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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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人生最高の決断

あなたはもともと完全に自由な存在です。

もちろん、物理的に不可能なことは別ですが、あなたを束縛するものは何もありません。

あなたはやろうと思えば何でもできるのです。

あなたには今無数の選択肢があります。

最高の選択肢もあれば、最低の選択肢もあります。

そして、あなたには今、人生で最高の選択をするチャンスがあるのです。

今その選択肢を選べば、あなたの残りの人生を、いつも心から幸せに生きていくことができます。

では、人生最高の選択とは何でしょうか?

このように人生において重要な選択をする場合には、「選択」という言葉を「決断」という言葉に置き換えたほうがよいかもしれませんね。

もう一度、自分自身に問いかけてみましょう。

今あなたには人生最高の決断をくだすチャンスが与えられています。

では、あなたにとって人生最高の決断とは何ですか?

自分自身について自分が心の底から願っていることは何ですか?

素直な気持ちで心の底にある内心の声を聴きとってください。

そうすれば、きっと人生最高の決断が何かということが分かるはずです。

それは、今ここにいる自分を、そっくりそのまま100パーセント認めるということです。



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ねばならない?

私たちは日常の生活のいろいろな場面で「ねばならない」という言葉を使っています。

たとえば、約束は守らなければならない。親は子供をきちんと育てなければならない。この仕事は何日までに終わらせなければならない。などなど。

私たちはいろいろな場面で「ねばならない」と思っています。

たいていの場合それで何の支障もありません。

ところが、「ねばならない」と思っているときに、そのようにならなかったり、あるいは、そうなりそうにない時に、パニックに陥ったり、苦しんだりする方が多いのではないでしょうか。

あるいは、あることについて「ねばならない」ということが大きなプレッシャーになって苦しむということもあるようです。

しかし、これも一つの間違った思い込みが原因となっているのです。

本来、この世の中には「ねばならない」というものはありません。

それにもかかわらず、自分のアタマの中でいつの間にか「ねばならない」というものがあると思い込んでいるのです。これは錯覚です。

アタマが作りだした「ねばならない」という観念が束縛となって、それが心の自由と軽やかさを奪い、苦しみを作り出します。

大切なことは、もしあることを達成したい、達成しようと思うのであれば、自由な心で軽やかに、そして伸びやかに最善を尽くすことではないでしょうか?

私たちは生まれて以来、育ち、生きていく中で、家庭や学校や社会などから、いろいろなことについて洗脳されています。

本当は間違っているにもかかわらず、それは正しいことといつの間にか洗脳され、そのように思い込んでしまっていることが意外にも多いのです。

というのは、それが間違っていても、自分の体臭には気づきにくいのと同じように、自分自身では間違っていることに気がつきにくいからです。

皆さんにもそういう間違った思い込みがあるかもしれません。

皆さんが自分自身の間違った思い込みに気づいていただくきっかけになればと思い、毎回このブログを書いています。

でも、僕が書くことを決して鵜呑みにはしないで欲しいのです。また、同時に、あなたのこれまで考えてきたことが絶対正しいとも決め付けないで欲しいのです。

そして、そこであらためて「本当はどうか?」と調べてほしいのです。

この事実の世界に本当に「ねばならない」というものがありますか?




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人生は思いどうりになる? ならない?

結論から言えば、残念ながら、人生は思いどおりにはなりません。

本当は「残念」ということでもありません。ただ「事実はそうだ」というだけのことです。

この世の中で起きること(事実)は、自分の思ったとおりになるときもありますが、思ったとおりにはならないこともあります。

それなのに、事実が自分の思い通りにならなかった場合に、がっかりしたり、暗くなる方が非常に多いように思います。

そして、何かあるたびに一喜一憂しながら生きていくのが人生だと思っているようです。どうせこの世は「浮き世(憂き世)」だというわけです。

でも、これは実におかしな話です。そう思いませんか?

もともと、事実は必ずしも思いどおりにはなりません。この世界はそうなっているのです。

事実が思いどおりにならなかったといって、がっかりしたり、暗くなったりするのは、実は、心の中に一つの思い込みがあるからなのです。

それは、「事実は思いどおりになるはずだ」、あるいは「事実は思いどおりになるべきだ」という頑固とも言える強い思い込みです。

でも、これはやはり実におかしな話です。そもそも、事実と思いはまったく異なる次元のものです。

事実はこの世界で物事が実際に展開する姿です。思いは自分のアタマの中に浮かんでくる空想であって実体ではありません。

もともと、思いと事実は思いは別々のものです。ですから、思いと事実の内容が一致することもあれば、一致しないこともあります。

つまり、事実が思いどおりにならなかったとしても、それは当たり前なのです。ですから、がっかりしたり、暗くなったりするのは、実にこっけいなことだと言うのです。

事実が自分の思いどおりにならなかったとしても、まずは、「事実が思いどおりにはならなかった」という事実をすっきり受け止めることではないでしょうか。

そこから二つの道が前方に伸びています。

一つは、それ以上は状況を思うようには改善できないと思う場合です。

その場合には、改善できないという事実をすっきりと受け止めて、心をさっと切り換えて、明るく生きていけばいいのです。

もう一つは、状況を改善できる可能性があると思う場合です。

その場合には、まず事実をすっきりと受け止めて、その上で状況が思うようになるように、なるように努力しながら明るく生きていきていけばいいのです。

それで状況が思うように改善できなかったとしても、あらかじめ「事実は必ずしも思うようにはならない」ということは納得ずみのはずですから、その結果をすっきりと受け止めればいいのです。

この人生何事につけても、決して一喜一憂しながら生きる必要はないのです。

どこまでも、どこまでも、すっきり、明るく生きていきましょう!




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人間は賢い動物ですか? 愚かな動物ですか?

人間の脳は他の動物とは決定的に異なる特徴を持っています。それは非常に発達した大脳を持っているということです。

この地球上で人間だけがこのように高度な文明社会を築くことができたのは、つまるところ、他の動物にはない非常に発達した大脳の働きのお陰です。

その意味では、人間はとてもアタマのよい動物だと言えるでしょう。

でも、「人間は賢い動物だ」と言えるでしょうか?

「人類の歴史は戦争の歴史である」と言われるほど、人間はしょっちゅう他の集団や国と戦争を繰り返してきました。

他の動物は同じ種類の動物同士ではめったに殺し合いをしません。

人間だけが同じ人間同士で大量の殺戮を繰り返してきました。

それでも、人間は賢い動物だと言えますか?

人間は科学技術を駆使して核兵器を開発し、何万発という核兵器を保持しています。それは地球を何度でも破壊できるほど量です。

もし、全面核戦争になれば、敵も味方もありません。みんな死んでしまうのです。

それでも、人間は賢い動物だと言えますか?

人間は科学技術や産業を高度に発展させました。

そのお陰で、先進国の人々は物質的に豊かで、便利・快適な生活を営むことができるようになりました。

でも、事実は、その生活は発展途上国の多くの人々の犠牲の上に成り立っているのです。

それでも、人間は賢い動物だと言えますか?

人間は物質的に豊かで、便利・快適な生活を求め続けてきました。

でも、その結果、自分自身の吸う空気を汚染し、自分自身の食べる食べ物を汚染し、自分自身の飲む水を汚染し、自分たちの生活環境を維持している生態系そのものを破壊しています。

それでも、人間は賢い動物だと言えますか?

社会的なことだけでなく、個人について考えてみても、いろいろな意味で、苦しみを背負って生きている方が非常に多いように思います。

そう考えると、人間は賢い動物だとはとても言えないように思います。

でも、僕は、「本来は」人間は賢い動物だと思っているのです。

個人的であれ社会的であれ、人間の苦しみや間違いはすべて「自分というものについての誤解」から生じています。

つまり、「自分は他と分離した存在だ」という誤解から人間のすべての苦しみと間違いが生じてくるのです。

でも、本当は、みんな一つのいのちを生きています。このことに気づくことが何より大切です。

もちろん、気づくだけではダメですが・・・。


みんな一つのいのちを生きている。

それがすべての出発点なのです。




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もともと求めるものは何もない

日ごろ、いろいろな方々の生きる様子を見ていて思うのは、多くの方がいつも何かを求めて生きているのではないかということです。

物質世界のものであれば、カネ、名声、地位、仕事での成功、良好な人間関係、あるいは、それらを通して得る自分の存在感などが求める対象となるでしょう。

精神世界のものであれば、真の自由、真の幸福、覚醒、悟りなどが対象となるでしょう。

けれども、物質世界であれ、精神世界であれ、何を求めても結局は同じものを求めているのです。

それは自分自身を完璧なものにするということです。それは人間の根源的な欲求だからです。

しかし、この方向でどんなに努力しても、どこまで行ってもその目的を達成することはできません。

そこには真の安らぎはありません。あるのは、あせりと不安と混乱だけです。

おまけに、そうして頑張れば頑張るほど、かえって目的から遠ざかってしまいます。

何かを求めなければという気持ち、自分を完璧にしたいという欲求は、「自分には何かが不足している」という思いから生じます。

そして、「自分には何かが不足している」という思いは、何かを手に入れることができたとしても、絶対に満たすことはできないのです。

実は、「自分には何かが不足している」「何かを求めなければという思いは、自分は他と分離した存在だというバラバラ観から生じます。

しかし、真実は「いまここ」においてみんな一つのいのちを生きています。そして、すべての存在はそのままですでに完璧なのです。

もともと何も求めるものはなかったのです。

「いまここ」があなたの家なのです。そして、あなたはこの家から一度も離れたことはないのです。

この真実に気がつくことができさえすれば、何かを求めなければという夢の旅からも目覚めることができるでしょう。

では、どうしたらこの真実に気づくことができるでしょうか。

僕自身の体験をお話ししましょう。

僕は若い時に、精神世界での気づきを求めに求めて、最後にとことん行き詰ってしまいました。

どうしようもなく、もがき苦しんでいたら、突然、「何かを求めなければ」という気持ちがガサッと落ちてしまいました。

そして、その瞬間、存在の真実に気づくことができたのです。

ということは、存在の事実に気づくためには、思い切って求める気持ちを捨ててしまえばよいということになります。

では、どうしたら捨てられるかですって?

方法はありません。だからこそ、「思い切って」と言っているのです。

「思い」を切るのです。

方法は?などと言っているようでは、「思い」を切ることはできません。




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分かち合い

僕は自分自身のことを先生だと思ったことはありません。

あなたが持っていない何か特別なことを僕が持っているわけではないからです。

どのような意味でも、僕は決して特別の人ではありません。ただの人です。

したがって、このブログは、僕が特別な人として皆さんに何かを「教える」ために書いているのではありません。

僕はこのブログを「分かち合い」の場だと考えています。

存在の真実はすでに「いまここ」にそっくり顕現しています。

私たちはいつも何かを求めています。しかし、何かを求めているかぎり「いまここ」を見失ってしまいます。

すでに「いまここ」にあるのですから。何かを求める必要はないのです。

このブログは皆さんがずっと前から知っているにもかかわらず、見失ってしまった存在の真実を、あらためて思い出していただくために書いているのです。




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これでいいのだ!

僕の家では現在ネコを7匹飼っています。その1匹がチビです。約1歳のメスネコです。実は、チビはほとんど眼が見えません。

生まれてから3ヶ月ほどまでは正常に見えていたのですが、突然、ウイルス性の風邪のような病気になり、急激に衰弱してしまいました。そして、何と、両方の眼球が落ちてなくなったのです。

チビは生と死のギリギリのところで奇跡的に回復に向かいました。眼以外の機能は正常で、音や匂いを頼りに歩きまわったり、寝たりしています。
しかし、かすかに光や影は感じるようですが、物の形は見えなくなってしまいました。

小さい時はネコ用のトイレがどこかも分からないので、その気配を感じるたびに抱っこして連れていきました。最近やっと自分だけで行けるようになりました。

チビはエサ場は大体分かっているようです。でも、普段は離れたところにいるので、エサが欲しい時は鳴いて僕らに知らせます。そのたびに、誰かがチビをエサ場に連れて行きます。

チビは僕らの手がなければ生きていくことはできません。

ある時、ふと気がつくと、家の中のどこを探してもチビの姿が見えません。誰も気がつかないうちに家の外に出てしまったのです。チビは自分で外に出れば家に戻ってくることはできません。

手分けして1日中探したのですが見つかりません。僕らの家は山の中にあって、周りに人家も少ないので、もしかしたら森の中に入って迷ったのかもしれません。

翌日、家から300メートルほど離れた小道にチビがポツンと坐っているのを奇跡的に見つけることができました。チビは無事でした。もし、見つからなかったらチビは2,3日以内には確実に死んでしまっていたでしょう。

このようなチビですが、チビを見るたびに僕は思うのです。

「これでいいのだ」と。

チビは眼が見えません。でも、その事実には何一つ欠けるものはありません。

そのままで完璧なのです。

チビは眼が見えません。それが何か? 何か問題がありますか?

あなたという存在も同じです。それでいいのです。



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僕らの洗脳社会 タバコ

私たちは誕生以来、家庭、学校、職場などにおいて、あるいは新聞、テレビ、インターネットなどを通していろいろな知識や価値判断の物差しを身に付けてきました。

私たちはそれらをいつの間にか絶対正しいと思い込んでいるのです。

しかし、真実に照らしてみると、それらの中には間違ったものがかなりあるように思います。

普段私たちは自分で考え判断して行動していると思っています。けれども、本当にそうでしょうか?

たとえば、30年前までは、タバコは男らしさのシンボルであり、洗練された女性のシンボルでもありました。成人男性の90%以上がタバコを吸っていました。

ところが今では、タバコは本人の健康を損なう恐れのある「嗜好品」で、喫煙はまわりの人にとっては大変迷惑な反社会的な習慣であるというのが社会の一般的な認識となっています。喫煙率もかなり下がってきました。

私たちはいろいろな面において、その時々の社会の風潮や常識というものを、本当はどうかと確かめることもせずに、盲目的に正しいと思い込みがちです。

多くの場合「みんながそう言っているから」「みんながそうしているから」ということがその根拠になっているようです。

でも、たとえ、みんながそう言っていたとしても、みんなが間違っているということもよくあることです。

つい最近まで多くの人がタバコはいいものだ、楽しい「嗜好品」だと思っていたのですよ!

そして、今ではタバコは健康を損なう恐れのある「嗜好品」だとされています!

どちらがタバコの本当の姿なのでしょうか? 

実は、どちらも間違いです!

真実は、タバコ(ニコチン)はヘロインやコカインに匹敵する強力な「麻薬」なのです。タバコは「嗜好品」などでは決してありません。

ニコチンの脳や神経におよぼす作用の研究結果を見れば、ニコチンが強力な麻薬であることは明らかです。

それだけでなく、タバコは嗜好品だという思い込みを横において、タバコに対する喫煙者の心理や行動をよく観察してみれば、それは誰にも明らかなことではないでしょうか。

タバコが強力な麻薬であることが社会的に認められれば、タバコを吸う人なんかすぐにいなくなるはずなのです。

しかし、残念ながら、タバコは今もって「嗜好品」という名目で合法的に販売されています。

自分はタバコを吸わないから関係ないと思う方もいるでしょう。しかし、この話のテーマはタバコではありません。

私たちがこの社会の中でいかに容易に洗脳されやすいか。その結果、いろいろなことについて間違ったことを正しいと信じ込んでいる可能性が大きいということを、タバコを例にとって話しているのです。

本当に幸せに生きるためには、自分の思い込みを、一つずつリセット(脱洗脳)することが大切です。


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悟りと幸せ、どちらが大切か?

私たちにとってもっとも大切なものは悟りである。つまり、本来の自己を体験的に捉えることである。そうすることによってこそ、本当の幸せになれるのだという方々も多いでしょう。

僕は本来、悟りと本当の幸せは同じものの両面だと考えています。

しかし、仮に、悟って、ある程度心の眼が開いたとしても、必ずしもそれによって本当に幸せに生きていけるということではありません。

僕自身は悟りを得ることよりも何よりも、どんな状況においても本当に幸せに生きていきたいと思っています。

では、どうしたらそうなれるのでしょうか?

まず「いつでも、どこでも本当に幸せでありたい」という自分の心の底からの願いを確認することです。

そして「自分はこのままで本当に幸せだ」と自分自身にきっぱりと宣言すればよいのです。

そうすれば、本当に「もともと自分は幸せだった」ということが分かってくるでしょう。

本当に幸せに生きていけるかどうか、すべては自分の心の持ち方しだいなのです。



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みんな一つのいのちを生きている

自分とは何でしょう?

多くの方々は自分は他と分離した存在だと思っているようです。

家族や親戚は血は繋がってはいるのですが、それはそれとして、存在としては、みんなそれぞれバラバラに分離していると思っているのではないでしょうか。

たしかに、私たちは、(アタマで自分と思っている)この小さな個体を生きていることは事実です。

しかし、本当の自分は決してこの単なる個体ではありません。個体以上のすべてとぶっ続きの存在なのです。

たとえば、心臓の鼓動や肺の呼吸などさまざまな体の働き、さらにはアタマで思ったり考えたりする働きなどを観察してみましょう。

そうすれば、この個体において働いている力はすべて自分自身がそうしようと思って働かせている力ではないことが分かるでしょう。すべて「自分の思い以上のところで働いている大きな力」によるものです。

つまり、本来の自己の生命とは、小さな個体的な自分の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的自分に働いている力なのです。

これは、私においても、あなたにおいても、誰においても同じです。個体的にはお互いにみんな姿、形も違います。また、それぞれの思いや考えの内容も異なっています。

しかし、おのおのの個体に働いて、その体を働かせている力、考えさせている生命の力というものは、それぞれの個体以上の力であり、みんなぶっ続きの一つの生命力なのです。

人間だけではありません。たとえば、居間のじゅうたんの上で眠っている白ネコに働いている力も、庭の松の木に働いている力も、今僕を生かしている力とまったく同じ力です。

 人間、そしていろいろな動物や植物、大地、山や川、海、空、雲、雨、風などの大自然、太陽や星など、この世界の生きとし生けるもの、在りてあるもは、すべて一つの生命の力の顕われなのです。 

私たちは姿、形はちがっても、みんな同じ一つのいのちを生きています。

この世界にはバラバラの存在など一つもありません。

ですから、自分を必要以上に守ろうとしたり、人と争ったりすることほど愚かなことはないのです。

私はあなた。あなたは私。みんな私です。




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本当のことは教えてもらっても分からない

世の中には「自分とは何か」「真実の生き方とは何か?」など存在の真実、いわゆる精神世界について書かれた本がたくさん出回っています。

また、精神世界をテーマとした講演会やセミナーなどもたくさん催されています。

さらには、ネットでも日々ウェブサイトやブログを通じて、精神世界についてたくさんの情報や考えが発信されています。

僕のブログもその中の一つです。でもここで皆さんに申し上げておきたいことがあります。

存在の真実は本を読んだり、人の話を聞いたり、誰かに教えてもらっても、決して分かるものではありません。

存在の真実はアタマで理解して分かることのできるものではないからです。

存在の真実は自分で体験的に気づく以外にはないのです。

自分自身の過去の体験と多くの方々を観察してきて本当にそう思います。

あなた自身これまでの自分を振り返ってみて、そう思いませんか?

これはとても大切なことです。


では、この「いのちの塾」のブログを読んでも意味がないのか?と思われるかもしれませんね。

もし、「いのちの塾」を読み、それを妄信したり、何だかその気になって分かった気になるだけであれば、そんなブログなど書いても害になるばかりです。

じつは、僕は「いのちの塾」において、それぞれのテーマについて毎回、あなたが自分自身で、できるだけ容易に、本当のことに体験的にはっきりと気づくことができるように工夫して書いています。

それがこのブログの一大特徴です。

どうか、ブログをざーと読んでしまわないで、自分が本当に体験として理解できているかをご自身に確かめてください。

もし、体験的に理解できていないと思う場合には、そのテーマを心の宿題として、常に暖め続けてほしいと思います。

そうすれば、そのうちに、はっきりと体験として気づくことができるでしょう。


じつは、僕が主宰している「自覚のセミナー」や「いのちのセミナー」も「いのちの塾」とまったく同じ方針で組み立てられています。

それについては、そのうちに書いてみたいと思います。


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劣等感は勘違い

世の中には劣等感で悩んでいる方々がとても多いようです。

人前では快活そうに振舞っている方が実は密かに劣等感で悩んでいるということもよくあります。

実は、僕も20代の半ばごろまで劣等感には本当に苦しみました。

小学校の頃は背が低かったことや学校の成績が極端に悪かったことなどが劣等感のタネになっていました。

その後は身長も学校の成績も人並みに伸びてきたので、だんだん気にならなくなってきました。


ところが、成長するにしたがって自分の性格の嫌なところなどが気になりだして、劣等感のタネが内面的なことに移っていきました。

しかし、それだけに「自分は劣っている」という感覚はますます深刻になっていきました。

家族以外の人の中にいる時にはいつも「自分は劣っている」ということを強く意識してしまうようになってしまいました。

とにかく、まわりの人の眼が気になって居心地が悪いのです。

一人になるとホッとするのですが、こんどは自分を責めたり・・・。

経験したことがない人にはわからないと思いますが、深刻な劣等感というものは本当に辛く苦しいものです。


ところが、ある時突然、長い間苦しめられていた劣等感からいっきに解放されたのです。

それは「この世の中には優劣というものは存在しない」という単純な事実にはっきりと気がついたからです。

「優劣」というのは、人間が勝手にアタマで作りだした概念でしかありません。

優劣という概念は事実に即した概念ではありません。



優劣があるという固定した考えをちょっと横に置いて、あなたが劣っていると感じていることがらをじっと見つめてみましょう。
そして、「そのどこが劣っているのか?」と問いかけるのです。


繰り返していれば、そのうちにかならず「劣っているものは何もない。もともと優れているものも劣っているものもなかったのだ」ということに気がつくことができるでしょう。

もともと、この世の中には優れている人も劣っている人もいません。

その意味では、みんなただの人ばかりです。

肩の力を抜いて、気楽にオープンに生きましょう。



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マイナス感情は間違い

「喜怒哀楽は人間の常である」という言葉があります。

実際のところ、これまでのご自身の体験やまわりの人たちを見ていて、多くの方がそう思っているのではないでしょうか。

でも、喜や楽のプラス感情はともかく、怒や哀のマイナス感情を抱くのは人間にとって本当に当然のことなのでしょうか。

僕の答えは断固として「ノー」です。

本来、人間は誰でも苦しみのない幸せな人生を生きることができるのです。

僕は、決して道徳論や理想論を言っているのでもありません。

何かがあったときに、腹を立ったり悲しくなるのは決して当たり前のことではありません。

たとえば、この広い世界には少数ながら、一生腹の立たない部族もいくつか存在しています。

また、親しい人が死んだときにはみんなで喜んでお祝いをするなどという部族もあるのです。

何かがあったときに、腹を立てたり悲しむのは、ある一つの錯覚から起きてきます。

それに気づけば、完全に怒りや悲しみから解放されます。

その錯覚とは何か? これは人に教えてもらっても逆効果になるだけです。

自分自身で気がつき体得するしかありません。

生活の中でずっとこのテーマを暖めて行けば、ある時「なるほどそうだったのか」と思わず笑ってしまっている自分に気がつくでしょう。


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本当の幸せ 3

幸せを求めるということは、今の自分を認めることができないということです。


それは要するに、今の自分を犠牲にしているということです。


それではどんなに幸せを求めても、いつまでたっても幸せになれるはずはありません。


今の自分をそのままそっくり認めること、今の自分を犠牲にしないこと。


これが本当に幸せであることの秘訣です。


それができるのは自分だけです。


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本当の幸せ 2

自分のまわりの状況はいつも変化しています。


それは、たとえば、自分がいる場所のようなものです。


毎日の生活の中で自分のいる場所はいろいろと変わります。


でも、どこにいても自分自身が変わったわけではありません。


もう一つのたとえです。自分はその時々にいろいろな着物を着ます。


でも、その中身である自分自身、つまり裸の自分自身はどんな着物を着ようと決して変わることはありません。


このように自分の生きている状況はいろいろ変わっても、自分自身は決して変わることはありません。

物質的なものであれ、精神的なものであれ、どんなに望んでいるものを手に入れることができたとしても、あるいはできなかったとしても、自分自身が変わるわけではありません。

事実は、それらを求め続ければ続けるほど本当の幸福を見失ってしまいます。

「自分は体の具合がよくない。そんな自分が完璧で幸福な存在だとはとても思えない。」という方もいるでしょう。


でも、体の具合が悪いということも、自分のいる場所や着ている着物のようなものでしかありません。

中身の自分自身は決して変わらないのです。

その自分自身は初めからずっとそのままで完璧で幸福な存在なのです。

視点の切り替えさえできれば、誰でも一瞬で気づくことができます。

それは本当の自分自身に気がつくということです。


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本当の幸せ 1

人は誰でも幸せを求めています。


でも、その幸せというのは、何か自分が欲しいと思っていることを手に入れることだと思っていませんか?

多くの人がそう思って一生懸命頑張っています。


僕もずっとそう思って頑張ってきました。でも、ある時ふと気がついたら僕自身がボロボロになっていました。


それに気付いた時、突然、僕のこころの中で何かを求めようとする気持ちがまったくなくなってしまったのです。


その時に、すべてが変わりました。

もともと何も求める必要はなかったのです。

何もかもそのままで、僕は幸せそのものでした。

それ以来ずっと幸せに生きてきました。


本当の幸せというのは条件や状況によって変わるものではありません。


何か欲しいものを手に入れて幸せだと思っているのは一時的な気分でしかありません。


状況が変わればいつでも変わってしまいます。ですから本当の幸せとは言えません。

本当の幸福は状況によって変わったり失ったりするものではなく、無条件で永遠に続きます。

そんなものがあるのか?と思うかもしれませんね。

でも、自分自身をじっと見つめていれば、そのうちにふと「今の自分そのものが本当の幸せだ」ということに気付くことができるでしょう。



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