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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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衆生本来仏なり

衆生本来仏なり

「私たちは、本来、仏である」とは江戸時代の白隠禅師の言葉です。

当時の人はほとんど、「仏様」というのはあくまで信仰の対象となる偉大なる存在であると思い込んでいたのではないでしょうか。

ですから、「この自分が本来は仏である」などとはとても信じられなかったことでしょう。

「仏」とは、現代の言葉で言えば、「完全なる存在」というような意味です。

私たち現代人にとっても、こんな自分が、完全なる存在であるとは、例え、「本来は」と言っても、とてもそうだとは思えないのではないでしょうか。

普段、私たちはいろいろなことで間違いを犯したり、物事が思うようにいかなくて、苦しんだり悩んだりしています。そして、時には、自分のことばかり考えて、他の人を憎んだり恨んだりしています。

自らに正直になればなるほど、こんな自分が「仏」なんて思えなくても当然でしょう。

でも、白隠禅師の言葉は僕も真実だと断言します。

私たち一人ひとりの本質は完全なる存在なのです。

ただ、私たちの多くは、普段、アタマ思考により、自分は他の存在とは別々なのだと思い込んでいます。

そのために、考えるよりも前に、何よりも「自分を守る」ことを優先する習性が強いのです。

その習性により、どうしても身びいき、つまり、利己的な考えになってしまいます。その利己的な考えに沿って行動するわけですから、必然的に利己的な行動、あるいは、生き方になってしまうのです。

いま僕は僕自身の若かったときの心理状態を思い出してこの文章を書いています。

ですから、決して、みなさんを非難しているのではありません。

そんな僕がいくらかでも利己的でなくなってきたのは、ある時自分の本質にはっきりと気づくことができたからなのです。

同じく江戸時代の盤珪禅師は次のように言っています。

私たち一人ひとりが親から授かったものは不生の仏心一つである。仏心は絶対的な力を持ち、純粋無垢、赤児のような心である。だから、仏心でいれば、自分のことも他の人との関係もすべてが整い、うまくいくのである。

ところが、身びいきのために、仏心が争いの心に取り替えられてしまう。だから、平生から不生の仏心でいるようにすればよい。

要するに、白隠禅師も盤珪禅師も「私たちの本質は仏である」と言っているのです。

しかも、盤珪禅師は「もともとそうなのであるから、ただ、そうあればよい」と言っています。

つまり、「そのために特別の修行をする必要もない」と言っているのです。

でも、僕はこの存在の事実にはっきりと気づくためには、瞑想することが必須だと思います。

私たちはついついアタマの思考に引きずられて、存在の真実をアタマでは分かっているつもりでも、事実として見失いがちです。

ですから、「自分が本当は仏である」という真実を事実として知り、それを再確認するために、日ごろからできるだけ瞑想する機会を持ちたいものです。

僕自身は瞑想していないときも、つねに自分の本質そのものを見失いように心がけています。



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ナントモナイ

ナントモナイ

これまでの人生で、僕がもっとも安心したのは、「この体や心が自分ではない」と気がついた時です。

その気づきは、僕が不安と恐怖の極致にあった時に突然起こっただけに、自分にとっては実に大きな喜びでした。

「どんなことが起ころうと、自分は絶対に大丈夫だ。もともと、自分が傷つくこともないし、なくなることさえもないのだ」という“事実”に気づき、心の底から安心したのです。

そして、この事実と喜びをできるだけ多くの方々に伝えていくことを自分の一生の仕事にしようと決意しました。

その日以来、身の回りや世の中でいろいろな出来事が起こっても、毎日人様には申し訳ないほど楽しく生きてきました。

では、「この体や心が自分ではない」とはどういうことでしょうか?

それを、ぜひ、みなさんに体験として確認していただきたいのです。

ですから、この文章をサーと読み流して何となく分かった気になったり、「何だかよく分からない」などとしないでほしいのです。

「この体や心が自分である」という思い込みを外して、事実を検べれば、決して難しいことではありません。

何かの折に、いろいろな方に、「“自分”というのは何ですか?」と訊いてみると、少し考えたあと、大体、次のように答えが返ってきます。

1 この体である。

2 この心である。

3 この体と心である。

4 この体と心とその奥にある“自分”という意識が一つのセットになったものであるなど。

要するに、“自分”というものに対して漠然としたイメージを抱いて、それに “自分”というラベルを貼り付けて、「これが自分だ」と分かっているつもりになっているだけなのです。

さらに、「本当は何ですか?」と訊いても、多くの場合、アタマで考えて「ああでもない、こうでもない」と言うばかりです。

でも、事実を検べれば簡単に分かることですから、あなた自身でぜひ真実を確かめてください。

事実は、“自分”はこの体でも心でもありません。

この体と心は“自分”がこの世界で生きるために“使っている”道具です。

“自分”というコロッとしたものがあるわけではありませんが、“自分”はたしかにこの体や心とは別のものなのです。

(これはアタマで考えて「そうか」と思うことではありません。あなたがその事実そのものを確かめることが重要なのです。)

ということは、たとえ、この体に傷がついたとしても、絶対に“自分”自身に傷がつくことはないということです。

また、この心に傷ついたと思ったとしても、自分自身に傷がついたわけではありません。この点をしっかりと確かめてください。

そして、周りや社会の状況が何かで混乱していても、それは“自分”自身が混乱しているわけではありません。

“自分”は、どんな状況においても、絶対に変わることなく、ナントモナイのです。

まずは、この事実をはっきりと確認しましょう。

でも、それだけではありません。

さらに事実を検べていくと、「“自分”はすべての存在とぶっ続きの“いのち”であり、もともと、生まれもしなかったし、死ぬこともない」ということも分かってくるでしょう。

“自分”は永遠に宇宙一杯輝き続けているのです。


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理想の政治は簡単に実現できる

理想の政治は簡単に実現できる

今朝新聞を見ると、「自民圧勝、衆参過半数」という大きな見出しが目に飛び込んできました。

この結果は今回の参院選前からずっと予想していた通りでしたので、驚きはもちろん残念だという気もしませんでした。

むしろ、思わず「ワハハハ」と声を出して笑ってしまったのです。

新聞社によっても異なるようですが、朝日新聞社などによる世論調査では、原発再稼動と憲法9条や96条に関する改憲反対派を合わせると賛成派を上回っているようです。

ところが、結果は、原発を再稼動し、改憲を強力に進めようという自民党の“圧勝で”す。

これはブラックユーモア以外のなにものでもありません。大声で笑いたくなっても当然ではないでしょうか。

新聞やテレビでは「衆参のねじれが解消した」と言っていますが、前の衆院選以来、「民意と政治のねじれ」が生じ、民意が政治に反映されないどころか、民意と反対の政治が行われています。

こんなバカバカしいことがあってよいのでしょうか?

これはまさに日本の国が危機的な状況であるということです。。

なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか?

それは一口に言えば、原発再稼動反対および改憲反対を主張する勢力が多数の小さな政党に分かれているからです。

選挙で勝たなければどうしようもありません。

どんなによいことを考えたり言ったりしても、選挙に勝たなければ何もできません。

この単純な事実に立って根本的な方策を立てるべきではないでしょうか?

もし、近い将来、できれば次の国政選挙までに、その勢力を一つの政党にまとめることです。

重要なことは、原発再稼動反対と改憲反対の2つをその党の基本方針とすることです。

とは言っても、各政党間でお互いの言い分はいろいろとあるでしょう。また、一つの政党にまとめるまでには、いろいろと困難があるでしょう。

ですから、当然のこととして、それぞれが「小異を捨てて、大同につく」という精神が絶対必要です。

現在の各政党間の主張の違いは、その一つの党の中で議論を尽くして調整すればよいことです。

そうなれば、原発再稼動反対と改憲反対の機運は大きく盛り上がり、選挙にはかならず勝つことができるでしょう。

そして、民意に沿った政治が行われ、この国は安心して住めるいい国になるでしょう。

理屈や面子などどうでもよいではありませんか。

それをやるしかないのです。

さらには、近い将来にその党に「国際環境平和国家を実現しよう」という目標が掲げられられれば、言うことなしです。

日本は本当に輝かしい国に生まれ変わり、世界も真の平和実現に向かって急速に変化していくでしょう。

手前味噌と思われる方もあるでしょうが、簡単に言えば、原発再稼動反対および改憲反対派、それにTPP反対派の方々がすべて「国の理想ネットワーク」に賛同していただければ、あっという間に日本は危機を脱して、本当に安全で平和な国家に生まれ変わることができるでしょう。

実際には、やってみれば、機運が盛り上がって、面白いほど簡単に実現できるのではないでしょうか。

でも、多くの方々が「そんなことができるはずはない」と言われるかもしれませんね。

はっきり言えば、世の中にそんな“賢い”方しかいらっしゃらなかったからこそ、日本はこんな情けない国になってしまったのではないでしょうか?

この日本のどこかに、ここに書いたようなことを本気で考え、本気で実現しようという方はいらっしゃらないのでしょうか?

今こそ、そんな“変わり者”が続々と現れてほしいものです。



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あなたって何ですか?

あなたって何ですか?

初めから突然ですが、今回のブログはただ読むだけでなくて、指示に従って実践し、その結果を確かめながら読み進めてください。

まず、次の問いを“あなた”自身に問いかけてください。

1 あなたは男性ですか? 女性ですか?
2 あなたは何歳ですか?
3 あなたはどこの国の人ですか?
4 あなたは結婚してますか? 
5 あなたの名前は何ですか?

あなたの答えはどうでしたか?

(僕の答えはすべて「・・・」でした。)

では、今度は、目を閉じて瞑想し、瞑想がある程度深くなった状態で、もう一度上記の問いを“あなた”自身にしてみてください。

答えはどうでしたか?

(僕の答えはすべて「・・・」でした。)

さて、目を閉じて瞑想して、瞑想がある程度深くなると、「生きている」、あるいは、単純に「存在している」という感覚が体や心とは離れて別に存在することに気がつきます。

それは“自分”という「意識」と言ってもよいかもしれませんが、他と分離したという意味での“自分“ではありません。

その“自分”という「意識」に上記の1から5までの問いを投げかけると、答えはすべて「“自分”はただ空っぽの意識であり、何でもない」ということになるのがお分かりになると思います。

これは眼を閉じて瞑想をすれば、“本当は”誰でも気づくことができる事実です。

では、もう一度目を開けて、上記の問いを“あなた”自身に問いかけてください。

どうですか?

瞑想状態から醒めて、目を開けると、まず、体の一部と周りの景色が見えます。その途端にアタマが働き始まるのが分かりましたか?

その状態で、上記の問いに答えようとすると、「自分は女性で、40歳で、日本人で、独身で、〇〇△子という名前である」というような答えが出てきそうになることに気がつかれたのではないでしょうか?

これはこれまでずっと、思考が勝手に「体と心が自分である」と思い込んで、体と心についてのデータによって、他と分離したものとして、“自分”を外的に規定しようとしていたということです。

それでは、もう一度目を閉じて、瞑想状態に入って、次の事実を確かめてください。

1 “自分”という意識は「生きている」、あるいは、「存在している」という感覚であり、それ以上の特性をもたない。つまり、“自分”は何ものでもない。

2 また、それは他と分離しているという意味の“自分”ではない。

3 この“自分”という意識は体と心とは別のところに存在する。つまり、“自分”は体でも心でもない

4 けれども、“自分”というコロッとしたカタマリがあるわけではない。ただ、そう意識する仕組みがあるだけである。


これは、「体や心が自分である」という思い込みを外して瞑想すれば、誰でも気がつくことができる単純な事実です。

存在の真実に目覚めるためには、必ずしも特殊な修行をして特殊な神秘体験をしなければならないというわけではありません。

思い込みさえ外せれば、本当はとても簡単なことなのです。



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存在の実相

存在の実相

僕はある時まで、この世界と自分について、「自分と自分以外のものがあり、すべての存在はバラバラである」ということを絶対の真実であると思っていました。

「自分はどう生きるのが本当か?」ということが一大テーマとなり、「自分とは何か?」、「この世界とは何か?」ということを求めて考えている時でさえ、それを一度たりとも疑ったことはありませんでした。

そういう中で、どうやら真実を極めたらしいと思われる方の本を読んだり、話を聞いたりすると、「自他一体。すべてはひとつだ」という言葉に出会います。

それで、アレコレとアタマを捻って、「それぞれの存在には密接な関連性がある」というくらいのところまでは考えられるのですが、ずばり心の底から「自他一体。すべてはひとつだ」とはとても言えない自分に気づくのです。

それは、どうしても、本音の部分では、「自分と自分以外のものがあり、すべての存在はバラバラである」としか思えなかったからです。

ところが、ある時、どうしてもアタマでは処理できない自分の一生に関わる事実に直面して、ついには、突然思考が止まってしまうという体験をしたのです。

その時に、自分とこの世界の相(すがた)をアタマで認識するのでなく、直接に捉えてしまったのです。

そうして直接捉えた自分とこの世界の相(すがた)はまさに「自他一体。すべてはひとつ」でした。

その時以来、僕はいつも、自分とこの世界について、五感を通し思考により認識した存在の相(すがた)と同時に、思考ではなく直接捉えた相(すがた)を“感じ“ながら生きています。

つまり、存在の相には二つあるということです。

ひとつは、思考でなく直接に捉えたありのままの真実の相(すがた)、つまり、実相です。でも、事実は、そうして捉えた存在の相(すがた)は空っぽで無自性ですから、無相と言った方がより正確でしょう。

もうひとつは、五感を通し思考により認識した仮の相(すがた)、つまり、真実の姿ではなく、仮にそのように見えているだけです。

もう少し分かりやすく説明しましょう。

太陽光線はひとつの無色透明な光線です。これが真実の相(すがた)です。

ところが、太陽光線をプリズムを通すといろいろな色の光線に分かれます。これは真実の相(すがた)ではなく、仮にそのように見えているだけです。

でも、以前の僕のように、五感と思考を通した相(すがた)だけが本当で、それ以外には何もあるはずがないと信じ込んでいれば、どんなに説明を聞いたり読んだりしても、絶対に真実の相(すがた)に気づくことはありません。

僕が「本を読んだり、人の話を聞いたりしてもダメだ。本当のことは教えることも教わることもできない」というのは、存在の真実は自らが体験するしかないからです。

さらに、少々体験した程度では、すぐに思考に飲み込まれてしまいます。それが自分にとって当たり前になるまで体験を深めることが必要です。

本を読めば分かる気になったり、あるいは、本を読んで、ちょっと考えて分かった気になったりするのは現代人の大きな落とし穴です。

とにかく瞑想しましょう。



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アタマでは分からない

アタマでは分からない

僕が若い時に大変お世話になった和田重正先生の詩に次のものがあります。

“いのち”の世界では
たのしみの中にも
苦しみの中にも
悦びがある


あなたにはその意味が分かりますか?

ある時まで、僕にはまったく分かりませんでした。

なぜかこの詩にとても強く惹かれ、「ああでもない。こうでもない」と考えてみるのですが、心の底から「分かった! なるほど!」という気が少しもしないのです。

それはこの詩だけではありませんでした。

僕にとって和田先生のいろいろなお言葉は意味の深いものに感じられ、とても魅力的でした。

何とか分かりたいと思い、アタマでアレコレ考え、悪戦苦闘するのですが、ひとつとして腹に落ちることがありませんでした。

“あの時”までは・・・・。

“あの時”、行き詰まりに行き詰ってどうしようもなくなった時に、まったく、予期せずに、気がついてみると、僕は“いのち”の世界に飛び込んでいました。

気がついてみると、和田先生の言われたことが全部そのまま心の底からすっきりと納得できるようになっていました。

和田先生のお言葉だけではありません。

たとえば、昔の中国の禅のマスターである雲門禅師に次の有名な1句があります。

「日々是好日」 直訳:日々好い日だ。

あなたはそう言い切れますか?

日々、身の回りだけでなく、世界中あちこちで、いろいろなマズイことが起きています。

それでも、「日々是好日」と言い切れますか?

こんな現実があるのに、「日々是好日」などとよく言えたものだ!

禅なんて何かおかしいんじゃないの!

とさえ、当時の僕は思っていました。

あの時までは・・・・。

今では、この言葉ほど真髄を突いたものも少ないとさえ思っています。

それは、あの時以来、いつも“いのち”の世界の中でそれを直接に体感しながら生きているからです。

この世界で起きているいろいろなことは、アタマだけを通して見ると、好ましいとか好ましくないとか、好きとか嫌いとかいろいろに思えます。

それは、たしかに、現実です。

ところが、この世界で起きているいろいろなことは、その本質である“いのち”を通して見ると、ただ、「“いのち”が“いのち”を“いのち”している」だけなのです。

と言っても、この世界はけっして無機質なものではありません。この世界は“いのち”の安らぎと悦びの世界です。

たしかに、たとえ、アタマのハタラキや錯覚などによって作りだされたものであったとしても、苦しみや喜びを感じるのも事実の一面です。

ただ、この世界の本質をはっきり見れば、現象界の苦しみや喜びの中にも、 “いのち”の悦びが厳然として存在しているのです。

この真実をこころから納得・理解するためにはアタマでは絶対にダメなのです。

どうしても、存在の本質である“いのち”を直に体験する以外にはありません。

どうしたらそれができるのか?

それが、セミナーやブログでみなさんにお伝えしようとしていることです。



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この世界の二つの見え方

この世界の二つの見え方

私たちはこの世界についての情報を五感で捉え、それを大脳で認識・判断します。

ところが、たとえば、私たち人間は犬には聴こえる犬笛の高い音を聴くことができないように、私たちの五感の能力には限界があり、すべての情報を捉えることはできません。

さらには、私たちの大脳はそうして捉えられた情報をバラバラのものとして、互いの大小、優劣、良し悪しなど諸々の事柄について比較し、相対的に認識・判断、つまり、思考します。

ところが、瞑想などによって思考が非常に静まり、あるいは、止まると、この世界は全部“ひとつの同じもの”として認識されるのです。

それを僕は“いのち”と呼んでいます。

五感で捉えられたものはいろいろな姿かたちをしています。大きさも色も性能などもいろいろです。

でも、思考は働いていないので、それぞれの違いは認識されずに、それぞれの本質だけが認識されるのです。その本質がみんな同じもの、つまり、“いのち”なのです。

例えて言えば、いまここにいろいろな大きさ、色、形の飴があるとします。

思考が働いていると、思考はそれぞれを、姿かたち、性能などの違いに目をつけて、それぞれをバラバラの別の異なったものとして捉えます。

一方、思考が働かなければ、それぞれの飴の原材料だけを認識します。ところが、もともと“いのち”という一種類の原材料しかないので、“すべてはひとつ“と認識するのです。

つまり、私たちは通常アタマを働かせながらこの世界を見ているので、それぞれの存在はバラバラで別のものと認識しています。

これを僕はバラバラ観と呼んでいます。

それは、「存在の表面」しか捉えてはいないということです。

そこから個人的、あるいは、社会的にも、いろいろな苦しみと混乱が生じているのです。

そして、バラバラ観によってそれらの苦しみや混乱を解決しようとしています。

これでは、問題をますます複雑にするばかりで、絶対に本質的な解決に至るはずはありません。

いろいろな苦しみと混乱を根本的に解決するには、「存在の本質」を体験的に捉え自覚することが絶対的に必要なのです。

つまり、私たちが本当に幸福に生きるためには、不可分一体観、すべての存在はお互いに分けることのできないひとつの“いのち”であることを自覚することがなによりも大切なのです。

そのもっとも有効な方法が僕の薦めるいくつかの瞑想法というわけです。

さらには、瞑想中だけ“いのち”の世界に戻るというだけでなく、日常の生活においても、四六時中つねに、思考をしながらも、それに捉われることなく、自分もこの世界のすべても同じひとつの“いのち”であることを体感しながら生きていくようにしたいものです。

最初はとても難しいように思われるかもしれませんが、、必ずやっているうちにコツのようなものが掴めるはずです。

さらに習熟するにつれて、もともと、コツや方法も必要でなく、自然体でいればよいのだということに気づくことができるでしょう。



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心について

心について

「心」とは何でしょうか? 

心理学や生理学的にはいろいろな説明があると思いますが、ここでは、私たちが、生死を含めて、歩いたり、眠ったり、食べたり、読んだり、書いたり、話したり、この世界に生きている一刻一刻の姿はすべて自分の「心」の現われであると言っておきましょう。

その「心」には2種類あります。

まずは、思考や感情など、アタマによる通常の精神的活動を司る「心」です。

この「心」は、具体的には、五感によって収集した情報を大脳において処理・判断します。

ところがこの「「心」」は、実際には、五感の情報収集と大脳の情報処理能力の限界により、間違って思い込んだり事実を誤認したりして、身勝手な判断をする傾向が強いのです。

一言で言えば、この「心」は妄想に陥りやすい傾向があるということです。

一方、瞑想を深めていくとよく分かるのですが、通常の思考や感情などの「心」の奥に、それとは別に、自分の「本性」とでもいうべき「心」が存在していることが分かります。

この自分自身の「本性」は常に清浄無垢そのもので、たとえば、その判断は公平無私です。「まごころ」と呼んでもいいでしょう。

仏教では、この自分の「本性」を「仏心」、「仏性」、あるいは単に「心」などと表しているので、その知識がないと混乱するかもしれません。

でも、単に知識で知っていても、体験的にその存在を知らなければ何の意味もありません。

このように、「心」には、アタマの精神的活動である、仮想の(つまり、表面的な)「心」とその奥にあるる“いのち”そのものに直結した実相の(つまり、本質的な)「心」との2種類あるのです。

このことが分かると、「私たちが生きる上で何が本当に大切か?」ということがはっきりとします。

それは、まずは、自分の実相の「心」の存在を体験的にはっきりと捉えることです。

そして、瞑想だけでなく、日常の生活において、できるだけ実相の「心」でいることです。

さらに、自分の考え方や観念を徹底的に調べなおして、間違った思い込みや観念を整理すること。

そして、アタマが妄想を作り出さないように、常に「心」が目覚めていることです。

「心」について昔の禅のマスターが次のように言っています。

「心というものは、うっかりすると、すぐにチリやホコリが着いてしまうものだ。いつも油断なくチリやホコリを払うようにしなさい」

また、別のマスターは次のように言っています。

「本来、無一物だ。心は空っぽだ。どこにチリやホコリが着くと言うのか」

さらに、別のマスターは次のように言っています。

「心とは山河大地なり。日月星辰なり」


「心」とは“いのち”そのものなのです。

このような言葉が実感としてますますはっきりと分かるように、皆さんの日常生活において、どこまでもこの1点を体験的に深く掘り下げていってほしいと思います。



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生と死

生と死

この大宇宙に存在するすべてのものは、生物、無生物を問わず、大宇宙の根源の力である“いのち”によって存在し活動しています。

つまり、万物の生成消滅は“いのち”の活動の単なる発動、あるいは、顕現そのものなのです。

ということは、私たち人間の肉体的な生死ということも“いのち”の活動の仕組みの一つであるということです。

ですから、肉体的な生死に対する私たち一人ひとりの感情的な反応はともかく、肉体的な生死があってこそ、この大宇宙の活動が営まれているのです。

別の言い方をすれば、死があるからこそ生があるのであり、生があるからこそ
死があるのです。

そういう意味では、もし、誕生が悦ばしいことであれば、死も悦ばしいものであってもよいのではないでしょうか。

要するに、本来、生という現象も死という現象も“いのち”の顕現としてただ起こっているだけなのです。

僕は、多くの方々が死を恐れ、また、悲しむのも決して可笑しなこととも思いません。

でも、もし、死を恐れ、悲しむのであれば、それだけいっそう、縁のある人々とともに生きているその一瞬一瞬を大切にして、どこまでもみんなと仲良く、悔いのないように精一杯生きたほうがよいのではないかと思うのです。

でも、僕がここで本当に言いたいことは、「自分は死なない」、また、「自分は傷つくこともない」ということなのです。

たしかに、私たち人間には肉体的、そして、精神的には、生があり、死があると言っても間違いではないでしょう。

けれども、私たちの体も心も私たちの本体が生きていくための“道具”なのです。

私たちの本体、つまり、自分の本体は“いのち”そのものなのです。

“いのち”がこの体と心を使って生きているのです。

“いのち”はもともと生まれもしなかったし、決して、死ぬこともありません。

“いのち”は何ものによっても、傷ついたり、汚れたりすることはありません。

ですから、ケチなことは考えないで、安心して真ごころを丸出しにして、どこまでもみんなと仲良く、少しでもみんなの役に立つように精一杯生きていきたいものだと僕は言いたいのです。

ところで、“いのち”そのものには性質の違いや大小はありません。

つまり、この体と心を使って生きている本当の自分である“いのち”は、大宇宙を創造し、そのすべてに働いている大宇宙の根源の力である“いのち”と質的にはまったく同じものなのです。

それは大海の水も一葉の上の1滴のしずくである水も少しも変わりがないということと同じです。

私たちのアタマは相対的な観念に基づいてしか処理できないので、アタマで考えるとちょっとつじつまがあわないような感じがするかもしれませんが、事実は、もともと“いのち”はひとつしかないので、性質の違いや大小はないのです。

さて、あなたがその体と心を持ってこの世に“生まれて”きた時よりもさらに5年前、あなたはどこにいましたか?

アタマで考えても、絶対に本当の答えはでません。

瞑想すれば、そのうちに、ふと気がつくことができるでしょう。



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静寂の世界―2

静寂の世界―2

瞑想が深まると、さまざまなものが存在し変化するこの現象界の奥には、絶対的に静寂で何もない世界が存在していることが分かります。

仏教ではこの現象界に存在し変化するすべてのものを色(しき)と呼び、絶対的に静寂で何もない世界を空(くう)と呼んでいます。

瞑想をすると、空と色は同じひとつのものであることがはっきりと分かります。

このひとつのものを五感を通してみると色として捉えられ、五感を超えたところでは空として捉えられます。

たとえば、聴覚を通して捉えるといろいろな音として、聴覚を超えたところで捉えると絶対的な静寂として捉えられます。

つまり、捉え方が異なるだけで、本当は音は静寂であり、静寂は音なのです。

分かりやすく言えば、いろいろな音は静寂より生まれて、再び、静寂に戻っていくのです。

つまり、すべてのものは同時に空っぽで何もないのです。

そして、空は空っぽで何もないようでいて、実際は、無限のエネルギーそのものです。

ここで『伊那谷の老子』加島祥造著(淡交社)という本の中の一節をご紹介しましょう。

土をこねてひとつの器を作る。
中がくりぬかれて、うつろになっている。
うつろな部分があってはじめて
器は役に立つ。
中までつまっていたら、なんの使い道もない。
家の部屋というものは、当たり前のことだが、
なかに空間があるから有用なのであり
そこがぎっしり詰まっていたら、使いものにならない。
その空間、その空虚が、その部屋の有用性なのだ。
我々が役立つと思っているものの内側に
空のスペースがあり、この
何もない虚のスペースが
本当の有用さなのだ。

(『老子』は紀元前5世紀頃の思想家である老子が書き残した書です。それを英文学者の加島正造氏が訳したのが『伊那谷の老子』です。)

この一節を書き写していたら、何だかこれ以上駄文を書き連ねる気がなくなってきました。なぜなら、この一節に、存在の真実の仕組みが実にたくみに説明されているからです。

でも、何とかもう少しだけ書いてみましょう。

私たちは普段「実」だけを実在であるとしています。

そして、「実」は「実」だけによって成り立っている、つまり、「実」だけで存在していると思い込んでいます。

そのために、ある「実」がなくなると、そのすべてがなくなってしまうと思い、それを恐れ、また、悲しみます。

ところが、存在の真実は、「実」は「実」だけで存在するのではなく、「実」は「虚」によってこそ成り立ち存在しているのです。

言葉を変えれば、「実」は「虚」より生まれ、刻々に姿かたちを変え、再び「虚」に戻っていきます。

つまり、「実」は常に変化していますが、その存在を成り立たせている「虚」はずっと変わりません。

さらに、瞑想を深めていくことによって分かることは、もともと「実」も「虚」もなかったということです。

生は死によってこそ深まり、死は生によってこそ輝きます。

そして、生死があってこそ永遠の“いのち”が輝くのです。



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静寂の世界-1

静寂の世界-1

瞑想などをすることによって絶対の静寂、あるいは、絶対に近い静寂を経験してみると、私たちはそれまでこの世界はいろいろな音がして騒がしい世界だと「錯覚していた」ことがよく分かります。

もちろん、冬に人里離れた山の中で雪が積もったときなどは、ほとんど音がしないときもありますが、通常は、この世界はいろいろな音がしています。うるさいと思うほどのときもあるでしょう。

でも、瞑想をしてみると、私たちがこの世界は騒々しいと思っていたのは、実は、外部の音がうるさいというよりも、私たちのアタマの中で絶え間ない雑音が鳴り続いているからだということがよく分かってきます。

私たちは普段しょっちゅう何かを考えています。

考えようとしなくても、次から次にいろいろな思いが湧いてきます。

もちろん、何も考えないでボーッとしているときもあるのですが、そんなときでも、実は、何かを考えていることに気づいていないだけという場合も多いのではないでしょうか。

このように、アタマがいつも忙しくはたらき、次から次へと思いが湧いている状態ではこころも忙しくなっています。そういうわけで、この世界自体が、いろいろな音がして何かうるさい世界であるかのように錯覚してしまうのでしょう。

ところが、思いが静まり瞑想が深まってくると、たしかに、この世界にはいろいろな音がしているけれども、それらの音の奥に、あるいは、それらの音と同時に、絶対の静寂が存在していることに気がつきます。

たとえどんなに外部がいろいろな音でうるさくとも、また、アタマの中にいろいろな雑念があったとしても、そこには常に絶対の静寂があるのです。

そして、この絶対の静寂こそこの世界の実相(本質)であり、同時に自己の実相(本質)でもあることがはっきりと感得されます。

この絶対の静寂こそすべての相対的な観念を超えたすべての存在の本質です。

それは決して言葉では表現することができません。

たとえば、それは「一つのもの」と表現しても、すでに実物とは異なってしまいます。そこで、仏教では「不一」と表現したり、「不二」と表現したりします。

要するに、「ああではない」「こうではない」と否定的にしか言い様がないのです。

強いて肯定的に言えば、「空」とか、「仏性」とか、「大いなる存在」とか「いのち」、「いまここ」、「自己の本質」、「存在の真実」、「ソレ」などのように、わけの分かったようで、実は分からない表現をするしかありません。

いずれにしても、これらの言葉には意味があるわけではありません。

ただ、その実物を体験するしかありません。

さらに言えば、たった一度の体験ではほとんど意味がありません。

というのは、生の体験であっても、一度だけの体験では、それはいつの間にか単なる記憶や知識になってしまうからです。

ですから、できるだけ毎日瞑想して、「ソレ」に戻り、くつろぐことが大切なのです。

さらには、瞑想以外のときにも、日常の生活において、つねにこの絶対的な静寂を感得し続けられるようになることが大切なのです。



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自由自在に生きる

自由自在に生きる

和田重正先生は僕が若い時に大変お世話になった方です。

和田先生は当時「はじめ塾」という寄宿生活塾を主宰されていましたが、塾生や息子さんたちのタバコを吸っているのを見ても、そのたびに、ただ一言、次のようにつぶやかれたのだそうです。

「止めても止めなくても、どちらでもいい人はどうでもいいが、止められない人は、止めてみると分かるんだがなあ」と。

タバコを吸っていたみんなはそのたびに「何が分かるのだろう?」と考えたそうですが、どうも分かりません。

でも、先生は決して「その答えはこうだ」と教えてはくれなかったそうです。

そして、みんながいろいろな方法でタバコをやめようと苦心して、結局はやめられないのを見て、ただ、次のように言われたのだそうです。

「それでは止められない。方法をもってしてもダメだ。ただ止めればいい。ただ吸わないでいるだけで方法はない」と。

当時タバコを吸っていた方々も、その後全員止めてしまったようです。

それはともかく、タバコをめぐる和田重正先生の態度と一言一言をいま思い出してみる時、「まさに、先生は真の教育者だったのだなあ」と深い感動が沸きあがってきます。

本当のことは教えられない。教えても伝わらない。私たちにできることは、相手が自分で気がつくように、きっかけとなる言葉を機に応じて、そっと投げかけるだけなのです。

実は、先生ご自身が小学生の頃からタバコを吸い始め、その後、何十年とヘビースモーカーであったそうです。

その当時は大人の男性がタバコを吸うのはごく当たり前の時代でしたが、ヘビースモーカーであった先生はさすがに、「何としてもタバコを止めなければ」と思い、何年にもわたりいろいろな方法で禁煙を試みたのだそうです。

でも、結局、「どんな方法をしても、タバコを止めることができない」ということを認めざるをえませんでした。

その時、「タバコは方法をもってしては止められない。それでは絶対だめなのだ。タバコをやめるにはただ止めるしかないのだ。吸わないでいるしかないのだ」ということが天啓のように閃いたのだそうです。

それからは、どんなイヤなことでも、やるべきこと、やったほうがよいと思うことはスイスイと自由自在にできるようになり、こころの自由を得ることができたのだそうです。

私たちはやったほうがよいと思うことをやろうと思っても、もし、それがイヤなことであれば、イヤだという潜在意識とやったほうがよいという顕在意識の二つの正反対の気持ちの間で葛藤が起こってしまいます。

これでは、いつまで経っても、やったほうがよいと思うことをスイスイと自由自在に実行することはできません。

顕在意識は、結局、潜在意識には勝てないからです。

ですから、「イヤだ」いう気分と闘ったり、ガマンしようとしたり、あるいは、イヤだという気分をそらしたり、ごまかしたりしないで、気分は放ったらかしにして、やったほうがよいと思うことを、「ただ実行すればよい」のです。



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体と心と“いのち”

体と心と“いのち”

自分とは一体何でしょうか?

1、この体が自分なのでしょうか? 

2、それとも、心が自分なのでしょうか? 

3、それとも、この体と心を併せたものが自分なのでしょうか?

4、それとも、この体と心の奥にある何かでしょうか?

それを答える前に、まず、ここで言っている「心」とは何を指しているのかを定義しておかなければ、「これだ」と答えようがないと思います。

私たち人間の存在とその活動は物質的要素である体と精神的要素である心の二つの要素によって構成され、その二つの要素が互いに協調しながら活動しています。

つまり、ここで言っている心は思考、気分、気持ち、感情などの精神活動を意味しているのです。

体と心はどちらの働きがより優れているとか、一方が他方をコントロールしているというような関係にあるのではありません。

それぞれがそれぞれの特性を持ちながら、互いに相補いながら、互いになくてはならないものとして働いています。

そういう意味からも、「体が自分である」とか「心が自分である」というように、「体と心のどちらかが自分である」ということはありえません。

では、結局、「この体と心が自分である」ということなのでしょうか?

たしかに、そのように考えている、あるいは、決め付けている方が多いようです。

でも、そもそもその体や心を作ったのは何でしょうか?

それはこの大宇宙や大自然に目を向ければだれにもすぐに分かります。

簡単に言えば、大宇宙や大自然のすべてのものを創り出し、そのすべてに働いて、そのすべてを生かしている大いなる“いのち”そのものです。

この体と心は“いのち”が創り出したものです。ですから、この体と心をとりあえず「自分」と言ってもよいかもしれません。

けれども、この体と心を通して“いのち”が自己表現しながら生きているのですから、むしろ、体と心は “いのち”が生きる道具であると言ったほうが適切でしょう。

はっきり言えば、“いのち”こそ本当の自分です。体と心は道具にすぎません。

体はだんだん老化して、いずれ朽ち果ててしまいます。それに従って、心の活動も弱まり、いずれ停止します。

それを私たちは通常「死」と呼んでいますが、使っていた道具が壊れてしまっただけで、「自分」が死んだわけではありません。

体と心と“いのち”の関係は理屈で考えると、分かったような気にはなりますが、それだけでは、本当には分かったとは言えません。

体験しなければ、本当には分からないのです。

とにかく、僕が薦めている瞑想法を毎日実践し、瞑想を深めてください。

そうすれば、ある日、ふとした時に、体も心も「自分」ではなかったという事実に気がつくと同時に、すべての苦しみから解放された「本当の自分」を見出すことができるでしょう。


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