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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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幸せであること

幸せであること

「人はいつも幸せを求めている」とよく言われます。

この言葉に「そう言えば、自分もそうだなあ」とうなづかれる方も多いのではないでしょうか。

「自分は幸せを求めている。だから、自分も日々頑張って生きているのだ。」というわけです。

でも、ちょっと待ってください。

では、あなたはいつになったら幸せになれるというのですか? 

あなたが望むものを手に入れることができたときでしょうか?

もしそうだとすると、それが手に入るまでは、あなたは不幸せだということですね。

では、あなたが望むものが手に入ったとしましょう。

でも、その状況はこれから先もずっとそのまま続くでしょうか? 

続くとは誰にも言い切れませんね。

ということは、その状況がいつ変わってしまうかという不安をいつも抱えているということで、それはけっして幸せとは言えませんね。

また、本当に状況が変わってしまったら、あなたは本当に不幸せだということになります。

いや、だから、そんなことにならないように日々頑張って生きていくしかないということなのでしょうか?

いつ手に入るか分からないものを求めて、また、仮に、それが手に入ったとしても、それをいつ失うかもしれないという不安や恐れを抱きながら生きていく姿は、果たして、幸せであると言えるでしょうか?

けっして「幸せ」とは言えません。ただ、「幸せ」という幻を追いかけているだけではないでしょうか。

でも、多くの人がこのように滑稽でばかばかしい錯覚に陥り、実に、むなしい人生を生きているように僕には思えるのです。

「ばかばかしい」と言っても、人を馬鹿にしているわけではありません。かつての自分自身がまさにそのように「ばかばかしい」生き方をしていたなあと思うからなのです。

いずれにしても、こんなものは「本当の幸せ」ではありません。

では、本当の幸せって、何でしょうか?

その前に大切なことがあります。

それは、「幸せになりたい」ということは「いま、自分は幸せでない」ということです。

ですから、幸せを求めれば求めるほど、「自分は幸せでない。幸せでない」と認め続けているというです。

簡単に言えば、「いま自分は幸せでない」と思うからこそ、「幸せになりたい」と思い、幸せを求めようとするのです。

結論的に言いましょう。

“幸せになりたい”と願うことより“幸せである“ことのほうが簡単です。

ほんの少しだけ詳しく言いましょう。

“幸せになりたい”と願って頑張ることよりも、“いま、このままで、すでに幸せである”というほうが簡単です。

これが「本当にそうだな」とわかったら、あなたは一瞬にして本当に幸せになれます。

要するに、状況は自分ではないのです。

状況は自分が主人公として生きている(あるいは、演じている)舞台に過ぎません。

だから、自分はけっして状況によって変わるものではありません。

つまり、

ありのままの自分=真実の幸福 であり、

“幸福”は“自分”の別名です。



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目に見えないもの

目に見えないもの

『星の王子さま』のなかで、王子さまは次のように言っています。

「こうして目の前に見ているのは、人間の外がわだけだ。一ばんたいせつなものは、目に見えないのだ。」

僕にとっては、『星の王子さま』のなかで、この言葉がもっとも印象的です。

著者のサンテクジュペリがこの言葉で何を言いたかったのかは、僕には推測するしかありません。

でも、僕もいつもこの言葉のように思っているのは事実です。

では、「自分」というもので、見えないものとは何なのでしょうか?

目に見えないものはたくさんあります。たとえば、思い、気分、感情、知識なども含めて、「こころ」という言葉はいろいろな意味で使われていますが、たしかに「こころ」と呼ばれるものも目には見えません。

その他にもまだまだ目に見えないものがありそうですね。

そして、その中でも、僕が一番大切だと思うのは“いのち”です。

誰でも生きているのですから、“いのち”がないとは言えませんね。

誰でも“いのち”があるから生きているのです。

“いのち”というのは「自己の本質」、あるいは、「自己の本体」と言ってもよいと思います。

でも、「自分の“いのち”はこの体の中にある」とか、「この体とこころが自分の“いのち”」だと思い込んでいるようです。

“いのち”という言葉を「自分」と置き換えてみれば分かります。

「自分というのはこの体の中にいる」、あるいは、「この体とこころが自分なのだ」とほとんどの人が考えています。

真実は、“いのち”は見えないので、ほとんどの人が目に見えるものだけを頼りにしていることによる「思い込み」なのです。

これは健全な常識を使えばすぐに分かることです。

たとえば、この体を構成しているすべてのものは、何一つ自分で作りだしたものではありません。

この体はすべて体の外から食べ物や水、空気などとして取り入れたもので作られています。

そして、それらの食べ物や水、空気などは、その前はどこにあったのか、そして、さらにその前は? その前は?と考えてみれば、この地球全体のすべての存在、さらには、宇宙全体にまで広がっていきます。

でも、それらのものを体に取り入れることができることこそ自分の能力ではないのか?という人もいるでしょう。

では、その能力を「自分」だけで作ったといえますか? 言えませんね。

その能力も両親から受け継いだものです。そして、両親はその両親から、その両親は・・・。

これも追求していくと、地球全体、宇宙全体にまで広がっていきます。

こころはどうでしょうか? もうこれ以上考えることもなく、これも結局は同じことだと分かるのではないでしょうか。

要するに、真実は、「自分」というようなコロッとした“かたまり”はないのです。

ただ、「自分」と感じる仕組みがあるだけで、あるのは、目に見えない「宇宙一杯の“いのち”」だけなのです。

私たちはひとつの同じ“いのち”を生きています。

すべての存在が「自分」なのです。



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次元を超える発想-1

次元を超える発想-1

私たちの社会には様々な深刻な“問題”があります。

その内、現在最も深刻な問題は何と言っても原発問題だと思います。

『今後原発をどうするのか?』ということは、日本だけでなく、世界の人々にとって、その将来を決定的に左右する課題です。

なぜなら、将来、ふたたび大きな事故が起これば、日本だけでなく、世界中の多くの人々が甚大な被害を受ける可能性があるからです。

その他にも、日本に直接関係のある“問題”として、エネルギー問題、地球規模の環境問題、領土や資源などをめぐる紛争や戦争(しかも、核戦争)の可能性、憲法改正問題、経済問題、教育問題などなど、私たちの社会は解決の目途さえ立っていない“問題”だらけです。

歴史を見ても、いつの時代においても人類の社会はいくつもの深刻な“問題”で人びとは苦しんできました。

この間、それぞれの問題が部分的に解決されるということはあったかもしれませんが、その流れは根本的に変わることなく、その深刻さの度合いは時代を経るごとに増大してきました。

このままでは、いずれ将来臨界点を突破し、決定的な破滅に至るのではないかと懸念されます。

でも、こんなことを言っても、ほとんど誰もが無関心です。

その要因を僕なりに分析すると、

1 私たちが事態の深刻さをよく知らないこと。つまり、無知。
2 私たちが社会的なことに対して無関心であること。つまり、他人事。
3 私たちが事態の解決は不可能だと思っていること。つまり、あきらめ。

この3つの要素が重なって、今日までこれらの深刻な“問題”の解決への道が開かれてこなかったのだと思うのです。

しかし、これら3つの要因に加えて、もう一つの要因があると思うのです。

それは、

4 私たちがこれまでこれらの“問題”の根本原因とそれを解決する的確な方法の“原理”を知らなかったことです。

もし、私たちが諸問題の根本原因をしっかり把握し、それを根本的に解決する的確な方法の“原理”を知ることができれば、上記の3つの要素も改善され、ある的確な方法と相まって、諸問題の根本的解決に確実に向かうだろうと僕は思います。

ここで僕は「根本的に解決する的確な方法の“原理”」という表現を使いました。

この“原理”とは、「対立や抗争など諸問題の起こったのと同じ平面でどんなに努力しても、根本的にそれらの諸問題を解決することはできない」ということです。

つまり、それは自分の坐っている座布団を持ち上げて埃を払おうとするようなものだからです。

現代の深刻な諸問題は過去から現在に至るまでのもろもろの因果関係によって生じています。

ですから、その因果が働く平面を他の平面で切ることによってしかそれらの問題を根本的に解決することはできないのです。

つまり、これまでの次元を超えた発想が必要なのです。

これが根本解決の方法の“原理”です。

そして、それが私たちの提案する「みんなで国に理想を」の“カギ”なのです。



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人の気持ちを受け止める

人の気持ちを受け止める

世の中には、一見、それなりに幸せそうにしていながら、実は、親、子ども、兄弟、夫婦間など、家族の誰かとの間に問題を抱え、長い間ずっと苦しんでいるという方々がとても多いように思います。

家族だけでなく、友人関係、あるいは、仕事の同僚や上司や部下、隣人など、人間関係に苦しんでいる方も本当に多いようです。

そういう中でも、家族との間の苦しみは、もっとも親しい、切っても切れない密接な間柄であるだけに本当に苦しいものです。

日常的には、なるべく気にしないようにして暮らしているのですが、その苦しみはずっとこころのそこにあって、本当にすっきりした気分で生きているわけではありません。

そして、何かの折には否応なくその事実に直面して、そのたびに絶望感を抱かざるをえないのです。

多くの方がこの問題は結局解決はできないのだとして、あきらめて生きているのではないでしょうか。

これは本当に惜しい生き方です。

そう一番思っているのは、実は、本人なのですから、考えれば考えるほど苦しくなってきます。

では、解決の道はないのでしょうか?

これまでも、自分なりに努力は精一杯してきたつもりだ。それでも、どうにもならないのだからと言われるかもしれませんね。

自分自身の経験から、僕にはそのお気持ちはよく分かるつもりです。

でも、いや、それだからこそ、よく考えてほしいのです。

あなたはその問題を相手の人のせいにしていませんか?

相手の人が何か自分の望まないことを言ったりした場合に、すぐに「変なことを言っている。それは間違っている」として、相手の人を裁いて、相手の人の言うことを拒絶してきませんでしたか?

あなたは相手の人が言う言葉の真意をどこまでも汲み取ろうとしないで、すぐに、「相手はこんな意味で言っているのだ」と決め付けてはいませんでしたか?

相手の話をどこまでも聞こうとしないで、自分の言いたいことを先に言ったり、あるいは、口にしないでも、言いたいと思ってはいませんでしたか?

相手の話をよくよく聞いてみて、相手が本当に理不尽なことを言っている場合に、それだけで相手を非難して裁いてはいませんでしたか?

そのような理不尽なことを言わざるをえない相手の気持ちを受け止めようとしましたか?

人間関係上のトラブルはほとんどの場合、どちらか一方だけで作られたわけではありません。相手と自分の二人で作りだしたものです。

トラブルの種は一方的に相手の人のせいというわけではなにのです。

あなたは、理屈でどちらが正しいなどと裁くのではなく、本当に相手のそう言いたい気持ちを心から受け止めようしてきましたか?

思い当たる方は、自分が相手の気持ちをこころから受け止めようとしないで、いつも拒絶してきたことに対して、どちらが正しいのかなどという理屈を超えて、できるだけ早い機会に、こころから相手に詫びることができますか?

これからももっとも親しい方とのトラブルをいつまでも引きずって生きたいですか?



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おとな?こども?

おとな? こども?

「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」

これは童話『星の王子さま』の最初のページに著者のサン・テクジュペリが書いている言葉です。

王子さまは自分の星を離れいろいろな星を訪ねます。そこでおとなの人に会ったあと、ふたたび旅に出ます。

そのたびに、王子さまは思わず次のようにつぶやくのです。

「おとなって、ほんとに変なの!」

『星の王子さま』で著者が伝えたいメッセージのすべてがこの言葉に込められているように僕は思うのです。

でも、一体、サン・テクジュペリは私たちに何を伝えたかったのでしょう?

その真意をあえて僕なりに言えば、「本当は、みんな、いまでも子どもなんだよ」ということです。

だれでも、はじめは子どもでした。けれども、育っていく過程で気がつかないうちに、いろいろな観念を身につけていきます。

そして、それらの観念こそ真実だと思い込んでしまうのです。それらの観念の集積が「おとなのこころ」と呼ばれるものです。

そういうわけで、「おとな」は子どもだったことを忘れたわけでなないのですが、いつの間にか、こどもだったときのこころを忘れてしまっています。

思い出したりしても、そんなものは幼稚で、価値がないと切り捨ててしまうのです。

そして、そうすることこそ、自分が成長した証(あかし)なのだと思っています。

ところが、「本当はどうか?」と存在の真実を検べれば検べるほど、いわゆる「おとなの常識」というものの多くが間違っているということがわかってきます。

ということは、著者は、おとなになって、「こどものこころ」はどこかに消えてなくなってしまったので、「こどものこころを思い出さなければならない」と言っているのでしょうか?

そういうふうに読み取れなくもありません。でも、僕自身の体験から言えば、おとなになっても、「こどものこころ」は消えたりしません。

「こどものこころ」はずっと変わらずに厳然として存在し続けています。

ただ、いわゆる「おとなのこころ」がその表面を雲のように覆っているので、「こどものこころ」の存在に気がつかないだけなのです。

本当は、もともと、そしてずっと「こどものこころ」だけが実在なのです。

というのは、本当は「おとなのこころ」アタマが作り出した妄想に過ぎないからです。

そのことに気がつきさえすれば、アタマが作り出した「おとなのこころ」は幻のように一瞬のうちに消えてしまうでしょう。

イエス・キリストは「こころが幼子のようでなければ、天の国に入ることはできない」と言われました。

また、江戸初期の禅僧盤珪禅師は「親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明なものでござって、不生で一切のことが調いまする。」と言われました。

あなたはおとな? それとも、こども?


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たったひとつの花

たったひとつの花

皆さんは『星の王子さま』という童話を読んだことがありますか?

この童話はフランスのサン・テクジュペリという人によって書かれました。

僕はこの童話が好きで折に触れて繰り返し読んでいます。

星の王子さまは一軒の小さな家ほどの大きさの星にひとりで住んでいました。

ある日、王子さまは見たことのない可愛い小さな花が一本咲いているのに気がつきました。

王子さまは毎日水をやったり、風を防ぐネットを立ててやったりして、この花の世話をしました。

そうしているうちに、この花は成長してますますきれいになりました。それで王子さまはこの花をますます好きになってしまいました。

この花も本当は王子さまのことが好きで好きでたまらないのですが、それを素直に表現することができません。

そういうことから、王子さまとこの花はお互いの気持ちを上手に伝え合うことができずに、結局、王子さまは自分の小さな星を離れたのです。

王子さまはいくつかの星を訪ねたあとに地球にたどり着き、誰もいない砂漠の真ん中で、もう一人の主人公であるパイロットの「私」に出会い、ふたりは心を通わせるようになります。

そのなかで、王子さまは私に「ヒツジは花を食べるの?」と何回も尋ねます。

私はだんだん面倒になって「そんなことはどうでもいいんだよ!」と答えてしまい、二人の間になんとなく気まずい雰囲気が生じます。

そんなある時、王子さまが星空を見上げながら、ふと、私に次のように言うのです。

岩波初年少女文庫から出ている内藤濯さん訳の『星の王子さま』から引用します。

「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。そして、<ぼくのすきな花が、どこかにある>と思っているんだ。それで、ヒツジが花をくうのは、その人の星という星が、とつぜん消えてなくなるようなものなんだけど、それもきみは、たいしたことじゃないっていうんだ」

そうです。これ以上解説の必要もないと思います。理屈もいらないのですが・・・。

それぞれのたったひとつのいのちの存在はどんなに言葉を尽くしても言い表せないほど「かけがえのないもの」であり、全宇宙に匹敵するのです。

僕の家には目の見えないチビというネコがいます。もし,チビが消えてしまったら、それは全宇宙が消えるということと同じです。

これは僕の気持ちを言っているだけではないのです。事実がそうだと言っているのです。

そうです。すべてのなかにひとつひとつの存在があり、同時に、そのひとつの存在がそのなかにすべてを含んでいるのです。

存在の真実は私たちの限界のある五感やアタマでは捉えきれるものではなく、また、それを言葉で的確に表現できません。

それでこのような言い方になってしまうのですが、この限界に気がつくことが存在の真実を知る第一歩であると言ってもよいでしょう。



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