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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自覚のセミナー感想文 MKさん

自覚のセミナー感想文 MK

先日は大変お世話になりありがとうございました。

帰りの電車の中でのことですが、セミナー中に電源を切っていた携帯に大分の姉家族からの写真がたくさん届いておりました。

それは連休中に姪や甥が公園で遊んでいる写真でした。その写真を見たとき、これまで以上に二人が可愛らしく、愛おしく感じることに気づきました。

子供達だけではなく木や花、すれ違う人、全ての景色が以前より活き活きと輝いているように見えて、自分の何かが変わったことに改めて気づかされました。

東京に着きましたら、街は相変わらず騒々しく、聴覚的にも視覚的にも人を刺激するものであふれています。

でもおかげさまで自分の内は池の表面のように静かなままです。

一方で落ち着かなさも感じています。それは不快というほどではないけれども、サイズの違う服を着ているような、どことなく違和感のある感じです。

セミナーの最後に参加者で感想を言い合った際に「もう戻れない」と誰かが言っていましたが、大切な事に気づかされた故に、これまで通り過ごすことができなくなってしまったということなのでしょう。

この居心地の悪さを何とかするには前に進むしかないのでしょうね。

これまで「いつかやろう」がいくつあったか知れません。そういう先のばしさえ気持ち悪く、落ち着いていられなくなりました。

これからはどの瞬間にも一番大切なことを選んでやっていけるように、くじけてまた前の自分に戻りそうにならないよう、一緒にセミナーを受けた仲間と刺激しあっていければと思います。

恵まれたことに、私の場合は同じセミナーを受けた人が身近にいるのでとてもありがたいです。

あれからも二人で感想を言い合ったり気づいたことを話し合ったりしましたが、過ごしてきた環境も性格も違うタイプなのでなおさら刺激になります。

これからのお互いの変化も楽しみです。ありがとうございました。

MK


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自覚のセミナー感想文 STさん

自覚のセミナー感想文 ST

セミナー参加者の中では私が一番の年上で、他の方々はほとんが私にとっては娘や息子に当たる人達でしたが、私もすぐにみんなと一つになれました。

63歳の私を「Sちゃん」とか「シーちゃん」と呼んでくれ、顔のシワも伸びた気がします。

本番では、とことん裸の心になってストレートに向き合ってみると、今までは様々な思いに振り回され、生きづらさにもがいていた事もすっきりと手離すことができました。

若い時から「命とは? 生きるとは?」などと思い巡らしていました。

私の人生にとっては奇跡とも言えるチャンスを頂きました。

今は毎日が楽しく、すべてが新鮮です。

これからの生きる目標が決まりました。

先生方、幾日もありがとうございました。

ST



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自覚のセミナー感想文 MMさん

自覚のセミナー感想文 MM

自覚のセミナーでは大変お世話になりました。

セミナーでは、早い段階でスッと納得出来たものもあれば、なかなか納得出来ないものもあり、自分がどこにより執着が強く、つまづきやすいのかが浮き彫りになったように思います。

納得した時は、自分ではなく他の方と昇平先生のやりとりを聞いていく中で気付くことが殆どだったので、そこでも人間のつながりを実感し、初期の段階で他の参加者のお一人お一人に対し、自分でも知らず知らずのうちに勝手に付けていたイメージがどんどん剥がれ落ちて行きました。

そして、人というのは本当は自分の器で量れるような浅いものではないという事が身に沁みて感じられ、日を追うごとに、自然に、愛おしいような一層親しみを感じる存在に変わって行きました。

その実感は、その後の日々で人と関わる場面においても、私を安心させ自由にさせる助けとなっています。

セミナーを終えて今まで通りの生活に戻ってみると、何も変わっていないけれど何かが決定的に変わってしまったような、そんな不思議な感覚になっています。

また、セミナーの時には自分の中で本当にクリア出来たのかどうか怪しいと思いつつ終わった問題も、その後の生活の中で同じような問題に直面した際に、自分の視点がいつの間にか変わっているのを発見する事があり、驚きと同時に、自分自身に対してもいかに頭だけの小さな世界で判断していたのかを痛感しました。

そして改めてこのセミナーの威力を感じました。

これから整体、瞑想、日々の生活の中でセミナーの内容を深め、その一つ一つをより確かなものに変えて行きます。

最後に、体調が万全でない中、最後まで全身全霊で私達と向き合って下さった昇平先生、その隣でいつも温かい眼差しを向けていて下さった恵理佳 先生、今回は陰で色々配慮し支えて下さった奈央先生、セミナーがスムーズに進むよう忙しく働き回って下さった方々、本当にありがとうございました。

それから、今回セミナーを共にし沢山の気づきを与えてくれた他の参加者の皆さん、幸せな5日間を本当にありがとうございました。

そして、このような機会に出会わせてくれた全てに感謝を込めて。

MM



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春の自覚のセミナーについて

春の自覚のセミナーについて

春の自覚のセミナーはゴールデンウィークを利用して行われました。

今回も、これまでと違ったやり方を取り入れたこともあるのですが、とても充実したセミナーになりました。

僕は自覚のセミナーをやるたびに、「人間ってなんと素晴らしいのだろう!」という思いを深くします。

それと同時に、「なんと多くの人がほんのちょっとした間違った思い込みから、大きな苦しみのなかで生きているのだろう!」と思わざるをえません。

これまでの自覚のセミナーの受講者のその後の様子を追跡調査をした結果、ほとんどの方々の考え方、そして、生き方が劇的に好転しています。

けれども、この自覚のセミナーの存在はいまだ世の中のほんの少数の方々にしか知られていません。

どうにかして自覚のセミナーの存在を多くの方々に知っていただきたいというのが僕のこころからの願いです。

そういう願いを込めて、また、みなさんのより深い気づきのきっかけになることを期待して、次のブログより今回の受講者の方々の感想文を掲載いたします。




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対症療法だけではダメ

対症療法だけではダメ

現代社会に生きる私たちは様々な個人的、組織的、あるいは、社会的な問題を抱えながら生きています。

そして、多くの心ある方々がその解決のために努力されています。

そのおかげで、解決した問題もたくさんあると思います。

その意味で、それらの方々の努力に対してこころから敬意を表したいと思います。

けれども、全体として見た場合に、私たちの抱える問題はますます増大し、また、ますます深刻になっていっているように思うのです。

これは一体どうしたことでしょう? 

それは、簡単に言えば、「私たちが根本療法の大切さを本当には分かっていない」ということだと思います。

体の疾病の治療において、対症療法というのは、現われている症状だけをとりあえず解消させるやり方です。

これに対して、根本療法というのは疾病の根本原因を取り除くことにより、疾病を根治させるやり方です。

たとえば、アフリカなどにおける深刻な飢餓問題を解決するためには、まずは早急に飢餓で苦しんでいる方々に食料を支援することが必要です。つまり、対症療法です。

けれども、それで飢餓問題を根本的に解決できたとは言えません。

なぜなら、いくら食料を支援しても、飢餓問題が生じる根本原因を取り除かないかぎり、いつまでも飢餓で苦しむ人が次々に現われるからです。つまり、根本療法が必要なのです。

このように、いろいろな問題を解決するには、一般的には、車の両輪と同じように、対症療法と根本療法の両方が必要なのです。

どちらが欠けても望ましい解決を得ることはできません。

これはちょっと考えてみれば誰にでも分かる単純な真実です。

ところが、私たちが上記の様々な問題を解決しようとするときには、ほとんどの場合に、対症療法的にだけ対応しようとしているのではないでしょうか。

つまり、私たちは「問題の解決のためには、対症療法も必要だけれども、何よりも必要なのは根本療法だ」という当たり前の真実が本当には分かっていないのです。

僕は対症療法なんかどうでもよいと言っているのではありません。それももちろん必要です。

でも、「問題を解決しようとする場合には、何よりも根本療法が必要だ」と考え、それを実行しようという人がもっともっと増えて欲しいと僕は思うのです。

率直言えば、「問題を解決しようとする場合には、何よりも根本療法が必要だ」ということが世の中の当たり前の常識にならないかぎり、私たちは本当は解決可能であるはずの様々な問題にいつまでも苦しまなければならないでしょう。

それどころか、その先にあるのは完全な行き詰まりです。

このブログでみなさんに一貫してお伝えしようとしていることの一つは「どのような問題に対する場合にでも、根本療法的考え方と方策が大切だ」という単純な真実に目覚めていただきたい」ということです。

悪臭は元から断たなきゃダメなのです。



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すべてよし その3

すべてよし その3

この世界は常に変化しています。つまり、生きています。

この世界は“いのち“の世界であり、不生不滅の“いのち“が現われ、刻々に展開している姿です。

普通私たちはこの変化する世界にはさまざまな生滅する生命があり、それらはみんな別々だと思っています。

けれども、別々と見えているものもすべて、不生不滅のただ一つの “いのち“の現れです。

ですから、この世界のあらゆるものが姿かたちは別々であっても、その本質はみんな同じ一つの“いのち“なのです。

つまり、この世界は“いのち“という”大いなる生命“の現れであり、そこに現れているものの他に“いのち“があるのではありません。

ですから、存在の真実を求める、つまり、悟りを求めようとして、それが目前にあるものの他にあると思い探し回るのはまったく見当違いなのです。

二元相対的には、本質である“いのち“がこの現象世界を現して、展開させているように思えるかもしれません。

けれども、“いのち“が創造主で、”この世界“が被創造物というように、二つのものが別々にあるのではありません。

これらは“唯一なる”のものを異なる角度から見た時の見え方の違いでしかありません。

真実は “いのち“ = ”この世界“ で、同じ一つのものなのです。

たとえば、日は東より出て、西に沈みます。

ウグイスは「ホーホケキョ」、カラスは「カーカー」、スズメは「チュンチュン」と鳴きます。

空には白い雲が浮かんでいます。自動車の走る「ゴー」という音が聞こえます。

眼は横に、鼻は縦についています。

このように、“いのち“(存在の真実)はあるがままの世界に“事実丸出し”で現われており、その他にあるのではありません。

いずれにしても、この世界のすべては唯一絶対の大生命である “いのち“の顕現・展開する姿であり、この世界はあるがままですべて完璧です。

ですから、“個“としての私たちが悩んだり、迷ったり、あるいは、悟るのも、社会的にさまざまな深刻な問題が生じるのも、“いのち“がそうさせているのです。

つまり、私たちがどう思おうと、すべては “完璧”、つまり、“すべてよし”なのです。

ということは、生じているすべてのことを私たちは“すべてよし”と受け止めるだけで、それ以上何も判断してはいけない、また、何も自分の判断に基づいて行動してはいけない、ということなのでしょうか?

たしかに、生きて変化している物事の全体像を捉えずに、テレビの静止画像を見るように、一部だけを切り取り、平面的思考をすればそのような考えになるかもしれません。

でも、真実は、決してそうではありません!

私たちがいろいろなことについて判断し、それに基づき行動すること、それも含めて、この世界はどこまでも完璧であり、“すべてよし”なのです。

私たちはついつい平面的思考に陥り、事実をゆがんで捉えがちです。

事実を直感的に正しく捉えるためにもキチンと瞑想をしましょう。

最後に和田重正先生の詩をご紹介しましょう。

いのちの世界では
たのしみの中にも
苦しみのなかにも
悦びがある




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すべてよし  その2

すべてよし その2

“いのち“はこの世界を現し、刻々に展開させています。

この世界のすべてのものは“いのち“によって生かされています。

といっても、“いのち“とこの世界のすべてのものが別々にあるということではありません。

“いのち“がこの世界のすべてのものとして現れ、自ら刻々に展開しているのです。

つまり、“いのち“=この世界のすべてのもの です。

でも、ここではわかりやすく「“いのち“はこの世界を現し、展開させている絶対なる大生命である」と言っておきましょう。

ですから、“いのち“の現れであるこの世界は、本来、すべてが不可分一体であり完璧なのです。

つまり、"いのち"ハタラキにはまったく間違い(ミス)はないのです。

その事実を私たちは、たとえば、大宇宙における太陽や月、星々などの規則的な運行、大自然、人体、原子その他のミクロの世界において、それぞれを構成する様々な要素が調和・循環する有様を観察することによって容易に推測することができるでしょう。

上記の例だけでなく、私たちはこの存在の真実をこの世界の“ほとんどすべて”の現象において見ることができます。

ところが、私たちのほとんどが、二元相対思考中心の大脳によって、存在の真実に対する誤った認識やそれに基づく誤った観念を持っています。

その代表は“バラバラ観“で、その他に、所有観念、優劣観念、差別観念、善悪観念、さらには、自由や平等や幸福や生死などについての間違った観念があります。

そして、それらに基づいた考え方や行いによって、いろいろな個人的、そして、社会的な間違いが生じます。

個人的な間違いというのは、たとえば、「悩みや迷い」であり、社会的な間違いというのは、「いろいろな深刻な社会的問題」のことです。

上記の“ほとんどすべて”というのは、「私たちの個人的、社会的な間違いを除いて」という意味です。

最初に述べたように、“いのち“の現れであるこの世界のすべては、本来、完璧であるはずなのです。

ところが、私たちの存在の真実に対する誤った認識、つまり、“妄想“によって作り出された個人的、社会的な問題だけがその完璧さから逸脱しているのです。

完璧な “いのち“が完璧でないものを生み出す?

これは絶対矛盾そのものです。でもそれが絶対的な事実です。

だとすれば、“完璧でないもの”は見かけ上そのように見えているだけで、本当は“完璧なもの”であるはずです。

どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?

そこにどのような“ヒミツ”があるのでしょうか?

実は、そこにこそ、私たち人間一人ひとりがこの世に生まれてきた根源的な理由とこの世で生きていく真の目的が隠されているのです。

どうか、ご自身で「自分は何ものか? 何のために生まれてきたのか?」と徹底的に検べ、"すべてよし"の深い深い真実に体験的に出会っていただきたいのです。



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平和世界の実現は難しくない

平和世界の実現は難しくない

このように言うと、ほとんどの方が「バカなことを言っている」と思われるでしょう。

確かに「人類の歴史は抗争の歴史だ」と言われるように、少なくとも有史以来人類は闘争に抗争を繰り返し今日に至っていることは事実です。

また、その間多くの心ある方々が平和の実現を目指し賢明な努力をしてきたにもかかわらず、今日に至るまで真の平和世界が実現できていないことも確かな事実です。

それでも、僕は「平和世界の実現は難しくない」と言いたいのです。

「今までできなかったから不可能だ、あるいは、難しいのだ」と言うのは決め付けです。

従来、「不可能だ、あるいは、困難だ」と思われていたことでも、今までとはまったく異なったやり方でやれば簡単に実現できるということは大いにありうるからです。

そのような例はいろいろな分野で多々見られます。

さて、どんな問題でもそれを根本的に解決するには、まず問題が生じる根本原因を見つけ、それを取り除けばよい、という単純な筋道を納得しなければなりません。

この筋道に沿わなければ、どんなに一生懸命に努力をしても問題を解決することはできません。

率直言えば、平和実現を目的とするこれまでの努力はすべてこの当たり前の筋道に沿っていなかったということです。

それはこれまでの歴史が証明しています。

では、平和社会の実現を妨げている根本原因は何でしょうか?

それは、真実は、みんなひとつの同じ“いのち“であるにもかかわらず、私たちが「すべての存在はバラバラである」と錯覚していることにあります。

つまり、“バラバラ観“が根本原因です。

このバラバラ観から「究極的に、自分さえ、自分たちさえよければ」という個人、組織・団体、国家レベルのエゴイズムが生まれます。

そして、これらのエゴイズムによって必然的に各レベルで対立と抗争が起こるのです。

ですから、平和世界を実現するには、私たちはバラバラ観の誤りに気づき、不可分一体の存在の真実に目覚めれなければならないのです。

私たちがこの存在の真実に目覚めれば、必然的に、各レベルにおいてエゴイズム度は急速に減少し、それに伴ない、対立や抗争も大きく解消に向かうでしょう。

では、私たちがバラバラ観の誤りに気づき、不可分一体の存在の真実に目覚めるにはどうしたらよいのでしょうか?

もっとも簡単な方法は「自覚のセミナー」に参加することです。

僕は僕の知る限りこれ以上確実で簡単な方法を他に知りません。

(これは決して自己宣伝ではありません。他にもっとよい方法があればそれをやりたい、と思っているのは僕自身なのですから。)

その効果はこれまで自覚のセミナーを受講した皆さんが証明しています。

まず日本で自覚のセミナーの受講者がどんどん増えばよいのです。

そして、日本中で自覚のセミナーが開かれるようになれば、私たちも日本社会も日本の国も大きく脱エゴイズムに向かって変化してゆくでしょう。

この動きをさらに世界中へと広げて行けばよいのです。

真の平和世界の実現は決して難しくありません。




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すべてよし その1

すべてよし その1

この世界は一つの“いのち“(生命体)です。

“いのち“はこの世界として顕現し、刻々に個々の存在や現象として展開しています。

“いのち“の世界はすべてあるがままで完璧です。

この“いのち“の世界にあって、私たちはあれこれと悩み迷いながら生きています。

けれども、その悩みや迷いそのままに完璧なのです。

なぜなら、私たちが悩むのも、迷うのも、あるいは、悟るのも“いのち“のハタラキそのものだからです。

私たちが悩んだり迷ったりするのは、「私たちが不可分一体の“いのち“そのものである」ことに気がつかないで、「“自分“は他から切り離された存在だ。すべての存在は切り離されている」という”バラバラ観“に陥っていることから生じます。

でも、それも“いのち“自身のハタラキによるのですから、それで完璧なのです。

言い換えれば、“いのち“が“いのち“自身のために、私たちが悩んだり迷うことを望んでいるのだと言えましょう。

では、何のために“いのち“はそのようなことを必要とするのでしょうか?

誰も「それはこうだ」と客観的には言えないでしょう。でも、僕自身の体験から、次のように説明できるのではないかと思うのです。

私たちは「悩みや迷い」に直面することによって、それを根本的に解決しようとして、やがて「そもそも“自分“とは何か?」という人生の根本的な疑問にぶち当たり、それを徹底的に追求せざるをえなくなります。

そして、ついには「“自分“は“いのち“である」という真実に気がつきます。これが悟り(自覚)です。

そのために“いのち“は大脳の発達した私たち人間を生み出しました。

大脳は二元相対の思考しかできません。

そこから“バラバラ観“が生じます。

そのために、私たちは必然的に悩みや迷いを持つようになります。

その悩みや迷いを超克しようとするなかで、ついには、私たちはバラバラ観の誤りに気づき、不可分一体の真実の自覚を得るのです。

ですから、私たちがどう思おうと、悩みや迷いにも大きな役割があるのです。

社会的な苦しみや混乱も同じです。

それらも私たちのバラバラ観から生じます。

そして、私たちが社会的に行き詰れば行き詰るほど、それを根本的に超克しようとする機運が高まって行くでしょう。

その結果、いつの日か、ついには、すべての人間がバラバラ観の誤りに気づき、不可分一体の真理を自覚し、その真理に基づいた本当に幸福で平和な社会が実現するでしょう。

これこそが“いのち“自身の究極の望みであり、すべてはその実現のために“いのち“自身が仕組んだ壮大な”仕掛け“だと僕には思われます。

それが本当にそうかどうかはともかく、あらゆる個人的、社会的状況を含めて、"いのち"の世界ではそのすべてに意味と役割があり、あるがままで"すべてよし"なのです。

つまり、"いのち"の世界は本質的にどこまでも大安心の世界なのです。




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対立するものはない

対立するものはない

この世界には、生物無生物を問わず、いろいろなものものが存在しています。

それらは、一見すると、姿形も異なり、分かれて存在しているように見えるために、バラバラで異なった存在であると私たちは思っています。

でも、真実は、すべては一つなのです。

なぜそう言い切れるのでしょうか?

なぜもなにもありません。それが事実だからです。

でも、少しだけ説明してみましょう。

もともとこの世界はいろいろなバラバラのものが集まってできたものではありません。

この世界はもともと一つのものから生じたのです。

そして、その一つのものからだんだんいろいろな複雑な要素が生じました。

けれども、それぞれの要素は一時的にそのような姿かたちで存在するように見えているだけなのです。

なぜなら、それらの要素はつねに、分化・統合・集合・離散・交換・循環しながら変化しているからです。

このように、この世界に実体として存在しているものは一つしかありません。

別の言い方をすれば、その“たった一つのもの“が瞬間瞬間においていろいろな姿形になって顕現しているのがこの世界であると言えましょう。

僕はその“たった一つのもの“をとりあえず“いのち“と呼んでいます。

要するに、この世界に実体として存在するものは“いのち“だけなのです。

たとえば、いま空に浮かんでいる白い雲はその白い雲として“実体”があるように見えますが、真実は、その白い雲の実体は“いのち“です。

この世界には“いのち“しかないのであり、この世界のすべてのものは“いのち“がその瞬間瞬間に現れた姿形です。

では、“自分”はどうなのでしょう?

はっきり言えば、もともと他から分離したという意味での“自分”なんてありません。

ただ、“いのち“があるだけで、この体も心も含めて何も他のものから分離したものなどないからです。

でも、“いのち“というものがこの体や心から離れてどこか別のところにあるわけではありません。

“いのち“はこの世界のすべての存在(と思われているもの)やハタラキとして現れています。

もともと一つの“いのち“しかないのですから、当然のことですが、それらはすべてぶっ続きです。

ですから、真実の自己(自己の正体)は、このたった一つの“いのち“そのものであり、この世界そのものであり、この世界のすべての存在とハタラキそのものです。

さらに実感的に言えば、“自分”はいま空に浮かんでいるあの白い雲であり、庭の新緑の葉に包まれた桜の木、であり、その葉を揺らしている風であり、床で寝ている“チビ”であり、いま向かっているパソコンです

わたしはあなたであり、あなたはわたしです。

みんな“自分“なのです。

対立するものなど、もともと、どこにもありません。

ですから、人間関係や社会的な問題を根本的に解決しようとする場合にでも、非対立の真実に立脚した考え方・行動でなければならないのです。




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メタ認知が大切 その2

メタ認知が大切 その2

今日では、メタ認知能力の欠如や不足がタバコ、アルコール、その他の依存性薬物、ギャンブル、ケータイなどの依存症の主要な原因の一つであり、また、その回復を妨げている大きな要因の一つであることがかなり認識されてきました。

けれども、広い意味でのメタ認知の欠如や不足は依存症だけに見られる現象ではありません。

私たちが生きていくなかで実に様々な局面において見られるのです。

けれども、ただ見られるというだけであれば何も問題ないのですが、実は、メタ認知の欠如や不足は私たちの個人的、そして、社会的なさまざまな苦しみや混乱、あるいは、問題の根本原因なのです。

例えば、多くの方々は何か自分の望んだことと違うことを他の人が言ったりしたりすると腹を立てます。そして、それを当然のこととして疑いません。

でも、まったく同じことが起こったとしても、腹が立たない人がいることにはまったく気を止めません。

同じ価値観を持ちながら、同じことが起こっても腹が立たない人がいる事実に気がつかないのです。

それどころか、腹が立たない人に向かって「なぜ、腹を立てないのか」と非難する人さえいます。

「もしかしたら、このような場合に自分が腹を立てるのは当然のことではないのかもしれない。よく考えてみよう」などとは思いもしないのです。

ここで僕は「腹を立てるのが当然かどうか」ということを言おうとしているのではありません。

「自分が腹が立つのは当然だ」と思い込んでいて、それを少しでも「本当はどうなのだろうか」と考えてみようともしない態度が問題ではないかと言いたいのです。

他の例を考えてみましょう。

多くの方々は「頭痛がするときには、痛み止めの薬を飲めばいいのだ。痛みがなくなればそれで治ったということだ」と思い込んで、それを疑おうともしません。

そういう方々は、正しいか間違っているかは別として、「痛みは悪いものだ」と思い込んでいます。

でも、本当はどうなのでしょうか?

そういう方々は、「少なくともこの点に関しては、自分の考えは絶対に正しい」と決め付けていますので、「本当はどうか」などと考えなければならないと思いもしないのです。

ですから、本当は「痛みは体の異常を警告してくれているのだ。必要なのだ」ということに気づくこともありません。

それは、火災が発生した時に、火災警報装置のスイッチを切って「これで問題解決」と言っているようなものです。

メタ認知の欠如や不足のために、私たちは人生のほとんどあらゆる面において、このように間違ったことを真理・真実であると信じ込み、決め付けて、自分自身だけでなく周りの人々を苦しみや混乱に陥れています。

そういう意味で、私たちはメタ認知をフルに働かせて、存在の真実、優劣、差別、所有、善悪、好嫌、怒りや悲しみなどの感情、思考の正体、自由、幸福などについて、あらためて「本当はどうか?」と真剣に検べてみる必要があるのではないでしょうか。


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メタ認知が大切 その1

メタ認知が大切 その1

メタ認知という言葉は一般的にはあまり聴きなれないかもしれませんが、精神医学や心理学などで使われる用語です。

その原語に即した意味は「認知を認知する」ということです。

もう少し具体的に表現すれば、「現在進行中の自分の思考や行動を対象化して認識すること」です。

さらにくだいて表現すれば、「いま自分が思ったり行っていることを、もう一人の自分が観察すること」です。

私たちは、いろいろな価値基準を持って、それに基づいて認識・判断・選択・決断をしながら生きています。

けれども、そのいろいろな価値基準のなかには、自分では気がつかないのですが、間違った思い込みがいくつもあるのです。

私たちの個人的また社会的ないろいろな苦しみや混乱の原因は私たち自身の間違った思い込みにあると言えるでしょう。

ですから、私たちにとってもっとも大切なことは、私たち自身のいろいろな間違った思い込みに自ら気づき、それを取り除いていかなければならないということです。

けれども、前に述べたように、私たち自身の間違った思い込みに気がつくことは、自分自身の体臭に気がつきにくいのと同じように、非常に難しいのです。

その原因はいくつかありますが、その一つが私たち自身のメタ認識能力が充分に発揮されていないということです。

たとえば、タバコに起因する病気で日本だけでも毎日300人、年に10万人も亡くなっています。世界中では毎年500万人死亡しています。

これは、日本だけでも、毎日毎日大型旅客船が1隻、300人の乗客ぐるみ沈没しているということと同じことなのです。

タバコは「嗜好品」として合法的にどこででも販売され、「タバコを吸うかどうかは個人の自由だ」とも言われます。

でも、タバコの正体は麻薬なのです。

それを知らずに、私たちは「タバコは嗜好品」と信じてタバコを吸って、その結果、毎日多くの方々が苦しみながらバタバタと死んでいるというわけです。

これはまさに人災以外の何ものでもありません。

そして、歴史的に見ても、戦争を含めて、これほどひどい人災は他にはありません。

「だから、吸いすぎには注意してください、とパッケージに書いておいたでしょう。吸いすぎて死んだのは本人のせいで、私たちのせいではありません」という声がどこからか聞こえてくるような気がしませんか?

タバコ問題は、どこに、そして、だれに問題があるのでしょうか?

「タバコは嗜好品」だと信じてタバコを吸った本人でしょうか?

それとも、本当は麻薬(あるいは、強い麻薬的効果を持つ薬物)であるものを合法的に製造・販売し、利益を上げているJT(日本タバコ会社)、そして、タバコから6割もの税金を得ている国(財務省・国税庁)、さらに、それに関与する国会議員などの“タバコ村”の人たちなのでしょうか?

あるいは、そのような事態を知ってか、知らないでか、そのままにしている私たち一般庶民でしょうか?



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