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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自己と世界

自己と世界

突然ですが、宇宙の中心はどこにあるのでしょうか?

現在の宇宙物理学では、宇宙の中心はどこにあるかは言えないというのが大体の考えのようです。

でも、それは、いわゆる、“客観的な”考え方です。つまり、自分を含めていろいろなものが存在している宇宙という一つの世界、というか、舞台のようなものを想定して、その舞台の中心はどこであるかと考えているのです。ついでに言えば、自分を含めていろいろなものがそれぞれその舞台のどこに位置しているかを考えるというわけです。

一方、“主観的な”考え方は、要するに、自分がどう思うかということです。ですから、自分が舞台の中心は、たとえば、舞台の中にあるあの松の木の幹の中心だと思えば、そこが舞台の中心であるということであり、舞台の中にあるイスが中心だと思えば、そこが舞台の中心であるということです。

こう考えてみると、主観的な考え方は客観的な考え方に比べると普遍性がないような感じがするのは事実です。実際に、日常的にも、「それは君の主観的な考え方であり、客観性がないよ」などという場面に出会うことが結構あるのではないでしょうか?要するに、主観的な考え方は、単なる“思い“にすぎなく、事実そのものではないということなのでしょう。

では、客観的な考え方は事実そのものに立脚していると言えるのでしょうか? つまり、客観的な考え方だからと言って、その考え方が果たして事実そのものを正しく述べていると言えるのでしょうか? 

たとえば、昔の人は太陽が地球の周りの廻っていると考えていました。昔はそれが、いわば、客観的な考えだと思われていたのです。でも、現代ではその考えは間違っていることが分かっています。バラバラ観も間違った考え方の一つです。けれども、現代でもほとんどの人がその考え方を客観的な事実だと勘違いしています。

このように考えてくると、主観的考え方でも客観的考え方でも必ずしも事実を正しく表すことはできるとは言えないようです。

実は、ここまでが今回のブログの前置きです。僕はこの自分というものと自分が生きる世界とを二つに分けてはいません。ひとつしかないのです。どういうことかと言うと、ここに確かに自分がいるのですが、その自分が、すべての存在を含んで、ずっと世界中、宇宙の果てまで(宇宙に果てがあるのかわかりませんが)繋がっているのです。

俺の世界は俺の周囲を廻る
俺は此処にいる
動かない

これは野口整体の創始者である野口晴哉先生の言葉です。“俺”と“世界”の二つに分かれているのではありません。“俺”と“俺の世界”、つまり、すべて“俺”なのです。

尽十方世界は是れ沙門の全身
(全宇宙が道を修める自己の全身である)

これは昔の中国の長沙景岑禅師の言葉です。何だか大きな悟りを開かなければ分からないような深遠な境地と思われるかもしれませんが、これこそ主観・客観を超えた僕の実感とまったく同じです。

でも、この存在の真実に気がつくのは決して難しいことではありません。誰でも先入観なしに静かに自分とその周りを見回してみれば、自分がこの世界の果てまで広がっているのを容易に感じることができるのです。

本当に誰でも天上天下唯我独尊の存在なのです。





不生

不生

盤珪禅師は「親が産み付けたのは不生の仏心ひとつである。仏心は不生にして麗明なものである。だから、不生の仏心で一切の事が整うのである。一切の迷いは身のひいきから生じる。迷わないのが悟りである。だから、常に不生の仏心ひとつでいなさい」と説いています。

盤珪禅師の言う「不生」とはどういう意味か、僕は本人ではないので、これと断定はできないのですが、以下、僕なりに推測したものです。

「不生」と言うと、まず、「不生不滅」という言葉が思い浮かびます。盤珪禅師は「不生」、つまり、「生まれないもの」は滅することはないのだから、わざわざ、「不滅」と付け加える必要はないと言っています。

ということは、「不生」とは「不生不滅」を略して言っているのだということになりますが、僕にはそれだけが盤珪禅師が使った「不生」の意味ではないように思えるのです。

盤珪禅師は「この世界は不生が顕現したものである。つまり、この世界の本質は不生である。すなわち、この世界は現象界(生まれたもの)である。それに対して、この世界の本質は不生(生まれないもの)である」と言っているのでしょう。

さらに、付け加えれば、「この世界(現象界)においては、一見、それぞれのものが生滅(生まれたり滅したり)しているように見えます。それに対して、この世界の本質は不生不滅である」ということなのでしょう。

ただ、「不生不滅」と言うと、生滅する世界が顕現した後で、生滅を否定しているような感覚として捉えられかねないので、「この世界が顕現する“以前”の何もないもの」という意味をはっきり伝えるために「不生不滅」ではなく、あえて、「不生」という端的な言葉を使ったのだと僕には思われます。

盤珪禅師の言うように、存在の真実を本当に悟りもしないで、“不生不滅”という言葉だけを覚えて、分かった風に「不生不滅、不生不滅」と言ったり、理解されることを避けたかったということも確かにあるのでしょう。

この現象界においてはすべての存在は私たちの五感と大脳(アタマ)を通して認識すると、一見、すべてのものがバラバラに存在し、生滅しているように見えます。しかしながら、この世界の本質は不生であり、その働きによってこの世界が存在しているのです。つまり、この世界はバラバラなものが寄り集まってできたのではなく、不生不滅の不可分一体の世界なのです。

ですから、この不可分一体の世界は、人間のアタマの錯覚や妄想で作りだしたものを除いて、麗明な不生のハタラキによってすべてが互いに調和して自ずから整っているといます。

「不生の仏心」についてもまったく同じです。私たちひとり一人の本質は不生の仏心だけなのです。体、知識や知恵、マイナス感情などその他のものはすべて後天的に身に付けたものでしかありません。ですから、不生の仏心で自分も、周りも、一切のことが自ずと整うようになっているのです。

本当の自分はこの世界を在らしめている不生ですから、何が起こっても決して変わることはありません。だから、何も心配することはないのです。





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「天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊

「天上天下唯我独尊(てんじょう・てんが・ゆいが・どくそん)」とはお釈迦様が悟りを開かれた時に、思わず発せられたお言葉だと言われています。その文字通りの意味は「この世界においてただ自分一人が尊い」ということです。

この言葉を巡ってはいろいろな解釈があるようですが、今回は僕の存在の真実の体験を通して、この言葉の真の意味について書いていきたいと思います。

もちろん、この「天上天下唯我独尊」というのは「全世界で自分だけが尊く、他の者はみんな卑しい」というような、バラバラ観の中での優劣の話をしているわけではありません。
「尊い」という言葉はそのような浅薄な意味で言われているのではありません。

では、本当はどういう意味でしょうか?

それは、「この世界には自分しかいない。他には誰もいない」という真の事実を言っているのです。

では、他の人は? たとえば、家族や何々さんたちはいないの? とてもそんな風には考えられないと思われるでしょう。でも、本当に、自分以外は誰もいないのです。

それでも、他の人は? と聞きたくなるでしょうが、他の人はこの自分の中にいる。自分の中にすべての存在があり生きているのです。分かりやすく言えば、「自分の中にこの世界・大宇宙があり、すべてが存在している」ということです。

真の事実は、自分は、英語で言う、「ワン・オブ・ゼム(one of them)」、つまり、大勢の中の一人ではありません。この世界には自分しかいないのです。だから「我一人尊い」のです。

別の言い方をすれば、「自分がこの世界の主人公である」ということです。誤解を恐れずに言えば、「自分は自分という王国(全世界・全宇宙)の王様である」ということです。だから、自分の生き方はすべて自分で決めることができるのです。

と言っても、他の人の考えや意見を無視してもよいと言っているのではありません。自分は他の人の考えや意見を無視することもできますし、尊重することもできます。どちらでも自由にできるのです。その完璧な自由に立って自分がすべてを決めるのです。

もちろん、すでに起きてしまった状況・事実そのものを変えることは絶対にできませんが、自分がすべてを決めて生きていくことができるという自由がもともと具わっているということです。

実は、その真実を自覚しているかどうかにかかわらず、すでに誰でもそのように生きています。

つまらない、嫌だ、嬉しい、楽しい、などなど、どのように思っているかに関わらず、決めているのは自分なのです。

たとえば、すでに起きてしまったことを悔やみながら生きることもできます。人が自分の思うようなことに反するようなことを言ったりしたとき、腹を立てこともできます。「あっそう」とさらっと事実を受け止めることもできます。


このありのままの世界を真の意味で楽しく、積極的に生ききれるかどうかは、すべて自分次第なのです。

自分という存在は、無限の宇宙の歴史のなかで、ただ一人しかいません。その自分を、そして、すべての生きとし生けるものを幸せにできるかどうかは, な!なんと!まさに自分一人にかかっているのです。

だから、「天上天下唯我独尊」なのです。

自分を本当に大切にする人だけが周りの人を幸せにできるのです。





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死についての勘違い

死についての勘違い

人は誰でもいつかは必ず死にます。

その死について次のように言う方がいます。
「人生というものは市民マラソンのようなものだ。選手は途中見える風景をそれぞれに楽しみながら走っていく。所々には給水ポイントがあり、冷たい水やジュースなどを飲んだり、何かを口にいれたりして一息入れることもできる。そしてゴールに向かって走り続ける。人生マラソンには落伍者がいない。必ず全員がそれぞれのタイムで完走してゴールに飛び込むのである。しかし、そのゴールにはテープは張ってない。ただ、みんな崖の上から深い真っ暗闇の谷底に落ちていくのである。」

読み終わった後、なんかゾーッとしませんか。とくに最後のところが。

だから、ほとんどの人は普段「自分の死」というものからなるべく眼を逸らそうとしているのではないでしょうか。そして、「どんなに嫌でも、どうせ死ななければならないのだから、生きているうちにできるだけ楽しく生きられればと思っているのではないでしょうか。

たしかに、人間は「生き続けたい」という本能を具えた動物ですから、たとえば、路地を歩いているときに、横の小道から突然自転車が飛び出して来た時などには冷やっとします。これは危険を察知して、瞬間的に「身を守れ!」というアラームシステムが働いているのです。ですから、人間にとってはごく自然の反応と言えるでしょう。

でも、僕は上の死についての説明の最後の「みんな崖の上から深い谷底に落ちていく」という箇所の表現の仕方にちょっと異論があるのです。

もし、肉体が死んだ後でも魂は生き続ける、すなわち、自我がずーっと存続するとすれば、それは使っている体が動かなくなっただけで、それを使っている魂である“自分“は生きているのですから、本当の意味では、自分は死んでいないということになります。

次に、もし、「魂などというものはなく、肉体ともに”自分“というものも無くなってしまうのであれば、完全に熟睡している状態を想像すればわかるように、「自分が死んでいる」という意識さえもないのです。「怖い」などという感情が湧いてくることもありません。それは「完全な安らぎ」であるとさえ言えるでしょう。

ほとんどの人は、身近な人が亡くなった後に、その固く動かなくなった状態を見て、「それが自分の身に起きたら」と、生きている自分がアタマで自分の死に重ね合わせて「怖い」とか「イヤだ」と思ってしまいます。

僕が「死に対する勘違い」と言っているのは、アタマで人の死の様子を自分の死の様子であると想像することです。

人の死と自分の死はまったくの別物です。人が死んだ時にはその様子について、いろいろな思いや感情が出てきます。でも、自分が死んでしまえば、自分自身の死について「怖い」とか「イヤだ」とか、あるいは、「これで楽になれた」とさえ、まったく思うことも感じることもないのです。

生きている限り、できるだけ精一杯生きようとするのは当然ですが、それでも、自分がいよいよ死ぬんだなという時には、どんな気持であっても、その気持ちぐるみ死んでいくのですから、何の心配も不安も必要はないのです。

すでに亡くなった方々も同じです。





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名前とバラバラ観

名前とバラバラ観

この世界は本来不可分一体の世界です。

自分は全世界とぶっ続きの“いのち“を生きています。

自分は大きな世界の中に小さな個として存在しているのではありません。

宇宙即我、つまり、全宇宙・全世界がそっくり自分なのです。

このように言うと、「宇宙即我」なんて、すごい悟りですね、な~んて言われそうですが、気がついてみたら、実に当たり前の真実にすぎません。なぜなら、もともと、みんな一つだということに気がつけばいいのですから・・・。

でも、それに気づくのがすごい、なんてあなたは言うかもしれませんね。

確かに、すごいと言えば、すごいとも言えるかもしれませんが、それでも、気がついた真実はごく単純なことにすぎません。

では、なぜ、ほとんどの人が難しいことと思っているのでしょうか? それが分かれば、存在の真実なんて誰でも簡単に分かるようになります。「なあんだ、そんなこと当たり前じゃん」というわけです。

では、あらためて、なぜ、ほとんどの人が「宇宙即我」の真実に気がつくのが難しいと思っているのでしょうか?

それは、名前を付けるからです。

勘がいい人はなるほどと思われたかもしれませんが、ほとんどの人は「名前? エッ? どゆこと?」と思われたでしょうね。では、分かりやすく説明しましょう。

たとえば、今「カー カー」という音が聞こえているとします。そうすると、私たちは「カラスが鳴いている」と思います。

これが問題なのです。「カー」はただ「カー」なのですが、名前は他と区別するためのものですから、“カラス”という名前を付けた瞬間に世界が分離しバラバラになってしまいます。

つまり、カラスとそうでないもの、カラスとそうでない自分、というようにすべてが分離しているかのようにアタマは認識するのです。というか、アタマはいつでも、この世界を分離したものとして捉える傾向があるのですが、ちょっとしたきっかけを捉えては、名前を付けることによって、それを実証しようとする傾向があるといったほうがより正確なのかもしれません。ニワトリが先か、タマゴが先かの問題と似ていますね。

でも、真実は、「ゴ~ン」はただ「ゴ~ン」なのです。「鐘」という名前を付けなければ、ただ、それだけで、この世界のどこにも分離したものはありません。

聴覚だけでなく、視覚についても同じです。

たとえば、今、前方を見ているとします。いろいろなものが見えています。ただそれだけで、どこにも分離したものはありません。すべては一つです。この世界は不可分一体の世界です。

ところが、「あそこに”山“がある」とか「”空“に”雲“がある」というように、名前を付けた瞬間に、この世界はみんなバラバラの分離した世界であるかのように認識されてくるのです。

この実験は簡単にできるのですが、アタマ型の人は「分かったようで、分からないなあ」と思うことでしょう。

そういう場合には、絶対の静寂の中で、思考を止めてこの世界を見ていればよいのです。

そして、いったん、この世界には分離がないということが分かれば、名前を付けようが付けまいが、いつでも不可分一体のこの世界を実感できるようになるでしょう。





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