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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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バラバラ観を超えて

バラバラ観を超えて

個人レベル、集団レベル、国家レベル、国際レベルを問わず、人間(人類)はいろいろな問題で苦しみ混乱しでいます。

これらの諸問題の根本原因は、結局のところ、すべて人間のエゴイズムにあります。

エゴイズムは「この世の中のすべての存在はバラバラである」という「バラバラ観」から出てくる「自分さえよければ」という考え方や生き方です。 

ということは、もし、エゴイズムが人間の本質であるとすれば、結局は、人間の諸問題を解決することは不可能であるということになります。

したがって、「エゴイズムが人間の本質であるかどうか?」ということは実に重大なテーマです。

ではここでこの世界の在り方を観察してみましょう。

一人の人間の存在はすべての細胞や組織や器官、さらに知能、記憶、感情、心などがお互いになくてはならない存在として循環・調和して機能し一つの生命を維持しています。

私たちの大宇宙は無限、無数の恒星や惑星、星雲、星間物質などからできています。そして、それらがすべて、法則にしたがって、整然と循環し、調和しながら全体が一つのものとして動いています。

大自然もそれを構成するすべての構成要素が、なくてはならない存在として、互いに補い合い、支えあい、循環し、調和して、大自然という一つの大きな生命が維持され、活動しています。

このように見てくると、この世界のすべての存在はバラバラに存在しているのではなく、互いに切っても切れない、なくてはならない存在であることが分かります。

すべての存在は「不可分(分けることのできない)一体」であることは明らかな事実です。

確かに、私たちには「自分」という意識があり、「個」という意識もあります。しかしながら、だからといって、私たち一人一人の存在がバラバラであるということでは決してありません。

人間の体や大自然を観察してみると、それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きています。

この「個と全体」の関係こそ、人間の社会についても本来のあるべき姿なのです。
 
私たち一人一人の人間は、本来は、お互いになくてはならない存在です。

互いに助け合い、補い合い、協力し合い自然と調和して生きていくのが、人類社会の真実の姿なのです。

一人一人に「自分」という意識があり、「個」という意識があるのは、それによって、他をよりよく生かし、全体の生命をより発展させるという、この大宇宙にあまねく働いている「いのち」自体の内的要請により、進化の結果、そのような能力を人類は獲得してきたのだと思われます。

 いずれにしても、人間社会のすべての問題はバラバラ観に基づくエゴイズムにあります。

ここまで人類社会が行き詰った現代において、今こそ、「すべての存在は不可分一体である」という存在の真実をはっきりと自覚しなければならないと思います。




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いま何時?

いま何時?

パソコン画面の時間表示を見ると「午後5時43分」となっています。

ふと、眼を上げて窓の外を見ると、松の木が見えます。

松の木に「いま何時?」と尋ねると何と答えるでしょうか?

もし、松の木がしゃべれるとしたら、きっと、

「何時ってなあに? いまはいまだよ」って答えるでしょう。

眼をテーブルの横に転じると、そこにユキがいます。真っ白でとてもかわいいオス猫です。

ユキに「いま何時?」と尋ねると何と答えるでしょうか?

きっとユキは答えるでしょう。

「何時ってニャアに? いまはいまだよ」って。

そうです。いまはいまなのです。

本当は、いましかありません。

ここで僕が言っておきたいのは、「いま」というのは過去・現在・未来という時間軸の1点である現在、あるいは、瞬間という意味ではありません。

つまり、例えば、2012年5月28日の午後5時52分30秒という瞬間ではありません。また、明日が来たとして、例えば、午前10時29分15秒という瞬間でもないのです。

「いま」しかないのです。

いわば、ずーっと「いま」なのです。


では、時間はないのでしょうか?

いま何時ですか?

それはあなた自身がアタマでなく、体験的に確認してください。

もう一つの質問です。

ここはどこ?

松の木やユキは何と答えるでしょうか>

あなたはどうですか?

参考になるかどうか分かりませんが、昔の文部省唱歌を紹介しましょう。多分ご存知だと思いますが・・・。


汽車  (文部省唱歌。作詞不明、作曲は大和田愛羅)

1. いまはやまなか いまははま
   いまはてっきょうわたるぞと
   おもうまもなくトンネルの
   やみをとおって ひろのはら

2. とおくにみえる むらのやね
   ちかくにみえるまちののき
   もりやはやしやたやはたけ
   あとへあとへと とんでゆく
 
3. まわりどうろうの えのように
   かわるけしきのおもしろさ
   みとれてそれとしらぬまに
   はやくもすぎる いくじゅうり


最後にもう一つ質問です。

あなたはだれ?



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明らかに知る

明らかに知る

「あきらかに知りぬ 心とは山河大地なり 日月星辰なり」。

これは道元禅師の言葉です。

心は「しん」、山河大地は「せんがだいち」、日月星辰は「にちげつしょうしん」と読みます。

「日月星辰」とは「太陽、月、夜空の星々」という意味です。

僕の解釈では、ここで言う「心」は、私たちが通常使っている自分の感情や気分や気持ちなどを表す「こころ」という意味ではありません。

心(しん)とは「存在の本質」あるいは「自己の本質・本性」という意味です。

つまり、心とは、「完璧に静寂で、無色透明の無限に広いスペース」、あるいは、「私たちの五感では捉えられない空っぽの世界」を表しているのです。

簡単に言えば、「空(くう)」ということです。

要するに、道元禅師は「空は山河大地であり、日月星辰であることをはっきりと知った」と言っているのです。

けれども、空というものと山河大地というものがあって、それが一つだというのではありません。

空も山河大地も同じものなのです。

同じものが、いわば、視点の据え方によっては、空と見え、また、山河大地と見えるということです。

空は日月星辰であるということも同じです。

山河大地が空であり、日月星辰が空であるということは、すべての存在は空であるということです。

空という一つの世界は私たちの五感を通すと、いろいろな姿、形、働きと感じられる(見える)のです。

それは無色透明の太陽光線がプリズムを通すと、無数の色に別れて見えるようなものです。

「空即是色。色即是空」です。

すべては一つです。

けれども、ここで僕が言いたいのは実はそのことだけではありません。

道元禅師は「あきらかに知りぬ」と言っています。

「何となくそのように思う」とか、「何となくそのように感じる」、あるいは、「ちょっと感じる」というような曖昧(あいまい)なことを言っているのではありません。

それは、まだまだアタマで感じようとしているだけです。

「あきらかに知りぬ」と体験的にはっきり言えなければ何の意味もありません。

こころがけて瞑想の自然法と自観法を実践しましょう。

そうすれば、そのうちに「あきらかに知りぬ」とはっきりと言える日が来るでしょう。




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存在の本質

存在の本質

昨日の夜たまたまテレビを付けたら、高知県の仁淀川の風景が眼に飛び込んできました。

川の両側の田園とも調和していて、何と穏やかで美しく澄んだ流れでしょう。

そこには、まさに自然があり、完璧な調和と平和と美しさがありました。

仁淀川が日本一の清流だと言われていることに心からうなづける思いがしました。

けれども、変な言い方ですが、仁淀川だけが日本一の清流ではないのです。

存在するすべてのものの本質はまさに清流そのものです。

私たちが海や山に行ったときに感じる何とも言えない安らぎと美しさ、

犬やネコなどの動物の姿に感じる何とも言えない無邪気さと可愛らしさ、

夜空の月や星を見て感じる何とも言えない壮大さとなつかしさ。

赤ちゃんを見たときに感じる何とも言えない無邪気さと光と輝き。

思いというメガネをはずしさえすれば、私たちひとり一人が無邪気で光り輝く存在だということが見えてきます。

そうです。私たちひとり一人がその本質は清流なのです。

真清水(まみず)そのものです。


日々、瞑想の自然法、そして、自観法を実践してください。

そうすれば、ある時ふと気づくことができるでしょう。

この世界の本質、生きとし生けるもののすべて、そして、あなた自身が無邪気で光り輝く存在だということに気づかれることでしょう。

そのとき、あなたは自分がなぜこの世に生まれてきたのか、何のために生きるのかということをはっきり知ることができるでしょう。

そして、自分を含めたすべての存在が本当に幸福で平和に生きることのできる世界の実現は、まさに、自分の手の中にあることに気づかれることでしょう。




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思いは自分ではない

思いは自分ではない

事実はただ事実として存在しています。

思考、感情、気分などいろいろな思いという行為、あるいは、現象そのものはたしかに事実として存在します。

そして、思いの内容は事実に附合することもあれば、附合しないこともあります。


でも、思いは自分自身ではありません。

思いは思いとしてただあるだけです。

思いはどこからともなく現われ、そのままにしていると、いつのまにか消えてしまいます。

思いはちょうど空に浮かんでいる雲のようなものです。

雲はどこからともなく現われ、そのままにしていると、いつのまにか消えてしまいます。

でも、思いが自分だと思い込んでいると、その思いに入り込んでしまいます。

その結果、その思いはどんどん膨れ上がっていきます。

思いの雲は見る見るうちに発達して積乱雲のようになったり、空一面が薄黒い灰色の雲で覆われてしまいます。

そして、結局は自分も苦しみ、周りの人も苦しむことになります。

思いが現われるのは自然なことで、それが悪いということではありません。

けれども、それを自分と思っていれば、その中に浸りこんでしまって、自分自身を見失ってしまいます。

思いはただ思いとしてながめていればよいのです。

ジル・ボルト・テイラーというアメリカの脳解剖学者がとても面白い研究報告をしています。

その報告によると、

脳内には怒りや悲しみなどそれぞれの感情を司る特定の部位があります。

何かのきっかけで、たとえば、怒りを司る部位が活性化します。そうすると怒りが発生します。

でも、それをそのままにしておくと、怒りを司る部位は90秒以内にもとの状態にもどります。そして、怒りも消えてしまいます。

その他の感情についても同じです。

ところが、それらの感情に入り込んでしまうと、その感情はますます大きくなり、長く持続するのだそうです。

要するに、たとえば、怒りが出てきた時に、「自分が怒っている」と思うからますます怒りが大きくなるのです。

怒りはただ怒りがあるだけです。

それをじっとながめていればよいのです。

そうすれば、90秒以内に消えてしまいます。

これは日常生活のなかで、そのたびにやってみれば、誰にもわかることです。

そして、何回もやっているうちに、いつの間にか、腹もだんだん立たなくなっていきます。

そして、ついには、どんな状況においても腹が立つということがなくなります。

他の感情や気分についても同じです。

特に、気分的に落ち込みやすい方は「気分は自分ではない」ということにはっきりと気がつくことが肝要です。

そのためには、瞑想の自然法を毎日実践することです。

そして、日常の生活の中でも、ふとしたときを捉えて、1分間でも2分間でも、「思いをただながめる」ということをこころがけてください。

僕はそれを「自観法」と呼んでいます。

思考や感情や気分などの思いに振り回されないことが楽に生きる秘訣です。

それは同時に、常に本来の自己に立ち戻るということです。




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あるがままー2

あるがままー2

「あるがままー1」において「事実の世界があるがままに見える」ということが悟りであると書きました。

では、事実の世界があるがままに見えたときに、実際にどのように見えているのでしょうか?

それを言葉で表現することはできません。

どんなに上手に言葉で表現できたとしても、それは真実そのものではないからです。

言葉で表現されたものは、言わば、絵に描いた餅であり、実際の餅そのものではないからです。

存在の真実はただ体験的に捉えるしかありません。

それでも、あえて言葉で表現することには意味がないわけではありません。

というのは、存在の真実はごく当たり前のことであるにもかかわらず、以前の僕自身を含めて多くの方がアタマのはたらきによって解釈したものとはまったく異なっています。

アタマで解釈したと思っている事実が存在の真実とはほど遠いものであることをまず知的に知ることはとても大切なことです。

ですから、存在の真実は体験的に捉えるしかないということに気がついていただくために、存在の真実について言葉で表現することは意味があるのではないかと僕は思います。

では、存在の真実の一端をあえて言葉で表現するとどのように表現できるのでしょうか? 

僕なりに表現してみると、

その一つは、すべての存在や現象が姿、形、働きの様相はは異なっていても、すべて一つであるということです。

すべてのものが一つなのです。

すべてのものが一つのいのちを生きているのです。

その二は、すべての存在や現象の世界は同時に何もない空っぽの世界であることです。

音は同時に完全な静寂そのものです。眼に見えるものは同時に無色透明で無限に広い空間そのものです。

その三は、「自分はない」ということです。

「自分」が完全に静寂で無色透明で無限に広い空間に存在しているのではありません。また、その世界を見ている、あるいは、感じているのでもありません。

「自分」そのものがないのです。見ている、あるいは、感じている「自分」などないのです。

見るときは見るだけ。聴くときは聴くだけ。立つときは立つだけ。坐るときは坐るだけ。歩くときは歩くだけ。話すときは話すだけです。

自分というものはないのです。

他というものもないのです。

一切がないのです。

強いて「自分」という表現に固執すれば、「自分は全てであり、同時に、空っぽである」とでも言うしかありません。

ここまでこのブログを書いて、ふと眼を上げると、窓越しに松の木が見えます。

ただ、それだけです。

見ている自分はいません。

存在の真実に気づくことを「悟り」と言うとすれば、悟った人もいないのです。

したがって、「自分は悟った」などと思ったり、人に言って自慢している人がいるとすれば、実は、本当のことは何も分かっていないのだと思います。





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あるがまま-1

あるがまま-1

存在の真実を体験的に捉えるということは「事実の世界があるがままに見える」ということです。

あるがまま、それが存在の真実です。

事実の世界があるがままに見えることが悟りです。

それ以外に何もありません。

悟りとは、不思議な光が見えるとか、天使の歌声が聞こえるなどという神秘的な体験をすることではありません。

事実の世界があるがままに見える。それだけです。

何か特殊な体験をすることが悟りだと思っていれば、いくら瞑想などをやってもかえっておかしなことになってしまいます。

悟りをそのようなものと誤解している方が非常に多いように思います。

けれども、本当は実に簡単で当たり前のことなのです。

ところが、その当たり前のことが難しいのです。

多くの方が自分は事実の世界をあるがままに見ているつもりになっています。

ですから、「事実の世界があるがままに見える。それが悟りだ」と僕が言っても、「こんな陳腐なものがどうして悟りと言えるんだろう?」と思われるのではないでしょうか。

僕も以前はずっとそう思っていました。

でも、事実の世界をあるがままに見えているつもりになっているだけで、本当は見えていないのです。

これは一体どうしたことでしょうか?

それは、事実の世界をアタマの思いというメガネを通して見ているということです。

事実の世界が素通しで見えていないのです。

思いというメガネを通して捉えたものを、あるがままの事実の世界だと錯覚しているのです。

では、思いというメガネを通さずに事実の世界を直接見るにはどうしたらいいのでしょうか?

一つの方法は思考を止めるということです。

でも、意識的に思考を止めようと思っても、それはほとんど不可能です。

例えば、階段から足を滑らして、お尻から下に落ちて、思わず「痛ぁい!」と叫んだ瞬間は「痛ぁい!」だけになって思考は止まっています。

昔の禅の本などにはこれに類するようなことで悟ったという話がいくつか出ています。

でも、そういうことは偶然に起こるわけですし、また、実際にはそういうことが起こっても悟れるということはほとんど期待できません。

思考を止める、あるいは、思考が止まるということについてはいくつかの方法があるようです。また、それらを説明している本もあるようです。


でも、僕は「思考に捉われないで事実の世界を見る」という方法がベストだと思っています。

それが「瞑想の自然法」です。

瞑想の自然法は「事実の世界があるがままに直接に見える」もっとも簡単で確実な方法です。

毎日瞑想の自然法をやっていると、そのうちに「ふっと」存在の真実に気がつかれることでしょう。

例えば、ゴールデンウィークに開いた自覚のセミナーでは15名の参加者全員が存在の真実にはっきりと目覚めることができました。

やり方さえ分かれば、悟るのは簡単なことです。





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