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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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祈れる人になる

祈れる人になる

祈れる人になってください。

これは僕の青年時代に、和田重正先生がある人に言われた言葉です。僕はこの言葉を間接的に聞いて以来、今日まで折に触れてこの言葉を暖めてきました。

まずは、この場合、和田先生が言われる「祈る」というのは、何を意味しているのかといろいろと思いを巡らしてみました。

まず、思ったのは、自分を対象にして、「病気が治りますように」とか、「入学試験に合格できますように」とか、「仕事がうまくいきますように」など、何かがうまくいくように祈るということではないだろうということです。

また、家族円満とか家族の健康を祈願するというようなことでもないだろうと思いました。

そして、祈る対象は自分自身のことではなく、相手、あるいは、他の人が対象なのだろうと思いました。

つぎに、相手、あるいは、他の人の何を祈るのかと考えました。それで思いついたのは、対象となる人の“幸せ”を祈るのだろうということです。でも、この答ではまだ何かずれているように感じました。

それで思い至ったのは、相手がどんな人であっても、例え、その人が自分の思いに沿わないことをしたとしても、相手をただ非難するのではなく、その人の幸せを祈る、あるいは、その人を思いやるということではないかということです。これは、実際にはなかなか難しいことですが、それだけに僕には答えとしてはかなりしっくりきました。

これがなぜ難しいかと言うと、結局は、その根底にバラバラ観があるからです。何かが自分の思いに沿わないことを相手が言ったり、したりすると、それが気に食わなくて、相手を負かしたり、抑え込んで自分の意志を貫こうという気持ちが生じるからです。

それだけに、あるいは、だからこそ、相手の幸せを祈れる人になることが大切だということなのでしょう。

また、そのように何があってもその人の幸せを祈れる人となってはじめて、相手が本当は何を言おうとしているのか、どうしてそんな無茶なことを言ったり、したりするのだろうかということを理解しようという気持ちが生まれるのだと思います。そして、そのような姿勢で生きることによって、バラバラ観から徐々に脱却していくこともできるのだと思います。

僕は和田先生の言われる「祈れる人になってください」という言葉を一応このように納得して、そのように生きることを日々心掛けて生きてきました。

でも、ずっと先生のその言葉にはさらに深い意味があるようにも感じていました。そして、その答えが僕のこころのなかで徐々にはっきりしてきました。

それは、この世界の根底に流れている大いなる慈悲に導かれて自分が生きていることにはっきりと気づいたことです。

そして、日々この真実に気づかされるたびに、自分は何と幸せなことかと思うのです。

それだけに、この世界において多くの人や動物たちが苦しみの中で生きている、あるいは、死んでいく現実にあって、たとえ相手に何を言われようと、何をされようと、すべての人々、そして、生きとし生けるものすべての幸せをこころから祈らずにはいられません。

どうか、みなさんも祈れる人になってください。

新しい年がよいお年になりますように!







真実に眼を覚ます

真実に眼を覚ます

タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。


タバコの負の無限ループはきっぱりとやめてしまわないかぎり死ぬまで続く。

それでもタバコを吸いたいと思うか?

でも、こんなことはほんの一例にすぎない。

ある南の島の豪華なホテルに泊まっている一人の富豪(F)が、いつもヤシの木の下で昼寝をしている現地人の男(G)をつかまえて話しかける。

F:怠けてないで、一生懸命に働いたらどうだ。
G:一生懸命に働いて、どうするの?
F:とにかく働いて働いて、大金を貯めるんだよ。
G:大金を貯めて、どうするの?
F:たとえば、暖かい所に別荘を持つのさ。
G:別荘を持って、どうするの?
F:別荘の庭のヤシの下で、昼寝をするんだよ。
G:オレはずーっと前からこうしてヤシの下で昼寝をしているよ。

ほとんどの人は自分が何事についても負の無限ループ思考に陥っていることに気づいていない。

だから、目の前の存在の真実に目覚めることができないのだ。





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人が一番求めているもの

人が一番求めているもの

私たちは人生のいろいろな場面でいろいろなものを求めて生きています。

それは人によっても、また、その時々の状況によっても異なります。

けれども、「結局は何を一番求めているのか?」と問われれば、多くの方々には、「幸福」とか、「平和」とか、「自由」というような言葉が浮かんでくるのではないでしょうか。

でも、「もっと直接的に、もっと感覚的には、何を一番求めているのか?」と訊かれれば、どうでしょうか?

僕は、それは「安心」だと思うのです。

人は何より「安心」を求めているのです。

幸福や平和や自由などはその安心を成り立たせるために必要な要素なのだと思います。

でも、幸福や平和や自由などはもちろんとても重要なことですが、そういうことだけでなく、日常の生活においても、人は何よりももっと直接的、そして、感覚的に安心を求めて生きています。

それは、例えば、のどが渇いているときに水を飲むとホッして安心するというようなことです。

人はいろいろなものを求めて生きていますが、同時に、というか、その根底ではいつも安心を求めて生きているのです。

たとえば、スモーカーはタバコを吸わなければ、ホッとして安心できない、つまり、「タバコがなければ安心して生きていけない」と思い込んでいるので、それが禁煙を非常に難しいものにしています。

まだ、ほとんどの人がその事実に気がついていませんが、実は、お酒(アルコール)もタバコと同じです。

アルコールは神経を麻痺させ、ストレスを一時的に感じなくさせるので、ホッとできような錯覚をしているだけなのです。でも、ほとんどの人がその安心もどきの精神状態を求めてお酒を飲むのです。

このように、この社会では、多くの人々が錯覚した“安心”を求めてタバコやアルコールを繰り返し繰り返し摂取し続けています。

でも、それはタバコやアルコールに限りません。

いわゆる、いい学校に入り、いい会社に入り、いい社会的地位に就き、経済的に豊かになり、などということも、結局は、安心を求めているのです。

でも、それらは、状況次第で変わり、根本的に不安定なので、不安になって手に入れたものに執着したり、もっともっと安心できるものを求めようとします。つまり、一時的な安心しか手に入れることができないのです。一時的なはかない幸福感と言ってもよいでしょう。

それは、根底に、「どこまでも何かを手に入れなければ安心できない」という錯覚があるからなのです。

けれども、真実は、私たちは誰でも初めから、そのままで、こころから大安心して生きていてよいのです。

何か欠けていると思うから、それを手に入れなければ安心できないと錯覚しているために、いつも不安を抱いて、もがきながら生きることになるのです。

私たちはタバコやアルコールがなくてもすっきりと生きていくことができます。

同様に、いい学校や会社に入らなくても、経済的に豊かにならなくても、いや、そのようなものに頼らないからこそ、大安心で生きていけるのです。





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ニック・ブイチチのこと

ニック・ブイチチのこと

ニック・ブイチチは1982年オーストラリア生まれの青年です。

彼はオーストラリアでもトップクラスの大学を卒業し、世界中を回って、講演会やセミナーを通じて、こころの持ち方や人生の意味について、数百万人以上の人々に貴重な示唆と感銘を与え続けています。また、趣味はゴルフ、水泳、音楽鑑賞などだそうです。

彼は生まれつき両手両足がありません。(医学的には先天性四肢欠損症と言われます。)

彼の著書『それでも僕の人生は希望でいっぱい』 渡邉美樹監修 三笠書房 は「生きたバイブル」というべき本当に素晴らしい本です。ぜひ購入して繰り返しお読みになることをこころからお勧めします。
また、日本語字幕付きの彼の動画も以下のYouTubeで見られます。

https://www.youtube.com.watch



今回のブログでは、彼の著書からいくつか彼の言葉を紹介します。


「私が幸せなのは、“自分には欠けているものがあるけれど、ニック・ブイチチという人間としては何一つ足りないものはない“と気づいたからです」
このように考えると、世界が違って見え始めます。私は私として、できることをすればいい。そして、こう思うようになったのです。
自分の人生に限界はない、と。
このすばらしい発見をあなたにも知ってもらいたいと願って、この本を書きました。(同書P23)


私は世間的には障害者ということになります。でも、手足がないことで、「本当の障害」を取り除くことができました。
本当の障害とは、何だと思いますか?
それは、自分の人生に自分で限界を設定してしまうことです。あるいは「これがお前の限界だ」という他人からの言葉を鵜呑みにしてしまうことです。
私もあなたも、生き方を自分で「選ぶ」ことができます。
うまくいかなかったことや自分にないものを嘆いて暮らすこともできます。ひねくれるのも、カッカして生きるのも自由です。
その逆に、困難にぶつかったり、ひどい人に出会ったときにそこから学び、自らの力で幸せを勝ち取っていくこともできるのです。
あなたは美しくかけがえのない命です。本来の目的に沿った生き方ができるように生まれています。(同書P24)


人生がどんなに困難に思えても、必ず希望はあります。絶望的だと思っても、絶対にそこから這い上がれます。
私は確信を持ってそう断言できます。なぜなら、私自身の人生がそうだったからです。
すべての出来事は、よりよい状態に至るためのステップです。
(同書P25)


わたしは「ふつう」の人間としてでなく、「自分」として生きればよかったのです。(同書P41)


人生の目的は手に入れることではなく、生きることそのものです。(同書P58)


過去は変えられない。でも、未来は変えられる。(同書P101)


大切なのは「受け取る以上のもの」を、自ら進んで与えていくことです。(P106)


あなたたちは今のままで十分素敵です。(同書P110)


*****

以上、字数の制限により、ニックの言葉を少しだけ紹介しました。
同書を読めば、みなさんもニックにしっかりと出会うことができるでしょう。





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幸福観念

幸福観念

「幸福」あるいは「幸せ」という意味は、『広辞苑』によれば、「心が満ちたりていること、また、その状態」となっています。

私たちは意識的、そして、こころの深いところで無意識的に“本当の幸福”を求めて生きています。

この場合の“本当”という意味は、「条件や状況が変っても絶対に変らない、恒久的な」という意味です。

ところが、多くの方が「幸福とは“幸福感”、あるいは、幸福な気分“のことである」と思っているようです。

もし、そうであるとすれば、私たちは絶対に“本当の幸福”を得ることはできないということになってしまいます。

なぜなら、“幸福感”とは、たとえば、仕事がうまく行ったとか、望みどおりの結婚相手が見つかった、など「自分の望んでいたことが叶(かな)えられた時に感じる満ち足りた気持ち」ということです。

ということは、“幸福感”とは、条件や状況によって変る一時的な、“幸福”だというただのはかない気分にすぎず、それでは、“本当の幸福”とは言えないからです。

別の角度から言えば、「自分の望んでいることが叶えられれば、幸福になれる」というのは、自分が勝手に作り出した観念に過ぎず、存在の真実ではありません。

そして、この幸福に対する観念、“幸福観念”は自分が勝手に作り出した“幸福モノサシ”を基準にして測られます。

たとえば、金銭的に豊かになれば幸福度が上がる」というモノサシ(観念)を持っている人はそのモノサシで自分や他の人の幸福度を測っています。

“幸福モノサシ”はそれこそ人それぞれで、いろいろな種類があります。金銭、健康、社会的地位、足の太さ、目の大きさ、家系、学校の成績、学歴、仕事のやりがい、業績、家族円満、夫婦仲、子ども、家の大きさ、配偶者の職業、自分の職業、などなど。

もちろん、いくつかの要素を組み合わせたモノサシを一人ひとりが勝手に作っているのですが、それに振り回されながら、どうしたらもっと幸せになれるのだろうかとキョロキョロしながら、あるいは、この目標さえ達成できればなどと思いながら生きています。

それでは、かりに自分なりの目標が達成できたとしても、それはいつかは失われるのがこの世の常であり、しかも、それを失ったら不幸になるという思いが根底にあるわけですから、本当に心の底から満ち足りた気分になることさえもできないでしょう。仮に、「自分は心かの底から満足している」と自分では思っていても、それは自己満足にすぎません。

いずれにしても、幸福とは観念ではありません。

幸福とはモノサシで測れるようなものではありません。

では、“本当の幸福”とは何でしょうか?

それは“いまここ”そのものです。

“本当の幸福”はすでに“いまここ”に存在しています。

“いまここ”の“すべてよし”の無条件の事実こそ“本当の幸福”です。

自分自身がそのままで“本当の幸福”なのです。

何も求める必要はないのです。

自分に何か欠けているものがありますか?





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