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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自覚した存在

自覚した存在

「個としての人間の進化」の次の進化の段階は“自覚した存在”、自分が不可分一体の“いのち”、つまり、愛そのものであることを自覚した存在の誕生です。

それこそが私たちの“いのち”が求めているもので、そのために、“いのち”はこの宇宙を生み出し、進化させてきたと言えるでしょう。

宇宙の進化は“自覚した存在”の誕生により最終段階に進むのですが、それで終りということではないと思われます。

自覚の深度は限りなく深く、自覚のレベルにもいろいろな段階があるからです。

いずれにしても、人類はこの最終段階に進むために、必然的に、いま大きな苦しみに直面していると言えるでしょう。

でも、いずれ近い将来、多くの方々が“本当の自分”に目覚めるようになるでしょう。それは新しい意識を持った“新人類”の誕生です。

それは特別の修行をしなくても、“いのち”の内的要請により進化の必然として自動的に起こるでしょう。

私たちはいま、かつてない歴史の段階に差し掛かっているのです。

ところで、個としての人間の思いや行いはどのようにして次の進化に繋がっているのでしょうか?

水中生活をしていた動物が陸上生活をするにいたる進化の過程を考えてみましょう。

ある1匹の水中動物が何かに促されて陸上に上がろうとします。でも、陸上は水中と違って紫外線が強く、また、すぐに乾燥して干からびて1時間ぐらいで死んでしまったのでしょう。

それからしばらくして、別の1匹が陸上に上がって3時間頑張って死んでいきました。

そして、また、別の1匹が半日、そして、次の1匹が3日、そして、1週間というように次第に陸上生活に適応していき、ついには、両生類のように、水中生活と陸上生活が半々の生物に進化していきました。

では、その進化の過程で陸上に上手く適応できずに、途中で死んでいった1匹1匹のデータはどうなっていったのでしょうか?

途中で死んでしまったのだから、そのデータが遺伝子を通じて次のものに伝わったはずはありません。

にもかかわらず、1匹1匹の決死の努力の成果であるそれぞれのデータが蓄積されることによって、しだいに陸上に適応できる生物が生まれたとしか考えられません。

進化の方向に沿った1匹1匹の行動のデータが“いのち”に保存、蓄積されて、そのデータバンクに他のものがアクセスしてデータを活用したのだと思うのです。

すべての生命体の主体は“いのち”ですから、当然、それぞれの行動や思いというデータは“いのち”そのものに保存されています。それをみんなで共用しているのです。

ということは、私たち人間ひとり一人が個として願うことや行うことは個としてその場かぎりのものでなく、人類全体、そして、宇宙全体に及んでいるということです。

そういう意味でも、私たちは大宇宙の中の小さな存在ではなく、個の存在は同時に人類全体、宇宙全体の大きさであるのです。

ですから、不可分一体の“いのち”、つまり、愛そのものの人として、安心してまごころを全開して、直接縁のある人も無い人も、すべての人を慈しみ、人類社会の平和を願い、全人類の幸せを祈りながら、日々生活し、積極的に行動すればよいのです。

そのように生きることこそ真の幸福なのです。



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個としての人間の進化

個としての人間の進化

人類は大脳が発達することにより、“個としての意識”を持つようになりました。

“個としての意識”というのは個としての人間がそれ自身主体的な存在であるという思いです。

そこから自分という存在と自分以外の存在という意識が生まれ、それは必然的にすべての存在はバラバラであるという意識(バラバラ観)に発展しました。

このバラバラ観から、何よりも大切なものは個としての“自分”であるという意識が生まれます。

つまり、エゴイズムであり、そこから、もろもろの個人的、そして、社会的な矛盾が生まれ、個人的、社会的、植物や動物を含んだ地球規模での苦しみと混乱が生じているのです。

そして、現代においては、その苦しみと混乱はほとんど頂点に達しています。

ところが、事実をつぶさに検べてみると、そこには“自分“という意識があるだけなのです。“自分”というコロッとしたカタマリがあるわけではないのです。

ただ、この体とこころに“自分”というラベルをつけて、それを他と切り離された“自分”と言っているだけにすぎません。

では、この体とこころの主体は何なのでしょうか?

それはこの体とこころを生み出し、それを通じて働いている“いのち”そのものなのです。

“いのち”が“自分”なのです。

生物、非生物を問わず、すべての存在がそれを生み出し、それを通じて働いている“いのち”そのものなのです。

たとえば、アリの群れを見てみましょう。

たしかに、アリは1匹1匹が単独に動いているのも事実ですが、全体の群れとして集団的に行動しています。

それはイワシなどの小魚の大群でも同じです。

哺乳類でも象や鹿の群れを見ていても、たしかに、個として動いてはいますが、やはり集団的に群れを成し、一緒に行動しています。

一般的に、動物の世界では個としての行動は全体の行動と調和して、全体が繁栄するようになっているのです。

ところが、私たち人間だけが大脳が(他の動物から見れば)異常に発達したために、個の意識が異常に強くなってバラバラ観を持つようになったというわけです。

これはとくに私たち人間にとってはとても都合の悪いことだと言えます。

けれども、このように不利な状況は“いのち”の内的要請により意図的に仕組まれて作り出されているのです。

人間は進化の過程を通じて外的な状況にはうまく適応することができるようになりました。その意味では、人間の肉体的な進化は一応終着点に達したといえるでしょう。

そこで次の進化の方向としては、人間が自ら内的な困難を作り出し、それによって個人的、そして、社会的にも大きな苦しみや混乱に直面するという状況に置かれた時、“いのち”の内的な要請により、集団として内的進化が起こるのだと思われます。

つまり、人間の苦しみは単なる苦しみであるのではなく、次の内的進化へのきっかけになるという大きな意味があるのです。


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人類の進化

人類の進化

人類の大脳は直立二足歩行と相まってますます発達して大きくなりました。

直立二足歩行によって手を自由に使うことができるようになり、道具を使うことによって大脳がどんどん発達したのです。

そして、大脳が発達することによって、いろいろな技術や道具を発明し使えるようになると同時に、個の意識がますます強くなっていきました。

動物は環境の変化に対応して生き残るために、突然変異が起こり進化してきました。人類も例外ではありません。

アフリカに発生した人類は十数万年前から地球のあちこちに生息地を広げていきました。その原動力は環境の変化に対応して生き残るということでした。

その結果、寒冷なヨーロッパに向かったものは体が大きくなり、皮膚の色が白く、鼻が細くて長く、顔の彫が深いというように変化しました。

東アジアに向かったものは体はそれほど大きくなく、皮膚の色が比較的に黒く、鼻も太いというように変化していきました。

そこからアジア北東部に向かったものは、寒さに適応するために、目が一重で顔の凹凸が少ないというふうに変化しました。

それ以前に北に向かったものは目が二重で彫の深い顔立ちを残しながら、ベーリング海を渡って、アラスカからさらに南下して、南米の南端まで達しました。

現在、この地球上にはいろいろな体つきや顔つきの人種が棲んでいますが、いずれの人種の間でも子孫を残すことができることから、すべてホモサピエンスという同一の種であることが証明されています。

そして、現在地球上に生きている人間はすべて十数万年前にアフリカに生きていた人々を共通の先祖とするということがほぼ確かめられています。

いずれにしても、人類の進化においても環境の変化が引き金となり、それに適応して生き残るために突然変異が誘発され肉体的に進化してきました。

ところが、人類の大脳が大きくなり、技術や道具が発達してくると、人類は環境の変化に技術や道具で対応できるようになりました。

たとえば、寒冷地で長い間生きなければならないとき、技術や道具がなかった時代には、肉体的に適応することによって環境に適応してきたのですが、毛皮や衣類をまとうことや火を起こし暖房をすることによって寒さに対応することができるようになったのです。

そのようなことから、現代では人類はほとんどの外的な環境の変化に対し、技術や道具を用いることによって対応できるようになっています。

ということは、人類は今後形態的、肉体的な進化をすることはないだろうと推測されるのです。

では、人類、あるいは、生物は進化の終着点に達したということなのでしょうか?

そうではありません。

人類は外的な環境の変化、あるいは、困難には一応対応できるようにはなったのですが、いまや大脳が発達したことによる内的な深刻な困難、あるいは苦悩に直面しているからです。

この内的な困難、あるいは、苦悩を超えることこそ人類の新たな進化の方向なのです。


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生物の進化

生物の進化

この地球上での生物の進化は著しいものがあります。

現在のところ、生物は微生物、植物、動物に分類できるでしょう。

“いのち”に促された生物の進化の方向は量的、空間的な拡大と同時に、愛の世界、つまり、大自然の営みのなかにおいて調和した多様な生物を生みだすことにありました。

動物に限ると、すでに無脊椎動物である昆虫の段階ですでに生物の進化は終着点に達したかに見えます。

それぞれの種は完全に周りの環境にほとんど機械的に適応し、調和を保ちながら、それぞれの種の繁栄を謳歌しているからです。

昆虫はほとんど機械的に周りの環境に適応して、種を繁栄できるという意味では完全なシステムを備えているのです。

もし進化の目的が周りの環境に適応して、種を繁栄することにあるとすれば、生物はそれ以上進化する必要はなかったということになります。

その完全なシステム、つまり、安全を捨ててそれ以後の脊椎動物に進化したということは、“いのち”の要請に基づいた進化の目的は単に周りの環境に適応し種として繁栄することだけにあったのではないと考えられるのです。

では、無脊椎動物から脊椎動物への進化の目的はどこにあったのでしょうか?

それは、個としての意識を持った生物を誕生させることにあったのです。

脊椎動物の誕生は、それまでの機械的に動いていた無脊椎動物と異なり、小さいながらも脳が備わり、情報を伝達する神経システムができたということです。

もっとも原始的な脊椎動物は魚類ですが、まだ、個としての自覚はありません。

魚は水中で個として生きているというより、群れで集団として生きているようです。

その魚類からカエルやサンショウウオのような水中と陸上で半々に生活する両生類が生まれました。

ある科学者によると、サンショウウオには個としての自覚の芽生えが観察されるのだそうです。

次に両生類から爬虫類が誕生し、爬虫類から鳥類と哺乳類が生まれました。

進化するにしたがって、しだいに個としての自覚をはっきり持つようになってきたようです。

個としての自覚を持つということは、自分以外のものから自分という個を守るということが種全体の繁栄に繋がっていたのでしょう。

ですから、個を自覚すると言っても、その自覚はまだまだ小さなもので、何より優先するのは種全体の繁栄であり集団的な行動や生活であると思われます。

その意味では、微生物や動物段階においては、“いのち”が目的とする愛の世界、つまり、大自然と調和して生きる世界はすでに実現されていると言えましょう。

それは、微生物や大自然に生きる動物たちは “いのち”そのものの内的要請、つまり、本能だけに従って生きているからです。

ところが、哺乳類のなかから類人猿を経て、大きな大脳を持つ人類が誕生しました。

人類はますます大きな大脳を持つようになり、それにつれて個という意識をしだいに強く持つようになっていきました。

それでも、人類の初期の段階では個として生きることよりも集団的に生き、周りの環境にも適応しながら生きていたのでしょう。

ところが、個という意識をよりはっきり持つようになればなるほど、それがだんだん困難になっていったのです。

そこに人類ならでの苦しみがあるのです。

なぜ、人類だけがこのような苦しみを経験しなければならないのでしょうか?



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宇宙の進化

宇宙の進化

そこには “いのち”だけがありました。

“いのち”は目にも見えず、耳にも聞こえません。

絶対の静寂そのものです。

空間も時間も大小もありません。

“いのち”は愛そのものであり、超物理的な無限のエネルギーとひとつの意思を持っていました。

あるとき、“いのち”はその自己表現として、この現象界を生み出しました。

でも、“いのち”とこの現象界の二つがあるわけではありません。

現象界は“いのち”の分身であり、現象界が“いのち”そのものでもあるのです。

強いて言えば、“いのち”と現象界は1枚のコインのように、表が“いのち”であり、裏が現象界と、もともと同じものなのです。

そして、現象界が誕生した時にはじめて、空間と時間が誕生しました。

現象界は物質的なものであり、その物質は変化するからです。

この現象界はただでたらめに変化しているのではありません。“いのち”の意思によって、この現象界は単純なものから複雑なものへと“一定の方向へ”変化していきます。

ですから、それは“進化”と呼ぶのが適切なのです。

“いのち”によって最初に生み出されたものは、ほとんど“無“とも言える、物質とも言えない”波動のようなもの“でした。

その”波動のようなもの“から極微の”物質のようなもの“が生まれ、そこからいろいろな素粒子が生まれました。

それは“物質の誕生”と言うべきものですが、そこからさらに最初の原子が生まれました。

そして、さらにいろいろな原子が生まれ、それらが結合して、いろいろな分子が生まれました。

原子や分子は物質ですが、その成り立ちから分かるように、物質は同時に非物質的要素を内包しているのです。

別の言い方をすれば、物質は非物質的な“いのち”そのものなのです。

分子は最初は二酸化炭素は別として、炭素原子を含まない無機分子だけでしたが、そこから、炭素原子を含む有機分子が生まれました。

さらに、いろいろな原子や無機分子や有機分子が結合することによって、いろいろな物質が生まれました。

そして、ついに有機物から生物が誕生しました。

地球上での最初の生物はただの有機物とも生物とも言えないような単純な構造をもった“生命体”でした。

強いて言えば、それはウイルスのような、あるいは、非常に単純な構造をもつ単細胞生物のようなものだったのでしょう。

けれども、その“生命体”はしだいに自己増殖をすることができるようになり、明らかに生物と呼べるものに進化していったのです。

そして、この最初の生物から気の遠くなるような時間の経過とともに、徐々に、そして、爆発的に生物の進化という現象が起こるのです。

その進化は単純から複雑、また、量的、そして、空間的に小から大へと進んでいきました。

生物はいろいろ困難な状況に遭遇しましたが、そのたびに、突然変異という“ハタラキ”によって、より高度な生物へと進化し続けました。

そして、ついに、数百万年前に人類が誕生するに至ったのです。


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風にこころを乗せよう

風にこころを乗せよう

こころ穏やかなとき

何かで行き詰ってどうしようもなくなったとき

腹が立ってしかたがないとき

無性に悲しくてしかたがないとき

淋しくてしかたがないとき

何か不安でたまらないとき

風にこころを乗せよう

こころは風と共にあちこちに飛んで

どこかに飛び去っていくでしょう

そうしているうちに、ふと気がつくでしょう

そうだ。自分はここにいる

こころもここにある

ずっと自分はいまここにいたのだ

それがはっきりわかったとき

あなたはすべてのマイナス感情から解放されるでしょう

そして、自分が何ものであるかを知るでしょう


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山の春

山の春

スペインから帰って約1週間経ちました。

いま我が家の庭は梅や桜や桃の花が咲き誇り、本当に春がきたのだと、ほっとしたような気持ちがしています。

スペインから帰ってあらためて思うのは、月並みな表現ですが、スペイン人も日本人も同じ人間だなあということです。

国籍や人種、社会事情の違いを超えて、ただの人と人として自由に付き合い、思う様を語り合えるのは本当に素晴らしいことだと思います。

そのなかで、一般的な日本人と一番違いを感じるのは、彼らの人懐っこさです。

たとえば、マヌエルという友達はバルセローナのとても小さなアパートに奥さんと住んでいます。

今回、彼は何日も休暇を取って、空港に奥さんと一緒に迎えに来て、バルセローナの町や校外を案内し、食事を共にし、語り合い、そして、最後も空港に奥さんと見送りに来てくれました。

何回も自覚のセミナーを受講していること、それを通じての長年の付き合い、また、遠来の友人ということもあるのでしょうが、マヌエルだけでなく、どこに行ってもみんなとても喜んで迎え入れてくれます。

彼らには彼らなりの個人的、そして、社会的な事情があるのでしょうが、それにもかかわらず、スペインに行くたびにこのような暖かいもてなしをしてくれるのに本当に感激するのです。

もちろん、日本にもこのように親しくしている友達がいないわけではないのですが、その数においては、はるかに少ないことを、ある意味では、淋しく思わざるをえません。

彼らが日本に来た時には、僕らも同じようにもてなしていることはもちろんです。

それは、人と人が同じ人として、どこまでも親しく付き合っていける、そのような社会を創りたいというのが僕らの長年の夢であるからです。

自覚のセミナー、整体のセミナーを通じて、少なくともスペインではそれがいくらかでも実現しつつあるのだと感じています。

現在、スペインはかつてない経済不況に瀕しています。若者の50パーセントが職につくことができず、全体の失業率は25パーセントに達しています。

そういうことで、多くの人が大きな不安を抱えて生きています。にもかかわらず、全般的に彼らは何かとても明るいのです。

少なくとも、僕らが付き合っている友人たちは、このような状況のなかでも、素朴に人生、そして、人と人の触れ合いを何より大切に生きているように感じます。

かつての日本人もたぶん同じような素朴さと大らかさで生きていたのではないかとは思うのですが、現代の私たち日本人の姿を見るときに、私たちがとても大切なものをどんどん失いつつあるという気がするのです。

一言で言えば、とてもケチ臭くなってきているように思います。これは人間としての素朴さ、素直さ、純粋さを失いつつあるということです。

私たちはもう一度私たち本来のこころを蘇らせなければと強く思います。

これがスペインから帰って山の春の梅や桜や桃の花を見て最初に感じたことです。


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