人山を見 山人を見る
「人山を見 山人を見る」というのは大智禅師という方の言葉です。
「人山を見る」というのは当たり前だけど、「山人を見る」というのがどうも分からないという方も多いでしょう。
まずは次のようなSF的な場面を想像してみてください。
世界を創造した万能の神様の官制室には、数え切れないほどたくさんのコンピュータが設置されています。
それぞれのコンピュータはこの世界のすべての存在の一つと無線ランのような回路で結ばれています。
いま、神様は一つのコンピュータのスクリーンを面白そうに眺めています。
そのスクリーンにはAという一人の人間に備わった視覚で得た情報を脳が認識したBという人間の姿が映像として映し出されています。
ところが、人間Aは「自分がこちら側にいて、人間Bを見ている」と思っています。
そうではないのです。
見ているのは神様だからです。
人間には大脳という非常に能力の限られた、いわば、ウインドウズ3.1程度のコンピュータが備わっています。
そのために、大脳は「見ているのはこの自分だ」と勘違いしてしまうのです。
つまり、大脳は「この体とその中に存在するものが自分である。その外にあるものは自分以外の存在だ」と思い込んでしまいます。
これが私たちの多くの有り様です。
でも、実際は人間Bを見ているのは神様なのです。
そもそも、自分なんていうものはないのです。
では、ここで言っている神様とは誰、あるいは、何のことでしょうか?
実は、驚くことには、神様も誰もいない、何もないのです。
それこそ“虚空”であり、空っぽです。
私たちが通常“自分”と思っていたものの正体、つまり、真実の自己、あるいは、本来の自己を徹底的に明らかにしてみると、何もないのです。
つまり、虚空です。
でも、この虚空はただの空っぽではありません。無限の性能と徳を持っています。
この虚空こそがこの大宇宙のすべての存在を創造し、生かしているのです。
それを仏教では仏性と言い、僕は“いのち“と呼んでいます。
この世界のすべての存在はこの“いのち“のハタラキそのものです。
ですから、本来、すべての存在、そして、一人ひとりの私たちは無限の性能と徳を備えています。
さて、最初の「人山を見 山人を見る」について考えてみましょう。
まず、本当は、山を見ている「人」もいません。
つぎに、「山人を見る」については、「山は眼がなくても人を見ている」とだけ言っておきましょう。
以上、存在の真実についてたとえ話と理屈で説明してきましたが、「事実しかない。自分なんてない」という真実を体験的に捉えるには、“自分“を忘れる、つまり、思考が停止するまで徹底的に瞑想を深める以外には方法はありません。
要するに、“自分“というものは、相対的な思いにすぎません。
それを不動の実体と勘違いするところから、すべての迷いと混乱が生じてくるのです。
瞑想を深めましょう。
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