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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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無知は不幸のもと

無知は不幸のもと

私たちは時々、テレビなどで、「ある芸能人が覚醒剤や大麻などの依存性薬物(麻薬)の使用の疑いで、また逮捕」という報道に接することがあります。

そのとき、多くの方々の感想は「またか。あいつもバカなやつだなあ」といったものではないでしょうか。

若い時の僕の感想もそうでした。

でも、本当は、バカなのはその芸能人だけではありません。

なぜなら、僕もある年からタバコを吸い始め、しまいにはやめられなくなっていたからです。

世間ではどう言われていようと、タバコ(ニコチン)の正体は強力でもっとも依存性の高い麻薬なのです。

麻薬にはまって、どうしてもやめられずにいたということでは、その芸能人も僕もまったく同じです。

ところで、ヘロインとタバコ(ニコチン)の違いと共通点はどこにあるのでしょう?

違いは、ヘロインは非合法、タバコ(ニコチン)は合法ということです。

共通点は、ともに強力で依存性の高い麻薬であるということです。

タバコ(ニコチン)は合法であるから、「吸い過ぎに注意さえすれば大丈夫」ということではないのです。

麻薬の怖いところは、「自分でコントロールできている」と人に思わせながら、真実は、麻薬が人をコントロールしているということです。

そのようにして、麻薬はしだいに人を破滅の深みへ引きずりこんでいくのです。

一般的に、タバコをやめるのが非常に難しいのはそのためです。

(それは、「タバコは喜びや心の支えである」という価値観を持って、タバコを吸いたい気持ちを精神力で押さえつける、つまり、ガマンの禁煙をしようとするからです。タバコの価値観が幻想であることに気づき、タバコを吸いたい気持ちがなくなれば、タバコはガマンすることもなく、簡単にやめることができるのです。)

ところで、現代社会では成人の90パーセントの方々がアルコールを、量の多少はあっても、嗜んでいると言われています。

アルコールも合法ですが、その真実は、ヘロインと同じように強力で依存性の高い麻薬です。

ですから、「ヘロインもほどほどの摂取ならば大丈夫」などとは誰も思わないように、「アルコールもほどほどに飲めば大丈夫」なのではありません。

私たちは誰一人としてアルコールをコントロールすることはできないのです。

アルコールが人をコントロールしているのです。

それが麻薬です。

そういう意味では、誰も先の芸能人を「バカなやつ」とは言えないのではないでしょうか?

ただ、私は現在アルコールを楽しんで飲んでいる方々に、「すぐに、やめなさい」などと言う気持ちはまったくありません。

ただ、「自分の飲酒には問題がある」と感じている方は、ここに書いたことをよく読んで理解した上で、ガマンの禁酒ではなく、きっぱりとアルコールをやめることをこころからお勧めしたいと思います。

でも、僕が本当に言いたいことは、タバコやアルコールのことではありません。

いろいろな社会的洗脳による無知こそが私たちの苦しみと不幸のもとであるということです。



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騙し絵のような世界

騙し絵のような世界

僕は、若い時の自分のことを思い出すたびに、「何もわかっていなかったんだなあ」と思います。

そして、そのたびに、僕にとって、26歳の時の気づきはどれほど大きなものだったかということを再確認するのです。

では、「何がそれまでと違ったのか?」と問われても、なかなか言葉では説明できません。

でも、強いて自分なりに、より的確に短い言葉で表現すれば、「世界観が180度変わった」ということです。

あるいは、「それまで見えていると思っていた世界とはまったく違う世界が見えた」と言うこともできるでしょう。

皆さんは騙し絵というのをご存知ですか?

たとえば、有名なものの一つに「少女と老婆」というのがあります。
(ご存知でないかたは、検索エンジンで「騙し絵 少女と老婆」で検索すれば見ることができます。)

これは「少女の絵」とばかり思っていたら、ふと気がつくと「老婆の絵」だった、あるいは、「老婆の絵」だと思っていたら、ふと気がつくと「少女の絵」だったということに気がつくというトリック的効果を狙った絵です。

僕が26歳の時に体験したのはこの「少女と老婆」の騙し絵に似ているところがあります。

つまり、それまで僕に見えていた世界はそれぞれの存在が分離したバラバラの世界でした。その中に、僕も他の存在から分離して存在していました。

ところが、ふと気づくと、すべての存在は不可分一体の一つの“いのち“を生きていました。

そして、僕は不可分一体の“いのち“そのものでした。

空に浮かぶ雲が僕であり、風に揺れる木の枝が僕であり、遠くに見える山が僕であり、「キーッ」と鋭い声で鳴いている鳥が僕であり、雪道を危なっかしい足取りで歩いている男の人が僕であり、膝の上に跳び乗ってきたチビ(ネコ)であり、テーブルの上のボールペンが僕なのです。

すべてが僕なのです。

同時に、僕はどこにもいないのです。

26歳の時に、こんなことに、ふと気がついたのです。

気がついてみれば、これがまさしくこの世界の真実の姿であり、それまで見ていたものは、仮にそのように見えているにすぎないということがはっきりしました。

この点が騙し絵と違うところです。

騙し絵の場合は、少女も老婆も真実の姿です。ただ、はじめは、たとえば、少女(老婆)だけにしか気づいていなかったのですが、視点を変えることによって、老婆(少女)の絵でもあったことに気づくのです。

けれども、以前は少女(老婆)の絵だとばかり思い込んでいたとしても、一度でもはっきり老婆(少女)の絵が隠れていたことに気がつけば、その姿を見失うことはありません。

それと、同じように、この世界の真実の姿は26歳の時の体験以来、ますます、鮮明になってくることはあっても、決して色あせたり消えてしまうものではありません。

いまここにこそ、「すべてよし!」の絶対安心の世界と生き方があるのです。

この真実に気がつくためには、瞑想の自然法などの瞑想を継続的に実践することが一番有効です。



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安らぎの中で生きる

安らぎの中で生きる

私たちの現代の社会においては、多くの場合、「ストレスは悪いもの」といったニューアンスで話されることが多いようです。

でも、ストレスは、悪いものどころかその反対に、私たちの体と心の健康をまもるために、私たちにもともと備わっている、なくてはならない大切な本能的な機能なのです。

ストレスは「これ以上無理すると体力的にも、精神的にも大変なことになるよ」という警告のシグナルです。

ですから、ストレスがある場合には、ストレスの原因そのものを取り除くことが根本的にストレスを解消する唯一の方法です。

それなのに、対処療法的に、アルコールなどを飲んで、神経を弛緩させストレスを感じないようにしても、まったく意味がありません。

それは火事が発生している時に、「警報ベルの電源を切り、ベルの音を消したから一件落着」と言っているようなものです。

それどころか、大切な警報システムであるストレスを薬物で感じないようにすれば、人間の健康を維持するためにもっとも大切な免疫機能が大きく阻害されます。

たしかに、ストレスを過敏にストレスを感じることは大きな問題です。

でも、それはアルコールなどの薬物で神経を麻痺させてストレスを感じなくすればよいということではありません。

過敏にストレスを感じるのは、そもそも「ストレスは悪いもの」と思い込んでいるために、ストレスを感じるとパニック状態になっているのです。

では、ストレスを感じたときには、どうしたらよいのでしょうか?

それは実に簡単です。

まず、「自分にもともと備わった本能的機能である警報システムが正常に作動し、この状況は問題だと警告してくれている。ストレス君ありがとう」と警告を素直に受け取り、警告してくれたことに感謝すればよいのです。

そうすれば、パニックになることもなく、心は落ち着くでしょう。

そこで、「さてと」と、冷静に状況を直視し、問題点を探り出し、その対応策を考えます。

対応策が見つかれば、あとは、それを実行すればよいだけですから、もはや問題は解決したということです。

対応策がその時点で見つからないときには、まず、見つからないという事実をただ冷静に受け入れるだけです。

将来的に引き続き対応策を見つけようと努力するか、これ以上考えても無駄だと判断するかは、そのときの状況と自分次第です。

けれども、いずれにしても、あなたがそれ以上警告シグナルであるストレスを感じる必要はまったくないのです。

そういう意味では、心の問題はその時点で解決しているわけですから、あなたは、時々感じるストレスに感謝しながら、どこまでも安らかな気持ちで状況に対応しながら生きていけばよいのです。

心配や不安、恐れなどもストレスと同じで、私たちになくてはならない警報システムなのです。

このように、私たちはたとえストレスや心配、不安、恐れなどがあっても、いや、それらが私たちに備わっているおかげで、本来は安らぎのなかで生きていけるようにできているのです。

この真実に気がつくことが「悟り」です。



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こころを据えて生きる

こころを据えて生きる

まごころ丸出しで、安心して生きることは、本当はもっとも楽な生き方であり、決して難しいことではありません。

しかし、この現実世界の中において、果して自分一人まごころ丸出しで、実際に安心して生きていけるのか、それは現実離れした空想にすぎないのではないか、という疑問も出てくるかもしれません。

確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。

それだけしかないのであれば、つねに不信や対立の心を持って生きていかなければならないでしょう。

そこからは必ず不安や焦燥、奪い合いや争いが出て来ます。

その中で時には、一時的な幸福感を得ることもあるかもしれませんが、永続する真の幸福はありえません。

他に対して不信や対立の心があれば、本当に安心して平和に生きていくことはできないのです。

確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。

しかし、それらは表面的な現実でしかありません。

表面的な現象の底に流れている真実の愛こそ「より確かな現実」です。

それは心の眼を開けば明らかです。

真実は、この世界は愛と信頼に基づく、自他共に伸び栄える共生と調和の世界です。

この自他の本性に対する無条件的信頼を根本にして、ケチな根性やエゴイズムでなく、安心してまごころを丸出しにして、生きていくことこそ“いのち“の求めるところです。

この「いのちの世界」には常に調和と共生の世界を実現し、維持しようとする力が働いています。

それ“いのち”の世界の法則です。

この法則に沿って生きることこそ、より確かな現実に生きるということなのです。

そして、これこそ幸福に生きるもっとも確かな道なのです。

要するに、こころの一番深いところで、「自分はどう生きたいのか」ということを見極め、そこにこころを据えて生きていけばいいのです。

この生き方は個人と個人の間だけのものではありません。

社会の諸問題の解決についても、そこに働いている法則はまったく同じです。

それは決して無謀なことでも、夢のような理想論でもなく、最も確実な平和への道なのです。

現代の世界や日本は、環境破壊や戦争、貧困、食料不足など、いろいろな非常に深刻な問題により行き詰っています。

私たちは人類史上もっとも深刻な危機に直面していると言えるでしょう。

日本を含めて、人類社会は破滅へ向かってどんどん進んでいると多くの識者が警告しています。

では、この流れを食い止める方策はないのでしょうか。

これまで各問題に対する方策はいろいろと講じられていますが、いまだ根本的解決の方策は提示されてはいません。

諸問題の根本的解決は、このような危機に至った根本原因を明らかにし、それを取り除かなければなりません。

そのためには、私たち人類の誕生の故郷(原点)である大自然のあり方から大いに学ぶことが必要だと僕は思うのです。

なぜなら、大自然は不可分一体、調和・共生こそ人間社会本来のあるべき姿であることを私たちに教え続けてくれているのですから。


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ブルータスよ、お前もか

ブルータスよ、お前もか

「ブルータスよ、お前もか」というのはローマ帝国の独裁者カエサルが暗殺されるとき、自分を殺そうとする一味の中に信頼していたブルータスがいるのを見つけて発した言葉です。

「それが何か?」と思われるかもしれませんが、まず、一つの事例として、僕自身のタバコと酒に対する認識の変化について述べてみましょう。

僕はタバコをやめられなくなった後、タバコのハタラキの仕組みを明らかにしようと、自分自身を実験材料として本格的に研究を始めました。(こんな変った人間もいるのです。)

そして、かなり年数はかかりましたが、ついに、タバコ(ニコチン)の罠の仕掛けを解明することができました。

簡単に言えば、タバコは狡猾な詐欺師のようなものです。

タバコはストレスを解消したり、喜びや楽しさや心の安定を与えているように見せかけながら、事実は、まったくその反対で、ストレスを与え、喜びや楽しさを奪い、苦しみを与え、心を不安定にしているのです。

もともと、タバコなんて吸う必要もなかったということに気づき、僕はタバコから自由になったと感じました。

そして、精神力を使うこともなく、禁断症状もまったくなく、簡単にタバコをやめることができました。

ところが。ところが。

タバコをやめて何ヶ月も経ったころから、体内のニコチンは完全に抜け切っているにもかかわらず、時々、タバコを吸いたいような気分が湧いてくるのです。

タバコは何も利益を与えてくれず、不利益をこうむるばかりだということを見破ったはずなのに、なぜ、タバコを吸いたいという気持ちが湧いてくるのか?

実は、その後何年もこの疑問が解けなかったのですが、あるとき「やっぱり、タバコは正真正銘の本格的な麻薬だ」ということが閃いたのです。

その言葉はジグソーパズルの最後のピースのように、僕の心のあるべき場所に「パチン」という小気味良い音を立てて収まった実感がありました。

そのとき以来、僕はタバコの罠から完全に解放されたのです。

吸いたいという気持ちは一度も湧いてきません。

ところが、実は、それまでも、僕は「タバコは麻薬だ」と思い、人にも言ったりしていたのです。

それまでの認識とそのときの気づきはどこが違っていたのでしょうか?

しばらくして、あることに気がつきました。

実は、そのときまでは、僕は、心の奥底では、「タバコは正真正銘の本格的な麻薬だ」という事実を認めたくなかったのです。

世間では「タバコは嗜好品だ」と言われています。

僕はアタマでは否定しながらも、心のどこかで、「この社会が、本物の強力な麻薬が合法的に、しかも、おおっぴらに販売されるような情けない社会であってほしくない」と思っていたのだと思います。

それで、事実をどうしても認めたくなかったのです。


後年、酒をめぐって、まったく同じことを再体験しました。

それで、「酒よ、お前もか」というわけです。

でも、結局は、「事実は事実である」と認めるしかないのです。



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ふと気がつく  その3

ふと気がつく  その3

9 20歳のある日、突然「自分は自分自身を生きていない」ということに気づいて愕然としました。

僕はそれまで、「自分自身がこの人生の中でどのように生きたいのか?何をしたいのか?」ということを自分自身に問いかけたことがありませんでした。

そして、「ショーウィンドーのケースの中にあるいくつかの商品のうち、どれが見栄えがよさそうか?」という感覚で進路を決めてきました。

さらには、大学卒業後の一生の仕事もそのような基準で選択しようとしたことに気づいたのです。

その日以来、僕は「自分はこの人生で何をしたいのか? そもそも、自分とは何ものなのか?」ということを真剣に求め始めました。

10 ところが、どんなに本を読んでも、いろいろ考えても答えが見つかりません。

その間、大学院の博士課程まで進んでいましたが、しだいに体も心もボロボロになってしまいました。

ついには、眼科で「緑内障で6ヶ月以内に失明する」と担当のお医者さんに告げられてしまいました。

そのとき、自分の人生で最大の奇跡が起こりました。

「眼が見えようと見えまいと、どんなことがあろうと、自分は変わることがない」ということがはっきりとわかったのです。

それと同時に、それまで持っていた人生上の疑問はすべて消えてしまっていました。

11 31歳になったとき、友人たちと電車に乗っていろいろ話しているときに、それまで持っていた観念がすべて脱落するという経験をしました。

つまり、一切の観念を交えず事実がそのまま見えるという体験です。

実物の事実の世界は、一言で言えば、不可分一体の“いのち“の世界でした。

12 32歳の頃、それまで一度もタバコを吸ったことはなかったのですが、突然タバコを吸い始めました。

きっかけは、意志の強い父が「タバコをやめられない」と僕に言ったことです。

それまでずっと僕は「タバコは簡単にやめられるはずだ」という確信を持っていました。

それを実証するために吸い始めたのですが、たしかに、最初のうちは「やめよう」と思うと簡単にやめることができました。

その後、実験のつもりで、しばらく吸っては、簡単にやめるということを繰り返していました。

ところが、10年くらい経って、だんだんやめにくくなってしまったのです。

それでも、実験を繰り返していると、とうとう本当にやめられなくなってしまいました。

それから、何年も経ったある日、突然、はっきりとタバコの正体に気づきました。

そのとたん、実に簡単にタバコをやめることができました。

それ以来、タバコを吸いたいという気持ちはいっさい湧いてきません。

13 アルコールは大学に入った時から飲み始めました。

年が経つに連れてだんだん酒量が増えて、毎日晩酌をするようになりました。

でも、ある日、アルコールの正体にはっきりと気づきました。

それ以来、一度もアルコールを飲みたいという気持ちは湧いてきません。


以上、思い出すままに書いてみました。



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活元運動をしましょう

活元運動をしましょう

今回は瞑想という観点から活元運動について考えてみましょう。

活元運動は私たちの体や心にもともと備わっている機能で、体と心の働き自体をより活発にするために、必要なときに自動的に発動する運動です。

例えば、あくびや嘔吐、赤ちゃんが手足をバタバタしているのも活元運動です。

そういう意味では、誰でも活元運動をすることができると言えるでしょう。

けれども、活元運動を必要な時によりスムーズに、より活発に発現させるには、最初に3つの予備運動をしたほうがよいでしょう。

(そのやり方については、『健康生活の原理』 野口晴哉著 ちくま文庫 をお読みください。)

私たちの体と心は私たちの思い(考え)によって動く部分もありますが、大部分は思い(考え)を超えた大きな力によって働いています。

そして、実は、私たちの思い(考え)さえもそれを超えた大きな力によって働いています。

つまり、私たちの体と心の働きはすべて思い(考え)を超えた大きな力の発現そのものなのです。

にもかかわらず、多くの方々はその真実(真の自己)を見失って、アタマの思い、あるいは、思いで捉えた自分を“自分“であると錯覚してしまっています。

ところが、アタマの思いは、いつも「いまここに満足できない」というやっかいな性質を持っているのです。

そのため、いつも「物足りよう。物足りよう」として、結局は、いつも物足りることができないのです。

なんとか頑張れている間は、「もう少し頑張りさえすれば、きっと満足できる結果が得られるはずだ」と、いつも「もう少しだけ頑張ろう」と思って何とかやれている気になっています。

でも、結果は他の人には見えているのです。

自分の思うように行かないことが重なってくれば、かならず最後には、体だけでなく、心もへばってしまいます。

そういう中で、瞑想しても雑念ばかり出てきて、瞑想すればするほど疲れて厭になってしまいます。

本当は、雑念が出るのは体と心のストレスを解消しようとしている自然の働きなので、実にありがたいことなのです。それを“相手にしないで“いれば何の問題もないのですが、思いで何とかしようとして結局は疲れてしまうのです。

そういうときこそ、雑念が出ることも厭わず、どういう結果が出なければならないなどという思いをすべて投げ出して、活元運動をすればよいのです。

要するに、自分の思いではどんなにしようとダメなのです。

結局は、行き詰ってしまい、思いで固めた小さな“自分“に閉じこもってしまうことになります。

“自分“の小さな思いなどすべて投げ出して、自分の本体である大いなる力、“いのち“に任せきるのです。

以下は、道元禅師の言葉です。(一部、漢字混じり、現代仮名遣いに直しました。)

ただわが身をも心も放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これに従いもて行く時、力もいれず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる。誰の人か、心に滞るべき。



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ふと気がつく  その2

ふと気がつく  その2

5 小学3年生のある日曜日、雨がかなり激しく降っていました。

僕は家業の手伝いで、大人用の自転車の荷台に風呂敷で包んだ雑誌をくくりつけ、それが濡れないように傘を挿して、ぬかるみの道を自転車を押しながら歩いていました。

ちょうど友達の家の前に差し掛かった時、家の中から、友達の声を含めて、家人の楽しそうな一家団欒の笑い声が聞こえてきました。

そのとき、僕は「こんな不公平なことが当たり前になっているこの社会は根底から間違っている」と心の底から思いました。

これが僕の社会の本質を認識した最初の体験です。

念のために言っておきたいのは、僕は自分が惨めだというような個人的な感情を持ったのではないということです。

6 中学3年生の修学旅行で広島の原爆記念館を見学したときに、体の震えが止まりませんでした。

「絶対二度とこんなことがあってはいけない! こんな社会は根本から間違っている!」と思ったのです。

これが僕がこの社会の本質を認識した2回目です。

7 大学生の時、生の英語を聞き取り話せるようになりたいと思いました。

当時アメリカの駐留軍の軍人やその家族に向けたFENという放送局がありました。

僕は5分間の生の英語ニュースをテープに録音し、それを1日に何時間も繰り返し聴きました。

でも、5分間のニュースで僕に聞き取れたのは、ワシントンとかケネディといった2,3の単語だけでした。

にもかかわらず、毎日毎日何時間も聞き続けたのです。

それでも、少しの進歩もありませんでした。

ところが、3ヶ月経ったある日、突然、すべてがはっきりと聞き取れるようになったのです。それはまさに奇跡でした。

僕は突然、アナウンサーが腹式呼吸のように腹から息を出し続けながら英語を発声していることに気がつきました。

そこで、僕もアナウンサーと同じリズムで呼吸しながら聴いてみたのです。

そうしたら、突然英語がゆっくりと明瞭に聴こえるようになったのです。

一気にリスニングが出来るようになっただけではありません、その日以来僕の日本式の発音はアメリカ人の発音に非常に近いものに変わっていたのです。

その直後、偶然、町で出会ったアメリカ人と会話をしてみたら、「アメリカに何年留学していたの? 本当に英語が上手だね」と言われて、逆に面食らってしまいました。

それから10年以上経って、英語の発音は腹式呼吸でやるのだという専門家が現れて、僕はそれを体験的に会得できたのだということを確認しました。

8 大学1年のとき、「毎日小説を1冊読む」という友人に刺激を受け、僕も挑戦してみました。

ところが、ゆっくりは読めても速く読むことができません。

そこで、読み取れなくても、1行ずつ上端から下端へと機械的にすばやく眼を動かしました。

何も読み取れないままに、毎日繰り返しました。

そうしたら、1ヶ月経ったある日、突然、意味が「向こう側から」飛び込んできて分かるようになりました。

ずっと後になって、それが速読法の原理にかなうものであることを確認しました。

(つづく)


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ふと気づく   その1

ふと気づく   その1

これから書くことは個人的な思い出にすぎません。

また、どれだけみなさんのお役に立つことかもよくわからないのです。

ただ自分としては、いま思い出してとても面白いと思うので書いてみようと思います。

僕はこれまでの人生において、ふとあることが閃いたり、ある事実に気づいたりすることによって、行き詰った状況が打破(ブレイクスルー)されたという経験がいくつかあります。

その経験には大小いろいろとあるのですが、幼い頃からの経験を思い出すままに書いてみます。

1 小学2年生の頃、学校で時計の読み方を習ったのですが、僕はまったく理解できませんでした。

それ以来ずっと、それが気になっていました。

ところが、ある日、「1は5だ」ということが閃きました。その瞬間僕は時計が読めるようになりました。

2 その頃、2桁の引き算のやり方を習ったのですが、やはり僕は理解できませんでした。

それ以来ずっと、それが気になっていました。ところが、ある日突然、先生に習ったやり方ではないのですが、別のやり方をすればいつも正解が出ることに気がつきました。

(いまでも、引き算はそのやり方でやっています。大人になって、僕の発明した方法も昔からあったということを確認して嬉しかったです。)

3 僕は5年生の1学期の初めまでずっと、典型的な落ちこぼれでした。成績は1クラス50人中48番か49番でした。

ところが、担任の先生の「あなたは出来るのよ」という一言で、1学期の終わりにはクラスで上から5番以内に入っていました。

僕はそれまでずっと、先生の説明を聞いてもほとんど分からなかったのです。

けれども、自分のペースで教科書を読み、分からないところを辞書などで調べると自分なりによく理解できることを発見したのです。

このように、前日に完璧に予習してから翌日の授業に臨みましたので、当然、授業はよく分かり、「授業が復習」になりました。

これに味をしめて、予習中心の学習法を続けることによって、成績はその後も伸び続けました。

4 その頃、クラスの男の子たちには相撲がはやっていました。

昼休みなどの休み時間にはいつもみんなで相撲を取っていました。

そのなかで、僕はチビで力も弱かったので、なかなか勝てませんでした。

ところが、ある日、僕は体のある部分の力をふと抜いて捻ると、相手が簡単に転ぶことに気がつきました。

この技にかかると、体の大きな子でも簡単に転んでしまうのです。

その技はどうやら「肩すかし」の変形だったことを大人になって知りました。

そのとき以来しばらくは、連戦連勝でしたが、最後は相手が最初から警戒してくるようになったので、技がかかりにくくなって、いつのまにか、体の大きい子には負けることもあるようになってしまいました。

考えてみると、とにかく、僕は最初のうちは何をやっても不器用で他の友達のようにはうまくできなかったのです。

それはいまも少しも変わっていません。

(つづく)



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