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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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僕の生き方  その3

僕の生き方  その3

僕のこれまでの生き方を一言で言えば、”出世間的生き方”と言えるのではないかと思います。

もう少し言えば、世間の中にいながら、形態としてはともかく、こころの面では、出世間の生き方であるということです。

僕には世間を斜(はす)に構えて見ているつもりはまったくないのですが、僕は若い時から「世間の人たちのやることの反対をやればうまく行く場合が結構あるのではないか」と思うときがあります。

例えば、26歳の時の気付きの後すぐに僕は貧乏学生であったにもかかわらず結婚したのですが、たまたまその年は大阪万博の年でした。

多くの人たちが「万博へ! 大阪へ!」という雰囲気でした。

そこで僕らは「その逆方向に行けば、どこもガラガラだろう」と考えました。

リュックを背負い、上野駅から夜行列車のガラガラの二等席に坐って青森まで行きました。

そして、そのままほとんど観光客のいない奥入瀬を歩き、十和田湖に至り、湖畔の国民宿舎に泊まり、のんびりと豊かな旅を満喫しました。

その後、たまたま観光地に旅行に行く時でも、観光地の中心地はざっと見るだけで、中心地から少し離れたところを歩くようにしました。

実際、そういうところになかなかいいところがあるのです。

率直に僕の気持ちを言えば、世間の方々の多くは自分でよく考えて行動するというよりは、周りの人たちがどう思っているかということに合わせて行動する傾向が強すぎるように思います。

僕の言いたいことは、世間の一般的な傾向についてです。

もちろん、中には本当に独創的ですばらしい行いをされている方もたくさんいらっしゃいます。

それはともかくとして、このような生き方をしてきて、僕は自分としてはとても満足しています。

それは、自分がこころから納得のいく、まさに”自分の生き方”をしてきたということもありますが、それだけではありません。

僕は決して自分の力でこのような生きてこられたのではありません。

先に「何ものにも依存しないで生きる」と書きましたが、たしかに、依存はしなかったけれども、実際には、今日に至るまで、多くの方々に支えられ助けられてきたからこそ、このように生きてこられたのです。

実際は、すべて手放しで、何ものにも依存せずに、あくまで自分の内なる欲求に沿って生きていくなかで、客観的に言えば、何度か厳しい状況もありました。

でも、こころの面ではいつも楽しんで生きてきました。

それだけに、多くの方々のご親切が何よりこころに沁みるのです。

また、僕がこのような生き方をしようと思ったのは、たしかに、僕自身がどうしてもそのようにしか生きられなかったからです。

でも、実際に確信を持ってこのような人生に踏み出すことができたのは、若い時に和田重正先生をはじめ、内山興正先生、松居透楼先生など、生涯自分の生き方を貫かれた実物見本に出会えたことにあります。

そういう意味で、若い時にこれらの先生方に出会えたことにこころより感謝してしています。

(おわり)









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僕の生き方  その2

僕の生き方  その2

僕は今日まですべて手放しで、自分のこころからやりたいことだけをやってきました。

ですから、僕はこれまで「仕事をしている」と思ったことは一度もありません。

ただ、やりたいことをやってきただけです。

”遊び”でもありません。

要するに、僕にとっては「ただやりたいことをやりながら生きてきた」としか言い様がありません。

自分のやっていることを僕自身社会的概念では定義できないと思っているのです。

たしかに、これまで中学校で教えたこともあります。

でも、僕には「教師を仕事としてやっている」という気持ちは少しもありませんでした。

その後、もっと幅のある教育をやりたいと思い、中学校を辞めて、フリーで子供たちと関わっていました。

世間の方々はそれを”学習塾”だと思っていたようですが、僕自身には「世間の中から自分のやっていることに似たものを当てはめるとしたら、”人間のための塾”というところかな」としか考えていませんでした。

その後、ニワトリの飼ったり、田んぼや畑をやったりしてきましたが、「世間的に強いて言えば、”農”をやっている」と言えるかもしれないが、「”農業”をやっている」という感覚はありません。

自覚のセミナーや平和のセミナーなどについても同じです。

もちろん、『国の理想と憲法』という本を書いたのも、このブログを書いているもまったく同じです。

職業として、そして、お金を稼ぐためにやっている気持ちもまったくありません。

26歳のとき「どんなことがあっても、自分は決してキズつくことはない。自分は本当に自由だ」ということに気付いたのが新しい人生の始まりでした。

それ以来、「世間的にはどうであれ、すべてを手放しにして、自分のこころからやりたいことだけをやっていこう。そのために、野垂れ死にすることがあっても、何の悔いもない」と思い、この生き方を今日まで続けてきました。

”出家”という言葉があります。

その本来の意味は、「家を出て寺に入って僧侶になる」、さらに言えば、「俗世間を離れて、聖なる寺に入って聖なる僧侶として生きる」という意味でしょう。

ところが、現代では、ほとんどのお寺は世襲となっています。


また、まれにお寺とは関係のない一般の方がお寺に入って僧侶になることもあります。

この場合は、一応”出家”と言えるでしょう。

けれども、その場合に、真の出家であるかどうかは本人に何ものにも依存しない純粋の求道心があるかどうかによって決まるのではないでしょうか。

お寺という組織や僧侶という立場に依存する気持ちが少しでもあれば、あるいは、「何かから逃避したい」という気持ちでお坊さんになるということであれば、それは本当の意味での”出家”とは言えないと思います。

そういう意味では、僕は、それこそ、会社や役場やお寺などにも、何ものにも依存せず、すべて手放しで、こころの欲するままに生きようと思い、今日までそのとおりに生きてきました。

もちろん、これは自慢しているのではありません。

そうのように生きたかったというだけのことです。


(つづく)



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僕の生き方  その1

僕の生き方  その1

僕は20歳のある日までは世間一般の青少年と同じような生き方をしていました。

ところが、その日突然、それまでの世間的な生き方をやめようと決心したのです。

当時、僕が思っていた世間的な生き方というのは、例えば、ショーウィンドーのケースに陳列してあるいろいろな柄のシャツの中から、「そのどれにしようか?」と選ぶような感じで職業を選んで、そこで辛抱しながら定年まで勤め上げて、退職後、再就職するなり、年金で暮らして行くなりして、終いには死んでいくような生き方です。

とくに当時は、いったん会社や役所などに就職すれば、定年までそこに勤めるというのが一般的でした。

そのときは卒業を2年後に控え、就職ということが次第に現実味を増してきており、もしそのまま就職してしまえば、ほとんど自分の一生がそれで決まってしまうと思ったとたん、そんな納得のいかない人生を送りたくないと思ったのです。

「納得がいかない」というのは、まだ自分にはこの人生の中でこころからやっていきたいことがはっきりしていないにもかかわらず、ただ、食べていくために、本当にやりたいとは思っていない仕事にずっと従事していかなければならないということです。

そして、いったん就職してしまえば、その仕事を何よりも優先しなければならないために、どんなにやりたいことが出てきても、せいぜい仕事の合間にできることぐらいのことでしかないだろうと思ったのです。

とにかく、その日、こころから納得のいくいき方をしたいと強く思いました。

同時に、「自分のこころから望んでいる生き方とは何か?」、そして、そもそも「この自分とは何か?」ということを明らかにすることが何より大切だと思いました。

そういうわけで、「とにかく、答えを見つけるための時間が欲しい」と、経済的には厳しかったのですが大学院に進みました。

けれども、納得のいく答えが見つからずに数年が過ぎ、はっきりと答えが出たのは26歳の冬のある日のことです。

そのときに気がついたことでとくに印象的だったことは、


この体やアタマは自分ではなかった!

自分はその奥にある“いのち“だ!

自分は何かで傷つくことは決してない!

自分は死なない!

どっちにころんでも、すべてよし!

自分はなにものにも束縛されない。自由だ!

自分のものなんて一つもない!

どんな状況にあっても自分は幸福だ!



こんなことに気づいて、自分の中にそれまであった疑問がすべて解決しました。

その日以来、僕の生き方は一変しました。

自分がこの人生でこころからやっていきたいこともはっきりしました。

それは奇跡的に僕が気付いた存在の真実を世界中の人々、とくに若い人たちに伝えていくことです。

こうして、自分のやりたいことを捻じ曲げてでも、世間的な枠組みに合わせて行く生き方ではなく、すべてを手放しにして、こころからやりたいことだけをやっていこうと思い、今日までその生き方を続けてきました。

(つづく)


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即実行

即実行

僕は小さなときから、「こうしたほうがよい」ということが分かっていても、なかなかすぐには実行に移そうとしませんでした。

学校の宿題でも、自分でも「マズイな」と思いながら、ずっと先延ばしにして、ギリギリになってやっと取り掛かるのです。

そのために、本当に困っても、それが過ぎてしまえば、また同じようなことを繰り返してしまうのです。

その傾向は26歳ごろまで続きましたが、あるとき「思いを切る」という要領を会得してからやっと収まりました。

それにしても、人間の心理というものは本当にやっかいなものです。

例えば、「どう考えてもタバコは健康によくない。止めたい。止めなければ」と思っても、結局、「いずれ体の具合が悪くなる前にはやめるさ。でも、それまでは吸おう。とにかく、今は止めないでおこう」などと思うのです。

「アルコールの飲みすぎや、甘いものや肉の食べすぎは体によくないので止めた方がよい」ということについても同じです。

それだけでなく、僕の宿題のように、やらなければならないことをグズグズと1日伸ばしにすることなども同じです。

悪い生活習慣を直すことも同じです。

すぐにやったほうがいいということははっきり分かっているくせに、「明日になったらやろう」などと思って先延ばしにしてしまうのです。

そして、明日になってみれば、またもや「明日やろう、明日は必ずやるぞ!」などと思って、また先延ばしにしてしまいます。

とうとうぎりぎりまで先延ばしにして、やっとあわてて取り掛かる始末です。

ところが、大慌てであせってやるので、往々にしてミスを犯したりしてしまいます。

時には、とうとう間に合わなくなる場合もあります。

タバコやアルコール、食べ物などの場合は、「時すでに遅し」で、ひどい病気になって死んでしまう確率はかなり高いと言えましょう。

これが心理学で言う”延期”という心理です。

僕は自分自身の苦い経験から、「絶対にそうしたほうがよい」と思うことを一日一日と先延ばしにすることによって、どれほど自分の人生を損なっているかということについて、心当たりのある方は 痛烈に反省をしたほうがよいと、こころから忠告します。

それと同時に、”延期”の根本原因の一つは「自分ではそうしたほうがよい、そうしなければならない」と分かっているつもりでも、その突き詰め方が往々にして甘いということにあります。

根本原因のもう一つは、”延期”することがクセ、あるいは、習慣になってしまっているということです。

ですから、まずは「どうすることが自分にとってもみんなにとっても本当の得になるか?」ということを徹底的に見極めることが大切です。

次に、本当にやったほうがよいと思うことについては、”延期”することの愚かしさを徹底的に見極めます。

そして、アタマのクセに捉われずに”果敢に”即実行に移し、持続すべきことは持続することです。

そうしていけば、人生が劇的に好転するでしょう。



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