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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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地球は平らか?

地球は平らか?

ヨーロッパの歴史では15世紀半ばから17世紀半ばまでは大航海時代と呼ばれています。

この大航海時代に、ヨーロッパ人はインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへ富を求めて果敢に船で渡航しました。

でも、大航海時代の初期には、新航路を求めるための航海は船員たちにとっては大きな恐怖でした。

それは、まだ一般にはこの地球は平らで、大海原の端は大きな滝になっていると信じられていたからです。

それで、船員たちはこのまま航海を続けていけば、いつか大海原の端に達して、奈落の底に落ちてしまうのではないかとおびえていたのです。

現代の私たちから考えると、こっけいな話かもしれません。でも、当時の船員たちが感じた恐怖感は私たちには想像もできないほど大きなものではなかったでしょうか。

私たちは、日常の生活の中で怖れや不安などを感じることがしばしばあります。

でも、その多くが、事実を誤解したり錯覚したりすることによって生じています。


たとえば、「飛行機に乗るのが怖い」という方は結構多いようです。でも、「自動車に乗るのはちっとも怖くない」というのです。

統計的に調べてみると、1機当りの飛行機事故の確率は1台当りの自動車事故の確率に比べると、ケガや死亡の確率を含めて圧倒的に小さいのです。

つまり、事実は、飛行機は自動車にくらべてもはるかに安全なのです。

ところが多くの人が「飛行機は危険だ」と間違った固定観念を持って、そのためにいたずらに苦しんでいるというわけです。

もう一つ例を挙げましょう。

最近では、多くのスモーカーがタバコは健康によくない、お金もかかる、喫煙は非社交的な習慣だと看做され、肩身が狭いなどの理由で禁煙をしたいと思っています。

そして、禁煙を試みるのですが、多くの方がしばらくは何とかガマンできるのですが、意志の力が吸いたい気持ちに負けて、再び喫煙に戻ってしまいます。

じつは、禁煙が難しいのは、禁煙をしようとする人は顕在意識では「タバコをやめたい」と思いながら、潜在意識では「タバコを吸いたい」と思っているからです。

でも、顕在意識は潜在意識にはかないません。しばらくはガマンできたとしても、結局は、潜在意識の「吸いたい」という気持ちに負けて喫煙者に戻ってしまうのです。

では、なぜ、潜在意識で吸いたいと思っているのでしょうか?

それは、タバコは健康に悪い、金もかかるなどのデメリットはあるが、タバコはリラックスさせてくれる、タバコを吸うとホッとする、タバコは喜びであり、支えである、タバコがなければ楽しく生きていけないなどと、タバコにはかけがいのないメリットがあると思い込んでいるからです。

でも、ノンスモーカーはタバコを吸わなくても何の問題もなくやっています。これはじつに平明な事実です。

もともと、タバコなど吸う必要は一つもないのです。

スモーカーが持っているタバコの価値観はすべて錯覚に基づく幻想であり、思い込みにすぎません。

このように私たちはいろいろな間違った固定観念を持って生きています。その一つ一つの誤りに気づいて、当たり前に生きることが大切なのです。




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鎖につながれた象

鎖につながれた象

ホルヘ・ブカイという人の書いた『鎖につながれた象』という寓話をご存知ですか?

面白いお話なので、要点をご紹介しましょう。

サーカス小屋に行くと、大人の象は、体の大きさに比べて、小さな杭に細い鎖でつながれています。一方、小象は、体の大きさにくらべれば、大きな杭に太い鎖でつながれています。

大人の象は力が強いので、小さな杭や細い鎖を簡単にはずして逃げることができるはずです。それなのに、絶対に杭や鎖をはずそうとも、逃げようともしません。

なぜでしょうか?

象はまだ小さなときから、体の大きさに比べて、大きな杭と太い鎖につながれています。

小象は何度も何度も力いっぱい鎖を引っ張って杭をはずそうとするのですが、できません。

そのうちに、小象はその杭をはずすことは絶対にできないとあきらめてしまいます。

そして、二度と杭をはずして逃げようとは思わなくなってしまうのです。

このようにして、象は大人になって小さな杭に細い鎖でつながれていても、決して杭をはずして逃げようとはしないのです。

簡単に杭を外すことができるのに、外そうともしない。

「できない。無理だ」と思い込んでいるのです。

これが僕の言う「間違った固定観念」、あるいは、「決め付け」です。

この象の話がどこまで事実に沿ったものかどうか僕には分かりません。でも、私たち自身とても身につまされる話ではないでしょうか。


私たちは生まれてた時から、家庭や学校、あるいは、社会などそれぞれが育っていく環境の中で、気がつかないうちに、いろいろな間違った固定観念を身につけていきます。

けれども、私たち自身、それらを間違いのないものと思い込み、決め付けているので、よほどのことがないと、自分自身でそれが間違いであると気づくことはとても難しいのです。

それは自分自身の体臭には気がつきにくいということと同じです。

また、自分だけでなく、周りの人もみんな同じ観念を持っている場合には、たとえそれが間違っていたとしても、それが間違っていることには気がつくことは難しいのです。

世の中にはじつに多くの間違った固定観念が存在しています。じつは、その間違った固定観念こそ、私たちの苦しみと社会の混乱の根本原因なのです。

間違った固定観念というのはただ「何々ができない」というような個人的な思い込みだけではなく、「社会的常識」と言われていることのなかにもたくさんあるのです。

精神世界の本などを読むと、「悟りとは当たり前に生きること、あるいは、事実を当たり前に見ることである」などという言葉に出会います。

でも、自分自身でも気がつかない間違った固定観念を持ちながら、当たり前に生きる、あるいは、事実をそのまま見るということは不可能です。

どのように間違った固定観念に気づき、それを取り除き、私たちのアタマとこころを当たり前の状態にリセットするか、それがこのブログや僕の主宰するセミナーの主要な目的の一つなのです。




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不可分一体の世界

不可分一体の世界

今回は江戸時代のおとぎ話を紹介します。

あるお寺の裏の畑にカボチャが沢山なっていました。

ところが、ある時カボチャどうしの間で喧嘩が始まり、あちこちで大騒ぎとなりました。

お寺の和尚さんはその騒ぎを聞いて、すぐに裏の畑に行ってみました。すると、カボチャたちが大喧嘩をしています。

和尚さんは大声でカボチャたちを叱りつけて言いました。「こらっ、おまえたちはとんでもないやつだ。喧嘩をやめて、みんな坐禅をしなさい」

和尚さんはカボチャたちに坐禅の仕方を教えました。

カボチャたちは坐禅をしているうちに、興奮が静まり、だんだん気持ちが落ち着いてきました。

その時和尚さんが静かに言いました。「さあ、みんな、自分のアタマのてっぺんに手をやってごらん」

カボチャたちはみんな、自分のアタマのてっぺんを手でさわってみました。すると、何か変なものがついています。


カボチャたちは「あれっ。これは一体何んだろう?」と言いながら、その先をずっとたどってみました。すると、みんな元の一つの蔓に繋がっていたではありませんか。

カボチャたちは「そうだったのか。本当はみんな繋がっていたんだ。みんな同じ一つのいのちを生きているんだ。それなのに喧嘩するなんて大問違いだった。」と言って、それからはみんな仲好くしたということです。

そうです。私たちは姿、形は違っても、本当は、みんなひとつのいのちを生きているのです。

例えば、いまあなたは呼吸しています。あなたはその呼吸を止めることができますか?

30秒か1分間ぐらいだったら止めていられるかもしれませんね。でも、その後はがまんできなくなって、また呼吸が始まります。(そうでなければ、大変です。)

そもそも、普段、あなたは自分の呼吸を1分間に何回しようなど考えてもいません。その呼吸する力はあなたの思いを超えたところに働いている力です。

心臓や肺や胃や腸を作り、その心臓がうごき、血液が全身に流れるのも、食べ物を食べると消化作用が起こるのも同じです。すべてあなたの思いを超えたところに働いている力です。

このような体の働きだけでなく、自分のアタマにいろいろな思いが浮かんだり、考えたりするのも同じです。

なるほどその思いや、考えの内容についていえば、いかにも自分の思い、自分の考えであるように思えるかもしれませんが、その思いや考えを働かせる力そのものは、自分の思いをはるかに超えた力なのです。

これは、私においても、あなたにおいても同じです。

おのおのの心臓や肺、胃や腸などを動かしたり、いろいろと考えさせている生命の力というものは、いずれも「小さな自分の思い以上の力」であり、私においても、あなたにおいても、すべてぶっつづいています。

そもそも、私たち人間はこの大宇宙の進化の過程で大宇宙の力によって生み出されたものです。

ですから、この大宇宙の生きとし生けるもの、在りてあるものは、すべてぶっつづきの一つの“いのち”なのです。



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これでいいのか?

これでいいのか?

突然ですが、あなたは腹が立ちますか?

「えっ? どういう意味?」と言う声が聞こえて来そうです。

質問の意味は、あなたは時々、たまに、あるいは、しょっちゅうかもしれませんが、何かのおりに、ムッ、イライラ、カーッなど程度はともかく、腹が立つことがありますか?ということです。

偉そうに聞こえるかもしれませんが、この質問に「イエス」と答えた方々は、残念ながら、本当に幸せな人とは言えません。

「エーッ。そんなぁ。勝手に決め付けるなよ」という声も聞こえてきます。

でも、僕は本気なのです。

腹が立っているときの自分自身を思い出してください。

ムッ、イライラ、カーッなど、程度はともかく、間違いなく狂っています。

冷静さや理性的判断を失っているだけでなく、こころは、特に、怒りの対象となっている人に対しては、とても暴力的になっています。

肉体的にも、眼は血走り、血圧は上がり、そして、きっとホルモンのバランスもおかしくなっているのでしょうね。

あなたはこんな状態になっているあなた自身を本当に幸せな人と呼ぶことができますか?

でも、昔から「喜怒哀楽は人の常」と言って、腹が立つのは人間の本能であり、当たり前のことではないか、と言う方も多いと思います。

でも、本当にそうなのでしょうか? それこそ思い込み、決め付けではないでしょうか?

少なくとも、そう決め付けるこころをちょっと横に置いて、「本当はどうなのだろうか?」と考えてみてもよいのではないでしょうか。

あなたは、腹が立っているときの自分自身が好きですか? 腹が立っているとき、あなたはこころから(屁理屈でなく)楽しいですか?

僕がこのブログに書いていることは、すべて僕自身の体験をもとにしています。

僕もずっと若いときには、しょっちゅう腹を立てていました。

正直に言って、そういう自分自身を少しも楽しいとは思いませんでした。でも、そんなもんだろうとも思っていました。

ところが、あることをきっかけに、僕は怒りの根っこに気づきました。

それはまさに幻想にすぎないのですが、それをあたかも実体であるかのように錯覚していたことに気づいたのです。

こうして、怒りの根っこが抜け落ちてしまったのです。

それまで、まさに味気なくさみしいモノクロの世界に生きていると思っていた僕は、その瞬間、さんさんと陽の射すカラフルで生き生きとした世界に生きている自分自身を発見しました。

本当に幸福な世界、本当に幸福な自分を(再)発見したのです。

それ以来、僕はどんな状況においても腹が立ったことはありません。


さて、このブログで僕が言いたいことは、

「それでいいのだ。当たり前がいい」などと、物知り顔で、表面的に思い込もうとする態度は本当に大切なことを見失ってしまうということです。

どうかみなさんには、「本当はどうか?」と強烈に本当の自分、本当の世界、本当の生き方を追求していただきたいと思います。





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思いは事実ではない

思いは事実ではない

このことは、これまでもこのブログのなかで何回も書いてきました。

「思いは事実ではない。」 それこそ、これは単純な事実です。

でも、これまで、「それはそうだ」とアタマで思うだけで、結局は、さーっと読み流してきた方が結構多いのではないでしょうか。

「思いは事実ではない」ということに、こころから気づくことはとても大切なことなのです。

というのは、「自分の思いが事実である」と思い込んでいる方がとても多いからです。

「とても多い」と言うよりも、「ほとんどの人がそうだ」と言った方が当っているかもしれません。

「自分の思いが事実である」という思い込みは、それほど強力に私たちのこころにしみ込んでいます。

そして、私たちは「自分の思いが事実である」という思い込みに基づいて、考え行動していきます。

ですから、その結果、自分自身だけでなく、周りの人々にも混乱と苦しみをもたらすことになってしまいます。


思いは事実ではない。

これは簡単な事実です。

ですから、アタマではすぐに分かった気になってしまいます。

でも、本当に体得するのは意外と難しいのです。

私たちは子供の時から「自分の思いが事実である」と思い込み、信じ込んできました。

ですから、ちょっとアタマの先っぽで「思いは事実ではない」と分かったつもりになっても、実際には、ほとんどの生活の場面で、自分の思いを事実と錯覚して生きています。


では、どうしたら「思いは事実ではない」ということを体得できるでしょうか。

僕は、第一に瞑想の自然法をお勧めします。

とにかく、瞑想の自然法を毎日最低1回、できれば2回、25分ずつほど実践することです。

そうすれば、「思いと事実は別々のものだ」ということをアタマで理解するのではなく、簡単に体感し確認することができます。

日々の実践によって、その体感はますます確かなものとなり、日常の生活のなかでも思いや気分に振り回されることも少なくなっていくでしょう。

もう一つお勧めしたいのは自観法です。

これは、日常の生活のなかで、ちょっとしたときに、1分か2分間、自分が思ったり、感じたりすることをただじっと観察するのです。

ポイントは「ただ観る」ということです。

つまり、自分の思ったり感じたりすることを自己評価したり,分析したりしないということです。

自観法を1日に3回から5回ほど実践すれば、2,3ヶ月のうちには自分でも驚くほどの心境の変化を体験されることでしょう。

本当の幸福をアタマでなく、こころから実感するために、瞑想の自然法と自観法はとても有効なツールなのです。


いま、今回のブログを読み返してみると、同じ表現の繰り返しがとても多いことに気がつきます。

読みにくいかもしれませんが、それだけ僕の気合が入っているのだろうと、好意的に受け止めていただければ幸いです。

なお、思いと事実、瞑想の自然法、そして、自観法については、これまでブログのなかで何回か触れていますで、併せて読んでいただければと思います。



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問題はない

問題はない

多くの方々が日常の生活の中で、「これは問題だ」という言葉をしょっちゅう使い、また、そう感じているようです。

でも、本当はただ状況があるだけで、どこにも「問題」はないのです。

事実はただそれだけです。

私たちはある状況が自分の価値観や都合によって、「好ましい、好ましくない、あるいは、どうでもよい」などと感じていることは確かです。

そして、私たちは一瞬一瞬状況に直面し、それに対応しながら生きています。

それはそれでいいのです。

でも、自分が「好ましくない」と思う状況の中で、それが「問題だ」と思うと、その思いが自分自身のこころを曇らせ、何か暗い気分になってしまいます。

本当は、そこにはただ状況があるだけです。そして、それにうまく対応したいと思っているだけなのです。

それだけなのに、まるでその状況そのものがまるで暗雲であるかのように感じてしまうのです。

そして、その暗雲は本当は自分自身で作り出した妄想に過ぎないのですが、その妄想の暗雲によって、自分のこころが暗くなってしまったと思ってしまいます。

状況そのものはただ生じているだけで、状況そのものの中に気分があるわけではありません。状況は気分にはまったく関係がないのです。

要するに、状況によって、気分がよくなったり、落ちこんだりしているのは、自分の妄想によって一人相撲をしているだけです。

うまく対応したいと思う状況には、ただただ、すっきりと明るく対応していくだけでいいのです。

それなのに、自分の気持ちがこんなに大変なのは状況のせいだ、あの人のせいだと、自分以外の他のものや他の人のせいにして、状況をうらみ、他の人を責めたりします。

中には、みんな自分が悪いのだ、自分がダメなのだと自分を責める方もいます。


自分の本当のこころはいつも透明で光輝いているのです。

それなのに、アタマの妄想で作り出した気分を自分のこころだと思い込んで、それに翻弄されながら、状況に一喜一憂しながら、人を責め、自分を責めながら一生を生きていくことほど愚かな一生はありません。

うまく対応したいと思う状況には、どこどこまでも明るく積極的に対応するだけではないでしょうか。

なかなか自分の望むような結果が得られない場合にも、ただその結果をすっきりと受け止めるだけではないでしょうか。

そして、「さあ、これからどうするか」と明るく考え、実行していくだけです。

たとえば、体が病んでいるとしても、こころまで病ませる必要がどこにあるのですか?

もし、体が病んでいるということが分かれば、暗い気分に浸ってないで、ただちに体を治す実験を楽しめばよいのです。

どんな状況においても、どこどこまでも、すっきり明るく積極的に生ききること。

これこそが全生の道です。


人は幸せに生きるために生まれてきたのです。

そして、もともと幸せに生きられるようにできているのです。

もう、一人相撲はやめましょう。


問題はない!

これは素晴らしい真実です。




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海と波

海と波

海を見ていると表面にいくつもの波が現われます。波には姿形があり、大きさはさまざまです。そして、波の色は青味がかった色、それが砕ける時には少し白く見えます。

波は現われては少しずつ形を変え、また消えていきます。そして、また次々と波が現われます。

一方、海はその中に潜って見れば、姿形はありません。大きさはずーっと広がっていて大小はありません。色は青味がかって透明です。

そして、海はずーっと変わらずにそこにあります。

では、波は海と別のものなのでしょうか?

そんなことはありません。波は海そのものです。

私たちの思考や感情なども含めて、この世界の生きとし生きるもの、ありてあるもの(仏教的に言えば、現象界のすべての存在。色)は波に例えることができます。

そして、私たちの思考や感情なども含めて、この世界の生きとし生きるもの、ありてあるものを在らしめ、それらに働いている力(仏教的に言えば、空、。そして、僕の言い方では「いのち」)を海に例えることができます。


もう僕の言いたいことはお分かりでしょう。

私たちが五感で捉えることのできるこの現象界のすべての存在(色)は、五感で捉えることのできない空(いのち)だということです。

般若心経で言う「色即是空。空即是色」は色と空という二つのものが一つということを言っているのではなく、もともと一つのものが、視点の据えどころによって、五感を通せば色と見え、心の目を通せば空と見えるということなのです。

要するに、どちらも同じ一つのものなのです。

このように書いてくると、何か教条本を解説しているだけのように思われるかもしれませんね。

もちろん、それは僕自身の本意ではありません。

瞑想の自然法を実践すれば、これは誰にでも体験として分かる事実なのです。

瞑想中にもいろいろなものが見えたり、聞こえたりします。いろいろな思いや感覚も存在していることが分かります。

けれども、瞑想が深まっていくと、それらと同時に絶対的な静寂が存在していることが分かります。

そして、さらに瞑想が深まって思考が静まってくると、自分という意識もなくなり、すべてが静寂になります。

そして、その絶対の静寂の中から、いろいろな姿形をしたものや音、思いや感覚が現われては、変化し、消えていくのを経験することができます。

静寂というのは聴覚的な表現です。視覚的には透明な空間です。

仏教的に言えば空であり、僕の言い方では「いのち」です。

要するに、この世界の生きとし生きるもの、ありてあるものは、姿形こそ違え、その本質は一つの「いのち」なのです。

「いのち」には時間も空間も大小もありません。「いまここ」だけがあるだけです。

「いのち」は生も死も超越しています。

ですから、私たちは生まれたこともなければ、死ぬこともありません。


そして、

わたしはあなた。あなたはわたし。

僕はチビ。チビは僕。

これが存在の真実です。




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まごころ

まごころ

若い時の私はいつも「自分が、自分が」というところで生きていたように思います。私はそんな自分がとてもケチ臭く、狭さを感じ自分が嫌で嫌で仕方がありませんでした。

そんなことから、私はそのような自分のこころを眺めながら、「自分の本当のこころとは何だろう」と考えるようになりました。そして、ある時ふと気づいたのです。

それは「自分が、自分が」というこころの奥に、どのような状況においても、ずっと変わらず、いつも穏やかで安らぎ、同時に、まわりの人に対して無条件に親愛の情を感じているこころが存在しているということです。

簡単に言えば、私たちのこころの奥にはいつも「まごころ」が存在しているということです。

では、「自分が、自分が」というこころ(ケチな根性)と「まごころ」とどちらが自分本来のこころなのでしょうか。

若い時の私はすべての存在はバラバラに切り離された存在だ、自分のまわりの人も、結局は自分と利害を異にする存在だと思い込んでいました。

その間違った思い込みに立ってアタマが作り出しているのがケチな根性だと思います。したがって、ケチな根性は自分本来のこころであるとは言えません。

一方、「まごころ」は「みんなバラバラの存在ではなく、一つのいのちを生きているのだ」という存在の真実そのものを本能的に感得するところから自然に出てくる自分の本来のこころだと思います。

ケチな根性に振り回されずに「まごころ」に沿って考え行動する時には、まず、自分自身がなんとも言えず、安らかな気持ちになります。

そして、一見、遠回りのように見えるようなことがあっても、結局は、まわりの人たちとも調和したよい結果がもたらされます。

要するに、みんな一つのいのちを生きているのですから、迷うことなく安心して「まごころ」丸出しにして生きていけばよいのです。ただそれだけでよかったのです。

本当の生き方とはこんなにも単純なことだったのです。




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