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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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思いと事実

思いと事実

思い(思考)はアタマの中に“描かれた”絵のようなもので、事実そのものではありません。


存在の真実は事実を体験的に捉えるしかないので、思いは大きな妨げとなります。

それだけではありません。

事実を思いを通して捉えようとすると、思いの持つ特性によって事実が大きくゆがんで見えてしまうのです。

思いの特性は”分別的“、あるいは、 “分析的“傾向が強いということです。

具体的に言えば、思いは五感で捉えた生の感覚を分別、あるいは、分析します。

分別するということは物事を区別するということです。

分析するということは、物事をバラバラに分解して、それを成立させている成分・要素・側面を明らかにすることです。

簡単に言えば、思いはひとつのものをそのままそっくり捉えることが非常に苦手だということです。

たとえば、思いはひとつのまとまったものを”全体“と”部分“などという概念で分けて捉えようとします。

ところが、「全体と部分」という概念自体が「全体と部分は関連性はあるが、異なったもの」ということを前提としているので、「全体がある部分そのもので、ある部分が全体である」というような可能性を最初から否定しています。

また、思いはいろいろなことについて観念や概念を作りだします。

その観念や概念が人類普遍の真理に照らして真実である場合は問題はないのですが、実際には、私たちは多くのことがらにおいて、本当は間違っているにもかかわらず、それをもともと真理であり、正しいものと自らも思い込み、また、他人に押し付けてしまっているのです。

今日私たちの社会で当然とされている所有、優劣、差別、自由、平等、善悪、幸福、平和などについての観念や概念はほとんど間違っていると言っても言い過ぎではありません。

そのようなことにも気がつかずに、これらの観念や概念を持ちながら存在の真実をはっきりと自覚することは通常ではほとんど不可能だと言えましょう。

それらの間違った思い込みの一つ一つにはっきりと気がついて、存在の真実を体験的に捉えることができるように組み立てたものが僕の主宰する「自覚のセミナー」です。

それはともかく、思いのもうひとつの特性は時間の観念を生み出すということです。

本当は事実の世界には時間はありません。逆の言い方をすれば、ずっと過不足のない満ちた“いま”があるだけです。

ところが、普段、多くの方々が「我々は過去・現在・未来という時間軸のなかで生きている。そして、 “いま”はその時間軸の過去と未来の間にある何かが不足した一瞬間である」と“思っています”。

そして、いつもその満たされていないと思う瞬間から逃れようとして過去の記憶に浸ったり、満たされていないと思うものを満たそうとして未来のために生きようとしています。

真実は、“いま”しかないのにもかかわらず、“いま”を犠牲にして生きているのです。

これほどもったいないなく、また、残念なことはありません。



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思考の功罪

思考の功罪

存在の真実を体験的に自覚するためには思考を超えなければなりません。

存在の真実を体験的に自覚するためには思考に邪魔されないことが必要なのです。

では、思考は私たち人間にはまったく必要がないということでしょうか?

そうではありません。

思考は存在の真実を自覚するためには邪魔になっても、生活するためにはとても役に立つ一面があることは事実です。

たとえば、思考は何かの仕事をするための道具として使われるときにはとても役に立ちます。

ところが、何も仕事をしていないときや、仕事が終わったあとでも、必要がないにもかかわらず、勝手に思考が活動し続けている場合が多いのではないでしょうか?

その場合には、思考の過剰な活動自体がマイナスの精神エネルギーを生み出してしまいます。

そして、精神的消耗や摩擦を引き起こし、アタマのはたらきが鈍くなり曇ってしまいます。

そうなってくると、自分ではまともに考えているつもりでも、事実は、思考活動自体が鈍化してしまっているのです。

それは、本人には自覚がなくても、お酒を飲んで酔っ払っている状態に似ています。

このような状態では、アタマはますます勝手に思考活動を続けようとします。

ところが、アタマ自体はつねに疲れていますので、論理的に思考を続けることができません。

そうなると、脈絡のない思い(や感情)が次から次に浮かんでくるようになります。

ところが、多くの方々は「思い(や感情)が自分である」と錯覚していたり、「思い(や感情)はとても大切なものである」と思って生きているので、それらの湧いてきた思い(や感情)に振り回されて生きることになります。

要するに、

明晰な論理的思考をすることは仕事をきちんと成し遂げるためにはとても有用です。

ところが、仕事を成し遂げることに関係なく、思考が勝手に活動し続けると、精神の消耗につながり、曇った思考が物事を明晰に観ることを妨げるようになってしまうのです。

さらには、そうでありながら、思考自体が自分のご主人様(のよう)になってしまいます。

つまり、本来、自分が主人として道具である思考を使うべきであるのに、いつの間にか、道具である思考が自分のご主人様になってしまっているのです。

簡単に言えば、アタマに振り回されて生きているのです。

そういう意味で、自分の人生を十全なものにするためには、いつでも思考をコントロールできるようにしなければならないのです。

そのために大変効果的な方法が僕の薦める瞑想です。

毎日、瞑想の自然法や自観法などの瞑想を続け、思考をとめることに習熟してくると、瞑想していない日常の生活においても、いつでも自由に思考をコントロールすることができるようになります。

さらには、日常生活において、いつでも絶対的に透明で静寂な “いのち”そのものである自分を実感しながら生きてゆけるようになるでしょう。


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自分とは?

自分とは?

ふだん多くの方々はそれぞれその小さな個体を自分だと思い、それぞれの存在はバラバラであると思っているようです。

事実はどうなのでしょうか?

そのためには、それぞれの個体はどのようにして生じたのかを検べなければなりません。

まず、最初に大宇宙が誕生しました。その中に銀河系星雲が生まれ、銀河系星雲の中に太陽系が生まれ、太陽系の中に地球が生まれました。

そして、地球に空、雲、雨、雪、霧、氷、風、大地、山、丘、平野、砂漠、岩石、砂、土、川、湖、海などいろいろなものが生まれました。そして、その中に微生物、植物、動物などの生物が生存しています。

これらのものと宇宙の星、太陽、月などを合わせた世界を私たちは大自然と呼んでいるわけです。

このことから分かることは、この大自然を生み出した力は大宇宙を生み出した力と同じ力だということです。

多くの方々が自分だと思っているその個体はこの大自然の力によって創られました。

さらに、その個体において心臓が動き、血液が全身に流れ、肺が呼吸している力などは、その個体が独力ではたらかせている力ではありません。

その個体のアタマにいろいろな思いが浮かんだり、考えたりする力も、その内容はそれぞれの個体によって異なってはいても、その個体が独力ではたらかせている力ではありません。

それらを創りだし、はたらかせている力はすべて大自然の力なのです。

つまり、この個体はそれ他と無関係に生じ、独力で生きているのではありません。

この個体は大自然の力の顕れ(あらわれ)そのものなのです。

それは、この個体だけに限るというものではありません。それぞれの個体が大自然の力の顕れそのものなのです。

それは人間だけに限りません。犬もネコも花も木も微生物などすべての生物についても同じです。

さらには、それは生物だけに限りません。空や雲、山や川など大自然のすべて、大宇宙のすべてについても同じです。

そして、目の前のテーブルもイスもパソコンなどの物についても同じです。

すべての存在にはたらいている力は、もともと、大宇宙を生み出し、大自然を生み出した力と同じ力です。

僕はその力を“いのち”と呼んでいます。

すべての存在はそれぞれ姿かたちが異なっていますが、“いのち”そのものなのです。

みんなひとつの“いのち”の顕れなのです。

だから、みんなぶっ続きです。


“いのち”が自分です。

いま家の外で小鳥のさえずりが聞こえます。

その声が自分です。

それを聴いているものも自分です。



自分が“いのち”を持っているのではありません。

“いのち”が自分なのです。

だから、“いのち”を失いようがないのです。

つまり、死にようがないのです。

この個体は死んでも自分はどこにも行きません。

そもそも、自分は生まれなかったのです。

もともと、“自分“などなかったのです。

傷つく自分も、守る自分もありません。

ただ、不生不滅の“いのち”があるだけです。


とにかく僕の薦める瞑想を毎日実践し深めることです。

そうすれば、それが真実であることを理屈でなく体験することができるでしょう。



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大いなる“いのち”

大いなる“いのち”

存在の真実は思考(思い)によって捉えることはできません。

存在の真実は生命の実物ですから、直接体験するしかないからです。

本当は、私たちはいつも存在の真実をそのまま生(なま)の事実として生きています。

ところが、私たちはそれを思考を通して理解しようとします。

けれども、描いた絵はもはや存在の真実、つまり、生命の実物ではなくなってしまうのです。

ですから、存在の事実を生(なま)体験として捉えるには、思考を止める、あるいは、思考が止まるしかないのです。

そのための効果的な方法のひとつが、僕が「自観法」と読んでいる一種の瞑想法です。

自観法については以前にも説明したことがありますが、もう一度簡単に説明しましょう。

私たちのアタマにはしょっちゅういろいろな思いが浮かんできます。自観法というのは、浮かんでくる思いを批判をすることなしに、ただ眺めている、あるいは、観(み)ているだけです。

それを毎日ちょっとした時間を見つけては実行するだけです。1回の時間は1分でも、3分でも、10分でもよいでしょう。

そうしていると、あることに気づきます。

それは、最初は思いとそれを思っている“自分“がしっかりした実体であるようにうに感じていたのが、そのうちに、それをただじっと眺めている、あるいは、観ている”自分“こそ本当にしっかりした実体であり、 “本当の自分”であるということです。


そうしているうちに、浮かんでいた思いがだんだん少なくなり、何か大きさも?小さくなり、存在感も小さくなっていきます。

そして、とうとう思いがまったく浮かばなくなってしまいます。

そうなったときに、それを見ていた“本当の自分”が姿・形はなく、無限に広がった透明で静寂な空間であることが分かってきます。

それと同時に、すべてがこの無限に広がった透明で静寂な空間のなかで“ただ起こっている”ということに気がつきます。

そして、五感としては、ただ“空っぽ”としか捉えられないこの無限に広がった透明で静寂な空間が“無限のエネルギー”、“愛”そのものであることが分かるのです。

それを僕は“いのち”と読んでいます。

“いのち”はこの世界のすべての存在を生み出す源(みなもと)であり、すべての存在そのものです。

また、“いのち”は全体であると同時に、一つ一つの個でもあるのです。

たしかに、実感として、私たちは個として生きているのは事実です。

けれども、私たちの本質はお大いなる“いのちそのものなのです。

こころを静かにしさえすれば、「自分は〇〇(名前や職業など)である」というようなラベルや名札ではなく、誰でも「いまここに、こうして存在している」という生(なま)の自分を実感できます。

その生の自分こそ、大いなる“いのち”、つまり“本当の自分”なのです。



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自覚を妨げるもの

自覚を妨げるもの

私たちにとってもっとも大切なことは「自分とは何か」「この世界とは何か」という存在の真実を自覚することです。

その自覚を妨げているものが思考です。つまり、考えることです。

ところが、人間は起きているときには考えようとしなくても、次から次と思考(思い)が湧いてきます。

そして、私たちは思考こそすべてと思いがちです。そのために、思考(アタマ)に振り回されて真実を見失っています。

またまたタバコを持ち出しますが、それはスモーカーとタバコの関係に似ています。

スモーカーは「(自分という)人間がタバコを吸っている(つまり、タバコをコントロールしている)」と思っています。

けれども、その実態は、タバコは人間にそのように思わせながら「タバコが人間を吸っている(つまり、コントロールしている)」と言ったほうがよいでしょう。

つまり、人は主人公でなくて、タバコの奴隷になっているのです。

そこが、「タバコは麻薬である」ということなのです。

実は、酒(アルコール)もタバコと同じです。

私たちは普通、自分の意志で酒を飲んでいると思っていますが、逆に、酒に人が飲まれていると言ったほうが当たっているのです。

タバコについてはそう言われればそうなのだろうと思われる方が多いと思います。

でも、酒については「それはちょっとこじつけじゃないの。大酒飲みの人やアルコール依存症の人はそうかもしれないが、自分を含めて多くの人は酒をコントロールしながら飲んでいる」と言われる方が多いかもしれません。

いまそれをここで議論するつもりはありません。

でも、酒は人に「自分は酒をコントロールできている」と思わせながら、実際には、酒が人をコントロールしながら酒を飲ませているのだと、自分自身の長年の体験と研究?から僕は断言します。

いずれにしても、酒(アルコール)が一種の麻薬、つまり、依存性の強い物質であることは医学的な事実なのです。

それはともかく、人と思考(アタマ)も同じような関係性があるのではないでしょうか?

私たちは「自分がアタマを使っている」と思っていますが、その実態は、「アタマが自分を使っている」ということがほとんどではないでしょうか。

もちろん、時と場合によっては、正しく考えることはとても大切なことです。

でも、私たちは多くの場合、アタマに使われ、振り回されています。

多くの場合、思い込みや洗脳など、私たちはアタマの奴隷になっていると言ってもよいかもしれません。

とくに、存在の真実に気づくためには思考が絶対的な妨げになります。

その理由のひとつは、存在の真実は思考以前の事実であるので、思考によっては捉えることはできないからです。

もうひとつの理由は、思考そのものが分厚い曇りガラスのレンズのようなものであり、そのために、存在の真実がありのままに見えないからです。

さらに、分厚い曇りガラスのレンズを通して見ているものを真実だと誤解をしてしまうからです。

逆に言えば、「存在の真実を自覚するためには思考を止めればよい」ということなのです。

そのためには瞑想の自然法や自観法や川の瞑想などが大変効果的です。



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自覚から平和へ

自覚から平和へ

本当の平和は「自分とは何か? この世界とは何か?」という存在の真実の自覚なしには創れません。

と言っても、この自覚を得るためにかならずしも厳しい長年の修行が必要だということではありません。

ただ自分のこころの奥の素直な気持ちに沿って生き、人生の意味を生活の中で深めていけばいいのです。

ところで、一隅を照らすという言葉があります。

でも、それだけでは駄目だと思います。

たしかに、一つ一つの行いに真心をこめて生きていくことはとても大切だと思います。

それなりの人間関係もできて、人間的にも成長できるでしょう。でも世の中全体を見るとどんどん精神的なレベルが下がってきているように感じるのです。

一隅を照らす生き方だけでなく、同時に、世界のみんなが幸福になり、世界の平和を実現するために、どうしたら世の中全体の流れを変えることができるのだろうかという視点を持つことが大切なのだと思います。

自分の日常の仕事や勉強、あるいは、生活が自分のため、あるいは、家族のために役に立っているというささやかな充実感を持って生きている方はそれなりにいらっしゃると思います。

でも、それが世の中全体の進歩に確実に繋がっているという実感と充実感、それに伴う人生の真の喜びや生きがいを持っている人はほとんどいないのではないでしょうか。

たしかに、福祉関係、医療関係、あるいは、教育関係などの分野では自分の仕事や勉強といった個人の努力が、努力の対象となる人の喜びに繋がり、それが努力する本人の喜び・生きがいとなるということはあるとは思います。

けれども、その他の一般の仕事や勉強においては、みんなの幸せや世界の平和や世の中の進歩を願い、どんなに一生懸命努力したとしても、その努力の対象となる人もはっきりとしていません。

また、その努力そのものがこの世の中のどこかに吸い込まれていってしまうような感覚をほとんどの方が抱いているのではないでしょうか。

「自分の日々の行いや努力が本当の意味で、みんなの幸せや平和や進歩に繋がっていない。」これはいったいどういうことでしょうか?

これで本当に生きがいや生きている充実感を持てるでしょうか?

これで本当にいいのでしょうか?

そんなことを考えても仕方がないじゃないか。少しでも人の役に立てればそれでよしとするべきだろう。だから、一隅を照らすことが大切だと言うのだよ。などという声があちこちから聞こえてくるようです。

でも、それは単なるアキラメ、あるいは、無関心に過ぎないのではないでしょうか?

あるいは、感覚を鈍らして、事実から目をそむけているだけではないでしょうか?

あなたはそれで自分の人生に本当に満足できますか?

自分のこころに誤魔化しや言い訳がありませんか?


自分の内なる声に素直にしたがって、全身全霊で、本気で生きる。


ここで僕の言う「全身全霊で、本気で」というのは、「宇宙の進化の流れにすっかり身を任せる」という意味です。

ですから、まことに気楽なものです。

そこにしか本当の安心と幸福はありません。


その鍵が拙著『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』(七つ森書館)のなかにあるのです。



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自覚のセミナー感想文 (YKさん)

 自覚のセミナー感想文 (YKさん)

 今、受けることが最高・最善のチャンスととらえて申し込んだセミナーに参加でき、その幸せを噛みしめることができました。

2012年1月のセミナーから、確実に自分が変わりつつあることが解かり、と同時に十数年前に受けた自覚のセミナーが浮かび上がってきました。

今更その件を引き合いに出しても何にもなりませんが、あの苦しみがあったからこそ今に至っていると思え、そのあたりも整理しておきたかったのです。

 前回の自覚のセミナーを受けたきっかけは、晩年の生き方の模索でした。想像とはかけ離れたセミナーでしたが、テーマを進めていく経過ですっきりしていくことを感じていたと思います。

ところが、どう生きていくか、実生活に戻ると、混沌とした闇の中に迷い込み、何か大きなことをしなければ生きる価値がないような錯覚に陥りもがきだしました。時間をかけて丁寧にわかりやすく導いて行ってくださったにもかかわらず、何てことだ!と思う日々でした。 

腹立たしくもあり悲しくもあり、体重はどんどん減り、仕事もなんとかこなせる状況で、四六時中、鎧兜を身に着けたように全く弛まず、もがくほど出口が見つからず、ノイローゼのような状態が続き、自分から逃げることばかり考えていました。

昇平先生にお手紙をだし、先生やセミナーを受けた仲間からメッセージをいただきました。半年ぐらいたった頃でしょうか、ある瞬間、‘自分からは逃げられない、どんなに苦しいと感じていてもちゃんと呼吸できている、生かされている命がある,と胸にポッと灯りがついた感じを得たのでした。その灯りが決して消えることなく燃え続けてきました。

 「・・・ねばならない」「・・・すべきである」という鎧兜を脱ぐことができ、へばりついていた垢がぼろぼろと落ち始めました。

そして、2012年2月に「自分は何もしては来なかった、自分すら無い」と体感した時は、只々、笑いが込み上げて止まりませんでした。全く予期せぬ一瞬でした。

2013年1月・2月には、「完璧な存在であり輝いている。胸はもともと開かれている。」と気づいた時には、喜びに満ちている自分に出会えました。

4月には、「個の存在は宇宙の進化の過程にある」と全く考えも及ばないことがなるほどとすとんと落ちてしまいました。

そして、今回のセミナーでまた一瞬の転換に出逢いました。

色々な状況を調べていく過程で「エゴによって奪われていく命・死」に直面すると、どのようにしらべていったら良いのやら全く進まなくなりました。病死・自然死なら受け入れられても、愛する人々が・・・他人であっても目の前でむごたらしい虐殺があったら・・・。とうていすっきりと受け止めることはできない心情にとらわれていました。

ところが、「全ては平和に繋がっている」と気づいた時、思いや感情がすっかり消え「いかなる時でも全てをすっきりと受け入れることができる」そうだったのか、と胸に落ちました。

私の今までの経過をたどると、ある時、突然の一瞬で大転換が起こってきました。

これまで生きてきた中で、自分は変われるだろう、変わらなければならないとずるずると引きずってきたもので、大転換のこの一瞬が何なのかとても不思議な感覚でした。

このセミナーの凄さは「一瞬にあり」とまた、実感しました。人は瞬間・瞬間を生きている、生きている今、ここ瞬間が全てであり、私そのものだという嬉しさに包まれました。

5日間のセミナーで、初めて参加された方々の反応を通して、まだ曖昧になっていたことが確認されました。                     

* ここまでは、セミナー終了後の翌々日(5月7日)に書きました。続きをもう少し長く書く予定が、娘の出産が早まりそれきりとなりました。

 2013年5月8日、22時10分、新しいいのちの誕生に出逢いました。名もない赤子を私の胸にすっぽりと抱き寄せた瞬間、かけがえのない愛おしいいのち、とてつもなく大きいいのち、宇宙の無限のエネルギーの存在をずしりと感じました。

私と赤子を隔てるものはなにもありません。不可分一体のぶっ続きのいのちが手の中にあったのです。

 5日間の昇平先生のお話しのすべてがそこにありました。感想の続きを書こうと思っていたことが消えてしまいました。

セミナーが終わった翌日は、75歳でお亡くなりになった方にお逢いしてきました。初任の時にお世話になり、妹のように可愛がってくださった方です。「死んでない」とはっきり体感しました。

生は生、死は死という事実があるだけで、生も死も不可分一体の存在であることがよりはっきりとしました。

身近な方の死、愛おしい家族の死、やがては訪れる己の死、新しい命の誕生、全てすっきりと受け入れることができます。

今回のセミナーで私は、生と死に向き合うことが大きなテーマになりました。

もの心ついてから今に至るまで、不幸と思ったことは一度もありませんでした。亡き父母の無限の愛、母のけなげさ、父の自他との壁を持たない懐の広さをきちんと受け継いでいるとあらためて感じています。

授かったこのいのち、まごころ全開で行き進むことが、一番楽な生き方だったのです。

子ども達の今、未来に向けて、心の目を開いて深め続け、行動していくことが晩年の生き方です。

前回の自覚のセミナーを受けたきっかけは晩年の生き方の模索でした。

あれから随分と長い年月がかかりましたが、どう生きるかは、追い求めたり、探し当てることではありませんでした。初めからちゃんと自分の手の中にあったのです。

そして、社会の行き詰まりを解決していける力も自分の手の中にありました。こんなにもすっきりとした今に心から感謝いたします。

準備を進めてくださった奈央先生、恵理佳先生、生きる道を開いてくださった昇平先生、関わっていただいた皆様にお礼申し上げます



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自覚のセミナー感想文 (YMさん)

自覚のセミナー感想文 (YMさん)                

再受講させていただきました「自覚のセミナー」は、凄まじく高次元、高密度でした。

5日間が半年、5年のようにも感じられるほどで時間感覚や視点が変化し、はるか遠い世界から戻ったようにも思えます。まだ残っていた、自分を放り投げられない部分が明確になり、まさに今、私に必要不可欠の内容でした。

個としてすっきり生きる、というだけの単なる充足感を超えて、ひとつのいのちのために、平和のために生き切って行動する、ということ。大きな使命への推進力を得ました。

数々の先生からの問いかけは、進む度に明瞭にしていなかった内面の底へ底へ、奥へ奥へ、または空へ上へ、自分を多面的に隅々まで調べる作業が精密になりました。

そのテーマの流れは各自の内面に沿い、緻密でまたはおおらかに進みました。底に潜んでいたものが現れ、ひっぱり出されました。エゴイズムがまだこのような形で残っていたのか、あきれながら、クリアにできなかった内面をどこまでも客観的に捉えられた機会です。このセミナーがなければ、まだまだそのまま放置していたに違いありません。

北西からの強い風が木々を揺らした時に背骨に通り、肚の底から「できます」、と力強く何度も言葉を発していました。それは、教えていただいた「定力」の始まり、そして奈央先生が言われた発信力の原型ともいえる声で、安定感があり、しっかり腑に落ちました。

当たり前のように昇平先生が言われた、どんな状況でも「with a peaceful mind」は、どこまでも響き、生涯の礎となりました。

平穏で、手放しで、丸裸で向き合うということで、「生まれ清まり」、新しい人生を生き直す感覚が内部から湧きあがります。どなたかが書かれていた、「扉が次々と開かれる」、または河合隼雄さんの「鉱脈を探し当てた」、奈央先生の言われたように湧き続ける豊かな泉に潤されて、行動が加速されます。

「『一生』腹を立てないこと」は凄いことであります。「人間なんだからいい」、という言葉に疑問を感じていたことも今回で明瞭に整理されました。

ぬいぐるみのたーちゃんは、ただの「たーちゃん」ではありませんでした。しゃべるごとに笑い、からっぽにしてくれ、そして触発されました。

老師の問いかけに「たーちゃんを差し出す」、ことのあまりの深さに圧倒され、最後に、「あっ!」と目からうろこが落ちるようでした。それ以上にシナプスが身体を一気に走り繋がるようでした。単純に子どものように感動し、風が通るような嬉しさの連続でした。

10数年前に取材をしたマダガスカルの「ファマディハナ」は、埋葬された遺体に巻かれた布を数年ごとに巻きなおす儀式。歌と演奏、踊りながら行進し、死者を埋葬し、泣いている人は誰一人いない。

そして我が家のネコたちも、病の犬の見送り方は見事でした。すっきりと、笑って送ったようにもみえ、ここでも何段階目かの死への向き合い方を変えることができたのです。

そんな体験を今回ははるかに上回り、さらに強烈に視点が変わり、肉体が消えても、生きて繋がれることが決定的となりました。それが生きもの本来の「野生」ではないかと思えます。そう考えると、身体が弾みます。

Oさんが最初のテーマで、「あっ、そうだ、簡単なんだ」と清々しい笑顔で言われたことを目の当たりにし、複雑なことではない、と直感しました。

山々や植物に光があたり、調べたことが、実感となって立ち上りました。それが最初のテーマに関する実感、体得といえるかと思います。

セミナー後半は、自分と他人、木々や石ころまで境目がなく、慈愛の目で見ることができ、何ともいえない安息の状態が広がりました。セミナーハウスのあるこの山とエベレストとぶっつづき、先生には何度もお話しいただいていましたが、よりはっきりと実感しました。「ひとつの爪が自分ではない」。

さらに言われた「猫も杓子も」の意味も深く理解して、笑えて仕方がありませんでした。

その後、「再受講者は、今まで調べた浅いものにとらわれず、ごまかさず、体当たりで調べるように」と言われたことではっとし、身体を内側からひっくり返すように、取り組むことができたのは貴重でした。

他の受講者の方々、一人一人の言葉も、整理するために重要なものでした。誰もが自分、最後はきょうだいとしてどこかで会ったことがある、懐かしい存在へと変容したことも収穫です。

安定していたはずの父の病状変化に関しても、静かに受け止め、対応できる構えが出来ていたのは不思議です。

メールで妹から連絡があった日は、夕食を抜き、行気し、二人の方々から愉気を受け、父へ、そして人類全体へ届いたように感じます。翌日、先生からまさに体験したことをテーマとして投げかけれられた時は、ゆっくり映像を見るようでした。前日に先に実践をしていた、というシンクロでしょうか。

また、先生がすっきり先ず謝ること、と繰り返し言われたことにより、妹にもメールで謝ることが出来たことが帰宅後もよい流れになりました。父は、高熱も下がり脳梗塞でも胆管の異常でもなく、平穏な日常にお蔭様で戻ることができました。遠く離れてもつながる安心感です。

Oさんがいなければ、また和田先生の出版社が本郷になければ、10億の人がいなければ・・・、偶然ではなく自然に繋がること。私自身がなぜ自覚のセミナーに参加出来たのか、子ども時代をじっくり振り返ることにしました。

妹が小児喘息で生死をさまよっていたこと。10歳の頃、父のDVで母が肋骨4本を折り、肺を傷つけ、長くは生きられないと言われ、子どもながらに食事の支度を本能的に手伝い、母の背中をさすっていたこと。

小学1年、隣の席にいた知的障害のある友だちが先生に毎日怒られ、私はなすすべもなくただ名前を呼びかけ、背中をさすっていたこと。母が現代医療では治らないとわかり、途方にくれて母が代替療法を続けていたこと。父の田舎で、星空と闇の中で木の上のふくろうを見続けたこと。

子どもは幸せでいて欲しいと願い、児童臨床を学んだこと。恩師に「今、ここで、新しく」、レッテルを貼らず、子どもに向き合いなさい、と繰り返し言われ、記憶に刻まれたこと。

「今日は畑の収穫があるので早く帰ります」と言った同じ恩師は、30年後に「パーマカルチャー」を翻訳し、巡り合ったこと。視聴率という幻影と戦う中で、宮澤賢治の「困難な状況の時にこそ喜びを」という言葉と出会ったこと。

五十肩という痛みを得たこと、家族を病院ではなく安心して看病するためには、と考えていたところで、偶然雑誌の「虹」で、奈央先生の文章に出会い、「これだ!」と確信したこと。子ども、人、自然、いのちに関する番組を企画し、取材し続けたこと。
整体と瞑想に出会い、呼吸が楽に、仕事が楽に取り組めるようになったこと。

2013年5月は、多くの記憶が蘇り、それがすべて必然であり、一気に繋がった時間です。

目が見えないチビは、五感、六感を眠らせることなく、悠然と愉しく生活をしていました。スイッチがようやく入りました。帰宅後はいてもたってもいられず、「国の理想と憲法」と和田先生の「無一可」を読み直し、平和といのちに関する企画書をすぐ書き始めました。

各所へ働きかけ、実現へ尽力します。子ども時代の記憶が蘇り、心身に力がみなぎり、ひとつのいのち、天からの祝福を受けながら安心して進みます。

「ただ事実だけ」。思いという幻想、幻影は風に流します。

先生のお蔭で確信を持つことができ、家族、組織、国家を超えて、平和活動を多くの人とすっきりと共有、力強く推進します。

若い世代に、平和国家への魔法のスイッチである「自覚のセミナー」と「国の理想と憲法」の存在を創意工夫して定力で伝えます。

本当にありがとうございました。



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自覚のセミナー感想文 (RSさん)

自覚のセミナー感想文 (RSさん)

先ほど、4泊5日の自覚のセミナーから、帰ってきました。

帰りの車中のなかで、セミナーでの体験を振り返り、自分が、いままで、どれだけ自分の思いに捉われ、振り回されながら生き、様々な不安や恐れを持ち、苦悩しながら日々を生活していたということを、改めて気付かされる体験を致しました。

自分の思いというものは、厄介なものです。ひとつの物事や出来事を自分なりに勝手に解釈し、判断し、やはり自分は、ダメな人間だと、勝手に劣等感を持ちながら生きている自分。

自分の思いからの感情のコントロールができず、不安感から、友人に愚痴ったり、自分で、落ち込んで、人生論などの本を読んで、自分を奮い立たせようと思って、外側からの情報やアドバイスによって、自分自身の不安や葛藤を解決しようとしていたのです。

しかし、自分自身の不安や葛藤を外側からの助けによって解消するのではなく、内側から、その不安や葛藤自体を調べていくということが、大事だということを自覚のセミナーで体得しました。

“自分の不安や葛藤は実際に何か?”“果たして、葛藤や不安は存在するのか?”ということを調べた結果、葛藤や不安は、自分の思いからきているものだとわかりました。

葛藤や不安に感じた出来事は、事実として受け入れても、その事実に関して感じた不安や恐怖は、自分の思いである。つまり、思いと事実は、違うということです。

いつも、事実と自分の思いを一緒にして考えている自分がいて、その事実と自分の感情とを一色淡にした考え方のスパイラルに陥り、自分は悩み、苦しんでいたという自分の姿があったのです。

なぜ、不安感や恐怖感を感じながら、事実や現象を自分の思いで解釈するのか?

その理由のひとつとして、私達は、少なくとも日本や西欧社会においては、世の中は、すべて競争社会という認識を私達は、親から、学校から、社会のシステムから植えつけられているということも原因にあるかと思います。

しかし、実際は、人間、ひとりひとりは、かけがえのない存在であり、すばらしい能力を持っているということが、普遍の事実です。

つまり、ひとりひとりが、社会や地球全体をよりよくできる力は、潜在的にあるのです。その力をひとりひとりが自覚し、世界中の人々、全てが、幸せになっていくという方向を見出し、お互いに協力しながら、行動しなければならないと感じました。

自覚のセミナーは、幸福論的な理想論を教えているのでは、決してありません。また、宗教でもありません。今、現実におこっている様々なことをありのままの事実を受け止め、私達、ひとりひとりの存在は何かということを根本的に再認識をし、自分自身の持っている可能性を自ら気付き、行動していく大切さを教えてくれているセミナーです。

バラバラだと思っている人間の存在は、じつは、ひとつであるということ。ひとつであるということは、自分が安心して、何の孤立感もなく、生きていけるということなのです。

帰路の列車のなかで、電車のなかにいるひとりひとりを見まわし、ここにいるすべての人々は、みな、内側には、素晴らしい力を持っている存在であり、私達、ひとりひとりがつながっているのだということを感じた瞬間、思わず、嬉しさで一杯になりました。



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自覚のセミナー感想文 (NSさん)

自覚のセミナー感想文 (NSさん) 

すべてのいのちの幸福を願うとき、「自分も含めたすべてのいのち」であるというのが大きな気付きでした。

これまで、自分の意思や思いは強く持ちませんでした。願ってもかなわなかったからかもしれません。

自分を大事にしていないという自覚がありました。自分を大事にできないから他人も大事にできないという自覚もありましたが、どうしていいのかわかりませんでした。

それが、自分のいのちも含めたすべてのいのちが喜ぶ生き方をすればよいのだとわかりました。

また、これまで自分はちっぽけな存在でしかないと感じてきました。

今では自分がやることなすこと全てが周りに大きな影響を与えているのだと思えます。

見知らぬ人と目が合ったときに微笑むか目をそらすか、ごみを見つけて拾うか拾わないか、ムッとしたときに怒るか怒らないか、あくびをするかしないか、それらがどんな影響があるか計り知れないと想像できるようになりました。

自分の行動に意味があるのだと思えます。愛ある行動を心掛けていきます。

先日、クワで土の中の草の根を切った後に種をまこうとしたとき、生き物らしきものを見つけました。最初は枯草に見えたのですが、まぶたがパチリとあいたのです。足が片方伸びきった土まみれのカエルのようでした。

クワで傷つけてしまったのかもしれません。乾かないよう土をかけ、その上から愉気していました。近くを車が通り、我に返って恥ずかしいような気持ちになり、これが思わず手がいくということなのかと思いました。

愛全開の人が一人でも増えたら、大きな影響があるに違いありません。

思いと体についてですが、私の体の不調は、どうも自分で勝手に考える「こうあらねばならない」状態にならないことで、自分自身でストレスを作り出していることが多かったと気づきました。

仕事もしていないのに一日中寝ていてはいけない、おやつを食べてばかりいて家事をやらないのはだめだ、など。

でも今思えば、体が悲鳴をあげていたのです。体を休ませたり、体に酸素を入れる必要があったと思うのです。

それを認めず、自分はダメなやつだとストレスで追い打ちをかけていました。浅はかな考え方をしていたものです。

少しですが、人の話を以前よりちゃんと聞けるようになりました。その人の話次第でどう転がっても、自分の考える「ねばならない」にとらわれないで判断できるからだと思います。

体が疲れているとき、余裕がなくなってイライラしてしまいます。

肝臓が弱っていると怒りやすくなったり、砂糖をとるとミネラルを消費してイライラしやすくなるとか、体と心の関係ばかり考えていました。

考え方の癖のようなものがこんなに心に影響するとは思ってもみませんでした。

今日50km規制のところ72kmのスピード違反で捕まってしまいました。今回は怒らずに笑って済ますことができました。

おかげで、周りに合わせてスピードを出す必要はないんだよと教えてもらったのだとさえ思えました。罰金は痛いですが…。

ひとつのいのちだということは、頭では理解したつもりですが、どうも肚に落ちていません。

もし万人の肚に落ちたら、ものすごいことが起きるはずです。まずはその一人となり、人に伝えていけたらと思います。



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