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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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一つしかない その4

一つしかない その4

A  “いのち”が現象として現れたのがこの世界だ。でも、“いのち”そのものにはこれという実体がないんだ。

B それは般若心経に出てくる“空”ということ?

A まあ、そんなところだ。ところで、“いのち”には実体がないから、本当は「一つある」とか「二つある」などと言うこともできないんだ。

「有る」とか「無い」ということさえできない。

いま説明していることも、アタマで理解するよりも、自分で体験として確かめることが大切なんだ。

B わかった。

A “いのち”には実体がないから、生まれるということもないし、死ぬこともない。

B 「増えることもなければ、減ることもない。浄くなるということもないし、汚くなるということもない」っと。

A 冗談はともかく、般若心経に書いてあるとおりだ。

“いのち”には実体がないから、どんなことがあっても絶対に傷つくこともない。

君はよそ事のような顔をして聞いているけど、“いのち”って君自身のことなんだよ。

「君は生まれもしなかったし、死ぬこともない。どんなことがあっても絶対に傷つくこともない」って言っているんだよ。

B あっ! 僕はそれを自分のことと思わずに、結構わかったつもりになっていただけなんだ。

A そこに気がつけば、一歩進んだということだ。

B 結局、この自分がどう生きるかが問題なんだね?

で、「どんなことがあっても、本当の自分は傷つくこともないし死ぬこともない」ということは、宗教的に言えば、「もともと自分は救われている」ということだよね?。

A 「何々ならば何々だ」というのは、結局、理屈にすぎないよ。だから、体験すれば、それが真実だということがわかるんだ。

B で、「もともと自分は救われている」ということだとしたら、何をしてもいいということになるよね。

どんなに自分勝手に生きたって、人に迷惑をかけたって、たとえ人を殺しても、自殺しても・・・。もともと救われているんだったら、そういうことになるよね。

A それは違うよ! そういうことじゃないんだよ。

B だって。理屈でもそうなるだろう?

A だから、アタマじゃダメだというんだよ。

もし、君が脚のスネを何かにひどくぶつけたら、痛くてたまんないよね。

B うん。そりゃそうだ。

A ただただ「痛い!」しかないよね。

実際には、いまここには、あるがままの事実しかない。その事実が生きるということのすべてだ。

“いのち”には実体がないこと、つまり、“空”を体験したとしても、それは、“いのち”の一面にすぎないんだ。

“空”を体験したら、そこに留まっていないで、現実の世界に戻ってくることが一番大切だ。

スネが痛ければ、できるだけ早く痛みを取り除くこと。

自分、そして、すべての人のかけがえのない生命を尊重すること。

自分さえよければのこころでなく、真心を全開にして、どこまでも人を慈しんで仲良く共に生きること。
 
一言で言えば、人格完成の道にいそしむことこそ、人として生きる目的なんだ。

救われるためにそう生きるのではない。もともと救われているからこそ、そう生きるのだ。

B ・・・。(何度もうなずき、ニッコリと笑う。)



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一つしかない その3

一つしかない その3

B 「一つしかない」ということは、とにもかくにも、「一つしかない」ということだよね。

A そう。とにかく、「一つしかない」ないんだ。

B ということは、自分というものもない。ただ、その何かだけしかない、ということだよね。

A うん。自分もだれだれと呼んでいるものもみんなその何かだ。同じものだ。何しろ、一つしかないんだからね。

B この世界にあるもの、存在、ハタラキ、作用、行為、思考、感情など何もかもみんなその何かだ。

A 「何か。何か」では何だから、とりあえず、ここではそれを“いのち”と呼んでおこう。

要するに、“いのち”しかないのだ。

たとえば、色(現象の世界)と空(本分の世界)というが、そういう二つの世界があるわけではない。

つまり、色即是空。空即是色だ。“即”は「そのままそれが」という意味だ。

自分は“いのち”の一部分だということではない。

自分即“いのち”。“いのち”即自分だ。

こうなると、「他と分離した」という意味を含んだ“自分”という表現はふさわしくない。

“自己“、あるいは、“真の自己“という表現のほうが適切だろう。

つまり、“いのち”が自己であり、自己は“いのち”だ、つまり、自己はすべてだ。

庭で咲く一輪のバラが自己だ。

B おかげで、随分すっきりした気がするよ。

A だからダメなんだよ。

B ええっ?

A それは、ただわかった気になっただけで、本当はまだ何もわかっていないんだよ。

B ???

A それはレストランでメニューの説明を読んで料理を食べた気になっているのと同じだよ。

いつも言っているでしょ。絵に描いた餅はどこまでも絵であって、実物の餅ではないと。

B そうだった。でも、どうしたらいいの?

A 思考を止めて“いまここ”にくつろいでいればいいんだ。

B 瞑想の自然法とか自観法をやればいいんだね。

A そうなんだが、これもいつも言っているように、ポイントは「何も求めない。努力しない」ということだ。

初めのうちは難しいかもしれないけど、毎日続けてると何となく要領がわかってきて、それなりにできるようになってくるはずだよ。

B そうか。じゃあ続けることにしよう。でも、瞑想すれば、アタマでなく本当にわかるの?

A 「かならずわかる」と言っておこう。

B 何か微妙な表現だけど、まっ、いいか。

A 大切なことは、どんなに上手に描いた餅の絵でも、そのイメージを持って瞑想すれば、生の実物の体験が妨げられるということだ。

B じゃあ。ここまでいろいろと説明してきたことはかえって妨げになるんじゃないの?

A 下手をするとそうなってしまうから、何もかも忘れてしまうまで充分に思考を静めることが大切だ。

それに、いろいろと説明してきたのは、何が何でも、真の自己、真の事実を体験的に捉えようという気になってほしいと思ったからんなんだ。

B でも、それで何かいいことがあるの?

A そんなケチなこといってないで、まず、やってごらん。



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一つしかない その2

一つしかない その2

A じゃあ、ここから一気に本質に迫ろう。水素や酸素はもももとはどこから生まれてきたんだろう?

B よくは知らないけど、原子や分子はもともと素粒子かなんかでできているんじゃないのかなあ?

A そのとおり。でも、僕もよくは知らないんだ。ただ、水素や酸素もそのもとに何かがあって、それが何かの作用で姿を変えてできたものだということだよね。

そのもとの何かと水素や酸素は別々のものと言える?

B 姿かたちは変わっても、本質としては何かが変わったわけではない。えっ!?

A そら、どうやら君にも「本質」という意味がわかってきたようだね。

B ウーム。

A 僕たち人間の大脳は、姿かたちが違ったり、視覚的に離れているものなどを見ると反射的に別々の分離したものと捉える習性があるんだ。

おまけに、大脳の発達とともに、言葉を持つようになったんだけど、その言葉は事実の表面的な一面しか表現できないんだ。

にもかかわらず、大脳が別々の分離したものと捉えたそれぞれに、言葉を使ってラベルを貼り付けて、それを把握できたと錯覚してしまうんだ。

B なんだか、自分が少し怖くなってきたよ。

A 非常にいい徴候だ。では、もう一度、最初から説明してみよう。

要するに、何かが一つだけあるんだ。

それがいろいろな姿かたちに変化している。

表面的にはバラバラにわかれているようにさえ見える。

でも、みんなもともとは同じ一つの何かだ。

いま思いついたばかりの例えだけど、1枚の表面が平らですべすべの紙があるとするよ。

その1枚の紙が徐々に変化して、表面に無数のしわができたり、でこぼこになったり、あちこちにいろんな色や匂いまで現れるようになったりしたとしよう。

でも、その1枚の紙が同じ1枚の紙であることは変わらないだろう?

B そりゃそうだね。

A じゃあ。その紙が破れて2枚の紙になったら、その2枚の紙は別々のものになったということかね?

B そんなことはない。

たしかに、見た目では別々の2枚の紙に違いないし、僕らの常識ではそれをバラバラで分離したものと捉える。

けれども、それは実に表面的な捉え方で、事実のほんの1面だけを捉えて、全体を捉えたと思い込んでいるだけだよ。

その紙に火を着けて燃やしたとしても、その紙が姿かたちを変えただけで、消滅したわけではない。

例えて言えば、象の鼻だけを触って、象は1本の管だと断定しているようなものだ。

もともと一つしかないんだよ。

それなのに、僕らが五感と大脳と言葉には限界があることに気がつかないで、勝手に、「この世界に存在するものはすべて別々だ、分離している」と決めつけていたんだ。

A おめでとう。君もはっきりわかったんだね。

では、その一つしかないものを何と呼べばいいんだろう。

B その本質はこれという姿かたちがあるわけでもないし、それが存在するともしないとも言えない。困ったなあ。

A 困る必要はないけど、そのとおりだよね。

僕はとりあえず、“いのち”とか“真の自己”、“真の事実”などと言ってみてるんだけどねえ……。(沈黙)



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一つしかない その1

一つしかない その1

A 本当は、一つしかない。

B えっ! 何が一つしかないの?

A 一つしかないので、「何が」とも言えないんだよ。

B どういう意味かわかんないよ。

A だからぁ。「何が」というのは、「これは何々で、あれは何々だ」というように二つ以上の何かがあるときに使う言葉だ。でも、一つしかないんだから、「何が」とも言えないんだよ。

B でも、何かがあるんでしょう?

A 本当は、あるともないとも言えないんだ。

B それってどういう意味? 

A 本当は、一つとも二つ以上とも言えないんだ。

B 何言ってんのかついていけないよ。

A それは君がアタマで考えているからなんだよ。

B またそんなことばっかり言ってえ。

A じゃあ。君のアタマでわかるレベルで説明してあげよう。

B 何だか上から目線で言われてるみたい。

A そういうつもりはまったくないんだけど、そう言うしかないんだ。

B よし、わかった。とにかくわかるように話してよ。


A OK。つまり、もともと、この世界には何かが一つしかないんだ。というか、この世界は一つのものでできているんだよ。世界というのは宇宙と言ってもいいよ。

B でも、この世界には違うものがたくさんあるじゃないか。違うものばかりだ。一つしかないなんて可笑しいよ。

A じゃあ、人体を例にして説明しよう。

人の体はもともと1個の受精卵だということは知っているよね。その1個の受精卵が細胞分裂を繰り返した結果、人体は約60兆個の細胞でできていると言われている。それらの細胞によって心臓や肺や胃や腸や血管や血液や骨や脳などの器官が作られている。

B ここまではよくわかるよ。

A じゃあ。たとえば、心臓と胃は別々のものかい?

B 心臓と胃は形もはたらきも全然違うから別のものと言ってもいいんじゃない。

A それはそうなんだけど、心臓と胃はもとにさかのぼれば、両方とも同じ一つの卵だったんだから、つまり、本質は同じ一つのものなんだ。

B ム、ム、ム・・・。えっ。本質?

A じゃあ、いま目の前に茶碗が1個あるけど、それが3つの欠けらに割れてしまったとしよう。この欠けらは別々のものかい?

B 3つとも違った形だし、もうくっ付いているわけじゃないから、バラバラの別物ということじゃない?

A それはそうなんだけど、みんなさかのぼれば、同じ1個の茶碗だったんだから、本質的には同じものだよね。

B ム、ム、ム・・・。本質ねえ・・・。

A もう一つ他の例で説明しよう。水素分子と酸素分子を化合させると水の分子ができるということは知っているよね。

B そのくらいは僕でも。

A じゃあ、その場合、水素や酸素はなくなってしまったの?

B 分子としての水素や酸素はなくなったけど、水の分子はエイチツーオーだから、両方とも水の分子の中にちゃんと残っている。

A そのとおり、本質的には水素も酸素も消滅したわけではない。ただ、姿かたちが変わっただけなんだ。

ということは、この世界で水素と酸素が結合するだけでなく、その他にもいろいろな変化が起こっても、水素も酸素も何らかの姿でずーっとこの世界にあり続けるんじゃない?

B 少しわかってきたような感じがするよ。


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瞑想と愉気

瞑想と愉気

手当て療法を野口整体では“愉気(ゆき)”と呼んでいます。

でも、愉気は単なる手当て療法ではありません。

たとえば、歯が痛い時、思わず歯のうえに手を当てます。そこには手を当てようという意識もありません。

小さな子供がお腹が痛いといえば、お母さんは「どうしたの?」と、思わず子供のお腹に手を当てるでしょう。

ただ、本能的な自然のハタラキがあるだけです。それが愉気です。

私たちにはもともと、自分の体の異常な箇所を本能的に感じ取り、そこに“思わず”気を集中し、自然治癒力を活発にする機能が備わっています。

大変面白いことに、愉気は自分の体でなく、他の人の体にも自分の体と同じようにはたらきます。

これは、普段、お互いに分離しているとと思っている存在が、事実は、同じひとつのものであるからです。

愉気は決して超能力でも何でもありません。私たち人間のごく当たり前の能力です。

いや、人間だけではありません。動物、植物、微生物など、おそらく、すべての生物、そして、無生物にさえ、同じようにはたらく普遍の能力なのです。

愉気で言う“気”の正体は大いなる“いのち”そのものです。

そして、たとえば、他の人に愉気をする場合に、気を送るのは“自分”ではありません。

大いなる“いのち”が自分の体を経由して、相手の体の気を必要としている箇所に、自動的に、そして、自然に流れ込んでいくのです。

愉気の力は“自分”の持っている力ではありません。だから、自分は何もする必要はありません。

ただ、“自分”という意識、つまり、自我があると、大いなる“いのち”とこのの体を繋いでいる経路がかなり閉ざされてしまいます。

ですから、自然の愉気をする前には瞑想などにより思考を鎮めることが大切です。これは活元運動の場合とまったく同じです。

また、「“自分”が愉気をするのだ」という意識があるかぎり、自分と相手はバラバラであるという邪念によって、大いなる“いのち”による自然の愉気が妨げられます。

愉気をするのは大いなる“いのち”そのものです。そのためには、思考を鎮めて静寂の中にあることが肝要です。

あとはすべて“手”に任せるだけです。

大いなる“いのち”に繋がった手は気(大いなる“いのち”)が不足しているところを自動的に感知します。

そして、そこに手を経由して、気が自動的に、また、自然に流れ込んでいきます。

そして、その部分が必要な気で十二分に満たされれば、自動的にそこから自動的に手が離れます。

愉気は単なる“体治し”ではありません。

相手の人だけでなく、すべてと一体であることをあることを体感し、確認し、実証する営みです。

また、愉気自体が自然の瞑想法と言ってもよいでしょう。

愉気は人間の本能的なハタラキですから、本来だれにでもできるのです。

と言っても、自分ひとりでやっても自己流になりがちです。

ですから、きちんとした指導者について習得されることをお薦めします。

僕のお薦めは「整体ライフスクール」です。



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瞑想と活元運動

瞑想と活元運動

瞑想の自然法をやっている際に、時々、自分の意志とは関係なく、体が動き出す方がいます。

これは体がバランスが偏ったり鈍ったりして異常な箇所を自ら整えようとする自動的な調整運動です。野口整体ではそれを活元運動と呼んでいます。

活元運動は体の異常を正し、健康を自ら保とうとするもともと体に備わっている機能なのです。

人間は活元機能によって本来健康に生きられるようにできているのです。

たとえば、誰でも睡眠中にはいろいろな寝相を取ります。そして、睡眠から覚めると体のバランスが整っています。これも活元運動のひとつです。

ところで、睡眠中になぜ寝相、つまり、活元運動が起こるのでしょうか?

それは睡眠中は通常の思考活動が停止しているので、体と大いなる“いのち”を繋いでいる回路が開いているからです。

そのために、大いなる“いのち”が体に風のように吹き込んで活元運動が起こってくるのです。

それは、中空の笛に大空の息吹、つまり、風が吹き込んで音楽を奏でるようなものです。

音楽を奏でているのは自分でもなく笛でもなく、大空の息吹なのです。大空の息吹が笛で音楽を奏でているのです。

つまり、活元運動をしているのは “自分”ではなく、体でもなく、大いなる“いのち”なのです。

活元運動をずっと実習している方は、動いているのは自分ではないということを実感として体験されていると思います。

でも、もしかして、「体が自動的に運動しているのだ」と思っていませんでしたか?

それは決して間違っているとは言えませんが、思考によって大いなる“いのち”との回路が閉じていれば、体の活元機能はフルにはたらくことができないのです。

いずれにしても、活元運動を起しているのは“自分”ではなく、大いなる“いのち”そのものが体にはたらいて起こっているのです。

活元運動は大いなる“いのち”が体を使ってダンスしているのです。“自分”がダンスをしているのではありません。

ですから、活元運動をする前には、まず瞑想の自然法などで“自分自分”という意識、つまり、思考を鎮(しず)めることがとても大切です。

もっとも自然な活元運動は静寂のなかからスタートするのです。

思考が静まったあとは、ポカンとして、すべてを大いなる“いのち”に任せてくつろぐことです。大いなる“いのち”こそ、本当の自分なのですから・・・。

でも、「任せよう」と気張りすぎると、それは “自分”意識・自我を増強しているわけですから、さらっとすべてを大いなるものに任せてくつろいでいることです。

もちろん、どんな運動が出なければいけないということもありません。

体が動かなくても、それはそれで最善のことが起きているのですから、すべて起きていることに任せることです。

どんどん活元運動をやりましょう! 

体も心も整ってきます。

そして、そのたびに、“自分”が大いなる“いのち”そのものであることを容易に実感できるでしょう。



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いのち雑記

“いのち”雑記

このブログにはいろいろなところで“いのち”という言葉が使われています。

そこで、「“いのち”とは何か?」ということについて、あれこれとなく思いつくままに書いてみようと思います。


というのは、僕の言う“いのち”は本来はこれであると定義できるものではないからです。

もともと“いのち”はそれが在るとも無いとさえも言えないものです。

でも、みんなだれでもそれを生きているのです。


宇宙はもともとひとつのものである。そのひとつのものを“いのち”という。

宇宙は“いのち”である。

この現象界は“いのち”の顕現である。

宇宙のすべての存在もハタラキも全部、もともと同じひとつの“いのち”である。

星も太陽も月も空も雲も雨も大地も山も川も海も湖も森も平野も、いろいろな樹木、草、花、実も、葉も茎も根も、いろいろな動物、牛も豚も犬もネコも蛇も蚊も魚も鳥もチョウチョもアリも、そして、人も、この“自分”もみんな同じひとつの“いのち”である。

同じ“いのち”が縁によって、その時々、いろいろな姿かたちになって現れたり、いろいろなハタラキとなって現れているのである。

現象界のすべての存在とハタラキの主体は“いのち”である。

現象界のすべての存在とハタラキは我々の五感や特殊な器械によって捉えることができる。

いまはできないものも、将来、器械の性能の向上によって検知できるようになるだろう。

一方、“いのち”は五感でもどんな特殊な器械でもその存在を検知することができない。

けれども、現象界と“いのち”が別々に存在しているのではない。

もともと同じものであり、捉える角度により現象、つまり、存在やハタラキとして捉えられたり、“いのち”として捉えられたりするのである。

したがって、たとえば、この体は存在であると同時に“いのち”である。

体は自動車と同じようにだんだん動きが悪くなる。そして、最後には動かなくなる。そして、焼却されたりして空中や土や水の中に拡散していく。

やがて、それはこの世界のいろいろなものの一部となる。

この体自体はたしかに目の前から消えたが、それが本当に消滅したのではない。

この体は誕生以前にも存在していたのだ。

“いのち”は体の、いわゆる、誕生や死に関係なく、ずっと切れ目なくぶっ続きである。

体が誕生しようと死のうと、“いのち”は生まれもしなかったし、死ぬこともない。

その不生不滅の“いのち”がいまこの体に宿っているのだ。

“いのち”がこの体を道具として使っていると言ってもよい。

この体が“いのち”を持っているのではない。だから、“いのち”を得たり、なくしたりすることはないのだ。

こころについても同じである。

自分の本当の正体は“いのち”だったのだ。

この体とこころの奥にある“いのち” すなわち、真の自己は宇宙のすべてとぶっ続きである。

問い:真の自己とは?   答え:庭に咲く一輪のバラ。



すべてよし

すべてよし

ある朝、深い瞑想状態に入っていました。

というか、本当は、目が覚めたあと、寝床の上で、ただぼんやりしていただけなのですが・・・。

そのとき、ふと、一つの問いが浮かんできたのです。

「仮に、このまま死んでいくということがわかっているとしたら、いまお前はこれまでの自分の人生を肯定できるか?」

間髪を入れず、答えが出てきました。

「すべてよし」と。

自分でも意外でした。

というのは、それまでにも何度か同じ問いを自分に投げかけ、同じ答えが出てきたのですが、言葉としては同じでも、その朝出た答えは質的にまったく次元が異なっていたからです。

それまでは、どこかアタマで考えてから「すべてよし」という答えが出てきていたように思います。

その朝は、「無条件で、すべてよし」という答えが即座に出てきたのです。

そこには、何の気張りもありません。「そうなのだ」と事実をそのまま認めただけなのです。

普段、昔の自分のことを思い出すと、まことに恥ずかしいことばかりなのですが、それでも、真実は、「無条件で、すべてよし」なのです。

無条件というのは、「こういう風に考えてみたら、そのように思える」ということではありません。「そのままで」ということです。

それまで、そのように思ってなかったということではないのです。

ただ、その朝僕に起こったことは、少なくともその時は、観念がすべて落ちてしまっていたのだと思います。

それで、「このままで、すべてよし」と、何の障りもなくスッと思えたのだと思います。

こんなことを言うと、早速、ツッコミがありそうです。

この世界には、個人的なこと、家族のこと、その他の人間関係、病気や貧困、子供の教育などで苦しんでいる人がたくさんいる。

また、自然災害はもちろん、原発事故、改憲問題、世界各地での戦争、地球規模の環境問題など、私たちはいろいろな深刻な問題に直面している。

そういうことを一番言っているのはお前さん自身じゃないか。

それなのに、「すべてよし」というのはどういうことだ?」と。

たしかに、言われるとおりです。

僕自身、一人でも不幸な人がいない世界、本当の平和な世界が実現することをこころから望んでいます。

そして、そのために、微力ながら精一杯自分にできることをやっていきたいと思っています。

でも、「この世界には深刻な問題がたくさんある」ということと「すべてよし」というのはまったく矛盾してはいないのです。

「すべてよし」と言っても、「この世界には深刻な問題がたくさんある」ということを無視しているわけでもありません。

「すべてよし」だからこそ、大安心して、現実のいろいろな問題を解決するために、力一杯やれるのです。


あなたも、「すべてよし」と言い切れるのか、その答えをぜひご自分で確かめてください。

瞑想の自然法や自観法を毎日続けていれば、いつの日か、向こうから答えがやってくるでしょう。



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いまここを生きる

いまここを生きる

あなたは「グラウンドホッグ・デイ」(日本語題名:恋はデジャヴ)と言う映画を見ましたか?

主人公は高慢で自己中心的なTV司会者のフィルという男性です。

彼は“聖燭節”のお祭りを取材するために、スタッフと一緒にペンシルベニアの小さな町を訪れます。

取材は無事に済んだのですが、吹雪で足止めを喰って、町の小さなホテルに泊まることになってしまいました。

ところが、その翌朝遅くフィルが目を覚ますと、昨日と同じ“聖燭節”が行われています。そして、その翌朝も・・・。そして、その翌朝も・・・。

フィルは時間の迷路に迷い込んだのです。

でも、フィルはそれを利用して、魅力的な女性プロジューサーのリタを口説いたり、それまでやりたいと思っていても、できなかったいろいろな無茶なことをやることを思いつきます。

フィルはレストランでもうこれ以上は食べられないというまで食べたり、タバコを次々に吸いまくったりします。

でも、翌朝に目が覚めると、体重が増えることもなく、胸が気持ち悪くなることもありません。

夜どんなに飲みすぎるまでお酒を飲んでも、翌朝には二日酔いになることもなく快調に目が覚めるのです。

ある日は線路の上を自動車で走って、とうとう警察の留置所で一晩過ごすことになってしまいました。でも、翌朝にはホテルの快適なベッドで目を覚ますのです。

町である男性とけんかになっても、約束を守らなくても、次の日には何も変わっていません。

言い訳や後悔などをする必要もないのです。

どんな自分勝手なことをしても、無茶なことをしても、翌朝になれば何の問題もないのです。

ただ、リタとはあるところまではうまくいくのですが、翌朝にはまたもとに戻ってしまいます。

それ以外は何を自分勝手に何をやっても何の問題も起きないのです。

あなたはフィルがうらやましいですか?

フィルはとことんまでその“幸運な生活”を楽しみました。

いや、あるときまでは楽しんでいると思っていました。

でも、そのような生活を毎日毎日続けていくうちに、彼はそんな生活を全然楽しんではいないことに気がついたのです。

リタのことが思いどおりにならないからでしょうか? 違います。

彼は自分勝手に無茶なことやいい加減なことをしても、それが何の悪い結果を引き起こさないということ自体にうんざりしていたのです。

そして、周りの人との関係を大切にすることなく、自ら1日をどんなに粗末に生きていたかということに耐えられなくなっていたのです。

こうしてある晩、「たとえ同じ日が毎日繰り返されようとも、その一日しかないのだ。自分さえよければという生き方でなく、周りの人々との本当の関わりなかでその一日を精一杯生きていこう」と決意して眠りにつきます。

翌朝、目が覚めると、いつもの朝と違います。本当に次の朝が来ていたのです。



こうして、フィルはついに時間の迷路から抜け出すことができました。

それはフィルにとって新しい1日の始まりであると同時に、新しい人生の始まりとなったのです。



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瞑想の自然法と自観法

瞑想の自然法と自観法

この二つの瞑想法については前にも説明しましたが、あらためて補足的に説明します。

まず最初にお断りしておきたいことは、僕が推奨するいくつかの瞑想法はかならずしも全面的に僕のオリジナルではないということです。

ですから、この二つに似た瞑想法が以前から存在していたとしても、また、誰かが提唱する瞑想法と似ていたとしても決して不思議ではありません。

僕は瞑想の自然法を自分自身の体験をもとに創造しました。

決してマネをしたというわけではありませんが、結果的には、瞑想の自然法は坐禅の“何も求めないでただ坐る”という只管打坐(しかんたざ)によく似ています。

ただ、瞑想の自然法の意義についての僕の説明にかなり独自性があるのではないかと自分では思っているわけです。

では、まず、瞑想の自然法のやり方ですが、実にシンプルです。

最初のうちは目を閉じてやります。

そして、何も求めずに、浮かんでくる想念を、雲が空を流れていくのを眺めているように、判断や評価や自己同一化をすることなしに、ただ眺めているだけです。

やり方はそれだけです。

やっているうちに、雑念がどんどん出てきたり、いろいろなことが起きてきますが、何が起きても、「すべてよし」と、ただ受け止めます。

ただ、想念に巻き込まれ、想念と同化しないことです。巻き込まれていることに気がついたら、すぐに、ただ眺めている状態に戻ります。

そうしているうちに、自分が何の努力もしていないにもかかわらず、瞑想が自動的に深まっていきます。

そして、しだいにこころが静かになってきます。想念もしだいに出なくなってくるでしょう。

そして、ついには想念も消え、静寂だけがあるでしょう。

さらに、瞑想が深まっていくと、思考によって作られた“他と分離した自分”という意識、つまり、自我も消えてしまうでしょう。

そして、私たちひとり一人の中心に到達します。

それは静寂、空そのものです。

それが全一唯一の“いのち”であり、それが真の事実、つまり、真の自己なのです。。

でも、このような結果を求めて瞑想しても、求める意識が残っているかぎりは、決してそのような結果に到達することはできません。

なぜなら、そのような結果を求めているのは思考によって作られた自我そのものだからです。

真の事実、真の自己に気づくのを妨げているものこそ自我、つまり、“他と分離している自分という意識”だからです。

ですから、“何も求めず、起こっていることをただ眺めている“ということが瞑想の自然法の極意と言えましょう。

自観法は日常の生活のなかで、ふと動作を止めて、意識を普通に保ったまま行う瞑想の自然法と考えればよいでしょう。

ただ、自観法は日常生活の中で普通の状態で行うだけに、とても効果的です。

1日に何度もやってみてください。

毎日やっていれば、そのうちに、その素晴らしさにびっくりするでしょう。

僕は自観法を“悟りを得るもっとも簡単な方法”ではないかと思っています。



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いま日本が危ない!

いま日本が危ない!

現在の日本は、政治、経済、教育、福祉など深刻な行き詰りを見せています。

とくに、東日本大震災による地震と津波の被害は甚大で、いまだに復興は遅々として進んでいません。

また、福島第一原発の事故はいまだに正確な状況把握もできていない有様で、復興の目途がまったく立っていません。

また世界的にも、環境破壊や核戦争の可能性などにより、人類社会は未曾有の危機に瀕しています。

この危機を根本的に乗り越えるためには、これまでとはまったく異なる流れを創りださなければなりません。

私は、その鍵が現行日本国憲法にあると考えています。

日本を含め、人類社会のかつてない行き詰まりの元凶は「自分の国さえよければ」という国家エゴイズムの対立にあります。

この国家エゴイズムの対立が国家間の戦争や企業間の過激な競争、地球規模の環境問題や貧困、飢餓などの深刻な諸問題を生み出してきました。

現行日本国憲法は、「前文において、日本は平和的な手段によって、世界の深刻な諸問題の解決に全力で貢献する。そうすることにより国の存立を図る」と高らかに宣言しています。

これは、国家間の対立の元凶である国家エゴイズムを自ら一方的に放棄するということです。

そして、9条においては、軍備の撤廃と自衛のための戦争を含めて、いかなる戦争をも放棄することを謳(うた)っています。

日本国憲法は人類史上はじめての“脱国家エゴイズム憲法“であり、国際社会におけるこれまでの”国家エゴイズム憲法“とはまったく次元を異にする憲法なのです。

日本国憲法は人類の叡智の結晶であり、日本の、そして、世界の至宝と言っても過言ではありません。

私たちは第二次大戦後このような画期的な憲法が日本にもたらされた事実とその意義をあらためて深く考えなければならないと思います。

私は拙著『国の理想と憲法』の中で次のように提案しています。

「私たちは、行き詰った世界の中で、日本を真に再生し、世界の危機を根本的に乗り越えるさきがけとなるために、現行日本国憲法の平和精神をより積極的に活かし、日本に新たな「国際環境平和国家を目指す」という理想を掲げましょう。」

日本ではここ数年、政治の混迷とかつてない不況に陥っていますが、現政権は改憲の意思を公然と口にし、その実現に向かって着々と歩を進めています。

もし、発表された「自民党憲法改正草案」に沿って改憲されれば、日本は“国民が国家に従うのは当然で、公然と戦争のできる“ 戦前のような体制に戻ることになります。

原発再稼動と改憲。私たちはいま戦後最大の危機に直面しているのです。

ぜひ、
増補版『国の理想と憲法ーー国際環境平和国家への道』 野村昇平著 七つ森書館

をお読みください。

拙著に対してこれまで多くの賛同のコメントをいただきましたが、3人のさる高名な方々から「この本は現代のバイブルである」というお言葉をいただいたことを付記しておきます。
(これは決して自慢ではないことをご理解ください。)


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みんなでアセンション

みんなでアセンション

僕はアセンションという言葉を“意識の次元が短期間のうちに集団的にアップすること”という意味で使っています。

僕はアセンションは何もないところで突然起きるものとは考えていません。

悟りや目覚めと呼ばれる個人的な意識の次元のアップも、多くの場合、何かでとことん行き詰った時に突然起こっているからです。

現在、私たちの人類社会は原発事故、核戦争の危機、地球規模の環境問題、食糧危機、水資源の枯渇などさまざまな非常に深刻な問題で行き詰っています。

もし、大きな原発事故や核戦争が起きれば、私たちは想像を絶するほどの大きな被害を受けることを私たち日本人はすでに自ら体験しています。

もっとも深刻な場合には、人類絶命の可能性さえあるのです。

そういう意味で、逆説的な言い方ですが、私たち人類はアセンションの絶好の機会を迎えています。

実際には、それはすでに世界のあちこちで始まっています。

そして、その勢いは徐々に大きくなってきているのです。

世界中で約6000万人(アジアでは約2000万人)、日本人だけでも300万人の犠牲者を出した第2次世界大戦の終結後、荒廃しきった日本に日本国憲法が誕生したことこそ人類規模のアセンションの始まりだと、僕は考えています。

なぜなら、それまで、人類社会は何千年と“自国の繁栄と生き残り”という国家エゴイズムを国の普遍の根本方針として、他の国々と対立と抗争を繰り返してきました。

これまでの戦争その他による人類社会の悲惨な出来事、そして、現代の行き詰まりの根本原因は世界の国々の国家エゴイズムによる対立なのです。

何千年も国家エゴイズムにより世界の国々が対立する中で、人類史上始めてこの日本に“脱国家エゴイズム憲法”が誕生したのにはきっと深い意味があるのではないでしょうか?

ただ残念ながら、日本国憲法が制定されてから今日まで60数年、ほんとうに憲法の精神を実現しようという努力が払われたことは一度もありません。

でも、いまからでも決して遅くはありません。

僕は、現行の日本国憲法の脱国家エゴイズムの精神をもっともっと積極的に活かし、日本に「国際環境平和国家」実現の理想を掲げることを提案しています。

それは、日本の国がまず、原発に頼らない新エネルギーシステム国家のモデルとなること。

同時に、世界の深刻な環境問題やエネルギー問題、飢餓や貧困問題などに日本の国力をあげて貢献するということです。

日本にそのような脱国家エゴイズムの気運が盛り上がってくれば、かならず世界のこころある多くの方々にその気運が伝わり、やがて、他の国々でも人類共生社会実現に向けて新たな動きが生まれてくるでしょう。

こうして、新しい日本を基軸として、人類の歴史の流れは人類共生社会の実現に向けて大きく転回することになるでしょう。

そのような日本に住む私たちは、日々どんなに誇らしく思いながら生きることでしょう。

それが僕の描くアセンションです。

その実現のカギは実はあなたの手の中にあるのです。

下記の拙著をお読みいただければ、あなたにもきっと提案の趣旨に賛同していただけると思います。

増補版『国の理想と憲法―国際環境平和国家への道』 野村昇平著 七つ森書館



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9条を素直に読むと

9条を素直に読むと 

では、前文に続いて9条を考えていきましょう。

〔日本国憲法 第9条〕
   
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

まず、第1項にある「国際紛争」ですが、前文の意味からして、これには「相手国からの自国への侵略」も含まれています。

ということは、「自衛のための戦い」も「国際紛争を解決する手段」に含まれるわけです。

したがって、第2項の「前項の目的を達成するために」の中に、「自衛のための戦い」も含まれることになります。
         
さらに、第2項の「交戦権」については、そもそも国際法上、「他国を侵略する権利」は認められていません。

ということは、交戦権とは、「自衛のために戦争する権利」のことであり、第2項にある「国の交戦権は、これを認めない」の意味は、「国の自衛のための戦争を認めない」ということです。

異論があるのは承知していますが、このように解釈してこそ、第1項と第2項、また、前文と9条がぴったり整合すると思うのです。

確かに、国際法で「自衛権」は認められています。

しかし、9条で言っているのは、日本は、国際法上、自衛権はあるけれど、あえて「武力によって自衛する権利」は放棄するということです。

つまり、「自衛のための戦争」を含むすべての戦争を放棄しているわけです。

もし、万一日本が外国から侵略されるようなことがあっても、我々は武力で立ち向かわずに、武力以外の平和的な手段で自衛するのだ、という捨て身の構えを表わしたものと受けとるべきです。

第2項に、「国の交戦権は認めない」と書いてあるだけで、「自衛の場合は、この限りではない」といった例外規定のないことが、何よりもこの解釈を裏付けています。

戦力の保持ということについても同様です。

もし、自衛のための戦争を認め、そのための戦力は保持するというのであれば、「自衛のための戦力は保持する」と明記されているはずです。
 
終戦直後の人たちの心境を思いやり、素直に9条を読めば、「私たちはどんな名目があっても戦争は絶対にしない、そのことを示すために、たとえ自衛のためであっても一切武力は持たない」という決意の表明であるのは間違いないと思うのです。

以上のように、日本国憲法の平和に関する根本姿勢は、口先だけの平和声明を出したり、国際協調を唱えたりという類のものではありません。

「武力は放棄して、平和的手段によって、世界の平和と繁栄に貢献する努力をしよう。それによって、国の存立を図ろう」という極めて積極的・能動的な平和立国政策を表明しているのです。

こんな素晴らしい憲法がかつてあったでしょうか。

日本国憲法こそ日本、そして、人類の宝なのです。



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前文を素直に読むと 

前文を素直に読むと 

日本国憲法は平和憲法と呼ばれますが、日本国憲法は平和についてどう言っているのでしょうか?

その答えは、憲法の前文に集約されているはずです。

ただ、前文や9条は一読しただけでは真意が伝わりづらいのです。

憲法学者の方々にもいろいろな意見があるように、たしかに理屈の面ではいろいろな解釈が可能だと思います。

ですから、前文や9条を読む時には、字面に捉われずに、素直な気持ちでその真意を感じ取ることが大切だと僕は思うのです。

まず、前文の①では、戦争放棄と国民主権、つまり、国に主権があるのではなく、国民に主権があること、そして、基本的人権の尊重、つまり、国が国民の基本的人権を保障することとしています。

次に、②以下について、少し言葉を入れ替えたり補ったりして、わかりやすいように整理してみましょう。


日本国民は、恒久の平和、つまり、一時的な仮の平和ではなく永続する真の平和を念願します。

私たちは、人間相互の関係を支配する崇高な理想、つまり、人間は皆兄弟のような存在であり、お互いに自由であり平等であるという本来のあり方を深く自覚します。

私たちは、平和を愛する諸国民の正義と誠意、つまり、こちらが正義と誠意を持って接すれば、相手も正義と誠意で答えてくれることを信頼します。

そこで、私たちは、武力によってではなくお互いの信頼によって私たちの安全と生存を図ろうと決意しました。

私たちは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠になくし、また、全世界のすべての国民が、恐怖と貧乏からまぬがれ、平和に生きることができるように、自分たちが自ら先頭に立って、国を挙げて全力で努力し貢献します。

そして、そうすることにより国際社会において名誉ある地位を占め尊敬される存在になりたいと思います。

どんな国家も、自分の国さえよければいいと自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのです。

こうした政治道徳の法則はすべての国が守るべき普遍的なものです。

この法則に従うことは、独立国として自国の主権を維持し、他国と対等につき合おうとする各国の責任であり義務であると私たちは信じます。

日本国民は、国家の名誉にかけ全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓います。

そして、②以下では、平和主義を謳(うた)っています。

けれども、ただ、「戦争はいやだ。平和でありたい」と言っているような柔(やわ)な平和主義ではありません。

私たちは戦争は二度としない。だから、武力で国を守ろうとはしない。

どんな国も自分の国さえよければということではダメなのだ。

だから、私たちは国力をあげて世界の飢餓や貧困などの解決のために、つまり、平和的な手段で世界に貢献していくのだ。

そして、このようにして世界の国々にとってなくてはならない存在になり、信頼を勝ち取ることによって国の安全を保つのだ、という崇高な決意の表明なのです。

このように、日本国憲法は、何千年も国家エゴイズムによって、飽くなき対立と抗争を繰り返してきた人類社会において、はじめて脱国家エゴイズムを宣言した画期的な憲法なのです。



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日本国憲法を読む

日本国憲法を読む

明日は終戦記念日です。

これを機に、読んだことがある方もない方も、私たちの国の根本法である日本国憲法をあらためてじっくりと読んでみませんか。

僕はとくに前文と9条を読むたびに、国のあり方についてはもちろん、自分の生き方についても大きく眼が開かれる思いがするのです。

そういうこともあり、ここでは、私たちにとってもっとも大切な前文と9条だけを載せます。

文章が少し堅いこともあり、理解しづらいところもあるかもしれませんが、その意味や僕自身の考えについては次のブログに書きます。


〔日本国憲法〕

前 文

① 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

② そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

③ 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

④ われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

⑤ 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


第2章 戦争の放棄

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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人生が思い通りになったら?

人生が思い通りになったら?

あなたは人生が思い通りになるとしたらどう思いますか?

「そりゃあ、楽しいに決まっているじゃないか」と言われそうですね。

僕も以前は何の根拠もなくそう思い込んでいました。

ですから、何でも思いどおりになるように、それなりに一生懸命頑張りました。

それで、物事が自分の思いどおりにいったときには嬉しい気持ちになるのですが、思いどおりにならなかったときにはがっかりしていました。

ある意味で、いろいろなことで一喜一憂しながら生きていたのです。

でも、そのような気持ちで生きていくのは決して幸せな人生であるとは思えませんでした。

ずっと何か重要なことを自分が見失っているという気持ちが心の奥にあったのです。

「これが本当のあるべき人生の姿ではない」という気持ちです。

それで、仏教関係の本などを読むと、お釈迦様は「人生は苦である」と言われています。

どうやら、それが仏教の出発点で、「苦をどのようにして乗り越えるか」ということが仏教の主要なテーマであるように思いました。

でも、「なるほど、仏教とはそのようなものか」とは思いましたが、かえってそれも大変そうで、それ以上仏教を学んでみようとは思いませんでした。

そんな時に、「事実はかならずしも思い通りにはならない」という当たり前のことにハッと気がついたのです。

なぜなら、事実と思いはもともと別のものだからです。

その当たり前の事実に気がつくとともに、もう一つの事実に気がついたのです。

それは、「“事実はかならずしも思い通りにはならない”という“事実”は苦ではない」ということです。

”事実“はただ”事実“であるからです。

ということは、「“事実はかならずしも思い通りにはならない”という“事実”を大いに楽しんでもよい」ということです。

もっとはっきり言えば、どんな事実があり、どんな状況であろうと、それは“自分”の外で起きていることであり、それらによって、“自分自身”の幸せや生きる楽しさは絶対に損なわれるものではないのです。

それ以来、僕は「物事が思いどおりになったときも、そして、ならなかったときも、いつも“こころから”楽しく生きることができるようになったのです。

そして、「物事が思いどおりにならなかったときでも、もし、その状況を改善する機会がありそうなときには、“こころから”楽しみながら工夫し、実行できるようになりました。

ここで、「物事が思いどおりになったとき」という「物事」には例外がありません。

それは「どんな状況であっても」ということです。たとえば、肉親や親しい方の死(不慮の死も含めて)に直面した時でさえもという意味です。

どんな死であっても、本当は、死そのものは悲しいものではありません。

僕は決して誰かの死に対してどんな感情や感慨も湧いてこないと言っているのではありません。誤解のないように。

人生はかならずしも思い通りにはなりません。

自分個人のことだけについて言えば、だからこそ人生は面白いと思うのです。



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一歩下がって見る

一歩下がって見る

事実はただ事実であるだけです。

事実そのものには、たとえば、善悪も好悪も美醜も優劣なども一切ありません。

ところが、私たちは事実を、たとえば、これは善であるとか、あるいは、悪であるとかアタマで判断し、それを事実だと思い込んでしまいがちです。

けれども、事実は一切の観念を超越して、ただ、そのまま存在しているだけです。

とは言っても、ある事実について、たとえば、それを良いとか悪いなどと思ってはいけない、あるいは、言ってはいけないなどと言っているのではありません。

自分の考えは考えであり、思うのも言うのも自由です。

ただ、その場合に大切なことは、「考えは事実そのものではない」ということをはっきりと承知していなければならないということです。

ところが、真実は“自分の考え”にすぎないものを“事実そのもの”であると錯覚して、それに執着し、自分自身を苦しめたり、他の人といがみ合ったりしている方がとても多いように思うのです。

また、「自分の考えは絶対間違いのない」と思い込み、そのために、自分自身を苦しめたり、他の人といがみ合ったりしている方も非常に多いように思います。

自分の考えは絶対間違いのないと決めつける理由は二つあります。

一つは、考えを事実そのものと錯覚していることです。

もう一つは、自分の考えはあくまで自分が持っている価値判断の体系、つまり、自分の立場から見た一つの考えにすぎないということに気がついていないことです。

人はそれぞれの立場でそれぞれの考えを持っています。

自分が自分の考えを絶対に正しいと思っても、「かならずしも自分の考えが絶対に正しいとは言い切れない」ということをしっかりと肚(はら)に据えるべきなのです。

ですから、自分の考えを絶対正しいと思い込まないで、いつも「本当はどうか?」という態度でいることが大切です。

また、相手と話し合う場合には、いつも相手の方々の考えの真意をどこどこまでも聞こうとする態度で聞くことが大切なのです。

そして、自分の考えもかならずしも絶対に正しいとは言い切れない、また、他の人たちの考えもかならずしも絶対に正しいとも間違いだとも言い切れないという態度でいることです。

そのうえに立って、「本当は何が正しいのか?」と考えていく、あるいは、お互いに話し合っていく態度が大切なのです。

これは決して他の人を責めて言っているのではありません。あくまで、自分自身をいましめているのです。まず自分自身の態度こそ問題としなければならないと思うからです。

それほどにも、私たちはアタマに頼り、また、自分自身の思い込みに気がつきにくいということなのです。

自分自身を、そして、周りの人を苦しめる原因の一つはこの「自分の思うことが事実である」という錯覚と「自分の考えは絶対正しい」という思い込みです。

いつもこころがけて「一歩下がって見る」ようにしたいものです。


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一輪のバラ

一輪のバラ

朝、庭に出たら、そこに数本のバラが咲いていました。

一輪のバラに目が留まりました。

上品なピンク色のバラです。

「君、すごいねえ」と、思わずそのバラに声をかけてしまいました。

色がきれいだったからだけではありません。

その一輪のバラが宇宙を尽くしているからです。

一輪のバラは一輪のバラであって、しかも、バラではないのです。

その一輪のバラは単独でこの世に生まれてきたわけではありません。

また、単独でこの世に存在することもできません。

その一輪のバラには宇宙のすべてが含まれています。

同時に、その一輪のバラは宇宙のすべてを支えています。

その一輪のバラもいずれ萎(しお)れて、地に落ち、微生物に分解されてしまうでしょう。

やがて、あなたはこの地上や空中のすべてのものの中にそのバラを見出すでしょう。

そして、長い長い無限に近い時が経過した時、この宇宙のすべてのものの中にそのバラを見出すでしょう。

でも、「その一輪のバラは宇宙を尽くしている」という事実は、そんなことを考えなければ分からないのではありません。

朝の光の中で緑の樹木や草花に囲まれて輝いているその一輪のバラをそのまま素直に見れば、誰にでも分かる単純な事実です。

その一輪のバラだけではありません。

この世界のすべての存在、起こっている現象のすべてがそれぞれすべてを含み、同時に、支えている、つまり、“尽くしている”のです。

私たち一人ひとりが宇宙を尽くしています。

庭を歩くその一歩が宇宙を尽くしています。

この一呼吸が宇宙を呑み吐き出しています。

バラの花の下の地面を見ると一匹の“小さな”アリが歩いています。

この一匹の“小さな”アリが“大きな”宇宙を尽くしています。

本質の世界には大小なんてないのです。

私たちは大脳の発達により自我を持つようになりました。

そのため、私たちは存在を自分と自分でないものに分けて意識すると同時に、すべての存在は、それこそ、バラバラであると意識するようになりました。

でも、バラはバラバラではありません。

バラは宇宙のすべての存在とひとつなのです。

大海の表面に生じる一つ一つの波はバラバラでしょうか? 

波は海とは別のものでしょうか?

この世界に存在するものはもともとみんな同じひとつのものなのです。

ところが、この一つ一つの波がそれぞれ自我意識、つまり、“他と切り離された自分”という意識を持つようになってしまったのです。

それが私たち人間です。

僕はきっとそれには深い意味があってのことだと思います。

私たちは自我意識を持ったためにある面ではとても発達した文明を持つようになりました。

けれども、逆に、人々の自我意識により、個人的にも社会的にも、さまざまな混乱と苦しみが引き起こされるようになってしまいました。

その根本原因は、私たちが表面的な“自分という個“だけを意識し、「すべての存在はみんなひとつの同じ“いのち”なのだ」という真の事実を見失っているところにあります。

一輪のバラはバラであって、しかも、バラではないのです。

“真の自己”は“いまここ“に当たり前の顔をして存在しています。


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