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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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アルコールは強力な麻薬 その4

アルコールは強力な麻薬 その4

「アルコールにはニコチンと同じように依存性があるのはわかった。

でも、自分はストレス解消のために、アルコールの摂取を十分にコントロールしながら、飲んでいるので何も問題はないと思う。

たしかに、大量飲酒は問題だろうが、自分はそんなに大量に飲むわけではない。

それに、ほどほどのアルコール摂取は健康増進に効果がある、という医学的な報告も出ているではないか」


このような意見はとても多いのではないでしょうか?

ただ、このような考え方にはいくつかの点で問題があります。

まず、事実、タバコやアルコールは強力な依存性薬物だということです。

ということは、それらを摂取して得られるストレス解消などの“快感“は依存性薬物による”麻薬的な効果“であり、錯覚、あるいは、幻想であるということです。

ヘロイン中毒者は快感が得られると思って、ヘロインを静脈に注射します。けれども、それは本物の快感ではありません。

ヘロイン中毒者はヘロインが切れてくると、イライラして落ち着かなくなります。そのイライラはその前にヘロインを摂取したことが原因であることは明らかです。

なぜなら、ヘロインをやらない普通の人はヘロインを打たなくてもイライラすることはないからです。

ヘロイン中毒者はヘロイン摂取により生じたどうしようもない不快感を同じヘロインで紛らわしているだけなのです。

タバコやアルコールを摂取して得られる“快感“というものもまったく同じです。本物の“快感“ではないのです。

要するに、私たちはみんな騙(だま)されていたのです。

たしかに、「ほどほどの飲酒は健康にいい」というような内容のことがいくつか医学的に報告されています。

しかし、実は、すでに、地道で総合的な研究・調査によって「それは誤解だ」という信頼すべき医学的な報告が発表されているのです。

その本をご紹介しておきましょう。

『アルコール 少量飲酒習慣から健康障害が始まる』 
H.H コルンフーバー著 シュプリンガージャパン出版社

この本の報告によれば、健康に関しては、「晩酌程度の少量飲酒こそが諸悪の根源である」ということです。

詳しいことは、ぜひこの本によって確かめてください。

いずれにしても、みんながやっているからとか、合法であるからということを横において、ニコチンやアルコールを科学的にまた経験的に直視しましょう。

僕はさんざん実験・研究したあと、タバコやアルコールの事実に気づき、すっきりとやめました。

やめると決断した瞬間から、僕はハッピーなノンスモーカー・ノンドリンカー、つまり、当たり前の人になっていました。

タバコやアルコールをやめて本当によかったと思います。

もうこれ以上健康のことを心配する必要がなくなったということもありますが、それはむしろ小さな喜びにすぎません。

タバコやアルコールをやめて本当によかったと思うのは、人生そのものが何倍も楽しく感じられるようになったことです。

(終わり)


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アルコールは強力な麻薬 その3

アルコールは強力な麻薬 その3

「ここまで読んできて、とくに、ハンセンの表を見ると、タバコもアルコールも麻薬だと思う。

けれども、実感としては、タバコはともかく、アルコールが麻薬だとはどうしても思えない、と言う方が多いのではないでしょうか?

たしかに、アルコールの飲みすぎは体にも悪いことは明らかだし、毎日多量に飲んでいればアルコール依存症にもなるだろう。

でも、自分はそんなには飲まないし、たまに飲みすぎることがないとは言えないけれど、実質的にはアルコールの摂取をコントロールできていると思う。

そして、何よりアルコールを楽しんでいるんだ。余計なことは言わないでくれ。」


そのようなお気持ちは、元経験者として、僕自身よく理解できます。

ただ、いくつか質問させてください。

あなたはアルコールを飲んで“本当に”楽しいですか? 

もしかして、それはアルコールにだまされて、アルコールを飲むのは楽しいと錯覚しているのではないのですか?

まだアルコールを飲んでいなかった若いとき、あなたは何かの折にはアルコールを飲まなければ楽しくなれない、ストレスが解消できないなどと思いましたか?

もともと、アルコールを飲まなくても、楽しいものは楽しく、楽しくないものは楽しくなかったのではないですか?

アルコールを飲むようになってからはじめて、何かの折にアルコールを飲めないと楽しくないと思うようになったのではないですか?

もし、タバコやアルコールが違法で、ヘロインやコカインが合法的に販売されていたらどうでしょうか?

あなたはタバコやアルコールには拒絶反応を示し、ヘロインやコカインを摂取するのは楽しいと思っていた可能性があるとは思いませんか?


私たちはタバコやアルコールを何回か摂取すると、タバコやアルコールを摂取するのが楽しい、ストレスを解消できるなどと錯覚するようになります。

そして、タバコやアルコールは私たちに、それをコントロールしているのは私たちだ、と思わせます。

けれども、事実は、タバコやアルコールが私たちをコントロールしているのです。

タバコやアルコールは私たちをコントロールしながら、しだいに、私たちの健康や心を奪って、ひどくなると、仕事や家族さえも奪ってしまうのです。

ただ、とくに、アルコールに関しては、その進行はゆっくりで、通常、そのようなどん底まで落ち込むのには数十年かかります。

ですから、飲酒者の80%はどん底に落ち込む前に死亡してしまいます。そのために死ぬまでアルコールの正体に気がつかない方が多いのです。

というか、無意識のうちに、その正体を認めたくないと思っているのかもしれませんね。

いずれにしても、タバコやアルコールが原因でなくなる方は、少なく見積もっても、日本中で年間数万人から10万人以上にのぼります。

この数字はタバコやアルコールが合法だということもありますが、ヘロインやコカインに比べると、数百倍から数千倍にもなります。

一番の問題は、強力な麻薬であるタバコやアルコールが合法的に販売されているということです。

(続く)



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アルコールは強力な麻薬 その2

アルコールは強力な麻薬 その2

タバコやアルコールが強力な依存性薬物であることはランセンの表などからわかるのですが、中には次のように変なことを言う人もいます。

タバコやアルコールが強力な依存性薬物であるとしても、強力な“麻薬”とは言えないのではないか? 

なぜなら、ヘロインやコカインなどは違法だけれど、なにしろ、タバコやアルコールは合法で店頭や自動販売機でも売られているぐらいだから・・・。

これは明らかに矛盾した考えです。

まず、はっきりしなければならないことは、合法か違法かにかかわらず、そもそも、“依存性物質”の別名が“麻薬”だということです。

では、どのような特性を持っている物質を依存性薬物、つまり、麻薬と呼んでいるのでしょうか?

依存性薬物(麻薬)にはいくつかの特性があります。その中で共通しているのは、次のような性質です。

1 その薬物を摂取することは楽しいことで、心のささえになり、体の欠陥を補うことができる。

2 その薬物を摂取した後、薬物が体から消えるときに、何かイライラして落ち着かないような離脱症状が起きる。

3 離脱症状が出ているときにその薬物を摂取すると、離脱症状からくる不快感がなくなり、薬物を摂取する前のリラックスした状態に戻る。

4 このプロセスを繰り返すたびに、その薬物を摂取することは楽しいことで、心のささえになるとますます強く思い込んで、洗脳されていく。

5 世間では一般的「その薬物をやめるのは、離脱症状が強くてとても難しい」と思われている。

要するに、依存性物質(麻薬)によって得られる楽しさや心の支えというものは幻想に過ぎないのです。

なぜなら、その楽しさや心の支えというものは、たとえば、深い水の中に飛び込んで、息を詰めて潜り続けているうちにだんだん息が苦しくなったところで、水面に浮かび出て、大きく息を吸ってホッとして喜んでいるのと同じようなものなのです。

水の中に潜っていなければ、最初からずっとホッとしてリラックスしていられたのです。

このように、タバコやアルコールの正体をはっきり理解すると、あまりのバカバカしさに、もはや、タバコを吸いたいとかアルコールを飲みたいという欲求そのものがすっかり消えてしまいます。

それに、そうしてタバコやアルコールをやめると離脱症状も起きません。

離脱症状というのは、それがどうしても欲しいという気持ちを精神力でガマンするという心の葛藤から生み出されるのです。

このように、吸いたいとか飲みたいという欲求がなければ、タバコやアルコールをやめるのは実に簡単です。

たとえば、バスに乗りたいという気持ちがなければ、乗らないでいることは実に簡単であるのと同じです。

もちろん、意志の強さなどまったく関係ありません。

実は、このことはタバコやアルコールにかかわらず、ヘロインやコカインなどの麻薬についても言えることなのです。

以上、医学的な研究・調査の結果だけでなく、多く方々の日常的な体験から、タバコやアルコールが強力な麻薬であることは明らかなのです。

(続く)



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アルコールは強力な麻薬 その1

アルコールは強力な麻薬 その1

このタイトルを読んだ方のうち、日頃から自分でも飲みすぎではないかと思い、アルコールの摂取を控えなければと苦心している方は「もしかしたら、そうなのかもしれない」と思われるかもしれません。

でも、多くの方は「タバコだったらまあわかるけど、アルコールがまさか強力な麻薬なんて!」と思われたのではないでしょうか。

そういう意味では、これからどんなにわかりやすく書いてみても、多くの方が「そんなはずはないだろ!」と強く拒絶される可能性が大きいと思うのです。

それでも、書こうと思うのには二つ理由があります。

一つは、僕の親しい友人が胃がんであっという間に亡くなったことです。その原因は明らかに若いころからの毎日の飲酒です。

もう一つは、社会的洗脳がどれほど強く、それによって、私たちがいろいろと真実でないことを真実だと深く思い込んでいるかに気づいてほしいと思うからです。

では、これからアルコールが強力な麻薬であることを証明しましょう。

まず、インターネットで「薬物依存症」を検索するといくつも出てきますが、Wikipedia(ウィキペディア:フリーのインターネット百科事典)の「薬物依存症」に入ってください。

その中に、「ランセット」というイギリスの医学雑誌に掲載された「いろいろな薬物の身体的、精神的依存の度合いを示した表」が掲載されています。

詳しいことはその表を見ていただくとして、平均依存度だけ見ると、

ヘロイン 3.00、コカイン 2.37、バルビツール酸 2.0、ベンゾジアゼピン 1.83、アンフェタミン 1.83、大麻 1.47、LSD 1.23、エクスタシー 1.13 となっています。

そして、なんと、タバコが2.23、アルコールが1.93 なのです。

これからわかるように、タバコもアルコールも強力な依存性薬物だと医学的に認められているのです。

もちろん、ランセットのこの表をそっくりそのまま信用できるのかという問題はあるかもしれません。

ところが、欧米の医学界では、タバコやアルコールを“嗜好品”ではなく、“麻薬”に分類する傾向が強く、それを肯定する数多くの研究・調査結果が発表されているのです。

そういうことから、「タバコもアルコールもヘロインやコカインにも匹敵するような強力な麻薬である」と言ってもよいと思うのです。

このような証拠をつきつけられても、まだ、「タバコはともかく、アルコールも強力な麻薬なんてとても信じられない」という方がとても多いのではないでしょうか。

なぜなら、それは私たちの。いわゆる、“常識”とあまりにもかけ離れているからです。

「だって、みんなお酒を楽しんで飲んでいるじゃないか。もちろん、飲みすぎるのは問題だけどサ」という声があちらこちらから聞こえてきそうです。

でも、みんなアルコールを飲んで本当に楽しんでいるのでしょうか?

(続く)



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本来のこころ

本来のこころ

お釈迦様は瞑想を昼夜にわたり何日間も続けた後、ある日の明け方に明星を見た瞬間、「私はすべての存在とともに悟った」と言われたそうです。

これに関連して、道元禅師は次のように言われています。

「人の本来の心は、そのままで安らかなものである。仏法、つまり、真理を尋ねまわらなくても、心はもともととても明らかなもので霊妙である。いままで抱いていた凡聖の二見、つまり、“これは平凡でツマラナイもの、あれは神聖で価値のあるもの”という見方を断ち切りさえすればよいのだ。何もわざわざ明星を見て悟るまでもない」と。

「凡聖の二見」というのは、観念によって、物事をコレとアレというように別け、自分で勝手に作り出したモノサシによって、それぞれを価値付けして差別を図ることです。仏教では“分別心“とも言います。

凡聖の二見を断ち切るためには、瞑想の自然法がとても効果的です。

何も求めずに、ただ瞑想をしていると、しだいに思考が静まってきます。そして、ついには、思考が止まります。

そこに展開している世界は、思考という曇りガラスを通して見たものではなく、ありのままの事実の世界です。

ありのままの事実の世界では、すべてがひとつであり、自も他もありません。

“自分“というものがないので、”自分でないもの“もありません。

強いて“自分”という言葉を使うとすれば、すべてが“自分”です。

ありのままの事実の世界では、凡も聖もなく、優劣もありません。所有もありません。

迷いや悟りさえもありません。

あるがままの世界では、すべて事実丸出しで、本来の自己が丸出しになっています。

そこには欠けているものは一つもありません。

そこでは、すべてが完璧に安らいでいます。

それは「すべてよし」の世界です。それが存在の真実です。

では、その存在の真実はどこにあるのでしょうか?

実は、この問い自体が一大問題なのです。

なぜなら、存在の真実は求めるまでもなく、“いまここ”に厳然として存在しているからです。

それなのに、なぜそれを求めようとするのでしょうか?

それは、アタマという曇りガラスを通してこの世界を見ているので、存在の真実が“いまここ”にはないと思っているからです。

ですから、“いまここ”に厳然として存在している存在の真実に気がつくためには、瞑想の自然法などをして、思考を鎮め、あるいは、止めて、凡聖の二見を断ち切る必要があるのです。

そうすれば、「何も求める必要はなかったのだ。すべてはずーっと“いまここ”にあったのだ」ということに気がつくことができるでしょう。

もし、「幸せ」という言葉を使うとすれば、一時的な幸福感などではなくて、本当の幸せは“いまここ”にずっと存在していたのだ、ということがわかるでしょう。

“そのままの自分”イコール“幸せ”だったのです。

これ以上何を求める必要があるのですか?


生きるということは、本来、どこまでも明るく、爽やかで、楽しいものなのです。



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悟りの第一歩

悟りの第一歩

”悟り”とは、 真理を会得すること、つまり、真の自己を体験的に捉えることで、普段、僕が使っている“自覚”とほぼ同じ意味です。

仏教では、「人は本来仏である」と言われています。

つまり、“悟り”とは、「自分はもともとブッダ(真理を会得し、真理を生きているもの)である」ということに体験的に気づくことです。

けれども、一般的には、悟るということはとても難しいことで、悟りを得るためには長年の厳しい修行が必要だと思われています。

僕は専門の仏教者ではないので、それについてはここでは詳しくは触れませんが、必ずしもそうとも言えないのではないかという考えを持っています。

少なくとも、悟りの第一歩を得ることは、実は、とても簡単なことだと思うのです。

では、どうしたら悟りの第一歩を得ることができるのでしょうか?

それは、ありのままの自分をそっくりそのまま「よし」と全面的に受け入れる(認める)ればいいのです。

このように言うと、自分に正直な人ほど、「こんな自分を全面的に受け入れることはとてもできない」と思われることでしょう。

では、どうして受け入れられないのですか?

「自分はいろんなことが満足にできないし、性格も決して褒められたものではないし、・・・」などと、あなたにはいろいろな理由があるのでしょうね。

では、仮に、あなたの言うことが事実だとして、そんな自分をどうして全面的に「よし」と認められないのですか?

あなた自身が、「こういう自分はOKで、そうでない自分はダメな人間だ」というモノサシを持っているからではないでしょうか?

では、そのモノサシはどこにあるのですか?

本当はそんなモノサシはどこにも存在していません。

この事実をしっかりと確かめてください。

「でも、たいていの人が同じように思っている」とあなたは言われるかもしれませんが、そのモノサシは本当に事実として存在していますか?

「いや、事実の世界にはないけど、自分やみんなの頭の中には確かにある」と言われるのですか?

だとすれば、本当は事実の世界にはないものを、あなたが勝手にそれがあるかのように、つまり、真実であるかのように錯覚しているだけということになりますね?

そんなモノサシは真実ではなく、あなたが、あるいは、だれかが、勝手に頭の中に作りあげた観念にすぎません。一言で言えば、妄想です。

そんなモノサシなんかもともとなかったのです。

本当は、あるがままのあなたは、そのままそっくり全面的にOKなのです。

たとえば、精神に障害がある方はダメな存在で、楽しく生きてはいけないと思いますか? 決してそんなことはないですよね、

もともとダメな人間なんていないのです。ですから、楽しく生きればよいのです。

自分で勝手に作りあげた妄想で自分を苦しめるのはやめましょう。

そして、あるがままの自分を全面的に肯定して楽しく生きていきましょう。

それが悟りの第一歩です。



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生かされている

生かされている

この世に自分の力で生まれてきた人は一人もいません。

私たちはお父さんとお母さんのおかげでこの世に生まれてきたのです。

そして、お父さんもお母さんもそのお父さんもお母さんのおかげでこの世に生まれてきました。

そのお父さんもお母さんも、・・・・・・・。

誰一人この世に自分の力で生まれてきた人は一人もいません。

みんな生まれたのでなくて、生んでもらったのです。

生んでもらった後も、自分の力で育った人は一人もいません。育ててもらったのです。

あなたはいまこうして自分で生きていると思っているかもしれませんが、真実は、生かされているのではないでしょうか。

あなたはいつも自分の意思ですべての自分の行動を決めていると思っているかもしれませんが、思考の基(もと)となる知識や思考の方法はもともと自分で作り上げたものでしょうか?

あなたは、これだけは自分の力でやった、あるいは、やっていると言えるものがありますか?

ここで言っている「自分」というのは、通常の意味での「個としての自分」を指していますが、自分は生かされているのです。

それがはっきり分かれば、自分を生かしている“大いなるもの”にすべてを任せて、こころから安心して生きていけるのではないでしょうか。

もはや、何かで緊張したり、ビクビクしたり、心配したりしながら生きる必要はないのです。

「どのように生きるべきか?」と悩んでいる方もいらっしゃるかもしれませんが、私たちはどのように生きようと、この“大いなるもの”の手から滑り落ちることはありません。

ですから、安心して悩んでいればよいのです。

でも、どうせなら、自分を生かしてくれている“大いなるもの”を全面的に信頼して、まごころを全開にして、日々爽やかに、また、力強く生きていきたいものです。

そして、できることなら、自分自身のことだけでなく、周りの方々の本当の役に立つような生き方をしたいものです。

ここで“大いなるもの”という言葉を使いましたが、それは「神」と言ってもよいし、「阿弥陀仏」、「創造主」、「大宇宙」、「大自然」、あるいは、「いのち」などと呼んでもいいのかもしれません。

いずれにしても、それは「自分」というものを通常の意味での「個としての自分」と規定したためなのです。

けれども、存在の真実は本当の“自分”は“大いなるもの”そのものなのです。

あるいは、「個としての自分」は“大いなるもの”の分身であると言ってもよいでしょう。

いずれにしても、“自分”と“大いなるもの”は別々の存在ではないのです。

これはとても重要な事実です。

もともと、みんな一つのものだからです。

もともと、一つしかないのです。

それぞれが切り離されていると思うのは、ウィンドゥズ3.1にも劣るこのアタマのせいなのです。

誤解を恐れずに、はっきり言いましょう。

私は神だ。 (やっぱり、アブナイか?)

それじゃあ、

みんな神様だ。仏様だ。  (コンナトコロか?)



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あるがままの世界

あるがままの世界

瞑想をして思考が静まり、深い静寂の世界に入っていくと、世界がありのままに見えてきます。

瞑想の深さによっては、思いが次々に湧いてきて、少し煩わしいような気がするときもあります。

そういうときは、自分の静寂を求める気持ちが強すぎるのだと思います。

ですから、瞑想をするときには、「コレコレの状態になりたい」などと思わないことが大切です。つまり、「何も求めない」ことがポイントです。

結果的には、そのほうがかえって深い静寂に入れるのです。

瞑想がかなり深くなってくると、こころはすっかり静寂に入っているのですが、それでも、青空の雲のように、時々、思いが浮かんでは消えていきます。

普段、瞑想していないときには、いつも思いが、見えている世界の全面に、薄い雲の膜のように掛かっています。

つまり、普段、私たちは、実は、思いの膜を通してしか世界をみていないのです。

そこに見える“世界”は思いの膜のためにゆがめられています。“あるがままの世界”ではないのです。

ところが、瞑想状態が深くなると、思いが浮かんできても、広い青空にポツンと浮かんでは消えていく雲のようなものですから、“あるがままの世界”がそのまま素通しで見えています。

もちろん、瞑想がさらに深くなれば、思いがまったく出ない状態になります。

では、その状態で見えている“あるがままの世界”とはどのようなものでしょうか。

“あるがままの世界”は、“完全な静寂のなかで”、いろいろなものが、“ただ”存在すると同時に、“ただ”すべてが変化しています。

つまり、いろいろなものが“ただ”動き、また、“ただ”音や声を出しています。

にもかかわらず、それが“完全な静寂のなかで”起こっているのです。

“あるがままの世界”は完全な静寂の中で、“ただ”存在し、“ただ”変化しています。

“ただ”というのは、“どんな思いや観念ともまったく無関係に“ということです。

“あるがままの世界”は秋の青空のようにカラッと澄み切った世界で、人間根性と離れてアッケラカンとした世界です。

聖なるものも俗なるものもありません。悟りも迷いもありません。善悪もありません。

好きなものも嫌いなものもありません。誰のものというものもありません。

実は、そこには体の感覚や思いもあるのです。

でも、たとえば、脚が痛くなっても、ただ、「痛い」っきりです。「暑い!」と感じても、ただ、「暑い!」っきりです。

それにくっつけた余計な思いは一切ないのです。

仮に、「嫌だな」という思いが浮かんでも、ただ「嫌だな」でお仕舞です。

“あるがままの世界“では、「何かを求めよう」という気持ちも湧いてきません。

自も他もありません。どこにも境目がありません。

ずっと“いまここ“です。

“ねばならない”もありません。

心配するものも何もありません。

“あるがままの世界“は、”すべてよし“の絶対安心の世界です。

“あるがままの世界“こそ本当の我が家なのです。


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みんな自分の分身だ

みんな自分の分身だ

たいていの方は、「この体が自分だ」あるいは、「この心が自分だ」あるいは、「この体と心が自分だ」と思っているのではないでしょうか。

「自分とは何か?」と、少しは探求した方の中には、「この体と心を使って生きている主体が自分だ」、あるいは、「もしかしたら、それが魂(たましい)というものかもしれない」などと言われ方もいます。

でも、そこをだんだん追求していっても、どうやら“自分”というコロッとした実体があるわけではない、ただ、「“自分”と意識している仕組み」があるだけだ、ということが分かってきます。

では、「“自分”と意識している仕組みとは何か? その仕組みはどこから出てくるのか?」と考えると、「その仕組みはこの体と心の奥にあるような気もするが、やはり、心の一部ではないだろうか」というところに戻ってきます。

では、「この心とは何か?」と考えると、たいてい「やはり、脳のはたらきが心ではないだろうか」ということになります。

そして、「脳は体の一部なのだから、結局、“自分”というのはこの体だ」ということになり、結局、一巡りしてもとに戻ってしまいます。

そこで、とりあえず、この体を“自分”として、周りを見ると、樹木や草花、イヌやネコや鳥や人などが目に入ります。

樹木や草花、イヌやネコや鳥などは、ただの物体として存在しているわけではありません。

彼らは生きています。つまり、生命(いのち)があります。

その生命はどこから来たのでしょうか?

大自然が彼らを生み出し、彼らを生かしているのです。

つまり、彼らに宿っている生命はそれぞれ大自然の生命そのもの、あるいは、大自然の生命の分身です。

それは人についても同じです。私たち一人一人に宿っている生命は大自然の生命そのもの、あるいは、大自然の生命の分身です。

この“自分”も同じです。

「大自然」は「大宇宙」と言い換えてもよいでしょう。

「生命」というと、生物だけと考えがちですが、実は、生命は“変化する力”として無生物にもあるのです。

大宇宙に存在するものは、無生物、生物を問わず、すべて、大宇宙の生命力によって生み出され、その生命力によって常に変化し続けているのです。

この宇宙のすべての存在は大宇宙の生命力そのもの、あるいは、大宇宙の生命の分身です。

イヌやネコや鳥も、樹木や草花もみんな同じ生命なのです。

太陽も月も星も空や雲、太陽、山、川、海、道端の石ころさえも・・・。

みんな自分の分身なのです。

他人などいないのです。すべての人が自分なのですから。

たまたま、人間はそれぞれ“自分”という意識を持つようになっているだけなのです。

だから、人といがみあったり争うのが嫌なのです。

だから、みんなと仲良く生きていきたいのです。

だから、“他人“の赤ちゃんを見てもかわいくてしかたがないのです。

だから、イヌでもネコでもかわいいのです。

だから、一輪のバラを見て、いとおしいと思うのです。


だから、空の雲や海を見て、ホッとするのです。

本当は、もともと誰でも知っているのです。

みんな自分の分身だということを・・・。




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自分とは何か?

自分とは何か?

「自分は誰々だ」と答えても、それは“自分”ではなく、“名前”にしかすぎません。

「人間だ」と答えても、それは知識をもとに外的に規定しているだけで、自分そのものではありません。

「この体だ」、あるいは、「この体と心だ」、あるいは、「“いのち”だ」と答えても、ただ「自分」というラベルを何かに貼っているだけで、自分そのものではありません。

「この体と心を使って生きている主体だ」と言っても、所詮、自分についての“説明”でしかありません。

実は、「自分とは何か?」という問いそのものに矛盾があるのです。

なぜなら、「自分とは何か?」と問うているもの自体が答えなのですから。

また、その問いに対して、「・・・だ」と答えているもの自体が答えなのですから。

つまり、「自分とは何か?」という問いに対しては、どんな言葉でも一言でも言えば、実物とははるかに隔たったものになってしまうということなのです。

「自分は自分だ」と言ってみても何の答えにもなっていません。

まあ、「自分は・・・だ」と答えるよりは少しはマシかもしれませんが・・・。

では、何も答えられないので、ただ黙っていればよいのでしょうか? 

とりあえずは、まあ、これが一番よい答えなのかもしれませんね。

でも、これでは、分かっているのか分からないのかも分からないといった曖昧な感じもありますね。 

このような矛盾や曖昧さを突破して、直接的に“真の自己”を体験的として捉えようとするのが禅だと僕は思っています。

もちろん、坐禅をしなければ捉えられないというわけではないと僕は思います。

なぜなら、私たちは坐禅をしているときでも、していないときでも、いつでも“真の自己”そのものを生きているのですから・・・。

要するに、“真の自己“に気がつくためには何をしていなければならない、ということはありません。

ただ、正統な坐禅を指導しているところでは、それなりのしっかりしたノウハウがあり、それにしたがって修行すれば、それなりの結果を得ることも可能だと思います。

少し曖昧な表現になってしまったのは、僕の知るかぎりでは、坐禅の道場と言ってもピンからキリまであるからです。

ですから、禅の修業をするためには正師(しょうし)、つまり、正しい指導者につくことが何より大切だと言われているのです。

話しが坐禅のほうに流れてしまいましたが、僕の薦める瞑想の自然法や自観法を毎日続けていると、ある日、ふとした時に“真の自己”に気がつくことができるでしょう。

実は、この世界に生きているかぎり、“真の自己”に気がつくチャンスはいつも与えられているのです。

風に揺らぐ木々の枝や葉、一輪の花、空を流れ行く雲、沈み行く夕日、自動車の声、雨の音などなどが、いつも私たちに「自分とは何か」」ということを教えてくれています。

それがはっきりと分かったときには、すでに、あなたはどう答えたらよいかも知っているでしょう。



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スクリーン

スクリーン

眼を閉じて瞑想をして、しだいに思考が静まってくると、いろいろな音や声が聞こえているにもかかわらず、同時に、絶対的に静寂な世界があることがわかります。

音や声の世界と絶対的に静寂の世界と二つ別々に存在しているようにも感じます。

が、また同時に、絶対的に静寂な世界のなかから音や声が現れては、また消えていくようにも感じられます。

そして、さらに思考が静まってくると、聞こえている音や声が、実は、同時に、絶対の静寂そのものでもあることがわかってきます。

今度は、半眼の状態で瞑想して、しだいに思考が静まってくると、いろいろなものが見えているにもかかわらず、同時に、絶対的に透明な世界があることがわかります。

絶対的に透明なスクリーンの上にいろいろなものがずっと映っているようにも感じます。

が、また同時に、絶対的に透明なスクリーンの中からいろいろなものが現れては、また消えていくようにも感じられます。

さらに思考が静まってくると、見えているいろいろなものが、実は、同時に、絶対の透明なスクリーンそのものでもあることがわかってきます。

そして、眼を閉じていた時に感じた絶対的に静寂な世界は、この絶対的に透明なスクリーンと同じものであったことがわかります。

スクリーンは絶対的に、透明であるばかりでなく、静寂そのものなのです。

さらに瞑想が進んでくると、この絶対的に透明で静寂なスクリーンは平面として2次元的に前方だけに広がっているのではなく、3次元のこの空間を埋め尽くしていることがわかります。

それはもはや“スクリーン”と呼べません。まさに、“空”そのものです。

さらに、それを観察していた自分も絶対的に透明で静寂な“空”そのものであったことに気がつきます。

そして、自分が完全に素通しになって、周りの世界に溶け込んでいるのです。

どこにも境目がありません。

というか、もともと、“周りの世界から切り離された自分“というものは存在していなかったのです。

「自分が完全に素通しになって」と言っても、この体が消えてしまったわけではありません。

目を開ければ、ちゃんと体の少なくとも一部は見えています。体の感覚もあります。

周りの世界も見えています。音や声も聞こえます。

にもかかわらず、自分も周りの世界も“空”としか言いようがないのです。

ここで誤解がないように付け加えておきます。

ここに書いたのは、あくまで僕自身のいろんな体験のうちの“ある日の体験”にすぎません。

また、人によってまったく違った体験をされていることでしょう。

たとえば、
体の感覚がまったくなくなってしまった。

それまで見えたり聞こえていたものが全部消えた。

突然、まったく異次元の世界に飛び込んでいた。

何もない世界にいる自分に気がついた、などなど・・・。

ですから、ここに書いたことも、何かの参考になればと思っただけなのです。

良い悪いということでなく、「そんな体験もあるのか」ぐらいの感覚で捉えていただければと思います。



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幸せ

幸せ

幸せとは何でしょう?

僕の持っている辞書で「幸せ」を調べると、「心が満ち足りていること」となっています。

では、「心が満ち足りていること」とはどういうことでしょうか?

その前に、そもそも、「心」とは何でしょうか?

僕の辞書によると、「心」とは「知識・感情・意志の総体」となっています。つまり、「心」は感情を含んでいるというのです。

またもや僕の辞書によると、「感情」とは「喜怒哀楽や好悪など」となっています。

ということであれば、もし、怒や哀や悪などのマイナス感情を感じていれば、たしかに、「心が満ち足りている」とは言えません。つまり、「幸せ」ではない、ということになります。

ということは、もし、どんな状況であろうと、マイナス感情が出てこなくなれば、「心が満たされている」、つまり、「幸せ」だということになります。

そんなことは絶対ムリだ。だって、人間は感情の動物であり、人間にとって喜怒哀楽を感じるのは当然じゃないか。喜怒哀楽がなくなったら人間じゃないよ。

僕もずっとそう思っていました。

だから、「幸せ」になりたくて、怒や哀や悪などのマイナス感情が出てこないような状況を必死で求めて生きていました。(こころの隅では、そんな状況はあるのかな?と思いながら・・・。)

でも、それはもともとムリだったのです。

すべて自分の思うように人生が展開することを求めていたからです。

「人生は思いどおりにはならない。そんなこと当たり前じゃないか」と言われるでしょうね。

でも、もしかしたら、実際には、あなた自身何かにつけて自分の思うように物事が展開するのを求めながら生きているのではありませんか?

でも、もし、何かが自分の思うように成らなければ、心が満たされた気がしないのであれば、あなたは決して「幸せ」には生きていけないということになります。

「だからぁ。そんなこととっくの昔にあきらめて、とにかく、毎日できるだけ面白いことを見つけながら生きてるんだよ」という方も意外と多いのかもしれませんね。

でも、それでは、本当にムナシイですね。

人生というのはそんなツマラナイものではありません。

要するに、状況(人生といってもよいでしょう)が自分の思うようにならなくても、マイナス感情が出なければよいのです。

では、どうしたらそうなれるのでしょうか?

1 まず大切なことは、状況が自分の思うようにならないときには、マイナス感情が出るのは当然だという“思い込み”を外してみるということです。

2 そして、事実はただ事実であるだけだ、事実はもともと思いとは違うものだ、という真実をはっきりと確認することです。

3 そのうえで、状況が自分の思うようにならないときでも、まったくそれに動じないもう一人の“自分”(真我といってもよいでしょう)が厳然として存在していることに気づくことです。

気づきは突然向こうからやってきます。そして、気がつくときは一瞬です。

気がついてみれば、自分はもともと幸せだったのです。



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執着しない

執着しない

執着とは「何かにこころを惹かれ、あるいは、何かを深く思い込んで、それに捉われること」です。

でも、執着というのは「何かを目標として、その実現に向かってあきらめずに努力し続けること」とはまったく異なります。

ほとんどの方が思い当たると思いますが、何かに執着することは、ただただ自分を苦しめ人を苦しめ、しかも、何の益もありません。

ですから、執着は捨てましょう。

「えっ!? それができるくらいなら、こんなに苦しまないよ」と言う声が聞こえてくるようです。

僕にも辛くて苦しかった記憶いくつもがあります。

自分では充分わかっていることなのに、どうしてもそれができないのですよね。

でも、ここで僕は断言します。

執着を捨てるのは簡単です。

「えっ!? どういうこと?」と言われるのですか?

執着を捨てるのは、ただ捨てればいいのです。

「だからぁ。それが難しくてできないと言ってるんだよ」と言われるんですか?

どんなに難しくても、ただ捨てればいいのです。簡単です。

本当に執着を捨てたいのなら、たとえ、それがどんなに難しいと思ったとしても、ただ捨ててしまえば、捨てられるのです。

やれば、できたということです。それが事実です。

思いと事実はまったく別のものなのです。

たとえ、どんなことを思っているとしても、どんな気分だとしても、思いや気分には物事の実行を妨げる力はまったくありません。

この真実に気づきさえすれば、執着を捨てるにはただ捨てさえすればいい、ということがわかるでしょう。

アタマだけではダメです。

実際に何か自分が執着していることを思い出してください。

そして、それをただ捨てる(手放す)のです。

できたでしょう。

できない? その場合には、自分が何かをするのに、それを縛って妨げているものがあるか?ということを徹底的に検べてください。

すると、多分あなたは「自分の思いが縛って妨げている」と言われるでしょう。

それこそがアタマに振り回されている証拠です。

思いや気分に実際にそのような力があると思っていることこそ思い込みなのです。

その思い込みを横に置いて、もう一度「本当はどうか?」と徹底的に検べてください。

そうすれば、「自分を縛っているものなんか何もない」ということにはっきりと気がつかれることでしょう。

それは、あなたはもともと自由だということです。

「こうしたい」と思えば、何でもすっとできるのです。

意志の力でガマンしながらやるのではありません。ただやればいいのです。

でも、もう一度繰り返しますが、アタマでそう思っただけではダメです。

いままで、「絶対にできないな」と思っていたことを実際にやってみることです。

(もちろん、自分はもとより、人を傷つけたり迷惑になるようなことをやってみろ、などと言っているのではありません。)

そうすれば、「自分はもともと自由だ。執着はただ捨てればいいのだ」ということが真実であることがわかるでしょう。


では、もう一つ。

あなたは、どんなことでも、すっきりと受け止めることができますか?



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幸いなる人

幸いなる人

「本当は、何も心配することはないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「どんなことがあっても、すべてよし」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、みんなもともと救われているんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、みんなもともと悟っているんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、幸福というコロッとしたものはないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、自分だけの幸せなんてないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸せです。

「本当は、みんなもともと完全に自由なんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、自分のものなんてどこにもないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、誰々のものなんてどこにもないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、優劣なんかどこにもないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、差別なんかどこにもないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、善も悪もないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、死は怖いものでも悲しいものでもないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、思いは事実ではないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、自分の信じるものが正しいとはかぎらないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、死んでもどこにも行かないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、腹が立つのは腹が立つのは当然だと錯覚してたからなんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、人間は死なないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、自分なんてないんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、みんなひとつの“いのち”生きてるだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

「本当は、そのままでいいんだよ」と言われて、素直に「そうか」と思える人は幸いです。

自分のことも忘れて、思わず人のために何かをする人は、本当に幸いです。

以上、いろんなことを書きましたが、若い時の僕は真逆でした。

だから、生きていても、すこしも楽しくなかったのです。

あなたはどうですか?

よく分からないという方も、瞑想の自然法や自観法を続けていると、あるとき、ふと気がつくことができるでしょう。

(本当は、僕の主宰する「自覚のセミナー」に参加していただくのがベストなのですが・・・。)



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