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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ユキ

ユキ

ある冬の朝早くのことです。前の晩から雪が降り続き、外は一面、地面も木々も駐車してある自動車もみんなそれこそ真っ白でした。

僕は「すごいなあ」と思いながら、しばらくその真っ白な雪景色を眺めていました。すると、その全面真っ白な景色の中で何かが動いたような気がしました。でも、よくわかりません。

僕は何だろうと思ってしばらく見つめていました。そして、突然気が付いたのです。そのそれこそ真っ白な雪景色の中に一匹のそれこそ真っ白な猫が僕の方を見てじっと座っていたのです。その時、僕はその白猫の名前を思いつきました。

そうです。それが「ユキ」です。

その日からユキは我が家の中に入って餌を食べるようになりました。ユキはオスのノラ猫ですが、前にどこかで飼われていたらしく、すぐに私たちに馴れました。ただ、我が家のオス猫の「ジジ」が縄張り意識のためか、ユキを威嚇したり噛みついたりするようになったので、ユキをずっと家の中で飼い、ジジを家の中に入れないで納屋で寝るようにしました。

ユキはしばらくは我が家で、たらふく餌を食べ、のんびり寝ているのですが、それが何日も続くと、もともとノラ暮らしが身についているためか、どうしても外に出たがります。

それで、仕方なく、ジジに見つからないようにユキを外に出してやります。すると、ユキはいつの間にか木々の中に姿を消し数日間は帰ってきません。

数日後にジジにみつからないようにそっと帰って来た時には、時々、顔や体に傷跡ができています。ユキは体は大きいのですが、気が弱く、怖がりで、オス猫に遭遇すると逃げてばかりいるのですが、時々、メチャメチャにやられてしまうようです。

ユキは、こうして我が家に帰ってきて、餌をたらふく食べ、ゆっくり寝て、傷が癒えると、再び外に出たがります。どうかなと思いながら仕方なく出してやると、数日間は戻ってこないという生活を繰り返しています。前回は、結局10日ぶりにやっと帰ってきました。

ユキが何日も帰ってこないと、「もしかしたら、イヌや他のネコに襲われてケガをして動けなくなっているのではないか」と心配になります。

その度に「そうなったら、結果を受け入れるしかない」と思ったり、「もっと他によい飼い方あるのではないか」などと考え、やっと数日ぶりに帰ってくると心からホッとして嬉しくなります。

世の中はペットブームだそうですが、僕は自分が飼っているイヌやネコだけを「自分の家族」などと言って可愛がっているのではありません。

私たちは、自分たちが生きていくために、他の人や動物や植物など、他から奪ったり、他を押しのけたりして生きていかせざるをえません。これは実に悲しい現実です。

僕はそれを少しでも償いたいのです。そのために、自分よりも弱いもの、困っているものを少しでも手助けしたいのです。

ユキだけでなく、我が家にはこのような猫が何匹も住み着いています。どこかの家で飼われている猫も捨てられたノラ猫もやってきます。

彼らは僕にとってはペットでも家族でもありません。僕の分身です。いつも彼らの生きている姿が自分自身の生きている姿と重なるのです。





二度とブレないために

二度とブレないために

かつて盤珪禅師は「親が生みつけたものは不生の仏心一つである。不生にて一切が整う。これをよく決定(けつじょう)して、二度と迷わぬように、平生仏心でいるようにしなさい」と言われました。

広辞苑によると、「決定(けってい)」とは次のようになっています。
A:「はっきり決めること」
B:「はっきり決まること」

けれども、盤珪禅師の「決定(けつじょう)」という言葉には辞書が定義している意味よりもずっと深い意味があるのです。

盤珪禅師の「決定」にもAとBの意味があるわけですが、Bの「はっきり決まること」というのは、「たまたま状況的にそうなっている」という意味ではなく、「存在の真実はそうなっている」ということであり、「それは動かしようがない普遍の真実である」という意味です。

ですから、盤珪禅師の「決定」というのは、「そうしたほうがよいと思うから、自分でそのように決める」という自分のアタマによる「判断と決定」ではなく、(B)「動かしようがない普遍の真実」をはっきりと認識したうえで、(A)あらためて自分の意思で「はっきりとそのように決める」ということです。

つまり、盤珪禅師の決定は、状況や条件やアタマの思いや気分や感覚などによって変わることのない存在の真実に立脚した、「行き着くところに行き着いた完全な生き方」であり、どんなことがあっても動かしようもなく、また、絶対にブレようもないのです。

わかりやすくタバコを例に説明しましょう。
あるスモーカーが喫煙はデメリットばかりでメリットはひとつもないというタバコの正体に気づきました。
その結果、もはやタバコを吸う必要はないと思い、また、吸いたい気持ちもなくなったので、タバコをやめました。(でも、ガマンの禁煙ではありません。)
こうして、しばらくは快適に過ごしていたのですが、ある時ふとタバコを吸いたいような感じがしてきたので、迷った挙句1本だけと思って吸ったら、次々に吸いたくなり、いつの間にかもとの本数に戻ってしまいました。(アレンカーの本にはこんな事例がかなり出てきます。)

再喫煙をなくすためには、(A)タバコの正体(真実)にはっきり気づいて、(B)タバコをきっぱりやめれば、その時点で「タバコ問題はすでに最終的かつ完全に解決し、再び本来のタバコのない生き方が始まっている」という事実をはっきりと認識することです。

ですから、タバコの正体に気づいてタバコをやめた後は、どんな思いや気分などが現れても、「タバコにメリットがあると思って吸っていた時の思い出がまだ残っているんだなあ」と思うだけで、それ以上一切相手にしなければよいのです。そうすれば、そんな実態のない思いや気分はいつの間にか消えてしまいます。

このように、存在の真実がわかったつもりなのにブレてしまうことの根本原因は、タバコ図で言えば、左側の存在の真実と右側のアタマの思いや気分をアタマで同列にごっちゃにして考えるところにあるのです。

決定(けつじょう)とはアタマで強く思い込むことではありません。存在の真実を確かめて、そのうえで、存在の真実をそのまま生きるしかないのだとはっきり認識して生きていくということです。





本音か建前か

本音か建前か

「自分さえよければいい」、「助け合った方がいい」、みなさんはどちらが本音で、どちらが建前だと思いますか? 

この問いを数十人の中学生にすると、「自分さえよければいい」が本音で、「助け合った方がいい」が建前だと思うという意見がいつも多数です。

なぜ、そう思うかと尋ねると、次のような意見が出てきます。
教室の掃除なんかでも「みんな助け合わなければならない」と言われるから、仕方なくやっているけど、本心では、「嫌だなあ、面倒くさい」と思っている。家でもそんなことがしょっちゅうだから。

普通一般の大人でも、この中学生たちと同じような結果が出ているそうです。
もちろん「助け合った方がいい」とは思うけれども、この社会にはいろいろ難しいことがあって、生きていくのは結構厳しい。だから、何と言ってもまず、自分を、あるいは、自分の家族を何とかしなければ生きてはいけない。だから、「自分さえよければいい」が本音で、「助け合った方がいい」は建前だというわけです。

このように言われると、「なるほどなあ」とか、「その通りだ」と思う人も多いのではないでしょうか?

けれども、子供の時はともかく、大人になると体験を通して、いろいろなことをやっていくのには、お互いに協力し合わなければできないということをだんだん理解するようになっていきます。

たとえば、住んでいる地域の清掃作業などを共同で行わなければならない時や職場で何かみんなで協力して作業をしなければならない時、自分はできればやりたくはないと思いながらも、協力してやらなければと、みんなと一緒に協力して作業をする場合に、「自分さえよければいい」と「助け合った方がいい」のどちらが本音で、どちらが建前だと思いますか?

「みんな助け合わなければならない」と言われるから、仕方なくやっているけれども、本心では、「嫌だなあ、面倒くさい」と思っているのか? 
それとも、「嫌だなあ、面倒くさい」と思う気持ちはあるけれども、「やはり、みんな助け合わなければならない」という思いのほうが本音だと思うのか?

このように、いろいろと気持ちを分析してみると、何だか分からなくなってくるかもしれませんね。

これから先は時間をじっくりかけて、自分で答えを出すほうがよいでしょう。
そのためのヒントになりそうなことをいくつか以下に書いてみましょう。

1 「掃除はしたくないなあ」という気持ちは“本音”というより、その時の”気分“と言った方が当たっているのではないでしょうか?

2 「みんなで助け合って掃除をしなければならない」と言われて、結局、「掃除をしよう」と思って掃除をする場合には、「みんなで助け合わなければならない」ということが本音ではないでしょうか?

3 「助け合った方がいい」が建前、「自分さえよければ」が本音だと思っているとしても、心の奥底では「助け合ったほうがよい」と思っていて、それが本音ではないでしょうか?

4 どうせ掃除するのならイヤイヤやるのではなく、「イヤだ」という思いを切って、「よっし、やろう」とすっきりやった方がよいと思いませんか? ということは何が本音なのでしょうか?




佛様でいる

佛様でいる

私たちは何かのきっかけで、“自分“を真剣に見つめざるをえなくなることがあります。でも、自分を見つめれば見つめるほど自分のケチな根性(エゴ)の根深さに気づき、どうしようもなくやるせない気持ちになります。

そのエゴを何とかしたいと、いろんな本を読んで考えたり、工夫をしたりするのですが、なかなか思うようにはなりません。結局は、もうこれ以上考えるのはやめようと思っているうちに、いつの間にか日常生活に埋没していく人が大部分です。でも、いつも心のどこかで引っかかっているので心から晴れ晴れすることはありません。

中には、それがどうにも気になり、その解決を宗教的信仰や修行に求める人もいます。でも、心からの安心に至る人はとても少ないようです。

このことについて、江戸時代に生きた盤珪禅師は次のように言われています。
「厳しい修行をして悟りを開いて佛になろうとするより、佛でいるほうが簡単で近道ですよ。」

この言葉を聞いて「ああ、そうなのか!」とスッキリ納得された方は本当に幸せです。でも、現代人は中々「そうか」とはなりにくいのではないでしょうか。僕なりに説明してみましょう。

 
ケチな根性(エゴ)は人間の生まれつきのものではありません。二元相対的に思考するアタマ(大脳)によって、この世界をバラバラな存在が集まってできた世界だと認識するバラバラ観による“身びいき”から生じるのです。

多くの人はアタマ、あるいは、アタマで考えることが自分だと思い込んでいるために、ケチな根性を何とかなくしたり、出てこないようにいろいろ工夫したり努力をします。でも、アタマを頼りにしているために、思うようにはならないのです。それは自分の坐っている座布団を持ち上げようとするようなものです。

でも、自分の本体はアタマでも体でもありません。その奥にあるハタラキ・真心です。“いのち“が創り出したこの世界は、本来、調和の世界です。それは大宇宙の星々や大自然の循環・調和の有様を観察すれば、誰にもすぐに分かる真実だと思います。

真心は“いのち“が創り出したこの世界の本質であり、この宇宙に充満しているハタラキです。しかし、ハタラキの結果は五感で捉えることはできても、そのハタラキの本体は五感では捉えることはできません。

そこで、それを仏教では”空“とか、”仏性“などと呼び、盤珪禅師は”不生の佛心“と呼ばれ、僕はそれを阿弥陀如来の心、あるいは、真心と呼んでいます。

その真心こそが自分の本体なのであり、僕はいつもそれを意識して生きるようにしています。

それを趙州禅師流に言えば、
平常心が道である。

盤珪禅師流に言えば、
短気や迷い(エゴ)は生まれつきのものではない。
我が身の身びいきが迷い(エゴ)を生み出す。
佛心の尊さを知れば、迷いたくとも迷われない。
迷いが無いのが悟りであり、佛でいるということ。
不生の仏心が本当の自分であることに決定する。

僕流に言えば、
アタマの錯覚による“自分“がなければ、人に何を言われても傷つかない。
怒りは道徳の問題ではない。怒りが出てこないのが本来の姿だ。


佛様でいる。これが “エゴフリー”で生きる秘訣です。




佛様になる

佛様になる


(以下は、和田重正に学ぶ会機関誌『ここに帰る』第62号 令和元年7月15日発行に掲載された和田重正先生の文章です。)

少しかけ離れた話で、みんなには分からないかもしれませんが、私にはとても面白かったので話しておきます。
 鎌倉の円覚寺の管長さんは朝比奈宗源さんという偉い坊さんです。二、三年前このお坊さんに来ていただいてお話を聞いたことがあるのですが、その時こんなことを言われました。
 「人間は死んだら誰でも佛になる。一生修行を積んだ人も、積まない人も、宗教を信じた人も信じない人も、みんな同じ佛様になるのだ。少しも変わらない。悪いことをしたから地獄に行くとか迷って死んだら行くところへ行けないで人に祟(たた)るとかいうのはみんなウソで、どんな人でも全部立派な佛になるのです。」
 そのとき質疑に立った女の人に、宗源さんは声を励まして言われました。
 「死んで無差別の涅槃に入るというのでは、この世で善根を施したり(善いことをしたり)、修行をしたりして苦労することが無意味ではないかとあなたは考えるのだろうが、そんなケチなことではだめだ。」

 まことに、ケチな根性のために人間は、道理にあったものの考え方が出来ないのです。


以上の朝比奈宗源老師の言葉とそれに対する和田先生のコメントはまさに私たちすべてにとっての福音です。折に触れて何度でも読み返したいものです。

私たちは無垢の“いのち”の現れにより人として生まれ、その後人の特性として本能だけでなくアタマを使って生きていくために、正しいことだけでなく間違いを犯しながら生きて行きます。でも、いずれ肉体の生が尽きて、再び無垢の“いのち”そのものに戻って行きます。この存在の真実を朝比奈宗源老師はわかりやすく説いていられます。

このように、自分自身が間違いをしばしば犯しながら生きているだけでなく、人間の社会ではある人の間違った考え方や行いのために他の多くの人が被害や迷惑を被るということが頻繁に起こっています。

では、自分自身を含めて、間違いを犯し、他の人々を苦しめている人は“悪い人”なのでしょうか? これが今回のテーマでもあります。時間をとってよく考えてください。


結論から行きましょう。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。この言葉はまさに真理であり、福音です。その人の考え方や行いが真理に照らして間違っているのであって、その人の本体は無垢の“いのち”そのものです。ですから、ある人の考え方や行いを憎んでも、その人自身を憎まないのです。

朝比奈宗源老師の話を僕なりに言えば、本当は、死んでから佛様になるのではありません。その人の本体は生きている時からずっと佛様なのです。

だから、誰かが自分がそうすべきでないと思うことをした時にその人に対して腹を立てるということは、佛様に対して腹を立てていることであり、それこそ“罰当たり”なのです。

また、腹を立てるということは、相手の考えや行いではなく、相手そのものを憎むということです。相手がどんな意図で間違いを犯そうとも、その人を憎むということは天に向かってツバすることであり、ひいては、自分にツバすることなのです。




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