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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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いまを微笑む

いまを微笑む

僕はまだ若かったとき、所詮(しょせん)人生は無常ではかないものだという思いを強く抱きながら生きていました。

自分はその時々にいろいろなことを思い、やりながら生きている。

でも、次の瞬間にはそれらはすべて消えてなくなってしまう。

たしかに、自分が思い、行い、経験したことの結果は次々と繋がっていくだろう。

しかし、その瞬間に思い、行い、経験したことはもはやどこにも存在していない。

100年後、200年後になってしまえば、この自分が生きていたということさえも誰も知っている人もいないだろう。

かりに社会的に何か素晴らしい功績を成し遂げ、それが歴史として語られることがあったとしても、それはあくまで過去の出来事であって、もはやどこにも存在していない。

このように考えていくと、「結局、自分の一生とは何なのだろう?」という思いに捉われて、何をやっていても、こころの奥で、むなしさを感じぜずにはいられなかったのです。

そのために、何をやっても、いつも「これでいいいのか?」というような思いや、どこか張り合いのなさのようなものを感じるのです。

「果たして、こんな自分が生きていていいのだろうか? 自分が生きていく価値や意味があるのだろうか?」という気持ちがいつもあって、何か足下が頼りないような気持ちで毎日を生きていました。

ところがある日、飼っていた一匹のネコと庭で遊んでいたとき、突然、「いまがすべてだ。いまは永遠なのだ」ということに気がついたのです。

そう思って、周りを見回すと、花が咲き、鳥が歌い、空には白い雲が浮かんでいます。

すべてが“いまここ”に存在しています。

そこには過去、現在、未来という人間のアタマで作り出した時間軸という“物語”を超えて、事実として、永遠の“いまここ”という実在だけがありました。

これは、26歳のある時自己の本質を垣間見るという体験の直後に起きた気づきです。

この真実に気づいてからは、もはや、いっさい無常感に襲われることもなくなりました。

そして、今日まで、何をやるにしても、力いっぱいやって生きていけばよいのだという気持ちで、足下をしっかりと踏みしめながら、生きていけるようになりました。

たとえどんなことがあっても、こころの奥ではいつも生きていくことそのものが楽しいのです。


真実は、誰にとっても、生きることは悦びそのものであり、いまの一呼吸、いまの一歩がすべてであり、永遠です。

この真実に気がつきさえすれば、誰でも、何の努力をすることもなく、自然に、いまを微笑みながら生きていけるようになるでしょう。

考えてみれば、この人生のなかで、いま微笑まないで、いつこころから微笑むことができるというのでしょうか。

いまここを微笑んで生きる。

これ以上大切なことはありません。

そして、そのカギは自分のこころのなかにあるのです。



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事実の世界は“いのち“の世界

事実の世界は“いのち“の世界

真実の世界とは何でしょうか?

アタマでどんなふうに思ったとしても、その思いの内容をこれこそ真実の世界であると思ったとしても、それは結局アタマの“思い“でしかありません。

ちょっと考えてみればすぐわかることです。

“思い“はどこまで行っても“思い“でしかなく、真実そのものではありません。

そのように考えてみれば、「真実の世界とは事実の世界そのものである」という結論に至ります。

そうです。事実の世界こそが真実の世界に違いありません。

したがって、悟りというものが存在の真実をアタマでなく体験的に捉えることだとすれば、悟りは事実の世界を“ありのままに”捉えるということになります。

事実の世界をアタマで解釈して理解しようとしても、それはアタマの“思い“でしかなく、ありのままの事実の世界ではありません。

しかも、アタマの認識性能は限られている可能性があり、そこに捉えられた事実の像は歪められているかもしれません。

(実際、アタマは相対的にしか認識できないので、真実はすべてが一つのものでも、すべてがバラバラのものと誤って認識してしまうのです。)

これではどこまで行っても悟りに至ることはできません。

そこで、事実の世界をありのままに捉えるためには、事実の世界にサッと飛び込む、あるいは、溶け込んでしまうしかありません。

では、そうするためにはどうしたらよいのでしょうか?

禅やヨガなどにおいても昔からそのための方法が工夫されているようです。

それでも、なかなか難しいと言われています。

それは、私たちはどうしても思考を通して物事を把握・認識しようとするからです。

でも、本当は事実を直に捉える、あるいは、体験することは決して難しいことではありません。

真実は、私たちは常に事実の世界を生に体験しながら生きているからです。

そして、もともと、事実だけが実物なのであり、アタマの“思い“はその影のようなものでしかないからです。

この真実、あるいは、事実に気がつきさえすればよいのです。

アタマで事実を捉えようとすることのバカバカしさをはっきり気づくことが大切です。

もう一つ事実の世界をそのまま捉えられない原因は、真実の世界が(“いまここ”でない)どこかにあると思っているからです。

真実の世界は“いまここ”の事実の世界以外にはないということにはっきり気づくことがとても大切です。

もう一つの原因は、いつも「自分には何かが足りない」と思っていることです。

そして、いつも「どこかに自分に足りないものを満たしてくれるものがあるにちがいない」とキョロキョロ探し回っていて、“いまここ”の当たり前の事実の世界に落ち着いていないことです。

他に求めようとするから、すでに手の中にあるものを見失ってしまうのです。

“いまここ”に欠けているものは一つもありません。

事実の世界は“いのち“の世界です。

すべてが大きな一つの“いのち“を生きています。

古人いわく「脚下を見よ」と。


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春が来た? 春になった?

春が来た? 春になった?


春が来た 春が来た
どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た


いい歌ですね。のどかな感じがしてほっとします。

僕の住んでいる山ではこのところ寒い日が続き、とくに、この2,3日は北西の風が吹き荒れました。

ところが、今朝おだやかな日差しに誘われて外に出てみると、そこは春でした。

昨日までとはうって変わって、とても暖かく、まったく風もありません。

畑の黒い土は先月の大雪が溶けたため、しっとりと、そして、暖かく湿っています。

花壇には福寿草が咲き始めました。

あぜ道にはイヌフグリの花も可憐に咲いています。

どこからともなく、ひばりや雉(キジ)やコジュケイの鳴声が聞こえてきます。

梅の木にはつぼみがたくさん付いています。

空にはいくつか白い雲が浮いています。

ぜんぶが春です。

畑の黒い土も、枯れ草も、緑の草も、あぜ道も、福寿草も、イヌフグリの花も、ひばりも、キジも、コジュケイも、梅の木も、桃の木も、桜の木も、松の木も、森も、林も、空も、白い雲も、太陽も、山々も、まだ溶けずに残っている雪も、向こうから走ってきたネコたちも、そして、僕も、みんな春です。

春が来たのではありません。

ぜんぶが春なのです。

春という世界に別の何かが存在しているのではありません。

世界が春であり、そのなかに存在している一つ一つもすべて同じ春なのです。

そして、僕の春のなかに世界の春と同時に、すべてのものの春が存在しているのです。

この世界と、この世界に存在するものはそれぞれ姿や形、大きさなどはすべて異なっていても、みんな同じ春なのです。

そこにはたった一つのもの、春があるだけです。

どこにも境目がなく、春が循環し交流しています。

みんな完璧に一つのものです。

そこには何かから分離したものなど存在しません。

分離した自分もいません。

僕は春であり、梅の木も春です。同じ春なのです。

僕と梅の木は姿や形、大きさなどの外見は異なっていても、その本質はまったく同じです。

この世界が、そして、この世界の一つ一つの存在が僕自身です。

自他はないのです。

すべての存在、そして、自己の本質は“いのち“です。

その“いのち“が朝になり、春になったのです。

多くの方々は「この世界に自分を含めていろいろな存在が現れて、活動し、やがて消えていく」というように考えているようです。

けれども、真実は世界とその中に存在するものは分離しているのではありません。

この世界もそこに存在するすべてのものもすべてぶっ続きのひとつの“いのち“なのです。

ですから、この世界に春が来たのではありません。

“いのち“であるこの世界が、“いのち“であるすべての存在が、“いのち“であるこの自分が春になったのです。

いま、穏やかな春の光のなかで、すべてが"いのち"の悦びに萌え上がっています。

(この真実は家の中にいてはわかりにくいかもしれません。でも、暖かで穏やかな春の日に、近所の公園でも散歩してみれば誰にでも実感できる単純な事実です。)




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幼子のごとく

幼子のごとく

「よく聞きなさい。心を入れかえて幼子(おさなご)のようにならなければ、天の国に入ることはできないであろう。」

これは新約聖書のマタイ伝18章3節にあるキリストが言ったとされる言葉です。

あなたはこの言葉をどう思いますか?

僕は「天の国に入る」という言葉を「悟る」という意味に受け取っています。

では、「幼子のような心」とはどんな心なのでしょうか?

ほとんどの方が思い浮かべるのは「無邪気」「素直」「愛らしさ」などといったイメージではないでしょうか。

だとすれば、そのような心になるのを妨げているのは何なのでしょうか?

それは私たちがこの社会に生まれ、成長し、生きていくなかで、いつの間にか身につけてしまったいくつもの間違った思い込み、あるいは、観念です。

私たちはそれらの思い込み(観念)を「本当はどうか?」と徹底的に検証することもなく、ただ「みんながそう言っているから」という理由だけで、それを「絶対正しい」「間違いない」と妄信してしまうのです。

このように僕が言っても、いろいろな思い込みを「本当はどうか?」と徹底的に検証した体験のある方々は別として、ほとんどの方は僕が何を言っているかまったくピンと来ないのではないでしょうか?

でも、キリストの「心を入れかえて」という言葉を繰り返すまでもなく、この社会に生きている私たちはいろいろなことで悩んだり苦しんでいます。

その根本の原因は「私たちが気がつかないうちに身につけてしまったいろいろな間違った思い込みにあるのです。

キリストは「その間違いに気づきなさい。そうすれば誰でも天の国に入れる(悟れる)のだ」と言っているのだと思います。

その間違った思い込みの最たるものは「すべての存在はバラバラである。自分と他は分離した存在である」という“バラバラ観”です。

そこから、まず、「自分、あるいは、自分たちさえよければ」というエゴイズムが生じます。

さらに、対立、所有、優劣、差別、善悪、好き嫌い、自由、義務、権利、幸福、生死などに対する間違った観念、さらには、執着、過剰な競争意識、憎しみ、妬み、嫉妬、孤独感、怒り、過度の悲しみや恐れや不安、心配、などのマイナス感情が生じます。

このように列記してあるのを読むと、それでは天の国に入る(悟る)のはさすがに無理だろうと感じられるのではないでしょうか?

でも、白隠禅師は「生きとし生けるものは“本来”仏である」と言い、また、盤珪禅師は「親の生みつけたものは不生の仏心一つである」と言っています。

私たちは本当はもともと天の国に入って(悟って)いるのです。

ただ、間違った思い込みによってアタマが曇ってそれに気がついていないだけなのです。

間違った思い込みに気がつき、それを放しさえすれば、誰でも「すでに天の国に入っている(悟っている)」という真実に気がつくことができるでしょう。

「そのための最適な場が自覚のセミナーである」と僕は確信しています。



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ここが極楽だ

ここが極楽だ

本来、自分は何一つ欠けるところのない存在です。

状況がどんなに変わっても、自分は変わりません。

本来、生も死もありません。

事実は事実として、そのまま受けいれればよいのです。

恐れるものも心配するものも何もありません。

自分は“いのち“だからです。

“いのち“には形も色も大きさもなく、見ることも、聞くことも、感じることもできません

“いのち“の顕われであるすべての存在は不可分一体です。

不可分一体というのは、構成するそれぞれの要素が互いになくてはならない関係として、互いに助け合い、補い合い、循環、集合、離散しながら、それぞれの特性や役割を果たすことによって、全体である一つの“いのち“が生きる姿です。

それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きるのです。

人体も、大自然も、大宇宙もそれらを構成する各要素は、このように調和・共生の世界を形成しています。

この世界は、眼に見えない“いのち“の法則に従って、すべてが整然と循環・運行している調和・共生の世界です。

“いのち“は万物を創造し、万物に調和と共生をもたらしています。

つまり、この世界の本質、つまり、私たちの本質は調和と共生です。

一言で言えば、愛です。

私たち一人ひとりにとって、この存在の真実に本当に気づくことは何よりも大切なことなのです。

存在を私たちの五感を通し、相対的な思考しかできない大脳(おもに左脳)で認識すると、本当は不可分一体の存在がすべてバラバラだと感じられます。

そのバラバラ観による認識や判断から出てくるのが「自分さえよければ」というエゴイズムです。

このエゴイズムこそが私たちの個人的、そして、社会的な苦しみと混乱、そして、人類の行き詰まりの元凶です。

(エゴイズムを解消するもっとも有効な方法は“希望のボタン”を押すことです。・・・・ワンカットコマーシャルではありません。)

盤珪禅師は次のように言っています。

「親が産み付けたものは不生の仏心一つである。仏心は不生であり、霊明なものである。一切は不生で整う。不生が一切の本である。不生が一切の始めである。すべての迷い、苦しみ、争い、憎しみ、怒りなどは、我が身の身びいきにより起こる。」

「仏心は不生」というのは「私たち一人ひとりの本質は永遠の“いのち“である」ということです。

要するに、私たちは私たちの本質である“いのち“の要請に従って、安心してまごころ丸出しにして生きればよいのです。

そうすれば、すべてがうまくいくのです。

どうして、ケチな根性を固く握り締めて、地獄へ向かって行っていることにも気がつかない人がこんなにも多いのでしょうか?

それは、「極楽は“いまここ”にある」ことに気がついていないからです。

ケチな根性は私たちの本質ではありません。

ケチな根性は地獄への片道切符なのです。



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