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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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すべていのち

すべていのち 1~5

すべて“いのち”  その1
ある朝早く目が覚めたので、いつものように洗面所に行こうと、寝室のドアを「カチャッ」と開けました。

その「カチャッ」という音がはじめて聞いた音のように聞こえました。

一瞬「あれっ」と思ったのですが、すぐに寝室のドアを閉めました。

「カチャッ!」

再びその音がはじめて聞いた音のように聞こえました。

「あれっ?」

洗面所入った後、中からドアをそっと閉めました。

「バタン!」

「あれっ?」

その音もまるではじめて聞いたような感じがするのです。

そのとき家の外から「ホーホケキョッ!」という元気な声が聞こえてきました。

「オッ!」と思いましたが、そのまま顔を洗い始めました。

顔を洗っているのが何だか新鮮に感じられます。

でも、不思議なことに、顔を洗っている“自分”がいないのです。

ただ、顔を洗っているだけです。

次に、タオルで顔を拭きました。

それがとても新鮮に感じられました。

でも、タオルで顔を拭いている“自分”がいないのです。

ただ、タオルで顔を拭いているだけです。

次に、歯を磨いたのですが、やはり歯を磨いている“自分”がいません。

ただ、歯を磨いているだけです。

そのあと洗面所を出て、書斎に行きました。

ただ、歩いているだけです。でも、歩いている“自分”はいません。

机に向かって坐ります。

でも、坐っている“自分”はいません。ただ、坐っているだけです。

机が目の前にあります。

窓があります。

庭があります。

そこに木や花があります。

上の方を見ると、青い空に白い雲が浮かんでいます。

「ホーホケキョッ!」

「バタン!」

「ザーッ」と風が吹いています。

すべてがただ起こっています。

すべては姿も形もなく、見えも聴こえもしない“なんでもないもの”が目に見えたり、耳に聞こえたり、肌に感じられたりするようなさまざまな現象として現れているだけです。

その“なんでもないもの”を僕は“いのち”と呼んでいます。

ほとんどの方が“自分”があると思っていますが、それはアタマで「この体の内側に“自分”というものがある」と錯覚しているだけです。

本当は“自分”なんていう実体はないのです。

とにかく、この世界とそのなかのすべての現象(つまり、存在とはたらき)は唯一の実体である“いのち”現れです。

この世界の唯一の実体は“いのち”であり、“個”も“自分”も”他“もありません。

“いのち”が朝となり、目を覚まし、起き、ドアとなり、そのドアを開け、「カチャッ」という音を立て、顔を洗い、タオルとなり、顔を拭き、「バタン!」という音を立て、書斎となり、“机となり、坐り、窓となり、木となり、花となり、「ホーホケキョッ!」となり、青空となり、雲となり、そして、風となって吹いているのです。

このように書いているのも“いのち”です。

どこを探しても、“自分”なんていません。

すべての観念が脱落したときに、この単純な真実が事実として分かるでしょう。

でも、誰が「分かった!」というのでしょうか?


すべて“いのち”  その2
この世界のすべてが唯一の実体である“いのち”の現れですから、そこには分離した個々の実体はありません。

したがって、“自分”も”他“もありません。

ただ、一つの“いのち”という“全体“があるだけです。

これは理屈の話ではなく、事実がそうだということです。

ほとんどの人が“自分”というものがあり、その外側に“自分”でないもの、つまり、“他“があると感じていますが、それは錯覚です。

とは言いながらも、「自他があるのは当りまえだ」というこの社会のなかでは、そうではないと言うほうが変な目で見られてしまうほど、自他の観念は絶対の真実であると信じ込まれています。

でも、なかには「いや、思い込みではない。静かに体や思いや感情の奥を見つめていると、そこに何かがあるという感覚、あるいは、意識のようなものがある。それが“自分”なのだと思う」という方もいるでしょう。

そうです。たしかに、体や思いや感情の奥に何かがあるという感覚、あるいは、意識のようなものがあります。

けれども、それは他から分離した“自分”を感じているのではないのです。

それこそまさに唯一の実体である大いなる“いのち”を感じているのです。

では、何が“いのち”を感じているのでしょうか?

それは“いのち”です。“いのち”が“いのち”を感じているのです。

“自分”が“いのち”を感じているのではありません。

理屈で考えると分かりにくいのですが、要するに、分離した“自分”というものはなく、ただ、大いなる“いのち”だけがあるのです。

分離した“自分”があり、”他“があり、“個”があるというのは錯覚であり間違っています。

でも、この世界のすべてのことは大いなる“いのち”の現れですから、そういう錯覚や間違いも“いのち”の、表現の一つなのです。

その錯覚や間違いに気づく人もいます。

それも“いのち”の表現の一つです。

唯一の実体である“いのち”の表現として現れた人間はアタマを持っているために、いつの間にか「自分は他から分離した存在である」と思い込み、そのために、顕在意識で感じているかどうかは別として、少なくとも心の奥底では大きな不安感や恐怖感や孤独感などを感じながら生きています。

でも、それも“いのち”の現れであり、私たちの「善い・悪い」、あるいは、「正しい・間違い」などという観念を超えて、あるいは、それらを含んで、すべて完璧であり絶対なのです。

「そんなこと理屈に合わないではないか」と思われるかもしれませんが、これが存在の真実です。

二元相対的にしか考えることのできないアタマでは一元絶対の存在の真実を理解することは不可能なのです。

また、そこには言葉による表現の限界もあります。

いずれにしても、この世界は一つの“いのち”の顕現ですから、どんなことがあっても、常に完璧で絶対です。

この真実に目覚めたときにこそ、そこには真の安らぎと自由があるのです。


すべて“いのち”  その3
思い、考え、感情などもすべて“いのち”の現れです。

ですから、「すべての存在は分離している」、「“自分”は“他“から分離した存在だ」というバラバラ観も、それが正しいか間違っているかは別として、“いのち”の現れです。

「この世界は唯一絶対の“いのち”が現れた不可分一体の世界である」という真実に照らせば、バラバラ観は明らかに間違っています。

にもかかわらず、そのバラバラ観も“いのち”の現れなのです。

つまり、善悪や正誤といった観念を超えて、あるいは、そうだからこそ、“いのち”の世界は絶対であり完璧だということです。

あなたが分離した“自分”と思ってきたものも、真実は、唯一絶対の大いなる“いのち”であり、絶対で完璧なのです。(ここで「大いなる」というのは「大小の観念を超えた」という意味です。)

アタマで考えると混乱してしまうかもしれませんが、真実は実にシンプルです。

要するに、この世界の“すべて”は唯一絶対の“いのち”の現れだということです。

この不可分一体の世界において、植物や動物は不可分一体の真理に沿って素直に不安もなく生きています。

ところが、一元絶対である“いのち”は二元相対的にしか思考できないアタマを持った人間を生み出しました。

そのために、人間は赤ちゃんや幼い子供を除いて、
「“自分”は”他“から分離した存在だ」という”分離意識”を持つようになりました。

そして、本来は“自分”は大いなる“いのち”そのものであるにもかかわらず、「“自分”はすべての“他“から分離した、どこまでも小さくて、いつ死んでしまうかもしれないはかない存在だ」と思いながら生きています。

それは、言い換えれば、心にぽっかりと開いた大きな穴のように、「“自分”には決定的な何かが欠けている」という感覚です。

その結果、私たち人間は表面の意識ではどこまで感じているかはともかく、心の奥では、底なしの孤独感や不安感や恐怖感を抱きながら生きています。

私たち人間の活動は、趣味、スポーツ、娯楽、芸術、家族関係、友人関係、学校や仕事関係、その他の社会的関係など、実にいろいろな面において展開されますが、そのすべては、“自分”に決定的に欠けている穴を埋め、満たそうとする“もがき”だと言えるでしょう。

多くの人が物質的なものであれ、精神的なものであれ、あるいは、人間関係であり、いつも「もっと。もっと」と何かを求めながら生きています。

けれども、その穴は何を手に入れても、どんなことによっても決して満たされることはありません。

なぜなら、その穴は「“自分”は”他“から分離した存在だ」という分離意識によって生み出された幻想だからです。

けれども、真実は、“自分”は大いなる“いのち”そのものであり、何ものからも分離していないのですから、もともと“自分”には欠けているものなんかないのです。

私たちは“このままで”すでに完璧なのです!


すべて“いのち”  その4
この世界のすべては大いなる“いのち”の顕現です。

これまで“自分”と思ってきたものの実体、あるいは、本質は、真実は、大いなる“いのち”そのものですから、そのままですでに完璧です。

そして、この世界のすべてがそのままですでに完璧です。

ここで「すべてがそのままで」というのは、善悪や正誤などの観念を超えて、あるいは、それらを含んだままでそのままで、という意味です。

ですから、私たち人間が限られた能力しかない五感と二元相対的思考しかできないアタマを持ったためにバラバラ観を持って生きているのも“いのち”の現れであり、それで完璧なのです。

また、バラバラ観を持っているせいで、「“自分”には何か決定的に欠けているものがある」という欠乏感が生じ、不安感や孤独感などを感じながら生きているのも、それはそれで完璧です。

さらに、私たち人間がその欠乏感を満たそうとして、日々の生活の中でひたすら、物質的、精神的なもの、あるいは、人的な繋がりなどを求めながら生きているのも、それはそれで完璧です。

そして、極論のように聞こえるかもしれませんが、たとえば、戦争や争いも、それはそれで完璧であり、戦争や争いをなくそうという動きも、それはそれで完璧なのです。

この世界のあらゆるものは唯一絶対の“いのち”の現れです。

“いのち”のハタラキは私たち人間のアタマによる理解(人智)をはるかに超えています。

けれども、人体や自然界や宇宙の星々の運行などの観察すれば、この“いのち”の世界には常に自動的に調和した状態に向かうように調節機能が働いていることが分かります。

時々“乱れ”と思われるような現象が生じますが、それは必然的に生じているのであり、その乱れを自動的に調整する“いのち”自身のハタラキによって、全体がより調和するような仕組みになっています。

戦争や争いなども、人智を超えたところで、必然的に生じているのであり、それを超克しようとするハタラキや動きが現れるのも必然であり、繰り返しそういう過程を経ることによって、より調和した世界が実現されていくのです。

では、私たち人間は何のために欠乏感や不安感や孤独感などを感じるのでしょうか?

実は、私たち人間はこころの深いところで、本当は“自分”が大いなる“いのち”そのものであることを知っています。

にもかかわらず、欠乏感や不安感や孤独感を感じるのは“自分”が大いなる“いのち”から切り離されていると思うからです。

でも、それだけではありません。

実は、欠乏感や不安感や孤独感こそ「“自分”はもともと、大いなる“いのち”そのものであり、大いなる“いのち”から離れたことは一瞬たりともないんだよ。」と繰り返し、繰り返し、知らせてくれているのです。

そして、欠乏感や不安感や孤独感だけでなく、この世界のあらゆるものがあなたに存在の真実を呼びかけています。


すべて“いのち”  その5
無生物、植物、そして、他の動物たちとは異なって、私たち人間はアタマを持ったために、分離意識を持つようになりました。

そのために、私たち人間は表面の意識はともかく、こころの奥では底なしの欠乏感を感じながら生きています。

私たちの深層心理をよくよく観察してみると、私たちの日々の活動の大部分がその欠乏感を満たそうという動機で行われていることに気がつきます。

でも、結局、何をやっても私たちの欠乏感は決して満たすことはできないのです。

それは、分離意識はただアタマによる錯覚にすぎず、事実ではないからです。

事実は、私たちは大いなる“いのち”から離れたことは一度もありません。

なぜなら、私たちはもともと大いなる“いのち”そのものだからです。

唯一絶対の実在である“いのち”はいろいろな(見かけ上の)存在を創りました。

でも、それらの存在自身は自分が大いなる“いのち”であることを意識することはできません。

また、“いのち”も自分自身が“いのち”であることを見ることができません。

“いのち”はどうもこれではまったく面白みに欠けると思いました。

そこで、“いのち”は、自分が大いなる“いのち”であることを自覚する存在を創ることを思い立ちました。

そのために“いのち”はまずアタマを持った人間を創って分離意識を持たせ、欠乏感や不安感を感じさせるようにしました。

欠乏感や不安感を通して、結果的に、自分自身が大いなる“いのち”であることに気がつくように仕組んだのです。

この大宇宙は大いなる“いのち”が現れた姿ですが、大宇宙の進化の歴史、そして、この地球上の生物の進化、さらに人類の進化の歴史は、まさに、“自分”が大いなる“いのち”そのものであることを自覚する存在を創造しようという“いのち”の壮大なプロジェクトに他なりません。

そういう意味では、大宇宙はまだ進化の途上にあります。

今後、「自分は大いなる“いのち”そのものだ」という気づきがあちらこちらで起こってくるようになるでしょう。

その気づきは進化の過程として起こってくるので、誰かが、たとえば、厳しい修行などを通して自分で努力したから気づけるというものではありません。

修行や努力の結果、気づきが起こったように見えるかもしれませんが、それはたまたまそのように見えただけで、必ずしも修行や努力が必要ということではありません。

もちろん、これは修行してはいけない、とか、努力をしてはいけない、と言っているのではありません。

そもそも、修行や努力をする人はいません。なぜなら、大いなる“いのち”しか実在しないからです。

もともと大いなる“いのち”であるものが大いなる“いのち”を求めようとするのは、波が「海はどこだ?」と探し回っているようなものです。

その気づきが起きるときには起きるのであり、起きなければ起きないだけのことです。

また、修行や努力をしても、しなくても、そこにあるのは大いなる“いのち”であり、すでにすべて完璧なのです。

(終わり)




僕はバカなのか?

僕はバカなのか?

変なタイトルだと思うかもしれませんね。でも、これは僕自身にとってもみなさんにとっても非常に重要な問いかけなのです。

ご存じのように僕はみなさんの前で話をするときでも、この「いのちの塾」のブログでもしょっちゅうタバコについて述べています。

みなさんの中には「またタバコの話かあ!!」とウンザリする人も多いのではないでしょうか? そう思われるのを承知で僕は何度も何度も少しずつ角度を変えてはタバコについて話をしたり書いたりしているのです。

あなたは、僕がしょっちゅうタバコについて述べるのをなぜだと思いますか?
それには二つ大きな理由があるのです。

一つは例のタバコ図を模倣した右のアタマで作り出したバラバラな世界と左の本来の不可分一帯の世界の構造をはじめとする人間のいろいろなことについての思いと事実、あるいは、真実との違いを明瞭に説明し理解してもらうのに非常にわかりやすいと思うからです。
つまり、私たちは真実の世界、真実の自己についてはその理解をどこまでも深めていく必要があると思っているからです。

二つ目は(これこそみなさんに今回気づいてほしいと思うことですが)、現在までタバコによる世界中の死亡者は毎年400万人から500万人いるそうです。そして、現在までにタバコが原因で死んだ人の総数は今日までの人類の歴史上戦争や争いごとで亡くなった人の総数よりも多いそうです。これはトンデモナイことです!!

僕は30歳までは1本たりともタバコを吸ったことがありませんでした。タバコを吸うなんて馬鹿の骨頂だと思っていました。でも、上の事実を知った時に僕はこの世界からタバコによって亡くなる人をなくしたいと思ったのです。でも、人ごとでは絶対にダメだと思いました。そこで、僕自身がタバコ中毒になって、身をもってどんな人でも簡単にそこから抜け出る方法を見つけるしかないと思ったのです。

それで僕はタバコを吸い始めました。でも、5年ぐらいたってからやめようと思ったら簡単にやめられました。これはまだ充分タバコ中毒になっていないためだと思い、再び吸い始めました。こんなことを繰り返しているうちに10年目ぐらいに、やめてみようと思ったのですが、何だかやめにくい感じがしました。そこでもう少しだと思って、また吸い始めました。そして数年後、本当にやめられなくなったのです。

僕のタバコ研究はその時点から本格的になりました。そして、何年かたったときに、だれでもすぐ簡単にやめられる方法を見つけることができました。でも、その後に、アレンカーというイギリス人が同じような方法をすでに発見していたことを知りました。

でも、僕とアレンカーの一番の違いは、アレンカーは十代ごろから周りの人に影響されて吸い始めたのですが、僕自身は簡単にタバコを止めるための方法を発見するために、30歳で吸い始めたということです。

さて、僕はバカなのでしょうか?

ノンスモーカーであるあなたは毎年数百万人もタバコで亡くなる人たちのことをどのように見ていますか?

自分はノンスモーカーでよかったなあ。スモーカーは本当にバカな人たちだなあと思っていたのではないですか?

それで本当にいいんでしょうか?






ユキ

ユキ

ある冬の朝早くのことです。前の晩から雪が降り続き、外は一面、地面も木々も駐車してある自動車もみんなそれこそ真っ白でした。

僕は「すごいなあ」と思いながら、しばらくその真っ白な雪景色を眺めていました。すると、その全面真っ白な景色の中で何かが動いたような気がしました。でも、よくわかりません。

僕は何だろうと思ってしばらく見つめていました。そして、突然気が付いたのです。真っ白な雪景色の中に一匹のそれこそ真っ白な猫が僕の方を見てじっと座っていたのです。その時、僕はその白猫の名前を思いつきました。

そうです。それが「ユキ」です。

その日からユキは我が家の中に入って餌を食べるようになりました。ユキはオスのノラ猫ですが、前にどこかで飼われていたらしく、すぐに私たちに馴れました。ただ、我が家のオスの黒猫の「ジジ」が縄張り意識のせいか、ユキを威嚇したり噛みついたりするようになったので、ユキをずっと家の中で飼い、ジジを家の中に入れないで納屋で寝かせるようにしました。

ユキはしばらくは我が家で、たらふく餌を食べ、のんびり寝ているのですが、それが何日も続くと、もともとノラ暮らしが身についているためか、どうしても外に出たがります。

それで、仕方なく、ジジに見つからないようにユキを外に出してやります。すると、ユキはコソコソと木々や藪の中に姿を消し数日間は帰ってきません。

数日後にジジに見つからないように帰って来る時には、時々、顔や体に傷跡ができています。ユキは体は大きいのですが、気が弱く、怖がりで、他のオス猫に遭遇すると逃げてばかりいます。それでも時々、メチャメチャにやられて帰ってきます。

ユキはなんとか我が家に帰ってきては、餌をたらふく食べ、ゆっくり寝て、傷が癒えると、再び外に出たがります。どうかなと思いながら仕方なく出してやると、数日間は戻ってきません。前回は、結局10日ぶりにやっと帰ってきました。

ユキが何日も帰って来ないと、「もしかしたら、イヌや他のネコに襲われてケガをして動けなくなっているのではないか」と心配になります。

その度に「そうなったら、結果を受け入れるしかない」と思ったり、「でも、もっと他によい飼い方あるのではないか」など、いろいろ考えてしまいます。やっと帰ってくると心からホッとして嬉しくなります。

世の中はペットブームだそうですが、僕は自分が飼っているイヌやネコだけを「自分の家族」などと言って可愛がっているのではありません。

私たちは、自分たちが生きていくために、他の人や動物や植物など、他から奪ったり、他を押しのけたりして生きていかせざるをえません。これは実に悲しい現実です。

僕はそれを少しでも償いたいのです。そのために、自分よりも弱いもの、困っているものを少しでも手助けしたいのです。

ユキだけでなく、我が家にはこのような猫が何匹も住み着いています。どこかの家で飼われている猫も捨て猫やノラ猫もやってきます。

彼らは僕にとってはペットでも家族でもありません。僕の分身です。いつも彼らの生きている姿が自分自身の生きている姿と重なるのです。





宇宙即我 我即宇宙

宇宙即我 我即宇宙

「我は宇宙なり」なんて言うと何かすごいことを言っているように思うかもしれませんね。また、仏教に詳しい方であれば、それこそお釈迦様の悟りであって、とても凡人の我々の生半可な修行などでは到達できるような境地ではない、などと言われそうです。

たしかに、原始仏教の経典などによれば、お釈迦さまは明けの明星を見た時に「天上天下唯我独尊」と大悟されたそうです。

でも、悟りの深浅はともかく、「宇宙即我」の存在の真実を悟ることはそんなに難しいことではない、いや、本当は簡単なことだと僕は言いたいのです。

そこで、次の事柄について、真実はどうか考えてほしいのです。「考える」というより「検べる」と言ったほうが正確です。

1 この世界に他のものとは一切関係なく単独で存在しているものがあるか?

2 この世界に存在しているものは、そもそもバラバラなものが寄り集まったのか、それとも、もともと一つのものから生まれたものか?

3 この世界存在しているいろいろなものに境目はあるか?

4 そもそも自分というもの、つまり、他と完全に切り離された存在はあるか?

以上のことを検べるために、以下のことを先に検べてください。やりやすいものから検べて結構です。

5 肩と腕に境目はあるか?

6 富士山と麓の平野に境目はあるか?

7 富士山とエベレスト山に境目はあるか?

8 陸と海に境目はあるか?

9 地球のどこかに境目はあるか?

10 大地と空に境目はあるか?

11 海と空に境目はあるか?

12 空と宇宙に境目はあるか?

13 大宇宙のどこかに境目はあるか?

14 兄弟姉妹はみんなバラバラか?

15 自分と親はバラバラか?

13 人間同士はみんなバラバラか?

16 動物はみんなバラバラか?

17 生物はみんなバラバラか?

18 岩や土や空気や水などはみんなバラバラか?

19 自分と昨日食べた野菜はバラバラか?

20 畑の野菜は岩や土や空気や水などはバラバラか?

21 畑の野菜は海や川に住む魚とはバラバラか?

22 自分は他の人間や動物や植物や岩や土や空気や水などとバラバラか?


このように検べていくと、この世界にはバラバラなものなど一つもないということが分かります。

また、この世界にはどこにも境目はありません。
「境目」というのはそもそも人間が五感と相対的にしか思考できない大脳(アタマ)による錯覚であり、人間が勝手に作り上げた一つの観念にすぎません。

それは大宇宙や大自然、そして、小宇宙と言われる人体の仕組みを観察してみればすぐに分かることです。

また、「人間は宇宙の一部、あるいは、部分である」と言う方がいます。しかし、「全体と部分」というのも、何でも相対的に分けて理解しようとするアタマに依存する人間が作り出した観念にすぎません。
部分がなければ全体は存在しないのであり、存在の真実は、部分=全体なのです。

また、「自分」というのも人間が作った観念であり、「自分」と意識する仕組みがあるだけで、本来、「自分」という他と切り離されたものは存在しないのです。

自分とか境目とか部分などという観念を横に置いて、この世界を見れば、「宇宙即我」を容易に体感することができるでしょう。

自分? 生死?

ただ、“いのち“が、“いのち“を、“いのち“しているだけだ。




生命の大河

生命の大河

毎年、僕には年の初めのこの時期には何かとこれまでの人生のなかでのいろいろな出来事が思い出されます。

その一つが、眼がひどく痛んで、重度の緑内障ではないかととても不安な気持ちになっていた26歳のときのことです。

時々僕はそのことを思い出しながら、「すべてはそこから始まったな」という気がするのです。

それは、もしあの時期に眼が悪くなっていなければ、その後の僕の人生はまったく別のものになっていたはずだからです。

正確には、ただ別のものになったということではなく、その出来事があったおかげで、その後、いろいろ具合の良いことも悪いこともありましたが、トータルとしては、少なくとも僕にとっては、素晴らしい人生が展開したということです。

また、僕の人生だけでなく、家族をはじめこれまで関わった多くの人の人生にも、トータルとしては、よりよい人生を展開する手助けをすることができたと思います。

そういう意味で、あの時に眼が悪くなっていなければ、僕の人生も家族の人生も、そして、多くの方々の人生もまったく異なったものになっていたことは確かです。

そのことを考えるたびに、僕は不思議な気持ちになってしまいます。

そして、同時に、なぜ、あの時期に眼があのように悪くなったのかと考えると、「そうか、その前にあの人に出会っていなければ、そういうことにはなっていなかったはずだ」などというようなことが過去に遡(さかのぼ)れば遡るほど次々に思い出されてくるのです。

そして、それは、何とこの世への僕の誕生をも遡って、とうとう両親の出会いまで遡り、両親がその人生で出会ったであろう多くの人々との出会い、その方々の人生の一コマ一コマへと、すべてが繋がっていきます。

そういうことずっと遡って、また、それが横に広がっていく様子を想像していくと、結論としては、この大宇宙のこれまでのすべてのできごとが互いに影響し合い、絡み合って、いまここに無数の現象として現れているということがわかってきて圧倒される思いがするのです。

でも、圧倒される思いがするのは相対的にしか思考することしかできないアタマで考えているからであり、また、同時に、すべてはバラバラであるという感覚で考えているからなのです。

つまり、アタマでは、この世界のある”部分”だけを切り取って、その他に切り取った”部分”との兼ね合いについてしか考えられないので、何だか不思議な気がしてしまうのです。

でも、本当は単純明快なことなのです。

それは、この世界のすべてのものはバラバラなものではなく、また、それらが互いに密接に関係しあっているというのでもなく、要するに、すべては一つなのです。

“個”も”部分”も見かけ上あるように見えるのだけれども、真実は一つの“いのち”があるだけです。

その一つの“いのち”(生命)があちこちに刻々渦のような模様を描きながら、遥かなる太古から大河のように悠然と流れています。

その永遠不滅の生命の大河こそ本当の自分なのです。





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