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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ただ

ただ


Auguries of innocence

To see a world in a Grain of Sand

And a Heaven in a Wild Flower

Hold Infinity in the palm of your hand

And Eternity in an hour

(William Blake)


ただ

一粒の砂のなかに世界を見

一輪の野の花のなかに天を見る

それは、君の掌のうちに無限の空間があり

今の一時(ひととき)のうちに永遠の時があるということだ

(詩:ウィリアム ブレイク  訳:昇平)


ウィリアム ブレイクは18世紀から19世紀にかけてイギリスに生きたロマン派の詩人であり画家です。


この詩は彼の思想を説明するのによく使われる全132行に及ぶ詩の冒頭の4行です。

この4行はこの詩全体のプロローグであると同時にその要約であると言えるでしょう。

さらに言えば、彼の思想全体がこの4行に集約されていると言ってもいいかもしれません。

この詩の邦訳はいろいろな方によってなされています。

それぞれ名訳だと思います。その一つを次に紹介してみましょう。


無垢の予兆

一粒の砂にも世界を

一輪の野の花にも天国を見、

君の掌のうちに無限を

一時(ひととき)のうちに永遠を握る

(対訳 ブレイク詩集 岩波文庫 松島正一編 より)


とてもすてきな訳だと思います。

僕は僕自身の実感に基づいて、上記のように大胆に意訳してみましたが、どうでしょうか。

僕の訳を読んで、ウィリアムはたぶんしかめっ面をして言うでしょう。

「俺はそんなことを書いた覚えはない!」と。

そういう意味では、彼には大変申し訳ないと思います。

どうか、みなさんも僕の意訳に惑わされずに、上記の詩集を岩波でも他の出版社のでも買って、どうぞ名訳をお楽しみください。

要するに、僕はウィリアムの詩集の一節を借りて、存在の真実についての僕自身の体験的事実を表現してみたかったのです。

つまり、彼のこの4行の詩がたぶん彼の思想の集約であるのと同様に、僕の意訳は存在の真実についての僕自身の体験的事実の言葉による表現の集約なのです。

そこで、もういちど、上記の拙訳をここに書いてみましょう。


ただ

一粒の砂のなかに世界を見

一輪の野の花のなかに天を見る

それは、君の掌のうちに無限の空間があり

今の一時(ひととき)のうちに永遠の時があるということだ

                        (昇平)


* これが2014年最後のブログでありメッセージとなります。

本年もここまでお付き合いいただきまして、まことにありがとうございます。

新年度の初めはしばらくの間、これまでの僕のブログの内から20名ほどの読者の方々に「よい」と言っていただいたものを、上位から20編ほど選んで順に再掲載していきたいと思います。

皆様の人生をより深めていくために、新しい年の初めにそれらをじっくりと再読していただければと思います。

なお、再掲載するものはあくまで、皆様のうちの一部の方々が「よい」と判断されたものであり、必ずしも皆様全体の意思を表すものではありません。

また、同時に、それらが僕自身の価値判断と必ずしも一致したものでないことも同様です。


皆様にとって来るべき新しい年が素晴らしい年となりますようにお祈り申し上げます。








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音のない世界が宇宙の実相

音のない世界が宇宙の実相

朝早く散歩に出かけようとすると、前日、前々日の澄み切った青空はうそのように一面の空を雲が覆い、雨がほんの少し降っていました。

そのまま傘もささずに森の中を散歩したのですが、鳥の声も風の音もなく、雨の音さえも聴こえません。

そこには音のない世界だけがありました。

しばらくすると、「キー」という鳥の声がしました。

それからだんだんいろいろな鳥の声が聞こえてきました。

遠くから車の走る音もかすかに聞こえてきます。

雨が少し強くなり、木々の葉っぱに当たる音も聴こえ、周りがだんだん賑やかになってきます。

そのとき、あらためてふと「こんな簡単なことなのに見失っているんだな」と思いました。

静寂は音と音の合間、あるいは、音の切れ目に現われるのではありません。

もともと音のない静寂の世界がずっと存在しているのであり、そのなかに現象として、いろいろな条件によって音が現われたり、続いたり、消えていったりしているだけなのです。

何かの音が鳴っているときでも、それらの現象とは別の次元において、音のない世界はそれらの音に乱されたり邪魔されることもなく、ずっと変らず完璧な静寂のまま存在し続けています。

このもともと存在し、どんな現象によっても乱されたり破れたりすることのない音のない静寂の世界こそが宇宙の実相なのです。

さらに言えば、このもともと音のない世界、つまり、静寂こそ自分自身の実相・本質なのです。

音のない静寂の世界の存在に気がつくのはこれほど簡単なことです。

たとえば、真夜中にそっと起きて耳を澄ませれば、もともと静寂の世界があるのであり、そこに何かの音がしていても、その音のために静寂が破られるわけではありません。

その証拠にその音が止んだとたんふたたび静寂の世界を感じることができるでしょう。

音のために静寂が乱され破られたと思うのはアタマの勘違いです。

音がどんなにしていても、それが静寂を乱したり、破ったりすることはできないのです。

ただ、そのように思う人にはそのように思えるというだけです。

それは青空と白い雲との関係に似ています。

白い雲が青空に浮かんでいるとき、白い雲は青空そのものを乱したり、破ったりすることは絶対にできません。

青空は白い雲が現われる前も、現われているときも、消えた後でも、ずっと変らず青空のまま存在しています。

雲が増えて空一面を雲が覆ったとき、青空はなくなったように思えるかもしれませんが、ただ、そのように思えるだけで、青空は雲の上にずっと変らず青空として存在し続けています。

音のない静寂の世界はこの青空と同じです。

瞑想の自然法はこの音のない静寂の世界、つまり、宇宙の実相、そして、自己の本質に戻るためのもっとも容易で効果的な瞑想法です。

瞑想の自然法に習熟してきたあとは、日常生活の中において、どんな状況においても、いつも本当の自分自身を見失わないように、常にこの音のない静寂にこころを据えて生きていけるように実践を深めていってほしいと思います。






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これでいいのか?

これでいいのか?

私たちは人類の歴史の発展段階の最先端の時代に生きています。

けれども、それは必ずしも現代社会が私たちが幸福で平和に生きていける社会であるということではありません。

たしかに、たとえば、科学技術などは過去の時代に比べると驚異的な進歩をしています。

生活面でも、少なくとも、先進国では経済的不況などにより苦しんでいる人々も多いのですが、それでも、過去に比べると、私たちは格段に物質的に豊かで便利快適な生活を送れるようになりました。

そういう意味では、たしかに「人類社会は大きく進歩した」と言うことができるでしょう。

けれども、現代社会が依然として多くの深刻な問題を抱えていることは皆さんもご承知のとおりです。

地球的規模での環境破壊、原発事故の危険性、(核兵器の使用を含めた)戦争や対立・抗争の危険性等は言うまでもありません。

それらは「危険性」というだけでなく、世界のあちこちで現実に起きており、どんどん深刻さを増しています。

そのほか、国内的にも、教育の荒廃、不十分な福祉、企業間の生き残りをかけた熾烈な競争、見通しの立たない中小企業や商店の経済的不況など、私たちは多くの深刻な問題に直面し苦しんでいます。

個人的にも、子供や家族、あるいは、そのたの人間関係や健康問題、老人の介護の問題などに苦しんでいる多くの人々がいます。

若い人たちを見ても、こころから生きがいを感じながら生きているというような人は非常に少ないのではないでしょうか。

それは若い人たちだけではありません。

結局、そこそこ、あるいは、それ以上に経済的に恵まれた人たちだけが、「まあまあ自分(の家族)は幸せだ」と思いながら、あるいは、そのように自分自身で思い込んだり、言い聞かせながら生きているのが実状ではないでしょうか?

これでいいのでしょうか?

138億年という大宇宙の歴史の中に、わずか100年にも満たないたった1回きりのかけがいのない人生を生きる一人の人間として、こんなことでいいのでしょうか?

日本は戦後70年になろうとしています。

その間、他国との戦争に巻き込まれることもなく、今日まで何とかやってこられたのは、幸運にも恵まれたこともありますが、多くの方々の努力もあったおかげでしょう。

でも、多くの庶民は生活の物質的安定を目指して日々生活していくというだけではなかったでしょうか?

「自分は本当にみんなが幸福で平和な社会を本気で創っていこうと努力してきた」と自信をもって言い切れる人はどれほどいるのでしょうか?

戦後の風潮として、「人様に迷惑を掛けなければ何をしてもいい。どう生きてもいいのだ」という考え方が蔓延しています。

たしかに、「自由」は何より大切です。

でも、「好きなように生きればよい」という考え方は、ある意味では、エゴ的生き方そのものであり、自分たちがエゴ社会を作り支えているのだということに思い至るべきではないでしょうか。

「たった1回きりの人生を本当に幸せに生きていけるかどうか」はこの1点にかかっています。






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ストレス

ストレス

現代の生活における過剰なストレスは心臓病、消化不良、免疫システムの不調、慢性的な痛み、いろいろなガンなどを引き起こす大きな要因の一つです。

でも、脳内のただの感覚にすぎないストレスがどのようにして肉体的な問題を引き起こしてしまうのでしょうか?

そもそもストレスはどうして、あるいは、なんのために生じるのでしょうか?

それを知るためには私たち人類の進化の歴史を遡って、私たちの先祖たちが原始の時代にどのように生きていたかに思いを馳せる必要があるでしょう。

生物にとってもっとも重要なことは自己の属する種の生き残りと繁栄です。

そのなかでも、進化の最先端、あるいは、その近くに位置する動物は自己の生き残りを通して自己の属する種の生き残りと繁栄を達成しようとする傾向が強いのです。

つまり、私たち人類を含めて、多くの動物にとって、そして、もっとも重要なことは自己の生き残り(サバイバル)ということです。

そのために、脅威となるような状況に的確に、又、瞬時に対応できるように、「闘争あるいは逃亡」という緊急反応システムが、進化の過程を通じて、人類の本能的機能として備わっているのです。

この機能は自動的に作動します。危険に対して力を尽くして戦うか、それとも、全速力で逃げるかということを瞬時に判断し、いずれかの判断にしたがって、すぐに、また、的確に動けるように体を準備させます。

脳が危険を察知すると、体は血流の中に大量の化学物質を放出します。

それは強烈な肉体的な反応を引き起こします。

血圧が上がり、筋肉は緊張し、呼吸は浅くなり、消化作用は止まり、免疫システムは抑制されます。

そして、すべての感覚が「警戒モード」に入ります。

「闘争あるいは逃亡」という緊急反応システムが発動するとすべての体の日常的な働きがストップし、すべてのエネルギーが察知した緊急事態に向けられます。

このメカニズムは危険な状況のなかで生き残るためのもっとも重要な機能なのです。

でも、問題はその状態が長時間続くと、体に大きなダメージを与えるということです。

原始の時代の単純な人間たちはいったん危険が去ってしまうと、すぐに自動的に緊急システムが解除され、リラックスすることができました。

ところが、その後の社会的な変化とともに人間はあまりにもアタマ型の生活を営むようになってしまいました。

そのため、現代人は危険に直面していないときでも、「これから危険がやってくる恐れがある」と身構えたり、もはや危険は過ぎ去ってしまったにもかかわらず、「まだまだ危険が続いている」などというような妄想に捉われる傾向が非常に強くなってしまいました。

そのために、「闘争あるいは逃亡」という緊急反応システムすぐに発動され、それがずっと持続して、そのために体にいろいろな不調が出るような方が増えてきているのです。

この異常な状態から脱するための唯一とも言える方法、あるいは、生き方が「常に一歩下がって見る」ということです。


常に一歩下がって見る。

これ以上に大切なことはありません。






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一隅を照らすだけでは不十分

一隅を照らすだけでは不十分

この世の中にはいろいろな問題があります。

その中に生きながらも、多くの方々のこころは実に善良であると僕は思っています。

たしかに、多くの方々は自分、あるいは、自分の家族の経済的な安定や健康の維持・改善などをまず第一のこととして、日々の生活を送っていらっしゃるのでしょう。

でも、そのような中にあっても、自分が出会う人たちにはできるだけ笑顔で接し、和やかな言葉を掛け合う場面はごく当たり前の日常的な風景です。

さらには、周りの人が困っていたり、苦しんでいたりする場合に、骨身を削って親切に世話をされている方も多々いらっしゃいます。

そのような生き方はまさに「一隅を照らす」生き方であり、昔から仏教で「もっとも尊い生き方」とされています。

この世知辛い世の中がいまだ徹底的に崩壊しないのは、そんな中にあっても多くの方々が「一隅を照らす」善良な生き方を心がけていらっしゃるからだと思います。


でも、あえて言えば、「一隅を照らす」生き方だけでは不十分だと思うのです。

もちろん、個人的な幸福はとても大切なことですが、社会的諸問題の現実的な改善努力と同時に、いま、もっとも大切なことは世界の恒久の平和、つまり、国家間、民族間などにおける争いや対立のない平和な世の中を早急に 創りあげるために努力することではないでしょうか。

なぜなら、恒久の平和のなかにこそ各人の幸福もあるからです。

そういう意味で、「一隅を照らす」生き方はとても素晴らしいことであり、そのような生き方をする方々が増えてくることはとても望ましいことではあっても、それだけではまったく不十分であると僕は思うのです。

仏教で「一隅を照らす生き方」が強調されたのは、過去の時代においては、一般庶民は国と国の戦争や奪い合いなどを阻止する力や手段さえも持ち得なかったという時代背景があったためです。

庶民には社会的な平和の実現など及びもつかなかったなかで、せめて個人としてのこころの平安を維持することと、善良なこころをもって「一隅を照らす」生き方が「何よりも大切なことだ」と強調されたのだと思います。

けれども、そういうムチャクチャな社会は少なくとも先進諸国ではすでに過去のものとなり、現在私たちが生きている社会では一応は個人の自由が保障され、曲がりなりにも民主主義の世の中になったのです。

簡単に言えば、私たちは「何でもやろうと思えばできる」世の中に生きているのです。

ですから、私たちが本気で平和な社会の実現を願い、有効な方法や手段を見出すことができさえすれば、かならず、その目的を達成することができるはずなのです。

その有効な方法として僕は拙著「国の理想と憲法ーー国際環境平和国家への道」において一つの提案をしています。

これは僕自身の発想というよりも、僕の恩師の和田重正先生や小林多津衛先生などの提案に触発されて書いたものです。

両先生の提案はこの時代においてますます輝きをましているように思います。

ぜひ一読、再読をお勧めしたいと思います。


( 国の理想NetWork http://kuninoriso.jimdo.com/ )









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