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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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人間の体―2

人間の体―2

野生の動物は充分な食べ物がなくて飢え死にしたり、他の動物に襲われて死ぬことはあっても、ある種のウィルスによる感染などの特殊な場合を除いて、ほとんど病気で死ぬことはないそうです。

それは、動物にはもともと健康を維持し、育てていく機能が備わっているからです。

野生の動物は大自然の中で本能に従って生きています。たとえば、自然の要求に従って、自分の体にできるだけ合った食物を選んで食べます。

食べ物が充分以上にある場合でさえも、必要な量だけ食べ、適度に体を動かし、適度に体を休めます。

大自然は野生の動物にとって、常に理想的な生活環境であるというわけではありません。その中で体に異常が生じることもあるでしょう。

でも、動物の体にもともと備わっている健康維持・回復機能が活発に働いて、異常が自動的に調整されます。

それらの機能は大自然の仕組みに完璧に適応して生きていけるように、何十億年という進化の過程で、形成・獲得されてきた能力です。

ところが、今日の世の中を見ると、医学や医療技術は非常に発達していると言われますが、実態は病人だらけです。 変だと思いませんか?

頭痛がするから痛み止めの薬を飲む。熱が出たから注射を打ってもらう。胃が重いから胃薬を飲む。体に湿疹が出たから、薬を塗る。などなど。

みんな対処療法です。そして、自分の体の健康を薬や他人に任せっぱなしです。

これでは、健康に生きられるはずはありません。

私たちは私たちのもっとも身近にあるもの、もっとも大切なものを見失っているのではないでしょうか?

少なくとも体に関しては、人間も動物の一種です。ですから、我々の体にはもともと体の異常を調整し、健康を維持し、育てていく機能が備わっているはずです。

心の面でも同じです。

私たちは、高度に発達した科学技術のもとで、昔に比べれば、はるかに豊かで、便利で快適な生活をしています。にもかかわらず、精神的な苦しみを抱えて生きている方が非常に多いように思います。

真実は、人間の体にも、そして、心にも、本来、本当に幸福に、そして、健康に生きていける機能がもともと備わっているのです。

この真実に気づき、この原点に立ち戻ることが今わたしたちにとってもっとも大切だと思います。





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人間の体-1

人間の体-1

突然ですが、皆さんは頭痛がする時どのように感じますか?

「厭だなあ」と不快に思うのでしょうね。それはごく自然の感覚です。

それでも、痛みがたいしたことがなければ、特に何もしないで、自然に痛みが引くのを待つという方が大部分でしょう。

でも、頭痛がかなりひどい場合にはどうしますか? 

痛み止めの薬を飲むという方が多いのではないでしょうか。

では、痛みは悪いものでしょうか?

事実は、痛みは「体に異常があるよ」という警報システムなのです。

たとえば、火災警報器と同じです。火災警報器は火災の発生による煙を検出すると、大きなベルの音で私たちに火災の発生を知らせてくれます。

火災警報器のベルが鳴った時、あなたはどうしますか?

火災報知器の電源を切ってベルの音を止めて、これですべて解決したと思いますか ?

もちろん違いますよね。

火を完璧に消し終わってこそ、すべての問題が解決するのですよね。

ところが、体の痛みについては、それが不快な感覚であるという理由だけで、痛みは悪いものと決めつけているのではないでしょうか?

そして、せっかく「体に異常があるよ」と知らせてくれているのにもかかわらず、痛み止めの薬を飲んで痛みを止めて、これですべて解決としてしまっているのではないでしょうか?

でも、体の異常は何も治っていないのです。

人間は、何十億年という長い進化の過程で無数の困難な状況に直面してきました。

そして、その度に、それを乗り越えるために突然変異が起き、どんな困難な状況をも乗り越えることのできる能力を身に付けてきました。

そう意味で、人間の体には不必要なものは一つもありません。

人間の体はもともと自分自身の体の異常を治し、健康を維持していく能力をほぼ完璧に備えていると言ってよいでしょう。

その一つが、体の異常を知らせてくれる痛みという警報システムです。異常がある時に痛みが出るのは必要なのです。

もし、体に異常があるのに、痛みも何も感じなかったらどういうことになるか想像してみてください。

また、もし痛みを痛み止めで止めるということを繰り返していたら、どうなるでしょうか?

それは、体がもともと備えている体の健康を維持しようとするいろいろなシステムを妨害することになります。そのもっとも重要なものは免疫システムです。

では、痛みが出た時にはどうしたらよいのでしょうか? もちろん、それは体の異常そのものを治すことです。それが根本解決です。

このように、世間の常識や自分の考え方に捉われずに、「本当はどうか?」と調べていくことはとても大切なのです。

痛みは一例にすぎません。

人間の体とは「本当はどういうものなのか?」ということを体験的に知りたいという方は、まず、このブログにリンクしている「整体生活実践入門」のウエブページと「奈央さんのブログ」を訪ねてみてください。



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当たり前が素晴らしい

当たり前が素晴らしい

僕はまだ20代の頃、毎日必死に真実の生き方を求めて生きていました。しかし、それがどうしても分からずに、不安な日々を送っていました。

ところが、とうとう心身ともに完璧に行き詰ってしまったその瞬間に、気がつくと、自分は日の当らない暗いじめじめしたモノクロの狭い世界から、太陽がさんさんと輝くカラフルな無限に広い世界に飛び出してしまっていました。

こうして、僕は存在の真実に気づくことができました。しかし、それはけっして僕が特別な人間であるからではありません。

このブログに書いてきたことも特別のことと思ったこともありません。

あの時まで、僕は「この世界は暗くて、じめじめして、灰色の狭苦しい世界だ」と思い込んでいました。

ところが、気がついてみると、それは、黒い袋に自分からアタマを突っ込んで、「この世界は暗くて、じめじめして、薄暗くて狭苦しい世界だ。」と言っていたのと同じでした。

その黒い袋は自分のアタマで作りだした妄想以外の何ものでもありませんでした。

ところが、突然その黒い袋が頭から脱げてしまったのです。あらためてこの世界を眺めると、そこはもともと太陽がさんさんと輝く、カラフルな、無限に広い世界だったというわけです。

それだけの話です。ただ、「あるがままの当たり前のこと」に気づいたにすぎません。ですから、自分が気がついたことを誰かに自慢する気にもなりません。

たとえば、スモーカーが「もともと、タバコを吸う必要はなかったのだ」と分かって、タバコをすぱっとやめたとしても、誰かに自慢する気にはならないでしょう。それと同じです。

「タバコを吸わない」というのは当たり前のことです。ですから、タバコをやめたとしても、べつに人に自慢することでも、誉めてもらうことでもありません。

もっとも、タバコをやめたいと思いながら、どうしてもやめられないでいるスモーカーの多くの方々は、タバコをすぱっとやめた人を「特別な人」と錯覚してしまうかもしれませんね。

いずれにしても、「タバコを吸う必要はまったくない」という当たり前の真実に気がつきさえすれば、誰でもタバコをすぱっと苦もなくやめることができます。。

タバコの話は一例にすぎません。

「存在の真実」というと、何かとても深くてむつかしいことと感じる方も多いと思います。

けれども、僕が言いたいのは、このありのままの世界がそのまま「存在の真実」そのものだということです。

「今ここ」のありのままの世界を色眼鏡を掛けずに、裸眼で見てほしいのです。

そうすれば、このありのままの世界が、もともと、光輝き、カラフルで、無限に広い世界であることが分かるでしょう。

いや、それだけでなく、自分自身がもともと、光輝き、カラフルで、無限の存在であることに、はっきりと気づくことができるでしょう。

少しも難しいことではありません。

なぜなら、それは当たり前のことだからです。



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「いのちの塾」について今思うこと

「いのちの塾」について今思うこと

これまでこのブログを週5回のペースで書いてきました。

書いてみたいことがたくさんあるので、キー(筆?)に任せて書いてきました。

毎回のテーマはざっと読み過ごすにはあまりにも重いテーマだと思います。それだけに、毎回キーにもかなり力が入りました。

今、これまでに書いたものを読み直して僕自身が感じていることは、もう少し「間」があったほうがよいのではないかということです。

考えてみれば、非常に重いテーマについて書かれた文章をほとんど毎日読んで、その一つ一つを自分自身でしっかり確認・納得していくというのは結構大変なことではないかと思うのです。

その結果、それぞれのテーマの重要性は感じながらも、下手をすると毎回アタマで理解するだけで、しっかり腹に落としていく作業が抜けていくことになりかねません。

正直に申し上げて、それではあまりにももったいないと思うのです。

そこで、これからしばらくは、週3回、月・水・金だけブログをアップしようと考えています。

そうすれば、ひとつ一つのテーマを自分自身でじっくり暖めることができるのではないかと思うのです。

テーマがテーマだけに、場合によっては、週2回、月、木でも充分なのかもしれませんね。

あまり間が開きすぎても、今度は「間抜け」になってしまいかねませんので、週3回、または2回というところがベストではないかと思います。

いずれにしても、僕の希望は、過去のブログも含めて、何回も読み直して、各テーマをじっくりと暖め続けてほしいのです。

もちろん、読むだけで不十分です。

自分自身が鮮明な体験として捉えられるかがポイントです。



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無一物中無尽蔵

無一物中無尽蔵

仏教のもっとも中心となる思想を、一言で言えば、「空即是色」です。

その意味は、「この世界の本質は空っぽであり、その空の中ですべての現象が展開している」ということです。

「無一物中無尽蔵」はそれを言い換えたのだという解釈があります。

僕もこの解釈に異存はありません。しかし、同時に「無一物中無尽蔵」という言葉は所有ということに関して使われているのではないかと思うのです。

本来、この世界に「誰々のもの」というものは存在していません。(体験的にこの真実に気づくことはとても重要です。)

つまり、本来、所有というものはないのです。別の言葉で言えば、この世は、本来、無所有の世界です。

そして、本来、すべてのものは誰でも自由に使うことができます。(これもご自分で体験的に気づいてほしいと思います。)

つまり、本来、無所有であるからこそ、誰でもすべてのものを自由に使えるのです。

どのように使ったらよいかということは、みんなで話し合って決めればよいのです。

ところが、資本主義国家、社会主義国家、共産主義国家を問わず、私たちの現代の主要な社会はすべて所有の社会です。所有の社会では、当然、奪い合い、競争、対立などが生じます。

もともと所有などないのに、所有があるとして成り立っているのが私たちの社会です。ですから、そこにいろいろな混乱が生じるのは当然です。

私たちが本当に幸せで平和な生活を実現しようとすれば、まず、自分が「所有はない」ということに気づくことが必要です。そして、所有制度に基づかない新しい社会の仕組みをみんなで創っていくことが必要です。

でも、それにも増して大切なことがあります。自分が「所有はない」ということに気づいたら、まず、自ら無所有の生き方を実践していくことです。

もちろん、私たちは所有社会に生きていますので、制約があることは事実です。でも、その中であっても、無所有の生活をしていくことは大いに可能です。

それは「分かち合い」ということです。物でも、知識でも、智慧でも、心でも、何でもおしげなく人と分かち合って生きるのです。

そのように生きれば、自分が損をするような気がする方は、まだ所有観念が抜けきっていないのでしょう。

また、無所有の真実に気づいても、それが生き方、つまり、生活そのものに繋がっていなければ、結局は、ケチで狭い生き方となってしまいます。

実際は、無所有の生き方の中にこそ、物心ともに本当に豊かで自由な生き方があるのです。

無所有の生き方を実践してきた方であれば、みんな同じように言われるでしょう。

僕は「無一物中無尽蔵」という言葉は、無所有の生き方の行き詰まりのない無限の豊かさを表現しているように思えます。

僕は、一人でも多くの方が無所有の生き方を実践してほしいと願っていますが、それは、無所有の生き方の中にこそ、本当の生きる喜びがあるからです。



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調和と共生の社会

調和と共生の社会

大宇宙を見ると、太陽や月、そして夜空の星はいつも規則正しく動いているように見えます。

また、大自然を見ると、太陽、空、雲、雨、風、雪、霧、大地、森、林、平野、川、湖、沼、海、動物、植物など、すべての要素が互いに循環し、調和、共生の一体世界を形成しています。

もちろん、地震や津波、火山の爆発などによって、秩序が一時的に乱れることもあるでしょう。しかし、時間が経てば、また新しい秩序の元にすべての要素が循環、調和、共生の一体社会が営まれます。

小宇宙と呼ばれる私たちの体をよく観察してみても、それを構成する器官、組織、細胞などすべての要素が互いに循環し、調和と共生のもとに、一つのいのちを生きていることが分かります。

では、私たち人間が作りあげた社会はどうでしょうか?

発達した科学技術による便利で快適で豊かな生活。心の温まる家族愛、友情、人々の思いやり、助け合い。いろいろな感動的な出来事。音楽や絵画、彫刻など心が揺さぶられる芸術作品、などなど。

本当に素晴らしいものがたくさんあることは事実です。

しかし、同時に、そこにあるのは、企業間の過度の競争、不安定な経済状況、国家間の対立、絶え間のない紛争や戦争、深刻化する地球規模の環境破壊、大規模な原発事故、何十億人もの貧困、食糧難、飢餓、蔓延する疾病などなど。

そして、個人や人間関係においては、不安、恐れ、孤独、疑い、不信、憎しみ、嫉み、奪い合い、いじめ、引きこもり、などなど。

このように見てくると、私たちの社会はいまだ調和と共生にはほど遠い、実に不安定な社会だと言えるでしょう。

なぜ、このようなことになったのでしょうか?

野生の動物は本能だけに従って生きているので、大自然の循環・調和・共生という秩序に自然に順応した行動を取っています。

それに対して、人間は大脳による認識や判断を行動や考え方の基盤としています。

ところが、大脳は存在の真実のごく一部を捉えることはできても、その全体を捉えることができません。そのために、自然の法則(真理)に沿わない認識や判断をしてしまうことが多いのです。

大脳の認識で最大の間違いは、すべての存在はバラバラであるというバラバラ観です。

私たちの社会はこのバラバラ観をもとに造られており、そこからいろいろな深刻な問題が生じているのです。

存在の真実を体験的に捉えることは、とても大切なことです。けれども、それが社会の変革に繋がっていかないとすれば、エゴが別のエゴに変わったというだけの話です。

存在の真実を体験として捉えると同時に、一日も早く循環・調和・共生の社会を実現できるように全力を尽くして生きることこそ真実の生き方と言えるのではないでしょうか。



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全ての問題を解決するカギ

全ての問題を解決するカギ

地球に生命が誕生して、すでに何十億年か経ちます。一番最初に原始的な単細胞生物が生まれ、そして多細胞生物に進化したようです。

その後進化の過程を経て哺乳類が誕生し、最終的に数百万年前に最初の人類が誕生したと言われています。

そして、今日まで、人類は物質的な豊かさ、安全、便利、快適、高能率などを求めてきました。

その一番の原動力は大脳の発達だと思います。大脳の発達こそが人類がその他の動物と決定的に異なっているところです。

とくに、1万年ごろ前から今日まで、便利、快適、高能率を求めていく努力が段々報われてきました。その結果、今日の私たちの文明社会があるわけです。

確かに、今日では、少なくとも先進国においては、人々は昔に比べれば、随分と豊かで、安全、便利、快適、高能率な生活を享受しています。

ところが、そのために逆に、多くの発展途上国では、多くの人々が貧困や飢餓にあえぎ、疾病などで苦しんでいます。これは大きな矛盾です。

そして、地球全体では、環境破壊がますます深刻になっています。さらに、核戦争の可能性を含めて、度重なる紛争や戦争、そして、チェルノブイリや福島の原発事故、さらには、人心の荒廃、社会不安など、深刻な諸問題に人類は直面しています。

このままの方向で進めば、人類社会は本当に行き詰まってしまうのではないでしょうか。

このように人類社会が行き詰った根本原因はどこにあるのでしょうか?

それは、私たちが大脳を過信するあまりに、私たちの大部分がいまだ存在の真実を自覚していないためだと思います。

一言で言えば、すべての存在はバラバラであるという考え方です。

ところが、すでに2500年前、あるいは、2000年も前から釈迦やキリストをはじめ多くの賢人・聖人が、存在の真実をはっきり自覚して、人々に本当に幸せに生きる道を説いてきています。

彼らが共通して言っていることは、人間社会は決してバラバラの他人の寄せ集めではない。人間だけでなく、全ての生物・無生物も含めて全宇宙が不可分の一体であるということです。

今日の人類社会の行き詰まりは、私たちがそれらの賢人・聖人の言われることに耳を傾けなかったことに原因があると言ってもよいでしょう。

では、彼らが言っている存在の真実を分かりやすくイメージ的に説明しましょう。

太陽光線は無色ですが、そこにプリズムを置くとそれが無数の色に分かれて見えます。

存在のあり方を私たちの五官というプリズムを通して大脳で判断すると、バラバラに見えるかもしれません。

けれども、存在の真実の姿はこの太陽光線が無色であるように、すべてが一つなのです。

それをアタマだけでなく体験として捉えることが、全ての問題を解決するカギであり、今日の私たちにもっとも重要であると思います。



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個人と社会のかかわり

個人と社会の関わり 

世界保健機構(WHO)の報告によれば、タバコを吸う人の2人に1人がタバコが原因で死亡するそうです。

日本で毎年タバコが原因で死亡する人は約13万人で、交通事故による死亡者の10倍以上、自殺者の4倍以上です。

世界では毎年500万人以上がタバコが原因で死亡しています。現在までに世界中でタバコが原因で死亡した人の数はすべての戦争で死亡した人の数よりもはるかに多いのだそうです。

そういう意味では、喫煙は私たちの社会にとっては大変深刻な問題だと言えるでしょう。

最近では、喫煙は本人の健康に悪いだけでなく、他人にも迷惑のかかる反社会的な習慣であると見なされるようになりました。

そこで、多くのスモーカーが禁煙に挑戦するのですが、完全に成功する人は少ないようです。多くの方々はしばらくの間は禁煙できても、再び吸い始めます。

なぜ、禁煙はそんなに難しいのでしょうか?

それは、表面意識では「タバコをやめたい」と思いながら、同時に、潜在意識では「タバコを吸いたい」と思っているからです。

しばらくは、意志の力で吸いたい気持ちをガマンできるでしょう。けれども、表面意識は潜在意識にはかないません。結局は、再びタバコに逆戻りしてしまいます。

なぜ、スモーカーは「タバコを吸いたい」と思うのでしょうか? 

それは、スモーカーはタバコ(ニコチン)に強く依存しているからです。

ノンスモーカーは「タバコを吸いたい」などと思いません。タバコを吸えなくて、イライラすることはありません。

タバコを吸うようになってから、「タバコを吸わずにはいられない」というイライラした気持ちが湧いてくるようになったのです。

すなわち、タバコがストレスを解消してくれるのではなく、事実は、逆に、タバコがストレスが生じさせるのです。これがタバコの正体です。

もともと、タバコを吸う必要はなかった。これは当たり前の真実です。

この当たり前の真実に気がつきさえすれば、もはや、「タバコを吸いたい」という気持ちは湧いてきません。そうなれば、タバコをやめるのは実に簡単です。

けれども、個人的にはタバコ問題をこのようにして解決できるとしても、社会的にはそれだけではまったく不十分です。

タバコは人を心理的に強く依存させます。タバコの主成分であるニコチンは強力な麻薬です。今の社会では、それが合法的に販売されて、誰にでも簡単に手に入れることができます。

この社会的な状況を変えないかぎり、私たちはタバコ問題を完全に解決することはできません。

タバコを例にとって説明しましたが、これは何にでも当てはまります。

自分が存在の真実に気づけば、すべてが解決するということではないのです。

みんなが本当に幸福になるためには、自分の気づきを社会的な変革に繋げていくことが必須なのです。




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本当の幸せ 4

ずっと前に「本当の幸せ 1,2,3」というタイトルで書きました。今回はその締めくくりです。

実は、「本当の幸せ 1,2,3」は「個としての自分」の本当の幸せという視点から書いたものです。

ところが、真実は「個としての自分」など存在しないのです。

みんな同じ一つのいのちを生きているからです。

ですから、自分だけの幸せなどあるはずがありません。

真実は、世界中の生きとし生けるもの、人間だけでなく、動物、植物も含めて、すべての存在が幸せにならなければ、自分は本当には幸せになることはできません。

「動物、植物を含めて」と言うと、イメージが湧きにくいならば、次のように言い換えましょう。

一人も不幸な人のいない世界が実現した時に初めて、自分は本当に幸せになれるのです。

「それが実現するまでは自分は不幸だ」と言っているのではありません。なぜなら、本当の幸福は不幸の対句ではないからです。

また、次のように言ってもよいでしょう。

一人も不幸な人のいない世界を実現するために、日々最高・最善の努力を尽くして生きることこそが自分の本当の幸せです。

偉そうなことを書いていると思われるでしょうか?

でも、真実は、誰でもそれが本当の幸せだということに気づいているのではないでしょうか。

ただ、日常の生活の中で、あまりにも心を忙しくして、心がざわざわしているために、本当の幸せなどということすら考えずに生きているのではないでしょうか?

自分の内なる声に静かに、そして、素直に耳を澄ませてみましょう。

そうすれば、「本当の幸せが何か?」「自分が本当に何を求めているか?」ということが、すぐにわかるはずです。

苦しい修行をしたりして悟る必要もありません。

本当は、僕がこのブログに書いてきたことなど、初めからみんな知っていたのではないでしょうか。

それに気づいてほしいという思いから、僕はこのブログを書いています。

それは僕自身が常に本当に幸せでありたいからです。



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悪い人なんかいない

「悪い人なんかいない」なんて書くと、皆さんは僕のことを道徳論者と思うかもしれませんね。

でも、僕は道徳的に「悪い人なんかいない」と言っているのではありません。

そもそも、「この世界には善悪そのものがない」と言っているのです。

でも、いつも言うように、僕の言うことを鵜呑みにしないでください。自分自身で「本当はどうか」と確かめてほしいのです。

これまでも言ってきたように、かならず自分で「本当はどうか」と確かめる態度こそ、生きていく中で何よりも大切なことだと思います。

よく確かめてみましょう。この世界には正誤はあるでしょうか?。

たとえば、算数では、2+3=5は「正しい」ですね。2+3=6は「間違い」です。

算数には法則があります。その法則に適合すれば、「正しい」、適合しなければ、「間違い」ということになります。それは善悪の問題ではありません。

では、宇宙には法則があるでしょうか?

この宇宙の諸々の現象は出たら目に起きてはいません。それはいろいろな現象を観察すれば明らかです。ということは、この宇宙には直接には捉えることはできなくても、厳然として一つの法則が働いているということです。

この宇宙に働いている一つの法則を僕は「真理」と呼んでいます。そうです、真理は一つであり、それは永遠に変わることはありません。

さて、考えや行いが真理(宇宙法則)に適合していれば、「正しい」、そうでなければ、「間違い」ということになります。それは事実をただ中立的に述べているだけです。

(注:厳密に言えば、真理は直接に捉えられないので、「これはたぶん正しいと思う。」と言うことはできても、「絶対にこれは正しい。」と言い切ることはできないということになります。)

けれども、あることについて、「善である。悪である。」と言えば、それは自分の感情的な判断で、事実そのものを中立的に述べているのではありません。

特に、「その人は悪人である」と言う時には、そこに「自分は善人である」という気持ちがあります。それはバラバラ観そのものであり、エゴそのものです。

もっとはっきり言えば、そこには、「自分は偉い。あいつはダメなやつだ。」と言いたい気持ちがあるのではないでしょうか? 

善悪は事実の中には存在しません。それは人間が作りだした観念であり、幻想です。

善悪観念はエゴと密接に絡み合っています。そして、そこから、常に他を排斥しようとして、暴力、あるいは、暴力的な感情が生まれます。

こんなつまらない、間違った生き方はもうやめましょう。

この世界に悪い人なんかいません! 

もし、考えや行いが間違っていれば、ただそれを正せばよいだけの話しです。

感情的になればなるほど、状況が複雑になり、解決は困難となります。



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「いのちのセミナー」について

今年の1月と2月に「いのちのセミナー」を開催しました。受講者はそれぞれ20名ほどでした。

その結果、1月は受講者の約2分の1の方々が、2月は再受講者も含め受講者の約4分の3の方々が、深い浅いの違いはあっても、存在の真実を体験として捉えられたと思います。

残りの方々も、僕が確認したかぎりでは、確実に体験はしています。

けれども、精神世界のことにあまりにも無知で、自分に何が起こったのか、今ひとつアタマがついていかないという状態なのだと思います。

こういう方は毎日存在の真実を確認する実習を続けていくことが大切です。

その上で、僕のセミナーを何回か受講すれば、自分が確かに存在の真実を体験的に捉えたのだということ、そして、その意味を理解していただけるでしょう。

いずれにしても、1月と2月の「いのちのセミナー」は、僕の知る限りでは、画期的な成果だと言ってよいでしょう。

ただ、そこにいくつかの問題があると考えています。

その1 はっきりと存在の真実に気づいたのにもかかわらず、それがこれまで自分が思ってきた世界と、あまりに異なるために、とまどいを感じている方がいるということです。

そこから、無意識のうちに、自分が気づいたことを否定して、以前の考えに戻りたいという気持ちが出てきます。そして、いつの間にか以前のアタマで作った世界に戻ってしまう可能性があります。


その2 日ごろから日常の状況に振り回され、真実の生き方を追及する姿勢が弱い方に見られる現象です。

こういう方は、はっきりと存在の真実に気づいたのにもかかわらず、その重要性が分かっていません。そのために、結局は、いつの間にか以前のアタマで作った世界に戻ってしまう可能性があります。

これでは、この上なく価値のある宝を溝にすてているようなもので、本当にもったいない話です。


その3 せっかく存在の真実に体験的に気づいても、その体験を深めていく努力を怠る方が多いということです。

私たちは生まれた時から、この社会において洗脳された結果、いくつもの間違った観念をもって生きています。これが個人的にも、また社会的にも、すべての苦しみと混乱の原因です。

存在の真実にはっきりと気づくことによって、それらの間違った観念のいくつかはリセットされます。

けれども、リセットされない間違った観念もまだ残っています。同時に、うかうかしていると、気がつかないうちに、再び洗脳されてしまう可能性が強いのです。


その4 せっかく存在の真実に気づきながら、いつの間にか、それがただの記憶としてあるだけで、実際の生活に繋がっていかない可能性があります。

存在の真実を体験的に捉え、それが生きることそのものにならなければ、何の意味もありません。


以上のような意味で、毎日、きちんと存在の真実を確認し、体験を深めていく実習を続けていくことはとても大切なのです。




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心配することはない

僕はまだ20代の頃、自分の将来に対して不安で不安でたまらない日々を送っていました。外見的には快活に振舞ってはいたのですが、精神的には、暗いじめじめした牢獄の中で生きているような日々でした。

何とかそのような状態から抜け出さなくてはと、精神世界や人生論について、本を読んだり講演会に行ったりしながら、懸命に考えました。でも、どうしても絶対安心の境地を得ることができません。

そのような時期に、僕は心の底から尊敬する先生に出会うことができました。先生はよく、「結局は、何も心配することはないのです。」とおっしゃられました。

このように言われて、「そうだ」と思える人は本当に幸せな人です。でも、僕には何回そう言われても、結局、分かりませんでした。

そういう日々が何年間も続きました。そして、とうとう心身ともに完璧に行き詰ってしまいました。それはまさに絶望以外の何ものでもありませんでした。

ところが、まさにその瞬間に、気がつくと、自分は暗いじめじめしたモノクロの狭い世界から飛び出してしまっていたのです。そこは太陽がさんさんと輝くカラーの無限に広い世界でした。

そして、自分自身はゼロであり、同時に無限の存在であることが分かりました。

本当にありがたいことです。存在の真実に気づくことができたのは僕が特別な人間であるからではありません。

僕は何年間も、懸命に崖をよじ登ろうとしていたのです。ところが、とうとう力が尽きて、手が崖から離れて、まっ逆さま下に落ちてしまいました。僕はまさに落ちこぼれでした。

ところが、もうダメだと思った瞬間、気がついてみると、何か大きなものに支えられて、自分は無事でした。これは僕の力とはとても言えません。


「何にも心配することはない。」  本当にそうでした。

おかげさまで、その日以来、どんな状況の中でも、僕は本当に楽しい充実した日々を過ごしてきました。

本当は僕の先生と同じように、僕も皆さんに「何にも心配することはない。」と言いたいのです。

でも、同時に、自分自身の体験から「それは自分で気づくしかない。」と言いたいのです。

僕は長年自分自身の体験を広め、また深める中で、「自分で気づくためにはどうしたらよいか? 誰でも気づけるもっとも確実な方法は何か?」ということをいろいろと工夫してきました。

それが結実したのが、現在僕の主宰する「自覚のセミナー」「いのちのセミナー」「平和のセミナー」です。

それらのセミナーの成果については、このブログのコメントをお読みいただければ、推測できるのではないかと思います。

そして、このブログは、これを読まれた方が「存在の真実に自分で気づき、より深める」ための助けになればと思って書いています。



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「いのちの塾」に対する僕自身の思い

「いのちの塾」は始めてからこれまで毎週5回のペースで書いてきました。毎回1200字以内を目安に書いています。

ここまで書いてきていつも思うことは、「書きたいテーマはたった一つしかない」ということです。それは「真実の幸福とは何か?」ということです。

けれども、このテーマについて書こうとすると、実に様々な切り口があることに気づきます。それをそれぞれの回のテーマとして書いているわけです。

ちなみに、これまで書いたブログの中で僕自身が一番気に入っているのは「これでいいのだ」です。

もし、よかったら、あなたももう一度読んでみませんか?

もう一つ思うことは、以前にも書きましたが、「存在の真実は自分で体験として気が付くしかない」ということです。

存在の真実は人間の思いをはるかに超えたところにあります。ですから、言葉で教えることもできないし、また教えてもらっても分からないのです。結局は、自分で体験的に捉えるしかありません。

それは若い頃懸命に存在の真実を求めた僕自身の経験からも言い切れます。また、同じように存在の真実を熱心に求めている多くの方々の様子を観察して得た結論でもあります。

そういうわけで、このブログでは、読まれる方が「どうしたら自分でそれに気が付くことができるか?」ということに焦点を当てて書くように心がけています。

ただ、いつも思うのは、「書いてよいことと、書いてはいけないことがある」ということです。

たとえば、あるテーマについては、結論をはっきり書かないほうがよいこともあります。

はっきり結論を書くと、それを読んで分かった気になるのですが、結局は中途半端にアタマだけの理解になってしまうことがあるからです。

そうなれば、かえって迷惑をかけることになるわけで、その見極めはとても大切だと思っています。

存在の真実そのものは、アタマの思考を超えたものですので、とても言葉ではそれを表現したり、説明すること自体不可能です。

ですから、言葉で説明することが、かえって、それを読んでくださる方が存在の真実に気づく邪魔になることも多いのです。

僕はいつもそういうことを意識しながら書いています。

そのために、時々すこしぼかしたような書き方にならざるをえないこと、でも、その場合はそういう書き方がベストだと思って書いていることをご理解いただければと思います。

もう一つ皆さんにご理解をいただきたいことがあります。

僕の見たところ、ブログと言えば、一般的には、その日の気分を気ままに日記調で書いたようなブログが多いように思います。

それに対して、僕がこれまで書いてきたブログからお分かりになると思いますが、毎回相当気合を入れてこのブログを書いています。

それは、一つ一つのテーマがかなり重いということと、字数が限られている中で、一つの筋の通ったものにしたいからです。

しかしながら、ほとんど毎日新しいテーマで書いていますと、文章を推敲している時間があまりないというのが実情です。

そのために、文章が重複したり、まとまっていないところもありますが、ご理解いただきたいと思います。



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すべては一つ

今僕の目の前の机の上に1枚の紙があります。それを見ながらこのブログを書いています。

ぜひ、あなたも目の前に紙を1枚用意して、それを時々見ながらこのブログを読んでください。そうすれば、いっそうよく理解していただけるのではないかと思います。

用意はできましたか?
 
さて、その1枚の紙の中に何が見えますか? 想像力を働かせてください。 

森がみえますか?

紙の原料は森の木です。森を育てているのは太陽であり、雲であり、雨であり、大地です。その木を育てているのは大自然そのものです。

その大自然は宇宙の始まりから、今日に至るまでの宇宙自身の進化の過程で作られたものです。

その木を切っている人の姿が見えますか? その人は材木会社に勤めているのでしょうか。そこには、材木会社の社長さんをはじめ、従業員の方々の姿も見えます。

木はチェーンソーという機械で切ります。そのチェーンソーを作った会社の人たちも見えます。チェーンソーの燃料はもともと石油です。アラビアかどこかの油田が見えませんか?

石油は数億年前の生物の死骸が化学変化を起こしてできた化石燃料といわれています。その1枚の紙の中に数億年前の太陽、空、雲などが見えてきませんか?

切り出された木々はトラックで運ばれます。トラック会社の人々、その人たちの食料を作っている農民。その家族、その先祖の方々・・・。

この紙の原料となった木は船で日本まで送られたのでしょう。港、船、それから・・・・。もうきりがないですね。

これ以上続けなくてもお分かりでしょう。

一言で言えば、宇宙の始まり以来、宇宙のすべて存在と働きがあって、この1枚の紙が今ここに存在しているのです。

あるいは、この1枚の紙は、それ以外のすべての存在と働きにからできていると言ってもいいでしょう。

この紙だけではありません。すべての存在のひとつ一つの中に宇宙のすべてがあるのです。

想像力を働かせてください。

イメージ的に説明してみましょう。

この世界はたくさんの球からできています。それぞれの球の表面はつるつるで鏡のようになっています。1個の球には他の球が全部キラキラと映っています。

さらに、その映っている球のひとつ一つにも他の全ての球がキラキラと映っています。そしてさらに、その映っているひとつ一つの球にも他の全部の球がキラキラと映っています。

このように、それぞれの球がすべてを映し、それが無限に繰り返し重なって映っています。

この世界のすべての存在の有様は、「何らかの関連性があるかも」などというような薄いの関係ではないのです。

事実は、この世界のすべての存在が互いに切っても切れない相互関係にあり、互いを支うことによって成り立っているのです。

僕はそれを「不可分一体の“いのち”の世界」と呼んでいます。

一言で言えば、「すべては一つ」なのです。




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着物は自分ではない

私たちは普段、「自分」、「自分」と言っていますが、あなたは自分とは一体何だと思っていますか?

あなたは「自分」を他者に対する規定においてのみ意識していませんか?

たとえば、妻に対する時は「夫」という規定において自分を意識し、子供に対するときは「親」という規定において自分を意識します。上役に対するときは「下役」という規定において自分を意識します。

地位や肩書き、役職、職業などの社会的な関係だけではなく、若者に対しては「中年」、有能な人に対しては「無能な人間」、金持ちに対しては「貧乏人」、勝者に対する時は「敗者」、高価な品物に対しては「買えない」などという規定において自分を見出します。

もちろん、あなたが懸命に努力すれば、たとえば、下役に対して「上役」、無能な人に対しては「有能な人間」、貧乏人に対しては「金持ち」、敗者に対する時は「勝者」、高価な品物に対しては「買える」という規定において自分を見出すかもしれません。

いずれにしても、私たちの多くは、他との関係において、外的に規定された自分だけを「自分」と思って生きています。

それは本当の自分、本来の自己ではありません。人間はもともと裸で生まれ、裸で死んでいきます。その間に私たちはいろいろな着物を着ます。

しかし、様々な他者に対する時に規定された「自分」は、実は着物にすぎません。本当の自分ではありません。

夫、妻、子供、親、若者、老人、男、女、地位、肩書き、役職、職業などの社会的な関係、勝者、敗者、有能者、無能者、金持ち、貧乏人、優越感、劣等感、美人、不美人、幸福、不幸、人種、国籍、などなど。みんな生きている間に着る着物に過ぎません。

そして、多くの方が「どんなよい着物を着るか」ということだけが、生きることの問題のすべてであると錯覚しているのです。それは着ている着物を自分だと錯覚しているからです。

本当の自分は着ている着物ではなく、裸の中身だということを確認しましょう。

その真実に気が付けば、裸の中身である本当の自分はどんな着物を着ようとも、変わることがないことがはっきりとわかるのではないでしょうか。

豪華な着物で飾りたてなくても、また、どんなに粗末な着物を着ていても、本当の自分はそのままでいつも輝いていることが分かるでしょう。

そして、その時、あなたは心の底から安らぎを感じることができるでしょう。




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富士山はエベレスト山?

あなたは、実は、富士山がエベレスト山であることを知っていましたか?

「富士山は日本で一番高い山だから、日本のエベレスト山だ」と言っているのではありません。「富士山はエベレスト山そのものだ」と言っているのです。

ちょっとアタマがおかしいのでは?とお思いかもしれませんが、僕は大真面目なのです。

では、説明しましょう。実に簡単な話しです。

誰でも分かるように、富士山は山頂と山腹と山麓(さんろく)からできています。

でも、山頂と山腹と山麓はもともと一つのものです。ただ、便宜的にアタマで三つの場所に別けて、それぞれ別の名前で呼んでいるだけです。

当然のことですが、もともと一つのものですから、その三つの場所には境目はありません。みんなぶっ続きです。

山麓は平野に繋がっています。そこにも境目はありません。平野は川や湖、森や林や山などに繋がっています。そのどこにも境目はありません。みんなぶっ続きです。

そして、ついに海に繋がっています。その海は大陸に繋がっています。そして、ついにはエベレスト山の麓(ふもと)に繋がっています。その山麓はすでにエベレスト山そのものです。

このように、富士山とエベレスト山はぶっ続いています。どこにも境目はありません。もともと同じ一つのものだったのです。

ですから、「富士山はエベレスト山だ」と言っても何も間違ってないし、その反対に、「エベレスト山は富士山だ」と言っても何も間違ってはいないのです。

その同じ一つのものを便宜的にアタマで別けて、それぞれに別の名前をつけただけです。

この地球はみんなぶっ続きで、もともと一つのものです。ですから、「富士山は地球山だ」と言ってもよいのではないでしょうか?

さらに、地球は大気圏や成層圏などを通して、太陽系、銀河系、そして、全宇宙とぶっ続きです。ですから、「富士山は宇宙山」と言ってもよいのではないでしょうか?

本当は僕が何を言いたいのかお分かりですか? 

そうです。自分自身のことなのです。

自分は庭の柏の木であり、花であり、畑であり、通りを走るクルマであり、床に寝ているネコであり、カラスの鳴き声であり、道をよぼよぼ歩いているおばあさんであり、山であり、川であり、海であり、空であり、雲であり、雨であり、雪であり、太陽であり、夜空の星であり、この宇宙そのものです。

そもそも、自分というころっとしたものなどないのです。

みんな同じ一つのものなのです。アタマで勝手に別けて考えるから、みんなバラバラのように感じられるのです。


みんな同じ一つのいのちを生きている。これは本当に素晴らしい真実です。




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思い込みをリセットする

思い込みをリセットする一つの実習をしてみましょう。

これは少なくとも数時間集中することが必要です。

まず、あなたがあるお店で買ったもの、たとえば、時計、イヤリング、ネックレスなどの中から、できるだけ高額なものを一つだけ目の前の机に置いてください。

「それは誰のものですか?」

「自分のものに決まっているじゃないか」と、それで終りとしないでください。

あなたがどう思っても、思わなくても変わらない絶対の真実に達したと確信できるまで「それは誰のものか?」と問い続けてください。

でも、アタマで考えようとしてもダメです。また、何かの本で読んだ言葉を当てはめても何にもなりません。

このテーマだけでなく、存在の真実を知るためには、本を読んだり、人の話を聞いてもまったく無意味です。

もっとも、そういうことを警告してくれている本や話であれば、大いに結構なことだと思います。

本当はそういうことを警告してくれるだけでなく、どうしたら存在の真実を的確に、また確実に体験として捉えられるかを指し示してくれる本や話でなければ意味がありません。

このブログ、そして、僕の主宰しているセミナーはその一つだと自負しています。

いずれにしても、真実というのは、事実の中にあなた自身が発見しなければなりません。

あなたが本当に絶対の真実に達することができた瞬間、あなたは思わず歓喜の叫びを上げるかもしれません。

あるいは、全身からすべてがガサッと落ちてしまったような感覚がするかもしれません。

「答えは知っているよ」という方もそれでよしとしないで、本気でもう一度このテーマに挑戦してみてください。




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真実は思い以上のところにある

氷を手で触ると冷たい。火に手を近づけると熱い。これは事実であり、真実です。

存在の真実は、すでに「今ここ」に、思い以上の事実として存在しています。つまり、自分が、あるいは、みんながどのように思うかということとは関係なく存在しています。

存在の真実は「今ここ」にすでに存在しているのですから、その事実を素直に確認すればいいだけの簡単なことです。

ところが、この簡単なことが、私たちにとってはとても難しいことと思われているのではないでしょうか? 

そして、そこから個人的にも社会的にも多くの混乱と苦しみが生まれています。

存在の真実を知ることがとても難しい、と思われている主な原因が4つあります。

その一は、本当は簡単なことを難しいと思い込んでいることです。

その二は、それが目の前にあるのにもかかわらず、どこか別のところにあると思って、あちこち探し回っていることです。

その三は、存在の真実は、特殊な神秘体験や特殊な意識状態になることによって、はじめて分かるものと錯覚していることです。

その四は、「今ここ」にある存在の真実を見ているつもりでも、実際は、変な模様と色のついたメガネを通して見ていることです。

変な模様と色のついたメガネというのは、間違った思い込みや先入観、あるいは固定観念のことです。

私たちは多くの場合、変な模様と色のついたメガネをかけて、この世界を見ています。そして、そこに見えるものは決してこの世界の本当の姿ではありません。

それにもかかわらず、自分ではこの世界の本当の姿だと思い込んでいるのです。

メガネを通してみるこの世界の姿は、メガネが異なれば異なった姿に見えます。

つまり、それぞれが異なったメガネをかけていれば、それぞれが異なった姿を見ているわけです。それが混乱や苦しみの原因となります。

では、みんなが同じ変なメガネをかけていればどうなるでしょうか? 

その場合には、みんなが同じではあっても、真実ではない、間違ったこの世界の姿を見ているということです。

簡単に言えば、みんながいろいろな真実ではない、間違った観念や考え方を持って生きているということです。それは個人的にも社会的にも、混乱と苦しみの原因そののものです。

そういう意味で、私たちがいつの間にか身に付けてしまった間違った思い込みを、一つ一つリセットすることが必要です。

このようにメガネをはずして、つまり、裸眼で「今ここ」を見てみれば、これまでとはまったく異なった、光り輝き、いのちの躍動する存在の真実の姿がはっきりと見えるでしょう。



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