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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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人山を見 山人を見る 

人山を見 山人を見る 

「人山を見 山人を見る」というのは大智禅師という方の言葉です。

「人山を見る」というのは当たり前だけど、「山人を見る」というのがどうも分からないという方も多いでしょう。

まずは次のようなSF的な場面を想像してみてください。

世界を創造した万能の神様の官制室には、数え切れないほどたくさんのコンピュータが設置されています。

それぞれのコンピュータはこの世界のすべての存在の一つと無線ランのような回路で結ばれています。

いま、神様は一つのコンピュータのスクリーンを面白そうに眺めています。

そのスクリーンにはAという一人の人間に備わった視覚で得た情報を脳が認識したBという人間の姿が映像として映し出されています。

ところが、人間Aは「自分がこちら側にいて、人間Bを見ている」と思っています。

そうではないのです。

見ているのは神様だからです。

人間には大脳という非常に能力の限られた、いわば、ウインドウズ3.1程度のコンピュータが備わっています。

そのために、大脳は「見ているのはこの自分だ」と勘違いしてしまうのです。

つまり、大脳は「この体とその中に存在するものが自分である。その外にあるものは自分以外の存在だ」と思い込んでしまいます。

これが私たちの多くの有り様です。

でも、実際は人間Bを見ているのは神様なのです。

そもそも、自分なんていうものはないのです。

では、ここで言っている神様とは誰、あるいは、何のことでしょうか?

実は、驚くことには、神様も誰もいない、何もないのです。

それこそ“虚空”であり、空っぽです。

私たちが通常“自分”と思っていたものの正体、つまり、真実の自己、あるいは、本来の自己を徹底的に明らかにしてみると、何もないのです。

つまり、虚空です。

でも、この虚空はただの空っぽではありません。無限の性能と徳を持っています。

この虚空こそがこの大宇宙のすべての存在を創造し、生かしているのです。

それを仏教では仏性と言い、僕は“いのち“と呼んでいます。

この世界のすべての存在はこの“いのち“のハタラキそのものです。

ですから、本来、すべての存在、そして、一人ひとりの私たちは無限の性能と徳を備えています。


さて、最初の「人山を見 山人を見る」について考えてみましょう。

まず、本当は、山を見ている「人」もいません。

つぎに、「山人を見る」については、「山は眼がなくても人を見ている」とだけ言っておきましょう。

以上、存在の真実についてたとえ話と理屈で説明してきましたが、「事実しかない。自分なんてない」という真実を体験的に捉えるには、“自分“を忘れる、つまり、思考が停止するまで徹底的に瞑想を深める以外には方法はありません。

要するに、“自分“というものは、相対的な思いにすぎません。

それを不動の実体と勘違いするところから、すべての迷いと混乱が生じてくるのです。

瞑想を深めましょう。



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宇宙は一つの生命体

宇宙は一つの生命体

これから書いていくことはこれまで書いてきたことと重複するところが多々あると思います。

そういう意味では、このブログをずっとお読みになってこられた方々にとっては特別なことではなく、これが“常識”だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。


私たち一人ひとりはバラバラの存在ではありません。

私たちはこの大洋に散らばっている島のようなものです。

それぞれの島はお互いにバラバラに別れて存在しているように見えます。

ところが、水面下を海底まで辿っていきますと、それぞれの島はこの地球の地殻が突出したものであり、それぞれの島はみんな一続きになっています。

つまり、この地球上のすべての島や大陸はそれぞれ地球という一つの星の一部分です。

しかも、大洋や大気さえも地球が生み出したものであり、全部地球の一部分です。

さらに、地球そのものもこの太陽系、銀河系、さらには大宇宙とぶっ続きの存在です。

私たちがそれぞれの島や大陸がバラバラの別のものだと思ってしまいがちなのは、私たちの肉眼で見える大洋の水面上の島や大陸の姿形だけが真実であると思ってしまうからなのです。

ところが、私たちの肉眼に見えない部分を知的にでも、あるいは、こころの目で捉えれば、この世界に存在しているのは大宇宙一つっきりであり、それぞれバラバラの別のものと見えているものも、真実は、全部ぶっ続きの一つのものだということが分かります。

そして、それぞれの“部分“は瞬間瞬間にお互いに交流し、循環しながら変化しています。

それはもはやそれぞれを“部分“と呼ぶことさえも躊躇(ためら)われるほど、すべてが一つのものとして瞬間瞬間に存在し変化し続けています。

例えて言えば、存在の真実は一つの人体のようなものです。

人体のすべての細胞や組織、器官はそれぞれ瞬間瞬間にそれぞれの個性としての機能を発揮しながら、互いに交流、循環しながら人体という一つの“いのち“を生きています。

島や大陸や地殻だけではありません。私たち一人ひとりが大宇宙、あるいは、すべての存在とぶっ続きの存在であるということなのです。

この大宇宙、あるいは、大宇宙という一つの生命体を生かしている力である“いのち“そのものが“真の自己”なのです。

ただ、私たち人間の五感で捉えられた情報は限られており、大脳の認識能力も相対的なものであるので、すべての存在を“自分”と“他”、あるいは、それぞれはバラバラの存在だと錯覚しがちなのです。

私たちはせっかく人間として生まれてきたからには、五感や大脳のハタラキによって私たちが通常認識している世界の姿はどうしようもないほど粗雑でお粗末なものであり、およそ存在の真実からはかけ離れていることを知らなければなりません。

そういう意味で、存在の真実を知的に理解すると同時に、瞑想の自然法などによって、直接体験的に捉え、折に触れてそれを覚触(かくそく)する機会をもつことが何よりも大切だと思います。



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ほどほどの幸せ

ほどほどの幸せ

「幸せ(あるいは幸福)」という意味は、それをどのように定義するかによって変わってきます。

通常、「幸せ」という言葉は、どちらかと言えば、「幸福感」という意味で使われることが多いようです。

ここで「幸福感」という意味は、周りの状況が”個“としての自分の意を満たしていると感じるときに、沸いてくる「こころが満ちている」というような感覚です。

ですから、幸福感は状況しだいで、大きくなったり、小さくなったり、あるいは、なくなってしまいます。

そういう意味で、幸福感というものは、実際には、泡のつぶのように、常に不安定で、たとえ、今それを感じているとしても、一時的なものでしかありません。

にもかかわらず、私たちのほとんどが、意識的、あるいは無意識のうちに、日々幸福感を求めることこそ人生の目的、あるいは、意義であると感じながら生きているのではないでしょうか?

けれども、どんなに必死に努力して幸福感を求めても、それはもともといずれは崩れるはかない夢を追いかけているわけで、それこそはかない夢のような人生になってしまいます。

そういう意味で、結論的に言えば、「ほどほどの幸せ」などありえないのです。

それでも、日々、せめて「ほどほどの幸せ」を求めて生きて行こうと思うのは、それ以外に幸福に生きる道がないと思っているからだと思うのです。

それは、まず、出発点において、幸福感と「本当の幸福」の区別ができていないことから生じる錯覚なのです。

では、「本当の幸福」とは何でしょうか?

まず、それは状況によって変わるものではありません。

では、「状況によって変わらない」とはどういうことでしょうか?

それは、「もともとそうである」ということです。

言葉を変えれば、この世界は、もともとずっと、“本当に幸福な世界”そのものであるということです。

つまり、この世界=本当の幸福 ということなのです。

これは「本来はそうであるはずだ」ということではありません。

「この世界がそのままで本当の幸福世界である」ということなのです。

この世界の別名が「本当の幸福」と言い換えてもよいでしょう。

観念の話をしているのではありません。「事実がそのままそうだ」と言っているのです。

ここまで読んでこられた方の多くが、「ちょっと待ってくれ。この世界には多くの争いや対立、混乱や苦しみがある。そもそも、そう言って何とかしなければならないと言っているのはお前さん自身じゃないか。それなのに、この世界がそっくりそのままで本当の幸福世界であるとどうして言えるのだ?」と思われることでしょう。

アタマの理屈で行くとこの疑問は当然でしょう。

けれども、事実の世界ではまったく矛盾したものではありません。

みなさんには、これを一つの公案(テーマ)として、観念でできた桶の底が割れて、完全に抜け落ちるまで、徹底的に瞑想を深めていただければ、大変嬉しく思います。

(アタマで何とか理屈のツジツマを合せようとしてもダメですよ)


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バラバラ観文明の行く末  その2

バラバラ観文明の行く末  その2

今日の世界はアマゾンの奥地やフィリピンなどの小島など少数の僻地を除いて、ほとんどすべての地域はバラバラ観文明社会となっています。

バラバラ観からは、所有、優劣、差別、好嫌、善悪、生死、自由、幸福、平和などについて、根本的に間違った観念が生じます。

私たちはこのバラバラ観文明社会のなかで、生まれ、育ち、生きていく間に、無意識のうちにそれらの観念を当然の真理であると信じ込んでいます。

この現象を僕は「社会的洗脳」と呼んでいますが、「洗脳」というのは実にやっかいなものです。

それがどんなに真理からかけ離れ、間違っているとしても、洗脳された本人は「それは絶対に正しい」と信じ込んでいて、「もしかしたら、間違っているかな?」などとは夢にも思わないからです。

しかも、社会的洗脳の場合には、周りのほとんどの人たちも同じように洗脳されているのですから、その間違いに気づくことは奇跡に近いことなのです。

そういう状況の中で、仮にある人が、自分の観念が間違っていることに気づき、真理を発見したとしても、周りの人たちからは変人、奇人、さらには、狂人として社会から排斥されるのがオチです。

キリストやガリレオなどを持ち出さずとも、歴史の中に、そのような事例をいくつも見ることができます。

でも、僕がいまここで、歴史上の“特殊な“人たちや出来事について述べているのではありません。

いま生きている私たち一人ひとりが間違った観念に基づいて生きており、そして、この社会全体が間違った観念のうえに構築されているということなのです。

そのために、個人としても、また、社会全体としても、今日まで争い、対立、混乱、苦しみなどが絶えず、その様相はますます困難なものになってきているのです。

いずれにしても、このバラバラ観文明社会はいずれ崩壊することは必定です。

なぜなら、それは間違った観念のうえに構築されているので、もともと不安定なものだからです。

問題は「このバラバラ観文明社会はどのように崩壊するのか?」ということです。

僕はそれには4つのシナリオがあると考えています。

1 将来、このバラバラ観文明社会は崩壊し、人類、そして、この地球に棲む多くの生物は壊滅的なダメージを受ける。

2 将来、このバラバラ観文明社会は崩壊し、地球環境は大きな被害を受けるが、その中から奇跡的に人類は再生し、自分たちの根本的な誤りに気づき、「不可分一体の真理」に目覚めて、新しい文明の建設が始まる。

3 将来、このバラバラ観文明社会はますます大きな危機に直面する。

しかし、その危機感のなかから、「不可分一体の真理」に目覚めた人々が世界のあちらこちらに続々と現れる。

そして、ついには、その人たちの考え方が社会の主流となり、「不可分一体の真理」に基づいた新しい文明の建設が始まる。


4 まず、あなたが希望のボタンを押すことです。

そうすれば、世界は大きな惨禍を被ることなく、やがて、その歴史的役割を終えたバラバラ観文明社会に代わって「不可分一体観文明社会」が実現するでしょう。


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バラバラ観文明の行く末  その1

バラバラ観文明の行く末  その1

私たち人間は五感を通して得た情報を大脳で認識し、それに基づいて思考します。

ところが、大脳は物事を相対的にしか認識・思考することができないために、ほとんどの人が「バラバラ観」を持っています。

ここで、バラバラ観というのは「それぞれの存在は本質的に別々のものであり、究極的には利害が対立する存在である」という見方のことです。

私たち人類の文明はこのバラバラ観によって今日まで“発展”してきたと言えましょう。

ここで、とりあえず、世間の常識的な言葉の使い方にそって“発展”という言葉を使いましたが、果たしてそれが本当に「よりよい方向への変化」であったと言えるでしょうか?

私たちは、普通、「人類の文明は発展してきた」という表現によって、いつのまにか「そうなのだ」と無条件に思い込んでしまっているのではないでしょうか?

たしかに、科学技術の発展、医学の発展、産業・経済活動の拡大、近年では宇宙開発の進展などなど、そのようにも思えるような事実はたくさんあるかもしれません。

でも、その一方、絶え間ない紛争と戦争、核兵器に象徴される軍備拡張、超危険な原発、大規模な飢餓・食料問題、蔓延する疾病、地球規模の環境破壊、荒廃する教育問題などなど、どう考えても、人類社会は破滅に向かっているとしか思えないような深刻な問題が山積みです。

そして、このような事実を直視したときに、科学技術の発展、医学の発展、産業・経済活動の拡大などこそ、このような深刻な諸問題を生み出している主な要因となっていることがはっきりと見えてきます。

たしかに、たとえば、このような中で、私たちの生活は、ある意味では、随分と便利・快適になりました。

昔はお百姓さんは畑や田んぼの雑草や害虫の被害などに大変苦労しましたが、今では除草剤や農薬を使うことにより時間的にも体力的にも楽になりました。

ところが、除草剤や農薬のために体の具合が悪くなるお百姓さんがとても多いのです。

また、除草剤や農薬を使った農産物を食べなければならない一般の消費者の健康も大きく損ねられているのはご承知のとおりです。

さらに、現代では電車やバスでの通勤、自動車の使用など楽になったのはいいのですが、そのために、昔の人たちに比べて現代人は足腰が弱くなっています。

それで、運動不足を解消するために、町のジムやフィットネスクラブに通ったり、ジョギングをする方もかなりいるようです。

何か変だと思いませんか?

また、よく「医学の進歩は目覚しい」と言われますが、本当にそう思いますか?

よくよく事実を検べると、“医学の進歩“によって、むしろ、私たちの体そのものは弱くなっていることがはっきりと見えてくるのではないでしょうか?

これまで、ほとんどの方が人類の文明は発展・進歩しているとばかり思い込んでいたかもしれませんが、真実は、ますます大きなスケールで破局に向かっているのではないでしょうか。

(つづく)


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教えない教育  その2

教えない教育  その2

「エゴイズムを超えて」という考えだけではありません。私は先生のお話やご著書を通じて、「心配することはない」、「安心して、まごころを丸出しで」、「ケチな根性はよくない」、「イヤなことはさけないで」、「ヨイことはする」などなど、いろいろな考えに接することができました。

けれども、それらの言葉の意味はアタマではよく分かるのですが、ストンと腹に落ちないのです。つまり、「そうだ!」という生々しい実感がないのです。それでずっと悩んでいました。

ところが、ある時先生が、「人生の根本問題に関わる疑問は、アタマで、ああでもない、こうでもない、と捻くり回してもなかなか答えは出ない。そういう時にはその問いを宿題としてこころの片隅において置いておけば、そのうちに、ふとその答えに気づくことがある」と言われたのです。

それでも、どうしてもアレコレ捻くり回す癖が止まずに、とうとうアタマでは完全に行き詰ってしまい、気がついたら、すべての疑問を手放していました。そのとき、突然、その答えが“向こう側から”こちらにやってきたのです。それでやっとコツが分かりました。

私たちは何でもかんでもアタマで考えれば分かると思う傾向が非常に強いのですが、人生の根本問題に関する疑問を確認したら、それを“こころの宿題”としてこころの片隅にそっと置いて、あとは大いなる智慧のハタラキに任せて、安心してすべて忘れてしまえばよいのです。

 おかげさまで、私の人生は、少なくとも自分にとっては、若い時には想像もできなかったほど豊かなものとなりました。
しかし、振り返ってみると、すべてその源が先生にあるような感じがしているのです。しかし、本当はその源は先生のものでもあり、私自身のものでもあるのでしょう。と言うか、先生のものでもなく、私のものでもなく、誰のものでもないというのが正解だと思います。

その源をまず先生が時間的に先に掘り当てられて、その在り処と掘り方を、私が気づかないうちに、私に教えていただいたのだと思うのです。いや、私だけではありません。おそらく、お話やご著書を通じて先生に接してこられる方すべてに先生はその源の在り処と掘り方を秘かに教えられていたのではないでしょうか。

今あらためて先生のお言葉を思い出し、ご著書を読み返して思うことは、先生は人生の根本問題については、いつも私たちが自分で答えを見つけるように工夫し配慮されていたということです。
これは教育の指導者にとっては本当に大切なことだと思うのです。ですから、先生は人に答えを訊かれても決して答えようとはされなかったのでしょう。そして、その人自身が答えを自分で見つけるように秘かに配慮しながら、辛抱強く待たれていたのではないでしょうか。

自分自身の体験から言っても、教えてもらって分かったということと、自分自身の力で分かったということは天と地の差があります。つまり、人生の根本問題については、誰も教えて分からせることはできないのであり、本人が自分で気がつくしかないのです。

私は今この文章を書きながら、私自身今日まで数十年の間「教えない教育」をやってこられたのは、まさに、先生のおかげなのだという思いを噛みしめています。

(なお、CLCAについては、ウェブサイト www.clca.jp/ よりご覧ください。)



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教えない教育 その1

教えない教育 その1

(これは僕のこころの原点である寄宿生活塾「はじめ塾」を活動の中心とする「子供と生活文化協会CLCA」の機関誌『あやもよう』のために書いた原稿です。)


私が「はじめ塾」の和田重正先生にはじめてお会いしたのは22歳の時です。その当時私は「こころから納得のいく生き方をしたい」と思い、その答えを求めて悩みに悩んでいました。

その時先生が話された内容は私にはよく分からなかったのですが、なぜか私は「自分の求めている答えがここにある」ということを確信したのです。
それ以来、時間を作っては「はじめ塾」を訪れ、山の合宿にも参加し先生のお話をお伺いするようにしました。また、先生の書かれた『葦かびの萌えいずるごとく』やその他のご著書も繰り返し読みました。

その中でもっとも感銘を受けたのが『みんなで国に理想を』という小さな本です。その内容を要約すると「人類社会は歴史上かつてない絶滅の危機に瀕している。その根本原因は国家エゴイズムの対立にある。国家エゴイズムの対立を解消するために、まず、日本が率先して国家エゴイズムを放棄しよう。つまり、産業・経済・学術・技術などあらゆる国力を上げて、人類福祉のために注ぎ込もう。みんなで理想を国に掲げよう」というものです。

この小さな本が私の一生を決定付けました。「この考えをみんなに知らせ理解してもらうために全力で生きていきたい」と思ったのです。それ以来、折に触れてはこの考えをまわりの人に伝えると同時に、自分なりに考えを深めてきました。そして、最初にこの考えに出会って40年後に、先生のお考えをもとに自分の考えをまとめて『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』という本を上梓することができました。その後、この本をきっかけにあちこちから呼ばれて講演をさせていただいています。

ただ、20代の前半においては「具体的にどのように生きていくのか?」ということについては、まだはっきりしていませんでした。
先生は、私たちが具体的なことについて質問しても、それに対して直接お答えになるということはほとんどありませんでした。そのような先生の姿勢から、私は「要するに、答えは自分で出すしかないのだ」ということを理解しました。

けれども、どのように考えてみても、こころから納得のいく答えが見つかりません。その状態が数年間も続いたのです。そして、もがきにもがいた末に、もはやそんなことを考える気力もすっかりなくなったある時に、答えがポンと出てきました。

 その答えは「この社会には、自分がそうであったように、こころから納得のいく生き方を求めて苦しんでいる若い人たちがたくさんいる。そのような若い人たちの力になりたい」ということでした。

その時以来今日まで、ひたすら教育の道を歩んできました。おかげさまで、今日まで、いろいろなことがありましたが、毎日毎日充実して生きてこれたことは本当にありがたいことだと思います。

 若い時に私が行き着いた生き方の結論は、「エゴイズムを超えて」という考えに集約されています。この考えは私自身の考えには違いはないのですが、あらためて考えてみると、それをこころの奥から引き出してくれたのは先生だったのです。別の言い方をすれば、私のこころに先生によって秘かに蒔かれた種子が数年かけてすこしずつこころの表面に芽を出してきたのだと思うのです。

(つづく)


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偉大なる人たち

偉大なる人たち

それは太平洋戦争が終結してからまだ一月半ほどしか経っていない昭和20年9月27日の朝でした。

その日、昭和天皇ははじめてアメリカ大使館に連合国軍最高司令官マッカーサー元帥を訪問されました。

どうやら元帥は当初、東洋の敗戦国の君主がみすぼらしくも戦争責任を逃れ命乞いに来たのだと思っていたようです。

挨拶の後、二人は向かい合って坐りました。そして、そのまま数分が経過しました。

それから天皇は緊張した面持ちで話し始められました。

「マッカーサー元帥。私は、戦争遂行中、日本国民が政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対して唯一の責任を負う者として、私自身をあなたの代表する連合国の裁決にゆだねるために、ここにやってきました。国民は一人残らず私の命令に従ったまでですから、一切の責任は私独りにあることをご承知ください」

元帥は虚を衝(つ)かれ、一瞬呆然としました。

まさに、「信じられない!」という思いだったのでしょう。

しばらくして、元帥は言いました。

「われわれは充分に調査している。その結果、明らかに天皇のものではない数々の事実を確認している。それでも責任を取ると言われるのですか」

天皇はすかさず答えられました。

「ただいま申した以上に申し上げることはありません」

そして、立ち上がられると元帥に最敬礼をして帰ろうとされました。

このとき、元帥は骨のズイまで感動していました。

後に元帥はそのときの思いを次のように自伝『マッカーサー回想記』(朝日新聞社刊)に書いています。

「この方は、生まれながらの天皇だが、その瞬間、私は個人としても日本最高の紳士と向かいあっていることに気がついた」

そのときの会見はわずか35分間の短いものでしたが、元帥は昭和天皇がどんなお方であるかを心の底からの感動をとともに理解したのです。

後に、昭和天皇に任命された平和主義者の幣原首相は元帥に次のように言っています。

「ヒロヒト天皇という人は私利私欲のまったくない純真無垢な方です。まして、権力などに固執する気はさらさらありません。また、天皇は生まれながらのリベラリストであり、平和を愛する文化人です。天皇は今さら弁解などする人ではありません。だから私が代わって言うのです。すべて陸軍が独走して行った。天皇は終始戦争に反対だったが、天皇には政策決定の権限がなかった。政府から求められた時にしか、天皇には意見を述べる機会がなかったのです。・・・天皇は私に“思い切って憲法を改革せよ”と言われました」 

そのとき幣原首相が元帥に示した憲法案の骨子となるものが第1条の「象徴天皇」と第9条の「自発的戦争放棄」でした。

元帥は昭和天皇のお心を深く思い、幣原首相の提案を正面からしっかりと受け止め、その後それを果敢にバックアップしたのです。

この会見は昭和21年1月24日のことです。

この日こそ、実質的に、新生日本の希望の灯が点された日であると言えるでしょう。

戦うことよりも、戦わざる道を選択し実行することほど偉大なことはありません。


(以上、『昭和の天皇』平野三郎著 鳥影社 を参照・引用して書きました)






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