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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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赤十字国家を国是に

赤十字国家を国是に

僕は22歳の時に小田原「はじめ塾」の和田重正先生にお会いして、その人格はもちろん、その人生観と世界観に強く惹かれました。

中でも、先生が御著書おいて提案された「現行日本国憲法の前文と9条の精神を生かして、日本が平和的な手段により、世界の貧困、飢餓、環境問題などの解決に国力を挙げて貢献することによって、日本を守り発展させていこう」という提案にこころより感動しました。

その後、長野県佐久の小林多津衛先生が御著書において、「赤十字国家を国是に」という提案をされていることを知りました。

期せずして、両先生のお考えはまったく同じでした。

僕は、あらためてこの考え方の方向でしか日本、そして世界が救われる道はないと確信しました。

そして、この考え方を広く世に伝えていくことを一生の”仕事”としようと決意し、今日まで微力ながらそれだけをやって生きてきました。

おかげ様で、2007年には『国の理想と憲法ーー国際環境平和国家への道』を七つ森書館より上梓することができました。

和田先生も小林先生もすでに亡くなられてかなり年月が経ちますが、お二人の精神はまだまだいろいろな方々の中において生き生きと生き続けています。

今年の8月には、多津衛民芸館長の吉川徹先生や版画家の森貘郎先生のご尽力により、『石より堅い9条があるーー小林多津衛の赤十字国家論』 (文/小林多津衛 版画/森貘郎)という本が川辺書林より出版されました。

森先生の版画もとても素敵ですし、多津衛先生のご提案もあらためて読んでみて、本当に素晴らしいとこころから感動しました。

憲法の前文にこそすべての鍵があるのです。

現在と未来の日本と世界にとってなくてはならない本です。

どうかできるだけ多くの方に読んでいただきたいと思います。


以下は多津衛先生のご提案の要旨です。


世界恒久平和の道を切り開くのに、世界中で最も適した国は日本であると私は考えます。

1 日本は世界の恒久平和を念願する憲法前文と、非戦を誓っている第9条を持っている世界唯一の国です。

2 日本は世界唯一の被爆国で、核の悲惨と危険を国民が肌身に感じている国です。

3 日本は医学・農学・工業等学術程度が高く、世界に寄与できる実力を持っている国であり、芸術・宗教等の文化面でも世界に貢献し得る国です。

4 日本は経済力でも世界に貢献できる実力を持っている国です。

このような条件を備えている国は世界には無く、天は日本に世界の平和と人類の生存に立ち上がれと言っているようにみえます。(小林多津衛)


小林多津衛先生の略歴

  明治29年、長野県北佐久郡協和村(現佐久市)生まれ。
  大正7年長野県師範学校卒業。
  県下各地で教職を務める。
  柳宗悦に師事して民芸研究に携る。
  著書『善意を世界にーー平和実現の具体化へ』など。
  平成13年104歳で没。

『石より堅い9条がある』 定価1080円(税込)
  ISBN978-4-906529-80-3 C0031 ¥1000E

取扱店 地方小出版 流通センター

川辺書林
  〒380-0928
  長野市若里5-8-18
  Tel 026 (225) 1561
Fax 026(225) 1562


アマゾンなどからも購入できますが、直接出版社に連絡する方が早いと思います。



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当たり前が素晴らしい

当たり前が素晴らしい

まだ若かった時、僕はいつも未来に何かを求めて生きていました。

高校に入った後、家が非常に貧しかったことから、生きていく上での主な関心は学校でできるだけよい成績を上げて、できるだけよいところに就職しようと思っていました。

ところが、20歳半ばのある日、突然、「自分はこの人生においてどう生きればよいのか?」という根本的な疑問にぶち当たってしまいました。

その答えを求めに求めたのですが、何年経っても埒(らち)が開きません。

そして、ある日とうとうトコトン行き詰って絶体絶命の状況に陥ってしまいました。

ところが、「もうだめだ」と思った瞬間、奇跡が起きたのです。

その奇跡とは、その瞬間、「未来に何かを求める」という意識がガサッと脱落するとともに、「他と分離した自分」という意識が脱落てしまったのです。

そうして、周りを見回してみると、すべてが「自分」です。

寒い灰色の冬空も、弱々しくしく照っている太陽も、木々にわずかに残っている木の葉も、それを揺らしている冷たい風も、キーッという鋭い鳥の鳴き声も、向こうからイヌを散歩させながら歩いてくる中年の男の人も、急ぎ足で歩き去って行く若い女の子も、通りの向こうの建物も、どこからか聞こえてくる自動車の音も、この体も、この体を暖かく包んでいるコートも、呼吸も、すべてが「自分」です。

すべてがただ当たり前にそこにあり、ただ当たり前に起きています。

そこには親愛の情と安らぎと、同時に躍動するエネルギーがあります。

そのとき僕はこころの底から「本当の自由と幸福が何であるか」が分かったのです。

家に帰り,自分の部屋に入ると机とイスがあります。

でも、その机とイスも他のものもすべて僕は今はじめて見ています。

“いのち“の世界ではすべてが一瞬一瞬において新しく生まれるのです。

あるがままですべて完結しています。

欠けているものなんか一つもありません。

もともと、そうだったのであり、何も求める必要はなかったのです。

「自分は他と分離した存在だ」と思い込んでいたために、いつも「自分には何かが欠けている」と思って生きてきたのです。


そう思うからこそ、いつも「いま自分の欠けているものを何かで満たさなければならない」と思い、“いまここ”にくつろぐことなく、いつもいつも 未来にその何かを求め続けてきたのです。

でも、何かが手に入って、「これで自分は満たされるはずだ」と思っても、それで満たされることは一度もありませんでした。

真実は、“いまここ”に展開する当たり前のことこそが“いのち“の躍動そのものであり、驚異と思えるほど素晴らしいものだったのです。

「何かを求めなければならない」と思って、“いまここ”の当たり前のことをアタマを通して見ると、実に、陳腐でツマラナイものに見えます。

でも、何も求めることなく、“いまここ”にくつろいでいると、もともと、みんな輝いていることが分かるでしょう。




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自分とは何かを考える

自分とは何かを考える


これまで、自分とは何か?ということはアタマでどこまで考えても単なる理屈にすぎなく、どうしてもその実体を直接体験的に捉えなければならないと繰り返し言ってきました。

その通りなのですが、ここでは、あえてアタマの理屈で考えてみたらどうなるかということを書いてみたいと思います。

例えば、何かの拍子に足の脛(すね)を何か固いものに強くぶつけたような時には、もうとにかく「イタイ、イタイ」で他には何もありません。

「自分が痛がっている」とも思わず、自分というものを意識もしません。

同じように、瞑想が深まると、思いが静まり、自分というものを意識しなくなります。

では、本来、自分というものはないのでしょうか?

ところが、痛みが治まってくると、「自分が痛がっている」と思うようになり、自分というものを意識します。

また、瞑想が終わり、日常の精神レベルに戻って、アタマが活発に働きはじめると、同じように自分というものを意識するようになります。

では、やはり、自分というものはあるのでしょうか?

でも、そういうふうに、「自分というものを意識するかどうかで、自分というものがあるかどうかが決まる」というのも変だと思いませんか?

人に「自分とは何ですか?」と尋ねると、ある方は「この体だ」、ある方は「この心だ」と答え、またある方は「この体と心だ」と答えます。

でも、「どうしてそう言えるのですか?」と尋ねると、結局は、「そう思うからだ」という答えがほとんどです。

でも、それはアタマによって、体や心、あるいは、体と心が合わさった何かに「自分」というラベルを貼り付けただけです。

そのように言うと、「では、結局、そのように思っているアタマこそが自分だ」と答えます。

結局、いろいろと思っているアタマ、あるいは、その思いが自分だというのです。

中には、そのアタマは体の一部でもあるから、結局は、この体と心が自分だという方も多いのです。

この体も心も、あるいは、アタマも活動しているのは事実ですが、あえそれを自分だとするのも「アタマの思い」です。

ということは、やはり、このように考える力を持っているアタマが自分ということでしょうか?

何だか堂々巡りの思考になってきましたね。

でも、本当は簡単なことなのです。

この体にしてもアタマにしても、最初から存在して、それ自身だけ働いていたわけではありません。

何かの力によって生み出され、その力によって働いています。

ですから、結局は、この体やアタマを生み出し、それを働かせている力こそが自分の”主人公”、つまり本当の自分だということになります。

この体やアタマを生み出し、それらに働いている力は、同時に、庭の松の木、そこを歩いているネコ、空の流れる雲、優しく吹いている風など、この大宇宙のすべてを生み出し、すべてに働いています。

真実は、すべてが同じ一つの“いのち“です。

つまり、自分は“いのち“であり、すべてが自分なのです。




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アタマの牢獄

アタマの牢獄

「アタマの牢獄」というのは、「妄想で作り出された牢獄」という意味です。

僕の若いときのことを思い出してみると、まさに「アタマの牢獄」に囚われていたと思います。

それで結局死を予感するほどトコトン行き詰ってしまったのです。

まさに「終わりだな」と思った瞬間、「どんなに脱出しようともがいても脱出できない絶対的に堅固な牢獄」と思っていたものが、幻(イルージョン)に過ぎなかったことに奇跡的に気がついたのです。

その真実気がついたときには、すでに完全に自由で幸福な人間になっている自分自身を見出しました。

とういうか、真実は、もともと僕は完全に自由で幸福な人間だったのです。

アタマの妄想が消えてしまったおかげで、もともとそうであったその真実に気がついただけで、人様に自慢するようなことでもありません。

ただ、僕は今でも奇跡としか思えないような何かのハタラキによって自分が救われたのだと、思っています。

それ以来、僕はどんなときにも、何があっても、いつも自由で幸福に生きてきました。

人様は僕のことをどのように思われるかはわかりませんが、僕自身は本当にありがたいことだと思っています。

それはともかく、その後多くの方々を観察していて思うのは、この世界のほとんどの方がかつての僕自身と同じように、「アタマの牢獄」に囚われて生きているということです。

しかも、ほとんどの方がその事実に気がついてもいないのです。

つまり、「アタマの牢獄」に囚われて生きていながら、「そこが世界そのものであり、この世界はまさに牢獄のようなものだ」と思っているのです。

違います。真実は、この世界はそんなものではありません。

この世界は一元絶対の世界ですが、私たちのアタマは二元相対的に捉え思考することしかできません。

事実というものはすべて分別以前にただ存在しています。

あらゆる人間的な観念や価値観以前、あるいは、それらを超越していると言ってもよいでしょう。

ところが、アタマの二元相対的思考によって、分別以前の事実が、例えば、良いと悪い、愛と憎しみ、金持ちと貧乏、美と醜、聖と俗などと分別されてしまうのです。

ですから、私たちがアタマで捉えたこの真実の世界の像は全体のごく一面でしかありません。

さらに、それを限界のあるアタマで解釈し判断するところから、多くの間違いが生じる可能性があるのです。

いろいろな個人的な苦しみや悩み、社会的な混乱はそこから生じています。

ですから、まずは自分自身が本当はいつも真実の世界にいるにもかかわらず、「アタマの牢獄」に囚われているということ、そして、「アタマの牢獄」は妄想にすぎないということを知的に理解することが大切です。

そのうえで、できれば毎日、瞑想の自然法などによって、アタマの思いを手放しにして、ただ坐ることです。

そうすることによって、もともと自分というのは自由で幸福な存在なのだという事実を見出すことができるでしょう。



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立つときは立つっきり

立つときは立つっきり

ちょっと眼を閉じて静かにしてみましょう。

呼吸しています。

心臓が鼓動してます。

いろいろな音がしています。

いろいろな思いが次々と現われては消えます。

いろいろな体の感覚があります。

などなど。

これが“いまここ”に起きているあるがままの事実の世界です。

それが存在の真実のすべてです。

では、そこに事実の世界を経験している”存在の真実と切り離された自分“という実体はあるでしょうか?

もう少し厳密に質問しましょう。

ここに“自分“という実体があって、その“自分“が事実の世界を体験しているのでしょうか?

それとも、ただ、事実の世界が展開して、いろいろな事実が起きているだけなのでしょうか?

事実の世界を見ているもの、聴いているもの、味わっているもの、触っているもの、感じているものがいるのでしょうか?

それとも、事実の世界を見ること、聴くこと、味わうこと、触ること、感じることがただ起こっているのでしょうか?

まさに、これがポイントです。徹底的に検べましょう。

立つときは“自分“が立つのですか?

たしかに、この体が立つわけですが、そこに“自分“がいるのですか?

事実は、立つときは、ただ、立つっきりです。

坐るときは、ただ、坐るっきりです。

歩くときは、ただ、歩くっきりです。

「“自分“が立つ、坐る、歩く」と思っているのは、幻想であり、夢です。

要するに、アタマで作り出した“物語”に過ぎません。

昔、テレビドラマのなかで、偉そうなお坊さんが次のように言っている場面がありました。

「あるがままの事実が悟りじゃよ。ただコレコレ。」

ドラマのなかのセリフだから、どうでもいいのですが、もし、真剣に生き方を模索しているときに、実際に、偉そうなお坊さんからそのように言われたとしたら、あなたはどう思いますか?

お坊さんの言葉自体は「正しい」のですが、問題は、他から切り離された“自分“がいるという思い込みがあるかどうかということです。

「あるがままの事実が悟りだ」と思っていても、他から切り離された“自分“がいるという思いがあれば、その人はまったく存在の真実を悟ってなんかいないのです。

ほとんどの方は、“自分“という意識というか、アタマで作り上げた“自分“というものが、“自分“ではないこの事実の世界を見ていると思い込んでいます。

ですから、いつもいつもこの“自分“を何とかしなければいけないと思いながら生きています。

いつもバラバラ観のなかで生きているので、日ごろはそれほど強く意識しないかもしれなくても、何かの際には対立感、競争意識、優劣感などを強く持っている“自分“に気がつきます。

その一方で、ふと、たまらなく深い孤独を感じたりするのです。

“自分“という、思い、あるいは、“物語”が脱落すると、この世界のすべてが自分となります。

バラバラ感がなくなり、すべてが愛おしくなります。

それが真実の自己であり、真実の悟りです。




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本当のあなた その2

本当のあなた その2


あなたは誰ですか?

あなたは家の外でしている音ですか?

違いますね。

なぜなら、あなたがその音を聴いているのですから、あなたとその音は別々のものです。

では、あなたはからだの感覚ですか?

違います。なぜなら、あなたがその感覚を感じているのですから、あなたとからだの感覚は別々のものです。

あなたは空に浮かんでいる雲ですか?

違います。なぜなら、あなたがその雲を見ているのですから、あなたと雲は別々のものです。

あなたは食べている魚ですか?


違います。なぜなら、あなたがその魚を食べているのですから、あなたと魚は別々のものです。

あなたは触っているパソコンですか?

違います。なぜなら、あなたがそのパソコンを触っているのですから、あなたとパソコンは別々のものです。

あなたは浮かんできた思いですか?

違います。なぜなら、あなたがその思いを意識しているのですから、あなたと思いは別々のものです。

ですから、あなたは音でも匂いでも思いでもからだの感覚でも魚でもパソコンでも、何でもありません。

でも、だからこそ、あなたは音であり、匂いであり、思いであり、からだの感覚であり、魚であり、パソコンであり、すべてであるのです。

なぜならば、

この世界に存在するものはすべて現われては、また消えてゆきます。

あなたはそれをそれらの奥にあって、すべてをただじっと優しく包んで見ています。

あなたはその他のすべてのように現われもせず消えもしません。ずっと存在しています。

あなたは何ものによっても影響を受けることもありません。

すべてが現われては消えてゆくのをただ静かに受け止めています。

どこまでも静寂で透明であり、どこまでも開けていて、どこまでも自由であり、平和そのものです。

あなたは大小を超越した完全に静寂で透明なスペースであり、そのなかであらゆるものがただ現われては消えていきます。

でも、それも人間の二元相対的な見方でしかありません。

真実は、あなたであるスペースとそのなかに現れては消えるすべてのものは同じものなのです。


あなたは静寂で透明なスペースです。

あなたのなかにすべてが存在してます。

あなたはすべてであり、同時に何ものでもありません。


でも、決してアタマで理解しようとしないでください。

事実を見れば、誰にでも容易に分かります。

ただし、先入観や固定観念に捉われないで、赤子のような気持ちで素直に事実をみることが絶対条件です。

そのためにも、僕がいつも推奨する瞑想の自然法や自観法などの瞑想法をできるだけ毎日実践していただきたいのです。

アタマでは存在の真実を捉えることはできません。

このブログに書いていることも月を指差す指にすぎません。


いま小鳥が鳴いています。

それをあなたが聴いています。


“いのち“が小鳥になって鳴いています。

“いのち“があなたになって聴いています。


あなたが小鳥になって鳴いています。

小鳥があなたになって聴いています。


事実は、小鳥もあなたもいません。

あるのはただ「チッ、チッ」という音だけです。





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本当のあなた その1

本当のあなた その1

“いまここ”にいろいろな音が現われては、また消えます。

あなたは何もする必要はありません。

“いまここ”に音がただ現われては、また消えます。

音は努力もなしに自発的に現われては、また消えます。

空の雲、風、音、匂い、思い、からだの感覚などなど、すべてがただ現われては、また消えます。

花、草、木などの植物、犬やネコ、鳥、人間などの動物、山、川、大地、海、星、太陽、月など宇宙のすべてただ現われては、また消えます。

いや、宇宙そのものも、ただ現われて、また消えてゆくのでしょう。

この世界はまさに“いのち“の世界であり、すべてが“いまここ”において、ただ起きています。

“いまここ”以外の時や空間で起きていることはありますか?

“いまここ”の他に何がかがありますか?

”昨日”は本当にありますか?

”明日”は本当にありますか?

”昨日”も”明日”も“いまここ”のアタマのなかにあるのです。

“いまここ”しかない。これが事実であり、これ以外の真実はありません。

でも、アタマで理解しようとしないで、ただ、その事実をすっきりと受け止めましょう。

ところで、瞑想の自然法や自観法をやっていると、“いまここ”において、現われては、また消えてゆく思いやからだの感覚や音など、起きているすべてを、それらのずっと奥のほうで、じっと優しく見ている何かがあることに気がつくのではないでしょうか?

でも、それは”何かあるもの”として「現われては、また消えてゆく」ものいうものではありません。

なぜなら、それ自体は「現われては、また消えてゆく」ものの奥にずっとあり続けているものであり、「現われては、また消えてゆく」ものではないからです。

その”何かあるもの”とも言えないものは、そこには時も空間もなく、何の因果関係も成り立ちません。

また、“自分“や“自分“の人生や“自分“の問題や精神的な探求などという思いで作り上げた “物語”とはまったく関係はありません。

”過去や未来”という“物語”、あるいは、幻想を超越し、“自分“、あるいは、”あなた”からも超越しています。

なぜなら、“自分“、あるいは、”あなた”も実体のあるものでなく、アタマで作り上げた“物語”にすぎないからです。

それは、あえて言えば、「ソレ」としか言えません。

ソレこそ唯一の実体であり、ソレはあらゆるものを超越し、何ものにも傷つけられることはありません。

ソレこそ世界のすべてのものの根源である“いのち“そのものです。

そして、ソレによってこそ、この世界のすべてのものはただ現われては、また消えるのです。

そして、ソレこそが自己の正体、つまり、真の自己なのです。

音、雲、自動車、木、人、匂い、味、からだの感覚、思い、痛み、からだそのものなど、すべてが現われては消えます。

そして、”現われては消えるすべてのもの”のずっと奥に”現われては消えない何か”があるのです。

それが本当のあなたです。


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内側か? 外側か?

内側か? 外側か?

いま小鳥がさえずっています。

小鳥は内側でさえずっているのでしょうか? それとも、外側でさえずっているのでしょうか?

変な質問と思うかもしれませんが、もし、このように質問されたらあなたはどう思いますか?

ほとんどの方は「内側、外側と言うけど、何の内側、外側と訊いているのだろう?」と思うのではないのでしょうか?

でも、僕の質問は相変わらず変りません。

「小鳥は内側でさえずっているのでしょうか? それとも、外側でさえずっているのでしょうか?」ということです。

きっと、みなさんはどう考えてよいのかますます途惑ってしまうことでしょうね。

では、もし「小鳥は体の内側でさえずっているのでしょうか? それとも、体の外側でさえずっているのでしょうか?」と尋ねれば、あなたは「それは体の外側だ」と答えるでしょう。

それでは「小鳥は自分の内側でさえずっているのでしょうか? それとも、自分の外側でさえずっているのでしょうか?」と尋ねれば、あなたの答えはどうでしょうか?

もし、あなたが「この体とこころが自分だ」と思っていれば、「それは自分の外側だ」と答えるでしょう。

でも、もし、あなたが「この体とこころが自分だ」と思っていなければ、「うーん。よくわからないなあ」と思うかもしれませんね。

ここで問題が二つあります。

一つは、「そもそも事実の世界に”内側・外側”というものがあるのか?」ということです。

でも、もし、あなたが「”内側・外側”というのは何かあるものの内側・外側ということだ。だから、例えば”体の内側・外側”というものはある」などと考えるなら、それは観念、あるいは、思い込みに過ぎず、事実ではありません。

つまり、事実の世界のなかにはどんな”内側・外側”もないのです。

それは事実の世界にはいかなる境い目もないということと同じです。

もし、境い目があると言うのであれば、それはアタマで勝手にそう思っているだけで、事実としてはどんな境い目も存在しません。

もう一つは、「この体とこころが自分なのか?」ということです。

もし、「この体とこころが自分である」と言うのならば、それもアタマで勝手にそう思っているだけで、観念、あるいは、思い込みに過ぎず、事実ではありません。

この社会では“自分“という言葉は、通常、「他から分離したもの」という意味で使われますが、真実は、事実の世界のなかには“自分“というものは存在しないのです。

この事実を徹見すべきです。

多くの方が、「ここに“自分“がいて、その外側に“自分“以外のものがある。”自分”は他から分離している」と思うために、いつも「“自分“には足りないものがある」と感じています。

そして、いつも“自分“を満たすものを未来や外に求めようとして、本来の我が家である“いまここ”に落ち着くことができないでいます。

そのために、逆に常に満たされないので、“自分“だけでなく、”他”をも苦しめながら生きているのです。




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存在の真実の不思議   その2

存在の真実の不思議   その2

今朝眼が覚めたのはまだ夜が明けない前でした。

そこで、いつものように思いを手放しにして、ただ静かに横になっていました。

そうしていると、心臓の鼓動や呼吸などいろいろな体の感覚を感じます。

しばらくすると、まだ暗いのに、「チッ、チッ」と小鳥が鳴き始めました。

その後、少しずついろいろな鳥が鳴き始めました。

気がつくと、外がカーテンを通してうっすらと白くなっていました。

しばらくして、完全に白くなりました。夜が明けたのです。

起き上がって着替えたあと、外に出てみると、東の空にはすでに太陽が昇っています。

青い空には白い雲がいくつも浮かんでいます。

森の中ではいろいろいろな鳥が鳴いています。

どこからかニワトリの鳴声が聞こえます。

畑の草は露に濡れてキラキラ光っています。

遠くから自動車の「ウーッ」という低い音が聞こえてきます。

風が木々の葉っぱを揺らして吹いています。

セミが鳴き始めます。

空を見上げるとカラスがどこかに飛んで行きます。

庭にはいろいろな花が咲き誇っています。

太陽はどんどん昇り、それにつれて気温もすこしづつ上がっていきます。

午後になって日向に出ると、太陽がカンカンに照っています。

でも、時々そこに爽やかな風が吹いてきます。

空には「モクモク」といくつもの入道雲が見えます。

遠くで「ゴロゴロ」という雷の音が聞こえます。

夕方になり、雷の音のなかで夕立が降り始め、雨が地面を激しく叩きます。

そのうちに雷も夕立も止み、日が暮れてきます。

暗くなって、ふと気がつくと、遠くで花火が上がっています。

一つ花火が上がると、そのたびにかなり遅れて「ドーン」という音が聞こえてきます。

やがて、花火も終わり、夜の静けさのなかで、我が家のネコの「ニャーン」という鳴声が聞こえます。

ふと気がつくと、森の木々の間に月が顔を見せています。


以上は存在の一断面にすぎませんが、私たちはこの天地のすべての存在とハタラキの奥の奥に、眼には見えませんが、すべてを産み、はぐくみ、いつくしんでいる“いのち“をたしかに視ることができます。

まさに、この世界“はいのち“の世界なのです。

すべてが“いのち“であり、“いまここ”において”生死”という表面的な現象を超えて生き続けています。

それは自然のなかにあるものだけではありません。

テーブルやイスやテレビなど、私たち人間が創り出したものも“いのち“であり、生き生きと生きています。

星、太陽、月、空、雲、雨、雪、霧、露、水、風、氷、川、海、山、丘、平野、畑、田んぼ、あぜ道、森、林、草原、草、花、野菜などの植物も、トリ、ネコ、イヌ、虫などの動物も、細菌、酵母などの微生物も、テーブル、イス、テレビ、自動車、家、心臓の鼓動、呼吸、血液の循環、内臓、手、足、アタマの思い、感情などなど。

すべてが同じ一つの“いのち“であり、みんな生き生きと生きています。



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