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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自分なんてない

自分なんてない

このブログでは、「自分とは何か?」ということについて、これまでもいろいろな角度からいろいろな表現を用いて書いてきました。

実は、いつも同じことを言っているのですが、いろいろな表現によって、自分の本質に気がつく方が出てくればと期待しているのです。

ただ、僕の言いたいことは、アタマで理解しようとしても、本当には理解できないと思うのです。

普段瞑想の自然法のような瞑想をしている方でないと体験的には捉えにくいのではないかと思います。

それはともかく、自分とは何でしょうか?

一言で言えば、自分などというものは存在しません。

早速、「そのように言っているものは誰か?」という声が聞こえてくるようです。

それに対しては、「知りません」としか言いようがありません。

でも、「いやいや、そのように思ったり言ったりしている主体、あるいは、実体があるはずだ。それが誰かと聞いているのだ」と反論されそうですね。

それに対しては、「実は、不思議なことに、そのように思ったり言ったりしている主体(あるいは、実体)そのものが存在しないのです」とお答えするしかありません。

ただ、“自分“と思う仕組みがあるだけで、“自分“というコロッとしたカタマリがあるわけではないのです。

そもそも、「そのように思ったり言ったりしている主体があるはずだ。その主体が自分である」というのは一つの“思い”(あるいは、論理)でしかなく、事実そのものではない、ということを知るべきなのです。

(ここで、僕が使っている“僕”や“私”や“あなた”などという言葉は、便宜上使っていることをご理解ください。)

これは、あなたが思いをはずして事実を直視すれば、簡単に分かる真実です。

その真実を「自分は存在する」と肯定的に表現したうえで、「自分の中味(本質)は空っぽである」、あるいは、「自分の本質は“いのち“である」と言っても同じことです。

さらには、「自分はない」という真実を「本来無一物」と表現してもよいでしょう。

それをさらに、「本来自分は零位(ゼロレベル)に立っている」と表現してもよいでしょう。

アタマのいろいろな思いや感情、バラバラ観、所有、優劣、差別、好悪、善悪、権利や義務、自由と不自由、生と死、幸福と不幸などに関するもろもろの観念は、すべて自分がもともと身につけて生まれてきたものではありません。また。本来、この事実の世界に存在するものでもありません。

自分はいつも“いまここ”にあって、零位に立っているのです。

自分はいつも新鮮(まっさら)で、何ものにも妨げられず、完璧な自由人で、宇宙一杯の存在なのです。

言い換えれば、自分はゼロ(無一物)です。

でも、だからこそ無限(無尽蔵)でもあるのです。


この世界のもろもろの苦しみと混乱の根本原因は、私たちが自分というコロッとしたカタマリがあると思い込んでいることにあります。

自分なんてない。

これは素晴らしい真実です。



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本日ただいま誕生

本日ただいま誕生

私たちは、通常、自分自身について、何年前に、どこどこで、これこれの両親のもとに生まれ、それから、こういうこと、ああいうことなど、いろいろなことがあって今日まで生きてきた、というふうに考えているようです。

それはそれで今日に至るまでの過去の因果関係として事実であることは間違いありませんが、それは事実の一面にすぎません。

なぜなら、自分は“いまここ”に生きている自分しかいないからです。

そこには、“いまここ”の事実として、過去は存在していません。

ということは、自分は“いまここ”に生まれたということなのです。

つまり、自分は“本日ただいま誕生”したのです。

“本日ただいま誕生”した自分はまったく新鮮(まっさら)で、何のしがらみもなく、完全に自由な存在です。

ところが、過去のコレコレのせいで、いま自分はこんなに苦しんでいる、などと思ったり言いながら、いつまでも過去のしがらみに捉われて、ウジウジと陰気に生きている方は意外に多いようです。

みなさんは生まれたばかりの赤ちゃんを見て、どのように感じますか?

そこにあるのは天真爛漫の無邪気さと輝くような可愛らしさだけではないでしょうか。

それは赤ちゃんや小さな子どもはまっさらだからです。

真実は、大人である自分も同じなのです。

過去のしがらみなどは自分のアタマの中に,自分が作り上げた物語、あるいは、妄想としてあるだけです。

それらの妄想はどこにも事実としては存在していないことをはっきりと確認すれば瞬時に消えてしまいます。

赤ちゃんだけでなく、自分も、事実としては、“本日ただいま誕生”したのです。

だから、“いまここ”に生きている自分は、真実は、何ものにも捉われることなく完全に自由で、天真爛漫で光輝く存在なのです。

多くの場合、苦しみの原因は比べるところにあります。

比べるこころのもとは自分が何年前に生まれたと思っていることです。

真実は、いま吸っている日一息だけしかないのです。そして、いま吐いている一息だけしかないのです。

真実は、本日ただいま生まれたのです。

たとえば、体に不具合なところがあったとしても、ただいま生まれたものにとっては、その不具合そのままですべてが完璧なのです。

生まれたばかりの赤ちゃんや小さな子どもはアタマで「ああだったら、こうだったら、あるいは、あのせいでこうなってしまった」などと物語(妄想)を作り出したりはしません。

自分に与えられた状況を100パーセント受け止め、“いまここ”を力いっぱい生きようとするだけです。

だからこそ、どんな赤ちゃんでも小さな子どもでも、あんなに天真爛漫で、可愛いく光輝いているのです。

イエス・キリストは「幼な子のようでなければ天国の門は入れない」と言われました。

でも、それは決して難しいことではありません。

なぜなら、真実は、ありのままのあなた自身は、まさに、生まれたばかりの存在だからです。



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瞑想と静寂

瞑想と静寂

僕のセミナーやブログの目的の一つは、みなさんが悟りの第一歩として、静寂の世界を体験的に自覚できるようにお手伝いすることです。

少なくとも、これまで僕のセミナーに参加している方々の大部分は瞑想を通じていつも静寂の世界を体験的に自覚することができているようです。

ところが、静寂の世界を充分には体験的に自覚できていない方も少数ながらいらっしゃるように思います。

たとえば、「静寂の世界というのはこれのことなのだろうか?」とか、「前回瞑想したときには静寂の世界を体験したのだが、今回は雑念が多くてダメだった」などという感想を述べる方がいらっしゃいます。

このような方は静寂の世界を本当には体験的に自覚できていないのです。

そこで、瞑想のやり方や静寂の世界についてあらためて説明しましょう。

まず、静寂、あるいは、静寂の世界というのは、思考を鎮めることによって、体験できるというものではありません。

(これは今までの説明と矛盾していると思われるかもしれませんが、今は、とりあえず、そういうことだと理解してください。)

静寂の世界は、どんなに雑念があろうとまた周りにどんなに雑音があろうと、“いつも”いまここに存在しています。(だから、必ずしもわざわざ思考を鎮める必要もないのです。)

つまり、あなたは、雑念があろうとなかろうと、周りに大きな騒音があろうとなかろうと、いつも静寂の世界を体験しているのです。

ただ、体験はしていても、それに気づいていないだけなのです。

それは静寂の世界があなたにとってあまりにも身近で、“当たり前”すぎるからなのです。

眼や耳や鼻や舌や皮膚などの感覚器で捉えた情報、あるいは、信号は脳で認識されます。

そのとき、脳は“当たり前”ではないものだけを認識し、あまりにも当たり前”になっているものを見逃す傾向があります。

つまり、あなたの耳は静寂な世界を確かに捉えてはいるのです。

だから、あなたの脳があらためて“当たり前”のものを認識するようになればよいのです。

そのためにはどうしたらよいのでしょうか?

一言で言えば、雑念を何とかしようとか、なくそうなどと思わないことです。

雑念はいくらあってもかまわないのです。なぜなら、雑念があってもなくても、静寂の世界はいつもそこに存在し続けているからです。

もう一つは、自分が静寂になろうとか、自分のこころを静寂にしようとか、自分のこころのなかに静寂の世界を見つけようなどと思って努力しないことです。

静寂の世界を体験するためにはいっさい努力は禁物であり、 “何もしない“ことがポイントです。

何も求めず、何も努力しないで、すべて自分の本質である“大いなるもの“に任せることです。そうすれば、そのうちに、静寂がすでにそこに存在していたことに、ふと気がつくでしょう。

これは決して難しいことではありません。

ですから、「自分には分からない」などと決して悲観したり、あせったりしないことです。



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アタマの整理

アタマの整理

存在の真実(あるいは、真実の自己・真実の世界)はアタマでなく体験的に捉えるしかない、ということをこれまで繰り返し言ってきました。

たしかに、存在の真実を体験的に捉えることは何よりも大切だと言えましょう。

けれども、それだけでよいということではありません。

なぜなら、どんなに存在の真実を体験的にはっきりと捉えることができたとしても、実際的には、誰でもこの世界で一人の生の人間として生きていかなければならないからです。

そして、自分がこの世界で生の人間としてよりよく生きていくためには、自分にもともと備わっている大いなる智慧と本能、そして、後天的に獲得した思考能力や知識を十二分に使えなければなりません。

自分にもともと備わっている大いなる智慧と本能については、通常は、それら自身についてはほとんど問題もありません。

問題は後天的に獲得した思考能力や知識です。

たとえば、いつも物事を悲観的に考えたり、すぐ感情的になったり、間違ったことを真実だと思い込んでいたりすれば、とても人生を十全に生きることはできません。

ですから、正しい思考能力(というか、思考方法)や人生や世界の基本的なことについて正しい知識を身につけることは存在の真実を捉えることと同じぐらい大切なことなのです。

私たちはこの社会の中で、自分の家庭や親戚、通った学校や仕事場、交友関係、あるいは、テレビや新聞や書物などを通じて、自分独自の思考能力を作り上げ、同時に、いろいろな知識や観念を身につけていきます。

そして、多くの方は自分の思考能力や知識や観念は正しいと思い込んでいます。

でも、実際には、それらについて“真剣に”検討したことはほとんどないのです。自分で検討したことがあるという方の場合でも、よく訊いてみると、「何回考えても同じ結論になったから間違いがないと思った」というようなことが多いのです。

何回考えてみても、同じ人が同じやり方で考えれば同じ結論が出ても不思議ではありません。でも、だからといって、その結論が正しいとは言い切れないのです。

私たちが通常「考える」と言っても、大体このようなレベルのようです。

僕が先に“真剣に検討”と言ったのは、このようなレベルではありません。

“真剣に検討”するためには、まず、検討の仕方、つまり、思考の方法そのものを検討し直す必要があります。

つまり、いつも、真実を求める真の科学者のような態度で「本当はどうか?」とどこまでも検討していく態度こそが正しい思考方法(思考能力)だと言えるのです。

そのうえで、人生や世界の基本的な要素について、自分がこれまで正しいと思ってきたことを絶対に正しいと決め付けたり、思い込まないで、どこまでも「本当はどうか?」検討していくことが大切です。

そういうわけで、自覚のセミナーには以下の3つの主要なテーマがあるのです。

1 存在の真実を体験的に捉える
2 正しい思考能力を習得する
3 人生や世界の真実に自ら目覚める



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存在の真実が見える瞬間

存在の真実が見える瞬間

僕は26歳のときに存在の真実がはっきり見える瞬間がありました。

存在の真実はそれまで自分が無自覚に「これが真実だ」と思い込んでいたものとはまったく違っていました。

といっても、そのとき存在の真実のすべてが見えたというわけではありません。

けれども、それ以来、僕は存在の真実の見える眼が開いたことは確かです。

僕はこれまでの人生の中で、存在の真実がはっきり見える(僕の人生にとっては)決定的とも言える瞬間を何度か体験しました。

それぞれの体験において存在の真実の別の面が見えるようになりました。そして、その度に眼がより大きく開かれていったのです。

同時に、これまで小さな気づきは数多くあり、その度に眼がより大きく開かれていったのだと思います。

なぜこのような体験をすることができたのかと、振り返ってみると、それは方法が良かったからだと思います。

存在の真実、あるいは、人生の根本問題に関する疑問にぶちあたっても、アタマでアレコレひねくり回してもなかなかすっきりした答えが出てきません。

そういう場合に、その疑問をこころの片隅にそっと置いて、いわば、“こころの宿題“として、温めていると、ある時、ふと答えがポンと浮かんでくることが多いのです。

温めると言っても、アタマでいじくり回すのではありません。そっとこころの片隅に置いておくというだけです。

そうすれば、不思議なことに、その問いそのものが自動的に自分で答えを見出すのです。

僕は自分自身の体験から、それは人間のこころにはアタマを超えた無限の性能を持つ“智慧”が備わっているからだと思っているのです。

実は、このやり方は僕が人生の師と仰ぐ「はじめ塾」の和田重正先生から学んだものです。

ただ、その当時は、言われたようにやってみてもうまく行かないので、自分には無理だなと思っていました。

それで、もうこんなことはやめようと思って“こころの宿題”の内容についてもすっかり忘れていたら、あるとき、突然、その答えが“向こう側から”こちらにやってきたというわけです。

それで、この方法のコツがはっきりと分かりました。

それは存在の真実に関する疑問をあらためて確認した後、“こころの宿題”としてこころの片隅にそっと置いたら、「あとは大いなる智慧に任せて、すべて忘れてしまう」ということです。

これは後に野口整体の創始者である野口晴哉先生のご著書の中に「願いごとを叶える秘訣」として、同じことが書いてあり、それで、あらためて「これでいいのだ」と確信しました。

私たちは何でもかんでもアタマで考えれば分かると思う傾向が非常に強いのです。

でも、とくに、存在の真実を分かるためには、アタマではなく、大いなる智慧を働かせるようにしなければならないのです。

そのためには、“こころの宿題”を確認したら、後は、何も求めず、瞑想をしたり、日々の目前のことを当たり前にやっていけばよいのです。

答えは自分で見つけなくても、向こう側からやってきます。



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我動けば宇宙が動く

我動けば宇宙が動く

野口整体の創始者野口晴哉先生が書かれた言葉の中に次のような一節があります。

「我は宇宙の中心なり・・・我動けば宇宙が動く・・・」

先生がこの言葉を書かれたのはまだ10代の頃だそうですから、まさに、先生は精神的に早熟で天才だったのだなあと感嘆します。

でも、いったん存在の真実がはっきり見えると、先生がおっしゃられていることは、何も特別のことではなく、ごく当たり前の事実を述べられているのだということがわかります。

多くの方々は自分と自分の生きる世界について次のようなイメージを持っているのではないでしょうか。

この宇宙は無限大と言えるほど広大である。また、宇宙は頭でも理解できないほどの過去から、永遠とも言える未来に向かって流れている。

つまり、宇宙は空間的にも時間的にもほとんど無限と言えるほど大きい。

それに比べれば、私たちの銀河宇宙系でさえもとても大きいとは言えない。

ましてや、その中にあるこの太陽系でさえも、実にちっぽけな存在だ。

さらに、その中の惑星の一つであるこの地球はもはや一粒の塵のように小さい。

そして、その地球に生きているこの“自分”は一粒の塵についた顕微鏡でしか見えないカビのように極微の存在だ。

ましてや、この“自分”がこの世界に生きている時間は、宇宙の無限に長い時間の流れと比べれば、ほとんどゼロと言えるほど短くてはかない。

自分はこの空間的にも時間的にも無限である宇宙という舞台に、ある瞬間に登場し、ちょっと演技をしたかなと思ったら、次の瞬間にはすでに舞台から降りてしまっているようなものだ。

ほとんどの方はさすがにここまでは思ってはいないと思いますが、それは程度の違いでしかありません。

いずれにしても、私たちは普通あまり自分というものについて深く考えることは少ないと思います。

でも、あらためて「自分とは何か」と問われれば、大体次のように思っているのではないでしょうか。

「自分とはこの広大な世界にある時に現れ、しばらく生きた後に、この世界から去っていく(この世界とくらべれば)実に小さくてはかない存在である」と。

でも、それは存在の真実ではありません。

ここに、野口晴哉先生が書かれた全文を掲載します。

我あり、我は宇宙の中心なり。我にいのち宿る。
いのちは無始より来たりて無終に至る。
我を通じて無限に拡がり、我を貫いて無限に繋がる。
いのちは絶対無限なれば、我も亦絶対無限なり。
我動けば宇宙動き、宇宙動けば我亦動く。
我と宇宙は渾一不二、一体にして一心なり。
円融無礙にして己でに生死を離る、況んや老病をや。
我今、いのちを得て悠久無限の心境に安住す。
行住坐臥、狂うことなく冒さるることなし。
この心、金剛不壊にして永遠に破るることなし。
                ウーム、大丈夫。

(回想の野口晴哉 朴歯の下駄 野口昭子著 ちくま文庫より)


僕は、言わば、この詩をこころから味わうことのできる方が続々と出現することを願って、このブログを書いたり自覚のセミナーをやっているのです。




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すべては一つ

すべては一つ

宇宙はもともと一つのものでできています。

宇宙はバラバラのものが寄せ集まってできているのではありません。

この宇宙にはいろいろな “もの”が存在しています。

それらはそれぞれ姿や形やハタラキが異なっていますが、本質はみな同じものなのです。

その意味では、宇宙は人体のようなものです。

例えば、右手は左足とは姿も形もハタラキも異なっています。

でも、お互いに分離したバラバラのものではありません。

ももともと一つのものがそれぞれの細胞、組織、器官などになったのですから、姿や形やハタラキが異なっていても、すべて本質はどこまでも同じものなのです。

しかも、肉眼や顕微鏡などで見ても、すべての細胞、組織、器官はどこにも境目もなくずっと繋がっています。

ですから、仮に右手に目と脳があるとして、右手が左足やその他の器官などを見て、「それは自分だ」と言っても何も不自然なことではありません。

このように、この宇宙のすべての“もの”もともと一つのものなのです。

目には見えなくても、すべての存在は境目がなく繋がっています。

ですから、庭に咲いている一輪のバラを見て、「それは自分だ」と言っても、それはごく当たり前の事実を言っているだけです。

バラにかぎらず、目の前のボールペンを取り上げて、「これが自分だ」と言えないようでは、真の自己を自覚したとは言えません。

バラやボールペンだけでなく、人でもネコでもイヌでも草でも木でも空でも雲でも雨でも風でも空気でも川でも海でも太陽でも月でも星でも、みんな自分そのものなのです。

“他と分離した“自分などいません。ですから、“他人”などいないのです。

この宇宙のすべてが自分です。

ですから、自分は死ぬこともありません。


これが真の自己であり、真の事実の世界です。


さて、私たち人類はこれまで多くの苦しみと混乱を経験し、いまや、いろいろな面で行き詰っています。


その根本原因は、すべての存在を分離したものと観る“バラバラ観”にあります。

それは、私たち人間が発達した大脳を持つようになり、私たちの大部分が、アタマの限られた能力しかない認識力と判断力こそがすべてだと思い、それぞれの存在の姿や形などの表面的な違いに惑わされ、その奥にある本質、つまり、“不可分一体”の存在の真実に気がつかなかったことにあります。

私たち人類がこの行き詰まりを超え、真の幸福で平和な世界を切り開くためには、どうしても、バラバラ観から不可分一体観への地球規模での大転換が必要なのです。

ポイントは、どのように社会的にはたらきかけるかということです。

でも、いまだ有効な具体的方策はほとんど提案されていません。

どうか、あらためて、拙著『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』(特に、第3部と提唱)を繰り返し読んでいただきたいと思います。

そうすれば、そのうちに、大きな気づきがあるでしょう。



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