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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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死についての勘違い

死についての勘違い

人は誰でもいつかは必ず死にます。

その死について次のように言う方がいます。
「人生というものは市民マラソンのようなものだ。選手は途中見える風景をそれぞれに楽しみながら走っていく。所々には給水ポイントがあり、冷たい水やジュースなどを飲んだり、何かを口にいれたりして一息入れることもできる。そしてゴールに向かって走り続ける。人生マラソンには落伍者がいない。必ず全員がそれぞれのタイムで完走してゴールに飛び込むのである。しかし、そのゴールにはテープは張ってない。ただ、みんな崖の上から深い真っ暗闇の谷底に落ちていくのである。」

読み終わった後、なんかゾーッとしませんか。とくに最後のところが。

だから、ほとんどの人は普段「自分の死」というものからなるべく眼を逸らそうとしているのではないでしょうか。そして、「どんなに嫌でも、どうせ死ななければならないのだから、生きているうちにできるだけ楽しく生きられればと思っているのではないでしょうか。

たしかに、人間は「生き続けたい」という本能を具えた動物ですから、たとえば、路地を歩いているときに、横の小道から突然自転車が飛び出して来た時などには冷やっとします。これは危険を察知して、瞬間的に「身を守れ!」というアラームシステムが働いているのです。ですから、人間にとってはごく自然の反応と言えるでしょう。

でも、僕は上の死についての説明の最後の「みんな崖の上から深い谷底に落ちていく」という箇所の表現の仕方にちょっと異論があるのです。

もし、肉体が死んだ後でも魂は生き続ける、すなわち、自我がずーっと存続するとすれば、それは使っている体が動かなくなっただけで、それを使っている魂である“自分“は生きているのですから、本当の意味では、自分は死んでいないということになります。

次に、もし、「魂などというものはなく、肉体ともに”自分“というものも無くなってしまうのであれば、完全に熟睡している状態を想像すればわかるように、「自分が死んでいる」という意識さえもないのです。「怖い」などという感情が湧いてくることもありません。それは「完全な安らぎ」であるとさえ言えるでしょう。

ほとんどの人は、身近な人が亡くなった後に、その固く動かなくなった状態を見て、「それが自分の身に起きたら」と、生きている自分がアタマで自分の死に重ね合わせて「怖い」とか「イヤだ」と思ってしまいます。

僕が「死に対する勘違い」と言っているのは、アタマで人の死の様子を自分の死の様子であると想像することです。

人の死と自分の死はまったくの別物です。人が死んだ時にはその様子について、いろいろな思いや感情が出てきます。でも、自分が死んでしまえば、自分自身の死について「怖い」とか「イヤだ」とか、あるいは、「これで楽になれた」とさえ、まったく思うことも感じることもないのです。

生きている限り、できるだけ精一杯生きようとするのは当然ですが、それでも、自分がいよいよ死ぬんだなという時には、どんな気持であっても、その気持ちぐるみ死んでいくのですから、何の心配も不安も必要はないのです。

すでに亡くなった方々も同じです。





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名前とバラバラ観

名前とバラバラ観

この世界は本来不可分一体の世界です。

自分は全世界とぶっ続きの“いのち“を生きています。

自分は大きな世界の中に小さな個として存在しているのではありません。

宇宙即我、つまり、全宇宙・全世界がそっくり自分なのです。

このように言うと、「宇宙即我」なんて、すごい悟りですね、な~んて言われそうですが、気がついてみたら、実に当たり前の真実にすぎません。なぜなら、もともと、みんな一つだということに気がつけばいいのですから・・・。

でも、それに気づくのがすごい、なんてあなたは言うかもしれませんね。

確かに、すごいと言えば、すごいとも言えるかもしれませんが、それでも、気がついた真実はごく単純なことにすぎません。

では、なぜ、ほとんどの人が難しいことと思っているのでしょうか? それが分かれば、存在の真実なんて誰でも簡単に分かるようになります。「なあんだ、そんなこと当たり前じゃん」というわけです。

では、あらためて、なぜ、ほとんどの人が「宇宙即我」の真実に気がつくのが難しいと思っているのでしょうか?

それは、名前を付けるからです。

勘がいい人はなるほどと思われたかもしれませんが、ほとんどの人は「名前? エッ? どゆこと?」と思われたでしょうね。では、分かりやすく説明しましょう。

たとえば、今「カー カー」という音が聞こえているとします。そうすると、私たちは「カラスが鳴いている」と思います。

これが問題なのです。「カー」はただ「カー」なのですが、名前は他と区別するためのものですから、“カラス”という名前を付けた瞬間に世界が分離しバラバラになってしまいます。

つまり、カラスとそうでないもの、カラスとそうでない自分、というようにすべてが分離しているかのようにアタマは認識するのです。というか、アタマはいつでも、この世界を分離したものとして捉える傾向があるのですが、ちょっとしたきっかけを捉えては、名前を付けることによって、それを実証しようとする傾向があるといったほうがより正確なのかもしれません。ニワトリが先か、タマゴが先かの問題と似ていますね。

でも、真実は、「ゴ~ン」はただ「ゴ~ン」なのです。「鐘」という名前を付けなければ、ただ、それだけで、この世界のどこにも分離したものはありません。

聴覚だけでなく、視覚についても同じです。

たとえば、今、前方を見ているとします。いろいろなものが見えています。ただそれだけで、どこにも分離したものはありません。すべては一つです。この世界は不可分一体の世界です。

ところが、「あそこに”山“がある」とか「”空“に”雲“がある」というように、名前を付けた瞬間に、この世界はみんなバラバラの分離した世界であるかのように認識されてくるのです。

この実験は簡単にできるのですが、アタマ型の人は「分かったようで、分からないなあ」と思うことでしょう。

そういう場合には、絶対の静寂の中で、思考を止めてこの世界を見ていればよいのです。

そして、いったん、この世界には分離がないということが分かれば、名前を付けようが付けまいが、いつでも不可分一体のこの世界を実感できるようになるでしょう。





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真実に眼を覚ます

真実に眼を覚ます

タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。


タバコの負の無限ループはきっぱりとやめてしまわないかぎり死ぬまで続く。

それでもタバコを吸いたいと思うか?

でも、こんなことはほんの一例にすぎない。

ある南の島の豪華なホテルに泊まっている一人の富豪(F)が、いつもヤシの木の下で昼寝をしている現地人の男(G)をつかまえて話しかける。

F:怠けてないで、一生懸命に働いたらどうだ。
G:一生懸命に働いて、どうするの?
F:とにかく働いて働いて、大金を貯めるんだよ。
G:大金を貯めて、どうするの?
F:たとえば、暖かい所に別荘を持つのさ。
G:別荘を持って、どうするの?
F:別荘の庭のヤシの下で、昼寝をするんだよ。
G:オレはずーっと前からこうしてヤシの下で昼寝をしているよ。

ほとんどの人は自分が何事についても負の無限ループ思考に陥っていることに気づいていない。

だから、目の前の存在の真実に目覚めることができないのだ。





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カント少年の悟り

カント少年の悟り

インマヌエル・カントは18世紀、ドイツが生んだもっとも偉大な哲学者だと言われています。

カントは大学で哲学を学び、深い思索をもとに独自の考えを次々に発表し、有名な大学の総長にもなり、80歳まで生きました。

彼の著書『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』は今日に至るまで西洋哲学全体に大きな影響を及ぼしています。また、彼は当時の不安定な国際状況を憂い、『永遠の平和のために』という本も書いています。

このような彼の経歴を聞くと、ほとんどの人は、カントは裕福な家庭に育ち、アタマがとてもいいだけでなく、健康にも恵まれて丈夫な人だったようなイメージを抱かれるかもしれません。

けれども、カントは小さな村の貧しい馬具職人の四男として生まれ育っただけでなく、体が先天的に変形しており、背中には大きな瘤(こぶ)が載っていました。また、胸の乳と乳の間が6センチぐらいでとても狭く、そのため幼い時からいつも、ぜいぜいと苦しい呼吸し、脈拍もとても速く打っていました。けれども、家が貧しいので医者に診てもらうこともできませんでした。

カントが15,6歳の頃、村に巡回の医者がやってきたので、初めてカントは医者に診てもらうことができました。

医者は丁寧にカントの体を診察した後、カント少年に言いました。

「この体ではいつも苦しくてしかたがないだろう。この体は何をやっても治らないよ。でも、ご両親に苦しい、辛いと言っても、ご両親はただ辛い思いをするだけだ。だから、どんなに体が苦しくても、苦しいとか辛いと言わないようにしてごらん」

医者はさらに続けて言いました。

「確かに、体は治らないかもしれない。でも、君の心は病んでも苦しんでもいないじゃないか。だから、そのことを感謝して毎日を生きていきなさい。」

この言葉によってカント少年の心は180度転換しました。
「お医者さんの言うとおりだ。苦しい、辛いといくら言ってみても、体がよくなるわけではないし、苦しさがなくなるわけではない。よけいに苦しくなるだけだ。それだけでなく、お父さんやお母さんを苦しめ、悲しませる。僕は今までなんという親不孝をしてきたのだろう。本当に申し訳なかった。」

「これからはどんなに苦しくても、絶対に苦しいとは言わないようにしよう。心は何ともないのだから、その何ともない心でやれることをやっていこう。」

こうして、苦しい中にも勉学に励み、幸いにも、大学にも入って、ついには哲学の分野で偉大なる業績を上げることになったのです。

医者が言ったのは「体は病んでいても、心まで病ませることはない」ということです。しかし、それは単なるプラス思考ではありません。

心はもともと絶対の静寂・透明・空であり、絶対に何ものによっても傷付いたり、汚れたり、病気になったりするものではない、ということです。その真実にカント少年は気がついたのです。そして、この心の真実に立って、カントは生涯明るく積極的に生き切ったのです。

何ごとも心の持ち方一つに掛かっているのです。

掛け替えのない一生をどこまでも明るく、積極的に、みんなと仲良く、本当に幸せに生きるポイントは、まさに、ここにあります。

自分が心の主人公なのです。





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眼を瞑って自分を確かめる

眼を瞑って自分を確かめる

普通、ほとんどの人は「自分とは何か?」などと自分自身に問うことはほとんどないでしょう。

もし「自分とは何か?」と問われても、ほとんどの人は何となくその答えが分かっているような気がしているのではないでしょうか。

「自分とは何か?」と問われれば、ほとんどの人は他の人と区別することのできる自分自身の人間的な個人的特徴をいくつか並べるでしょう。それは、通常、その並べ立てたいくつかの個人的特徴が自分を表していると自分自身が思っているからです。

では、自分自身を他人と区別し、自分自身の自己証明となるような個人的特徴として挙げられるのは、通常どのようなものがあるでしょうか?

自分の名前、人種、国籍、年齢、性別、結婚関係、家族関係、体付き、仕事、住所、財産、学歴、友人関係、趣味などでしょうか。

その他に、個人的特徴として、過去の経験とか、思い出とか、考え方、体の特徴とか、もっと精密な特徴を挙げることもできるでしょう。

いま自分が日本でなく、ヨーロッパ、あるいは、アメリカにいるとすれば、皮膚の色、髪の色、眼の色などを挙げるかもしれませんね。

いずれにしても、ほとんどの人が、そういう個人的特徴によって、「自分」というものを他の人と区別できると漠然と考えています。

では、他のものに邪魔されない静かな場所で、眼を閉じて、心を静かに、それらの際立った特徴のどれか一つでも、いまここに存在しているかどうかを検べてください。最低1分間は掛けてください。イメージではありません。

そうすれば、そのような「個人的特徴」と呼ばれるものは何も存在していないということがはっきり分かるはずです。

分からなければ、分かるまで何回かやってみてください。

では、そこであなたは何を経験しているのでしょうか?

あなたは、いかなる個人的な特徴もない、「本質である自分自身」をありのままに経験しているはずです。

つまり、そこにあるのは、どんな人間としてあなたがあるか、ということではなく、ただ、「あなたが存在している」ということです。

先に挙げた他の人と区別するいろいろな“個人的特徴“というものは、何者でもない自分自身に、二元相対的思考しかできないアタマによって外から勝手に付けた”ラベル”、あるいは、規定にすぎません。

ほとんどの人は個人的特徴というものの総和が自分であると漠然と考えているようですが、個人的特徴というものは時と場合によってクルクル変わる幻影のラベルなのであり自分自身ではないのです。

重要なことは、「自分は~~である」ということではなく、「ただ自分は存在する」ということです。

さらに言えば、自分というものには、本当は、他と区別する個人的特徴はないということは、他の人、他の存在にとってもまったく同じだということです。

ということは、他の存在と自分とを区別するものがないということであり、結局、「みんな一つの同じ存在である」ということです。

この実験?のもう一つ大切なことは、眼を瞑って、ただ、自分が存在していることを意識していると、自分は死なない、つまり、不死の存在であることが分かるということです。

気負わないでやってみてください。




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