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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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メンタルプリズン  その2

メンタルプリズン  その2
(その1からのつづき)

その1で、いろいろな個人的、社会的苦しみや混乱などの問題を根本的に解決するにはメンタルプリズンから抜け出るしかない。それは実に簡単だ、と書きましたが、そのためにとても重要なことがあります。

それは、まず、自分(たち)がメンタルプリズンの中に囚われているという事実に気がつかなければならないということです。

それに気がつかなければ、そこから抜け出ようとさえ思わないからです。

残念なことに、多くの人たちが自分(たち)がメンタルプリズンの中に囚われているということに気づいていません。

世界、あるいは、自分を望ましくはないと思っていても、それが妄想で作り出された、あるいは、作り出したものであることに気付かず、もともとそういう世界、あるいは、自分なのだと思い込んでいます。

ですから、この世界はバラバラで対立世界だという妄想で作り出したメンタルプリズン、つまり、「戦争が起こる土壌(基本的状況)」そのものをそのままにして、「戦争反対」などとと叫んで頑張っても、戦争を根本的になくすことはできません。

戦争を根本的になくそうとすれば、戦争が起こる土壌そのものが徐々になくなってしまうように、メンタルプリズンから抜け出て、存在の真実に立脚した画期的で現実的な方策が絶対的に必要なのです。

それがネホサの提案です。

ネホサ自体は「戦争は起こるものだ」という妄想で作り出したメンタルプリズン(右側の世界)の中で、例えば、改憲(右側の中のさらに右)に対抗して、護憲運動(右側の中の左)を活発にしていこうとしているのではありません。

それでは、「タバコは必要だ」という妄想で作り出したメンタルプリズン(右側の世界)の中で、例えば、喫煙(右側の中のさらに右)に対抗して、ガマンの禁煙(右側の左)を頑張って続けようということと同様に、いつまでたっても戦争を根本的になくすことはできません。

タバコをやめるためには、「本当はタバコは必要でも、吸いたくもなかった」という真実に気付き、ただ、やめる、つまり、妄想で作ったメンタルプリゾンから左側の世界に抜け出ればよいのです。

それと同様に、ネホサとしては、「本来はこの世界はみんな一つの世界だ。争いはまったく必要ない」という存在の真実に気付いて、戦争を根本的になくし恒久の平和世界を実現するために、右側の世界はそれはそれとしながら、妄想で作ったメンタルプリゾンから左側の世界に抜け出て、日本を自ら率先して世界の困っている人や国を自分のこととして国力を挙げて貢献する国にしていこうというのです。

では、自分(たち)が妄想で作り出したメンタルプリズンの中に囚われていることにどうしたら気がつくことができるのでしょうか。

それには、とにかく自然界を先入観に囚われずに巨視的に観察しながら「本来の世界はどのようにできているのか?」と検べることです。

もう一つは、心を静めて、自分自身の内心(真心)の声、自分が本当に何を求めているのかを聴き取ることです。

集団本能から出てくる真心はすでに存在の真実を知っているからです。

(おわり)





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メンタルプリズン  その1

メンタルプリズン  その1

メンタルプリズン(mental prison)というのは「心の牢獄」あるいは「心で作り出した牢獄」という意味です。

「牢獄が実際には存在しないのに、あたかも存在しているように感じて、その中に自分が入っていると思い込んでいること」あるいは「真実(本来)の事実についての間違った思い込み(妄想)に基づいた考えや行動、生き方、社会」という意味です。

メンタルプリズンにはいろいろな種類がありますが、ここでは多くの人々に共通しとくに重要だと思われることを取り上げることにします。

まずは、タバコです。タバコは本来はまったく吸う必要がないものです。

その証拠に、どんなスモーカーでもタバコを吸い始めるまでは、「タバコは必要だ、吸いたくてたまらない」などとはまったく感じていません。

にもかかわらず、タバコを吸い始めてしばらくすると、「タバコが必要だ、吸いたくてたまらない、吸わないとイライラする」などと思うようになります。これはまさに“妄想”です。

スモーカーは典型的なメンタルプリズンの中で生きているのです。

麻薬患者もタバコと同じようなメンタルプリズンの中で生きています。

また、不可分一体の非対立の世界が存在の真実ですが、「この世界はみんなバラバラで対立世界である」というバラバラ観はまさに妄想であり、私たちの生きているこの社会はまさに妄想によって作り出されたメンタルプリズンなのです。

さらに、この世界には、本来、どこにも「所有」も「優劣」も「差別」もありません。それが存在の真実です。

ところが、人間は妄想によって「所有」があると思い込み、「優劣」があると思い込み、「差別」があると思い込んで、「所有観念」、「優劣観念」、「差別観念」をという間違った思い込みを作り出し、それらの妄想に基づいて作り出されたこの社会はまさにメンタルプリズンなのです。

ここで、話を分かりやすくするために、これからは、存在の真実に基づいた考え方、行動、生き方、社会を「真実の世界」あるいは「左側の世界」、妄想に基づいた考え方、行動、生き方、社会を「メンタルプリズン」あるいは「右側の世界」と呼ぶことにします。

この世界は現実としては、まさにメンタルプリズンであり、個人的、そして、社会的な苦しみや混乱はまさにこれらの妄想によって作り出されたものです。

でも、メンタルプリズンの中でそれらを解決しようとどんなに頑張っても、根本的には解決することは絶対に不可能です。

それらの問題を根本的に解決するためには、メンタルプリズンから外(真実の世界)へ脱出する以外にはありません。

それは実に簡単です!! 当たり前の世界に戻るだけですから。

タバコを根本的にやめるためには、ガマンの禁煙ではなく、本来、タバコは必要なものではないという当たり前の真実に気付いて、「ただ、タバコをやめればよい」ということとまったく同じです。

それが自覚のセミナーであり、ネホサです。

(つづく)





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無分別の分別  その5

無分別の分別  その5

人間に本来備わっている集団的本能と個別的本能は不可分一体の存在の真実に即して働きます。

もちろん、天変地異や不慮の事故などによりその目的が完遂できない場合もありますが、通常の環境においては、可能な限り全体の繁栄と個としての生を全うできるように機能します。

ところが、五感とアタマによって、「この世界のすべてはバラバラに分離した存在であり、自分は他と切り離された存在である」と誤って認識すると、不可分一体の存在の真実に反して、「この世界で何よりも大切なものはこの自分、あるいは、自分)の家族である」という利己的な観念を持つようになります。

そうなると、本来備わっている全体の繁栄を実現するために、つまり、みんながよくなるように機能する集団的本能が意識的、無意識的に抑圧されたり、無視されて働かなくなります。

また、個別的本能は本来集団的本能とお互いに支え補いながら、その個人の持っている才能をフルに生かして、全体のためにも人生を十全に全うさせるために働くようになっています。

ところが、「自分さえよければ」という考えによって集団的本能が抑制されているために、個別的本能も充分機能を発揮することができなくなり、たまたま人生の一部門では成功を収めることも可能な場合もありますが、人生全般については、「自分さえよければ」という目的さえも達成することはできません。

私たちが本当に充実した人生を生き、動物や植物も含めて、みんなが幸福で平和な世界を実現するためには、何よりも不可分一体の真実を知的に、あるいは、体験的にはっきり捉えて、不可分一体の真実に即して個人的に生きると同時に、不可分一体の真実に即した制度や組織によって営まれる社会を実現するために行動することが何よりも大切だと思います。

「不可分一体の真実を捉える」などと言えば、「そんなことはとても難しい」と思われるかもしれませんが、前に書きましたように、それを知的に理解することは、本当は、小学生でも分かるような簡単なことです。

それに、私たちには何よりも、もともと個別的本能とともに、集団的本能が備わっています。これらの本能は私たちにいつも「みんな一つの同じいのちを生きているんだよ」と呼びかけています。

私たちは、アタマの錯覚から生まれた「ケチな根性」に引き摺られずに、こころの内なる声に素直に従って生きればよいのです。

真実に生きるのはこんなにも簡単なことです。

誰にでも容易にできます。

イヌやネコにだってできているのです。人間にできないはずはありません。

難しいと思うから難しく思えるだけです。

また、「周りにそんなことを言う人がいないから」などと周りの人の様子を窺いながら自分の生き方を決めようとしているために、こんな簡単な真実を見失ってしまうのです。

あなたが自分の内なる声にしたがって生きることを決定(けつじょう)するだけのことです。

そうではありませんか?

(終わり)





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無分別の分別  その4

無分別の分別  その4

「ここに自分がいる」という、いわば、「自分」意識は、本来は本能、あるいは、無意識のレベルにあった感覚が発達した大脳(アタマ)によって意識化されたのです。

したがって、そのこと自体に全体の繁栄と個としての生を全うすることを損なうような「間違い」があるわけではありません。

ところが、アタマは単に「自分が存在する」というだけの意識を「この体と心を持った存在が自分であり、この体と心の外にあるものは自分とは分離した別の存在であるという『自他』の意識を生み出します。

同時に、アタマは五感を通して捉えた世界をそれぞれがみんな分離した別々の存在であるという意識、バラバラ観を生み出します。

この自他の意識とバラバラ観が全体の繁栄と、そして、個としての生を十全に生きることを損なう根本原因なのです。

でも、それが問題なのであって、本来の「自分」意識そのものが問題なのではありません。

ここで、少し異なった角度から考えてみましょう。

今目の前の皿の上に、まったく同じ材料で作った団子が2個あるとします。

この2個の団子は同じものでしょうか、それとも、異なるものでしょうか?

私たちのアタマは通常「この2個の団子は異なるもの」と認識します。

でも、よくよく考えて、「もともと同じ材料で作ったものなのだから、同じものだ」とも言えると判断するでしょう。

つまり、答えは「イエス アンド ノー」ということになります。

本質はどちらも同じもので、今の一時的な姿としては、分離したものに見えるというわけです。

では、もう一つ質問します。

その2個の団子(AとB)のそれぞれに、同じタイプの超ミニサイズの高性能のコンピュータを取り付けました。

すると、コンピュータが作動して、Aは「僕はAだ。Bとは分離した別の存在だ」と思うようになり、Bも「私はBだ。Aとは分離した別の存在だ」と意識するようになってしまいました。

さて、この2個の団子は同じものでしょうか、それとも、異なるものでしょうか?

答えは前問と同じように、やはり「イエス アンド ノー」ということになります。

本質はどちらも同じもので、今の一時的な姿としては、分離したものに見えるというわけです。

ここではっきりさせなければいけないことは、「真実は自分がどのように思うかということとは関係がない」ということです。

黄色の紙は自分がどう思っても思わなくても黄色です。真実は自分の思いを超えたところに当たり前に存在しています。

自分が分離意識やバラバラ観を持っているかどうかにかかわりなく、この世界は不可分一体のいのちの世界であり、他と分離した自分など存在していないのです。

ただ、人間には「自分」と意識する仕組みがあるだけで、それは本来長い宇宙と生物の進化の結果いのちの一時的な顕れである個としての生を自覚的に全うするためにこそ発現した貴重な機能なのです。

「自分」意識から「真実の自己」の自覚に至る、という意味で、「自分」ほど大切な存在はありません。






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無分別の分別  その3

無分別の分別  その3

動物の生態を観察していると、動物には集団的本能と個体的本能が備わっていることがわかります。

その二つの本能は互いにその目的をよりスムーズに達成するために互いに補い合い、調和しながら精妙に機能するようになっています。

そのために、彼らはどんな状況においても、その本能に従って生きることにより、種、あるいは、全体としての繁栄と個としての生を可能な限り全うすることができるのです。

私たち人間も動物の一種ですから、当然、集団的本能と個体的本能が備わっています。

ところが、本能に従って生きている部分は当然ありますが、それだけでなく、人間は発達した大脳によって「考えて」行動します。

その「考え」の内容が、本能と矛盾することがなければ、つまり、全体の繁栄と個としての生をよりよく生きる目的に合致する「正しい考え」であれば、問題はないのですが、実際は、本能に沿わずに、本能と矛盾することが多いのです。

そのような本能と矛盾する「間違った考え」に従って行動し生きていけば、その結果は全体としても個としても悲惨な結果を生むことになってしまいます。

その「考え」の中で根本的な間違えは、「この世界のすべては分離した存在であり、この大きな世界の中に自分が小さな個として存在し、自分と自分以外の他がある」と捉えるバラバラ観です。そこからすべての個人的、社会的な苦しみと混乱が生じてくるのです。

ということは、全体の繁栄と個として生を全うするという動物の2大生存目的から見ると、発達した大脳によって考える私たち人間は他の動物に比べると非常に不利だということになります。

そういう意味では、「人間は出来損ないのサル」だという動物学者もいますが、確かに、現代の社会のメチャメチャな現状を見ると、僕もそう思いたくなります。

でも、この事実の中にこそ、進化の結果、発達した大脳により、「自分」という意識を持った存在として現生人類が生まれた秘密(わけ)があるのです。

真実はこの世界にはいのちという一つの実在しかありません。つまり、個というものはなく、全体しかないのです。

にもかかわらず、そのなかに、なぜか、「ここに自分がいる」という意識を持った「存在」が、たとえ、それが、一時的な仮の「存在」であったとしても、誕生したということにはとても積極的な意味があるのです。

もし、「なぜ、そう思うのか?」と問われれば、それを誕生させたのはいのちであり、いのちは絶対にミスを犯すことはないのです」と答えるでしょう。

もちろん、バラバラ観を持つようになったことにも重要な意味はあるのです。

といっても、もちろん、そのままでよいということではなく、逆説的ですが、その過ちに「自覚的に気が付く人々」がどんどん増えていくためにこそ必要なのです。

そのためにも、「自分」という意識を持った人間が誕生したことは宇宙の進化、そして、生物の進化の歴史の中でもまさに画期的なことと言えるでしょう。

(つづく)




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