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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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人が一番求めているもの

人が一番求めているもの

私たちは人生のいろいろな場面でいろいろなものを求めて生きています。

それは人によっても、また、その時々の状況によっても異なります。

けれども、「結局は何を一番求めているのか?」と問われれば、多くの方々には、「幸福」とか、「平和」とか、「自由」というような言葉が浮かんでくるのではないでしょうか。

でも、「もっと直接的に、もっと感覚的には、何を一番求めているのか?」と訊かれれば、どうでしょうか?

僕は、それは「安心」だと思うのです。

人は何より「安心」を求めているのです。

幸福や平和や自由などはその安心を成り立たせるために必要な要素なのだと思います。

でも、幸福や平和や自由などはもちろんとても重要なことですが、そういうことだけでなく、日常の生活においても、人は何よりももっと直接的、そして、感覚的に安心を求めて生きています。

それは、例えば、のどが渇いているときに水を飲むとホッして安心するというようなことです。

人はいろいろなものを求めて生きていますが、同時に、というか、その根底ではいつも安心を求めて生きているのです。

たとえば、スモーカーはタバコを吸わなければ、ホッとして安心できない、つまり、「タバコがなければ安心して生きていけない」と思い込んでいるので、それが禁煙を非常に難しいものにしています。

まだ、ほとんどの人がその事実に気がついていませんが、実は、お酒(アルコール)もタバコと同じです。

アルコールは神経を麻痺させ、ストレスを一時的に感じなくさせるので、ホッとできような錯覚をしているだけなのです。でも、ほとんどの人がその安心もどきの精神状態を求めてお酒を飲むのです。

このように、この社会では、多くの人々が錯覚した“安心”を求めてタバコやアルコールを繰り返し繰り返し摂取し続けています。

でも、それはタバコやアルコールに限りません。

いわゆる、いい学校に入り、いい会社に入り、いい社会的地位に就き、経済的に豊かになり、などということも、結局は、安心を求めているのです。

でも、それらは、状況次第で変わり、根本的に不安定なので、不安になって手に入れたものに執着したり、もっともっと安心できるものを求めようとします。つまり、一時的な安心しか手に入れることができないのです。一時的なはかない幸福感と言ってもよいでしょう。

それは、根底に、「どこまでも何かを手に入れなければ安心できない」という錯覚があるからなのです。

けれども、真実は、私たちは誰でも初めから、そのままで、こころから大安心して生きていてよいのです。

何か欠けていると思うから、それを手に入れなければ安心できないと錯覚しているために、いつも不安を抱いて、もがきながら生きることになるのです。

私たちはタバコやアルコールがなくてもすっきりと生きていくことができます。

同様に、いい学校や会社に入らなくても、経済的に豊かにならなくても、いや、そのようなものに頼らないからこそ、大安心で生きていけるのです。





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ニック・ブイチチのこと

ニック・ブイチチのこと

ニック・ブイチチは1982年オーストラリア生まれの青年です。

彼はオーストラリアでもトップクラスの大学を卒業し、世界中を回って、講演会やセミナーを通じて、こころの持ち方や人生の意味について、数百万人以上の人々に貴重な示唆と感銘を与え続けています。また、趣味はゴルフ、水泳、音楽鑑賞などだそうです。

彼は生まれつき両手両足がありません。(医学的には先天性四肢欠損症と言われます。)

彼の著書『それでも僕の人生は希望でいっぱい』 渡邉美樹監修 三笠書房 は「生きたバイブル」というべき本当に素晴らしい本です。ぜひ購入して繰り返しお読みになることをこころからお勧めします。
また、日本語字幕付きの彼の動画も以下のYouTubeで見られます。

https://www.youtube.com.watch



今回のブログでは、彼の著書からいくつか彼の言葉を紹介します。


「私が幸せなのは、“自分には欠けているものがあるけれど、ニック・ブイチチという人間としては何一つ足りないものはない“と気づいたからです」
このように考えると、世界が違って見え始めます。私は私として、できることをすればいい。そして、こう思うようになったのです。
自分の人生に限界はない、と。
このすばらしい発見をあなたにも知ってもらいたいと願って、この本を書きました。(同書P23)


私は世間的には障害者ということになります。でも、手足がないことで、「本当の障害」を取り除くことができました。
本当の障害とは、何だと思いますか?
それは、自分の人生に自分で限界を設定してしまうことです。あるいは「これがお前の限界だ」という他人からの言葉を鵜呑みにしてしまうことです。
私もあなたも、生き方を自分で「選ぶ」ことができます。
うまくいかなかったことや自分にないものを嘆いて暮らすこともできます。ひねくれるのも、カッカして生きるのも自由です。
その逆に、困難にぶつかったり、ひどい人に出会ったときにそこから学び、自らの力で幸せを勝ち取っていくこともできるのです。
あなたは美しくかけがえのない命です。本来の目的に沿った生き方ができるように生まれています。(同書P24)


人生がどんなに困難に思えても、必ず希望はあります。絶望的だと思っても、絶対にそこから這い上がれます。
私は確信を持ってそう断言できます。なぜなら、私自身の人生がそうだったからです。
すべての出来事は、よりよい状態に至るためのステップです。
(同書P25)


わたしは「ふつう」の人間としてでなく、「自分」として生きればよかったのです。(同書P41)


人生の目的は手に入れることではなく、生きることそのものです。(同書P58)


過去は変えられない。でも、未来は変えられる。(同書P101)


大切なのは「受け取る以上のもの」を、自ら進んで与えていくことです。(P106)


あなたたちは今のままで十分素敵です。(同書P110)


*****

以上、字数の制限により、ニックの言葉を少しだけ紹介しました。
同書を読めば、みなさんもニックにしっかりと出会うことができるでしょう。





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幸福観念

幸福観念

「幸福」あるいは「幸せ」という意味は、『広辞苑』によれば、「心が満ちたりていること、また、その状態」となっています。

私たちは意識的、そして、こころの深いところで無意識的に“本当の幸福”を求めて生きています。

この場合の“本当”という意味は、「条件や状況が変っても絶対に変らない、恒久的な」という意味です。

ところが、多くの方が「幸福とは“幸福感”、あるいは、幸福な気分“のことである」と思っているようです。

もし、そうであるとすれば、私たちは絶対に“本当の幸福”を得ることはできないということになってしまいます。

なぜなら、“幸福感”とは、たとえば、仕事がうまく行ったとか、望みどおりの結婚相手が見つかった、など「自分の望んでいたことが叶(かな)えられた時に感じる満ち足りた気持ち」ということです。

ということは、“幸福感”とは、条件や状況によって変る一時的な、“幸福”だというただのはかない気分にすぎず、それでは、“本当の幸福”とは言えないからです。

別の角度から言えば、「自分の望んでいることが叶えられれば、幸福になれる」というのは、自分が勝手に作り出した観念に過ぎず、存在の真実ではありません。

そして、この幸福に対する観念、“幸福観念”は自分が勝手に作り出した“幸福モノサシ”を基準にして測られます。

たとえば、金銭的に豊かになれば幸福度が上がる」というモノサシ(観念)を持っている人はそのモノサシで自分や他の人の幸福度を測っています。

“幸福モノサシ”はそれこそ人それぞれで、いろいろな種類があります。金銭、健康、社会的地位、足の太さ、目の大きさ、家系、学校の成績、学歴、仕事のやりがい、業績、家族円満、夫婦仲、子ども、家の大きさ、配偶者の職業、自分の職業、などなど。

もちろん、いくつかの要素を組み合わせたモノサシを一人ひとりが勝手に作っているのですが、それに振り回されながら、どうしたらもっと幸せになれるのだろうかとキョロキョロしながら、あるいは、この目標さえ達成できればなどと思いながら生きています。

それでは、かりに自分なりの目標が達成できたとしても、それはいつかは失われるのがこの世の常であり、しかも、それを失ったら不幸になるという思いが根底にあるわけですから、本当に心の底から満ち足りた気分になることさえもできないでしょう。仮に、「自分は心かの底から満足している」と自分では思っていても、それは自己満足にすぎません。

いずれにしても、幸福とは観念ではありません。

幸福とはモノサシで測れるようなものではありません。

では、“本当の幸福”とは何でしょうか?

それは“いまここ”そのものです。

“本当の幸福”はすでに“いまここ”に存在しています。

“いまここ”の“すべてよし”の無条件の事実こそ“本当の幸福”です。

自分自身がそのままで“本当の幸福”なのです。

何も求める必要はないのです。

自分に何か欠けているものがありますか?





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すべてはこころの持ち方ひとつ

すべてはこころの持ち方ひとつ

私たちの人生のなかではいろいろなことが起きます。

子供時代のこと、大人になってからのこと、親、夫、妻、子供、兄弟姉妹など家族のこと、親戚のこと、学校関係、友だちとのこと、仕事関係、職場の人間関係、近所付き合い、社会的な問題、自分自身の容貌や性格や健康、自分や家族の将来のこと、などなど。

このようにいろいろな場面を列記したのは、あらためてじっくりと自分自身の過去を含めた今日までの人生のいろいろな場面ををつぶさに思いだしてほしいからです。

そのうえで、自分が今日までどのような生き方をしてきたか、どのように感じながら生きてきたかということをあらためて確認してください。

人生においては、自分の望みどおりのことが起きることもあれば、まったく違ったことが起きることもあります。

自分の望みどおりになった場合はともかく、自分の望みとはまったく違うことが起こったときにはどう感じますか?

たとえば、「ある人がまったく理不尽としか思えないことを自分に言った」というようなことをあなたは何回も経験したことがあると思います。

そのようなときにあなたはどのように感じますか?

このように尋ねると、多くの方が「気分が悪い」と答えます。

状況や事実の内容によりますが、不快感、嫌悪感、対立感、孤独感、怒り、悲しみ、憎しみ、恨みなどのマイナス感情を抱くというのです。

あなたもこのように「マイナス感情を抱くのは当然だ」と思いますか?

もし、そうであれば、そのようなとき、あなたは幸せですか?

いや、そのようなときだけでなく、あなたの人生そのものは幸せだと言えますか?

「それは状況しだいだ」とあなたが考えているとすれば、それは、あなたは他に依存しながら生きている、ということです。

それではこの人生を本当の意味で幸せに生きていけるはずはありません。

他人の言動や周りの状況のなかではなく、自分自身のなかに「幸せ」を見出さないかぎり、一生他に翻弄(ほんろう)されながら生きていくことになります。

もしかしたら、それが今日までのあなたが生きてきた姿ではないでしょうか?

自分の本当の幸せは自分自身で自分自身のなかに見出さなければなりません。

では、そのためにはどうすればいいのでしょうか?

それは、何が起きようと、誰かがなんと言おうと、どのような状況であろうと、「すべてよし」と冷静に受け止め、対応すべきことは的確に対応し、対応策がなければその現実をスッキリ受け入れ、どこまでも明るく爽やかに生きていこうと覚悟することです。

はっきり言えば、本来は、自分自身の、あるいは、家族や親しい人の死さえ怖いものでも悲しいものでもないのです。

本来は、誰が何をしようと、何を言おうと、腹の立つことでも恨めしく思うことでもありません。

まわりに引きずられて不愉快な気持ちになりながら生きていくことほどバカバカしいことはありません。

すべてはこころの持ち方ひとつなのです。



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ここが極楽だ

ここが極楽だ

本来、自分は何一つ欠けるところのない存在です。

状況がどんなに変わっても、自分は変わりません。

本来、生も死もありません。

事実は事実として、そのまま受けいれればよいのです。

恐れるものも心配するものも何もありません。

自分は“いのち“だからです。

“いのち“には形も色も大きさもなく、見ることも、聞くことも、感じることもできません

“いのち“の顕われであるすべての存在は不可分一体です。

不可分一体というのは、構成するそれぞれの要素が互いになくてはならない関係として、互いに助け合い、補い合い、循環、集合、離散しながら、それぞれの特性や役割を果たすことによって、全体である一つの“いのち“が生きる姿です。

それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きるのです。

人体も、大自然も、大宇宙もそれらを構成する各要素は、このように調和・共生の世界を形成しています。

この世界は、眼に見えない“いのち“の法則に従って、すべてが整然と循環・運行している調和・共生の世界です。

“いのち“は万物を創造し、万物に調和と共生をもたらしています。

つまり、この世界の本質、つまり、私たちの本質は調和と共生です。

一言で言えば、愛です。

私たち一人ひとりにとって、この存在の真実に本当に気づくことは何よりも大切なことなのです。

存在を私たちの五感を通し、相対的な思考しかできない大脳(おもに左脳)で認識すると、本当は不可分一体の存在がすべてバラバラだと感じられます。

そのバラバラ観による認識や判断から出てくるのが「自分さえよければ」というエゴイズムです。

このエゴイズムこそが私たちの個人的、そして、社会的な苦しみと混乱、そして、人類の行き詰まりの元凶です。

(エゴイズムを解消するもっとも有効な方法は“希望のボタン”を押すことです。・・・・ワンカットコマーシャルではありません。)

盤珪禅師は次のように言っています。

「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。仏心は不生であり、霊明なものである。一切は不生で整う。不生が一切の本である。不生が一切の始めである。すべての迷い、苦しみ、争い、憎しみ、怒りなどは、我が身の身びいきにより起こる。」

「仏心は不生」というのは「私たち一人ひとりの本質は永遠の“いのち“である」ということです。

要するに、私たちは私たちの本質である“いのち“の要請に従って、安心してまごころ丸出しにして生きればよいのです。

そうすれば、すべてがうまくいくのです。

どうして、ケチな根性を固く握り締めて、地獄へ向かって行っていることにも気がつかない人がこんなにも多いのでしょうか?

それは、「極楽は“いまここ”にある」ことに気がついていないからです。

ケチな根性は私たちの本質ではありません。

ケチな根性は地獄への片道切符なのです。



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