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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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スカイツリーとネコたち

スカイツリーとネコたち

大学の同窓会が久しぶりに東京で開催され、その企画の一環として、スカイツリーに行ってきました。

幸いにも台風が去って青空の下、展望台からは360度遠くまで景色を眺めることができました。

ただ、月曜日だったのですが、見物の人々でごったがえし、係りの人たちのひっきりなしの誘導の声や見物客の声で、じっくりと坐って景色を味わうという雰囲気ではなかったのは残念でした。

スカイツリーはいつもあのように混雑しているのでしょうか。

こんなに見物客が多いということは、本当のところはよくわからないのですが、見物のみなさんはやはり何かの夢のようなものを求めて来られたのではないかと思いました。

スカイツリーは人類文明の最先端の一つの象徴的建造物と言えるでしょう。

その意味では、たしかにスカイツリーに登ってみるのも悪くないと思いました。

でも、率直言えば、何か“危うさ”、あるいは、“はかなさ”のようなものを感じたことも事実です。

それは、言葉にすると、「このような文明がいつまで持つのかな」というような意味です。

家に帰り着いたのはすでに暗くなってからでした。

居間に入って僕のイスのうえで眠っていたチビ(目の見えないネコ)に「チビ!」と声をかけると、チビが目を覚まして、とても嬉しそうに「ミャー、ミャー」と鳴いたのがとても印象的でした。

チビは僕が東京に出かけていた2日間とてもさびしそうにしていたそうです。

「目が見えなくても、ちゃんとわかっているんだな」とあらためて思いました。

翌日の朝、チビを連れて近所に散歩に出かけました。

目の見えないチビはどこに行ってしまうかわからないので、このところイヌの散歩用の伸縮自在のヒモをつけて散歩させているのです。

外に出て山の小道をチビと歩いていると、後ろから我が家の6匹のネコたちが走ってきました。

こうして、短い距離ですが、みんなと一緒に散歩しました。

いつも僕がチビと散歩に出ると、みんな喜んでついてくるのです。

ネコたちは嬉しそうに走り回ったり、木に登ったり降りたり、草むらの中を探索したり、互いにたわむれたりしていました。

チビも一緒になって楽しそうに遊んでいました。

僕はその情景を眺めながら至福感に浸っていました。

それを言葉にすると、「なんて素敵なんだ! なんというおだやかで安らかな世界なのだ!」という感じです。

そこには、もはやネコたちも自分もいませんでした。

それは、それこそ、“いのち“がただ“いのち“として、生き生きと躍動している世界でした。

ネコたちと散歩していた瞬間瞬間は、瞬間でありながら、同時に、“悠久“のときでした。

でも、真実は、私たちは東京のスカイツリーであろうと、この山のなかであろうと、瞬間瞬間を生きながら、同時に、悠久の世界に生きているのです。

ただ、私たちの生活がますます自然から離れていっているために、この真実が見えにくくなっています。

その意味で、瞑想の実践がいっそう重要だと思うのです。



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何のために生きるのか

何のために生きるのか

僕は20歳のある日、突然、「何のために生きるべきか?」という疑問に襲われました。

その瞬間までは、漠然と、また、当然のことのように、「学校でできるだけ良い成績を取って、世間的にできるだけ良い会社に入って、そこで定年まで働こう」と考えていました。

そこにあったのは、「自分がこの社会で経済的により安定して生きていくにはどうしたらよいか?」という思いだけでした。

簡単に言えば、「食うために生きる」ということで、「自分はこの人生で何をしたいのか? 自分は何をすべきなのか?」ということを自覚してのものではありませんでした。

でも、その日以来、「何のために生きるべきか?」という疑問を明らかにしないかぎり、自分の人生はまったく意味がないものになってしまうと思い、必死にその答えを求め続けました。

答えは26歳になってやっと見つかりました。

それはそれまでこころのどこかで予想していたものとはまったく違っていました。

でも、僕はその答えにこころから納得がいったのです。

そして、気がつくと、それまで自分が人生について抱いていたすべての疑問が消えてなくなってしまいました。

僕はそのとき、「自分についての問題は基本的にはすべて解決した」ということをはっきり確認しました。

それと同時に、自分の生き方がはっきりと定まりました。

「これからは、自分のためでなく、すべて人のために生きていこう」と思ったのです。

このように言うと、「それはご立派ですね」などと、称賛にしろ皮肉にしろ、見当違いのことを言う方もいらっしゃることでしょう。

そんなことではないのです。

僕がそのとき得た答えというのは、この世界には定まった「人生の目的」というようなものはない、ということなのです。

この答えにたどり着いて、僕は本当に自由になれたことを実感しました。

人間は何でもできるし、何をしてもいいのです。自分を縛り付けるものなどないのです。

その完全なる自由に立脚して「自分は何をしたいのか?」ということこそが問われなければならなかったのです。

僕は、ただ、“自分のこころからの願望”をはっきりと確認し、その願いに沿って生きようと思っただけなのです。

つまり、「こうすべきだ」という義務や責任、あるいは、道徳的な人生の目的というようなものではなく、「そうしたくてしょうがないから、そのようにしよう」ということに過ぎません。

ですから、それは人に誉められるようなことでも、皮肉られるようなことでもないのです。

僕は、まさに、自分のために生きてきました。

振り返ってみて、「どれだけのことができたか?」ということは別として、おかげさまで、本当に充実した幸せな人生になっているのではないかと思います。

僕の体験から言えることは、本当に幸せな人生とは、自分のこころからの願いをはっきりと確認して、それに沿って生きることです。



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理由のない世界

理由のない世界

私たちは日常生活でよく「なぜならば」という言葉を使います。

それはそれでよいのですが、存在の真実を探求する場合にも、「なぜならば」という言葉を使って考えている方がほとんどのように思います。

例えば、「これは本当は誰のものですか?」と尋ねると、「それは~~のものです。なぜならば~~」というわけです。

けれども、存在の真実そのものは、本当は、「なぜならば」という説明では表現できないのです。

“なぜならば”、存在の真実はアタマの理屈を超えたところで、事実を体験として捉えるしかないからです。

つまり、存在の真実には理由などないのです。

ある答えが出てきて、自分では分かったと思ったとしても、「なぜならば」と付け加えなければいられないということであれば、それは、どこまで行っても、理屈を振り回しているだけで、存在の真実を体験的には掴んだとは言えません。

この傾向は、とくにヨーロッパやアメリカで顕著です。

欧米では、言葉によって事実を規定しなければ、その事実を理解できたとは言えないと考える傾向が非常に強いようです。

彼らは何か言った後に、「なぜならば」とよく付け加えます。

そういう意味では、一般的に、存在の真実を本当に体験的に掴むことは彼らにはかなり難しいのではないかと思われます。

ですから、壁にぶち当たって苦悩した末に、「本当は、真実の世界には理由はなかったのだ」と気がついたときの彼らの喜びはとても大きいようです。

存在の真実を探求する上で、「なぜならば」という言葉でしか説明できないと思う傾向は最近の日本人にも随分と増えてきたように思います。

僕のセミナーでは、存在の真実はアタマでは捉えることができないことに、自分自身で気がつくことができるように工夫してあります。

そのおかげで、セミナーでその事実に気がつくと同時に、存在の真実をはっきりと体験的に掴むことができて、ほとんどの方がとても喜んで日常生活に戻っていきます。

ところが、セミナーではあれほどはっきりと分かったはずなのに、また、いろいろなことで悩んだり、もやもやする方がいます。

これはとてももったいないことです。

その原因はどこにあるのでしょうか?

一言で言えば、セミナー中に「存在の真実は体験的にしか捉えられない」ということをはっきり“体験”したはずなのです。

にもかかわらず、日常生活において、セミナー参加以前の認識や判断などの思考パターンで生きているからです。

つまり、いろいろな事柄において、事実そのものを直接捉えないで、“事実について自分のアタマで作った解釈”を事実だと認識しているからです。

でも、それは錯覚以外のなにものでもありません。

にもかかわらず、その上に、さらにアタマでの解釈を重ねて判断してしまうのです。

ですから、ポイントはいつも「思いは事実ではない」という原点に戻ることです。

真実の世界には理由などないのです。



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本質と現象

本質と現象

このブログの主要なテーマは“存在の真実”とは何か?ということです。

“存在の真実”は“本当の自分”、あるいは、“本当の世界”と言い換えてもよいでしょう。

僕は“本当”という言葉を“本質”という意味で使っています。

では、“本質”とはどんな意味でしょうか?

僕の辞書には「常に変化している現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的なもの」、「あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質。本性」、「内側の本当のもの」となっています。

“本質”の対義語である“現象”は「観察されうるあらゆる事実」、「外側から見た表面的なもの」となっています。

分かりやすい例で説明しましょう。

水の化学式はH2Oです。

H2Oは温度と圧力の条件によって、固体の“氷“、液体の“水”、そして、気体の“水蒸気”になります。

“氷”、“水”、そして、“水蒸気”は表面的な見かけの姿かたちは異なりますが、その本質はすべてH2Oです。

つまり、H2Oが“本質“で、“氷”、“水”、そして、“水蒸気”が“現象“です。

“氷”、“水”、そして、“水蒸気”は、それぞれ、ある条件下におけるH2Oの一時的な位(くらい)なのです。

ですから、“氷”になろうと、“水”になろうと、“水蒸気”になろうと、ずっとH2Oのままで、それが消えてなくなるわけではありません。

“生と死”について言えば、本質的に“生”や“死”があるのではありません。

“生”も“死”もそれぞれ、ある条件下における本質である“いのち“(あるいは”空“)の一時的な姿(現象、位)にすぎないのです。

もともと“生”も“死”も実質としては存在しないのです。

実質として存在しているのは“いのち“だけで、その“いのち“は生まれたものでもなく、また、消えてなくなることもありません。

だから、肉体が見かけ上では朽ちても、“自分”は死ぬことはありません。

なぜなら、“自分の本質“は“いのち“だからです。

この世界のすべて、つまり、この現象界は“いのち“が展開するその時々の見かけの姿です。

でも、“見かけの”と言っても、「何も価値がない、あるいは、どうでもよい」ということではありません。

“いのち“が展開する宇宙の一つ一つの現象は、まさに“いのち“そのものであり、宇宙の全存在に匹敵する価値があるのです。

つまり、“いのち“とその顕現であるこの現象界のすべては、本来、一つのものなのです。

1枚のコイン、あるいは、紙の裏表と言ってもよいのかもしれません。

生死について言えば、生死こそ“いのち“そのものなのです。

生死があってこそ“いのち“があると言ってもよいでしょう。

ですから、生死をないがしろにしてよいということではありません。

もちろん、生死にとらわれてもよいということでもありません。

アタマでは分かりにくいかもしれませんが、それが存在の真実です。



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生の位と死の位

生の位と死の位

“自分“というものを体験的に追求していくと、他と分離した“自分“などないことがわかります。

天地一杯に満ち満ちた“いのち“が“自分“なのです。

“いのち“は不生不滅です。つまり、“自分“は生れることもなく、死ぬこともありません。

これは理屈でなく体験として言っているのです。

“いのち“の顕現であるこの現象界のすべてのものは絶えず変化していますが、“いのち“そのものは変化することはありません。

実は、生も死もそれぞれ、生まれることも死ぬこともない“いのち“の一時の位(くらい)つまり、状態にすぎません。

例えによって説明しましょう。

天地一杯に水が満ち満ちているとします。

その水をすくってバケツに入れます。しばらくして、バケツの中の水を再び天地一杯に撒き散らします。

水がバケツに入っている状態が生で、水が天地一杯に戻っている状態が死です。

でも、バケツに入っていてもいなくても、水そのものは何も生まれたりなくなったりしているわけではありません。

この水が“いのち“、つまり、“自分“なのです。

多くの方々は「自分がいのちを持っている。それが生ということだ。そして、自分がいのちを失う。それが死ということだ」と思っているのではないでしょうか。

そうではないのです。“いのち“が“自分“なのです。

“いのち“がこの体に入っている状態が「生」と呼ばれ、“いのち“がこの体から離れ天地一杯の状態に戻った状態が「死」と呼ばれるのです。

“いのち“は決してなくなりません。

だから、“自分“は絶対に死なないのです。

また“自分“は、何かによって傷づくことも絶対にありません。

そこには苦しむ“自分“もいません。

私たちは究極的には最初から救われているのです。

仏教ではこの“いのち“のことを、空、真如、仏性、心などいろいろな言葉で表しています。

般若心経では存在の真実について「色即是空。空即是色。それを知ることによってすべての苦しみから解放される」と言っています。

白隠禅師は「衆生本来仏なり」と言われました。

また、盤珪禅師は「私たちが親から受け継いだものは不生の仏心だけである」と言われました。

このように言うと、中には「“自分“が死ぬことも傷つくこともないのなら、人に迷惑をかけようと、自殺しようと、何をしてもいいのだな」と勘違いする方もいるかもしれません。

でも、それはトンデモナイ間違いです。

なぜなら、“自分“がこの体を使っている状態にある時は、不可分一体のこの世界の中で”個“として“自分“を精一杯に表現するとても大切な位にあるからです。

生の位にある時、不可分一体の中の個としての自分自身や自分の“分身“をないがしろにすることは“いのち“である“自分“をないがしろにすることです。

このことは理屈では理解できないかもしれませんが、自分自身の内なる声を素直に聴けば誰にでも容易に分かる真実です。



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いのちは一つ

いのちは一つ

宇宙が始まる前には何もありませんでした。

私たちは何もないこと、つまり、“空”(くう:空っぽであること)は何をする能力もないと思いがちです。

でも、実は、空は物質やエネルギーなどすべてを生み出す能力を持っているのです。

ある時、空から極微の粒子のような物質とエネルギーが生み出されました。

そして、その極微の物質のような単純なものから、しだいに複雑な物質ができました。

それらの物質は常にたがいに離散・集合・循環を繰り返し、今日の宇宙の姿となったのです。

その過程で、非生物の有機物から単純な生物のようなものができました。

その単純な生物のようなものから、しだいに複雑な機能を持つ生物が生まれました。いわゆる、進化です。

その結果、今日、この地球上にこのように多数の異なった種類の生物が生存するようになったのです。

そのすべての始まりは空です。空からすべてのものが生まれました。

つまり、生物、非生物を問わず、この宇宙に存在するすべてのものの本質、つまり、中味は空なのです。

この空を僕は“いのち“と呼んでいますが、その“いのち“はもともと一つしかありません。みんな同じものなのです。

私たちは自分、あなた、彼、彼女などと言ってそれぞれが異なったバラバラの存在と思い勝ちですが、実は、姿かたちや機能が違っていても、みんなその中味は同じなのです。

つまり、「あなたは私。私はあなた。彼も彼女も私」だということです。

みんな自分なのです。

今、目の前にいるネコのチビも、外で鳴いているモズも、その声を聞いているものもみんな自分です。

この宇宙のすべては“いのち“に満ち満ちています。そのすべてが自分です。

“いのち“は生まれたのではありません。宇宙が始まる前からずっとあるのです。

だから、“いのち“は”不生”なのです。

かりに宇宙が消滅しても、“いのち“はなくなることはありません。

だから、“いのち“は”不滅“なのです。

この不生不滅の“いのち“が自分の本質、つまり、真実の自己です。

つまり、あなたがアタマでどう思おうと、あなたは宇宙一杯の永遠の“いのち“を生きているのです。

だから、あなたがアタマでどう思おうと、あなたは死ぬことはありません。

もし、あなたが使っているその肉体がまったく機能しなくなっても、あなたはどこにも行きません。

あなたがアタマでどう思おうと、自も他も存在しません。

あなたがアタマでどう思おうと、他から分離した「自分」なんて存在していないのです。

あなたがアタマでどう思おうと、みんな同じ一つの“いのち“を生きているのです。

多くの方々は、普段、バラバラ観に立って「自分、あなた、彼、彼女など」という言葉を使っているように思います。

でも、それらの言葉を使うにしても、本当は、あくまで、不可分一体観に立って「この社会に生きるうえで、かけがいのないそれぞれの存在を尊重する」という意味で使うべきだと思います。


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思いと静寂

思いと静寂

山の秋はすてきです。

木々の葉が少しずつ色づいてきて、青空にはいくつかの白い雲がぽっかり浮かんでいます。

そうです。雲があっても、厳然として青空があります。

それは誰でも肉眼で確認できる単純な事実です。

ところが、空一面が雲で覆われていると、青空は肉眼では見えません。

では、青空は消えてしまったのでしょうか?

そうではありません。たとえ、空一面が雲で覆われていても、青空は厳然として存在しているのです。

私たちは、覆っていた雲がしだいに晴れて、青空が少しずつ見えてくるのを見て、「もともとずっと青空はあったのだ」という事実を経験的に知ることができます。

でも、それは経験にもとづいたアタマの記憶でしかありません。

空が雲で覆われているときに、肉眼で確認している事実ではありません。


さて、この世界にはほとんどひっきりなしにいろいろな音がしています。

でも、そこには同時に絶対的な静寂が厳然として存在しています。

いろいろな音がしだいに消えていくと、少しずつ静寂を感じることができます。

そして、音がほとんどすべて消えてしまうと、「もともとずっと静寂はあったのだ」という事実を私たちは経験的に知ることができます。


でも、それは、事実を体験した記憶にもとづいて、アタマで推測しているだけで、“肉耳”、つまり、自分の耳で実際に確かめているのではありません。

これではダメなのです。理屈や推測などはいくらでも反論できるからです。

ですから、どうしても、“肉耳“で直接事実を確かめなければなりません。

でも、聞こえてくる音を相手にしているかぎりは、静寂を“肉耳“で確かめることができません。

ですから、聞こえてくる音をいちいち相手にしないことです。

そうして、“音なき音”を聴こうという態度でいれれば、そのうちに、「聞こえてくる音の奥に絶対的な静寂が厳然として存在している」という事実に、ハッと気がつくことができるでしょう。

一度“音なき音”に気がつくことができれば、その後はどんどん容易に気がつくことができるようになります。

そうなると、“音なき音”を聴こうとしなくても、いつも聞こえているようになるのです。

そのうちに、その静寂の中にいる自分自身が、実は、静寂そのものであることに気がつくでしょう。

ところで、ここまで、外から聞こえてくる音と静寂の関係について述べてきたのですが、思いや気分や体の感覚などについても同じです。

つまり、思い、気分、体の感覚などがあっても、そこには絶対的な静寂が厳然としてあるのです。

“思い”はあってもいいのです。

思いをなくさなければ、静寂が訪れないということではないのです。

「思いが静寂を邪魔している。だから、思いをなくさなければいけない。次から次へ雑念が湧いてくるので大変だ」などと思いをいちいち気にしているから静寂に気がつかないだけなのです。


とにかく、どんな思いや気分も相手にしないで手放しにすることです。

こんな簡単で楽なことはありません。




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ニコチン虫とエゴチン虫

ニコチン虫とエゴチン虫

“ニコチン虫”も“エゴチン虫”も僕の造語です。

生まれてはじめてタバコを吸った後、ニコチンが体内で分解されることによって一種の空虚な感覚が生じます。

つまり、“ニコチン虫”があなたの中に産み落とされたのです。 

ニコチン虫はいつもお腹をすかして、「エサをくれ!エサをくれ!」と叫んでいます。

ニコチン虫はエサ、つまり、タバコを吸ってニコチンをもらうと、ほんの少しの間だけ満足しておとなしくしています。つまり、空虚感が解消されるのです。

でも、すぐにお腹をすかして「エサをくれ!エサをくれ!」と叫び始めます。

うるさく騒ぐので、タバコを吸ってニコチンを与えると、とたんにおとなしくなります。

でも、・・・。

このプロセスが無限に繰り返されます。

こうして、ニコチン虫はあなたが死んでしまうか、それとも、あなたがニコチン虫を飢え死にさせるまでずっと生き続けるのです。 

ニコチン虫の一番ずるいところは、「エサを欲しがっているのは、ニコチン虫そのものではなくて、あなた自身だ」とあなたに思い込ませてしまうことです。

ですから、ニコチン虫の言うことなんか放っておけばよいのです。

そうすれば、2,3日もすればニコチン虫は飢え死にして、あなたはタバコから解放されるでしょう。


ところで、“エゴチン虫”とは何でしょう。

私たちは生まれた後、しだいにアタマのはたらきが発達して、思考によって物事を理解し、“自分”というものを規定するようになります。

その時、私たちのアタマの中に“エゴチン虫”が産み落とされたのです。

私たちのアタマは物事を認識し判断するのに相対的にしかはたらくことができません。

この相対的な思考によって規定された自分像が“エゴチン虫”なのです。

エゴチン虫はいつも「自分というのは他と分離した存在だ。すべてのものはバラバラだ。何より大切なものはこの個体としての自分だ」と叫んでいます。

エゴチン虫の一番まずいところは、「物事についてアタマで思うことが真実だ。アタマで捉えた自分像が自分だ」と“あなた”にすっかり思い込ませてしまうことです。

こうしてエゴチン虫はどこまでも生き延びようとします。

ですから、もし、本当の自分を知りたいと思っても、アタマでは知ることができません。

本当の自分を知ろうとすれば、アタマではなく、体験的に本当の自分に気づくしかないのです。

そのためには、アタマのはたらき、つまり、思考を鎮める、あるいは、止めるしかありません。

そのために、効果的な“行”が瞑想の自然法です。

いずれにしても、アタマでは、どこまで行っても、本当の自分に気づくことはできません。

エゴチン虫の言うことなんか相手にしないで、そのまま放っておけばいいのです。

そうすれば、しばらくするとエゴチン虫はおとなしくなります。

つまり、すべての思いを手放しにして、何も求めず、ただまかせて坐ることです。

そうすれば、気づきはそのうちに“向こうから“やってきます。


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心の曇り

心の曇り

慧能(えのう)と神秀は達磨大師より5代を経た弘忍禅師の700人の門下生の中でももっとも傑出した弟子でした。

ある時、弘忍禅師は弟子たちに禅の修業において各人が会得した真理を偈(げ:短い詩)で表すように命じました。

まず、神秀は次の偈を作りました。

「身はこれ菩提樹
心は明鏡台の如し
時時に勤めて払拭(ふっしょく)せよ
塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしめることなかれ」

つまり、「体は神聖な菩提樹のようで、心は清浄でピカピカの鏡のようなものだ。ホコリやチリが着かないように、いつも心がけてなければならない」と。

この偈を読んだ、慧能は次の偈を作りました。

「菩提、もと、樹にあらず
明鏡、また、台にあらず
本来無一物
いずれのところにか、塵埃を惹かん」

つまり、「本来、体も心もないのだ。何もないのだ。であるのに、どこにホコリやチリが着くというのだ。清浄な心はずっと清浄で、曇ることなどないのだ」と。

以来、二人の境涯(存在の真実の体験的理解)の深浅について、多くの意見が出されています。

大まかに言えば、慧能のほうが神秀よりも境涯が深いという意見が多いようです。

僕自身も、ある意味では、そう思うのですが、別の面から見ると、両人の境涯は甲乙つけがたいと考えています。


まず、私たちの心は、本来、どんなことがあってもいつも清浄で、絶対に曇ったりするものではありません。

まさに慧能の言うとおりです。

慧能は「絶対的に安心して、そのままでいればいいのだ」と言っているのです。

ところが、私たちは育っていく家庭や学校や社会の中で、気がつかないうちに多くの真実ではない間違った思い込みや観念を持つようになります。

そのために、心はいつも清浄で輝いているのにもかかわらず、間違った思い込みや観念が心を覆ってしまい、私たちは自分の心自体を見失ってしまうことが多いのです。

ですから、機会を作っては、いつも心がけて、間違った思い込みや観念(曇り)を取り除くようにしなければならないのです。

まさに、神秀の言うとおりです。

存在の真実を本当に大悟すれば、間違った思い込みや観念がすべて払拭されて、それによって心が覆われることもないのかもしれません。

けれども、普通の人はなかなかそこまで大悟することはできないでしょう。

ですから、心自体はいつも変わらず清浄で輝いているとしても、心の上を覆った曇りを心がけて取り除くことはとても重要なのです。

そのための効果的な方法、というか、行(ぎょう)が瞑想の自然法です。

それでも、自分が間違った思い込みや観念を持っていることに気づくことは自分の体臭と同じように自分ではなかなか気づきにくいものです。

自分で気づかなければ、いくら瞑想をしたりしても、それらに気づき、その根っこを引き抜いて取り除くことはできません。

間違った思い込みや観念こそ諸悪の根源です。

それを見つけて、その根っこを掘り起こして取り除くために、工夫して開発したのが「自覚のセミナー」なのです。



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朝の雑感

朝の雑感

これから書いていくことはまとまりのない文章になると思います。それでいつも書くのを躊躇していたのです。

でも、自分自身としては、いつもとても面白いと思っていることなので、なんとかみなさんにもお伝えできればという気持ちに引かれて書いてみようと思います。

僕は大体、早朝、目が覚めたあと、しばらく床の中でぼんやりしています。

何をしているのか?と問われれば、何もしているわけではありません。

ただ、起こっていることをぼんやり眺めているのですが、瞑想の自然法をやっているときの状態に少し似ています。

僕の場合は、このようにただぼんやりしているときに、普段は見過ごしたり、ついつい忘れてしまっていることに、あらためて気づいたり、再確認したりすることが多いのです。

そういう意味で、朝早く目が覚めても、朝食の準備をしなければいけない、仕事に遅れないように出かけなければならないなどと、すぐに起きてしまうのはとてももったいないと個人的には思うのです。

それはともかく、早朝の床の中でいつも「そうだ。そうだ」と再確認することがひとつあります。

それは、上手に言えないのですが、自分流に簡単に言えば、「朝が自分だ。朝が全部だ」ということです。

つまり、“朝”というものの中に自分がいるのではない。また、“朝”というものの中に、光やいろいろな物音や鳥の声などがあるのではない。

そうではなくて、朝がそっくり自分であり、また、朝がそっくりすべてのものである、ということです。

おそらく、このように言っても、何を言いたいのか分からないと思いますので、いろいろな言い方をしてみます。

まだ夜が明けたばかりの朝の中にぽつんと自分がいて、ぽつんと鳥が鳴いて、また、ぽつんと何かの音がして、ぽつんとぼんやりした光があってというように、朝とそれぞれが分かれたものでなく、また、それぞれがバラバラではなく、ひとつなのです。

それをもっと実感的に表現すると、「自分もみんなも朝だ。」、あるいは、「自分もあの鳥もひとつの“いのち”だ」という感じでしょうか。

みなさんもやってみれば、そのうちに、僕の言っていることがお分かりになるでしょう。

僕はいつも、不可分一体の存在の真実を体験的に捉えるのには瞑想の自然法がいい、と薦めています。

それと並んでみなさんにお勧めなのが、早朝、寝床の中でただぼんやりしていることです。

瞑想の自然法もそうですが、これなら誰でもできます。

普段、ほとんどの方が日中は忙しく過ごしていられると思います。

それだけに、いのちの気に満ち満ちている朝、不可分一体の存在の真実を体験的に再確認して、一日をスタートすることはとても大切だと思うのです。



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一気に飛び込む

一気に飛び込む

このところ朝晩はかなり涼しくなってきました。

唐突ですが、あなたは屋外の冷たいプールで泳ぐとすれば、どのようにプールに入りますか?

人にこのように尋ねると、大体二つのグループに分かれるようです。

Aグループは、足や手を少しずつ水につけて、水の冷たさを確認したりしながら、充分に時間をかけて、体を水の冷たさに少しずつ馴らしていく。でも、なかなか水に入ろうとしない。

Bグループは、最初に、少し体に水をかけたら、一気に水に飛び込んで泳ぎ始める。

一般的には、Aの人が大部分で、Bの人はかなり少数のようです。

さて、あなたはどちらのグループに入りますか?

僕は体験的にBです。

たしかに、ちょっと考えると、状況に対して慎重に対応しようというAの態度はとてもよさそうに思えます。

けれども、Aだと水に入って泳ぎだすまでに、冷たくて寒い不愉快な時間がぐずぐずと続いてしまいます。

そして、やっと思い切って水に入ったとしても、冷たいと思うばかりで泳ぐことを楽しめず、心は水から出ることばかり考えています。

これでは水の中にいるのにいないのと同じです。

それに対して、Bは冷たいと思う時間は一瞬だけです。

すぐに思い切って水に飛び込むと、思ったより冷たさを感じずに、むしろ、爽快な感じがすることが多いのです。

そして、最初から長時間泳ぐことを楽しむことができます。

このように言っても、きっと「それでも」という方も多いでしょうね。

もちろん、「どのようにプールに入るか?」などどうでもよいことです。

ところが、「自分の生きる根本的な姿勢はどうか?」ということになると、このAとBの違いは決定的なものとなるのです。

私の恩師である「はじめ塾」の和田重正先生は、タバコを吸っている塾生を見かけると、一言「止められないと思っていることを、止めてみたら分かるんだけどなあ」とよく言われていました。

「止めてみたら分かるんだけどなあ」。

何を言われているのかあなたには分かりますか?

僕はその当時はタバコを吸っていなかったのですが、先生のこの言葉が気になって「どういう意味だろう」と何度も何度も考えてみるのですが、ずっと分かりませんでした。

当時、和田先生のところに集まってきていた人たちも、この言葉の意味についてずいぶん考えて、「きっとこういう意味なんだよ」などと言い合っていたようです。

でも、どの解釈も僕にはしっくりきませんでした。

ところが、それから何年もたって、いつの間にか僕自身が同じ言葉を使っていることに気がついたのです。

止めてみたら分かるんだけどなあ。

やってみたら分かるんだけどなあ。

一気に飛び込んでみたら分かるんだけどなあ。

「本当はどう生きればよいのか」ということは、あなたにももうすでに、少なくとも、直感的、あるいは、感覚的には、分かっているのではないでしょうか。

だとすれば、あとはためらわずに一気に飛び込むしかないのです。

そうすれば、本当に分かります。



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