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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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その後のチビ

その後のチビ

我が家の目の見えないネコ、“チビ”はその後順調に成長し、4月8日で3歳になります。お陰様でとても元気です。

チビは外には出しませんが、目がまったく見えないのに、3階建の家の中をスイスイと動き回っています。どうやら自分がいま家のどの部屋のどこにいるのかをほとんど完璧に把握しているようです。

また、いま自分の周りに誰と誰がどの辺にいるかもわかっています。

たとえば、我が家の居間はかなり広くて、そこにテーブルやイスなどいろいろなものが置いてあります。でも、チビはぶつかりもせず、自由に歩いたり走ったりしています。

また、部屋の中にあるイスや箱に前もって触れもしないでパッと飛び乗るのです。まさに、自分がどこにいて、周りに何があるか完璧に把握しています。

階段を上るのも大好きです。一度に3段から4段も飛び上り、あっという間に階段の上に達します。

かなり離れたところにあるエサ場も、トイレの場所も分かっていますので、まったく手がかかりません。

チビは普段は主に居間にいるのですが、夜遅く居間に誰もいなくなると、ソファーの上で、掛けてあるソファーカバーを上手に体に巻いて、それに包まって朝まで寝ています。

居間から出たい時はドアのところに行って、その前で「ニャー、ニャー」と鳴きます。誰もドアを開けてやらないと、もうひとつのドアの前に行って「ニャー、ニャー」と鳴きます。

それでもドアを開けてやらないと、精一杯背伸びしてドアノブに触ろうとします。でも、まだ自分では回せません。

それにしても、ドアノブを回すとドアが開くということをどうしてチビは知ったのでしょうか。

ドアを開けてやると、チビは喜び勇んで居間から出て、まず2階に通じる怪談を駆け上るのです。

チビはどの部屋に誰がいるかも分かっています。フラフラあちこちの部屋を訪れるのですが、時々その部屋に人がいる場合は招待されて、その部屋の中で散策したり寝たりしています。

一通り回った後は1階の居間の前に来て、ニャー、ニャーと鳴きます。そこでドアを開けてやると、“当然“という感じで中に入ってきます。

要するに、チビは目が見えないけれども、まだ外には出せませんが、その他のことではまったく不自由はないのです。

聴覚と臭覚が予想以上に発達しているようです。何よりも記憶力の凄さです。

どうやら、一度行ったところ、一度触ったものはほぼ完璧に記憶しているようです。

たとえば、居間から家のあるところまでだっこして連れて行っても、そこがどこだか分かっています。

こうして、チビを見ているとネコの持っている生きる能力の凄さにあらためて驚嘆します。

ということは、他の動物でもそうなのだと思います。そして、きっと私たち人間もひとり一人本来はそうなのだと思います。

すべての動物、そして、植物が長い長い進化の過程で“生き残り”のために、このように高度な能力を獲得してきたのでしょう。

私たちひとり一人は本当はとてつもない能力を備えているのだということをもう一度考えてみたいものです。


さて、明日からスペインに行ってきます。バルセローナの近くで自覚のセミナーと瞑想のセミナーをやるためです。その間はブログは休みます。よろしく。


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夢のボタン

夢のボタン

これまでに現代社会の行き詰まりを根本的に解決し、真の世界平和を実現するために、どのようにしたらよいかということについて、いろいろと書いてきました。

僕の提案をまとめると次のようになります。。

「国家エゴイズムの対立する国際社会のなかで、日本が他の国々に先駆けて国家エゴイズムを放棄して、ノンエゴイズム国家、具体的には、国際環境平和国家を実現しようという理想をみんなで国に掲げよう。」

要するに、「ノンエゴ国家を実現しよう。そのために、まず、「みんなで国に理想を掲げよう」という提案です。

僕はこの提案を“夢のボタン”とか“魔法のボタン”と呼んでいます。

この提案が現在の社会的勢力や状況と直接的には無関係であるからこそ、現実社会のなかでエゴ重視の人であっても生命重視の人であっても真の平和を願う人は誰でも希望を持ってこの“夢のボタン”を押すことができるのです。

いまの政治を直接どうこうしようという話ではなく、自分の素直な内心の声に従って、将来の日本の姿としてノンエゴ国家実現が望ましいと思えば、だれでも簡単にボタンを押すことができるはずです。

この“夢のボタン”を押す人が増えるにつれて、しだいに個人や社会の状況が対立や摩擦もなく“自然に”そして、“自動的に”みんながこころから願う方向に変化していくでしょう。

そして、日本でのこれまでとはまったく次元を超えた新たな動きが大きくなるにつれて、世界の国々の多くのこころある方々は直感的に自分たちが目指すべき方向が何であるかを自覚し始めるでしょう。

そうなれば、この新しい流れはますます大きくなり、やがて、国家エゴイズムは過去のものとなり、ひとり一人が真に幸福で、真に平和な輝かしい世界が展開するでしょう。

真の平和世界実現に向けて、あなたが当面やるべきことは、まず、自分の素直な内心の声を確かめてこの“夢のボタン”を押すこと。そして、この“夢のボタン”のことをまわりのできるだけ多くの方々に伝えるというだけです。

真実の平和を実現するのは本当はこんなにも簡単なことなのです。

真の平和な世界を実現するカギはまさに私たちひとり一人のてのなかにあったのです。


さて、ここまで読んで、「これは現実論ではなく、理想論だ」と思われる方もあるでしょう。

でも、「本当の理想論だからこそ本当の意味で現実論である」のです。

また、平和は祈ることによって実現するという考え方があります。けれども、抽象的、あるいは、観念的に平和を祈るだけでは不充分です。

それは真の平和というのは状態ではなく、自らの具体的な行動によって創造するものだからです。

ぜひ、僕が書いた『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』を読んでください。そうすれば、あなたもこの考えに深く共鳴していただけると思います。

また、ネットで「国の理想ネットワーク」と「自覚と平和」を検索して覗いてみてください。


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次元を超える発想―5

次元を超える発想―5

本当の平和を実現するうえでもっとも大切なことは「“エゴ平面”の上では、どんなに平和を願って行動しても本当の平和を実現することはできない」ということを知ることです。

それは平和を願ってどんなに努力をしても、その願いも努力も結局はこれまでの平面の本質である“エゴ”に吸収されてしまうからです。

平和的な話し合いによって問題を解決しようとしても、結局は、この“エゴ平面”の上では駆け引きになったり妥協するということになって問題の根本的解決に至りません。

ですから、「ノンエゴ国家を実現しよう」という考えも現在の“エゴ平面”上で現在のエゴ重視勢力に対抗し、生命重視勢力と協力しながら実現しようということではありません。

この“エゴ平面”の上で何かをしようということではなく、“エゴ平面”上のいろいろな勢力のぶつかり合いとはまったく無関係に次元を超えた動きを創っていこうというのです。

それが「国に理想を掲げよう」と言う意味です。現在の勢力や状況とはまったく無関係に、この“エゴ平面”の上方に向かって「ノンエゴ国家を実現しよう」というアドバルーンを打ち上げようというのです。

平和はただ願うものでも祈るものでもなく、守るものでもなく勝ち取るものでもありません。平和は創り出すものなのです。

もうひとつのポイントは本当の平和は相手や周りに何かを要求することによっては実現できないということです。まず自らが率先して平和的に行動するということでなければなりません。

この世界では今日までそれぞれの国はこの“エゴ平面”の上で、“自国の存続と繁栄”こそがもっとも重要である、つまり、簡単に言えば、「自分の国さえよければよい」という“国家エゴイズム”を当然のこととしてきました。

現在に至るまで国際社会は国家エゴイズムの対立による恐怖体制の中にあります。

それぞれの国は国家エゴイズムという国の基本方針のもとに、政治、経済、産業、科学技術、教育、医療、福祉などの制度を作り、国民はそのなかで生活を営んできたのです。

それは個人的にも社会的にもいろいろな軋みや混乱として現われきましたが、原発事故や核戦争の危機、地球環境問題など、人類社会は国家エゴイズムの対立の中ではもはや自滅しかねないというところまで行き詰っているのです。

そこで僕が提案しているのは、「まず日本が自ら率先して国家エゴイズムを放棄して“国際環境平和国家”を実現しようという理想をかかげましょう」ということなのです。

この提案に賛同するには自分がまず悟ってエゴを解消しなければならないということではありません。

自分にエゴ的な部分があっても、ノンエゴ国家実現への機運が高まるにつれ、ひとり一人のエゴもノンエゴへとアセンション(意識次元の上昇)していくでしょう。



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次元を超える発想―4

次元を超える発想―4

現代社会の深刻な諸問題が起きているその平面、あるいは、次元というものの本質は何なのでしょうか?

簡単に言えば、バラバラ観に基づくエゴとエゴのぶつかり合いです。

人類の歴史が始まって以来現代に至るまで、社会の形態は次代によって様々に変わってきましたが、その本質はまったく変わっていません。

現代の諸問題の深刻さの度合いは、このままバラバラ観に基づくエゴとエゴのぶつかり合いを続けていけば人類の存続そのものさえも危ぶまれるということを示しています。

前に「現代の日本社会の基本構図はエゴ重視勢力と生命重視勢力の綱引き、あるいは、抗争状態である」と言ったのと少し違うのではないかと言われる方もあるでしょう。

でも、僕が言いたいのは、エゴ重視勢力はもちろん、生命重視勢力もほとんどの方がバラバラ観を本質にしているということでは同じだということです。(もちろん、中にはそうではないという方もいらっしゃることでしょう。)

バラバラ観というのは、ひとり一人が分離し、究極的には利害を異にする存在であるということです。

そして、多くの場合、自分の生命や利益を守るためには、それを脅かす他の存在をやっつけることも辞さない、あるいは、やむをえないと考えています。

もちろん、この世界はエゴだけで成り立っているわけではありません。

私たちの本質は(みんなひとつの同じ“いのち”を生きているという)不可分一体の存在ですから、私たちにはすべての存在を慈しむこころとそれに基づき行動するという共生本能が備わっています。

実は、このエゴとエゴがぶつかり合う世知辛い社会が今日まで何とか保たれてきたのは共生本能による慈しみのこころと行動のおかげだと思います。

けれども、現実的には、時代を経るにつれてエゴとエゴの対立はその度合いと規模がますます大きくなってき、今ほとんどその限界に達しようとしています。

人類が歴史上かつてない危機を超えて、すべての人間にとって調和と安定した新しい時代を切り開くためには、どうしても、このエゴとエゴの対立を本質とする“エゴ平面”を別の“平面”で切るしか方策はないと思うのです。

では、別の“平面”とは何でしょうか?

それは私たちの存在の真実である“不可分一体”を本質とするものでなければなりません。

そのためには、もちろん、できるだけ多くの方々がひとり一人“不可分一体”という存在の真実に目覚めるように促す働きかけがとても重要です。

僕は、それと同時に社会的に具体的な方策と行動が必要だと思います。

けれども、例えば、原発推進と原発撤廃で綱引きをしている“エゴ平面”で何かをするということではありません。

その“エゴ平面”とはまったく別の“ノンエゴ平面”を創ろうというのです。

その具体的な方策として、これまでのエゴ国家を脱するために、「国に“ノンエゴ国家”を実現しようという理想を掲げよう」というのです。


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神様のいたずらゲームー2

神様のいたずらゲームー2

神様は新たに“特別なソフト”を付け加えるとともに、そのソフト専用のコンピューターを増設しました。

この新たなコンピューターとソフトの機能は五感と過去のデータとに基づいて認識・判断することができます。つまり、神様はロボットがそれ自身で“思考”できるようにしたのです。

この新しい機能によって、ロボットたちは物事を分析的したり、過去のデータを組み合わせて思考することによって、いろいろな便利な道具を創りだすことができるようになりました。その過程で科学技術文明がどんどん発達していきます。

ところが、自分で思考できるという能力はロボットにとんでもない錯覚を二つもたらしたのです。

その一つは、ロボット自身がロボットを動かしている、あるいは、操作している、つまり、ロボット自身がロボットを生きている、あるいは、生かしている主体であるという錯覚です。

そこから、もう一つの錯覚が生まれました。

それは、この新しいコンピューターが五感に頼り、同時に、それを分析的にしか判断できないために、いま働いているAというロボットとB、C、D・・・のロボット、そして、まわりのいろいろな存在とはみんなバラバラの存在だという錯覚です。

つまり、「自分がいて、他がいる」、つまり、自他バラバラという錯覚です。

ほとんどのロボットたちは自他バラバラ観を絶対の真理と信じ込んでいます。

そして、そこからロボットたちのすべての苦しみが生じてきます。

でも、それが神様のねらいだったのです。というのは、

そういう苦しみの中で、ロボットたちの中から、「この苦しみの根本原因は何だろう? このように苦しんでいる“自分”って本当は何なのだろう?」と考えるものが出てきたのです。

そして、その中から“自分”の正体に気がつくものが少しずつ出てきて、その後どんどん増えてきたのです。

では、ロボットたちが気がついた“自分”の正体とは何なのでしょうか?

あなたにはもうお分かりですね。

そもそも、それまで考えていた“自分”なんて存在していなかったのです。

ロボットが“自分”ではなく、それを創り、それに生命エネルギーを供給し、それを生かし、操作していたもの、つまり、神様こそが“自分“だったのです。

“神様”という言葉に抵抗があれば、“いのち”でも“空”でも“大いなる創造者”でも何でもいいでしょう。

ロボットの体やコンピューターの中にいるのが“自分”だと思う思い込みが溶けたときに、ロボットははじめて存在の真実に気づくことができたのです。

そして、AというロボットもB、C、D、・・・のロボットも、まわりのすべての存在も、いずれも他から分離した主体的存在ではなく、唯一の主体的存在である“神様”そのものであることがわかったのです。


ころっとした固まりの自分なんていません。

自分はすべてです。

別の言い方をすれば、この世界にはたった一つの“いのち”があるだけです。


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神様のいたずらゲーム-1

神様のいたずらゲーム-1


神様はずっと退屈していました。

それは、神様が時間も空間もなく何もなく、名前も姿かたちもなく、ただ“意識”だけであったからです。

神様は自分自身が何ものであるかさえも自分では知ることができなかったのです。

神様はどうしても「自分は何者であるのか」を知りたくなりました。

ある時(時間もないのに変な表現ですが)、神様はすばらしいことを思いつきました。

自分の分身をたくさん作って、その分身たちが神様そのものであることに気づくようにすればよいと思ったのです。

でも、分身を作っても、その分身たちが最初からすぐに「自分は神様であった」ということに気づくのでは不充分である。

分身たちが存在の真実にはっきり気づくためには、いったん「自分は神様なんかではない。ちっぽけでつまらない孤独な存在なのだ」と思い込まなければならない。

その思い込みのために、分身たちは多かれ少なかれ苦しむだろう。

でも、その苦しみによってこそはじめて「本当の自分とは何なのか」という存在の真実を求める気持ちが出てくるのだ。

このように神様は考えてこの現象界を創造したのです。

神様は“意識“なのですが、実は、その意識というのは万能の力そのものでもあるのです。

この現象界というのは、まさに私たちが見ているこの世界のことです。

神様はこの現象界に無数の存在を創造しました。この現象界は私たちの五感と大脳で捉えるとそれぞれの存在がバラバラに感じられます。

でも、そのすべての存在はもともとひとつのものであり、それぞれが循環・調和した世界を形成しています。

神様はそのすべてを慈しんでいるのですが、そのなかでも神様がもっとも期待を持って創りだしたのが人間です。

いまそれぞれの人間をロボットに例えてみましょう。

神様は少しずつ姿かたちが違うロボットを創りました。

このロボットは体を構成する材料やそれを動かすエネルギー源も自動的にこの現象界から食べ物や酸素として取り組むことができるようになっています。

そして、体の老朽化した構成物質は体外に排出されて、大自然に戻り循環して他の存在の構成物質になったりします。要するに、この現象界のすべての存在はひとつのものだからです。

また、このロボットは手足を使ってある程度自由に動けるようになっています。

そして、外界を認識できるように視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚という五感を備えています。

また、ロボットがその体を自動的に維持・成長させ、備わった機能を完全に働くように完璧と言ってよいほど高性能のコンピューターとソフトが備わっています。

このロボットがとくに際立って他の動物や植物と異なっているところは、神様がこのロボットが外界を認識し、それに基づいて独自に判断などができるように“特別なソフト”が組み込まれていることです。

この“特別なソフト”こそ神様がロボットに仕掛けた実に巧妙な“いたずら”であり、“仕掛け“なのです。



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次元を超える発想ー3

次元を超える発想―3

対立や抗争など諸問題の起こったのと同じ平面でどんなに努力しても、根本的にそれらの諸問題を解決することはできません。

それは自分の坐っている座布団を持ち上げて、そこに積もった埃(ほこり)を払うようなものだからです。

これは社会的な問題でも、家族間の問題や個人的な問題についてもまったく同じです。

同じ平面、あるいは、次元の中で押し合い、突っ張りあい、駆け引き、あるいは、妥協などによって、問題が根本的に解決するということはありません。

長い間どうにも埒(らち)が明かないと思っていた問題が、当事者のどちらか一方がそれまでの行きがかりを超えて、思わぬ行動に出ることによって、あたかも魔法であるかのように、もつれた糸がすっと解けて解決したというような体験をお持ちの方はきっと皆さんのなかにもいらっしゃるのではないでしょうか?

では、現代社会の深刻な諸問題が起きている、その平面、あるいは、次元というものの本質は何なのでしょうか?

それを検べる前に、現代社会を概観するとどのように見えるでしょうか?

それを見る角度によってそれぞれ別の姿が見えてくるでしょう。したがって、ここに書くのはあくまで僕なりのひとつの観方です。

たとえば、原発問題について見てみましょう。

大まかに見ると、その両端に、何が何でも原発を再稼動して推進していこうという勢力、あるいは、人たち(仮に、右勢力と呼びます)と何が何でも原発は即時停止・撤廃しようという勢力、あるいは、人たち(左の勢力)が存在しています。

そして、その左右の勢力の間に、右よりの人たち、真ん中にいる人たち、左よりの人たちがいます。

右勢力は、どちらかといえば、それによって、自分たちの利益や権力などを守ろうという人たちが多いようです。電力会社、関連企業、経済産業省、原子力に肯定的な大学研究者やマスコミなどの、いわゆる、原子力村はもちろん、大企業の利益を守ろうとする経団連や現在の政権担当政党、あるいは、それに近い政党などがその代表です。

右勢力のなかには、原発推進によって自分たちの利益や権力などを守ろういうだけでなく、本音かどうかはともかく、それが国益を守ることになると主張しています。

右よりの人たちは、原発は危険な面もあるが必要悪なのだ。とにかく右勢力についていくほうが自分たちの生活に有利になると考えているのでしょう。

一方の左勢力は、何よりも自分たちと生命を守るということを第一と考える人たちです。そのためにはどうしても超危険である原発は即時停止・撤廃すべきであると考えています。

左よりの人たちは、即時停止・撤廃でなくても、将来できるだけ早い時期に原発なしに安心して生活していきたいと考えているのでしょう。

これを、少々大雑把にまとめると、原発問題に象徴されるように、現代の日本社会の基本構図はエゴ重視勢力と生命重視勢力の綱引き、あるいは、抗争状態であると言えるのではないでしょうか。

では、このような構図はどこから生まれてきたのでしょうか? これをはっきりと見極めることが一番重要だと思います。



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次元を超える発想ー2

次元を超える発想―2

こんな場面を想像してみてください。

いま、あなたは大きな湖でひとりでボートに乗ってオールを漕いでいます。岸から遠く離れて湖の真ん中あたりまでやってきたところ、あなたはボートの底に穴が開いていて、そこから水がボートの中に湧き出てきていることに気がつきます。

あなたは泳げません。ボートの中を見回すと、何枚かの雑巾や小さなバケツなどがあります。

あなたはバケツで侵入した水を懸命にくみ出します。でも、ますます水が入ってきます。とうとう疲れて腕が動かなくなってしまいました。このままでは水が一杯になってボートは沈んでしまうでしょう。

そのとき、雑巾があなたの目に入りました。あなたはその雑巾を固く丸めてボートの底の穴に突っ込みました。そうしたら、穴がふさがって水の浸入が止まったのです。

その後あなたはバケツで水をくみ出して、オールを漕いで何とか無事に岸にたどり着くことができました。

では、この場合に、“問題を根本的に解決する”というのはどういうことなのでしょうか?

「穴を塞いで問題である水が入ってこないようにする」ということですね。

つぎに、こんな場面を想像してみてください。あなたはお酒が大好きです。夜はかならずベロベロになるまで飲みます。

ところが、最近どうも体調がよくないのです。そこで、あなたは禁酒を始めたのですが、お酒を飲みたくてしかたがありません。体に悪いから止めなければと自分に言いきかせるのですが、苦しくてどうしようもありません。

それでも、6ヶ月なんとか頑張ったのですが、ある日とうとうガマンできなくて「一杯だけ」のつもりでお酒を飲んだら、もう止まりません。次の日には昼間から飲んでいました。

では、この場合に、“問題を根本的に解決する”というのはどういうことでしょうか?

それは、「お酒を飲みたい」という気持ちが湧いてこなくなればいいということです。お酒を飲みたい気持ちが湧いてこなければ、お酒を飲まないでいることは簡単です。意志の力でガマンする必要もありません。

では、どうしたら「お酒を飲みたい」という気持ちが湧いてこないようにできるのでしょうか?

飲みすぎは健康に悪い、毎日飲み続けると大金を浪費することになるなど、お酒を飲まないほうがよいという理由はいくつもあります。でも、それは「飲んではいけない」理由であって、「飲みたい」理由ではありません。

お酒を飲みたいのは、お酒を飲むとリラックスできるとか、お酒を飲むと楽しい、お酒なしには人生は楽しくないなど、お酒にはなくてはならない大きなメリットがあると思い込んでいるからなのです。

でも、それはとんでもない錯覚です。真実は、お酒には大きなデメリットはあっても利点はひとつもありません。それが分かれば、お酒を飲みたいという気持ちは湧いてこないのです。

要するに、諸問題を根本的に解決するもうひとつの“原理“は、それらの問題がどこから生まれてくるのかということを明らかにするということなのです。




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人生はすべてゲームだ

人生はすべてゲームだ

事実はもともと思いとは違うものです。つまり、事実はただ事実として、ただ起っています。

ですから、事実そのものには、“よい”とか“まずい”というものはありません。つまり、事実そのものは、本来は、あらゆる価値判断を超えたものなのです。

ところで、自分とは何でしょうか? 真実は、自分は“いのち”です。

「自分にはいのちがある」ということでなく、「“いのち”がイコールそのまま自分」なのです。ですから、自分は生まれもしなかったし、死にもしないのです。

また、“いのち”はこの宇宙のすべてを生起させているので、「自分は宇宙だ。自分はすべてだ。自分は庭の柏の木だ」ということでもあります。

でも、ここでは、とりあえず、世間的な常識にしたがって、自分というのは「この体と心を持って今生きているこの人間」ということで話を進めて行きましょう。

イヤ、実際にそれで間違っているわけではありません。この体と心を持って、今生きているこの人間は“いのち”そのものであるのですから・・・。

さて、話を戻しましょう。

この自分はもともと思いとは違うものです。つまり、自分はただ自分として、ただ存在しています。

自分について思いで描いているものは自分そのものではありません。

ですから、自分そのものには、“よい”とか“まずい”、あるいは、“優れている“とか”劣っている“というものはありません。

つまり、自分そのものは、本来は、あらゆる価値判断を超えた存在なのです。

では、事実も自分も、本来、思いを超えたところに存在し、生起しているということになれば、事実や自分について何も思ってはいけないということでしょうか?

そうではありません。その逆です。私たちは事実や自分について何を思うことも自由なのです。

たとえば、この状況は「望ましくない」と思うこともできれば、「望ましい」と思うことも自由にできます。

「望ましくない」と思うのなら、状況を望ましいと思えるように改善するようにすればよいのです。あるいは、それをあきらめて、現状どおりでよいとすることもできるでしょう。

要するに、「こうでなければならない。こうあるべし」という思い込みによる観念を超えて、すべて自由に思い、行動すればよいのです。

そういう意味で、それは、もともと自分が自ら望んで作り上げたルールに基づいたゲームをやっているのだと言えるのではないでしょうか?

だとすれば、ゲームを苦しみながらやるのは馬鹿げていませんか?

自分というものについても同じです。自分はただ自分です。“よい”も“まずい”もありません。もともと、そのままで、存在としては完璧なのです。

だとすれば、何々ができないから「自分はダメだ」などと考えないで、楽しみながら、できるように、できるようにしていったらいいのではないでしょうか?

人生はすべて自分が望んだゲームなのです。


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