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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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無事の人 その2

無事の人 その2

中やすみのあとでは、為さん(按摩さん)はあまりしゃべらなかった。宇多(主人公)も、もんでもらっているあいだに、うつらうつらして、口をきくのもものうくなってきた。そのうち、おなかの上に電気をかけられたような、気もちのいい振動が伝わってきた。それはヴァイブレーターをかけた時の感じと、よく似ているが、それよりも、もっと“しん”のほうに、しみ通るものだった。

「いい気もちだね、それ、なんというやり方?」
天国の温泉にでもつかっているような、甘い夢ごこちの中から、宇多はほのかにくちびるを動かした。
しかし、なんの答えもなかった。
彼は重ねて問い返さなかった。・・・・彼はそのいい気もちの中で、いつのまにか、すやすやと眠ってしまった。

翌日もまた、退屈しのぎに為さんを呼んだ。・・・・・
「きのう、療治の終わりのころ、おなかに電気をかけられたような、いい気もちがしてきたが、あれは、なんという療治なの?」

「あれですか。ありゃあ『シンセン法』とか、なんとか言いますんで。―――へえ? そいつは、わっちにゃわかりませんね、どんな字を書くのか。・・・・・なあに、ありゃあ、指のさきと手のひらでやりますんで。あんまのこってすから、別に種も、しかけもあるわけじゃあござんせん。よく、病気の時に、手あてをするって言いますね。つまり、その『手あて』なんで。今じゃあ『手あて』っていうと、薬を飲ませることとか、看護をすることのように言われてますが、もとの起こりは、病人のからだに手をあてて、病気を直したからだって話ですね。それで直りゃあ、手あてがよかったってわけでしょう。『シンセン法』だって、なあに、昔の『手あて』なんですよ。」

「しかし、手あてと言ったって、ただ手をあてていりゃ、いいというわけのもんでもないだろう。」

「へえ、そりゃそうですとも。ただ手をあてたって、指のさきをふるわせたって、そんなこって、きくもんじゃあござんせん。これにはやっぱり“こつ”がございます。・・・・・
あれをやっている時は、まあ、大げさに言やあ、無念無想とでも言うんでげしょうか。わっちもねえ、お客さんもねえ、そんなこたあ通り越しちゃって、いわば天地と一枚になるってところにいかなくっちゃあ、いけねえんでさあ。そこらで『シンセン法』って言ってるなあ、てえげえ指のさきをふるわせてるようですが、ふるわせるなんて、たくらみでがすよ。」

「そうすると、ふるわせるのじゃなくて、ひとりでに指さきがふるえてくる。そのふるえが、自然にお客のからだに伝わる。そういうわけだね。」

「そうですね。まあ、そういった寸法でげしょうが、こっちは、そんなこたあ、なんにも知らねえ。自分のからだのふるえるのも、指先のふるえるのも知らねえ。その知らねえあいだに、なんかがお客さんのからだに伝わる。――いや、そうじゃあねえ。そんなことも、何もかも、いっさいがっさい、わからねえ。わっちというものがなくなっちゃって、ただじねんのお計らいに任せる。それが手あての一番“かなめ”なとこでござんしょうね。・・・・・」
(『無事の人』山本有三著 新潮文庫 より抜粋)

“無事の人” いいですねえ。





無事の人

無事の人

作家山本有三氏には『路傍の石』や『真実一路』など有名な作品があり、僕も少年時代から青年時代に氏のいくつかの作品を読みました。

小説『無事の人』はごく最近ほとんど偶然に読んだ氏の作品です。内容は太平洋戦争の末期に主人公がどこかの海岸の旅館に宿泊した時に頼んだ盲目の按摩(あんま)さんとの会話が中心です。按摩さんのセリフが面白いので、その一部を抜粋して紹介します。

*****
「そうですか。ゆうべは、よくおやすみになりましたか。そいつぁあ、ようがしたね。眠るのが一番でござんすよ。よくれ眠れさえすりゃ、てえげえの病気は直っちめえます。」

「いいえ、ほんとでござんすよ。そりゃあ、なんの病気もってわけにゃ行きませんが、まあ、十の八、九はそう思ってまちげえござんせんね。・・・」

「・・・だんな。ここんところ、どうです。―――きくでしょう。」

「こいつは、ほんとに凝っているところです。」

「おっしゃる通り、もみほぐしてえんだが、情けねえことに、あんまなんかの力じゃあ、本当には直りませんや。」

「・・・・・さっき、わっちが言ったなあ。よく眠るこってすね。眠れさえすりゃあ、こんなものは、ひとりでに直っちめえますよ。そりゃあ療治すれば、ちったあらくになりますが、そんなもなあ、一時しのぎでさ。凝りがほんとにほぐれるってわけにゃいきません。」

「だいたい、人間は生きものなんだから、生きものであるからにゃあ、自分が生きていくのに都合のいいように、からだのからくりもできてるってわけのもんじゃあござんせんかね。人間、人なみに食って、人なみに働いて、人なみに寝さえすりゃあ、そう病気にかかることはねえはずですよ。よしんば、病気になったところで、てげえは、からだのほうで、じねんに直してくれますよ。こいつは生き身のありがてえところなんで。そこへゆくと、もみ療治なんて、たかの知れたもんでさあ。」

「・・・・・なにも、こんなことを言って、てめえで、てめえのしょうべえにけちをつけるにゃああたりませんが、まあ、正直な話、いま言ったようなもんじゃござんせんかね。そりゃあ、わっちにしたって、これまで随分、いろんな病人を扱ってきました。それでつい四、五年めえまでは、あの病人も、この病人も、わっちの腕で直したんだと、こう思ってましたが、とんでもねえ、うぬぼれでさあ。なあに、てめえが直したんじゃあねえ、じねんに直ったんですよ。こっちの腕じゃあねえ。あちら様のお力なんでさ。ねえ、だんな、そうでござんしょう。だから、わっちは、まあ、せいぜいのところ、病気の直るお手つだいができりゃあ、結構だと思ってますんで、へえ。」
(『無事の人』山本有三著 新潮文庫より抜粋)

*****

ここまで読んだときに、僕は「もしかしたら?!」と思って、奈央さんに訊いてみました。

山本有三氏のご家族はかつて整体協会の会員であり、奈央さんは整体協会に行ったときには、ほとんどいつも氏の息子さんのお嫁さんに活元運動を誘導していただいていたとのことでした。それはまさに体の中心からワッと全身に広がっていくような素晴らしい誘導だったと懐かしそうに話してくれました。

”無事の人“いいですね。





身心脱落 2

身心脱落  2

仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心、および佗己の身心をして脱落せしむるなり。

この生死はすなわち仏の御いのちなり。
「中略」

厭うことなく、したうことなき、このときはじめて仏のこころに入る。

ただし、こころをもて計ることなかれ、ことばをもて言うことなかれ、ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたより行われて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこおるべき。

(以上、読みやすいように、一部漢字に変換し、現代仮名遣いに換えました。)

これらはいずれも道元禅師の『正法眼蔵』という書のなかにある言葉です。

僕は、これこそ真実の生きる道の真髄ではないかと思っています。

自覚のセミナーを受講したり、これまでこのブログを読んできていただいたみなさんにも、少なくともその大意は理解していただけるのではないかと思います。

さて、野口整体の活元運動は人間にもともと備わっている本能的健康維持機能をより活発にする自然自発的に発動する運動で、野口整体ではとても重要なものとされています。

僕は活元運動の原理と対比すると、この道元禅師の言葉をさらにより深く実感的に理解できるように思います。

まず、「自己をならう」は「本当の自分に戻る」、
「自己を忘れる」は「自分という思いを手放す」、

「万法に証せられる」は「すべての存在が自分である」、

「自己の身心、および佗己の身心をして脱落させる」は「自も他もないという本来の事実の人に戻る」、

途中を省略して、「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて」は「アタマの思いを“自分“という思いも含めてすべて手放して、自分を生かしている“いのち“のハタラキにそっくり任せて」、

「仏のかたより行われて、これにしたがいもてゆくとき」は「そうして、“いのち“のハタラキにすべて任せきるとき」、

「ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」は「そうすると、自分で何とかしなければと余計な力を入れたり、思い煩うこともなく、すべてがうまく行き、生死を超えた本来の自分そのものになることができる」と解釈します。

以上をまとめると次のようになります。

真実の生きる道は本当の自分に戻ることであり、自分という思いを手放し、自も他もないという本来の事実の人に戻ることである。

こうして、アタマの思いを“自分“という思いも含めてすべて手放して、自分を生かしている“いのち“のハタラキにそっくり任せれば、自分で何とかしなければと余計な力を入れたり、思い煩うこともなく、すべてがうまく行き、生死を超えた本来の自己そのものになることができるのである。


活元運動は瞑想の自然法とともに最高の瞑想法です。




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活元運動をしましょう

活元運動をしましょう

今回は瞑想という観点から活元運動について考えてみましょう。

活元運動は私たちの体や心にもともと備わっている機能で、体と心の働き自体をより活発にするために、必要なときに自動的に発動する運動です。

例えば、あくびや嘔吐、赤ちゃんが手足をバタバタしているのも活元運動です。

そういう意味では、誰でも活元運動をすることができると言えるでしょう。

けれども、活元運動を必要な時によりスムーズに、より活発に発現させるには、最初に3つの予備運動をしたほうがよいでしょう。

(そのやり方については、『健康生活の原理』 野口晴哉著 ちくま文庫 をお読みください。)

私たちの体と心は私たちの思い(考え)によって動く部分もありますが、大部分は思い(考え)を超えた大きな力によって働いています。

そして、実は、私たちの思い(考え)さえもそれを超えた大きな力によって働いています。

つまり、私たちの体と心の働きはすべて思い(考え)を超えた大きな力の発現そのものなのです。

にもかかわらず、多くの方々はその真実(真の自己)を見失って、アタマの思い、あるいは、思いで捉えた自分を“自分“であると錯覚してしまっています。

ところが、アタマの思いは、いつも「いまここに満足できない」というやっかいな性質を持っているのです。

そのため、いつも「物足りよう。物足りよう」として、結局は、いつも物足りることができないのです。

なんとか頑張れている間は、「もう少し頑張りさえすれば、きっと満足できる結果が得られるはずだ」と、いつも「もう少しだけ頑張ろう」と思って何とかやれている気になっています。

でも、結果は他の人には見えているのです。

自分の思うように行かないことが重なってくれば、かならず最後には、体だけでなく、心もへばってしまいます。

そういう中で、瞑想しても雑念ばかり出てきて、瞑想すればするほど疲れて厭になってしまいます。

本当は、雑念が出るのは体と心のストレスを解消しようとしている自然の働きなので、実にありがたいことなのです。それを“相手にしないで“いれば何の問題もないのですが、思いで何とかしようとして結局は疲れてしまうのです。

そういうときこそ、雑念が出ることも厭わず、どういう結果が出なければならないなどという思いをすべて投げ出して、活元運動をすればよいのです。

要するに、自分の思いではどんなにしようとダメなのです。

結局は、行き詰ってしまい、思いで固めた小さな“自分“に閉じこもってしまうことになります。

“自分“の小さな思いなどすべて投げ出して、自分の本体である大いなる力、“いのち“に任せきるのです。

以下は、道元禅師の言葉です。(一部、漢字混じり、現代仮名遣いに直しました。)

ただわが身をも心も放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これに従いもて行く時、力もいれず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる。誰の人か、心に滞るべき。



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瞑想と愉気

瞑想と愉気

手当て療法を野口整体では“愉気(ゆき)”と呼んでいます。

でも、愉気は単なる手当て療法ではありません。

たとえば、歯が痛い時、思わず歯のうえに手を当てます。そこには手を当てようという意識もありません。

小さな子供がお腹が痛いといえば、お母さんは「どうしたの?」と、思わず子供のお腹に手を当てるでしょう。

ただ、本能的な自然のハタラキがあるだけです。それが愉気です。

私たちにはもともと、自分の体の異常な箇所を本能的に感じ取り、そこに“思わず”気を集中し、自然治癒力を活発にする機能が備わっています。

大変面白いことに、愉気は自分の体でなく、他の人の体にも自分の体と同じようにはたらきます。

これは、普段、お互いに分離しているとと思っている存在が、事実は、同じひとつのものであるからです。

愉気は決して超能力でも何でもありません。私たち人間のごく当たり前の能力です。

いや、人間だけではありません。動物、植物、微生物など、おそらく、すべての生物、そして、無生物にさえ、同じようにはたらく普遍の能力なのです。

愉気で言う“気”の正体は大いなる“いのち”そのものです。

そして、たとえば、他の人に愉気をする場合に、気を送るのは“自分”ではありません。

大いなる“いのち”が自分の体を経由して、相手の体の気を必要としている箇所に、自動的に、そして、自然に流れ込んでいくのです。

愉気の力は“自分”の持っている力ではありません。だから、自分は何もする必要はありません。

ただ、“自分”という意識、つまり、自我があると、大いなる“いのち”とこのの体を繋いでいる経路がかなり閉ざされてしまいます。

ですから、自然の愉気をする前には瞑想などにより思考を鎮めることが大切です。これは活元運動の場合とまったく同じです。

また、「“自分”が愉気をするのだ」という意識があるかぎり、自分と相手はバラバラであるという邪念によって、大いなる“いのち”による自然の愉気が妨げられます。

愉気をするのは大いなる“いのち”そのものです。そのためには、思考を鎮めて静寂の中にあることが肝要です。

あとはすべて“手”に任せるだけです。

大いなる“いのち”に繋がった手は気(大いなる“いのち”)が不足しているところを自動的に感知します。

そして、そこに手を経由して、気が自動的に、また、自然に流れ込んでいきます。

そして、その部分が必要な気で十二分に満たされれば、自動的にそこから自動的に手が離れます。

愉気は単なる“体治し”ではありません。

相手の人だけでなく、すべてと一体であることをあることを体感し、確認し、実証する営みです。

また、愉気自体が自然の瞑想法と言ってもよいでしょう。

愉気は人間の本能的なハタラキですから、本来だれにでもできるのです。

と言っても、自分ひとりでやっても自己流になりがちです。

ですから、きちんとした指導者について習得されることをお薦めします。

僕のお薦めは「整体ライフスクール」です。



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