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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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存在の真実の不思議   その1

存在の真実の不思議   その1

存在の真実はまさに単純そのものです。

ですから、それを言葉で表現しようとすれば、かえってまったく違ったものになってしまうでしょう。

「存在の真実」などと言うと、なんだか自分とは縁遠いような気がするかもしれませんが、あなたが存在している“いまここ”において生き生きと起きている”奇跡”のことなのです。

その奇跡とは、眼に見えるもの、音、匂い、からだの感覚、心臓の鼓動、呼吸、思いなど“いまここ”において起きているすべてです。

それはすべてであり、同時に何ものでもありません。

それは言葉でもなく、観念でもなく、信念でもなく、思想でもなく、哲学でもありません。

それは時間も空間も越えています。

そこには切り離されて存在するものはありません。

それはあなたから離れてあるのではありません。

それはまさにあなたが何ものであるかということです。

存在は言葉を超えたところにあるので、バラバラなものなどありません。

それにもかかわらず、どこからか言葉や思いが現われ、そのために、あたかもすべてがバラバラであるかのように見えるのです。

でも、それは不可分一体の存在の中に現れるちょっとした幻想にすぎません。

ですから、結局は、存在の真実については何も言葉では言い表せないのです。

それなのに、なぜ僕は“いのち“について、あれこれと言葉で書いているのか? と思うかもしれませんね。

たしかに、それは的をついた質問です。

そのとおり、言葉では“いのち“を捉えることはできないのですが、言葉によって、“いのち“を指し示すことはできるのではないかと思うのです。

それは指で月を指し示すのと同じです。

でも、注意しなければいけないのは、指そのものは月ではないのと同じように、どんなにうまく説明できたとしても、言葉は“いのち“そのものではないということです。

ですから、指ばかり見つめていると、美しい月を見失ってしまうように、言葉に捉われてしまうと、存在の真実を見失ってしまうおそれがあります。

でも、存在の真実は思いを超えた"いまここ"に現成している事実そのものですから、言葉やアタマによって捉えることはできなくても、経験によって容易に捉えることができるのです。

それは、例えば、食べたことがない果物の味をどんなに詳しく言葉で説明しても、本当のことは伝えることはできない、また、どんなにアタマでその味を想像してみても分からないが、食べてみれば誰にも容易に分かるということと同じです。

そうです。存在の真実というのは、すでに“いまここ”において起きている事実そのものですから、それは誰でもすでに体験しているのです。

ただ、それをアタマや言葉を通して理解しようとすると、途端に混乱して分からなくなってしまいます。

ですから、言葉を通さずに、また、アタマの思いを手放しにして事実丸出しのあるがままの世界に降参して没入することです。

でも、もともとそこには降参して没入する自分もいないのです。




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宿便についての誤解

宿便についての誤解

いろいろな方に「過食によって宿便が腸に停滞し、それが万病のもとになる」と言うと、多くの方は「知らなかった。それは大変だ。何とかしなければ」と考えられるようです。

でも、なかには次のように答える人もいます。

「私はめったに過食することはありません。また、便通も毎日スムーズなので、自分は大丈夫です」と。

でも、そこには大きな誤解があるのです。

それは、「私は普段自分の食欲に合った普通の量しか食べない。だから、過食していない」という人でも、ほとんどの場合、実際には宿便が溜まっているからです。

というのは、この「普通の量」というのが問題であって、その「普通の量」というのが、実際にはすでに食べ過ぎになっていることがほとんどだからです。

ですから、これまで自分が「普通の量」と思っていた量の6~7割の量が、本来あるべき「体に合った正常な量」であると考える必要があるのです。

また、食事の量は少なくても、しょっちゅう間食したり夜食を摂っていれば、トータルでかなり食べ過ぎになってしまいます。

それから、「私は便秘していないから大丈夫だ」とか、「便通が毎日スムーズにあるから宿便は溜まっていない」という人でも、少食生活に切り換えたり、断食をしてみると、ほとんどの人から大量の宿便が排泄されるのです。

ですから、普通一般の方は「自分は宿便が溜まっている」と思って、まず間違いはないと言えましょう。

けれども、西洋医学ではこのような宿便の存在を認めていないのです。

それは内視鏡などで腸内を検べても、宿便らしきものがまったく見えないからだそうです。

でも、西洋医学で何と言おうと、実際に少食生活や断食によって宿便が排泄されるという事実そのものが宿便の存在を証明しています。

では、宿便はどのようにして出来、腸のどこに隠れているのでしょうか?

例えば、道路の処理能力を超えて、どんどん自動車が道路に入ってくれば、当然、自動車が渋滞します。

それと同じように、腸の処理能力を超えて、過剰な食べ物が腸に入ってくれば、当然、大量の食べ物が未消化のまま停滞し、行き場がなくなってしまいます。

すると、その部分の腸壁が伸びて横穴のような袋ができ、消化が不完全なものはそこに溜まるので内視鏡などでは見えないのです。

溜まったものは微生物によって異常発酵をし、発生した有害な物質やガスが腸壁から血液中に取り込まれて全身に周り、いろいろな災いをもたらします。

いずれにしても、少食生活や断食などにより宿便が排泄されることによって、西洋医学でも、鍼灸その他の東洋医学、あるいは、民間療法でも治らなかった慢性病が劇的に治癒したという例が数多く報告されています。

我が家のネコは調子が悪くなると、何日間も何も食べないでじっとしています。

でも、かなりの重い病気の場合でも、ほとんどいつもみごとに回復してきます。

「少食こそ健康の原点だ」ということを動物はみんな知っているのです。




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自分は存在する?しない?

自分は存在する?しない?

これまで「自分は存在しない」ということをいろいろなところで説明してきました。

でも、もしかしたら、多くの方は「自分は存在しない」ということをただ観念的に理解して、実際はいつも「自分は他から分離している」と思いながら生きているのではないのかと思うのです。

これでは何の意味もありません。

「自分は存在しない」ということがはっきり分かれば、社会的付き合いの上では、便宜的に「自分は・・・」などと言ったりしていても、“自分“という意識は脱落しているはずなのです。

そこで、あらためてアタマでもわかるように説明してみます。

この世界は本質である一つの“いのち“が現象として展開している世界です。

したがって、現象界に現われているすべてのものはそれぞれ姿、形、性能、ハタラキなどの特性は異なってはいますが、その本質はみんな同じ一つの“いのち“なのです。

この世界は一つのもので、眼に見える見えないに関係なく、そのどこにも境目がなく、ぶっ続きです。

この世界は人体のようなものです。

では、例えば、手と足は互いに分離した存在でしょうか?

そうではありません。離れた場所にあるように見えますが、明らかに繋がっています。

人体のすべてのパーツは繋がっています。

もともと一つのものだからです。

この世界も同じで、“他から分離した自分“などというものが存在するはずがないのです。

でも、多くの人は「そうは言っても、僕は”A男”という名前の人間で、僕なりに生きている。彼女は”B子”という人間で、彼女なりに生きている。ということは、やはりそれぞれ別個の人間ではないのか?」 と思っているのではないでしょうか?

ここが問題のポイントです。

たしかに、「それぞれ別個に生きている」というのも、表面的に見れば、事実であるように見えます。

でも、それはそれぞれの特性が異なっているというだけの話です。

手と足、肩と腕はそれぞれ形状やハタラキなどの特性は異なっていますが、もともと一つのものであり、互いに切り離されたものではなく、ぶっ続きです。

いま僕の書斎から見えている桜の木と松の木についてもそれぞれ特性は異なっていても同じ“いのち“です。

しかも、桜の木や松の木にはアタマがないので、例えば、桜の木が「“自分“は松の木とは違う。松の木とは分離しているのだ」などと意識していません。

ところが、私たち人間はアタマを持っているので、それぞれ特性が違うために、勘違いして、彼女と僕は”違う”人間だと思ってしまうのです。

でも、この世界のすべての存在はそれぞれの特性が”違う”のは当たり前です。

問題は、この”違う”という言葉を”「それぞれがバラバラで、分離した別の存在だ」という意味に錯覚するところにあります。

事実は、それぞれ違っていても、みんなぶっ続きで一つの“いのち“です。

だから、“自分“なんてないのです。

瞑想の自然法をやればアタマでなく体験的に分かります。





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手段ではない瞑想

手段ではない瞑想

瞑想には様々なものがあります。

そのほとんどの瞑想が何らかの効用を得るためにするのだとされています。

つまり、それらの瞑想は効用を得るための手段であるということです。

それはそれで大変結構なことだと思います。

ただ、ここで僕がみなさんにはっきり理解していただきたいことは、僕が勧めている瞑想の自然法をはじめとするいくつかの瞑想法は悟りを含めて何かの効用を得るための“手段としての瞑想”ではないということです。

では、“手段としての瞑想”ではないとすれば、一体どういう瞑想なのかと思われることでしょう。

僕が勧めている瞑想はそれ自体がそのまま“目的”なのです。

瞑想することがそのまま“ゴール”であると言ってもよいでしょう。

私たち人間は発達した大脳を持っているために、多くの方々はありのままの存在の真実をそのまま捉えるのではなく、存在の真実についてアタマで捉えたと思いを存在の真実であると勘違いしています。

でも、それは絵に描いた餅が実物の餅ではないのと同様に、実物の存在の真実ではありません。

どんなに理性的にアタマが働いて捉えたものであっても、実物そのものではなく、単なる映像のようなものでしかありません。

しかも、アタマの能力は非常に限られているだけでなく、そのハタラキそのものが狂っている場合も多く、それを通して捉えた像自体が歪んでいたり曇っていたりします。

このように、アタマではありのままの存在の真実をそのまま捉えることはできないのです。

本当は、存在の真実、言い換えれば、真の自己は思い以前に、すでに“いまここ”に生き生きと現成しています。

では、思いを無くせばよいのでしょうか?

でも、それは不可能です。

なぜなら、私たちは石ころのような単なる無生物ではないからです。

私たち人間は発達した大脳を持っています。

ですから、思いは自然に湧いてくるので、それを止めようとしても止めることはできないのです。

では、どうしたらいいのでしょうか?

湧いてくる思いを捉えようとしないで、次々に湧いてくる思いを手放し手放しにしていることです。

思いを手放しにして、坐相をキチンと維持しながら、ただ坐っているのです。

その際、思いを手放しやすいように、数息観など何かに集中したりしながら坐っていてもよいでしょう。

いずれにしても、そのとき、存在の真実が思いに邪魔されずに素通しになっています。

道元禅師の只管打坐(ただひたすら坐る)もまったく同じです。

坐るのは何かを得るためでも、悟るための手段でもありません。

存在の真実は思い以前にすでに“いまここ”に現成しているのですから、思いを手放しにしてただ坐っていること自体が存在の真実に身も心も任せているということです。

ですから、「ただ坐る」それで完結です。

ですが、そうしてただ坐っていると、あるときふと、“自分“という意識が消え、存在の真実だけがまざまざと現成していることに気がつくでしょう。



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人間は何のために生きるか?

人間は何のために生きるか?

さきほどまでテレビで「寅さん」の映画を見ていたら、次のようなシーンがありました。

甥の満男が寅さんに「人間は何のために生きるのだろう?」と問いかけます。

それに答えて寅さんがこう言うのです。

「人間は生きている間に、『あー、生れてきてよかったなあ』と思う瞬間が何遍かある。そのために人間生きているんじゃないのか。そのうちに、お前にもそういう時が来るよ。頑張れ!」と。

なかなか味なセリフですね。

深いというか、素直というか、思わず「ウーム」と腕を組んで、頷きながら物思いに耽ってしまいそうではありませんか。

実は、僕自身は寅さんのセリフを肯定も否定もする気はありません。

僕自身は「本来的に何かのために生きている」とは思っていません。

でも、もし、「何かのために」と言うとすれば、「生きること」自体がそれだ、と言いたいのです。

つまり、僕にとっては、生きること自体が目的なのです。

僕は自分の人生で出会うすべてのことを好き嫌いを超えたところで生き抜いていくことが生きることだと思います。

そういう意味で、人生において、何が起きてこようとも、眼をキョトキョトさせないで、腰を据えてすべて「よしきた!」と受け止め、対応すべきことはできるだけ十全に対応しながら生きていきたいと思っています。

でも、それは僕がこの人生で何のネライものもなく、ただ流されて行っているということではありません。

僕はこの人生を生きて行くうえではっきりしたネライを持っています。

普通一般の意味での“人生の目的”という場合には、それが達成できるかできないかによって、「人生の合格不合格」があります。

でも、“人生のネライ”という場合には、ただ、常に進んでいく「方向」があるだけで、そこには「人生の合格不合格」はありません。

僕の“人生のネライ”とは、「生きとし生けるものがみんな幸福に、そして、平和に生きることができる世界をできるだけ早く実現すること」です。

と言っても、僕は小さな時からこのようなネライをはっきりと持っていたわけではありません。

それは、その後「自分とは何か?」、「自分はどう生きるのか?」など、僕なりに徹底的に検べ、その結果、行き着いたところから出てきたものです。

ですから、そのネライはあくまで僕個人のものであることは事実です。

けれども、私たち一人ひとりが“真実の自己」について徹底的に検べ、不可分一体の存在の真実に気がつけば、誰にとっても人生のネライは同じものになるのではないでしょうか。

要するに、私たち一人ひとりの人生の真のネライは「生きとし生けるものが真に幸福で平和に生きることのできる世界の実現」にあると思うのです。

仏教の『四弘誓願』の第一も「衆生無辺誓願度(生きとし生けるものを救わずにはいない)」となっています。

一人でも多くの方が存在の真実に気づき、しっかりしたネライを持って生きてほしいと、こころから願わずにはいられません。




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食の常識の間違いやウソ

食の常識の間違いやウソ

食についてこれまでいろいろと述べてきました。

それを読めば、今日の社会において、食について、いわゆる、”常識”と言われていることのなかにいかに多くの間違いやウソがあることが分かると思います。

実は、その他にも、食についての常識とされていることについて、どうしても指摘しておきたいことがいくつかあります。

世間ではよく次のように言われています。

一日の活動のエネルギーをしっかり補給するために朝食をしっかり食べないといけない。

脳の活動のためにはそのエネルギー源としてブドウ糖が必要だ。朝食をしっかり摂らないとブドウ糖が不足するので、アタマがよく働かない。

その根拠として次のようなことがよく言われます。

「朝食を食べた人たちと食べなかった人たちとの学習能力を比較した実験において、朝食を食べた人たちの方が成績が良かった。」

ところが、事実を調べてみると、朝食を食べなかった人たちというのは、実は、それまで朝食を毎日食べていた人たちで、その実験の当日の朝だけ食べなかった、というのです。

これではダメです。

なぜなら、本来は、「普段いつも朝食を食べている人たち」と「普段いつも朝食を食べていない人たち」について比較実験をしなければならないのです。

事実、そのような人たち同士で実験しなおすと、まったく逆の結果が出るのだそうです。

つまり、「普段いつも朝食を食べていない人たち」のほうが成績がはるかに良かったのです。

また、野生の動物を観察すると、朝はもっぱら排泄の時間であり、ほとんど食べ物は食べないことが分かっています。

健康に生きるためには、食物をできるだけたくさん体に入れることよりも、まず先に出すことが大切です。

ですから、前日の夜から次の日の朝まで充分な時間を排泄のために使うことが必要なのです。

また、ブドウ糖が足りなくても、体はからだの脂肪を分解してケトン体という物質を作り、脳のエネルギー源として使うので問題はありません。

朝食を食べなければ、食べないで、やっていけるように適応していく順応性を体自身が持っているのです。

次に、「たくさん食べなければ元気が出ない」とよく言われますが、これも間違いです。

自動車を例にとって考えてみましょう。

例えば、同じ重量同じサイズの2台の車で、ガソリン1リットルで、10キロメートル走れる車Aと20キロメートル走れる車Bとでは、燃費はどちらが優れていますか?

もちろん、Bですね。

同じ距離を走るのにBはAの半分のガソリンで済みます。

同様に、同じ大きさの二人の人間を比べる場合に、少ない食べ物でたくさん働ける方がより健康だということです。

たくさん食べなければ元気がでない、というのは、まったくの間違いです。

少ないエネルギーでたくさん動ける体こそ健康な体なのです。

このように、現代の社会では食についていくつもの間違いやウソがまかり通っていますが、それは食だけでなくほとんどの分野において同じことが言えるのです。





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少食の大切さ

少食の大切さ

これまで甘いものや肉、乳製品などはできるだけ控えて、玄米や精製していない雑穀類と生野菜などを主体にした”少食”生活の大切さについて述べてきました。

なかでも、とくに”少食”が大切です。

というのは、どんなに「玄米がいい」といっても、毎日玄米ご飯を大食していれば、いずれ深刻な病気になる可能性が強いからです。

どんなに良いというものであっても、食べ過ぎはダメなのです。

と言っても、やはり、少食を実践する上で、大切なことは何を食べるかという”質”です。

少食がいいと言って、刺身を少しだけ食べて済ましたり、毎日そうめんだけというようなことではダメなことは誰でも分かるでしょう。

かと言って、現代の栄養学で言うように、「1日に30品目食べなければならない」などということは過食の始まり以外のなにものでもありません。

基本は玄米、あるいは、黒パン、生野菜、豆類、海藻、小魚などによる少食です。

少食の効用については、一言で言えば、「少食は病知らず」、あるいは、「少食は難病を治す」と言うことができるでしょう。

「なぜ、そんなに少食がよいのか?」ということについてはいろいろ理由がありますが、少しだけ説明しましょう。

過食すると腸内に宿便が停滞する。

溜まった宿便は腐敗し有害なガスを発生する。

そのガスが腸壁より吸収されて全身に行き渡り悪影響を与える。

宿便により腸壁からの栄養分の吸収が妨げられる。

宿便のために血液が濁り、それが全身に行き渡る。

過食は腸壁を荒らし、キズをつける。結果的に、アレルギーの原因となる。

過食をすると、腸内環境が悪くなり、宿便のためにビフィズス菌などの善玉菌が棲みにくくなり、腸は悪玉菌に適した環境となる。

(注: ヨーグルトを食べると腸にビフィズス菌を供給できるので健康によいと言われます。

それはそうなのですが、過食や肉食などで腸内環境を悪化させておいて、ビフィズス菌を外から取り入れるということであれば、それは対症療法的な発想だと言わざるをえません。

もっとも大切なことは、肉食を少なくした少食によって、内から腸内環境を整え、自然に善玉菌が繁殖できるようにすることではないでしょうか?)

最後に、少食生活を実践しようとする際にもっとも大切なことは決して無理をしないことです。

時間をかけて、以下のように段階を踏んで徐々に本格的な少食生活に入るようにしなければいけません。

1 間食を徐々に少なくし、基本的にはほとんど食べないようにする。

2 朝食を徐々に少なくし、最終的には野菜ジュースだけで済ますようにする。

3 昼食は肉を控え、できるだけ玄米菜食的なものに変え、徐々に腹7〜8分程度の少食にする。

4 夕食はまず徐々に腹7~8分程度の少食にし、次に肉を控え、できるだけ玄米菜食的なものに変える。


少食は自分の健康のためだけでなく、動植物のいのちを守り、世界の食糧不足を解消することができます。

少食を実践しましょう。




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ぼくが肉を食べないわけ

ぼくが肉を食べないわけ

僕が肉を食べなくなった一つの理由は健康に及ぼす肉食の大きな害に気がついたからです。

でも、それだけではないのです。

いろいろ検べているうちに分かったことが他にもたくさんあります。

その一つは、牛や豚や鶏が飼育されていく過程で、人間にとって有害な物質や抗生物質などの薬品が飼料に入っている可能性があることがわかったことです。

もちろん、飼料に人間にとって有害なものを入れてはいけないと法律的には規制されているはずです。

でも、もし、そのように規制のとおりに実施されていたとしても、飼料に入れられた物質や薬品類が私たち人間には有害でないかは本当のところは不明だと思います。

また、酪農業者が営利を追求するあまり、法律の眼を掻い潜って、法律で規制されていない大変有害な物質や薬品を使っている可能性も否定できないのではないでしょうか。

もちろん、そのようなことがないように定期的な検査が実施されているとは思いますが、そのような検査がどこまで厳密に実施されているかもたしかではありません。

すべての酪農業者とは言わなくても、中には隙を狙って有害な物質や薬品を使っている可能性は結構あるのではないかと思うのです。

以上は、僕のかってな想像というよりも、僕が参照した信憑性の高い資料による推量といったほうがよいでしょう。

もう一つの理由、これが僕には決定的なものですが、僕は自分が食べるために牛や豚やニワトリなどを殺したくないということです。

とにかく、可哀相ですから。

肉食自体の害や、もしかしたら混入されている有害な物質や抗生物質などはそれによって自分の健康を損なっても、ある意味では、自業自得とも言えます。

でも、肉はどうしても食べなければいけないというものではないのですから、自分が生きるために、あるいは、自分の楽しみのために、動物たちを殺すのは嫌なのです。

ほとんどの人は自分の飼っているイヌやネコなどのペットを殺して食べたいとは思わないでしょう。

自分のペットだけ可愛がって牛や豚やニワトリのいのちなどどうでもいいというのはとてもエゴイスティックな感じがしませんか?

それでも牛肉や豚肉や鶏肉を食べたければ、他人に殺させるのではなく、自分で殺して食べてはどうでしょうか?

「それはあまりにも残酷でできない」と言われるのならば、いくら仕事とは言え、それを他人に押し付けるのはどうでしょうか?

以上は、かつて僕自身が自分に投げかけた問いです。

僕の答えが決定的になったのは、下記の本のなかで、屠殺場で殺されていく牛や豚のあまりにも悲惨で可愛そうな場面を描写したレポートを読んだからです。

豊富なデータをもとにいろいろな角度から肉食の害を説いたこの本は欧米でベストセラーになりました。

まさに名著です。

この本を読めば、喜んで、また、楽しく肉をやめることができるでしょう。


(参照 『ぼくが肉を食べないわけ』 ピーター・コックス著 築地書館)




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肉まん恐い  その3

肉まん恐い  その3

肉食の害についてまとめてみましょう。

1 肉は消化に時間がかかり、胃や腸などの消化器に負担がかかる。

2 肉食は便秘の原因となる。

3 肉を食べると宿便がたまりやすく、腸が荒れて血液が濁り、全身に悪影響を与える。

4 肉食は冷え症の原因となる。

5 肉や卵や牛乳などの動物タンパク質で腸内がアルカリ性になり悪玉菌が繁殖しやすくなる。そのために、ガンや潰瘍大腸炎や認知症が増える。

6 肉を食べると高血圧症になりやすい。

7 肉好きは血管にコレステロールなどの汚れが溜まり、狭心症や心筋梗塞などの心臓病になりやすい。

8 肉を食べると糖尿病に罹りやすい。

9 肉食をするほど骨がもろくなり、骨粗しょう症になりやすい。

10 肉や卵や牛乳などの動物性タンパク質は免疫力を低下させ、アトピー性皮膚炎などのアレルギーになりやすい。

11 肉食は老化を早める。

12 肉食をするとシミ、シワ、白髪が増える。

13 肉食は過食を招きやすく肥満になりやすい。

14 肉食を続けると甘いものを食べたくなる。

などなど。

ここで”肉食”という場合には、卵や牛乳やチーズなどの乳製品や、赤身魚も含んでいます。

また、”肉食”と言っても、どのくらいの量をどのくらいの頻度で食べるかによって影響が異なるのは当然です。

ここでは詳しく述べませんが、たまに肉を少しだけ食べるぐらいでは、大きな問題にはならないでしょう。

でも、日常的に肉を週に何回か、ある程度の量を食べていれば、身体に上記のような悪影響を与える可能性があります。

ここで、牛乳や乳製品について少しだけ説明してみましょう。

哺乳類の赤ちゃんは母親のミルクを飲んで育っていきます。

けれども、ある程度成長すると自然に離乳して、それ以降はミルクは飲まなくなります。

哺乳類の中で自然に離乳した後でもミルクを飲んでいるのは人間だけなのです。

なにか変だと思いませんか?

チンパンジーなどの類人猿もある程度大きくなると自然にミルクは飲まなくなります。

本当は人間も離乳した後ミルクは飲まない方が自然ではないのでしょうか?

実は、ミルクのタンパク質の80パーセントはカゼインという燐タンパク質で、カゼインは栄養上重要なアミノ酸をすべて含んでいます。

当然のことですが、赤ちゃんはカゼインを分解・消化するための酵素を持っています。

ところが、ある程度成長し離乳の時期以後は、その酵素は必要ないので体内では生産しなります。

これは実に自然の当たり前のプロセスです。

けれども、その酵素がないにもかかわらずミルクを飲めば、私たちはカゼインを分解できないので、身体に大きな負担となってしまいます。

そのために、結局、上記のようにいろいろな悪影響が生じるのです。

私たちは栄養学的な知識よりも、身体の自然性に沿うのがもっとも健康に生きられるのではないでしょうか?


(参照 『3日食べなきゃ、7割治る!』 船瀬俊介著 三五館)



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肉まん怖い  その2

肉まん怖い  その2

我が家のネコたちは魚や肉を食べるのが大好きです。

彼らは時々外でネズミやモグラや小鳥や虫などを捕まえて食べます。

彼らはネコ科の動物は肉食動物だからです。

たまたま家の中に虫が飛び込んできたときの彼らの興奮状態は見ものです。

目はすばやく虫の動きを追いかけ、身を低くして、隙があればいつでも飛び掛ろうと身構え、チャンスだと見ると果敢に虫に跳びかかります。

野生の肉食動物は獲物を見つけたときには、同じように振舞います。

では、私たち人間はどうでしょうか?

たとえば、果物が木にたわわになっていたら、どう思いますか?

取りたくなりますね。

では、もしその辺に子羊や野うさぎがいたら、思わず飛びかかって食べたくなりますか?

もちろん、そんなことはありませんね。私たちは小さな動物を見ると、どちらかというと可愛いと思うのではないでしょうか?

もし、戸外で自由に歩いているライオンなんかを見たら、本能的に怖いと思うでしょう。

恐怖も自分を守るために必要なん本能なのです。

いずれにしても、私たちの本能は人間は肉食動物ではないことを示しています。

いくら肉が好きだと言って、生きている動物に跳びかかり、肉を食いちぎって食べるような人は見たことも聞いたこともありません。

私たち人間は本来は、ほとんど草食動物です。

雑食性だと言われていますが、植物性の食糧が手に入らない場合に、生き延びるために肉や魚などを食べることもできるようになっているというだけなのです。

基本的には、私たち人間には植物性の食べ物が適しており、肉食は適していないということは、私達の歯をネコやライオンの歯と比べてみれば一目瞭然です。

私たちの歯で動物に齧(かじ)り付いて、生の肉を齧り取ろうとしても、肉が固すぎて、それこそ歯が立たちません。、

それで、人間はナイフという人工的な道具を使って、肉を小さく切り、多くの場合、肉を焼いたり煮たりして柔らかくして食べるようになったのです。

また、ただ、肉をナイフで切り刻み、火を通して柔らかくしても、そのまま食べても決して美味しいとは言えません。

美味しくないということは、もともと肉は人間に適したものではないということです。

それで、人間は塩や砂糖、香辛料などの調味料、酢、野菜の汁など(塩以外は全部植物性)を加えて、いかにも肉が美味しそうに見せかけて、それを食べるようになったのです。

たしかに、それで人間は肉を”美味しく”食べることができるようになったわけですが、

そこまで人間の手を加えなければ食べられないという事実は、むしろ、肉食が本来的に人間に適したものとは言えないことをはっきりと示しています。

私たちは人工的な見かけの美味しさに惑わされずに、私たちの本能が私たちに教えてくれていることを何よりも重要視しなければならないのです。 

私たちにもともと備わった本能は常に私たちの生命を守り、よりよく生かすために働いてくれているのですから。



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肉まん怖い  その1

肉まん怖い  その1

環境の変化のために樹上生活に終りを告げ、草原で生きていかなければならなくなった私たち人類の先祖は気候の変化などにより、何度も食料難を経験せざるをえなくなりました。

そういう過酷な環境の中で、私たちの先祖は樹上生活時代の果物、木の葉、小さな虫などを主体とする食生活だけでは生きていけなくなってしまいました。

生物の生きるうえでもっとも大切なことはどんな環境においても”生き延びること”です。

ですから、草原の生活において身体に適した食べ物が手に入らないときには、身体に適したものでなくても、何でも食べて、とにかく生き延びようとしたのです。

つまり、樹上生活から草原生活に変ったことによって、人類は雑食性に変っていったといったのです。

このようにして、人類はしだいに動物の肉を食べるようになっていきました。

ということは、本来、肉は私たちの身体に適したものではなかったということです。

たしかに、そういうものでも何とか凌いでいけるような仕組みにはなっています。

でもそれがベストというのではなく、あくまで非常の事態に備えた能力なのです。

ですから、肉を食べることが出来るからといって、かならずしも、人間にとって肉はどうしても必要だということではないのです。

実際に、胃や腸など身体の中の仕組みをいろいろ調べていくと、人間にとって肉食がベストではないという証拠が幾つも出てきます。

たとえば、肉を食べると消化・吸収するまでに長時間かかります。そのために胃や腸などの消化器に物凄く負担がかかってしまいます。牛乳や卵も同じです。

「たんぱく質を摂るのにはどうしたらいいでしょう?」と栄養士や学者に尋ねると、「肉を食べなさい、牛乳を飲みなさい」と言います。

ところが、象はあれだけ大きくて丈夫な体をしているのに肉を食べません。彼らは草を食べているのです。

肉食と言われているライオンだって、本当は生肉を食べません。ライオンはまず胃を食べます。胃には、たとえば、鹿の食べた草が全部消化されずに残っています。

そして、次に内臓を食べるのです。筋肉は食べません。

また、基本的に肉食動物は他の肉食動物を食べません。

他の動物はたんぱく質を摂るのに草を食べているというのに、人間だけが「たんぱく質を摂るためには動物の肉を食べなければならない」と言つています。

他の動物はカルシュウムを摂るのに草を食べているのに、人間は「カルシュウムを摂るためには牛乳を飲みなさい」と言っています。

このように人間の食生活が決定的におかしくなってしまっています。

肉(赤身魚も含めて)や牛乳や卵は、本来、どうしてもやむをえない場合にだけ食べる”非常食”と捉えるべきだと思います。

ところが、現代においては、肉や牛乳や卵を食べることがあまりにも日常化しすぎています。

ですから、世の中に病人が溢れているのも何の不思議でもありません。



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饅頭怖い  その4

饅頭怖い  その4

甘いもの(砂糖)を摂ると肝臓は体温を上げるのをストップします。

しばらくすると体温が下がってきます。

そうすると、肝臓は体温を上げようとして再び甘いものが欲しくなります。

つまり、甘いものを食べるから、再び、甘いものを食べたくなるのです。

このサイクルがが延々と繰り返されます。どこかできっぱりと断ち切るまでは・・・。

タバコを吸うから、再びタバコを吸いたくなる。アルコールを飲むから、再びアルコールを飲みたくなる。

みんな同じですね。

さてここで甘いもの、とくに白砂糖の害を列記してみましょう。

1 白砂糖の過食は血液を酸性に傾け体内のカルシウムを奪い、骨粗鬆症や虫歯、神経過敏、便秘などの原因となる。

2 白砂糖はビタミン類を奪い、全身倦怠感、肩こり、眠気、胃部膨満感などを引き起こす。

3 砂糖の過食は肝臓を悪くする。その結果、血液が濁り全身に悪影響を与え、また、冷え性、全身の疲労感、無気力、精神的ストレスなどの原因となる。

4 甘いものを食べると胃の働きが弱くなる。砂糖の過食は胃アトニー、胃酸過多症、胃潰瘍などの胃腸病を引き起こす。また、内臓下垂、肩こり、便秘、冷え性、疲れやすい、食欲不振などの原因となる。

5 砂糖をいつも摂っている人は湿疹、虫刺されなどの皮膚病になりやすい。

6 砂糖の過食はアレルギー体質の原因の一つである。

7 砂糖の過食は血液中のコレステロールを増加させ、高脂血症や血管の老化(動脈硬化)を引き起こす。

8 砂糖の過食は心筋梗塞をまねく。

9 砂糖の過食は組織のなかの酸素の欠乏を引き起こしガンの原因となる。

10 砂糖の過食はタンパク質の栄養価を低下させる。

11 砂糖の過食は糖尿病が誘発する。

12 砂糖の過食は結膜炎や蓄膿症などの原因となる。

いつも白砂糖の入った菓子類や食べ物を食べていると、その悪影響は全身に及ぶだけでなく、精神状態にまで大きな影響を与えているのです。

まさに、白砂糖は万病の元だということがわかります。

では、ブラウンシュガーや黒砂糖であれば大丈夫なのでしょうか?

黒砂糖とか黒砂糖に近いものというものも、白砂糖に仮面をかぶせて、黒砂糖やそれに近いものに見せかけただけのものもあるので、要注意です!

それでは、ハチミツや果物にはビタミン類やミネラルが比較的多く含まれているから、少々過食しても体液が酸性に傾かないのでカルシュームが奪われる心配もないのでしょうか?

それでも、ハチミツや果物を食べ続けていると血液は常に糖分漬けになって、それがさらに糖分を呼ぶので、結局は甘いものとの縁が切れなくなってしまいます。

ですから、とにかく、甘いものはできるだけ食べないほうがいいのです。

でも、ガマンして少なくしたり止めたりするのは、結局は、欲求不満になり、いずれそれが爆発して、元に戻ってしまいます。

ですから、「甘いものを食べるから、甘いものがほしくなるのだ」という真実をよく理解することが大切です。


(参考 『白砂糖の害は恐ろしい』甲田光雄著 人間医学社発行) 



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饅頭怖い  その3

饅頭怖い  その3

別の角度から甘いもの(糖類)について考えてみましょう。

マクロビオティックの創始者である桜沢如一先生の陰陽理論によれば、糖類は強陰性ということです。

身体は基本的に中性になっているのが望ましいと言われます。

その意味から、アフリカの熱帯地方の気候は強陽性ですから、その地方に生息しているサルや類人猿が果物に含まれる強陰性である糖分を欲しがるのはとても理にかなっています。

インドの暑い気候(強陽性)と香辛料たっぷりのカレー(強陰性)、夏(陽性)に食べるトマト(陰性)が美味しいわけも同じようにうなづけます。

ですから、秋にナスを食べたり、冬にトマトを食べるのがどれほど身体に悪いか、おわかりでしょう。

つまり、その季節季節にその地方で、ハウスではなく、自然に戸外で採れたものを食べるのが一番自然だし、それが身体にもっとも合うという真実によってこの陰陽理論の正しさを証明することができるのです。

というわけで、強陰性の糖分をしょっちゅう摂っているとどうなるでしょうか?

当然、身体のなかからそれを中和したいという要求が起きてきます。

つまり、強陰性の糖分を摂取すると強陽性の食べ物がほしくなってくるのです。それはなんでしょうか?

肉です。

ところが、この肉食が白砂糖や過食と並んで“万病の元”と言われるほど身体には問題となっているのです。

いずれにしても、逆に、強陽性の肉を食べると強陰性の糖分がほしくなってきます。欧米人の食生活を見ているとまったくそのとおりです。

でも、互いに中和しているからいいではないかと思うかもしれませんが、強陽性の食べ物と強陰性食べ物で中和するというのは身体にとってはとても酷です。

短期的に、また、長期的にいろいろな不具合が生じてきます。

ですから、日ごろから中性の食べ物を主食としているのが一番いいということです。

では、主食になりうるもので中性のものというと何でしょうか?

もっとも代表的なものは玄米です。

精製した白米よりも、ミネラルその他の栄養素をたっぷり含んだ玄米がいいのです。

玄米は中性ですから、それ以上中和しなければならないという必要性がありません。

そのために、玄米に生野菜という中性の食物を主体にした食生活をしていれば、強陽性の肉も強陰性の甘いものも食べたいという身体のなかからの要求は生じません。

玄米はそれだけでもほぼ完璧な食物ですが、白米は糠を取り除いて精製してあるために栄養素が欠落しています。

そのために、どうしても生野菜だけでは物足りなくて、足りない栄養素を補充するために肉や赤身の魚など、しかも、それを砂糖や塩などの調味料やスープなどで濃厚な味にして食べたくなります。

そうすると、あれも食べ、これも食べなければとなり、必然的に食べすぎにもなってしまいます。

このようにして、素材そのものの本来の良さを生かした食生活からだんだん逸れ、本来の食生活を見失いなっては本末転倒だと思うのです。




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饅頭怖い  その2

饅頭怖い  その2

甘いもの、とくに白砂糖の害については、あとで具体的に書くつもりですが、「甘いのものは万病の元」と言っても決して言いすぎではありません。

それだけに、甘いものが大好きな人がとても多いという事実は本当に困ったことです。

「なぜ甘いものがほしくなるか?」という原因は、前回のブログに書きましたように、糖分が即効的にエネルギー源として働くからです。

でも、それだけではなく、もう一つ大きな原因があるのです。

それは「甘いものは依存性(的なもの)」があるということです。

簡単に言えば、「甘いものを食べると、しばらくするとまた甘いものを食べたくなる」ということです。

科学的には、「甘いものにタバコや麻薬のような依存性があるかどうか?」ということについては、イエスともノーともはっきり結論が出ているとは言えないようです。

でも、自分自身を含めて多くの方々を観察して思うことは、甘いものにはたしかに“依存性的なもの”があると言えると思います。

少し科学的に説明してみましょう。

甘いものを食べると急激に血中の糖分が増えます。

血中に糖分が増えることはエネルギー源が身体に入ってきたということで、身体は喜びます。

そのため、甘いものを食べるたびに、味覚は「甘い! 美味しい!」と反応します。

そのたびにその感覚が潜在意識に刻まれていきます。

このようにして、たびたび甘いものを食べていると、その結果、私たちの身体は、いつも血中に高濃度の糖分があるといろいろな不具合が生じてくるにもかかわらず、もし、なければ何か物足りないと感じる身体になってしまいます。

それで、甘いものを食べると血中の糖分濃度が高くなり、ホッとするのですが、糖分が各細胞に送られ分解されてエネルギーとして消費され、血中の糖分濃度が低くなると、身体は何か物足りないと感じるようになります。

そこで、甘いものを食べると一気に糖分濃度が高くなり、「美味しい!」と思うと同時に満たされた感じになります。

でも、しばらくすると、糖分が分解されて、また落ち着かなくなり、その結果また甘いものが欲しくなります。

このように見てくると、甘いもののメカニズムは、スモーカーがなぜタバコを吸うとホッとするのか、なぜ、しばらくすると、再び吸いたくなるのか、というメカニズムによく似ていることにお気づきだと思います。

ノンスモーカーはタバコを吸わなくてもまったく平気です。一方、スモーカーはタバコを吸わずにはいられません。

要するに、タバコはもともと吸わなければ、吸いたくはならないということです。

それと同じように、甘いものはもともと習慣的に食べなければ、とくに食べたくはならないのです。

甘いものはもともと日常的に必要なものではなかったという真実を知れば、甘いものをやめるのは簡単です。

もともと必要なものではないのですから、やめるのになんのガマンも必要ありません。

ただ、やめればいいのです。それで終わりです。




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饅頭怖い  その1

饅頭怖い  その1

私たち人間の先祖はアフリカの熱帯地方の森林地帯に住んでいたサル、あるいは、類人猿だそうです。

彼らは何百万年、何千万年もの間、森林の樹上生活に適応して生きていました。

ところが、彼らは何十万年か前に気候変動により樹上生活を捨てて、地上で生きていかざるをえなくなりました。

そのために二足歩行が発達し、道具を使うようになり、それに伴ない大脳が急激に発達し、いろいろな人工物を作るようになりました。

こうして、他の動物には見られない人類独特の“文明”を生み出し、それが次々に発展して現代に至っています。

けれども、文明が発達するにつれて、人間の生活はますます自然の法則から逸脱する方向に向かっています。

けれども、身体に関して言えば、私たち現代人の身体も類人猿時代の身体とほとんど変ってはいません。

ですから、「私たち人間にとってもっとも適した食べ物は何か?」ということを知るためには野生のサルや類人猿がどのようなものを食べているのかを調べればいいということになります。

さて、サルや類人猿にとってもっとも手に入りやすくて安全な食べ物は、果物や木の実、あるいは木の葉のようなものです。

熱帯地方に非常に多くあるのが果物です。

果物は樹上にあり、いい匂いがして、甘くて美味しくて、冷たい水分を沢山含んでいます。

いちいち水を飲みに行かなくてもいいのです。

人間にとっていい匂いがするということは、それが人間に適していると本能が知らせてくれているんです。

このように、果物は人間にとっていい条件をいろいろ兼ね備えているんです。

ところで、砂糖はどうでしょうか? なぜ私たちは砂糖に惹かれるのかでしょうか?

それは糖分が体内ですぐにエネルギー源になるからです。

ほとんど即効ですから、身体が一瞬大喜びするのです。

でも、それだけに逆に身体にとってはとても危険だし、酷だということです。

自然の動物は何かの成分を単体として取るということはないのです。

塩分にしても、海水はいろんな他のミネラルが混じっています。

白砂糖のように一つの成分に濃縮・精製されたものは、本来、自然界には存在しません。ですから、人間の体にとって非常に酷なのです。

糖分そのものを摂るのなら、精製された白砂糖よりは各種のミネラルやビタミンを含んだ黒砂糖のほうがよいのです。

あるいは、フルーツやハチミツでもいいのです。

これらのものには糖分のほかにミネラルやビタミン類が含まれているからです。

でも、「ストレス解消のために」などと言って食べ過ぎると糖分過剰になりますので気を付けましましょう。

山登りなどで、体力が消耗した場合などは別として、普段の日常の生活で糖分を摂りたければ、一番いいのは炭水化物を摂ることです。

なぜなら、炭水化物はゆっくりと消化されるので、少しずつ糖分に分解され、エネルギーが必要に応じて身体に負担にならないように優しく供給されるからです。




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野生の動物に学ぶ

野生の動物に学ぶ

一体どういう食べ物が人間にとって健康的だと言えるのでしょうか?

その答えを知っていのは栄養学の先生やお医者さんでしょうか?

でも、野生の動物は栄養学の知識がなくても、食べ過ぎるということがありません。

したがって肥満した動物というのもいないし、慢性病に罹るということもほとんどありません。

たとえば、リスはある量まで食べると、余ったものは穴を掘って埋めてしまいます。

でも、人間は食べ続けるんですね。

どうしてこのような違いがあるのでしょうか?

リスは栄養学を知らなくても、もっとも自分の体に合った食べ物を適量だけ食べています。

本当に人間には栄養学が必要なのでしょうか?

人間が何をどれだけ食べたらいいのか一番よく知っているのは誰でしょうか。

コンピユーターを作り出したのは人間ですが、その修理を出来るのはコンビユーターを作り出した人間だけです。

私たち人間を創ったのは大自然です。

ということは、栄養学の先生なんかに訊くよりも、大自然に直接訊くのがもっともいいということです。

実は、大自然は常に私たちに教えてくれているのです。

では、どうしたらそれを知ることができるのでしょうか?

野生の動物は本能で大自然が教えてくれていることを読み取れるのです。

動物はその本能に従って食べています。

人間だけが栄養学や気分に惑わされて、大自然の教えである本能に逆らって食べているからおかしくなっているのです。

人間も本能に従って食べればいいのです。

ところが、人間は発達した大脳の働きによってあまりにもアタマ偏重になったために、本能から流れ出てくる野生的な感覚が狂ってしまっています。

でも、狂っていることが判るのも大脳の理性的な判断によるのです。

だから、理性を上手に使うことです。

一番いいのは、自然の動物がどうしているのかを調べていくことでしょう。

大自然は人間にとって良い食べ物と悪い食べ物を見分けるための感覚、見分けるための手段を用意してくれているはずです。

それはまず味覚です。

人間が生でそのまま食べてみて、「美味しい」と思う食べ物は人間にとって良い食べ物ということです。

美味しくないものは人間にとってよくない食べ物です。

例えば、肉をそのまま何の味付けもなしに食べてみて下さい。

とても不味いはずです。そもそも、ナイフで切っていない生の肉はとても固いので、人間の歯で食い千切ることも大変です。

私たち人間の歯は臼歯や門歯が発達しており、草食動物にしか見られない歯の並び方をしています。

また、肉食動物の腸は短かく草食動物の腸は長いのですが、人間の腸は長いほうに属しています。

このように、肉は人間にはまったく適していないのです。

たとえば、フランス料理などでは、火を加えて柔らかくして、調味料や野菜や果物から作ったドレッシングなどで、生の肉のまずい味をいかにもおいしそうに“ごまかして”います。(皮肉っぽい言い方ですが、それが事実です。)

でも、生肉そのものはあいかわらず非常に不味いのです。

つまり、人聞が火を加えたり加工したり調理をしなければ食べられない食べ物は、すべて人間にとって好い食べ物とは言えないということです。




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医食同源

医食同源

「食は命なり。食間違えば病発す。食正しければ病治す。即ちこれ医食同源なり。」

これは中国の古い思想に基づく格言です。

僕の辞書では、「医食同源」とは「病気を治すのも食事をするのも生命を養い健康を保つために欠くことのできないもので、源は同じだということ」となっています。

江戸中期の観相家(人相見)である水野南北も「食は命なり」と喝破しています。

また、「食は命なり」の変わりに「食は医なり」と言う場合もあります。

その意味は、「正しい食生活=健康な生活」ということです。

いずれにしても、私たちが健康を維持するうえで、これらの言葉ほど真髄をついたものは他にはありません。

ところが、多くの人達は「何かの原因で運悪く病気になったとしても、病院に行って、薬や注射や手術などでお医者さんに治してもらえばよいのだ」と思い込んでいます。

これは意図的、あるいは、非意図的な社会的洗脳によるもので、根本的に間違った考えです。

というのは、病気になるのには原因があるのであり、その原因を突き止め、その原因そのものを取り除かなければ、本当に病気が治ったとは言えないからです。

仮に、治ったように見えても、病気の根本原因そのものは取り除かれていないので、いずれ再発したり、他のより深刻な病気に罹る可能性が大きいからです。

では、病気になる根本原因は何なのでしょうか?

それは、個々の病気によって異なると思われるかもしれませんが、共通した根本原因は間違った生活習慣や食生活であると言えましょう。

間違った生活習慣とは、たとえば、運動不足や仕事で長時間パソコンの画面ばかり見ているというような偏った体の使い方、あるいは、厚着などなどです。

私たち人間は、少なくとも、身体に関して言えば、チンパンジーやゴリラなどの類人猿の身体とたいして差があるわけではありません。

ですから、大自然に生きる彼らの生活や身体の使い方を想像すれば、私たちの身体にあう生活習慣が本来どのようなものであるかは、誰にでも容易に理解することができるはずです。

もっとも大切なことは、それを日常の生活のなかで工夫して実行できるようにすることです。

このように、間違った生活習慣を正すことは大切ですが、それ以上に、間違った食生活はいろいろな病気のより直接的な原因となっています。

したがって、健康を維持するために、あるいは、病気を治すためには、その病気がどういうものであろうと、もっとも大切なことはまず正しい食生活を守り実行することです。

基本は少食です。

間食を止め、朝食抜きが実践できるようになれば、大きく健康に近づくことができるでしょう。

そして、肉や乳製品、白砂糖を使ったものをなるべく食べないようにすることです。

それと同時に、野口整体の活元運動や愉気や行気法などを実践して、私たちの身体にもともと備わっている健康維持機能をより活発にしていければとてもよいと思います。




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