも、体の中からの自然の要求により体が自然に動いて、体の偏りなどが自立的に調整されます。

活元運動の効果はそれだけではありません。

活元運動を行うことにより、体の自然治癒力自体が飛躍的に活性化するのです。

また、愉気というのは昔から言われる、いわゆる、「手当て」のことです。

現在では、「手当て」というのは、ケガをした時などに外部から治療を施すことという意味で使われています。

けれども「手当て」の本来の意味は、痛みや異常がある箇所に、文字通り、「手を当てる」ことなのです。

私たちは、体に痛みなどの異常を感じた時に、思わず、本能的に、そこに手を当てます。

手を当てることによって、異常のある箇所に「気」が集中します。

気が集中することによって、体の自然治癒力が飛躍的に活発になり、異常は速やかに調整されます。

私たちはこのような「手当て」、つまり、愉気の効能を、知識以前に、本能的に知っているのです。

私たちの体にはこのような素晴らしい力が備わっているのです。

にもかかわらず、現代の私たちは、体に異常がある場合に、精神的にも、また実際的にも、外部の力に頼っているので、体の自然治癒力がますます鈍っています。

その結果、現代では多くの方々が健康に不安を抱きながら生きています。

私たちは、あらためて、一人一人の中にある本来の力に目覚め、健康で、はつらつとした生活を目指すべきだと思います。

そのための3つの鍵が、基本自然食を中心とする少食と活元運動と愉気です。

ただ、活元運動と愉気を正しく習得するには、正しい健康観を実践的に教えていただける指導者より学ぶことが絶対に必要です。


詳しくは、リンクしている「整体生活実践入門」のウェブサイトを訪ねてみてください。

さらに、次の本がお勧めです。

* 『整体入門』 野口晴哉著 ちくま文庫




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