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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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マイナス感情

マイナス感情 

マイナス感情には怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ、心配、不安、ストレス、イライラなど、いろいろとあります。

でも、そのすべてが私たちにとってマズイものというわけではありません。

たとえば、私たちは何か危険を察知したときに本能的に恐怖を感じます。

けれども、恐怖感は「気をつけろ!」という警告シグナルであり、私たちにが生命を維持していくためになくてはならない大事な本能なのです。

心配、不安、ストレス、イライラなども、同じように、「このままではマズイことになるよ」という警告シグナルなのです。

ただ、もちろん、実際には大した危険、あるいは、問題があるわけではないのに、アタマでそれを誇大に感じすぎて、これらのマイナス感情を抱くことは、逆に、私たちを苦しめることになります。

でも、それはアタマで誇張して感じすぎることが問題なのであって、これらの警告シグナル自体がマズイわけではありません。

ところが、怒り、悲しみ、憎しみなどは、上記のマイナス感情とは大いに異なっているようです。

その代表として、怒りについて考えてみましょう。

僕は、ときどき、何かで腹が立ったと言う人に、次のように質問することがあります。

「なぜ腹が立ったのですか?」

この問いに対して、いろいろな答を返してくれます。

でも、そのほとんどすべてが僕の質問にたいして直接答えてはいないのです。

一言で言えば、それらはみんな“言い訳”にすぎません。

そこで、僕は思わず、再び「そうであるとして、なぜ腹が立ったのですか?」と尋ねずにはいられません。

でも、それに対して返ってくる答えも“言い訳”です。

そこで再び「なぜ?」と尋ねるわけですが、どこまで行っても“言い訳”しか返ってきません。

でも、ご本人はどこまでも自分の答えを“正当な理由”だと思い込んでいるのです。

さて、あなたは僕の問いにどう答えますか?

もし、あなたが「ーーーーだから(当然のこととして)腹が立ったのだ」と答えるならば、ーーーーが何であっても、それは“言い訳”でしかありません。それがわかりますか?

そのことにはっきり気がつけば、その瞬間、あなたは、一生、どんなことがあっても、腹の立たない人になるでしょう。

似たような例ですが、スモーカーに「あなたはなぜタバコを吸うのですか?」と尋ねると、次のような答えが返ってきます。

タバコを吸うと、ストレスが解消する、集中力が増す。
吸わないと、イライラする、間がもたない、太る。
タバコは楽しい、こころの支えだ、など。

でも、これらはみんなスモーカーの思い込みであり、“言い訳”でしかありません。

なぜなら、もともとタバコを吸わないノンスモーカーは、タバコを吸ってもストレスが解消するとも、集中力が増すとも思わず、また、吸わないと、イライラする、間が持たない、タバコは楽しい、こころの支えだなどとも思わないからです。

このように、スモーカーの言う“タバコを吸う正当な理由”が結局は言い訳にすぎないことはノンスモーカーがはっきりと証明しています。


「それで、なぜ腹が立ったのですか?」



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ただ呼吸する

ただ呼吸する

私たちは病気にかかった場合やスポーツをしている時などを除いて、自分の呼吸をとくに意識することは普段めったにありません。

(それは心臓の鼓動や血液の循環、消化活動などについても同じです。)

普段、私たちは、意識するしないに関わらず、「自分が呼吸している」と思っています。

それはそうなのですが、私たちは通常は自分の意思で呼吸をコントロールしているのではなく、体が勝手に呼吸をしています。

だからこそ、私たちは眠っている間でも、呼吸をちゃんとしなければならないなどと心配する必要がないというわけです。

瞑想、とくに随息観(呼吸をただ意識しながら坐っていること)が深まってくると、そのうちに、“自分“という思い、あるいは、意識が消えてしまいます。

その状態では、はっきり眼は覚めていますが、“自分“が消えるとともに、ほとんど意思も働いておらず、ただ、呼吸しています。

もちろん、生理的に言えば、鼻や口、気管、肺などの呼吸器やそれに連動する心臓などの循環器の働きによって呼吸というハタラキが営まれています。

けれども、随息観で“自分“、あるいは、意思が消えている状態では、ただ、呼吸しているだけです。

「ただ、呼吸が呼吸を呼吸している」という表現がもっとも適切かもしれません。

その状態にあっても、半眼であれば目の前にいろいろなものが見えています。

どこかで鳥の声や自動車の音なども聞こえています。また体の感覚もいくらか感じられます。

ただ、呼吸を含めてそういういろいろなものがありながら、すべてがひとつになっています。

その状態においては、呼吸はもはや呼吸として独立にあるものではありません。

いろいろなものがすべてひとつになって呼吸しています。

そこにはもはや呼吸しかありません。

それは同時に、何もない世界でもあります。

そのひとつのものにはもともと名前もありません。

ですから、“いのち“、"空"、"無"、"心"、"大いなる存在"、“真実の世界”、“真実の自己”、"大宇宙"、"大自然"、あるいは、“呼吸”、“ソレ”など、どのように呼んでもいいでしょう。

多くの方々は「いまの自分には何か足りないものがある。それを満たしてくれるものがどこかにあるはずだ。それを手に入れないかぎり安心できない」思い、常に物質的なものであれ、精神的なものであれ、「もっと、もっと欲しい」と追い求めています。

一言で言えば、私たちの多くはいつも「物足りよう」という思いに振り回されながら生きています。

けれども、真実は、“いまここ”において、“自分“に足りないものなどひとつもありません。

その真実に気がつくためには、「物足りよう」という思いを手放しにして、ただ呼吸を意識しながら坐っていればよいのです。

そこには、自分の思いがどうであろうとも、すでに、すべてが満ち足りた世界が現成しています。

そして、やがてそのうちに、その真実をはっきりと自覚する日が来るでしょう。


つとめて瞑想をして本来の自分に戻りましょう。



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花は愛惜に散る

花は愛惜に散る

僕は青空に浮かんでいる雲を見るといつもとても親しみを感じます。

まだ若かったときには、なぜ雲を見るとそんな気持ちが湧いてくるかといつも不思議に思っていました。

でも、いまはなぜなのかはっきりとわかります。

それは、自分もその雲と同じだからです。

自分もその雲と同じものから生まれた、と言ったほうが分かりやすいかもしれません。

家の外に出て、あたりを見回すと、道端に小さな花がいくつも咲いています。

その向こうには、梅の木、桃の木などとともに、いままさに満開の桜の木が咲き誇っています。

その先に草むらがあり、どこかでウグイスやコジュケイなどの鳥たちが鳴き、遠くには山がすこし霞がかって見えています。

いま、我が家の庭や畑、そして、周りはまさに“いのち“の萌えいずる春です。

みんな同じ“いのち“です。自も他もありません。

もはや、存在の真実を悟るために修行さえ必要はありません。

この自然の中に、そっと身を置くだけで、誰でも自ずと悟りを得ることができるでしょう。

そこに我が家のネコたちが家の方から走ってきて、あたりを走り回ったり、木に登ったりしています。

思わず、「君たちも僕と同じなんだね」という言葉が出てきます。

僕は、そのとき、そのときに出会うすべてのものがとても愛おしいのです。

それは、それらがみんな自分と同じ “いのち“だからということだけではありません。

すべてがそのときだけの一時的な姿であるからです。

生きとし生けるもの、在りてあるものは、本来は、生死を含みながら、生死を超越した不生不滅の“いのち“です。

“いのち“が壮大なスケールで一瞬一瞬顕現しているのがこの現象の世界です。

そういう意味では、たとえば、桜の花が散り、雑草が生えるという現象は人間の感情を超えたところでの“いのち“の営みであると言えるでしょう。

でも、それはそうなのですが、私たちが「やはり、桜の花が散るのを名残り惜しいと思い、雑草が生えるのを嫌だなあ」と思うのも人の情かもしれません。

(しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。)(道元禅師 正法眼蔵第一 現成公按)

人の生と死、出会いや別れなどだけでなく、この世界のすべての存在とその有様は“いのち“が顕現した一瞬一瞬の姿であり、いま現れている姿は次の瞬間にはもはや別のものに変わってしまいます。

だからこそ、私たちはその一瞬一瞬の姿に愛(いと)おしさを感じずにはいられないのです。

そして、一瞬の姿の中にこそ悠久の世界を感得するのです。

一期一会。

“いまここ”。これ以上大切なものはありません。


以下、僕の大好きな詩をご紹介しましょう。


雲――生命のうた (抜粋)


天地一杯のところから忽然として浮かび出で

天地一杯のところへ忽然として消えてゆく雲

雲こそは

生きとし生けるもの、在りてあるものの原型

天地一杯こそ

その生命なのではないか

(『正法眼蔵 生死を味わう』内山興正著 大法輪閣 より)


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雲は存在するか

雲は存在するか

いま僕の部屋の窓から広い青空に浮かぶ白い雲が一つ見えています。

けれども、もともと「その雲」という実体(本体)があるのではありません。

その雲は温度、湿度、風などの要因によって、いま雲という姿が一時的に現れているにすぎないからです。しかも、その姿は刻々と変化しています。

それは、いま窓から見える庭の松の木についても同じです。

「その松の木」は小さな種から成長していまの姿になったのですが、その種の以前には「その松の木」は存在していませんでした。

いろいろな要因によってその種ができ、土中の養分や水分、空気、太陽の光や熱、風,雨、雪など、さまざまな要因によって成長し、いま「その松の木」という一時的な姿が現れているのです。

しかも、その姿はたえず変化し続けています。

「その松の木」という実体があるのではありません。

このように、この世界のすべての「存在」は、人間が作ったものも含めて、それぞれ一時的ないまの姿とし現れているだけで、いずれも実体ではありません。

この世界は不可分一体の世界です。

すべての「存在」は、非生物、生物を問わず、刻々に変化しながら、相互に交じわり、交換、集合、離散を繰り返しながら循環しています。

つまり、この世界には、「その雲」や「その松の木」、あるいは、「この自分」というようなコロッとしたカタマリ(個)は一つも存在していないのです。

言い方を変えれば、この世界にはたった一つのものしか存在していないのです。

そのたった一つのものを、僕は “いのち“と呼んでいます。

この世界は実体である“いのち“が顕現する世界なのです。

“いのち“の世界は壮大なスケールでダイナミックに渦を巻いて、瞬間瞬間にさまざまな色や形の模様を描きながら、刻々と変化しています。

この世界はまさに“生きている”世界です。

そのなかに刻々に現れるさまざまな色や形の綾(あや)模様の一つ一つは、普通は「存在」と呼ばれているものですが、「存在」が実体としてあるのではありません。

それはすべて“いのち“という実体が一時的に現れた姿なのです。

つまり、本当に存在するのは実体である“いのち“だけなのです。

別の言い方をすれば、すべての「存在」の実体(正体・本質)は“いのち“だということです。

みんなも自分も同じ一つの“いのち“です。

ですから、本来「生死」もありません。

もちろん、自分をアタマで観念的に他と分離した「個」として捉えたときには、現象的には生死があるように見えるでしょう。

けれども、真実は、「生死」は自分の正体である“いのち“の刻々に変化しているある時々の姿にすぎません。

“いのち“はもともと不生であり、生まれないものは死なないのです。


自分もみんなも生死を超えて、天地一杯の“いのち“を生きています。



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事実丸出しの世界

事実丸出しの世界

前回のブログで正法眼蔵随聞記のなかの道元禅師の言葉を紹介しました。

僕は坐禅についてはその言葉ですべて言い尽くされていると思います。

けれども、ここに僭越ながら僕なりの説明を加えてみたいと思うのです。

まず「坐は佛行なり。坐は不為なり」の「坐」は道元禅師がいつも言われている「只管打坐」、つまり、「ただ坐る」という意味だと思います。

つぎに「不為」は文字通りの意味では「何もしないこと」ですが、同時に「何も求めないこと」、さらには、「アタマの思いを追わないこと」という意味で言われているように思います。

つまり、「坐」は「何も求めないで、アタマの思いを手放しにして、ただ坐る」ということです。

これまでも言ってきましたが、“いまここ”は事実丸出しの世界であり、それが自己の正体です。

私たちはいつも事実丸出しの世界に生きているのですが、アタマの思いに引きずられて、自己の正体を見失いがちです。

「坐」は、何も求めず、アタマの思いを手放しにして、ただ坐ることであり、それは“いまここ”において、自己の正体である事実の丸出しです。

真実の生き方は真実の自己、つまり、“いまここ”の事実をそのまま生きるということです。

そのためには、毎日たとえ15分、20分であっても、「アタマの思いを手放して、ただ坐る」時間を持ち、本来の自分自身に戻ることがとても重要です。

その際にもっとも大切なことは「坐」は手段であると同時にゴールであるということです。

「坐」がそのままソレ、つまり、自己の正体そのものなのです。

思いを手放して坐るためには、とくに何もしないで思いを相手にしなければよいのです。それが只管打坐です。

ただ、それが意外に難しいという方も多いようです。

その場合には、只管打坐の便法として、つぎのようなものでもよいでしょう。

1 数息観:静かに息を吸って、息を吐きながら「ひとーつ」とこころのなかで数える。10(とう)まで行ったら、「ひとーつ」に戻る。
途中で、思いが出て、意識がそれたときは最初に戻って数え直す。

2 随息観:静かに息を吸い、静かに息を吐く。いまの吸う息、いまの吐く息だけを意識する。それを繰り返す。

3 無字の拈提(ねんてい):静かに息を吸って、息を吐きながら「ムー」とこころのなかで唱える。いまの「ムー」だけを意識し、それになり切る。

いずれのやり方でも、思いが出てきても相手にしない。思いで気がそれたことに気づいたらすぐに元に戻ることです。

もう一つは、いまの一息しかないということ。いまの一息ですべて完結しているということです。前後の呼吸は際断しているのです。

また、何か結果を求めようと気張ると、かえって「自分」という思いが邪魔になることがあります。

とにかく、安心してただ静かにやっていれば、いつのまにか自分を忘れてしまいます。

そして、そのうちに、ふと気がつくでしょう。

結果は自分が出すのでなく、向こうからやって来るのです。


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いまここに坐る

坐はすなわち佛行なり。

坐はすなわち不為なり。

是すなわち自己の正体なり。

此の外、別に佛法の求むべき無きなり。

道元 正法眼蔵随聞記




いまここに坐る

いまここ。それがすべてだ。

いまここ。それだけしかない。

いまここにくつろぐ。ただそれだけだ。

このほかに、真実の生き方として別に求めるべきことはない。



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すべてはこころの持ち方ひとつ

すべてはこころの持ち方ひとつ

私たちの人生のなかではいろいろなことが起きます。

子供時代のこと、大人になってからのこと、親、夫、妻、子供、兄弟姉妹など家族のこと、親戚のこと、学校関係、友だちとのこと、仕事関係、職場の人間関係、近所付き合い、社会的な問題、自分自身の容貌や性格や健康、自分や家族の将来のこと、などなど。

このようにいろいろな場面を列記したのは、あらためてじっくりと自分自身の過去を含めた今日までの人生のいろいろな場面ををつぶさに思いだしてほしいからです。

そのうえで、自分が今日までどのような生き方をしてきたか、どのように感じながら生きてきたかということをあらためて確認してください。

人生においては、自分の望みどおりのことが起きることもあれば、まったく違ったことが起きることもあります。

自分の望みどおりになった場合はともかく、自分の望みとはまったく違うことが起こったときにはどう感じますか?

たとえば、「ある人がまったく理不尽としか思えないことを自分に言った」というようなことをあなたは何回も経験したことがあると思います。

そのようなときにあなたはどのように感じますか?

このように尋ねると、多くの方が「気分が悪い」と答えます。

状況や事実の内容によりますが、不快感、嫌悪感、対立感、孤独感、怒り、悲しみ、憎しみ、恨みなどのマイナス感情を抱くというのです。

あなたもこのように「マイナス感情を抱くのは当然だ」と思いますか?

もし、そうであれば、そのようなとき、あなたは幸せですか?

いや、そのようなときだけでなく、あなたの人生そのものは幸せだと言えますか?

「それは状況しだいだ」とあなたが考えているとすれば、それは、あなたは他に依存しながら生きている、ということです。

それではこの人生を本当の意味で幸せに生きていけるはずはありません。

他人の言動や周りの状況のなかではなく、自分自身のなかに「幸せ」を見出さないかぎり、一生他に翻弄(ほんろう)されながら生きていくことになります。

もしかしたら、それが今日までのあなたが生きてきた姿ではないでしょうか?

自分の本当の幸せは自分自身で自分自身のなかに見出さなければなりません。

では、そのためにはどうすればいいのでしょうか?

それは、何が起きようと、誰かがなんと言おうと、どのような状況であろうと、「すべてよし」と冷静に受け止め、対応すべきことは的確に対応し、対応策がなければその現実をスッキリ受け入れ、どこまでも明るく爽やかに生きていこうと覚悟することです。

はっきり言えば、本来は、自分自身の、あるいは、家族や親しい人の死さえ怖いものでも悲しいものでもないのです。

本来は、誰が何をしようと、何を言おうと、腹の立つことでも恨めしく思うことでもありません。

まわりに引きずられて不愉快な気持ちになりながら生きていくことほどバカバカしいことはありません。

すべてはこころの持ち方ひとつなのです。



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“いまここ”にくつろぐ

“いまここ”にくつろぐ

「存在の真実とは何か?」ということを知ることは私たちにとってもっとも大切なことだと言えるでしょう。

ところが、私たち人間は、存在の真実についてアタマでいろいろな“物語”を作る強い習性があります。

そして、アタマで作った“物語”にすぎないものを真実だと思い込む習性がとても強くあります。

この“物語”というのは、たとえば、次のようなものです。

1 “自分“というコロッとしたものがある。

2 すべてのものは過去、現在、未来という時間軸の中で存在している。

3 この世界(という舞台)の中に自分が存在している。

4 ここに自分という存在があり、その周りに自分でないもの、つまり、他が存在している。

その他にも、所有の観念、差別の観念、優劣の観念、生死の観念、自由についての観念、幸福についての観念などなどもアタマで作り出した“物語”だと言えるでしょう。

さらには、怒りや憎しみ、あるいは、孤独感、対立感などの強いマイナス感情、あるいは、「自分(たち)さえよければいい」というエゴイズムなどもこの“物語”に含まれます。

真実の世界はありのままの事実の世界以外にはありません。

けれども、いくら事実の世界を一生懸命に捉えようとしても、このようないろいろな“物語”を描きながら、事実の世界を見ているかぎり、ありのままの事実の世界をそのままに捉えることはできません。

ではどうすれば事実の世界をありのままに捉えることができるのでしょうか?

このことについては、昔からいろいろな方法が工夫されています。その代表的なものは次のようなものです。

1 瞑想を深めてアタマのハタラキ(“物語”)を鎮める。

2 アタマのハタラキでは解決がつかないような質問や課題について、アタマが自らそのハタラキ(“物語”)を放棄せざるをえなくなるまで徹底的に取り組む。

たしかに、どちらもとても有効な方法だと思います。

けれども、どちらの方法でやるとしても大変な努力が必要であることも事実です。

存在の真実に気づくことは本当にそんなに難しいことなのでしょうか?

僕の答えは「イエス アンド ノー」です。

ある角度から、つまり、アタマのなかの“物語”を消すことによって、存在の真実を捉えようとするととても難しくなってしまいます。

ところが、別の角度から見ると、実に簡単に存在の真実に気づくことができるのです。

と言っても、「その別の角度をどうやって見つけるのか?」ということ自体が、人によってはなかなか難しいことがあるのです。

そういうわけで、ここではどうしたらよいかということだけを述べます。

アレコレ余計なことを考えないでスッとやってください。

それは「“いまここ”にくつろぐ」ということです。

“いまここ”に本当にくつろいでいる時、あなたは真実の世界にはっきりと体験的に気づくことができるでしょう。

そしてそのとき、あなたはすべての“物語”から開放されていることに気づくでしょう。



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