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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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 いのちのつぶやき その4

いのちのつぶやき その4

全部間違いだ 自分の考えだけではない すべての人が間違っている 

タバコ アルコール 麻薬だけではない その味はすべて後天的に覚えたもの
正しいもの 野口整体 福岡自然農法 

みんな間違っている 人の考え、自分の考え、世間の考え 全部 本当はどうか?
正体を見抜けば簡単

文明の方向自体が間違っている バラバラ観
この社会自体が依存症社会

みんなただ生きている
どこにも行かない

タバコを吸う  渇望感が解消  渇望感が生じる タバコを吸う ・・・・
ただずっと循環しているだけ 依存症の正体 世間の人の生き方も同じ

生命の樹形図・系統樹・生命の樹  生物の進化や枝分かれの道筋を樹木の枝別れのように表現したもの
例えば、1本の木が立っていて、幹から大きな枝が何本も出ており、それぞれの大枝からさらに小枝が何本もでており、そのうちの1本の小枝から6枚の葉っぱ出ているとする。

もし、それぞれの葉っぱに超高性能の視覚装置とコンピュータが付いていて、それが「私たち6枚の葉っぱは一つ家族であり、そして、この大枝の小枝から出ている葉っぱたちは親戚であり、この木のすべての葉っぱはすべて同じ葉っぱという種族には属しているけれども、他の枝の葉っぱたちとは別々のものであって、関係のない間柄である、と考えているとしたらどうだろう?
何かおかしくないか?

悟りは実践的に生きてこそ意味がある
すべてはただ、起きている なぜということはない

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
(川の流れは途絶えることはなく、(しかもそこを流れる水は)もとの水ではない。川のよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では消え、一方ではまたできたりと、もとのままの状態で長くとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む家も、またo同じである。)(方丈記:日本を代表する随筆の一つ。小さな草庵に隠棲した鴨長明が記した。)

自然界では一つの死が別のいのちの糧となる
繰り返される生と死のいのちの輪こそ永遠のいのちを生み出す源となる

宇宙が一つの生き物
この大宇宙には自己調整力がはたらいている

生も“いのち”死も“いのち”
悟ったからと言って何か別のものになるわけではない

不可分一体の真実を悟り、そのうえで自然(宇宙)の法則に沿って生きる
存在の真実を悟り、真実の生き方をする

本来、発酵と腐敗は同じものだが、
人間にとって好ましい結果を生むものを発酵、
そうでないものを腐敗と呼んで区別しているだけ

しかし、どうすれば好ましい結果になるのか?そこには人類にとっていのちをかけた試行錯誤があったはずだ。
そのように、成功も失敗も人類の叡智となりうる。

歴史というのは、ある日突然現れた一人の偉人が築くものではない。

太古の昔から試行錯誤を重ねながら一歩一歩いのちをつないできた人間たちによる営み、それこそが人間の歴史などである。

「自分」という感覚は幻のようなもので、この世のすべては繋がりあっていて、無関係なものなどひとつも無い

戦争は右腕で左腕を叩くようなもの






いのちのつぶやき その3

いのちのつぶやき その3

あるがまま。松は松。松はヒノキになろうとは思わない。
当たり前のすばらしさ。
今年の春は去年の春よりよくなろうとはしない。
存在には事実しかない。
事実は規定できない。規定以前。

何が起こっても自分は絶対に傷つかない  
自分は体でも目でもない。
そういうものはすべてその時々に身に着けている着物であり、“自分”ではない
自分はないのだから

事実の人となる
事実をアタマの思いで捉えたものは事実そのものではない。

人生についての問いに対する答えは“いまここ”にある
迷いをダメとしないで、迷いを突き抜けたところに悟りがある

自分(自己)は存在することはできない。なぜなら自分は存在そのものだから。

因果の流れの外に出る。でも、もともと外に出ているのだ。

もともと因果(原因と結果)というのはない。妄想にすぎない。
見かけ上あるように見えているだけ
唯一(絶対の)ものには因果はない。因果は二つ以上のものがあるときに生じる。


やめるには方法をもってしてもだめだ
やめればやまる
やめようと思うときに感じる不安や恐怖は妄想だったことがやめてみたらわかる。

根拠のない不安や恐怖が出て来ても、それを妄想だとして相手にしない
真実は2+3は5であることがわかったら、素直に真実を受け取って、素直に真実に沿って生きる。
もしそうするのに不安感や恐怖感が生じるとすれば、それはノイローゼだからだ。
ノイローゼで作り出した不安や恐怖をノイローゼのアタマで何とかしようとしても、何もできない。
それを何とかしなければといろいろ考えたり、取り除こうとしたり、逸らそうとしたりなど、相手にするから余計にコンガラカッテしまう。

ただ、真実を素直に受け取りそれに沿って生きていくだけ。不安や恐怖が出て来ても相手にしないで放っておけばよい。そのうちに不安や恐怖はひとりでどこかに行ってしまうだろう。

タバコをやめるにはただやめればよい。
方法をもってしてもだめだ。
やめたら、不安や恐怖が妄想だったことがわかる。
吸いたい気持ちが出て来ても相手にしないで放っておけばよい。そうすれば、いつの間にか吸いたい気持ちは消えてしまうだろう。
それを意志の力で抑え込もうとしたり、逸らそうとしたり、相手にするからいつまでも不安や恐怖が消えない。
タバコをやめるのはそれほど簡単なことだ。
これはタバコだけでなく、すべてに当てはまる。
このシンプルな真実が分かれば、なんでもスイスイできるようになる。真の自由を手に入れることができる。
というか、真実は、もともと誰でも完璧に自由なのだ。

こころ全開で生きる
真心丸出しで生きる
こころはもともと開いている
閉じれば自分を守れると思い込み、心を閉じる

私たちは“いのち”そのものである。
だから“いのち”から落ちこぼれることは絶対にない。
真実は、この世界は絶対安心の世界である。

この体、この思いや感情や感覚の奥にそれを成り立たせているものがある。それが僕だ。
それはこの体やこころのなかだけにはたらいているのではない。
この世界、天地いっぱい、そのすべてにはたらいている。
それを僕は“いのち”と呼ぶのだ。
僕は“いのち“だ。
“いのち”が僕を通して生きている





生(ナマ)の世界

生(ナマ)の世界

僕は若い時に、ひょっとしたことから、どんなことがあっても、自分というものは絶対に変わるものではなく、何があっても大丈夫なのだということに気がつきました。

それから数日後の夕方のことです。その日は朝からずっと小雨が降り続いていましたが、僕は傘を差して近くの公園に散歩に出かけました。

数日前の思いもかけない体験によって、もはや何かについて悩むということもなく、僕のこころはとても軽くなって、ただ、公園の中をのんびりと歩いていました。

公園には、犬を散歩させている中年の男性、公園の中の池をぼんやり眺めている女の人、道路の水たまりをよけながら歩いている人、傘を持たずに急いで歩いている人などがいました。池の中にはカモが数羽泳ぎ、木々の葉っぱも道の脇の草もみんな雨に濡れて光っていました。

しばらく立ち止まって、周囲を“ただ”見ていた時、突然、気がつきました。すべてが静かで平和でした。すべては “ただ”起きて、 “ただ”そこに存在していました。すべてはひとつのものであり、一切の分離がなく、“自分”というものもありませんでした。

“ただ”というのは、すべては、僕がいろいろ思考する以前に、つまり、“そのままで”ということです。

アタマで思考するからすべてが分離しているように見えていただけなのです。思考以前に“ただ”起きて存在している生(ナマ)の世界は元々ひとつでした。

また、アタマで勝手に作り上げた優劣や差別や所有や善悪などというモノサシによって“そのもの”を“測ろうとするから、優劣や差別や所有や善悪などがあるかのように見えているだけです。存在そのものはすべての観念を超越して、”ただ“存在しています。

つまり、“そのもの”の上に本来ありもしないレッテルを貼って、レッテルに書いてあることを “そのもの”、つまり、生(ナマ)の真実だと勘違いしているのです。

つまり、“そのもの”はアタマの思いや判断などのレッテル以前に、すべてのものとぶっ続きで、すべての観念を超越して“完璧”なものとして“”ただ“存在しています。

以上はその夕方の気づきを、それこそ、理屈で説明したものです。本当に大切なのは、「本来、この世界にはバラバラなものはひとつもなく、“そのままで“すべて完璧であり、個としての”自分“というものもない」という真実を生(ナマ)のまま体験的に理解することです。

では、そのためにはどうしたらよいのでしょうか?
自分自身の体験からも、禅をはじめとして、思考を相手にしない瞑想を実践するのもよいでしょう。

それはそうなのですが、僕の本音を言えば、ここまで書いてきた「この世界はもともとひとつのものであり、すでに完璧である。個としての“自分“はいない」という存在の真実を一応アタマで理解できたら、後はそれをこころの宿題として時々思い出すだけでよいと思うのです。

そうしているうちに、日常生活のなかで機が熟して、何かのきっかけで、ふと「なるほどそうだ!」と実感できる時が自然に巡ってくるでしょう。

存在の真実はすでに目の前にあります。でも、それを掴もうとすれば、逃げていくのです。

“ただ”というのはそのようなものです。





不可分一体のいのちの世界とは 付録編

不可分一体のいのちの世界とは 付録編

以下は、かなり以前に『ある目覚めの体験』として『いのちの塾』に掲載したものですが、今回の特別編『不可分一体のいのちの世界とは』の締めくくりとして最適だと判断し再掲載する次第です。繰り返し読んでいただければ誠に幸いです。


これは僕の恩師和田重正先生が10代のある日突然、「自分とは何か」「自分はどう生きるべきか」という人生の一大命題に直面し、10年間その答えを求めて日々苦悶格闘した結果、ついにその答えを見つけることは不可能だと見極め、絶望のあまり、劇薬を飲んで自殺しようとしたまさにその瞬間に、存在の真実に目覚めた体験を記した貴重な記録です。

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四月二日正午のことです。将に服もうとするとき、日頃口をきいたこともない女中が廊下伝いに急ぎ足で私の部屋にやってきて、障子を細く開けて言いました。

「ごらんなさいませ。もうこんなに咲き始めました」

その張りのある明るい声に誘われて、私は何気なく振り向きました。女中の差し出して示す桃の小枝にはポッとまさに開こうとする桃色の蕾がついています。

それを見たときの私の驚きようは、ただ目を見張るばかりでした。そして心中にはこんな叫びが渦巻いて起りました――、「みんな間違いだ。今まで見たり考えたりしたことは悉く夢だったのだ。コレが本当なのだ。真実なのはコレなのだ」

この驚きや叫びと同時に明るい世界に生まれ出たような気がしました。予期しない、あまりに急激な世界の変貌のために、暫しは呆然としましたが、「まてまて、これも瞬間の夢ではないか」と思いましたので、驚いてなおそこに立ちつくしている女中を去らせ、独り正坐して静かに瞑目しました。

――生け垣の外を子どもが歌って通ります。庭の植込みで小鳥が啼いています。時々、遠くを走る省線電車の音が伝わってきます。五秒ぐらいだったか、それとも二、三十分も経ったかわかりません。「よし!」という気がするので、それでも恐る恐る目を開けてみました。後戻りしていません。急に腹の底から大きな笑いが押し上げて来ましたが、辛うじて爆発を抑えました。

久しぶりに障子をあけて庭を眺めました。桜も松も生きています。門の外へも出て見ました。森も小川も雲も大地も、春の麗かな光の中にいのちのよろこびに燃え上がっています。

このとき、私は生まれてはじめて天に向って合掌しました。思慮も分別もなしにただ合掌したのでした。

実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。あの世界の質は極度に粗い。この世界は精妙微妙を極めている。この世界の景色はあの世界の言葉では言い表わすことができない。

これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。

光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て「愛されている」と思いました。そして更に、この世界の実質が「愛」というものであろうと思いました。

愛の世界においては、自分の小さな力によるもがきやはからいには拘りなく、すべての事物がありのままに、しかし必然性をもって存在し展開しているのだと知りました。
(以下省略)


昇平のコメント
「実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。」

この世界は無生物でできた舞台にバラバラなものが寄り集まって、はかないいのちを生きる世界ではありません。この世界自体が一大生命体、すなわち、すべて一つの永遠に生きている世界なのです。

「光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て『愛されている』と思いました。そして更に、この世界の実質が『愛』というものであろうと思いました。」

この世界の本質は「愛」です。“いのち“は”愛“なのです。不可分一体の“いのち“の世界は不可分一体の”愛”の世界です。

「これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。」

それまでアタマで思っていた世界は無機質の死んだ世界だったのです。ところが、アタマを通さずに桃の花をそのまま見た時に、この世界の正体を見たのです。

この世界は、まさに、光と、もえるいのちの生き生きとした、どこまでも行き詰まりのない愛の世界です。





祈れる人になる

祈れる人になる

祈れる人になってください。

これは僕の青年時代に、和田重正先生がある人に言われた言葉です。僕はこの言葉を間接的に聞いて以来、今日まで折に触れてこの言葉を暖めてきました。

まずは、この場合、和田先生が言われる「祈る」というのは、何を意味しているのかといろいろと思いを巡らしてみました。

まず、思ったのは、自分を対象にして、「病気が治りますように」とか、「入学試験に合格できますように」とか、「仕事がうまくいきますように」など、何かがうまくいくように祈るということではないだろうということです。

また、家族円満とか家族の健康を祈願するというようなことでもないだろうと思いました。

そして、祈る対象は自分自身のことではなく、相手、あるいは、他の人が対象なのだろうと思いました。

つぎに、相手、あるいは、他の人の何を祈るのかと考えました。それで思いついたのは、対象となる人の“幸せ”を祈るのだろうということです。でも、この答ではまだ何かずれているように感じました。

それで思い至ったのは、相手がどんな人であっても、例え、その人が自分の思いに沿わないことをしたとしても、相手をただ非難するのではなく、その人の幸せを祈る、あるいは、その人を思いやるということではないかということです。これは、実際にはなかなか難しいことですが、それだけに僕には答えとしてはかなりしっくりきました。

これがなぜ難しいかと言うと、結局は、その根底にバラバラ観があるからです。何かが自分の思いに沿わないことを相手が言ったり、したりすると、それが気に食わなくて、相手を負かしたり、抑え込んで自分の意志を貫こうという気持ちが生じるからです。

それだけに、あるいは、だからこそ、相手の幸せを祈れる人になることが大切だということなのでしょう。

また、そのように何があってもその人の幸せを祈れる人となってはじめて、相手が本当は何を言おうとしているのか、どうしてそんな無茶なことを言ったり、したりするのだろうかということを理解しようという気持ちが生まれるのだと思います。そして、そのような姿勢で生きることによって、バラバラ観から徐々に脱却していくこともできるのだと思います。

僕は和田先生の言われる「祈れる人になってください」という言葉を一応このように納得して、そのように生きることを日々心掛けて生きてきました。

でも、ずっと先生のその言葉にはさらに深い意味があるようにも感じていました。そして、その答えが僕のこころのなかで徐々にはっきりしてきました。

それは、この世界の根底に流れている大いなる慈悲に導かれて自分が生きていることにはっきりと気づいたことです。

そして、日々この真実に気づかされるたびに、自分は何と幸せなことかと思うのです。

それだけに、この世界において多くの人や動物たちが苦しみの中で生きている、あるいは、死んでいく現実にあって、たとえ相手に何を言われようと、何をされようと、すべての人々、そして、生きとし生けるものすべての幸せをこころから祈らずにはいられません。

どうか、みなさんも祈れる人になってください。

新しい年がよいお年になりますように!







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