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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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事実の世界ー3

事実の世界―3

存在の真実について、「本当はどうか?」と検べる場合には、検べる順序として、あなたの心境は後回しにして、つまり、あなたのアタマの中を検べるのではなく、事実(真実・本当のこと)だけを徹底的に検べてなければなりません。

あなたのアタマの思いなど関係ないのです。

アタマの中ばかりを検べているから、いつまでたっても、あなたの存在の真実(本当の姿)に気づくことはできません。

真実・本当のことは事実の中にしかありません。


その事実の世界をじっと見詰めていれば、向こうから、あるいは、その事実の中から、真実(本当の姿)が浮かび上がってきます。

それがはっきりしたときに、あなたの思いの“内容”も、当然のこととして、真実(本当の姿)に沿ったものとなります。

変な表現ですが、仮に、あなたが「自分は薄暗い地中を、どこに行くかも分からず掘り進んでいる」というような心境で生きているとしましょう。

でも、それはあなたの今の心境であり、その心境が作り出した妄想の自分の姿にすぎません。

この世界には本来の真実の世界と妄想が作り出した世界が同時に存在しています。

妄想の作り出した世界は本来の(もともとある、あるいは、今すでにある)世界に一時的にかぶさるように存在しているだけなのです。

ですから、妄想が消えれば妄想の作り出した世界も消えてしまいます。

妄想の作り出した自分についてもまったく同じです。

妄想の作り出した自分は一時的に存在はしていますが、妄想が消えれば、妄想の作り出した自分も消えてしまいます。

それに比べて、真実の世界、そして、真実の自己は、周りの状況や自分の妄想には関係なく、はじめからずっと、そして、今も変わらずに存在しています。

「本当はどうか?」というのは、この真実の世界・真実の自己がどうなのか?と問いかけているのです。

さて、ここで皆さんに、あらためて、「いくら心境を検べても、真実には行き着かない」ということをはっきりと確認していただきたいと思います。

真実を悟る(知る)ためには、(僕の言う)「事実の世界」。「事実としての自分(自己)」を検べるしかないのです。

事実の世界をどこまでも検べ、検べて生きていくことです。

そして事実の世界の中に見出した真実に、自分の思いを沿わせていくことです。

真実が“はっきり”見えれば、自ずから思いは真実に沿ったものになります。

ところが、真実が何となく見えたというようなレベルであれば、当然、いずれ思いは真実から逸(はず)れたものになってくるでしょう。

とにかく、事実を思いのメガネを掛けないで、裸眼で見ることが重要です。

それは、本来は難しいことではありません。

ただ、これまで「自分の思いが事実である」、あるいは、「思いこそ自分である」と思い込んできたために、ついつい、思いのメガネを通して見たものを事実であると錯覚しがちです。

ですから、とにかく何も求めず瞑想の自然法を日々実践することが重要です。
(事実の世界終わり)



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事実の世界ー2

事実の世界―2

あなたがアタマのなかでどのように考えようとも、事実(真実、本当のこと)は変わりません。

つまり、あなたがアタマで考えることは真実(本当のこと)とはまったく関係がないということなのです。

と言って、「アタマで何も考えてはいけない」ということでは決してありません。

そのクッションの色が”事実として”ブルーであるということをはっきり確かめることができたら、自分のアタマの思いをその事実に合わせて、「そのクッションはブルーである」と思うことは、ごく自然なことです。

つまり、少なくとも、「真実はどうか?」というテーマに関しては、「アタマの思いは事実に先行して存在してはいけない」ということであり、「アタマの思いはどこまでも事実に即し、事実に適合しなければならない」ということです。

ところが、ここで、「事実とは何か?」ということについて、僕が「真実はどうか?」というテーマに関して使っている「事実」という言葉を誤解している方もいるようです。

僕がこのような場合に使う「事実」という言葉は、あくまで「本当はどうか?」という意味で使っています。

ところが、この僕が使っている「本当は」という言葉も誤解している方もあるのです。

そこのところを、いつものようにタバコの例を使ってわかりやすく説明しましょう。

ある人が「タバコを吸うとリラックスできる」と思っているとしましょう。

この場合、その人がそのように思っているということは、確かに、「事実」です。

それはそうなのですが、僕の使っている「事実」という言葉の意味は、「あなたがそのように思っているという事実」を指しているのではありません。

存在の真実に関して僕の言う「事実」というのは、あなたがアタマでどう思っているかということではなしに、「タバコそのものは実際どうなのか?」という意味の「事実」なのです。

これまでも、何回も「書いてきましたように、事実は、「タバコを吸うとリラックスできなくなる」のです。これが、タバコの事実であり、タバコの真実なのです。

僕はそういう意味で、「事実」、「真実」、「本当」という言葉を使っています。

タバコの正体を確かめてみて、「タバコを吸うとリラックスできるどころか、逆に、リラックスできなくなる」という事実(真実・本当のこと)が明らかになれば、今までの「タバコを吸うとリラックスできる」というこれまでの思い込みをすぐに消えてしまうでしょう。

そして、「タバコを吸ってもリラックスできない。逆に、イライラするだけだ」とあなたの思いも転換するのではないでしょうか?

でも、それが分かったはずなのに、「事実はそうだけども、やはり、タバコを吸うとリラックスできる」と思ってタバコを吸い続ける方がいるのですから驚きです。

タバコだけでなく、事実(真実・本当のこと)とは違う自分の思いを後生大事に守って、自ら苦しみ、他を苦しめながら生きている方が意外にも多いのです。

これは分裂症以外の何ものでもありません。別の言い方をすれば、「どこまでも、自分のいい加減な気分に甘えている」ということです。(続く)



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事実の世界ー1

事実の世界-1

今回はとても長い文章になりますので、3回に分けたものを一気にアップします。

自覚のセミナーやブログや僕のメーリングリストのなかで、僕は、皆さんに、「本当はどうか?」としょっちゅう問いかけています。

でも、この、「本当はどうか?」という問いの意味自体を勘違いしている方がかなりいるらしいのです。

自覚のセミナーに出たことがない人はほとんどその意味を誤解しています。

自覚のセミナーでも最初のうち戸惑う人が多いのはやはりその意味を誤解しているからです。

ところが、そのうちに、その意味を正確に捉えることができるようになると、それ以後はとても楽に進んでいけるようになります。

でも、自覚のセミナーの最中でも、再びその意味を誤解して、混乱する場面がしばしば見受けられます。

そして、自覚のセミナーの後、いつの間にか、分かっていたはずなのに、その意味を以前と同じように誤解して生きている人もかなりいるようです。

また、あるテーマについては、「本当はどうか?」という意味をきちんと捉えているのだけれども、他のことになると、その意味を以前と同じように誤解しているという方もとても多いように思います。

僕が皆さんに出すテーマはすべて「本当はどうか?」という意味で問いかけているのです。

なぜなら、本当のこと以外には何も存在しないからです。

ですから、本当は、いちいち「本当はどうか?」と付け加えるのも余計なことなのです。

それでも、多くの方が(本当のもの以外にも何かあるつもりになっている)以前の状態に戻らないように、時々わざわざ「本当はどうか?」ということを付け加えているのです。

ところが、「本当はどうか?」ということを言い過ぎると、皆さんのなかには「本当は・・・なのだけれども、私は・・・だと思う」といったような分裂状態に陥る方もかなり見受けられます。

これではだめです。

そこで、ここであらためて「本当はどうか?」という意味を説明しておきたいと思います。

まず最初にはっきりしておきたいことは、「本当はどうか?」という問いは、「あなたがアタマでどう思うか?」ということを尋ねているのではない、ということです。

「本当はどうか?」ということは、「あなたはどう思うか?」ということではなく、「事実はどうか?」ということを尋ねているのです。

例えば、目の前にブルーのクッションがあるとしましょう。

その時、「クッションの色は何ですか?」と問われれば、あなたはいちいちあなたのアタマのなかを検べることもせずに、すぐに「ブルーです」と答えるでしょう。

なぜでしょうか? それは事実、クッションはブルーだからです。つまり、あなたは、少なくともこの問いの場合には、アタマの中を検べても意味がないと分かっているからです。

そのクッションはブルーである。それがこの場合の真実(本当のこと)です。

真実(本当のこと)は事実のなかにのみ存在するのです。アタマのなかにあるのは真実(本当のこと)ではなく、幻影にすぎません。(続く)


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どこまでも明るく

どこまでも明るく

「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、いそぐべからず・・・・。」

これは徳川家康の遺訓の冒頭の部分です。

家康は、皆さんもご存知のように、強大な国々に囲まれた小さな国の領主でしたが、数々の苦難を辛抱強く乗り越えて、ついに天下を統一し、250年も続いた徳川幕府の基盤を作った人物です。

先日亡くなった昭和の大横綱・大鵬さんの生涯も忍耐と努力の人生であったと新聞に書かれていました。

そういう意味では、この言葉に「なるほど!」と思われる方も多いでしょう。

非常に困難な状況の中で、何かの目標を持ち、それを実現するには、忍耐と努力が必要だということは、僕もその通りだと思います。

でも、どんなことでも、何か困難な状況を乗り越えたり、何かの目標を達成するためには、いつも不安や恐れを持ち、心配しながら、暗い気持ちで忍耐や努力をしなければならないということであれば、それは違うと思います。

つまり、「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し」というのは、根本的に間違った人生態度だと僕は言いたいのです。

たしかに、人生の中では、「どのように見ても、非常に難しい、厳しい」としか“自分には思えないような”状況の中に置かれることもあるでしょう。

でも、仮にそのような状況に置かれているとしても、不安に思ったり、心配したり、暗い気持ちになる必要があるのでしょうか?

ネガテイブ(消極的)な気持ちになることによって状況は“自分の思うように”改善されるでしょうか?

たとえば、体の具合が思わしくないとした場合、ネガテイブな気持ちになることによって体の具合がよくなるとでも言うのでしょうか?

ネガテイブな気持ちになれば、具合がよくなるどころか、ますます悪くなってしまうのではないでしょうか?

でも、僕が言いたいのは、ネガテイブな気持ちになっても状況は“自分の思うようには”改善しないのだから、ネガテイブな気持ちになっても意味がないということだけではありません。

そもそも、どんな状況においても、こころはいつも光輝き、明るくポジテイブ(積極的)であるのが、本来のこころの姿だからです。

本来の自己、あるいは、本来のこころはいつも光り輝き、明るくポジテイブなのです。

それを想念(アタマの思い)によって曇らせるところからすべての苦しみや混乱が生まれてきます。

どんなに困難だと“思える”ような状況においても、いつも明るく積極的に輝いて生きる、それが本来の生き方なのです。

それは、もともと自分というものは、状況によって変わるものではなく、光り輝き、明るくポジテイブな存在なのだと気がつきさえすればよいのです。

この真実を自覚すると、どんなに困難としか思えないような状況にあっても、それは、むしろ、「心躍る挑戦だ」と思えるようになってきます。

人の一生は、本来、どんな状況においても、楽しいものなのです。




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思い込みをはずすには

思い込みをはずすには

思いは事実ではありません。事実だけが実在するのです。

もともと思いは事実とは異なるものなので、思いの内容は事実と合致することもあれば、合致しないこともあります。それが当たり前なのです。

これは誰でもそうだと分かっているはずなのですが、私たちは自分が思うことが事実であると錯覚したり、自分が思っていることは絶対正しいと決め付けていることが非常に多いのではないでしょうか。

僕は、自分の思いが事実である、自分の思いは絶対正しいという思い込みが私たちの個人的な苦しみ、社会的な混乱の大きな要因だと思います。

さらに言えば、事実の世界に対する私たちの思い(認識)自体が、いろいろな点において決定的に間違っています。

私たちはこの社会に生まれ、育っていく過程でいつのまにか、とても重要なことがらにおいて根本的に間違った思い(観念)を絶対正しいものと信じ込んでいくのです。

それは、もともと、この社会自体が根本的に間違った観念によって作られているからです。

ですから、私たちには、自分が絶対正しいと思っていることが、間違っている、あるいは、間違っているかもしれないなどとはとても思えないのです。

そのような間違った思い込みの中で、私たちの苦しみや混乱のもっとも大きな要因となっているのがバラバラ観です。

バラバラ観というのは、この世界のすべての存在は、もともと、バラバラで分離した存在だということです。

具体的には、まず「自分」というものがこの体の中にあり、この体の外にあるものはすべて「自分でないもの」、つまり、「他」であるというわけです。

実は、これは決定的に間違った認識です。この認識が私たちのすべての苦しみと混乱の根本原因なのです。

ですから、「事実しかない、事実だけが実在する」と言って、事実だけを見ているつもりでも、、自他分離、バラバラ観というメガネを掛けて事実を見ているかぎり、事実の世界は大きくゆがんで見え、結局は、事実の世界はバラバラだ、自他分離の世界だとしか見えません。

ですから、事実、あるいは、事実の世界を見るときには、一切の観念を横に置いて、あるいは、棚上げして、ありのままの姿を見るようにしなければならないのです。

その方法の一つが、僕の勧めている瞑想の自然法です。

けれども、いくら毎日熱心に瞑想を続けていても、自分の体臭には気づきにくいのと同じように、自分自身の間違った思い込みに気づくことはとても難しいというのが実状です。。

そこで、私たちのいくつもの間違った思い込みを徹底的にはずし、事実の世界を根底から検べなおす目的で主宰しているのが「自覚のセミナー」というわけなのです。

実際的には、自覚のセミナーをまず受講して、その後、瞑想の自然法を続けていくのが最善だと思います。

そうすれば、「そもそも、自分というもの自体がなかったのだ」ということがはっきりわかるでしょう。


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思いは事実ではない

思いは事実ではない

思いと事実はまったく異なるものです。

しかも、実際に存在しているのは事実だけです。

思いは実在ではありません。

「絵に描いた餅(もち)」という言葉がありますが、どんなに上手に描けているとしても、餅の絵は実際の餅ではありません。

餅に関して言えば、実際の餅だけが実在するのであり、絵に描いた餅はその影にすぎません。影は実在ではありません。

それと同じように、アタマに浮かぶ概念や観念、判断、感情などすべての思いは実在ではなく、幻影であり、実在するものではありません。

ところが、非常に多くの方々が、往々にして、自分のアタマに浮かんだ思いを実在するものと錯覚し、しかも、その思いを事実であると錯覚しているようです。

個人的、社会的であることを問わず、人間社会の混乱と苦しみのすべては思いを事実であると錯覚するところから生まれてくるのです。

僕の尊敬する安泰寺の住職であった内山興正先生は次のように言われています。

「思いは幻影。行為は現実。結果は化けて出る」。まさに至言です。

アタマに浮かぶ思いはどんなに精密であったとしても、実在ではなく幻影です。しかも、その幻影の内容はかならずしも事実とは一致せず、往々にして間違っています。

けれども、間違った思いに基づいた行為は現実です。ですから、その結果は、当然、思いもかけなかったものとして現われるてくるのです。

ここで静かな時間を取って、次のテーマについて一つずつ検べてください。

「検べる」というのは、アタマでなく、事実に基づいて「本当はどうか?」を確認する、ということです。

テーマー1 「自分の思いは事実として実在するか?」

テーマー2 「自分の思いの内容と事実は同じか?」

テーマー3 「自分で思うことは正しいか?」

テーマー4 「自分が正しいと思うことは本当に正しいか?」


思いはアタマの中にだけ存在するものであり、事実としては存在しません。この世界にはただ事実しか実在しないからです。

ところが、世間の多くの方々の様子をよくよく観察していると、自分が勝手にアタマに描く思いを事実だと錯覚し、その思いに引きずり回されて混乱し苦しんでいる方々がとても多いように思います。

それだけでなく、自分の思いによって他を引きずり回し、混乱させ苦しみを与えているケースも非常に多く見受けられます。

思いと事実は違うものです。

もっとはっきり言えば、思いは事実ではありません。なぜなら、思いは実在するものではないからです。

このことに気がつくことが自覚の第一歩です。

それなのに、「思いと事実とは違う」ということをアタマでは分かっていると言っている方でも、実際には、自分の思いこそ事実である、自分が思い描く世界こそ事実の世界である、自分が思う自分こそ事実としての自分であると思い込んで生きている方がほとんどのように「思う」のです。

この世界には、ただただ事実しかありません。

この真実をはっきり確認することが自覚の第一歩です。


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真実の自分と妄想の自分

真実の自分と妄想の自分

前回のブログにも書きましたが、よくよく検べてみると、ほとんどの方が自分は不完全な存在だ、自分には不足しているものがあると思い込んでいるようです。

そして、中には、自分はダメな人間だとあきらめて、何もしないで暗い気持ちで生きている方もかなりいるようです。

けれども、多くの方は不完全な自分をより完全なものにしようとして、あるいは、不足しているものを満たそうとして一生懸命努力をしています。

きっと、自分がより完全になれば、それだけ安心でき、幸福になることができると信じているのでしょう。

けれども、実際には、精神力を強く保ち、努力をすればするほど、潜在意識では、自分は不完全な存在である、不足しているものがあるという思いが強くなっていくことに気づいている方は少ないようです。

もちろん、頑張って自分が望んでいたものを手に入れることができたときには、自分が満たされた感じがして、幸せな気分になることはあるでしょう。

しかし、そのような気分は一時的なものであり、長くは続きません。それは、潜在意識では、つねに手に入れたものを失うかもしれないという不安や恐れがあるからです。

その不安や恐れによって、自分は不完全だ、満たされていないという気持ちがいっそう強くなっていくのです。。

そして、「もっともっと」と頑張るのです。

けれども、こうして一生懸命に努力し続けても、こころの中で、自分は不完全な存在だ、足りないものがあると思い込んでいるかぎりは、その空虚感を何かで埋めることはできないのです。

したがって、こころから安心して生きることができません。

これは、いつも書いているタバコの話と同じです。

タバコを吸いはじめると、いつのまにか、何かもの足りないという空虚な気持ちが生まれてきます。

そして、その空虚感を補い満たしてくれるのがタバコである、という思いが潜在意識に深く刻まれていきます。

つまり、ニコチンによって洗脳されているのですが、スモーカーは本気でそのように思い込んでいるのです。

本当は、タバコを吸い始める前はタバコを吸わなくても平気だったのです。つまり、タバコはもともと必要ではなかったのです。

この単純な事実から容易に分かるように、タバコの価値観はまさに妄想の産物です。

それに気がつきさえすればタバコを吸いたい、タバコが必要だという気持ちはウソのように消えてしまいます。

同様に、自分は不完全な存在だ、何かが足りないという思い込みは、いつのまにかこの社会から受けた洗脳のせいなのです。それは妄想にすぎません。

まさに、妄想の自分を真実の自分だと錯覚し思い込んでいるのです。

その間違った思い込みに基づいて、精神力で自分を完全なものにしよう、足りないものを満たそうと努力する生き方は見当はずれの生き方であるだけでなく、それだけに本当に苦しいものです。

そこには、決して安らぎはありません。


真実の自分は、だれでも、赤ちゃんや幼い子どものときにそうであったように、今でも光り輝き、無邪気そのものの完全な存在なのです。

懸命に努力して完全な自分になる、ということではありません。だれでも、すでに、もともと、今そのままで完全な存在なのです。

そのことにアタマでなく、はっきりと気づくことは何よりも大切です。

「妄想の自分は実在せず、真実の自分しか実在しない」という単純な事実に気がつきさえすれば、だれでもすぐに分かります。


アタマで描く世界は実在しません。事実しかないのです。



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自分には欠けているものはない

自分には欠けているものはない

本当の自分、あるいは、自己の本質がはっきりすると、欠けているものはひとつもないことに気づきます。

そうです。自分には何ひとつ欠けているものも、足りないものもありません。

状況がどのようなものであれ、いつも自分は完璧なのです。

ところが、若いときの自分もそうでしたが、ほとんどの方々は自分には欠けているものがあると思い込んでいるようです。

たとえば、自分は英語ができない。アタマがあまりよくない。料理がうまくできない。仕事がてきぱきとできない。意志が弱い。状況判断が的確にできない。人とうまくコミュニケーションが取れない。歳を取ってきて体力が落ちてきた。体に不具合がある。などなど。

そうであるとすれば、たしかに、生きていくうえで不都合なこともあるでしょう。

でも、それらはすべて自分がそのなかで生きている状況です。

たとえ状況がどうであれ、自分はなにも変わりません。

自分というものはいつも完璧なのです。

このことはとても重要なことなので、静かな時間を作って、本当にそうだということをはっきりと見極めてほしいと思います。

僕自身20代でこの存在の事実に気づいたとき、それまでの灰色でじめじめした陽の当たらないモノクロの世界から、一気に燦燦(さんさん)と陽が輝く総天然色の世界に飛び出していました。

本当はモノクロの世界など僕がアタマで描いていた幻想でしかなく、もともと、ずっと自分は光に満ち溢れ、すべてが輝いている世界にいたのです。

そのとき、「自分自身の問題はすべて片付いた。今後は生活のなかで自分の生き方を深めていけばよいのだ。これからは、他のためにだけ生きていこう」と思いました。

本当は、他というものもなく、すべてが自分であるので、誰のためでもなく、自分自身のためなのです。

あの日から、いつのまにか、今日まで数十年が経ちました。もちろん、いろいろな状況はあるのですが、お陰様で、日々本当に楽しく生きてきました。

この存在の真実は、それまで当然であると思い込んでいたことが外れさえすれば、誰にも容易にわかることです。

たとえば、歳を取って、体が若かったときのようには働かないとしても、それは自分の使っている自動車が古くなって、新車のときのようには快調には動かなくなったということと同じことなのです。

クルマは古くなったとしても、それを使っている(運転している)自分自身が古くなったわけではありません。

もうひとつは、クルマが古くなったとしても、「それはそれ」という事実があるだけです。

その事実をアタマで自分勝手に、良いとか悪いとか思っているだけです。

古い車がかならずしも悪いということではありません。古い車にはそれなりの良さもあるのです。

ですから、古くなったクルマは、それを充分にいたわりながら大切に使ってゆけばいいだけのことです。

そのようにして、終いにクルマがまったく動かなくなっても、「それはそれ」だけのことです。

自分はなにも変わりません。

自分はどこにも行きません。



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いのち

いのち

人 山を見 山 人を見る。

これは恩師和田重正先生のお言葉です。

僕はいつもこの言葉ほどこの世界を明快に、そして、美しく表現した言葉はないと思っています。

この言葉に付け加える言葉は僕にはありません。

僕はこの静かな山の中に生活しながら、折に触れてこの言葉を口ずさんでいます。

ここに、蛇足であるとは思うのですが、僕なりにこの言葉から感じるものを書いてみたいと思います。

それは、見ているものも見られているものもひとつの同じ“いのち”であるということです。


私たちは“いのち”の世界に生きています。

“いのち”が“いのち”を見ている。それがこの世界の実相なのです。

僕がまだ若かったときには、自分というものはこの大宇宙のなかにあってケシつぶのように小さな存在であると思っていました。

僕は20歳の時に、僕の人生というのは100億年以上の宇宙の歴史のなかでたった一度きりしかないのだということに思いいたり、それこそ愕然としてしまいました。

それだけに、このたった一度きりの人生を最高・最善に生きたいと思い、それをそれこそ命がけで求めはじめました。

けれども、たった一度きりの人生、しかも、たとえ100歳まで生きたとしても、宇宙の歴史から見れば、あっという間のはかない生涯であるということを思ったときに、こころの底からむなしさと寂しさを感じざるをえませんでした。

それだけに、このむなしさと寂しさから抜け出ようとして、もがけばもがくほど、真っ暗な底なし沼に飲み込まれていくようで、いま思い出してもなんともたまらない感じがするほどです。

それはまさに絶望そのものでした。その状態は6年間も続いたのですが、最後にとうとう力が尽きて、もはやもがく気力もうせてしまいました。。

ところが、もがく気力もなくなって、すべての力が抜けてしまったときに、気がつくと、なんと底なし沼から脱して“いのち”の世界にいる自分を発見したのです。

気がついてみると、もともと最初から底なし沼などなくて、それは、ただの幻想にすぎなかったのです。

自分は最初からずっと“いのち”の世界にいたのです。

それに気がつかなかったのは、たったひとつの思い込みによるものでした。

それは、自分と他は別々でバラバラだという思い込みです。

出発点そのものが間違っていたのです。

真実は、すべてがひとつだったのです。

ですから、自分が“いのち”の世界に存在するという言い方も間違いです。

自分が“いのち”そのものだったのです。

そして、この世界のすべてが“いのち”そのものだったのです。

この世界の個々の存在の生死や変化をもたらしているものが“いのち”であり、その“いのち”そのものには生死もありません。

この不生不滅の“いのち”こそ自己の本質です。

別の言い方をすれば、自分のなかに宇宙のすべてが存在しているのです。



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あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

新年を迎え、僕はあらためてこの言葉の素晴らしさをかみしめています。

僕が知るかぎり、英語などのヨーロッパの言語では、たとえば、ハッピー・ニューイヤー、つまり、「新しい年が幸せな年でありますように!」と人々は言うようです。

でも、日本人が「あけましておめでとうございます」というときに、ほとんどの人は意識してはいないかもしれませんが、存在の真実を実に明快に言葉にしているのです。

そうです。「永遠のいまここ」において、一瞬一瞬「いまここ」が開いています。

「いまここ」はつねに新しくまっさらなのです。

ですから、ただただ「あけましておめでとうございます」ということばが自然に出てくるのです。

事実の世界では、毎朝、日が昇るとき、いつも「あけましておめでとうございます」の世界があるだけです。

いや、一瞬一瞬がまっさらで、それだけでおめでたいのです。


いつのまにか、いつものように理屈っぽくなってしまいました。


僕が言いたいのは、要するに、まっさらな「いまここ」しかないということです。




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