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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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“いのち“にミスはない

“いのち“にミスはない

「もはや我生くるにあらず。キリスト我が内に在りて生きるなり。」

これは新約聖書の『ガラテヤの信徒への手紙 2.20』に出てくるパウロの言葉です。

僕はキリスト教徒ではありませんが、存在の真実について僕が言いたいことはこの言葉に尽きます。

パウロの言葉を僕なりに解説すれば、次のようになります。

ご承知のとおり、キリストはこの世界を創り、常にこの世界に働きかけている全能の神のひとり子です。

神というのは僕の表現では“いのち“ということになります。

そして、神の子も神ですから、僕はキリストを“いのち“という言葉に読み替えたいのです。

そうすると、パウロの言葉は「生きているのは、もはや私ではありません。“いのち“が私の内にあって生きているのです。」となります。

さらに正確に言えば、「生きているのは、もはや私ではありません」という意味は、「いままでは“自分“というものがあって、その“自分“が生きているのだ、と思い込んでいたが、真実はそうではなかった」と読み取るべきでしょう。

そして、さらに詳しく言えば、「いままではこの体とこころを(他の存在と切り離された)“自分“であると思い込んでいたが、真実はそうではなかった」ということです。

パウロの言葉の奥にある意味は、「キリスト(“いのち“)がこの世界のすべての存在の内にあって生きているのだ」ということです。

すべての存在は“いのち“なのです。

さらに、キリスト教では「神は全能である」と言われています。

「だから」というわけではありませんが、“いのち“も全能であり、“いのち“はミスを犯すことはありません。

と言っても、実は、それを証明することは不可能です。

でも、僕はそれは真理であると確信しているのです。

それは、僕自身が精神的にも肉体的にも完全に行き詰まって、ギリギリのところで奇跡的に存在の真実を自覚できたという体験から来ています。

具体的には、「生きているのは“自分“ではなく、“いのち“なのだ。“いのち“の世界は”すべてよし”なのだ」という“自分“のアタマの思いをはるかに超えた体験から来る直感的な確信です。

同時に、この宇宙が始まって以来の宇宙の進化の方向性や、調和しながら整然と循環・運行する星々や大自然の有り様、生命の進化の方向性や生命の進化の先端に登場した人類社会の有り様、釈迦をはじめとする方々の自覚に至る経過などについて考えると、どうしてもそのように思えてならないのです。

たしかに、すべての存在を”個“というレベルで考えれば、個人的なことにしても社会的なことにしても、「これは良い、あれは悪い」などとアタマでは思えることも多々あるでしょう。

でも、そのようなアタマの思いを超えたところで、実は、起きているすべてのことには必要な意味があるのであり、それらを通してすべての存在が自覚した完全に調和した世界の実現に向かって進んでいるのだと、僕は確信しています。


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アタマが主人公ではない

アタマが主人公ではない

この世界はアタマで認識する以前にすでに事実として存在しています。

ところが、多くの場合、私たちはこの事実の世界を見て、アタマでそれを認識し判断しています。

アタマにはいろいろな“思い“があり、実際には、アタマは事実の世界を、例えば、「好きだ。嫌いだ」というようないろいろな思いを通して見て認識しています。

つまり、アタマはいろいろな思いによって歪んだり曇っているメガネに例えることができるでしょう。

ですから、私たちがこれが事実だとしていることは、ほとんどの場合、アタマという歪んで曇ったメガネを通して見た”像”に過ぎないのです。

しかも、アタマはバラバラ観を基とした二元相対的思考しかできないので、その“事実という像”に基づいて判断することも、一元絶対の存在の真実から観ると、狂ってしまいます。

例えば、一輪のスミレを見る場合にでも、多くの方は、「スミレというものはきれいなものなのだ」とか、「私はスミレよりバラのほうが好きだ」など、いろいろな思いを通して見ており、そのスミレ自体をそのまま見ていないのではないでしょうか。

これでは、”見ている”とは言えません。

ところで、瞑想にはいろいろな種類があり、目的にもいろいろあります。

多くの瞑想は「アタマの思いを鎮めて(最終的には、思いを消して)”安らかな気分になる”」ことを目的としているようです。

それはそれで結構だと思います。

一つの“思い“を別の“思い“でもって消してしまおうとしても、“思い“と“思い“が対立するばかりです。

それで、普通の瞑想では、いろいろなやり方でなるべく考えないように静かにしていようとするのです。

けれども、存在の真実、あるいは、真実の生き方に立脚した”真の瞑想”は「アタマの思いを鎮めて安らかな気分になる」ことを目的とするものであってはいけないのです。

私たち人間は石ころではありません。

私たちはアタマを持っており、アタマは私たちの意志とはほとんど関係なく、勝手に“思い“を”分泌”します。

“思い“は勝手に浮かんでは、また、しばらくして消えていきます。

そして、また、しばらくして、新しい“思い“が浮かんでは、また消えていきます。

“思い“が浮かび、また消えていくのは、空の雲が浮かびまた消えていくのと同じように存在の真実(“いのち“)の一つの風景なのです。

それが“思い“の真実の姿です。

ですから、“思い“を鎮めよう、消してしまおうというのではなく、“思い“を手放して、“いのち“の風景の一つとして見ているのが僕が言う”真の瞑想”です。

繰り返しになりますが、真の瞑想は”安らかな気分”になることを目的とするものではありません。

日ごろ、アタマというメガネをかけて、事実の世界を歪んで見ていることにも気がつかず、アタマの思いこそ”主人公”であり、「それがすべてだ」という思い込みから、瞬時に目覚めることこそが”真の瞑想”なのです。



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静寂のなかの風景

静寂のなかの風景

我が家は山の中腹に位置しています。

少し離れたところに数軒の家がありますが、畑や森が我が家を取り巻いています。

そのため、町に比べると随分と静かです。

何の音もしないということではありません。

すぐちかくで、ほとんどいつも、いろいろな子鳥のさえずる声、ニワトリの鳴き声、虫の音などが聴こえています。

時々遠くから自動車の音も聴こえます。

家の近くに道路があるので、たまには自動車が通過していくときもあります。

でも、とても静かなのです。

山道を歩いていると、木の葉が風に揺らぎかすかな音が聞こえます。

自然の中では草や花や樹木、小鳥、虫、風、空、雲などがいつもあるべきところにあるという感じで、ただ、そこここに落ち着いています。

それはたしかにいろいろな音は聴こえているのですが、にもかかわらず、すべてがそのままで静寂です。

何の努力や修行をすることもなく、いつもこのような静寂を味わうことができるのはぜいたくの極みです。

その静寂のなかに身を置いていると、そこにはなんとも言えない安らぎがあります。

それは、静寂の中ではアタマのハタラキが沈静するためだと思いますが、自然にその場に自分がすっぽりと溶け込んで、自他の境い目(仕切り)がなくなってしまうからだと思います。

ですから、もはや“自分“という意識する作用も起きてきません。

そして、そこにはたしかに、いろいろな音とともに木の葉の動きや風や雲の流れのような活動はあるのですが、時間というものはありません。

過去も未来も、そして、いまもない、というか、その区別がなくなってしまいます。


それは、いろいろなものが在りながら、同時に何もない世界です。

この静寂の中の風景、あるいは、静寂そのものを僕は“いまここ”と呼んでいるのです。

でも、感覚が何もなくなってしまうわけではありません。

道に沿ってちゃんと歩くこともできますし、周りを見て、景色を楽しむこともできるのです。

いろいろな思いを浮かんでは消えます。


でも、すべてが、自然に、ただ起きています。

アタマがボーっとしているわけでもありません。

そこにはいろいろな思いは浮かんできます。

でも、いちいち「自分は、あるいは、自然はどうのこうの」というような論理的、あるいは、分析的な思考はほとんど出てきません。

本当は、町の騒音のなかでも、その奥にはいつも完全な静寂な世界があります。

そして、ほんのちょっとしたコツのようなもので、いつもごく自然にそれを味わうことができるのです。

それができるようになると、どんな状況の中でも、存在の真実を実感しながら生活することができるようになります。

でも、残念ながら、そのコツを文章や話だけでお伝えするのは不可能です。

僕のセミナーに参加して説明と実習を通じて気づいていただくしかありません。

それも難しいということであれば、日ごろからできるだけ機会を作って、静かな公園などに行くことをお勧めしたいと思います。


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こころのコントロール

こころのコントロール

これまでたびたび僕は瞑想する際には思いを手放すこと、タバコやアルコールをやめたり、また、健康的な食生活を実践する場合にも、吸いたい、飲みたい、あるいは、食べたいという気持ちをガマンするのではダメだということを述べてきました。

何回も何回も繰り返し説明してきたので、多くの方は「なるほど、ガマンではダメなのだ」ということを充分理解されていると思います。

それでも、アタマでは分かっているつもりなのに、いざ実践しようとすると、どうしてもガマンになっていると感じている方もいらっしゃるのではないかと思います。

このテーマは私たちが健全な生き方をしようとする場合にとても重要なテーマです。

そこで、今回は江戸時代末期に不生禅を唱えた盤珪(バンケイ)禅師の言葉を紹介します。

これを読んで、テーマに対する理解をよりいっそう深めていただきたいと思います。


「不生になりたいとおぼしめして、怒り腹立ちや惜しや欲しやの起きるを、やめようと思わっしゃっても、それをとどめますれば一心が二つになります、走る者を追うがごとくでござる。

起る念をやめようと存ずる念がたたかいまして、やまぬものでござる。

たといふと思わず知らずに怒ることがござるとも、又惜しや欲しやの念が出来ましょうと、それは出次第に致し、その念を重ねて育てず執着いたさず、起る念をやめようともやめまいともその念にかかわらざれば、おのずからやまいではかないませぬ。

たとい色々の念が起りまするとも、その起こり出ました当座ばかりにて、重ねてその念にかかわらず、うれしきにも永く念をかけず、一心を二心に致さぬがようござる。

常に心持ちをかように思わっしゃれば、あしきことをもよきことをも思うまいのやめようのと思わっしゃらねば、おのずからやまいではかなわぬ」

「早くよいものになりたいと少しにても急ぐ心がござれば、はや不生に背いて、その場を退くというものでござる」

「少しにても悟りたいと思う心があれば、はや不生の場を退き、仏心に背きまする」


はじめに出てくる”不生”というのは”不生不滅の存在の真実”、あるいあ、真実の自己”という意味です。


江戸時代の話し言葉ですので、よく理解できないという方もいらっしゃるかもしれませんが、何回も声を出して読んでいると、その意味がよりはっきりと深く分かってくると思います。

日本語の古文が理解できるようになるためには、その文法を理解し充分な単語を覚えなければならないと言われます。

でも、僕の経験では、同じ文章をただ繰り返し音読することが古文を分かるようになる一番の方法ではないかと思います。

それは、”古文”と言っても同じ日本語だからです。

現代でも日本各地にいろいろな方言がありますが、テレビなどで何回も聴いているうちに、自分ではしゃべれなくとも、言われている意味は大体分かるという経験はみなさんにもあるのではないでしょうか。

どうぞ、ただ音読してください。



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自分と自己

自分と自己

存在の真実について書いているこのブログのなかで、僕は「自分」という言葉と「自己」という言葉を使い分けています。

僕が「自分」というときには、普通多くの方々が思っている意味での「生まれて、生きて、死んでゆく個としての自分」という意味で使っています。

つまり、「生来の自分」ということです。

そして、「自己」を「本当(真実)の自分」、あるいは、「自分の本質」という意味で使っています。

つまり、「本来の自分」ということです。

それを時には、より明確にしようとして、「真実の自己」とも言っています。

ところで、僕は時々「本当は自分なんていうものはない」と言っていますが、この場合に「自分」というのは「他と分離した個としての自分」という意味です。

では、「他と分離していない、すべてとぶっ続きの個としての自分」というものはどういう存在なのでしょうか?

これまで繰り返し述べているように、この世界のすべての存在やハタラキは一つの“いのち“の現われです。

つまり、この世界には姿やかたちや性能の異なった無数の存在やハタラキがあり、刻々に変化しています。

でも、その本質はみんな同じ一つの“いのち“です。

本質面について言えば、この世界にはたった一つの“いのち“があるだけなのです。

自も他もないので、「個としての自分」もありません。

ところが、現象面について言えば、この世界のすべてのものは姿やかたちや性能が異なっています。

ですから、本質面ではみんな同じものでも、アタマを通して見た現象面では、そこには”区別”があるように見えるのです。

そのアタマによる区別によって、例えば、いまこのブログを書いている存在を仮に「自分」と意識し、このブログを読んでいる存在を「自分とは異なる人」と意識しているということです。

そういう意味では、普通一般に言われているように、「自分」があり、「あなた」があり、「彼」があり、「彼女」があり、「自分以外の他の人や動物やもの」があると言えます。

でも、問題は、世間一般の多く方が、「だから、みんなバラバラで、分離している」と思い込んでいるということです。


思い込みをちょっと脇に置いて、現象面の存在について「本当はどうか?」と検べてみれば、すべてがぶっ続きで分離したものなど一つもなく、不可分一体であることは容易に分かることです。

ここまでの結論として次のように言えるでしょう。

この世界は“いのち“が色とりどりの綾模様の織りなす不可分一体の世界です。

現象面では、自分は他の人や動物やものと異なる存在ですが、それぞれ分離した存在ではなく、本質はみんな同じ“いのち“です。

“いのち“はそれぞれの存在を通して現成しています。

ですから、僕は僕を通して“いのち“を生きるのであり、あなたはあなたを通して“いのち“を生き、すべての存在はそれぞれを通して“いのち“を生きています。

“自分“のなかにこの世界のすべてがあるのです。



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自分しかない

自分しかない

私たちの世界のすべての存在は一つの“いのち“が顕現したものであり、不可分一体です。

そこには他から分離した自分や他というものもありません。

でも、この世界は何もかも均質でノッペラとした世界ではありません。

世界のすべての存在は本質は“いのち“であり、同じものでありながら、それぞれ姿かたち、性能、ハタラキなどすべての要素、つまり、”特性”が異なっています。

でも、それぞれのものは”他と分離した個“として存在しているのではなく、刻々に互いに集合・離散・循環しながら、全体として綾模様のような一つの世界を形成しています。

すべてのものがその瞬間、瞬間の現象として、無数の特性が異なった”個“のようなものとして現われています。

ですから、私たちには、例えば、そこに山がずっとあり、向こうにずっと川があるように”見える”ことも事実です。

そういう意味では、「山と川は同じ一つの“いのち“でありながら、別々の存在である」と言ってもいいでしょう。

同じように、「いまこれを書いている人も読んでいる人もそれぞれ同じ一つの“いのち“であり、コロッとした実体はなくとも、別々の存在である」と言うこともできるでしょう。

ですから、いまこれを書いている人をとりあえず“自分“とか”僕”とか”私”、あるいは、”昇平”と呼び、これを読んでいる人を”あなた”、あるいは、”~~さん”と呼んでもいいわけです。

「同じことじゃないか。誰でも普段からそう思っているのだから」と思われる方も多いでしょう。

でも、同じではないのです。

例えば、“自分“や”あなた”という意味は、私たちが存在の真実に気づく前と後では決定的に違ってきているはずです。

ほとんどの人はこの広大な世界に生まれ、生き、そして、死んでいく小さな小さな存在だと思っています。

でも、真実は、この“自分“はあなたをはじめこの世界のすべての存在を含んだ存在なのです。


“自分“はこの“自分“の世界とともに生まれ、“自分“の世界とともに生き、“自分“の世界とともに死んでいきます。

だから、僕にとっては僕と僕の経験している世界だけしかないのです。

それは”あなた”にとっても同じです。

結局、誰にとっても“自分“しかないのであり、“自分“がすべてです。

“自分“はただ“自分“として生まれ、生き、死んでいくのです。

これが客観的、主観的な見方を超えた”生きること”の真実です。



中国の禅僧である青原惟信に次のような言葉があります。


悟る前は、山をみれば山であり、水を見れば水であった。

悟ったら、山を見ても山でなく、水を見ても水ではなかった。

ところが、さらにそこをつき抜けて徹見すると、山は依然として山であり、水はただ水である。



僕なりに表現すると、以下のようになります。

存在の真実に目覚める前は、自分があり、他があった。

目覚めたら、自分もなく、他もなかった。

そこを突き抜けて見てみると、すべてを含んだ“自分“があるだけである。




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こっちを見てみる

こっちを見てみる

僕はよく「自分というものはない」と言います。

それは「他と分離した自分というものはない」という意味です。

でも、それは「ここに自分というものがいて、それがそれ以外のもの(他)と離れていない、あるいは、繋がっている」ということではないのです。

より正確に言うと、「自分も他もない。みんな同じ一つの“いのち“だ 。ただ、一つの“いのち“だけがある。」ということです。

もし、その一つの“いのち“を「自分」と呼べば、「すべてが自分である」とも表現できるでしょう。

僕が普段誰かに名前を呼ばれて、「はい」と返事したりしているのは、そのほうが付き合いのうえで便利なので、一応、ここに”仮の自分”がいるということにしているのです。

皆さんは「なんて変なことを言っているのだ」と思われることでしょうね。

では、ためしに、いまそこで“自分“と思っている方向を見て下さい。

眼の前方ではなく、後方、つまり、手前側、こちら側を見るのです。

何が見えますか?

「顔が見える」なんて言わないでください。それは鏡や写真で見た像の記憶にすぎません。

実際には、こちら側に何が見えますか?

「眼で眼自身が見えるはずがないだろう」とおっしゃるのですか?

では、手で触って見て下さい。何を感じますか?

「デコボコした皮袋のようなものがある」ですか?

では、その皮袋の中味はどうですか? 何を感じますか?

「手では感じられないけど、何かがあるのは体感として感じられる」ですか?

そのとおりです。その皮袋と体感的に感じられるものが体ですね。

では体のずっと内側というか”奥”というか、こちら側、手前側に何が見えますか?何を感じますか?

イメージや記憶ではだめですよ。実際に、何が見え、何を感じますか?

何も見えず、何も感じません。

実際には何もありません。

たしかに、体はあります。”こころ”というかアタマの思いもあります。


でも、“自分“というコロッとした実体はありません。

つまり、何かがその体やこころを使っているのは事実ですが、“自分“というコロッとした実体があって、それがその体とこころを使っているのではありません。

でも、そのどこにも、その中心にも“自分“というものはありません。

その体やこころを使っている何かとは何でしょうか?

それはこの世界のすべてを生み出し、すべてに働き、生かしている“いのち“です。

ですから、“自分“とか”昇平”というのも一つの“物語”であり、仮につけた名前にすぎません。

こちら側に見えるのは無限に広がる透明で静寂そのものの空間です。

その透明な空間は、この体やこころ、いろいろな思いや感覚、いろいろな景色や音や匂いなどで満たされ、すべてのものが刻々に生き生きと変化しています。


僕はこの無限に広がる透明で静寂な空間を“いまここ”と呼んでいます。

それが真実の自己です。



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言葉と名前

言葉と名前

多くの場合、私たちは言葉を使って意思を通じ合わせています。

でも、本当にお互いに意思が通じ合っているのでしょうか?

「多くの場合は通じ合うけれども、通じ合わないこともある」というのが平均的な答えでしょう。

でも、具体的な物などを指し示す場合はともかく、自分の思いを伝え合うというような場合には、本当はまったく通じ合ってはいないのです。

会話と言うものは「お互いがそれぞれの言葉を同じ意味として理解している」ことを前提として成り立っています。

例えば、「平和」という言葉は誰でも同じような意味で理解している思い込んでいます。

でも、本当は、「平和」という言葉の意味は人によって違っています。

たしかに、大体の意味は共通しているかもしれませんが、まったく同じとは言えません。

それは、「平和」という言葉一つにしても、それぞれの人がそれぞれ生きてきた異なった環境のなかで習得してきたものだからです。

ある言葉をまったく反対の意味に理解していたり、とんでもない意味に受け取っていたりすることさえ少なくありません。

とくに精神的なことを話す場合などには、お互いそれぞれの言葉を理解しているつもりでも、実際には相当ズレがあると言ってよいのではないでしょうか。

例えば、みなさんは僕がいま書いているこの文章を読んで、まあまあ理解できたと思うかもしれません。

でも、それは、あくまでみなさんお一人お一人が”自分なりに”勝手に理解しているにすぎません。

つまり、僕は僕なりに勝手に理解し、みなさんはお一人お一人”自分なりに”勝手に理解しているということです。

ですから、真実は、僕が何かを書いたり、話したりしているのは、あくまで”独り言(モノローグ)”を言ったり書いたりしているにすぎません。

皆さんはそれを読んで”一人合点”をしているというわけです。

そうではあるのですが、ここが実に不思議だと思うのですが、それにもかかわらず僕がこのようなことを話したり書き続けているのは、別の意味で、通じていくものがあると思っているからです。

というのは、僕が話したり書いたりしているのは、人差し指で月(存在の真実)を指差しているようなものだからです。

月を自分で掴む代わりに、一生懸命それを差している指を掴もうとすることがどれほど愚かなことかは誰にでもわかるはずです。

同じように、僕がみなさんに望んでいることは、僕の言うことを信じるのではなく、それが指差しているものを自分で体験的に掴んでいただきたいということです。

“いのち“はただ一つです。

でも、その部分部分に名前を付けることは本来一つのものをバラバラであるかのように思わせます。

本当はどんなものでも名前によって規定できるものではなく、名付けようがありません。

“いのち“の実物はただ”ソレ”でしかありません。

ですから、存在の真実は言葉や名前や思いをすべて手放しにして、ただ、あるがままに受け入れるしかないのです。




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間違いの根源

間違いの根源

個人的な迷いや苦しみ、そして、社会的な混乱や苦しみはすべて間違いです。

そして、すべての間違いの根源はバラバラ観です。

バラバラ観自体が不可分一体の存在の真実を間違って理解するところから生れます。

バラバラ観、とくに、自他の分離、つまり、自分がこちら側にあって、他があちら側にある、「自分は他と分離した存在である」という観念は「自分には何かが欠けている」という感覚を生じさせます。

この感覚によりいつも心の奥に不安感を持つようになります。

さらにそこから、孤独感、いつも他と比較するところから優越感や劣等感、差別意識、競争意識、征服欲、「自分(たち)が一番かわいい」という利己主義(エゴイズム)などが生まれます。

でも、それはすべて間違いです。

この世界では何かから切り離されたものなど一つもありません。

求める人と求められるものや人がいるのではありません。

あなたから切り離された何かがあるのではありません。

あなたはこの世界の中に生きているちっぽけな存在なんかではありません。

「すべては一つ」というのは“いまここ”の真実であり、どこかのおとぎ話ではありません。

つまり、真実は誰でもすでに悟っているのです。

「自分は悟っている」などと思っていない人も、ただ、その真実に気がついていないだけです。

それは水の中にいるのにもかかわらず、「のどが渇いた!」と叫んでいるようなものです。

そういう意味で、どこかに悟りを求めるというのは「労多くして功少なし」です。

いや、「少なし」どころではなく、まったくの「ムダ折損の草臥れ儲け」です。

「脚下を看(み)よ」という言葉がありますが、キョロキョロと自分を探し回ってもダメなのです。

真実は“いまここ”にあるからです。

“いまここ”の真実を一切アタマを通さずに、一切あるがままに受け止めればいいのです。

求めてはダメです。

ただそのまま受け止めるのです。

そのための実践として、僕は瞑想の自然法や自観法を勧めています。

只管打坐でもよいでしょう。


そうすれば、“いまここ”において、すべてが自発的に、自由に、無条件に、現われ、しばらく留まって、また消えていくのが分かるでしょう。

そこには、(分離した)受け止めるものも、(分離した)受け止められるものもありません。


ですから、自分が何かを受け止めるのではありません。


宇宙はずっと前からただすべてをあるがままに無条件に受け止めています。

瞑想の実践をしていると、このようなことがしだいに深く分かってきます。

でも、「分かろう」と求めてはいけません。

求める気持ちやアタマでの理屈付けなどの思いもすべて手放して、“いまここ”にくつろぐのです。

もちろん、アタマも必要があって“いのち“が生み出したものです。

アタマが存在の真実を無視して暴走することが問題なのです。

ですから、必要なときに、“いのち“という土台に立脚して、アタマを働かせることがとても大切です。




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何も求めなくていいのか?

何も求めなくていいのか?

これまで”存在の真実”という言葉を使って、いろいろと説明してきました。

僕は”存在の真実”という言葉を”真実の自己”(自己の本質)”という意味とともに、”真実の世界”(世界の本質)”という意味で使っています。

けれども、”自己”を極めていくと、”自己”は”この世界”と分離したものではなく、すべてはぶっ続きで同じ一つのものであることが分かります。

それで、”存在の真実”という言葉を多用してきたわけです。

また、これまで「あるがままでよい」とか、「すべてよし」という言い方もしてきました。

僕は、まず、”真実の自己”という点において、本質は、「あるがままですべてよし」と言っています。

僕も若い時にはそうでしたが、多くの人たちはいつも「自分には何かが欠けている」とこころの奥では感じているようです。

そのために、いつもどこか不安で不安定な感じで生きています。

そして、その欠けているものを満たそうとして、いつも“いまここ”にくつろぐことなく、未来に、そして、外に何かを求め続けています。

でも、どんなものが手に入ったとしても、満足するのはそのときだけで、また「やはり自分には何かが欠けている」と思い、不安感がなくなることはありません。

ところが、真実は、もともと「あるがままですべてよし」なのです。

真実の自己に欠けているものなど一つもありません。

その真実に気がつくことが悟りです。

誰でももともと悟っているのであり、悟りを外に向かって求める必要はなかったのです。

”真実の世界”という点においても同じで、本質は、「あるがままですべてよし」です。

ここで、次のような反論もあるでしょう。

世の中には個人的にも社会的にも多くの人が悩んだり苦しんでいるのに、「あるがままでよい」とか、「すべてよし」と言うのは納得がいかない。

このような反論が出るのは、言葉と言うものの不完全さに大きな原因があるようです。

僕が言う「あるがままですべてよし」というのは、「だから、何もする必要がない。何が起こっても、そのまますべて放っておけばいいのだ」ということでは決してありません。

何かが起こった場合に、「何の問題はない」と判断して何もしないことも、「これは問題だ。何とかしなければ」と思うことも、すべて「あるがまま」ということなのです。

僕は、このように「あるがまま」というのはすべての感情や判断、それに基づく行いなどすべてを含んで「あるがまま」と表現しています。

ですから、「あるがままですべてよし」というのはすべてのことに無感覚、無反応、無判断、無行動ということではないのです。

例えば、自動車が突然自分の方に寄ってくれば、当然避けようとするでしょう。

でも、よそ見していて自動車に気がつかなかったり、また、避け損なうこともあるでしょう。

「良い悪い」という人の思いを超えて、存在の本質という点では、いずれも「あるがままですべてよし」です。




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