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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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希望のボタン

日本という国に国際環境平和国家の理想が掲げられるまでには、いくつものプロセスを経過しなければなりません。

それらのプロセスについては、この提案に沿った変革が進展するにつれて、流れに沿って、その時点時点でもっとも有効な進め方を考えてゆけばよいと思われます。

ただ、そのようなプロセスの中で、変革の初めから変革の完成まで、一貫してもっとも重要プロセスは、当たり前のことですが、「この提案の賛同者がどんどん増えなければならない」ということです。

では、どうしたらこの提案の賛同者を増やすことができるでしょうか?

そもそも、その前に、あなた自身この提案に賛同しますか?

この提案の賛同者を増やすことは難しいと思いますか?

このように次々と質問されて少し戸惑いがあるかもしれませんね。

僕自身の考えを述べましょう。

僕自身は、まず、「この提案の賛同者をどんどん増やすことができる」と思っています。

理由は簡単です。「できない」と思ったら、それで終わりだからです。

「かならずできる!」という信念のもとに、みんなで「どうしたらできるか?」と方法を考えていけば、かならず有効な方法が見つかるはずだと確信しているからです。

次に、僕は、「この提案の賛同者を増やすことは簡単だ」と思っています。

この考え方は「現在の政治や経済その他をすぐに変えよう」ということではなく、そういうことには直接手を触れないで、「将来の日本の姿としてどうあったらよいと思うか?」ということを問いかけているだけなのです。

だとすれば、この提案に賛同することは実に簡単なことではないでしょうか?

最初の段階としてはそのような賛同者の数が増えていけばよいのです。

賛同者の数がある程度になってくると、その中からいろいろな動きが生じ、それによって、賛同者はますます増えていくでしょう。

それは、長期間ほとんど雨が降らなかった草原の枯れ草に、ほんの小さな火が着いただけで、見る見るうちに、火勢が大きくなり、草原全体に火が広がっていくようなものです。

もっと率直に言えば、どんなことでも、「難しい」と思えば、本当に難しくなってしまうからです。

どんなことでも、悲観しながら後ろ向きに「大変だ! 大変だ!」と思ってやれば、できることもできるはずがありません。

「かならずできる! 簡単にできる!」と明るく、楽しく、物事が陽に陽に運ぶようにしていくことが成功のカギなのです。

さて、いまあなたの手の中に一つのボタンがあります。

あなたがそのボタンを押すと、まるで魔法のように、かならず将来永遠に平和な世界が実現します。

それで僕はそれを「魔法のボタン」と名付けたのですが、「希望のボタン」と呼ぶほうがよいかもしれませんね。

さて、新たな年を迎え、あなたもあらためて希望のボタンを押しませんか?

そして、今年こそ、できるだけ多くの方々に希望のボタンが存在することを知らせていきませんか?



新しい年が、生きとし生けるものにとって、希望の年となりますように!



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静かなる変革  その2

静かなる変革  その2

国家エゴイズムを放棄するということは、簡単に言えば、「自分の国さえよければ」という態度を改め、「自国他国ともに繁栄していこう」ということです。

具体的には、「世界の飢餓、貧困、戦争や紛争、環境問題、エネルギー問題などの深刻な諸問題を、自分の国自身の重大な問題と捉え、その解決に国の全力を尽くす」ということです。

僕はそれを「国際環境平和国家」と呼んでいます。

この提案の要旨は、「人類社会の深刻な諸問題による危機を回避するために、国際環境平和国家の理想を国に掲げよう。」ということです。

将来、日本にこのような理想が掲げられれば、いやそれ以前に、この提案に賛同する方々が、たとえば、100万人、200万人にもなってくれば、世界の人々は日本のまったく新しい動きを注目するようになるでしょう。

そして、私たちの真意がより広くより深く普及・浸透していくにつれて、世界の国々の中からも日本と同じような動きが出てくることが予想されます。

なぜなら、エゴイズムが諸悪の根源であることは、普通の人であれば、こころのどこかで常に感じていることであり、それを国のレベルで放棄しようという動きは世界の人々の共感と感動を呼び起こさないはずはないと確信するからです。

ただ、この考えを本当に理解し納得するために重要なポイントがいくつかあります。

1 まず、この提案を実現するうえで、現在の国の政治に直接働きかけて、国の根本政策を脱国家エゴイズムに変えようと主張しているのではない。

2 また、現在の政治、経済、産業、憲法、法律、教育、福祉その他の社会体制や組織をひとつずつ直接的に変革することによって、このような理想を掲げる国を実現しようということではない。

3 この考えは、将来的に、まず新たに、国の根本政策を設定することを提案しているのである。それが設定されれば、社会体制や組織もそれに沿ったものに変革されていくからである。

4 この提案は現在の政治や体制・組織などとは無関係に、いわば、別の次元で、将来日本をこのような理想を掲げる国にしようという考えに賛同する人たちを増やそうということである。


だからこそ、簡単に賛同者を増やすことができるのです。

なぜなら、現代の世界の深刻な諸問題についての事実をはっきりと知れば、「それを解決するために、日本は将来どのような国になったらよいか?」と問われれば、多くの方々は、日本がこのような理想を持った国になることが望ましいと答えるのではないでしょうか?

賛同者がどんどん増えていけば、その中から自然にいろいろな動きが生まれ、やがて、それが自然な形で政治にも影響を与えるようになり、その延長上に、日本に国際環境国家の理想が高々と掲げられる日がくるでしょう。

したがって、この考えを充分に理解した私たち一人ひとりの役割は、その理解をいっそう深めるとともに、この考えをできるだけ多くの人たちに静かに、そして、力強く広めていくことなのです。

(つづく)


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静かなる変革  その1

静かなる変革  その1

ここまで、真の平和世界を実現するためには、その根本原因である各国間の国家エゴイズムによる対立関係を解消しなければならないことを明らかにしてきました。

では、そのためにはどうしたらよいのでしょうか?

みんなで話し合えば対立関係を解消できるでしょうか?

答えは明らかに「ノー」です。

それはこれまでの軍縮や環境問題に関する会議が、結局は、それぞれの国がいかに自国が有利になるかということのみを追求する場になっていることを見れば、容易に分かるのではないでしょうか?

各国が国家エゴイズムを根本政策としているかぎり、それをみんなで話し合って解消しようとしてもできるはずがないのです。

いきなり結論を言えば、各国間の国家エゴイズムによる対立関係を解消するためには、まず、いずれかの国が自らの意志で率先して一方的に自らの国家エゴイズムを放棄する以外には方法はないのです。

ここでいくつかの疑問が出てくるかもしれませんね。例えば、次のような疑問です。

疑問1:まずどこかの国が率先して国家エゴイズムを放棄したとして、その国は他国から武力によって攻められるのではないか?

国家エゴイズムを放棄するというのは、自国のことと同じように他国のことも大切にするということです。

自分の国にとってもなくてはならないそのような素晴らしい国をあえて攻撃しようという国などないでしょう。

さらに、いきなり国家エゴイズムを放棄すると言っているのではありません。国家エゴイズムを放棄するまでに、なぜそうするのかということを世界に向けて十二分に説明する徹底した外交努力が必要です。

疑問2:一つの国だけが国家エゴイズムを放棄しても、他の国々も国家エゴイズムを放棄するとは言えないのではないか?

先に述べましたように、なぜ、率先して国家エゴイズムを放棄するのかというその真意を世界の人々に充分意を尽くして説明すれば、これこそ自分たちの進むべき道だということが多くの人々によって共感を持って理解されるでしょう。

そうすれば、それぞれの国において、国家エゴイズムを放棄しようという動きが活発になっていくものと予想されます。

疑問3:では、どの国がまず率先して国家エゴイズムを放棄すればよいのか?

それはもちろんこの考えが生まれた国、つまり、日本ということになります。

なぜなら、自国はエゴイズムのままで、他の国々にそれを放棄することを求めること自体がおかしな話で、また、そんなことで他の国々が国家エゴイズムを放棄するはずがないからです。

まず、思いついたものから実行するというのでなければ話にもなりません。

疑問4:どうしたら日本が国家エゴイズムを放棄するようになるのか?

これは「具体的に自分は、あるいは、私たちは何をすればよいのか?」という意味で、とても重要なテーマです。

あなた自身はどのように思いますか?

(つづく)



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目を覚ます  その4

目を覚ます  その4

これまで述べてきましたように、現代までの人類社会は各国間の国家エゴイズムの対立という常に不安定な土台の上に成り立っています。

人類社会の深刻な諸問題の根本原因は各国間の国家エゴイズムの対立にあると言っても過言ではありません。

この各国間の国家エゴイズムの対立は国際社会における諸問題を生み出しているだけではありません。

それぞれの国の国内の政治、経済、教育、医療、福祉、環境、軍事などほとんどすべての政策や体制も国家エゴイズムという国の基本政策、つまり、国の根本的姿勢によって方向付けられています。

ですから、国家エゴイズムという国の基本政策が変わらないかぎり、本当に平和な世界を実現することができないだけでなく、私たちは日常の生活においても本当に人間らしく幸福に生きていくことはできないのです。

では、各国間の国家エゴイズムの対立を解消するにはどうしたらよいのでしょうか?

人類の歴史が始まって以来、私たちは集団(国家)エゴイズムを至上の行動原理としてきましたが、この人類社会の歴史の流れを変えるなどということがはたしてできるのでしょうか?

「そんなことはできるはずはない」と言ってしまえばそれまでです。私たち人類には明るい未来は決してないと言ってもよいでしょう。

それはこれまでの人類社会の歴史によってはっきりと証明されているのではないでしょうか。

「でも、そんなことはないだろう」と言う方も多いのかもしれませんね。

では、どうしてそのように言えるのでしょうか?

「人間はそんな馬鹿ではないからだ」と言う方もいらっしゃるかもしれませんね。

でも、それは根拠のない単なる楽観主義にすぎないのではないでしょうか?

率直に言えば、私たちのほとんどは根拠と言えるほどの根拠もなく、「まあ、何とかなるのだろう」と思って生きているのではないでしょうか。

強いて根拠らしいものと言えば、「このままでは自分たちの将来は大変なことになる、などと言っている人などほとんどいない。本当に大変なことになるのだったら、専門家や政治家など多くの人がそう言って大騒ぎしているはずだ」というようなことではないでしょうか?

つまり、このような社会的な問題について、私たちは自分の考えがどうであるかということではなく、「みんながそう言っているから」とか「誰もそんなことは言っていないから」など、周りの人の意見を判断の根拠とする傾向が非常に強いのです。

でも、そのような私たちの考え方や生き方こそ今日まで戦争をはじめとする数多くの悲惨な出来事を阻止することができなかった主要な原因なのです。

一人ひとりが主体的に考え、自ら事実をしっかりと検べて事実を知ること。これがすべての出発点でなければなりません。

そのうえで、「各国間の国家エゴイズムの対立を解消するにはどうしたらよいか?」ということを他人事ではなく自らの課題として徹底的に考える必要があると思うのです。


(つづく)


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目を覚ます  その3

目を覚ます その3

私たち人類はその誕生以来、恐怖から身を守るために集団を作り、その一員として生きてきました。

集団の規模は時代とともに次第に小さなものから大きなものに統合されていきました。

そのなかで、集団の基本的行動原理は常に「自分の集団の繁栄と生き残り」ということでした。

簡単に言えば、「自分の集団さえよければよい」ということです。

もっと分かりやすく言えば、他の集団と利害が対立する場合には、常に自国が有利になるように動き、場合によっては、相手を武力で叩き潰してでも自分の集団を守り繁栄させるということです。

つまり、「エゴ丸出し」です。

現代では集団の単位は国家ですが、その基本政策は「自国の繁栄と生き残り」、つまり、国家エゴイズム」に置かれています。

このように、現在までの世界は国家エゴイズムの対立という実に不安定な土台の上に築かれているのです。

ですから、その土台の上でどんな政策を採っても、その時々によって、シーソーのように右に傾いたり左に傾いたりするだけで、シーソー、つまり、土台そのものが変わるわけではありません。

その中で、仮に一時的に相手の国と力のバランスが取れて、争いがなくなったように見える場合もあるかもしれません。

でも、そのバランスはいつ壊れるかもしれないわけですから、それは決して「真の平和」ではありません。

この不安定な土台そのものがすでに平和の正反対なのですから、それを変えないかぎり、決して恒久的に安定した平和な世界を実現することはできるはずがないのです。

では、この不安定な土台を恒久的に安定した土台に変える、つまり、各国間の国家エゴイズムの対立を解消するにはどうしたらよいのでしょうか?

でも、僕の考えを述べる前に、まず、みなさんにそれを真剣に考えていただきたいのです。

なぜなら、みなさんが真の平和な世界の実現を心から望まなければ、僕がどんなに素晴らしいことを言ったとしても、それがみなさんの心に本当に届くはずがないからです。

あなたは、10年ほど前、ある川の川原のキャンプ場の上流でダムの放水があったときに、避難警告を無視して川原に残っていた方たちが増水した水に流されて死亡するという悲惨なできごとがあったことを覚えていますか?

細かいことは分かりませんが、おそらく、「まあ大丈夫だろう」と考えて、そのまま川原に残っていられたのではないかと思われます。

福島第一の原発大事故も同じです。それまではほとんどの方が「まあ大丈夫だろう」と考えていたのではないでしょうか?

それまで数十年に渡って、原発大事故の可能性を書物その他の手段で訴え続けてきた方々の声を無視してきた私たちの無知と無関心のツケはあまりにも大きかったと思います。

いまこそ、その事実を、他人事ではなく、自分のこととして、私たちは噛みしめる必要があるのではないでしょうか?

私たちの未来はすべてこの1点に掛かっています。

(つづく)



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目を覚ます その2

目を覚ます その2

前回のブログで僕は「真の平和」という言葉を何回も使いました。

それはどういう意味かと言えば、平和には「真の平和」と「仮の平和」の2種類があるからです。

真の平和は「恒久の平和」、また、仮の平和は「一時的な平和」と言ってもよいでしょう。

ところが、私たちが「平和」と言うときには、この二つが混同されているように思うのです。

例えば、戦後の日本はこれまで直接的には他国と戦争をしなかったという意味で、一応「平和」だったと言うことができるでしょう。

けれども、その平和はあくまで一時的な仮の平和でしかありません。

なぜなら、これまで、とくに、米ソの対立を中心とする冷戦下において、日本が戦争に巻き込まれ、大きな被害をこうむる可能性はまったくなかったとは言えないからです。

それは現在においても同様です。

日本とその周辺の国々の関係においては、いろいろな理由、とくに経済的な理由で、戦争をすることの愚かしさはお互いに充分に承知しているので、実際に、戦争になることはないでしょう。

けれども、それが安定した平和な状態であるとは誰にも思えないことも事実です。

そこで、「他国からの攻撃を抑止するため」といった口実で、「日本が正規に国防軍を持ち、また、海外に出て戦争できるようにするため」に憲法を改正しようという動きが出てきているのです。

けれども、たとえ、日本が正規に国防軍を持ち、海外に軍隊を派遣できるようになったとしても、日本と周辺の国々との関係そのものが安定するということではありません。

それどころか、ますます不安定になり、その不安定な状態が半永久的に続いていくことは誰の眼にも明らかではないでしょうか。

つまり、これまでの平和に対する国の政策は、すべて、日本とその周辺の国々は基本的に不安定な関係にあるということを前提にして、そのなかで、どのようにバランスを取っていくかというところに置かれてきました。

また、一方、国の平和に対する政策に反対する方々は、「自衛隊は憲法違反であり、なくすべきだ」とか、「自衛隊は必要であるが、集団的自衛権の行使を認めることには反対だ」など、いろいろな主張をされています。

僕も、自衛隊はなくすべきであり、集団的自衛権の行使を認めることには反対です。

でも、僕が『国の理想と憲法』で提案しているのは、そういうことではないのです。

僕が提案しているのは、国際関係の不安定な土台をそのままにして、そのなかで、自衛隊や集団的自衛権はどうすべきだというようなことではありません。

国際関係の不安定な土台そのものを恒久的に安定したものに作り変えよう。そのためにはどうしたらよいかということなのです。

現在までの国際社会は、常に不安定な土台のうえに大小のビルが林立しているようなものです。

つまり、国際社会は各国の国家エゴイズムの対立という非常に不安定な土台のうえに構築されています。

国がどんな政策を採るにしても、その土台そのものを変えないかぎり、私たちは常に不安定な世界で不安を持ちながら生きていかなければならないということなのです。

(つづく)


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目を覚ます その1

目を覚ます その1

真の平和な世界を実現するためには、まず、現在の私たちの生きている世界が真の平和な世界ではないという事実をはっきりと認めなければなりません。

そのうえで、真の平和な世界を実現するのだというはっきりした欲求が出てこなければ、真の平和な世界を実現することなど絶対に不可能です。

それは、スモーカーが、まず、自分の意志でタバコを吸っているのではなく、自分がニコチンという麻薬の罠に囚われているという事実をはっきりと認めないかぎり、ニコチンの罠から逃れようという切実な欲求が起きてこないことと同じです。

このように言えば、そんなことは当たり前ではないかと言われそうですが、私たちが真の平和な世界の実現を真剣に望むとすれば、まず、この点がはっきりしていなければなりません。

さらに、真の平和な世界は、「真の平和な世界を望む」、あるいは、「その実現を祈る」というような願望だけでは、決して実現することはできません。

このように考えてくると、真の平和な世界を実現を妨げているいくつかの大きな要因が見えてきます。

それは無知と無関心とあきらめです。

「無知」という言い方は傲慢に聞こえるかもしれませんが、僕は決してそういう意味で使っているのではありません。

ただ、一般的な傾向として、私たち人類社会のこれまでの歴史的事実、そして、現代において私たちが直面している様々な状況がどれほど深刻なものであるかという事実認識が非常に甘い、あるいは、曖昧(あいまい)であるということを言いたいのです。

いろいろな方に話をしてみると、「何となく大変なようにも感じることもあるが、まあ、それほどでもないのだろう」と思っている方がとても多いのです。

それは、一言で言えば、事実を本当には知らないからです。

本当は、検べてみれば、それは誰にでもすぐに分かる簡単な事実なのです。

ところが、そのように言われても、では、早速事実を本当はどうかと詳しく検べてみようという方は意外に少ないのです。

これは一体どうしたことでしょうか? 

僕はこのような事例に何回も出会って、いろいろと考えた末に、私たちは、一般的に、次のような傾向があることに気がつきました。

それは、私たちには、事実や理論がどうであるかなどよりも、「自分の周りの人たちがどのように考えているか、どのように言っているか」ということを判断の根拠としがちである、ということです。

例えば、30年前ぐらいまでは、大人の男性の90パーセントぐらいがタバコを吸っていました。

それだけの理由で、男の子のほとんどが成人に近い年齢になると、当然のこととしてタバコを吸い始めたのです。

ところが、最近は喫煙率はかなり下がってきています。

でも、それは、多くの方の場合、タバコの正体、つまり、ニコチンが強力な依存性薬物であることに気づいたためではありません。

ただ、タバコはやめるべきだという社会的プレシャーに押されて、周りにタバコを吸う人がだんだん少なくなってきたからなのです。

これは一例であり、タバコを吸わない方には関係がないと言えばそれまでですが、いずれにしても、自分自身の主体性のない考え方、生き方のいい加減さに気がつくことが真の平和な世界を実現する第一歩であると言いたいのです。

(つづく)




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平和は容易に実現できる

平和は容易に実現できる

僕は2007年に『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』を、さらに、2009年にその増補版を七つ森出版より上梓しました。

いまだ多数の方に読まれるには至っておりませんが、これまでいくつもとても好意的なコメントをいただいております。

なかでも、一部の社会的に著名な方数名より、「これは現代のバイブルである」というコメントをお寄せいただいたことは、この提案が、いままさに、私たちにとって、もっとも必要なことであると意を強くしたしだいです。

また、社会の情勢を観察していますと、折に触れて、明らかにこの提案に沿った、あるいは、同様の発言を見聞きすることもあり、この提案を本という形で世に出したことは本当に意味があったのだと感じています。

ただ、この考え方が広く世に普及していないという現実を直視したときに、それにはいろいろな要因があると思いますが、いろいろと考えて思い至ったことは、その大きな要因の一つとして、この提案そのものが皆様に充分には理解されにくい面があるのではないかとも感じるようになりました。

率直に言えば、僕は、本当に平和な世界を実現するために、私たちにとって、この提案ほど容易に理解し、かつ、容易に実行できるものは他にはないだろうと思っているのです。

そのように確信するからこそ、僕はこの提案を世に出したのです。

もし、僕が言うように、「この考え方は誰にでも容易に理解でき、かつ、容易に実行できる」ということが真実であれば、では、その真実と現実とのギャップはどこにあるのでしょうか?

傲慢な言い方に思われるかもしれませんが、僕はそれは多くの方々の「思い込み」にあるのだと思うのです。

僕はこのブログで何回もタバコについて書いてきました。

でも、本当は、皆様にタバコを止めてほしいという理由からではありません。

それ、私たちが、個人的にも社会的にも、いろいろな重要な事柄について、間違った思い込みがどれほど強く持ち、また、それに気づくことがどれほど難しいことかを知っていただきたいと思うからなのです。

間違った思い込みに気がつかないで禁煙しようとしても、なかにはそれに成功する方々もいますが、一般に、どれほど困難なことか、また、間違った思い込みに気がついて、タバコを止めようとしたら、それがどれほど容易なことであったかということも、その両方を体験した方でなければ分からないでしょう。

この提案についても同じです。

間違った思い込みに気がつきさえすれば、誰にでもこの提案の趣旨とその具体性、そして、実行の容易さを大きな共感をもって理解していただけるでしょう。

その間違った思い込みについては、すでに本のなかに書いてあるのですが、あらためて、次回のブログで説明しましょう。

本当は、タバコでも同じですが、間違った思い込みに気づくことは簡単なことなのです。

真の平和世界の実現は決して難しいことではありません!



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聖地はどこに?

聖地はどこに?

先日テレビである神社をある俳優が訪れるという設定で旅番組をやっていました。

そこは本当に山深いところで、うっそうとした山の中に、なんとなく清清しそうな神社があり、参詣の人が何人も来ていました。

そうした情景のなかで、俳優が言います。

「ここは聖地だ」と。

その言葉が僕の昔の記憶を呼び覚ましました。

そう言えば、自分にも若い時に、そのような場所で何回もそのような経験があるなと思ったのです。

でも、いつの頃からかさだかではないのですが、もはやそのような経験をしていないなとも思ったのです。

それで「あれっ。なぜだろう?」と思って、あることに気がついたのです。

そして、あらためて、自分は、どこにいても、いつも、完全に澄み切った静寂のなかにいるということを再確認したのです。

たしかに、僕は自然がすきです。自然のなかを散歩しているとのんびりしていて、とても楽しいと感じます。

でも、僕はいつのまにか、自然の中にいる時でも、町の中の騒音と雑踏の中にいるときでも、同時に、完全に澄み切った静寂のなかにおり、それを実感していることができるようになりました。

それで、いまでは、澄み切った静寂の気を求めて、その神社のような場所に行く気持ちがなくなっていたのです。

完全に澄み切った静寂の気は“いまここ”にあるのです。

自分自身が、本来、完全に澄み切った静寂の気そのものなのです。

ですから、それを求めてどこかに行く必要はまったくないのです。

よく「おかげさまで、元気(パワー)をいただきました」とか、「癒されました」などという方がいます。

率直に言えば、僕はこのような言葉にとても違和感を覚えます。

お釈迦さまは「他に依存するものは動揺する。だから、他に依存しないで、自己と真理のみを頼りとしなさい」と言われています。

まさに至言です。その言葉に尽きます。

「自分には不足しているもの、あるいは、欠けているものがある。自分は不完全な存在だ」と錯覚し、そう思い込んでいるから、他に依存し、頼ろうとするのです。

神社にお寺にお参りするときでも、ほとんどの方は、いつも、自分や家族の健康や繁栄だけを祈願するのではないかと思います。

でも、神様や仏様がそんなエゴ丸出しの身勝手をお聞きとけくださるはずはありません。

もし、神様や仏様にお願いをするとすれば、「この世界で、自分などよりもずっとずっと苦しんでいる多くの人々を少しでも早く救うために、この自分に智慧と力をお与えください」とお願いすべきではないでしょうか?

でも、本当は、その智慧と力はこの自分のなかにもともと備わっているのです。

その発現を妨げているものこそ“エゴ”です。

そして、“エゴ”を生み出しているものこそ、“思い”が自分の主人公だという間違った思い込みです。

だからこそ、機を見つけては、正しい瞑想を通じて、“いのち“そのものに立ち戻ることが重要なのです。

聖地は“いまここ”にあるのです。



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身心脱落

身心脱落

存在の真実とは、一言で言えば、“事実”ということです。

たしかに、私たちのアタマではどんなことでも考えることができます。

でも、アタマで考えたことは、どんなに素晴らしいとかつまらないなどと思ったとしても、結局は、どこまで行っても、“思い“でしかなく、実在するものではありません。

実在するものは事実しかないのですから、事実こそ存在の真実なのです。

また、アタマでどのように思ったとしても、私たちはいつも、“事実としての生の自分”として生きています。

ところが、多くの方はアタマの“思い“を“自分の主人公”だと思い込んでいたり、“事実”についてアタマで考えた“思い“を“事実”そのものだと錯覚しています。

つまり、私たちはいつでも“事実としての生の自分”を生きているにもかかわらず、アタマはそれを見失い、アタマの思いが作り出した自分についてのイメージを本当の自分であると思い込んでいるのです。

そこからいろいろな苦しみや混乱が生じてきます。

ですから、こころがけて“事実としての生の自分”を確認することが必要なのです。

そのためには、アタマの思いを手放せばよいのです。

それが僕の推奨するいくつかの瞑想であり、その一つが“瞑想の自然法”です。

どんなに雑念があったとしても、それを手放しにして、悟りをも求めずに、迷いをも厭わずに、ただ坐っているとき、アタマで覚知しようとしまいと、“事実としての生の自分”が現成(実現)しています。

それは、ただの事実として、“悟りや迷い“ということさえも超越しています。

そして、少なくともそのときは、自分の身体や心についての思い(執着)を手放しているわけですから、その状態は身心が脱落した状態、つまり、“身心脱落“と表現してもよいのかもしれません。

道元禅師が「坐禅は身心脱落なり。身心脱落は坐禅なり」と言われているのはそのような意味なのかもしれません。

でも、瞑想が深まって、「自分なんてない」とはっきり自覚するようになると、自分の(と思っていた)身体や心に対する執着がまったくなくなっていることに気がつきます。

その体験から言えば、道元禅師の言われる“身心脱落“とは、まさに、「自分はない」という意味ではないかと思われます。

もし、“身心脱落“を体験的に自覚することを“悟り“と呼ぶのだとしたら、”悟り“とは、すべての思いを手放しにして、ただひたすら坐っていると、機が熟せば、いずれ、向こう側からこちらにやってくるのだと言えるでしょう。

つまり、思いを手放しにして、ただ坐っている時には、覚知しようとしまいと、悟りや迷いを超越して、思いを超えた事実だけの生活、つまり、真実の生活が現成しています。

そうした真実の生活をしていると、柿の実が熟して自然にポトンと落ちるように、いつのまにか、気が熟して、すっかり“身心脱落”していることを自覚することができるでしょう。

ただ坐ること。それがすべてです。



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