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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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生活する自分 存在する自分

生活する自分 存在する自分

当たり前のことですが、いまここに生きているのは自分自身です。

この自分は他とは置き換えのできないかけがえのない存在です。

では、その当の自分とは一体何ものなのでしょうか?

ところが、世間には、そんなことなど関心もなく、とにかく日々の生活を上手に乗り切っていくことが人生だと思っている人は意外に多いようです。

でも、うまく行っている間は気分よく生きていけても、何か自分の思うようにならない事態になると、多くの人は混乱と苦しみに落ち入ってしまいます。

そして、また、自分の思うようになると、気分がよくなるのです。

多くの方々がこのような浮き沈みを繰り返しながら生きています。

少し余裕のある方は「人生とはそんなものだ」と悟ったようなことを言われるかもしれません。

でも、苦しみの連続の中で生きている方は「人生とは苦しいばかりで、割の合わないものだ」と言われるかもしれません。

どちらにしても、僕にはそのような方々を批判する気持ちはカケラもありません。

というのは、そのいずれも僕自身の過去の経験そのものだからです。

でも、まだ若かったときのある日、僕を突然襲った強い思いと感情が僕自身を一瞬に変えてしまったのです。

それは「これまで、自分は本当には自分を生きてこなかった」、「自分はこの人生で何を本当にしたいのか?」、「そもそも、この自分って一体何なんだ」ということです。

その時以来、僕は一変しました。「本当の自分と本当の生き方」を強烈に求めはじめたのです。

そして、どうにか「こうだ」とはっきり確信できる真実に体験的に出会うことができました。

それから今日まで、日々の生活のなかでその体験を深めることを心がけてきました。

「では、真実に出会うことによって、何が変わったのか? と問われたら、僕はためらいなく答えるでしょう。

「すべてが変わった。人生がこんなにも素晴らしいものだとは以前には想像もできなかった」と。

そうです。

真実の自己を知らず、真実の世界を知らず、真実の生き方をしないことほど愚かなことはなく、実にもったいない人生です。

私たちは通常、物事をアタマによって認識・判断・思考します。

でも、アタマによる「思い」は相対的なものであり、自と他を別け、物事をバラバラの存在と誤って認識します。

ですから、思いによって認識した事実は、自分の都合で解釈したものでしかなく、「ありのままの事実」ではないのです。

また、思いによって認識する「自分」も真実の自己そのものではありません。

思いによっては、存在の真実は捉えることができないのです。

ですから、瞑想の自然法など正しい瞑想によってアタマの思いを鎮めることが重要です。

また、僕の主宰するセミナーは存在の真実を体得するためにはとても有効です。

いずれにしても、私たちは「生活する自分」だけでなく、「存在する自分」とは何か、ということを第一のテーマとしなければならないと思います。




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天の声 地の声

天の声 地の声

我が家の周りの山道を散歩しているといろいろな音が聞こえてきます。

いろんな鳥のさえずり、風の吹く音、木の葉のさらさらという音、遠くの方に聞こえる自動車の音、人の声、ネコの鳴き声、たまには飛行機の音・・・。

でも、とても静かです。

いや、そこには完全な静寂があります。

私たちは日頃いろいろな音に囲まれて生活しています。

音だけに関して言えば、ほとんどの方が音のある、なしだけが実体の世界だと思っているようです。

何かの音を聞いているときに、その音を実体として感じ、そして、音が止んだときに、音という実体が消えたと感じます。

それはそれでいいのですが、本当は音が鳴った、音が消えたという現象の奥に、というか、と同時に、絶対的な静寂の世界が存在しています。

けれども、そこに、音のある、なしに関わらず絶対的な静寂の世界が厳然としてあるのです。

すべての現象はこの絶対的な静寂の世界から生じ、変化し、消えていきます。

音が静寂そのものなのです。

その静寂は自分の中にも厳然としてあります。

というか、本当は中も外もないのです。

静寂な世界はすべてぶっ続きです。境目はどこにもありません。

そして、そこには、もはや、自分という何かのかたまりのように感じているものも存在していません。

強いて言えば、静寂が自分自身です。

理屈っぽく言えば、静寂が自分の本質、あるいは、本来の自己です。

音だけではありません。

私たちは目に見えるものだけを実体として感じています。

けれども、見えるもの、見えないものという世界と同時に絶対的に無色で透明な世界が実体として厳然と存在しています。

眼に見えるすべての現象は、この絶対的な無色透明な世界の中から生じ、変化し、消えていきます。

眼に見える姿そのものが無色透明で空っぽなのです。

私たちは普段、視覚や聴覚、触覚など五感で捉えられるものを実体として感じています。

でも、その奥にいつも何もない、空っぽの世界が厳然として存在しているのです。

そこにはもはや時間も空間もありません。

すべての現象、すべての存在とはたらき、そして、考えや感情などのアタマの思い、体の感覚やはたらきは、この何もない、絶対的に静寂で無色透明の空っぽの世界から生じ、変化し、消えていきます。

それは決してバラバラではありません。そのすべてが一つ、不可分一体なのです。

これは、瞑想の自然法をやってみるとよく分かります。

でも、瞑想の自然法に習熟してくると、瞑想中でなくても、どんな時でも、どんな場所でも、この絶対的に静寂で、無色透明の空っぽの世界に戻ることができます。

その時、心の底からの安らぎを感じるでしょう。

まさに、これでいいのです!


本当は「戻る」という言葉はふさわしくありません。

というのは、私たちはこの絶対的に静寂で、無色透明の空っぽの世界から一度も離れたことはないからです。

ですから、「帰る」というよりも、「確認する」と言ったほうが適切かもしれません。


私は、いろいろと聞こえてくる音を「地の声」と呼び、絶対的な静寂を「天の声」と呼んでいます。

そして、散歩している時、テレビを見ているとき、人と話しているとき、パソコンに向かっているときなど、いつでも、天の声を聞いています。


天の声なき声を聞いているのです。




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マドリードの夕暮

マドリードの夕暮

スペインの旅も今日で終わりです。

明日はマドリードからアムステルダム経由で日本へ帰ります。

今回のスペイン滞在はほぼ1ヶ月でした。

その間、マドリードから地中海のマヨルカ、マヨルカから再びマドリード、
マドリードからアリカンテ、そして再びマドリードに戻ってきたところです。

このように書くと、スペインで忙しく各地を転々としていたように思われるでしょう。

でも、実際はそれぞれ地で友人宅に4日から1週間ほど滞在しましたので、どちらかと言えば、のんびりとした旅になりました。

マドリードでは、講演会を1回、1日セミナーを2回、そして、6日間の自覚のセミナーを1回やりました。

いずれも大成功と言ってよいと思います。

講演会での反応もとてもよかったのですが、特に、セミナーに参加したほとんどの方々に大きなこころの変革をもたらしたようです。

セミナーの休憩の合間に、参加者から「本当にありがとうございます」「素晴らしいセミナーです」という言葉を何回聴いたでしょうか。

僕自身、今回のセミナーをきっかけに、今後このセミナーが大きく広がっていく予感がしています。

今回のスペインの旅は、眼の覚めるようなマドリードの青空で始まりました。

それから雨、雪、あられ、晴れ、曇り、強風と目まぐるしい天候の変化がありました。

そして今、再びマドリードの地で静かな夕暮とともに終わろうとしています。

でも、今は終わりであるとともに、今が始まりです。

今、僕は再び新しい旅に出かけようとしています。

その旅の途中で皆さんと再会できることを楽しみにしています。


ではまた! アスタ・ルエゴ!



瞑想の自然法ー2

瞑想の自然法ー2

瞑想にはいろいろなやり方があります。

たとえば、

音楽を聴きながら、あるいはイメージをアタマで描いて、そのムードに浸る。

ろうそくの火をじっと見つめる。

自分の呼吸に集中する。あるいは、こころのなかで呼吸を数える。

姿勢に集中し、それをきちんと保つ。

ある一つの言葉をこころのなかで唱え続ける。

雑念を排除し、こころを鎮めようとする。などなど。


また、瞑想の目的にもいろいろあります。

こころの癒し。リラクゼーション。健康増進。悟りを得る。などなど。

このように、ほとんどの瞑想法では何かに集中することが瞑想の基本となっいます。

また、ほとんどの瞑想では、何かを得ることがその目的となっています。

僕はそれはそれでよいと思います。

でも、何かに集中するということは、こころに緊張をもたらします。

また、何かを得ようとすると、そこには意識的な努力が必要になります。そして、こころの緊張をもたらします。

そして、そこにはいつも何かをしている自分がいます。

僕の瞑想の自然法は、何かを求めるためにするのではありません。

何かに意識を集中するということもありません。

雑念を取り除こうともしません。

何の努力もしないのです。

すべてをこころの自然に任せて、「いまここ」に起きていることをあるがままにただ観察しているだけです。

「観察する」というと集中が必要な感じがするかもしれません。そういう意味では、「観察する」と言うより、むしろ「ただ見る」と言ったほうがよいのかもしれません。

ただそれだけです。

思いが出てきたら、それをそのままただ見ているだけです。

雑念をどうしようなどとも思わず、思考を止めようなどとも思いません。

思いや感情が出てくるのは自然なのです。


この瞑想の自然法では、自分が瞑想するのではありません。

瞑想が瞑想を瞑想するのです。

つまり、いったん瞑想を始めると、瞑想は自動的に進み、自然に深まっていきます。

何の意識的な努力も必要ありません。

そうすると、いつのまにかすべてがもっとも自然であることに気がつくでしょう。

すべてがそのままで自然であり、すべてがただ起きています。

そこに同時に、永遠に変わらない静寂があります。

そのすべてが一つです。

ただ一つのものがあるだけです。

それが存在の真実です。

それが本当の平和です。

それが本当の幸福です。

それが本当の自由です。


それは瞑想状態にあるときだけではありません。

それはいつも「いまここ」にあります。

それは毎日の生活そのものの中にあります。


もともと何も求めるものはなかったのです。

何も求める必要はなかったのです。


これでいいのだ!

すべては「いまここ」に完璧なものとして存在しています。


いまここ!

これ以上大切なものはありません。




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瞑想の自然法ー1

瞑想の自然法

人はもともと悟っている。

人はそのままで幸福である。

存在の真実とは教えて伝えられるのでもない。また教えてもらって分かるものでもない。

存在の真実は自分で体験することによってしかわからない。

これはこのブログの中でこれまで何度も言ってきたことです。

そして、その方法についてもいくつか述べてきました。

今回はその真髄ともいうべき「瞑想の自然法」について説明しましょう。

「瞑想の自然法」とは僕が勝手に名前をつけたものです。

他にも同じ名前の瞑想法があるかもしれません。でも、たぶん内容は違うと思います。もちろん、同じでも何も差し支えありません。

さて、僕の[瞑想の自然法」というのは、何もしない瞑想法、何の努力もいらない瞑想法で、もっとも自然な瞑想法だと思います。


まず、携帯電話は切っておきます。家の電話は切っておくか留守録にします。

柔らかな座布団の上、ソファー、肘掛イスなどに座ります。

楽な姿勢で坐ります。どこにも緊張がない姿勢です。

正座や坐禅の坐り方でもいいのですが、足やひざなどが緊張するようであれば、あぐらの方がいいでしょう。

頭は下げすぎないようにします。頭を下げすぎると妄想が増えます。また、眠くなります。

頭が壁やイスなどの背に付けると、その部分が気になったりするので離します。

眼を閉じます。充分慣れてきたら眼を開けてやってもいいでしょう。

そのままで、ただ何もしないで、ただ「いまここ」にいます。

聞こえてくる音、アタマに浮かんでくる思い、感情、体の感覚を一切分析したり、批判したりしないで、ただ「あるがままに」観察します。

「観察する」と言うと「集中しなければならない」と思うかもしれませんが、集中するということは緊張するということですから、ただ楽な気持ちでいればよいのです。

アタマに浮かんできた思いや感情に対して、分析や批判などの思いが浮かんできたら、それもただ「あるがままに」観察しています。

私たちのアタマはいつも、ある事実とそれは「こうあるべきだ」、あるいは、「これでよいのだろうか?」という思いの間に起こる葛藤によって、分裂しています。

その葛藤は非常に微妙なものですが、緊張と不安感を生み出します。

この葛藤自体が事実をありのままに見ることを妨げます。

けれども、「こうあるべきだ」、あるいは、「これでよいのだろうか?」という思いも「いまここ」に起きている事実です。ですから、それをそのままただ観察しているのです。

もし、それを「取り除くべきだ」と思ったら、もうひとつ「こうあるべきだ」という思いを増やしてしまいます。

ですから、「いまここ」に起きているすべてをただあるがままに観察していればよいのです。

それこそが「いまここ」の真実です。唯一の真実です。そのほかに真実などありません。

その事実に気づいたときに、あなたに大きな安らぎと至福感が訪れるでしょう。

そして、あなたはそこに完璧な静寂を見出すでしょう。

さらに、あなたはその完璧な静寂こそが本当の自分だということを知るでしょう。

すべては完璧な静寂の中でただ起きています。

あなたは聞こえてくる冷蔵庫の音、人の声、自動車の音、アタマの思い、感情、体の感覚がすべて完璧な静寂の中で起きていることに気づきます。

そして、あなたは起きているすべてが完璧な静寂そのものであることに気がつくでしょう。

すべてが一つなのです。

内も外もありません。

境目もありません。

自分も他人もありません。

「いまここ」に足りないものはありません。

すべてはただ起きています。

すべては完璧です。



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こころの自然ー4

こころの自然ー4

これまで私たちの「こころ」について、僕の思うところを述べてきました。

「こころ」については、そのほかにも、快・不快の感情、幸福感や精神的苦悩などいろいろあります。

それぞれのテーマについてはあらためて別の機会に述べてみたいと思います。

ただ、基本的には、「こころ」を感情面に限って言えば、私たち人間に生存に不可欠なものとして備わっている本能的な感情と私たちのアタマが関与して作り出されている感情があるようです。

実は、それらのこころ(感情)の奥に私たちの本心とも言うべき深く広大なこころの世界が広がっています。

それは。私たちの存在の根源そのもの、あるいは、存在の根源そのものから静かに、そして、力強く湧き上がってくる感情です。

それは感情というよりも、むしろ、情緒とでも言ったほうがふさわしいのかもしれません。

それは誰にもすでに存在しています。

そして、きっとあなたも時々、アタマの働きが静まったときに、こころの深い深いところから湧き上がってくるのを感じることがあると思います。

でも、いつの間にかアタマの働きや表面的な感情に巻き込まれて、こころの奥底から出てくるもっとも根源的な感情を無視したり、軽視したり、見失ってしまいます。

私たちは私たちの根源から出てくる感情をこそもっとも大切にしなければならないのです。

そのためには、表面的な感情に振り回されないで、アタマの働きを静めて、いつもこの根源的な感情がこころの表面に出てくるように訓練し、この感情に沿って生きてゆきたいものです。

それはムード的な瞑想や何かをイメージして、その気分に浸るというような瞑想では不可能です。

何もしない瞑想、何の努力も必要のない瞑想.

ただ見るのです。

ただいまここにいるのです。

たまには町の喧騒を離れて、自然の中をのんびりと歩くこと、空を見、雲を見、木々を見、花を見、川の流れをただただ見ましょう。

何もしない瞑想や自然の中に身を置くときに、私たちはあなたの内なる声をはっきりと聞き取ることができます。

内なる声。それこそが自分をもっとも自分らしく導いてくれるのです。




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すでに救われている

すでに救われている

私たちは一人ひとり姿形がが違います。

そして、生まれた所も、生まれた時も、両親も家族など、育っていく環境も、現在生活している環境やもみんな違います。

このように個体というレベルでは、私たちはみんな一人ひとり異なった生き方をしています。

その中に喜びがあり、また、苦しみもあります。

私たちは苦しんでいるときに、早く苦しみから解放されたいと思います。

苦しみは経済的困窮、体の不調、家族間のいさかい、劣等感、人間関係、仕事上のトラブル、子供のこと、社会的な問題など、いろいろとあります。

そして、何らかの手段や対策によって、その苦しみから解放されることもあります。

しかし、また再び別の苦しみに襲われます。

こういう苦しみのなかで、何とか本当に救われたいという気持ちになる方々が出てきます。

ある人は救いを宗教の中に求めます。禅やヨガなどに求める人もいます。精神世界系の本を読んで、その中に何かの手がかりを求めようとする人もいます。

このブログを読んでいる方々の大部分は、やはり、究極的には、救いを求めているのではないでしょうか?

でも、救いを求める必要などないのです。

なぜなら、あなたがどのように思っていようと、本当は、みんな一人ひとり今のままですでに救われているからです。

私たちはみんな一人ひとり別の道を歩いています。

でも、ほとんどの方々はその道がどこに至るかを知らないで、ただ、あるいは、もがきながら、その道をあ歩みつづけています。

それでよいのです。なぜなら、その道は、遅かれ早かれ、いずれ必ずゴールに達します。

そのゴールとは完全なる幸福、完全なる悟りです。

もし、今歩いている道が気に入らなければ別の道に変えてもいいのです。それも自分の道なのです。

途中で迷っても、元のほうに戻っているのではないかと思っても関係はありません。

「すべての道はローマに通じている」のです。

ですから、あなたがどんなに苦しんでいても、何一つ心配することはありません。

この世界は絶対落ちこぼれが出ないようにできています。

でも、苦しみと思うことはできるだけないにこしたことはありません。

人間にとって、不快なことを避け、快を求めることは本能であり、まったく自然のことだからです。

体が不調であれば、それを正したいというのは自然の欲求です。

心についても同じです。

このブログや僕のセミナー、そして、奈央さんの整体ライフスクールもそのためにあります。


「すでに自分が救われている」なんてとて思えないという方もいると思います。

でも、たまには、その思いを横に置いて、事実をじっと見つめてみてほしいのです。

いまここの事実そのものに何か欠けているものがありますか?

何か今の自分に欠けているものがありますか?

あなたがどう思おうと、本当はどうですか?

すべてはここから始まります。



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