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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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先入観なしに

先入観なしに

このところ「食生活と健康」をテーマにして、あれこれ書いていますが、それを読む上でいくつかの注意点があります。

というのは、このテーマに関して私たちの間違った思い込みは意外と思えるほど深く、ここに書いていくこともいつのまにかその思い込みによって歪んで理解されてしまう恐れが多々あるからです。

まず、このテーマのなかで、僕は何回も「少食が大切だ」と言っていますが、平均的な大人が食べる量(あるいは、カロリー)の6割、多くても7割をとりあえず「少食」と言っています。

でも、この「少食(少なく食べること)」という言葉自体が誤解される可能性があるのです。

「というのは、それは、あくまで、「これまで食べていた量に“比べて”少なく食べること」という意味で、本当は僕はそれこそが「正常(な量の)食(事)」と呼びたいたいのです。

実は、「平均的な大人が食べる量」自体が、実は、私たちに適した“正常な量“に比べてはるかに”食べすぎ“になっています。

つまり、これまで「少食」と呼ばれていた量が、本来、「正常食」と呼ばれるべきで、「平均的な大人が“普通に“食べている量」は、本来は、「食べすぎ」と呼ばれるべきなのです。

もう一つ大切なことは、僕はテーマのなかで「少食」以外にも、肉や白砂糖などの害や生野菜や玄米食の効用など、望ましい食生活についていろいろと述べています。

でも、自分にはこれこれの体の不具合があるので、それを治すためにそういう食事を摂るのだ、という観点で理解して実行しても、それは根本療法には程遠く、対症療法にしかなりえないということです。

それでは、これこれの身体の不具合を治すために、たとえば、これこれの薬を飲む、注射をしてもらう、鍼灸や指圧などに通うというような対処療法と何も変りません。

そういう考え方でも、望ましい食生活をある程度続ければ、快方に向かい、一応は治るかもしれません。

でも、それで再び元の食生活に戻れば、いずれ不具合がぶり返したり、他の不具合が生じてくる可能性は大きいでしょう。

ですから、対処療法的にその時だけ一時的に食事の内容を変えるということでなく、文字通り、「生活」でなければならないのです。

言い換えれば、「そうしなければならないから、仕方なしにガマンして」ということではなく、身体に不具合があろうとなかろうと、それがもっとも身体に適し、身体にとってもっとも自然な食生活だからこそ、当たり前に、喜んでそれを続けるというものでなければならないと思います。

この食生活は数ある健康法のなかの一つというのではなく、本来、当たり前の、基本中の基本である食生活なのです。

食生活だけではありません。

その他、瞑想の仕方、人との関わり方、社会的な関わり方など人生におけるすべての要素についてもまったく同じです。

しかも、そのすべてが一つの真理に立脚し一貫したものでなければならないのです。





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本当に美味しいのは?

本当に美味しいのは?

多くの方は調理したり加工したりした食べ物の美味しさを本当の美味しさだと思っています。

たしかに、それも一つの美味しさと言えるでしょう。

けれども、僕は、個人的な好みの問題ではなくて、生の素材をそのまま食べて美味しいと思うものこそ本当の美味しさだと思うのです。

たとえば、生の素材をそのまま食べると美味しくないので、調理したり加工したりして美味しくしたとしましょう。

でも、それで生の素材そのものが美味しくなったわけではありません。

ある意味では、生の素材の味を調理や加工で美味しそうに誤魔化したとも言えるのではないでしょうか?

それはともかく、もし、調理したり加工したりしなければ本当には美味しくならないと思っているとすれば、それは決めつけだと言えるでしょう。

たとえば、あなたは玄米を粉に挽いた生の玄米粉を食べてたことがありますか?

おそらく、ほとんどの方は経験がないかもしれませんね。

でも、実際に食べてみればそれがどんなに美味しいものかがわかります。

でも、お米は炊かなければ美味しくならないと決めつけていれば、生の玄米の美味しさには気がつきません。

これは一例ですが、その他にも生でそのまま食べるととても美味しいという食べ物がいくつもあります。

そういうものこそが私たちにもっとも適した食べ物であり、実際にそれらを生の素材そのままで食べることこそ健康の原点です。

なぜならば、それらの食べ物は私たちの健康に必要な栄養素をたくさん備えているので、そんなにたくさん食べなくても体の要求が満たされるからです。

体の要求が満たされればこころも満たされ少食で満足します。

多くの方は食材に火を加えたほうが消化がよくなると思っているかもしれません。

ところが、火を加えたものは体に大きな負担となるのです。

たとえば、玄米や野菜は加熱するとアルカリ性に傾きます。

ですから、ずっと続けて食べていると体がアルカリ性に傾きすぎになります。

それは中性が最適の体にとっては都合が悪いのです。その結果、ガンになることもあるそうです。

また、火を加えると、タンパク質は変質し、脂肪は酸化し、ビタミンや酵素も壊れます。

ですから、加熱した食べ物から体に必要な栄養素を充分に取り入れるためには、生の食べ物に比べて、カロリー的に4倍も食べなければならないのです。

逆に言えば、生の食べ物であれば4分の1で体もこころも充分に満足できるのです。

私たちの先祖は何千万年も食べ物を生のまま食べてきました。

ですから、私たちも、もともと、生の食べ物でもっとも健康的に生きられるようになっているのです。

さて、このような考え方に基づいて、生で食べられるものはできるだけ生で食べ、火を加えるものは火を加えて食べるとして、実際的には何を食べたらよいのでしょうか?

甲田療法創始者の甲田光雄先生によると、玄米や黒パン、野菜、豆類(豆腐など)、海藻(コンブなど)、ゴマ、小魚だけを食べていれば、栄養的には充分だということです。




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症状イコール警報&療法

症状イコール警報&療法

現代医学は主に、その時々の症状に応じた対症療法に重点を置いています。

言い変えれば、病的変化をしている箇所、つまり、細部や局所だけを研究し、人間全体を診る視点が欠けていると言えるでしょう。

ですから、どうすれば病気を防げるか、どうすれば健康を維持していくことができるか、ということについてはほとんど研究が行われていません。

このような現代医学に頼ることは大きな問題です。

では、なぜ現代医学は対症療法に重点を置いているのでしょうか?

その理由はいろいろあると思いますが、中でも、“症状”に対する理解が根本的に間違っているからです。

現代医学では“症状イコール病気”、つまり、「症状はすぐに取り除くべき悪いものである」と考えられています。

これは大きな誤りです。

なぜならば、“症状=警報&療法“、つまり、症状は身体に不具合なところがあることを知らせてくれていると同時に、もともと体自身に本能として備わっている病気を治そうというハタラキであるからです。

ですから、症状は悪いものどころか、反対に大いに歓迎すべきものであり、そのハタラキを邪魔せずに、逆に活発にしたほうがよいのです。

以下、例を挙げて説明しましょう。

熱が出たときには熱は必要があって出ているのですから、解熱剤で熱を下げるたり冷やしたりししないで、むしろ温めた方がよいのです。

そのようにして体の自然治癒力に任せて、その結果、熱が出る必要がなくなれば、自然に熱は下がってくるでしょう。

では、腰痛の場合はどうでしょうか?

なるほど、痛み止めの薬を注射してもらえば痛みはなくなるかもしれません。

でも、それで腰痛の根本原因が取り除かれて本当に直ってしまったのでしょうか?

腰が痛むということは筋肉に疲労物質が溜まっているからなのです。

体はその疲労物質をその部分から運び出そうとして血管を広げます。そのときに痛みが出るのです。

もし、そこで注射をして痛みを抑えると、痛みはなくなっても、血管が狭くなってしまいます。

そうなると、血液の流れが悪くなり、疲労物質を運び出すことができなくなります。

それだけでなく、炎症がひどくなり、ますます腰痛がひどくなってしまうのです。

さらには、全身の血管が狭くなり血液の流れが悪くなってしまいます。そのため、内臓や脳など全身に悪影響を及ぼします。

以上、二つの例を挙げましたが、その他の病気についても基本的には同じで、対症療法によっては根本的には治りません。

ではどうしたらよいのでしょうか?

とくに慢性病の場合は、病気になって現代医学に頼るよりは、普段から玄米・菜食を中心とした少食を守り、野口整体の活元運動(自然自動運動)や愉気(手当て療法)、そして、西式健康法の温冷浴などを実行することをお勧めしたいと思います。

そうすれば、自然治癒力と健康維持力が活発になり、病気を予防し健康を維持することができ、万一病気になったとしてもすぐに回復できる体になるでしょう。



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病気をするほうがおかしい

病気をするほうがおかしい

病気とは何でしょうか?

多くの人達は、「人は病気をするもの。病気をするのは仕方のないこと。病気は病院に行って医者に検査してもらい、薬や注射や手術などをしてもらって、治してもらうものだ」と信じているのではないでしょうか。

実際、現代の日本社会では実に多くの方が、3大成人病であるガン、脳卒中、心筋梗塞をはじめ、糖尿病、高血圧症、胃腸病、慢性肝炎、アトピー皮膚炎、気管支喘息、花粉症などのアレルギー性疾患、老人性痴呆症、膠原病、心身症などなどの病気で苦しんでいます。

その他、病院に行くほどではなくても、腰痛、肩こり、頭痛、便秘、下痢気味、疲れやすいなど、日ごろから身体の不調を訴える人を入れると、もしかしたら、いつも“元気はつらつ”という方の方が少ないのかもしれません。

ですから、ほとんどの人達は、もし誰かが何かの病気になったとしても、「お気の毒に」とは思ったとしても、「そういうことはよくあることだ」という感覚でしか受け止めないのではないでしょうか。

でも、僕は「そもそも、病気になること自体がまったくおかしなことだし、それを薬や注射や手術で治してもらおうとすることもずいぶん変なことだ」と思うのです。

野生の動物は、たとえば、便秘や下痢や胸焼けや消化不良や胃潰瘍や高血圧や高コレステロールなどに悩まされることも、内臓の病気など多くの人間たちが苦しんでいる病気を患うことはありません。

これらの病気で苦しんでいるのは人間だけです。

野生の動物たちがこれらの病気にならないのは、彼らが何億年という進化の過程で高度に磨き上げた本能によって身体も精神も自然の法則にかなった、環境に適応した生活をしているからです。

私たち人間の先祖である類人猿も何百万年もアフリカの森林で樹上生活をしながら、本能に従うことにより自然の法則にかなった生活をしていました。

だから、現代人が罹るような病気にはならなかったのです。

現代に生きる私たち人間の身体も遺伝子的には類人猿とほとんど変りません。

ですから、私たちがもし精神も肉体も自然の法則にかなった生活をしているかぎり、そうやすやすとは病気になるはずはないのです。

仮に少しぐらい自然の法則からはずれた生活をしても、生活の基本がしっかりしていれば、人間にもともと備わっている健康維持機能によってちゃんと身体のなかで調節してくれます。

ところが、文明が開けるにつれて、私たちの生活はいろいろな面で自然の法則からあまりにもはずれてしまったために、このような病人の充満する異常な社会になってしまいました。

このように、人間は本来ならば病気をする存在ではないのです。

この真実を深く自覚して、今こそ人間本来のあるべき自然の法則にかなった生活に立ち戻ることが大切です。

その中心となるのは玄米、豆、生野菜、海藻、ゴマ、果物などを基本とした少食生活です。



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人間は裸のサル

人間は裸のサル

動物学者のデスモンダ・モリスは著書『裸のサル』のなかで次のように言っています。

「私たちの先祖である霊長類の食べ物の主成分は肉ではなかった。だから、私たちも同じような食べ物でやっていけるはずである。私たちは環境条件によって肉食ににならざるをえなかったのであり、私たちが環境をコントロールし、自由に穀物を自由に手に入れることができるようになった現在、私たちはかつての霊長類の食べ物の摂り方に戻ることが望ましいように思える。」

このように森林において樹上生活に完璧に適応していた私たちの祖先は肉はほとんど食べなかったのです。

つまり、私たちの先祖である霊長類が森林生活時代に摂っていた食べ物に準じる穀類、豆類、葉野菜、根茎野菜、果物、木の実、ナッツなどの食べ物こそが私たちの体にとって最適であるということです。

でも、急激な環境の変化によって森林が急激に減少したため、樹木から地面におりて草原へ出て行かなければならなくなりました。

その結果、それまで好んで食べていた食べ物を自由に手に入れることができなくなり、ただただ生き残るためには肉を含めてどんなものでも食べざるをえなくなりました。つまり雑食性になったのです。

これは、草原生活において緊急手段として初めて食べるようになった肉その他の食べ物は私たちの体にとってあまり適したものではないということです。

さらに、私たちの先祖は森林生活時代はもちろん草原生活時代においても長い間、火をいっさい加えない生の生命力のあるものばかり食べていました。

ですから、私たちの先祖の体は、何千万年という長い年月にわたる進化の過程を通じて、生のものを消化吸収して、体内で有効に活用する完璧な仕組みができていたのです。

私たちの先祖が火を加えないで食べていた何千万年以上という時間に比べると、火を加えて食べるようになってから今日までの年月は実に短い期間と言えるでしょう。

ですから、私たちの体の消化吸収等の仕組みがその身近な間にはほとんど変ることはなかったはずです。

つまり、私たちの体の消化吸収等の仕組みは私たちの先祖である霊長類のそれと遺伝子的にもほとんど同じだということです。

ところが、50万年ほど前から私たちの先祖は食べ物に火を加えるようになりました。

食べ物に火を加えると、たとえば、タンパク質は変質し、脂肪は酸化し、ビタミン類や酵素などは破壊されます。

つまり、栄養上、ロスがたくさん出るのです。

そのために、栄養のバランスを保とうとして食べ物を、本来、必要とされる以上に食べなければならなくなります。

そして、それが胃や腸その他の内臓に大きな負担をかけることになるのです。

大部分の病気の根本原因はこのような不自然な食生活にあります。

1 玄米菜食を中心とし、

2 できるだけ火を加えないで、

3 少食を守る

これが健康生活の3原則です。


私たち人類が“裸のサル”である事実を考えれば、これはあまりにも当然のことではないでしょうか?





なぜ病気になるのか?

なぜ病気になるのか?

大半の病気は不自然で間違った生活習慣やこころの使い方によって起きます。

不自然で間違った生活習慣の主なものは食生活の誤りです。

その他には、たとえば、パソコンやテレビ、あるいは、勉強などで長時間眼を酷使するというように、特定部分に偏った体の使い方、運動不足、睡眠不足、厚着など様々あります。

不自然で間違ったこころの使い方の主なものは悲観的なものの見方や感じ方です。

その他にも、ちょっとしたことでも不安に感じたり、何事につけてもすぐ心配するなどマイナス感情を抱きやすいなどということもあるでしょう。

要するに、病気を治すには自分の不自然で間違った生活習慣やこころの使い方を直せばよいということになります。

そして、実際に、自分の不自然で間違った生活習慣やこころの使い方を直すことによって大半の病気が直っています。

逆に言えば、病気は私たちの癖となっている生活習慣やこころの使い方の不自然で間違っていることを知らせてくれていると言えるでしょう。

このように考えてみると、病気になるということはとてもありがたいことだと言えるでしょう。

病気になることによって、自然で正しい生活習慣やこころの使い方に目覚め、それを体得でき、それを契機に、人間としてさらに進歩・向上し、人格を磨いていくことができるのです。

ですから、病気になったときには、それを悲観的に、また、受身的に捉えるのではなく、自分の生活習慣やこころの使い方の間違いを正す絶好の機会だと捉えるべきなのです。

そして、まず、こころを陽に保って、自分の生活習慣やこころの使い方のどこが不自然で間違っているのだろうかと検べ、それを突き止め、それを改め、正しい生活習慣やこころの使い方が身につくように努めます。

このようにして、病気になったら、それを治すことばかり考えるのではなく、自分の生活習慣やこころの使い方の不自然さや間違いを直すことだけにアタマを切り替えていくことが大切です。

そして、そうすることをこころから楽しむのです。

こころがそのように転換するだけでもすでに病気は回復に向かいます。

ここまで病気について考えてきたのですが、それ以外にも、私たちが生きていくなかで個人的に悩みや迷い、その他いろいろと不都合な(と思う)ことが起きてきます。

でも、それらの不都合は、多くの場合、自分の生き方やものの見方・考え方の間違いより生じています。突き詰めれば、真の自己を見失っているところに根本原因があるのです。

それらの不都合は自分の生き方やものの見方・考え方の間違いを正すように警告してくれているのです。

社会的ないろいろな不都合なことについてもまったく同じです。

ですから、不都合なことがあるからと悲観して落胆していないで、病気の場合と同じように、その間違いを検べ、それを突き止めて、それを正していくことをこころから楽しむ態度・生き方こそもっとも望まれるのです。




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食生活と健康について

食生活と健康について

これまでタバコやアルコールの正体についてはいろいろなところで説明してきました。

ところが、それよりも私たちにとってもっともっと身近な食生活と健康の関係については、これまで少しは説明してきましたが、充分とは言えません。

そこで、次回よりしばらくの間「食生活と健康」をテーマとして、このブログに書いていきたいと思います。

その意図は、私たちが食生活と健康の関係について、意図的なものであろうと、なかろうと、社会的な洗脳によっていかに間違った考え方を持つようになり、それによって大切な健康を奪われてきたか、ということに気がついていただきたいということです。

そしてさらには、その社会的な洗脳がタバコ、アルコール、食生活だけでなく、政治、経済、産業、教育、憲法問題、環境破壊、戦争や闘争、エネルギー問題など社会のほとんどすべての領域に渡って広く深く浸透し、結局は、私たちの幸福な生活を妨げていることに思いを馳せていただきたいのです。

それは、今や私たちの科学文明、資本主義、競争社会など、私たち人類社会の基本的な方向性、つまり、私たち人類の本来のあり方、そして、私たち一人ひとりの生き方が真剣に問われているということです。

ただ、「食生活と健康」をテーマとして書くとしても、僕自身はこの分野において、世間的な意味での“専門家”ではありません。

ですから、どこからか借用してきた専門的知識やデータを多用しながら書くつもりはありません。

あくまで、僕自身がただの当たり前の人間として、「そもそも人間とは何か」ということについて、自分自身の本能とできるだけ“健全な常識と知性”とによって理解したことを基軸にして、専門的な知識やデータはできるだけ少なくしたいと思います。

また、専門的な知識やデータを使う場合には、現代医学界に属する多くの科学者や医者が知っているか、あるいは、認めるかどうかに関わらず、僕が「これは信頼できる」と判断したものに限ります。

というのは、現代医学の世界では、どう考えても、「これは信頼できる」としか思えない知識やデータについて、専門家である彼ら自身が知らなかったり、あるいは、それを無視して認めようとしない傾向が非常に強いからです。

これは悲しむべきことですが、厳然たる事実なのです。

そこで、問われるのは僕自身が「これは信頼できるものかどうか」を判定できる能力があるかどうかということです。

それは僕がかつては生物学系の科学者であり、一般の方々に比べて、少しはより科学的、客観的に判断することができるのではないかということが一つの根拠になると思います。

でも、それよりも、ここで採用する知識やデータは、長い年月食物と健康の関係を研究しながら、実地に食事療法や食生活の改善指導によって多くの患者を治療しすばらしい実績を挙げている良心的なお医者さんたちが引用されているものばかりだということを言っておきたいと思います。



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身心脱落 2

身心脱落  2

仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心、および佗己の身心をして脱落せしむるなり。

この生死はすなわち仏の御いのちなり。
「中略」

厭うことなく、したうことなき、このときはじめて仏のこころに入る。

ただし、こころをもて計ることなかれ、ことばをもて言うことなかれ、ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたより行われて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこおるべき。

(以上、読みやすいように、一部漢字に変換し、現代仮名遣いに換えました。)

これらはいずれも道元禅師の『正法眼蔵』という書のなかにある言葉です。

僕は、これこそ真実の生きる道の真髄ではないかと思っています。

自覚のセミナーを受講したり、これまでこのブログを読んできていただいたみなさんにも、少なくともその大意は理解していただけるのではないかと思います。

さて、野口整体の活元運動は人間にもともと備わっている本能的健康維持機能をより活発にする自然自発的に発動する運動で、野口整体ではとても重要なものとされています。

僕は活元運動の原理と対比すると、この道元禅師の言葉をさらにより深く実感的に理解できるように思います。

まず、「自己をならう」は「本当の自分に戻る」、
「自己を忘れる」は「自分という思いを手放す」、

「万法に証せられる」は「すべての存在が自分である」、

「自己の身心、および佗己の身心をして脱落させる」は「自も他もないという本来の事実の人に戻る」、

途中を省略して、「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて」は「アタマの思いを“自分“という思いも含めてすべて手放して、自分を生かしている“いのち“のハタラキにそっくり任せて」、

「仏のかたより行われて、これにしたがいもてゆくとき」は「そうして、“いのち“のハタラキにすべて任せきるとき」、

「ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」は「そうすると、自分で何とかしなければと余計な力を入れたり、思い煩うこともなく、すべてがうまく行き、生死を超えた本来の自分そのものになることができる」と解釈します。

以上をまとめると次のようになります。

真実の生きる道は本当の自分に戻ることであり、自分という思いを手放し、自も他もないという本来の事実の人に戻ることである。

こうして、アタマの思いを“自分“という思いも含めてすべて手放して、自分を生かしている“いのち“のハタラキにそっくり任せれば、自分で何とかしなければと余計な力を入れたり、思い煩うこともなく、すべてがうまく行き、生死を超えた本来の自己そのものになることができるのである。


活元運動は瞑想の自然法とともに最高の瞑想法です。




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何も求めず

何も求めず

坐はすなわち佛行なり。
坐はすなわち不為なり。
是すなわち自己の正体なり。
此の外、別に仏法の求むべき無きなり。

以前にも紹介しましたが、これは道元禅師の言葉です。

ところで、“不為”とは「何もしない」という意味ですが、それが“自己の正体”とはどういうことでしょうか?

またかと思われるかもしれませんが、タバコを例にとって説明すると、とても分かりやすいのです。

スモーカーはタバコにはデメリットもあるけれども、なくてはならないメリットがあると思い込んでいます。

つまり、タバコの価値観を信じているのです。

でも、それはとんでもない錯覚であることはこれまで何回も説明したとおりです。

真実は、タバコにはメリットは一つもなく、あるのはたくさんのデメリットだけです。

そういう意味では、タバコに関してはスモーカーは“迷い”のなかにいます。

一方、ノンスモーカーはタバコにはなくてはならないメリット(価値)があるなどとは、実感としてまったく思っていません。

ノンスモーカーは、実感としてタバコに関してはまったく“迷い“がありません。

つまり、タバコに関して言えば、ノンスモーカーはすでに“悟っている”のです。

ノンスモーカーはもともとそれで過不足一つなく完璧です。

ですから、スモーカーがタバコに関する自分の錯覚に気づき、タバコをきっぱりやめてノンスモーカーに戻れば、タバコに関しては、“悟った”ということです。

「タバコをやめる」ということは、タバコに関しては「何も求めず、何もしない」ということです。

タバコをやめるにはタバコの価値観を捨て、“ただ“やめればいいのです。

このように、不為がそのまま悟りです。

存在の真実(自己の正体)についても、真実は、すでに悟っているのですから、悟るためには、何もする必要はありません。

悟りは努力して求めるものではないのです。

でも、タバコをやめるためには、曇ったアタマを整理しておくことは必要です。

つまり、タバコの価値観が錯覚であったこと、もともと、ノンスモーカーはタバコを吸う必要がまったくなかったことを知的にはっきり認識する必要があるのです。

それと同じように、悟るためには次のことをまず知的にはっきり認識する必要があります。

みんなすでに悟っていること。

真実は、事実しかないこと。

事実は“ただ“起きていること。

事実をありのままに見、ありのままに生きることが悟りであること。

悟りとは、“もともとそうである事実”に気づくことであり、特別なものではありません。

何かを求めて一生懸命に努力して、何か”特別な自分”になることではなく、“ただ“本来の自分に戻ることなのです。

そして、“本来の自分でいるとき、過不足一つなくすべて完璧です。

ですから、アタマの思いを手放して、何も求めることなく、何もしないで、ただ坐っているとき、そこに自己の正体がありありと現成するのです。


坐はすなわち不為なり。

是すなわち自己の正体なり。



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花は紅、柳は緑

花は紅、柳は緑

悟りとは、一言で言えば、存在の真実(真の自己)を体験的に自覚することです。

存在の真実を自覚するとは“事実しかない”ということを体験的に捉えることです。

具体的には、事実そのものが当たり前に見えるということです。

「花は紅、柳は緑」や道元禅師の「眼横鼻直」という言葉は端的に悟りの世界を表しています。

「悟りがそんな簡単なものであるはずがない。悟りはもっと深遠なものであるはずだ」と思われるかもしれませんね。

でも、もっともシンプルな当たり前の事実にこそすべての真実が隠されているのです。

本当は「隠されている」というより「それがそのまま真実だ」といったほうがより的確な表現かもしれません。

身近な例を挙げると、ほとんどのスモーカーは心の奥では「タバコを吸うとリラックスできる。タバコは喜びでありこころの支えだ。タバコがなければ人生を楽しく生きていけない。だから、どうしてもタバコが必要だ」と思っています。

でも、どんなスモーカーでもタバコを吸い始める前はノンスモーカーでした。

そして、ノンスモーカーのときにはタバコを吸えなくてイライラしたりソワソワしたり、吸わなければストレスが解消できないなどと感じたことは一度もなかったのです。

つまり、タバコはもともと必要ではなかったという真実は誰でもノンスモーカーであったときにすでに体験的に知っているのです。

ですから、タバコをやめるためにはただノンスモーカーに戻ればよい、ということです。

スモーカーモード、つまり、タバコに洗脳されたアタマで考えているので、その真実が見えなくなっていただけなのです。

それと同じように、私たちはいろいろな観念(思い込み)でレンズが曇ったりゆがんだメガネを通して見ているので、ありのままの事実の世界が見えなくなっているのです。

ですから、「この世界には事実しかない」という真実にも気がつきません。

つまり、事実は思い以前にすでにあるのであり、真実はどこまで行っても思い以前の事実しかないのです。

その事実がアタマの観念を通さずに、直にそのまま当たり前に見えることが悟りです。

動物はアタマの観念などないので、事実がそのままに当たり前に見えています。

だから、動物はみんな悟っているのです。ただ、それを意識していないだけです。

同じように、私たち人間も、本来は、みんな悟っています。

ですから、「事実しかない」ということをはっきりと知り、観念に捉われずに、事実をそのまま見るようにすればいいのです。

そうすれば、ふとしたときに、ありのままの事実がありありと見えるでしょう。

そのとき、事実の世界にはどこにも、優劣もなく、差別もなく、一切の所有もなく、境目もなく、いっさいがぶっ続きで、自分もなく他もなく、すべてが“在りながら無し”の世界であり、それが真の自己であることがはっきりとわかるでしょう。

日々すべての思いを手放しにして瞑想の自然法を実践しましょう。



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我が家のネコたち

我が家のネコたち

現在、我が家には11匹のネコがいます。

彼らはみんな我が家で生まれたのですが、お互いに、おばあちゃん、お母さん、兄弟姉妹、甥、姪、いとこ、孫といった関係にあります。

みんな一つの家族です。

ところで、彼らの先祖はもともとどこから来たと思いますか?

実は、それはもう25年以上も昔に、近所の子供が1匹の小さな捨てネコを拾って、飼ってほしいと我が家に持って来たことがすべての始まりでした。

私たちはその小さなネコを「いっちゃん」と名付けました。

いっちゃんはどんどん成長しました。いっちゃんはとても可愛く、そして、とても賢いメスのネコでした。

そして、やがていっちゃんのお腹が大きくなり、何匹かの子ネコを生みました。

その後も、いっちゃんは何回かお産をして何匹も子供を生みました。

その子供たちのあるものはいろいろな方にもらっていただきましたが、我が家にも何匹かが残りました。

その子たちが大きくなり、また、子供が何匹か生まれました。

このようなことが何代も何代も続いて今日に至っています。

その間に、我が家で生まれたネコの総数は100匹は軽く超えています。

というわけで、現在、我が家にいる11匹のネコたちはみんないっちゃんの子孫なのです。

昔、いっちゃんが我が家に連れて来られなかったら、彼らは存在していないということであり、いっちゃんのいのちが彼ら1匹1匹のなかでいまも生き続けているのです。

彼らの先祖を遡ると、いっちゃん、そして、最初のネコを経て哺乳類の先祖である小さな動物に行き着きます。

僕の先祖も遡ると、アフリカのイブという女性、そして、最初の人類を経て、その小さな動物に行き着きます。

つまり、彼らの先祖も僕の先祖も同じだということです。

さらに、その小さな動物の先祖を遡れば、最初の動物を経て、地球上で誕生した最初の生物であるある単細胞生物に行き着きます。

この単細胞生物こそ地球上のすべての動物、植物、そして、微生物の共通の先祖です。

つまり、この単細胞生物のいのちが代々伝わって、現在地球上に生きているすべての生物に伝わっているのです。

子供が生まれても、親のオスのいのちとメスのいのちはもともと同じですから、子供のいのちも同じです。

つまり、地球上のすべての生物はそれぞれ姿かたちは異なっていても、その中身(本質)はみんな同じいのちだということです。

最初の生物である単細胞生物をさらに遡ると、生物と無生物の中間体のようなものを経て、ある無生物、つまり、物質に行き着きます。

さらに、その物質の起源は究極的には宇宙の始まりである“何か“に行き着きます。

無生物、生物とを問わず、すべての存在についても同じです。

僕はその“何か”を“いのち“と呼んでいます。

そのひとつの“いのち“がいろいろな姿かたちとして変化して現在の世界となったわけです。

ですから、無生物、生物を問わず、この世界のすべての存在は同じひとつの“いのち“であり、自分なんてないのです。




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