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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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生命の大河

生命の大河

毎年、僕には年の初めのこの時期には何かとこれまでの人生のなかでのいろいろな出来事が思い出されます。

その一つが、眼がひどく痛んで、重度の緑内障ではないかととても不安な気持ちになっていた26歳のときのことです。

時々僕はそのことを思い出しながら、「すべてはそこから始まったな」という気がするのです。

それは、もしあの時期に眼が悪くなっていなければ、その後の僕の人生はまったく別のものになっていたはずだからです。

正確には、ただ別のものになったということではなく、その出来事があったおかげで、その後、いろいろ具合の良いことも悪いこともありましたが、トータルとしては、少なくとも僕にとっては、素晴らしい人生が展開したということです。

また、僕の人生だけでなく、家族をはじめこれまで関わった多くの人の人生にも、トータルとしては、よりよい人生を展開する手助けをすることができたと思います。

そういう意味で、あの時に眼が悪くなっていなければ、僕の人生も家族の人生も、そして、多くの方々の人生もまったく異なったものになっていたことは確かです。

そのことを考えるたびに、僕は不思議な気持ちになってしまいます。

そして、同時に、なぜ、あの時期に眼があのように悪くなったのかと考えると、「そうか、その前にあの人に出会っていなければ、そういうことにはなっていなかったはずだ」などというようなことが過去に遡(さかのぼ)れば遡るほど次々に思い出されてくるのです。

そして、それは、何とこの世への僕の誕生をも遡って、とうとう両親の出会いまで遡り、両親がその人生で出会ったであろう多くの人々との出会い、その方々の人生の一コマ一コマへと、すべてが繋がっていきます。

そういうことずっと遡って、また、それが横に広がっていく様子を想像していくと、結論としては、この大宇宙のこれまでのすべてのできごとが互いに影響し合い、絡み合って、いまここに無数の現象として現れているということがわかってきて圧倒される思いがするのです。

でも、圧倒される思いがするのは相対的にしか思考することしかできないアタマで考えているからであり、また、同時に、すべてはバラバラであるという感覚で考えているからなのです。

つまり、アタマでは、この世界のある”部分”だけを切り取って、その他に切り取った”部分”との兼ね合いについてしか考えられないので、何だか不思議な気がしてしまうのです。

でも、本当は単純明快なことなのです。

それは、この世界のすべてのものはバラバラなものではなく、また、それらが互いに密接に関係しあっているというのでもなく、要するに、すべては一つなのです。

“個”も”部分”も見かけ上あるように見えるのだけれども、真実は一つの“いのち”があるだけです。

その一つの“いのち”(生命)があちこちに刻々渦のような模様を描きながら、遥かなる太古から大河のように悠然と流れています。

その永遠不滅の生命の大河こそ本当の自分なのです。





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宇宙は一つの“いのち”

宇宙は一つの“いのち”

この宇宙(世界)は生きています。つまり、一つの大生命体です。

一つの大生命(僕はそれを“いのち”と呼んでいます)がこの世界を現して、この世界を展開させているのです。

この世界のあらゆるもの、大自然のあらゆる現象、社会におけるあらゆる出来事、感情、感覚、欲望、思考、行い、そして、喜び、苦しみ、悩み、迷いなどもすべて“いのち”の現れです。

“いのち”そのものは不変の唯一絶対の実体です。ですから、その現れであるこの世界も常に変化しながら絶対です。

このように言うと、“いのち”とこの世界という二つのものがあるように聞こえるかもしれませんが、一元絶対の存在の真実を二元相対的にしか表現できない言葉で表現しようとするとそのように聞こえるだけで、実は、“いのち”とこの世界は同じ一つのものであり、いわば、1枚のコインの表と裏のような仕組みになっているのです。。

この変化する世界にはさまざまな生命があるように見え、それらは別々の存在だと思われていますが、それは私たちの五感と大脳を通して見ているからであり、別々の存在と見えるものは、実は、すべて唯一の実体である不変の“いのち”の現れです。

ですから、現れている一つ一つのもの、例えば、今目の前にある机、その上にあるパソコン、そのキーを打っている手、浮かんでくる思い、それがそのまま唯一絶対の“いのち”(の現れ)であり、それらをおいて“いのち”はありません。

ですから、存在の真実は、それはすでに“いまここ”に現成しています。ですから、何も求める必要はないのです。

ここで、“いのち”の現成の有様を「生死」について検べてみましょう。

例えば、桜は咲いたり散ったりすることにより桜としてあります。

“いのち”は生死により自らを現しているのです。


“いのち”そのものはもともと生じたのではなく、初めからあります。生じたものではないので滅することもありません。つまり、“いのち”そのものは不生不滅であり、生死するものではありません。

“いのち”はただ一つのものですが、それはいくつもある中の一つではありません。数を超越して、唯一絶対の実体なのです。

この世界は唯一絶対の不生不滅の“いのち”であり、その顕現としてすべてがあるのです。

つまり、この(現象の)世界は不生不滅の“いのち”が生滅の姿かたちをとってみずからを現しているのです。

ですから、生死こそが私たちが不生不滅の“いのち”である絶対的な証拠であると言えましょう。

別の角度から言えば、唯一絶対の実体である“いのち”は五感と大脳を通してみると二元相対の世界として見えます。

つまり、この現象世界では、すべてのものが、見かけ上、バラバラで別々であるかのように見えます。

けれども、すべてのものが、見かけ上バラバラで別々にみえることこそ、すべてが一元絶対の実体である“いのち”であるという決定的な証拠なのです。





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違う? 同じ?

違う? 同じ?

家の前に何本かの松の木と桑の木が見えています。

もし、誰かに「松の木と桑の木は同じものですか、それとも、異なるものですか?」と訊かれれば、たいていの人が「もちろん、違うものだよ」と答えるでしょう。

中には「両方とも植物であるから、その点では同じものだ」と答える人もいるかもしれません。

さらに「私とあなたは同じものですか、それとも、異なるものですか?」と訊かれればどうでしょうか?

ほとんどの人は「もちろん、異なるものだよ」と答えるでしょう。

でも、中には次のように答える人もいるでしょう。

もともと二人とも人間(動物、生物)なのだから、その点では同じものと言えるし、つながりもある。それはそうなのだけれども、それぞれ姿かたちや大きさや色や機能などの現象的な特徴はそれぞれ程度の差はあっても異なっている、だから、やはり、それぞれ異なる実体である。

そう言われれば、確かにこの世界のすべてのものをずっとその起源に向かって検べてみれば、みんなある一つの共通の先祖、あるいは、一つの共通の何かに行きつきます。

そういう意味では、みんな同じものであるとも言えるし、同時に、異なったものである。

ほとんどの方が上に述べてきたように考えているのではないでしょうか。

けれども、僕は自分自身の体験的理解から上のような考え方は根本的に間違っていると考えています。

その考え方の根本的な間違いは「この世界のすべてのものにはそれぞれ実体がある」というところにあります。

つまり、上の「~~と~~は同じものか、それとも、異なるものか?」という問いについて考えるときに、すでに「それぞれのものにはそれぞれ独自の実体がある」という考えを自明の理として、それを前提にして進められています。

したがって、その答えが「同じもの」、あるいは、「異なるもの」、あるいは、「つながりはあるが異なるもの」であったとしても、もともと「それぞれがそれぞれ実体である」と考えが前提にある以上は、実質的には、「それぞれは異なったもの、つまり、バラバラな存在である」であると認めていることになります。

でも、この世界には実体としては“いのち”しかありません。

すべてのものは唯一の実体である“いのち”が刻々に描いている綾模様(現象的特徴)であり、それぞれの模様に実体があるわけではありません。

たとえば、“自分”というものは見かけ上実体をもって存在しているように思えるだけで、本当は“自分”という実体は存在しません。

それは“あなた”についても、また、この世界のすべてのものについても同じです。

この世界のすべてのものは、それぞれ、たとえ現象的特徴は異なっていても、その実体は同じ“いのち”であり、“自分”も“あなた”も“他“もありません。

あなたはわたし。わたしはあなたです。

すべてが自分です。

天上天下唯我独尊。

みんな一つです。

「この世界は不可分一体の“いのち”の世界である」というのはそういう意味です。


What a wonderful world !!






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存在の不思議  その2

存在の不思議  その2

ちょっと自分の左手を見てください。

通常は、5本の指が見えていますね。

それぞれの指は姿かたちも少しずつ違うように、それぞれ異なった特質とハタラキを持っています。

では、その5本の指はそれぞれ、分離した独立の実体という意味で“個”と言えるでしょうか?

答えはノーですね。

手はもともと一つのものだったものが、進化の過程で、手のひら、そして、それぞれの指というように、姿かたちやハタラキなどが分化してできたものです。

ですから、どんな姿かたちになろうと、手は最初からずっと一つの手であり、手のひら、そして、親指をはじめそれぞれの指は、言わば、その部分として全体である一つの手を構成し、手の働きを全うしています。

ここで、“全体“に対して”部分”という言葉を使いましたが、部分は全体を離れては存在できませんし、その反対に、全体は部分なしには存在できません。

しかも、それぞれの部分はもともとそれぞれバラバラに存在していたのではなく、独立した存在ではないことは明らかです。

ですから、全体も部分も同じ一つのもののどこを見るかということによる観点、あるいは、視点の違いによる表現の違いなのであり、全体と部分は分離した別の存在ということではありません。

では、次に、人差し指の爪の近くに超高性能のミニ視覚装置とミニコンピュータを植え付けたとしましょう。

もし、そのミニコンが視覚装置で捉えた周りの指や手のひらなどの映像を認識し、次のように解釈したとします。

周りには何本かの姿かたちや動き方の異なる柱のようなものと平らな地面のようなものが見えている。それらのものはみんなバラバラであり、それぞれ分離したものである。“自分”はここにあり、周りのそれらの“自分ではないもの”を見ている主体である。

さて、この人差し指のミニコンの解釈は存在の真実に合致していると言えるでしょうか?


我が家の横のところに大きな桑の木がありますが、もし、突然変異が起こり、一枚の葉っぱに超高性能の視覚装置とミニコンが備わって、次のように判断・認識したとしたらどうでしょう。

“自分”はある時この広大な天地に生を受けた小さな小さなはかない一枚の桑の葉である。いずれ時が来れば、自分は枯れて地面に堕ちて死んでしまうだろう。

いま自分は桑の木にぶら下がって周りの景色を眺めているのだが、自分は周りのものとは関連はあるとしても、周りのすべての存在とは分離した“個”としての存在である。

この世界においては、互いに関連性がないわけではないが、存在としてはすべては分離しバラバラである。そして、自分はここにあり、自分の周りに自分でないものが存在する。


馬鹿なことを言っていると思われるでしょうが、実は、ほとんどの方が“自分”というものについて、指先や桑の葉のミニコンと同じように思っています。

けれども、「この世界はすべてが分離したバラバラの世界であり、自分は他とは分離した“個”である」と"思う"ことを根拠として、存在の真実がそうであるとは言えないのです。

「そう思ったから事実もそうだ」とは絶対に言えないからです。






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存在の不思議  その1

存在の不思議  その1

僕はまだ若かったある日突然「自分とは何か」、「この世界とは何か」、「自分とこの世界とはどのような関係になっているのか」ということが気になりはじめました。

自分がこの世界でこころから納得のいく人生を送るためには、どうしてもこの命題を解かなければならないと思ったのです。

その日からこの命題に真剣に取り組み、数年間散々苦しんだ末に、幸いにも、その大まかな解答を得ることができたのですが、その後もこの命題をより深く探求し続けてきました。

その探求の中で気づいたことをこのブログに、以前書いたものと重複する部分もありますが、理解しやすいようにいろいろな角度から書いています。

さて、今回は「不可分一体の存在と個」について考えてみましょう。

この世界はバラバラの存在が寄せ集まった世界ではなく、この世界のすべての存在はすべて同じ一つの“いのち”が顕現したものであり、したがって、この世界は不可分一体であるということはこれまで繰り返し述べてきたところです。

つまり、この世界には本質的には個というものは存在せず、存在するものは全体、具体的には、大宇宙だけということです。

要するに、大宇宙が唯一の実体であり、そのなかにあるものは、すべて、見かけ上、個として存在しているように見えるだけで、実体のある個ではないのです。

たとえば、一つの人体は多くの細胞や組織や器官などで構成されています。

それらは確かに存在し、それぞれが互いに関連し合ってはいますが、それぞれが互いに独立性を持ち、バラバラの個として実体を持っているわけではありません。

独立性を持った実体としているのは全体である一つの人体だけです。

もともと、一つの人体は一つの受精卵が細胞分裂を繰り返し、多くの細胞や組織や器官などの構成物質ができたのです。

したがって、人体はバラバラの細胞や組織や器官などの個が寄せ集まってできたものではありません。

ですから、独立した実体として存在しているのは人体という全体だけなのです。

大宇宙についてもまったく同じです。

この大宇宙には多くの星やガスや銀河などがあり、それらは確かに存在し、それぞれが互いに関連し合ってはいますが、それぞれが互いに独立性を持ち、バラバラの個として実体を持っているわけではありません。

独立性を持った実体としているのは全体である大宇宙だけです。

もともと、この大宇宙はビッグバンによってできた素粒子からいろいろな原子や分子ができ、それらが、さらに、いくつもの過程を経て、現在の星やガスや銀河、さらには、そこに生きる生物などとなったのです。

つまり、大宇宙は星やガスや銀河、あるいは、生物などのバラバラ個が寄せ集まってできたものではありません。

ですから、独立した実体として存在しているのは大宇宙という一つの全体だけなのです。

なるほど、私たち人間はこの世界において “自分”と感じる仕組みを持って生きていますが、本質的には、“自分”という個は存在しないのです。

(つづく)





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