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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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年末大掃除

年末大掃除

しばらくブログのアップができませんでした。待ってていただいた方々には大変失礼しました。

これまでどんな時でも週に2回、少なくとも1回はアップしてきたのですが、今回はそれもできませんでした。

このままだと、2週間ぐらいすぐ経ってしまい、もう誰もこのブログを覗く人がいなくなってしまうかもしれないと思い、とりあえず駄文でも何でもアップしてしまおうとこの文章を書いているところです。

まあ、これは冗談なのですが・・・。少しはそれに近い気持ちも混じっているのかもしれません。

というのは、次に書こうと思っていたものは自分でも相当の思い入れをもって書きたいと思っており、それに比べると今回は書いていても、そこまでは意気込んではいないからです。

さて、今回のアップが遅れたのは恒例の年末大掃除が突然始まったからなのです。

変な表現ですか? 

そう。突然それが始まったために、次回に書こうと思っていた文章が書けなくなったのです。

我が家でも、多くの日本のお宅と同じように、12月になると年末の大掃除を始めます。今年一杯の汚れを綺麗にし、乱雑になっているものを整理して新しい年を迎える準備をするのです。

ところが我が家には家の年末大掃除のほかに、毎年恒例のもう一つの年末大掃除があるのです。

それが突然始まったというわけです。それで、それに対応するために予定していたブログのアップは先送りしたというわけです。

我が家の恒例のもう一つの年末大掃除。それが何であるか推測がつきますか?

答えは、僕がいつもこの時期に大風邪を引くということです。

冬が近づいてくると、ある日突然鼻の奥が独特の感じで痛くなります。そうすると、2日か3日すると鼻炎のようにしょっちゅう鼻水が出るようになります。それが2日間ほど続くのです。

その後、熱が急速に上昇します。今回は39度ちょうどが最高でした。

熱は最高温度に達すると、またすみやかに下がっていきます。

その後咳が出たり、痰が出たりという症状が1日か2日続き、そのあとすべてが収束に向かいます。

その後の爽快なことは言葉に尽くせません。

まさに体の大掃除です。

しかも、それは自分がやろうと思ってできるものではありません。

体そのものにもともと備わった健康を維持する機能のなせる「わざ」です。

毎年この時期に体の年末大掃除によって、自分の体がリフレッシュしているのを感じるたびに、天に向かって感謝の気持ちが湧き上がってきます。

そして、私たちの生きているこの世界に対してあらためて強い信頼観を抱くのです。

そうです。この世界、そして、この自分は、本来、根本的に信頼するに値するのだと思って僕は生きています。

生きるということは、本来、本当に素晴らしいことなのです。


今回はこの辺で終わりにします。

実はまだ風邪の経過中なのです。ですから、何かに集中したりすることは、せっかくの自然の経過を妨げてしまうからです。





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自覚から平和へ-1

自覚から平和へ-1


本当の平和は「自分とは何か? この世界とは何か?」という存在の真実の自覚なしには創れません。

存在の真実はアタマでどう考えるかという以前に、すでに事実として存在しています。

問題はその真実に気がつくかどうかということだけです。

もし気がつかなければ、アタマで勝手に描き出した世界を真実だと錯覚して生きていくことになります。

そういう意味で、深浅はともかく、存在の真実をアタマでなく体験として捉えることはとても重要なことなのです。

ということは、存在の真実を体験として捉えるために、すべての人が厳しい長年の修行をしなければならないのでしょうか?

僕はそうは思いません。

それは、本来、存在の真実というものは事実を幼子のように素直になって観れば、誰にでも本能的に、あるいは、直感的に感得することができるものだからです。

このように言うと、多くの方々に「幼子のように素直になる」ことこそもっとも難しいことではないかと言われそうですね。

そう言われると、自分自身を省みて、「まったくそのとおり」だと言わざるをえません。

でも、やはり存在の真実は必ずしも厳しい長年の修行をしなければ分からないというものではないのです。

たとえば、私たちは誰かに腹を立てたり、誰かと喧嘩をしたりすると、その時は興奮しているので気がつかないかもしれませんが、後で冷静になると、相手のことは別として、腹が立ったり、喧嘩をしたという事実そのものを何か不快でイヤな感じがするという経験をしたことがあると思います。

要するに、人と仲たがいをすると私たちは本能的に楽しくないのです。

ということは、私たちがこころの底から願っていることは「みんなと仲良く生きる」ということなのです。

僕が言う「幼子のように素直になること」というのは、このような自然な感情や感覚を大切にするということなのです。

私たちはついついアタマで考えたことを存在の真実だと思いがちです。

でも、アタマの思い以前に私たちにもともと備わっている本能のハタラキは、いつも存在の真実を誤りなく正しく捉え、私たちに知らせようとしているのです。

たとえば、何か食べたあとに嘔吐したとします。その時に、嘔吐そのものが悪いものと考えて、嘔吐止めの薬を飲むということは正しい処置と言えるでしょうか?

嘔吐したのは、何か体に悪いものを食べたのを体から排出しようとしたのかもしれません。あるいは、胃のハタラキが弱っていたために、胃の負担を減らそうとして嘔吐したのかもしれません。

いずれにしても、身体の健康を維持するためには、このような本能としてもともと身体に備わっているハタラキや感覚を全面的に信頼し任せることが大切なのです。

こころも同じです。

私たちにもともと備わっている内なる声に静かに耳を傾けてみましょう。

そうすれば、私たちがすでに存在の真実を知っていたのだということに気が付かれることでしょう。



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人は何のために生きるか?

人は何のために生きるか?

自分はどこから来て、どこへ行くのか?

自分はなんのために生きるのか?

自分とは何か?

これら3つの問いはいずれも人生のもっとも根本的なテーマです。

けれども、この3つの問いは同じことをそれぞれ異なった視点から表現しているだけで、結局は、同じ一つの問い「自分とは何か?」という問いに集約されます。

その意味では、「自分とは何か?」ということを自覚するということが何より大切であるということができるでしょう。

でも、ただ「自覚する」ということだけでよいのでしょうか?

自覚した、覚醒した、悟ったなどという体験があっても、それだけではまったく不充分です。

ましてや、「自分は体験した。自分は分かっている。でも、あの人は体験していない。自分は優れているのだ」という思いがあればなおさらです。

そんな体験はかえってエゴと自他の分離を増幅しているだけで、本当の自覚とはまったく正反対です。

自覚とは「自覚して生きる」ということです。

もう少し具体的に言うと、自覚とは「存在の真実は自他一体である」ということを体験的に捉え、自ずから自他一体の真実を表現しながら生きていくということです。

したがって、自覚というのは単なる一つの体験に留まるだけのものではありません。

その体験が生きるなかに表現されてこそ、本物の自覚だと言えるのです。

では、「生きるなかに表現する」とはどういうことでしょうか?

まず考えられるのは、自分の日常の生活、つまり、家庭や学校や仕事のなかで、みんな仲良くということを心がけながら真心を込め生活するということでしょう。

禅の世界にも「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉があります。

その意味は、日常の生活の中で、世界の一隅(ひとすみ)、つまり、自分が関わっている場を少しでも明るく照らしながら生きることを心がけなさいということなのでしょう。

自分だけ、あるいは、自分の家族のためだけでなく、地域や周りの人々のために心がけて生きていくことはとても素晴らしい生き方です。

実際にそのように生きることはなかなか難しいことですが、せいぜいそのように心がけて生きたいものです。

それはもちろんそうなのですが、僕がこのブログで申し上げたいことは、「一隅を照らす」ことだけでは不充分だということです。

一人一人が存在の真実に目覚めて、それを生活のなかで表現しながら生きていくことはとても自然であり大切なことです。

でも、それは「一隅を照らす」ことだけに留まりません。

私たちは自分が自分であるだけでなく、同時に、社会的な存在でもあります。

ですから、存在の真実を自覚しても、ただそれだけに満足しているだけではダメなのです。

自他一体の存在の真実を、まず自分が直接関わっている場において表現することを心がけることが自然の流れです。

同時に、自他一体の理に沿った調和・共生の世界を実現するように社会全体に働きかけていくことが必須なのだと思います。




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瞬間瞑想法

瞬間瞑想法

この瞑想法はやり方はとても簡単です。

「簡単瞑想法」と言った方がよいのかもしれません。

この瞑想法はヨガにも似たようなものがあるようですが、僕が時々無意識にやっているものです。

ただ、この瞑想法は日頃瞑想の自然法を実践し、それがかなり深まり、少なくとも瞑想中に絶対的な静寂のなかに入っていけるようになってからやってみたほうがよいでしょう。

僕自身の瞬間瞑想法のやり方は、たとえば、山道を散歩している時に、突然立ち止まり、“きっとなって“前にある風景を視点を動かさずに見るのです。

後で振り返ってみると、きっとなって目の前のものを見た瞬間、アタマのハタラキが止まって、一切の観念に染まらない事実丸出しの世界が見えています。

それと同時に、すべてが静寂の世界であることに気がつきます。

きっとなって見ている時、時間がどれだけ経っているのかはよくわかりません。

アタマのハタラキが止まっているので時間や空間の意識、さらには自分が見ているという意識も出てきません。

ただ、すべてが静寂であり、事実があるがままにあるだけです。

その内にふっと気がゆるみ、自分の呼吸や時間などの意識が戻ってきますので、そこで止めてもいいのです。

でもできれば、そのまま今度は“じっと”あるがままの事実の世界を見続けます。

トータルの時間で30秒ぐらいやればそれで止めます。

僕は1日のなかで散歩中だけでなく、居間でテレビを見ているときや自分の部屋で何かをしているときなど何回もこの瞬間瞑想をやっています。

もう一つポイントがあります。

それは何かをやっているときに「これから瞬間瞑想をやろう」とことさらに意識せずに、唐突に“きっとなって見る”のです。

この瞬間瞑想の効果は実際に実践すれば誰にでもわかります。

とにかく、日々続けることです。


ついでですが、瞑想の自然法はすばらしいものらしいが、「何もしないでいる」ことは簡単そうで、実際は難しいという方もいらっしゃるようです。

何もしないでいると、何か頼りなく、雑念放っておけばよいといわれても、雑念がたくさん出てきてしまい、気になって仕方がないと言われるのです。

そのような場合には、吸う息と吐く息に静かに意識を集中する、坐禅で言ういところの随息観をお勧めします。

ただ随息観にはポイントがあります。

それは、事実は“いまここ”しかないのですから、吸うときは吸うだけ、吐くときは吐くだけになることです。

吸うときはただ吸うだけで終わりで、すべてです。前後はありません。吐くときはただ吐くだけで、すべてです。前後はありません。

このように一息一息そのものにくつろぎ、任せ、成りきるようにします。

この随息観は瞑想の自然法と異なり、“意識の集中”を活用したやり方ですが、結局は、“いまここ”事実丸出しの世界にただくつろぐということでは同じです。


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カーカー

カーカー

今朝まだ家人のだれも起きていないときに、瞑想の自然法をやっていると、どこからともなくカーカーという「音」がしました。

カーカー。ただそれだけです。

外でカラスが鳴いたという意識もありません。それを聴いている自分もありません。

カーカー。ただそれだけです。

それ以外には何もありません。

しばらくしてブーというような音がしました。

ブー。ただそれだけです。

それ以外には何もありません。

自動車の音という意識もありません。

しばらく瞑想を続けていると、いろいろな音がしてきます。

カーカー。ブー。チュンチュン。ヒュー。ザー。

ただそれだけです。

そして、同時に、いろいろな音があるにもかかわらず、その一切が静寂そのものです。

瞑想を終わって家の外に出ました。

「寒い」。でも、ただそれだけです。

見上げると、木々の葉っぱが揺れています。そして、サラサラという音がしています。

にもかかわらず、一切が静寂のなかにあります。

見たり聴いたりしている「自分」はありません。

一歩一歩歩いています。

でも、ただ一歩があるだけです。

雲が浮かんでいます。

その雲が静かに流れていきます。

突然、日が射してきました。

木々の葉っぱがキラキラと揺れ動いています。

遠くに自動車が走っているのが見えます。

それらのすべてが静寂そのものです。

家に戻って居間に入ると、チビ(我が家の目の見えないネコ)が眠りから覚め、アクビをしています。

すべてが「静寂」のなかで、ただ起こっています。

このようにして僕の1日が始まります。


瞑想の自然法についてはこれまでもたびたび書いてきました。

瞑想の自然法はただ坐って、何も求めず、すべてを任せて、「いまここ」にくつろいでいることです。

呼吸をコントロールしようともせずに、自然の呼吸に任せて、何かに集中しようとすることもなく、ただ起きていることを眺めているだけです。

そうしていると、吸う息吐く息が意識されるかもしれません。他にもいろいろな体の感覚を意識するかもしれません。

雑念も出てくるでしょう。

いろいろな音が聞こえるかもしれません。

目の前にはいろいろなものが見えているでしょう。

それらのすべてが「ただ在る。ただ起きている」のをただ眺めているだけです。

このようにしながら、瞑想が深まっていくと、それらのすべてが同時に静寂であり、透明な空間であることに気がつくでしょう。

でも、まだ、それらを眺めている自分があるという意識が残っているかぎり、「自他の観念」が抜けているとは言えません。

でも、さらに瞑想が深まっていくと、「眺めている自分」という意識も消えてしまいます。

もともと「自分」というものは思いが作りだした観念にすぎません。

「自分」というコロッとした固まりがあるわけではないのです。

ですから、瞑想が深まると「自分がいる」という意識もなくなってしまうのは当然のことなのです。


一切が「ただ在り、ただ起きている」と同時に「空」であるということです。



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なぜ人は自ら苦しむのか?-3

なぜ人は自ら苦しむのか?-3

この問いに「それはこうだ」と確信を持って言い切れる人は誰もいないでしょう。

なぜなのか分からないけれども、ただ事実はそうなっているとしか言えないのだと思います。

私たち人間は他の動物と違って発達した大脳を持っているために自ら苦しんでいます。

そして、自ら作り出した苦しみを「本気で」克服しようと思ったときに、どうしても「その苦しみの根本原因は何か?」、そして、そもそも「自分とは何か?」ということをあらためて自らに問いかけずにはいられません。

そこで、あれこれと考えてその答えを見出そうとします。

と言っても、徹底的に答えを追求しようとする人はまれのようです。

多くの方々は、ある程度考えてはみるのですが、これというはっきりした答えにたどりつく前に、その探求をあきらめてしまうようです。

そして、苦しみがあるのは人間の性(さが)なのだとして、喜怒哀楽の日常の生活に流されていっているのではないでしょうか?

ところが、中にはそれでもあきらめきれずに、苦しみから解放されたいとその答えを探し続ける方もいます。

でも、本気になればなるほど、どうしても大脳のやりくりでは解決することはできないというところに達します。

それはまさに絶望以外の何ものでもありません。

もはや前に進むこともできず後ろに下がることもできない状態で、本当にせっぱ詰まってしまいます。

それでも、何とかアタマをやりくりして解決の道を探そうとするのです。

私たち人間はそれほど自分のアタマへの信頼が大きいということでしょう。

けれども、最後にはアタマのやりくりでは本当にどうにもできないというところに達っします。。

ところがところが、その絶体絶命の絶望の果てに奇跡が起こるのです。

それは私たちのアタマはそのハタラキの限界を自ら悟り、自らそのハタラキを放棄してしまうのです。

そして、存在の真実が圧倒的な迫力ではっきりとすでに顕現していることに気がつかされます。

その時にはじめて人はすべての苦しみから脱却できるのです。

今日まで大悟したと言われる方々はほとんどこのような体験をされているようです。

僕は大脳(アタマ)が人間が生きていくために必要がないと言っているのではありません。

私たちが生活をしていくうえでそのハタラキはなくてはならないものです。(もちろん、その弊害もたくさんありますが・・・。)

けれども、アタマは生活には役に立つとしても、存在そのものの本質を自覚するためにはまったく役には立ちません。

私たちがすべての苦しみから解放されて真に人間らしく生き、万物一体の調和・共生の社会を創っていくためには、アタマのハタラキを超えて、存在の真実を自覚することしかありません。

そのためのとても効果的な方法の一つが瞑想の自然法です。

アタマの思いを手放しにして、何も求めず、“いまここ”にくつろぐことです。



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