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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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人の気持ちを受け止める

人の気持ちを受け止める

世の中には、一見、それなりに幸せそうにしていながら、実は、親、子ども、兄弟、夫婦間など、家族の誰かとの間に問題を抱え、長い間ずっと苦しんでいるという方々がとても多いように思います。

家族だけでなく、友人関係、あるいは、仕事の同僚や上司や部下、隣人などとの人間関係に苦しんでいる方も本当に多いようです。

そういう中でも、家族との間の苦しみは、もっとも親しい、切っても切れない密接な間柄であるだけに本当に苦しいものです。

日常的には、なるべく気にしないようにして暮らしているのですが、その苦しみはずっとこころのそこにあって、本当にすっきりした気分で生きているわけではありません。

そして、何かの折には否応なくその事実に直面して、そのたびに絶望感を抱かざるをえないのです。

多くの方がこの問題は結局解決はできないのだとして、あきらめて生きているのではないでしょうか。

これは本当に惜しい生き方です。

そう一番思っているのは、実は、本人なのですから、考えれば考えるほど苦しくなってきます。

では、解決の道はないのでしょうか?

これまでも、自分なりに努力は精一杯してきたつもりだ。それでも、どうにもならないのだからと言われるかもしれませんね。

自分自身の経験から、僕にはそのお気持ちはよく分かるつもりです。

でも、いや、それだからこそ、よく考えてほしいのです。

あなたはその問題を相手の人のせいにしていませんか?

相手の人が何か自分の望まないことを言ったりした場合に、すぐに「変なことを言っている。それは間違っている」として、相手の人を裁いて、相手の人の言うことを拒絶してきませんでしたか?

あなたは相手の人が言う言葉の真意をどこまでも汲み取ろうとしないで、すぐに、「相手はこんな意味で言っているのだ」と決め付けてはいませんでしたか?

相手の話をどこまでも聞こうとしないで、自分の言いたいことを先に言ったり、あるいは、口にしないでも、言いたいと思ってはいませんでしたか?

相手の話をよくよく聞いてみて、相手が本当に理不尽なことを言っている場合に、それだけで相手を非難して裁いてはいませんでしたか?

そのような理不尽なことを言わざるをえない相手の気持ちを受け止めようとしましたか?

人間関係上のトラブルはほとんどの場合、どちらか一方だけで作られたわけではありません。相手と自分の二人で作りだしたものです。

トラブルの種は一方的に相手の人のせいというわけではないのです。

あなたは、理屈でどちらが正しいなどと裁くのではなく、本当に相手のそう言いたい気持ちを心から受け止めようしてきましたか?

思い当たる方は、自分が相手の気持ちをこころから受け止めようとしないで、いつも拒絶してきたことに対して、どちらが正しいのかなどという理屈を超えて、できるだけ早い機会に、こころから相手に詫びることができますか?

これからももっとも親しい方とのトラブルをいつまでも引きずって生きたいですか?






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思いは自分ではない

思いは自分ではない

事実はただ事実として存在しています。

思考、感情、気分などいろいろな思いという行為、あるいは、現象そのものはたしかに事実として存在します。

そして、思いの内容は事実に附合することもあれば、附合しないこともあります。


でも、思いは自分自身ではありません。

思いは思いとしてただあるだけです。

思いはどこからともなく現われ、そのままにしていると、いつのまにか消えてしまいます。

思いはちょうど空に浮かんでいる雲のようなものです。

雲はどこからともなく現われ、そのままにしていると、いつのまにか消えてしまいます。

でも、思いが自分だと思い込んでいると、その思いに入り込んでしまいます。

その結果、その思いはどんどん膨れ上がっていきます。

思いの雲は見る見るうちに発達して積乱雲のようになったり、空一面が薄黒い灰色の雲で覆われてしまいます。

そして、結局は自分も苦しみ、周りの人も苦しむことになります。

思いが現われるのは自然なことで、それが悪いということではありません。

けれども、それを自分と思っていれば、その中に浸りこんでしまって、自分自身を見失ってしまいます。

思いはただ思いとしてながめていればよいのです。

ジル・ボルト・テイラーというアメリカの脳解剖学者がとても面白い研究報告をしています。

その報告によると、

脳内には怒りや悲しみなどそれぞれの感情を司る特定の部位があります。

何かのきっかけで、たとえば、怒りを司る部位が活性化します。そうすると怒りが発生します。

でも、それをそのままにしておくと、怒りを司る部位は90秒以内にもとの状態にもどります。そして、怒りも消えてしまいます。

その他の感情についても同じです。

ところが、それらの感情に入り込んでしまうと、その感情はますます大きくなり、長く持続するのだそうです。

要するに、たとえば、怒りが出てきた時に、「自分が怒っている」と思うからますます怒りが大きくなるのです。

怒りはただ怒りがあるだけです。

それをじっとながめていればよいのです。

そうすれば、90秒以内に消えてしまいます。

これは日常生活のなかで、そのたびにやってみれば、誰にもわかることです。

そして、何回もやっているうちに、いつの間にか、腹もだんだん立たなくなっていきます。

そして、ついには、どんな状況においても腹が立つということがなくなります。

他の感情や気分についても同じです。

特に、気分的に落ち込みやすい方は「気分は自分ではない」ということにはっきりと気がつくことが肝要です。

そのためには、瞑想の自然法を毎日実践することです。

そして、日常の生活の中でも、ふとしたときを捉えて、1分間でも2分間でも、「思いをただながめる」ということをこころがけてください。

僕はそれを「自観法」と呼んでいます。

思考や感情や気分などの思いに振り回されないことが楽に生きる秘訣です。

それは同時に、常に本来の自己に立ち戻るということです。






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自分には欠けているものはない

自分には欠けているものはない

本当の自分、あるいは、自己の本質がはっきりすると、欠けているものはひとつもないことに気づきます。

そうです。自分には何ひとつ欠けているものも、足りないものもありません。

状況がどのようなものであれ、いつも自分は完璧なのです。

ところが、若いときの自分もそうでしたが、ほとんどの方々は自分には何か欠けているものがあると思い込んでいるようです。

たとえば、自分は英語ができない。

アタマがあまりよくない。

料理がうまくできない。

仕事がてきぱきとできない。

意志が弱い。

状況判断が的確にできない。

人とうまくコミュニケーションが取れない。

歳を取ってきて体力が落ちてきた。

体に不具合がある。などなど。

そうであるとすれば、たしかに、生きていくうえで不都合なこともあるでしょう。

でも、それらはすべて自分がそのなかで生きている状況です。

たとえ状況がどうであれ、自分はなにも変わりません。

自分というものはいつも完璧なのです。

このことはとても重要なことなので、静かな時間を作って、本当にそうだということをはっきりと見極めてほしいと思います。

僕自身20代でこの存在の事実に気づいたとき、それまでの灰色でじめじめした陽の当たらないモノクロの世界から、一気に燦燦(さんさん)と陽が輝く総天然色の世界に飛び出していました。

本当はモノクロの世界など僕がアタマで描いていた幻想でしかなく、もともと、ずっと自分は光に満ち溢れ、すべてが輝いている世界にいたのです。

そのとき、「自分自身の問題はすべて片付いた。今後は生活のなかで自分の生き方を深めていけばよいのだ。これからは、他のためにだけ生きていこう」と思いました。

本当は、他というものもなく、すべてが自分であるので、誰のためでもなく、自分自身のためなのです。

あの日から、いつのまにか、今日まで数十年が経ちました。

もちろん、いろいろな状況はあるのですが、お陰様で、日々本当に楽しく生きてきました。

この存在の真実は、それまで当然であると思い込んでいたことが外れさえすれば、誰にも容易にわかることです。

たとえば、歳を取って、体が若かったときのようには働かないとしても、それは自分の使っている自動車が古くなって、新車のときのようには快調には動かなくなったということと同じことなのです。

クルマは古くなったとしても、それを使っている(運転している)自分自身が古くなったわけではありません。

別の観点から言えば、クルマが古くなったとしても、「それはそれ」という事実があるだけです。

その事実をアタマで自分勝手に、良いとか悪いとか思っているだけです。

古い車がかならずしも悪いということではありません。

古い車にはそれなりの良さもあるのです。

ですから、古くなったクルマは、それを充分にいたわりながら大切に使ってゆけばいいだけのことです。

そのようにして、終いにクルマがまったく動かなくなっても、「それはそれ」だけのことです。

どんなことがあっても自分はなにも変わりません。

自分はどこにも行きません。






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思いは事実ではない

思いは事実ではない


思いは事実ではない。これは単純な事実です。

でも、「思いは事実ではない」と言われて、ただ「それはそうだ」とアタマで思うだけでは、まったく意味がありません。

その真実にこころから気づくことが大切なのです。

というのは、ほとんどの人が「自分の思いが事実である」と思い込んでいるからです。

でも、それは間違った思い込みにすぎません。

「自分の思いが事実である」という思い込みは、それほど強力に私たちのこころにしみ込んでいます。

そして、私たちはその間違った思い込みに基づいて、考え行動していきます。

ですから、その結果、自分自身だけでなく、周りの人々にも混乱と苦しみをもたらすことになってしまいます。


思いは事実ではない。これは簡単な事実です。

ですから、そう言われると、アタマではすぐに分かった気になってしまいます。

そこに大きな問題があります。

本当に体得するのは意外と難しいのです。

私たちは子供の時から「自分の思いが事実である」と思い込み、信じ込んできました。

ですから、ちょっとアタマの先っぽで「思いは事実ではない」と分かったつもりになっても、実際には、ほとんどの生活の場面で、自分の思いを事実と錯覚して生きています。


では、どうしたら「思いは事実ではない」ということを体得できるでしょうか。

僕は第一に瞑想の自然法をお勧めします。

とにかく、瞑想の自然法を毎日最低1回、できれば2回、25分ずつほど実践することです。

そうすれば、「思いと事実は別々のものだ」ということをアタマで理解するのではなく、簡単に体感し確認することができます。

日々の実践によって、その体感はますます確かなものとなり、日常の生活のなかでも思いや気分に振り回されることも少なくなっていくでしょう。

もう一つお勧めしたいのは自観法です。

これは、日常の生活のなかで、ちょっとしたときに、1分間か2分間、自分が思ったり、感じたりすることをただじっとこころで観察するのです。

ポイントは「ただ観ている」ということです。

つまり、自分の思ったり感じたりすることを自己評価したり,分析したりしないということです。

自観法を1日に3回から5回ほど実践すれば、2,3ヶ月のうちには自分でも驚くほどの心境の変化を体験されることでしょう。

本当の幸福をアタマでなく、こころから実感するために、瞑想の自然法と自観法はとても有効なツールなのです。


いま、ここまで書いてきた今回のブログを読み返してみると、同じ表現の繰り返しがとても多いことに気がつきます。

読みにくいかもしれませんが、それだけ僕の気合が入っているのだろうと、好意的に受け止めていただければ幸いです。

なお、思いと事実、瞑想の自然法、そして、自観法については、これまでブログのなかで何回か触れていますで、併せて読んでいただければと思います。






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“いのち“にはミスはない

“いのち“にミスはない

「もはや我生くるにあらず。キリスト我が内に在りて生きるなり。」

これは新約聖書の『ガラテヤの信徒への手紙 2.20』に出てくるパウロの言葉です。

僕はキリスト教徒ではありませんが、存在の真実について僕が言いたいことはこの言葉に尽きます。

パウロの言葉を僕なりに解説すれば、次のようになります。

ご承知のとおり、キリストはこの世界を創り、常にこの世界に働きかけている全能の神のひとり子です。

神というのは僕の表現では“いのち“ということになります。

そして、神の子も神ですから、僕はキリストを“いのち“という言葉に読み替えたいのです。

そうすると、パウロの言葉は「生きているのは、もはや私ではありません。“いのち“が私の内にあって生きているのです。」となります。

さらに正確に言えば、「生きているのは、もはや私ではありません」という意味は、「いままでは“自分“というものがあって、その“自分“が生きているのだ、と思い込んでいたが、真実はそうではなかった」と読み取るべきでしょう。

そして、さらに詳しく言えば、「いままではこの体とこころを(他の存在と切り離された)“自分“であると思い込んでいたが、真実はそうではなかった」ということです。

パウロの言葉の奥にある意味は、「キリスト(“いのち“)がこの世界のすべての存在の内にあって生きているのだ」ということです。

すべての存在は“いのち“なのです。

さらに、キリスト教では「神は全能である」と言われています。

「だから」というわけではありませんが、“いのち“も全能であり、“いのち“はミスを犯すことはありません。

と言っても、実は、それを証明することは不可能です。

でも、僕はそれは真理であると確信しているのです。

それは、僕自身が精神的にも肉体的にも完全に行き詰まって、ギリギリのところで奇跡的に存在の真実を自覚できたという体験から来ています。

具体的には、「生きているのは“自分“ではなく、“いのち“なのだ。“いのち“の世界は”すべてよし”なのだ」という“自分“のアタマの思いをはるかに超えた体験から来る直感的な確信です。

同時に、この宇宙が始まって以来の宇宙の進化の方向性や、調和しながら整然と循環・運行する星々や大自然の有り様、生命の進化の方向性や生命の進化の先端に登場した人類社会の有り様、釈迦をはじめとする方々の自覚に至る経過などについて考えると、どうしてもそのように思えてならないのです。

たしかに、すべての存在を”個“というレベルで考えれば、個人的なことにしても社会的なことにしても、「これは良い、あれは悪い」などとアタマでは思えることも多々あるでしょう。

でも、そのようなアタマの思いを超えたところで、実は、起きているすべてのことには必要な意味があるのであり、それらを通してすべての存在が自覚した完全に調和した世界の実現に向かって進んでいるのだと、僕は確信しています。






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こころを据えて生きる

こころを据えて生きる

まごころ丸出しで、安心して生きることは、本当はもっとも楽な生き方であり、決して難しいことではありません。

しかし、この現実世界の中において、果して自分一人まごころ丸出しで、実際に安心して生きていけるのか、それは現実離れした空想にすぎないのではないか、という疑問も出てくるかもしれません。

確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。

それだけしかないのであれば、つねに不信や対立の心を持って生きていかなければならないでしょう。

そこからは必ず不安や焦燥、奪い合いや争いが出て来ます。

その中で時には、一時的な幸福感を得ることもあるかもしれませんが、永続する真の幸福はありえません。

他に対して不信や対立の心があれば、本当に安心して平和に生きていくことはできないのです。

確かに現実の世界には奪い合いや攻め合いがあります。

しかし、それらは表面的な現実でしかありません。

表面的な現象の底に流れている真実の愛こそ「より確かな現実」です。

それは心の眼を開けば明らかです。

真実は、この世界は愛と信頼に基づく、自他共に伸び栄える共生と調和の世界です。

この自他の本性に対する無条件的信頼を根本にして、ケチな根性やエゴイズムでなく、安心してまごころを丸出しにして、生きていくことこそ“いのち“の求めるところです。

この「いのちの世界」には常に調和と共生の世界を実現し、維持しようとする力が働いています。

それ“いのち”の世界の法則です。

この法則に沿って生きることこそ、より確かな現実に生きるということなのです。

そして、これこそ幸福に生きるもっとも確かな道なのです。

要するに、こころの一番深いところで、「自分はどう生きたいのか」ということを見極め、そこにこころを据えて生きていけばいいのです。

この生き方は個人と個人の間だけのものではありません。

現代の世界や日本は、環境破壊や戦争、貧困、食料不足など、いろいろな非常に深刻な問題により行き詰っています。

私たちは人類史上もっとも深刻な危機に直面していると言えるでしょう。

日本を含めて、人類社会は破滅へ向かってどんどん進んでいると多くの識者が警告しています。

これまで各問題に対する方策はいろいろと講じられていますが、いまだ根本的解決の方策は提示されてはいません。

行き詰まりの根本的解決は、このような危機に至った根本原因を明らかにし、それを取り除かなければなりません。

行き詰まりの根本原因は、わたしたちが大脳を重視しすぎたため、私たちの社会がこの世界(大宇宙・大自然)の根本法則である調和と共生の真理から大きく逸脱したことにあります。

社会の諸問題についても、そこに働いている法則は個人の場合とまったく同じです。

人類社会の行き詰まりの根本的解決は、まず、国際社会において主権を持ついずれかの国が、世界の国々にさきがけて国家エゴイズムを放棄して、まごころ丸出しで、世界中の飢餓や貧困、疾病など深刻な諸問題で苦しんでいる人々ために貢献する国に生まれ変わることから始まります。

その国こそ、私たちの国日本です。






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自覚から平和へ

自覚から平和へ

本当の平和は「自分とは何か? この世界とは何か?」という存在の真実の自覚なしには創れません。

と言っても、この自覚を得るためにかならずしも厳しい長年の修行が必要だということではありません。

ただ自分のこころの奥の素直な気持ちに沿って生き、人生の意味を生活の中で深めていけばいいのです。

ところで、一隅を照らすという言葉があります。

でも、それだけでは駄目だと思います。

たしかに、一つ一つの行いに真心をこめて生きていくことはとても大切だと思います。

それなりの人間関係もできて、人間的にも成長できるでしょう。でも世の中全体を見るとどんどん精神的なレベルが下がってきているように感じるのです。

一隅を照らす生き方だけでなく、同時に、世界のみんなが幸福になり、世界の平和を実現するために、どうしたら世の中全体の流れを変えることができるのだろうかという視点を持つことが大切なのだと思います。

自分の日常の仕事や勉強、あるいは、生活が自分のため、あるいは、家族のために役に立っているというささやかな充実感を持って生きている方はそれなりにいらっしゃると思います。

でも、それが世の中全体の進歩に確実に繋がっているという実感と充実感、それに伴う人生の真の喜びや生きがいを持っている人はほとんどいないのではないでしょうか。

たしかに、福祉関係、医療関係、あるいは、教育関係などの分野では自分の仕事や勉強といった個人の努力が、努力の対象となる人の喜びに繋がり、それが努力する本人の喜び・生きがいとなるということはあるとは思います。

けれども、その他の一般の仕事や勉強においては、みんなの幸せや世界の平和や世の中の進歩を願い、どんなに一生懸命努力したとしても、その努力の対象となる人もはっきりとしていません。

また、その努力そのものがこの世の中のどこかに吸い込まれていってしまうような感覚をほとんどの方が抱いているのではないでしょうか。

「自分の日々の行いや努力が本当の意味で、みんなの幸せや平和や進歩に繋がっていない。」これはいったいどういうことでしょうか?

これで本当に生きがいや生きている充実感を持てるでしょうか?

これで本当にいいのでしょうか?

そんなことを考えても仕方がないじゃないか。少しでも人の役に立てればそれでよしとするべきだろう。だから、一隅を照らすことが大切だと言うのだよ。などという声があちこちから聞こえてくるようです。

でも、それは単なるアキラメ、あるいは、無関心に過ぎないのではないでしょうか?

あるいは、感覚を鈍らして、事実から目をそむけているだけではないでしょうか?

あなたはそれで自分の人生に本当に満足できますか?

自分のこころに誤魔化しや言い訳がありませんか?


自分の内なる声に素直にしたがって、全身全霊で、本気で生きていくことこそが真実の生き方であり、真の生きがいではないでしょうか。


ここで僕の言う「全身全霊で、本気で」というのは、「宇宙の進化の流れにすっかり身を任せる」という意味です。

そこにしか本当の安心と幸福はありません。


その鍵が拙著『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』(七つ森書館)であると僕は確信しています。。





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希望のボタン

希望のボタン

日本という国に国際環境平和国家の理想が掲げられるまでには、いくつものプロセスを経過しなければなりません。

それらのプロセスについては、この提案に沿った変革が進展するにつれて、流れに沿って、その時点時点でもっとも有効な進め方を考えてゆけばよいと思われます。

ただ、そのようなプロセスの中で、変革の初めから変革の完成まで、一貫してもっとも重要プロセスは、当たり前のことですが、「この提案の賛同者がどんどん増えなければならない」ということです。

では、どうしたらこの提案の賛同者を増やすことができるでしょうか?

そもそも、その前に、あなた自身この提案に賛同しますか?

この提案の賛同者を増やすことは難しいと思いますか?

このように次々と質問されて少し戸惑いがあるかもしれませんね。

僕自身の考えを述べましょう。

僕自身は、まず、「この提案の賛同者をどんどん増やすことができる」と思っています。

理由は簡単です。「できない」と思ったら、それで終わりだからです。

「かならずできる!」という信念のもとに、みんなで「どうしたらできるか?」と方法を考えていけば、かならず有効な方法が見つかるはずだと確信しているからです。

次に、僕は、「この提案の賛同者を増やすことは簡単だ」と思っています。

この考え方は「現在の政治や経済その他をすぐに変えよう」ということではなく、そういうことには直接手を触れないで、「将来の日本の姿としてどうあったらよいと思うか?」ということを問いかけているだけなのです。

だとすれば、この提案に賛同することは実に簡単なことではないでしょうか?

最初の段階としてはそのような賛同者の数が増えていけばよいのです。

賛同者の数がある程度になってくると、その中からいろいろな動きが生じ、それによって、賛同者はますます増えていくでしょう。

それは、長期間ほとんど雨が降らなかった草原の枯れ草に、ほんの小さな火が着いただけで、見る見るうちに、火勢が大きくなり、草原全体に火が広がっていくようなものです。

もっと率直に言えば、どんなことでも、「難しい」と思えば、本当に難しくなってしまうからです。

どんなことでも、悲観しながら後ろ向きに「大変だ! 大変だ!」と思ってやれば、できることもできるはずがありません。

「かならずできる! 簡単にできる!」と明るく、楽しく、物事が陽に陽に運ぶようにしていくことが成功のカギなのです。

さて、いまあなたの手の中に一つのボタンがあります。

あなたがそのボタンを押すと、まるで魔法のように、かならず将来永遠に平和な世界が実現します。

それで僕はそれを「魔法のボタン」と名付けたのですが、「希望のボタン」と呼ぶほうがよいかもしれませんね。

さて、新たな年を迎え、あなたもあらためて希望のボタンを押しませんか?

そして、今年こそ、できるだけ多くの方々に希望のボタンが存在することを知らせていきませんか?



新しい年が、生きとし生けるものにとって、希望の年となりますように!





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これでいいのだ!

これでいいのだ!

僕の家では現在ネコを7匹飼っています。

その1匹がチビです。約1歳のメスネコです。

実は、チビはほとんど眼が見えません。

生まれてから3ヶ月ほどまでは正常に見えていたのですが、突然、ウイルス性の風邪のような病気になり、急激に衰弱してしまいました。

そして、何と、両方の眼球が落ちてなくなったのです。

チビは生と死のギリギリのところで奇跡的に回復に向かいました。

眼以外の機能は正常で、音や匂いを頼りに歩きまわったり、寝たりしています。

しかし、かすかに光や影は感じるようですが、物の形は見えなくなってしまいました。

小さい時はネコ用のトイレがどこかも分からないので、その気配を感じるたびに抱っこして連れていきました。

最近やっと自分だけで行けるようになりました。

チビはエサ場は大体分かっているようです。

でも、普段は離れたところにいるので、エサが欲しい時は鳴いて僕らに知らせます。

そのたびに、誰かがチビをエサ場に連れて行きます。

チビは僕らの手がなければ生きていくことはできません。

ある時、ふと気がつくと、家の中のどこを探してもチビの姿が見えません。

誰も気がつかないうちに家の外に出てしまったのです。

チビは自分で外に出れば家に戻ってくることはできません。

手分けして1日中探したのですが見つかりません。

僕らの家は山の中にあって、周りに人家も少ないので、もしかしたら森の中に入って迷ったのかもしれません。

翌日、家から300メートルほど離れた小道にチビがポツンと坐っているのを奇跡的に見つけることができました。

チビは無事でした。

もし、見つからなかったらチビは2,3日以内には確実に死んでしまっていたでしょう。

このようなチビですが、チビを見るたびに僕は思うのです。

「これでいいのだ」と。

チビは眼が見えません。

でも、その事実には何一つ欠けるものはありません。

そのままで完璧なのです。

チビは眼が見えません。それが何か? 何か問題がありますか?

あなたという存在も同じです。

それでいいのです。






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自覚した存在

自覚した存在

「個としての人間の進化」の次の進化の段階は“自覚した存在”、自分が不可分一体の“いのち”、つまり、愛そのものであることを自覚した存在の誕生です。

それこそが私たちの“いのち”が求めているもので、そのために、“いのち”はこの宇宙を生み出し、進化させてきたと言えるでしょう。

宇宙の進化は“自覚した存在”の誕生により最終段階に進むのですが、それで終りということではないと思います。

自覚の深度は限りなく深く、自覚のレベルにもいろいろな段階があるからです。

いずれにしても、人類はこの最終段階に進むために、必然的に、いま大きな苦しみに直面していると言えるでしょう。

でも、いずれ近い将来、多くの方々が“本当の自分”に目覚めるようになるでしょう。

それは新しい意識を持った“新人類”の誕生です。

その目覚めは特別の修行をしなくても、“いのち”の内的要請により進化の必然として自動的に起こるでしょう。

私たちはいま、かつてない歴史の段階に差し掛かっているのです。

ところで、個としての人間の思いや行いはどのようにして次の進化に繋がっているのでしょうか?

水中生活をしていた動物が陸上生活をするにいたる進化の過程を考えると分かりやすいと思います。

ある1匹の水中動物が何かに促されて陸上に上がろうとします。

でも、陸上は水中と違って紫外線が強く、また、すぐに乾燥して干からびて1時間ぐらいで死んでしまいました。

それからしばらくして、別の1匹が陸上に上がって3時間頑張って死んでいきました。

そして、また、別の1匹が半日、そして、次の1匹が3日、そして、1週間というように次第に陸上生活に適応していき、ついには、両生類のように、水中生活と陸上生活が半々の生物に進化していきました。

では、その進化の過程で陸上の環境にうまく適応できずに、途中で死んでいった1匹1匹のデータはどうなったのでしょうか?

途中で死んでしまったのだから、そのデータが遺伝子を通じて次のものに伝わったはずはありません。

にもかかわらず、しだいに陸上に適応できる生物が生まれたのは、1匹1匹の決死の努力の成果であるそれぞれのデータが蓄積され、次々と引き継がれ、それをもとに次のものが陸上の環境により適応していったからなのです。

つまり、進化の方向に沿った1匹1匹の行動のデータは“いのち”のデータバンクに保存、蓄積されて、そのデータバンクに他のものがアクセスしてデータを活用したのです。

すべての生命体の主体は“いのち”ですから、当然、それぞれの行動や思いというデータは“いのち”そのものに保存され、それをみんなで共用します。

ということは、私たち人間ひとり一人が個として願うことや行うことは個としてその場かぎりのものでなく、人類全体、そして、宇宙全体に及んでいるということです。

そういう意味でも、私たち一人ひとりはそれぞれ個としての存在であると同時に、宇宙全体の存在なのです。

ですから、私たち一人ひとりがそれぞれ進化の方向に沿ってこころに願い実行することには何一つ無駄なことはありません。

私たちは不可分一体の“いのち”、つまり、愛そのものの人として、安心してまごころを全開して、直接縁のある人も無い人も、すべての人を慈しみ、人類社会の平和を願い、全人類の幸せを祈りながら、日々生活し、積極的に行動すればよいのです。

そのように生きることこそ真の幸福なのです。





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即実行

即実行

僕は小さなときから、「こうしたほうがよい」ということが分かっていても、なかなかすぐには実行に移そうとしませんでした。

学校の宿題でも、自分でも「マズイな」と思いながら、ずっと先延ばしにして、ギリギリになってやっと取り掛かるのです。

そのために、本当に困っても、それが過ぎてしまえば、また同じようなことを繰り返してしまうのです。

その傾向は26歳ごろまで続きましたが、あるとき「思いを切る」という要領を会得してからやっと収まりました。

それにしても、人間の心理というものは本当にやっかいなものです。

例えば、「どう考えてもタバコは健康によくない。止めたい。止めなければ」と思っても、結局、「いずれ体の具合が悪くなる前にはやめるさ。でも、それまでは吸おう。とにかく、今は止めないでおこう」などと思うのです。

「アルコールの飲みすぎや、甘いものや肉の食べすぎは体によくないので止めた方がよい」ということについても同じです。

それだけでなく、僕の宿題のように、やらなければならないことをグズグズと1日伸ばしにすることなども同じです。

悪い生活習慣を直すことも同じです。

すぐにやったほうがいいということははっきり分かっているくせに、「明日になったらやろう」などと思って先延ばしにしてしまうのです。

そして、明日になってみれば、またもや「明日やろう、明日は必ずやるぞ!」などと思って、また先延ばしにしてしまいます。

とうとうぎりぎりまで先延ばしにして、やっとあわてて取り掛かる始末です。

ところが、大慌てであせってやるので、往々にしてミスを犯したりしてしまいます。

時には、とうとう間に合わなくなる場合もあります。

タバコやアルコール、食べ物などの場合は、「時すでに遅し」で、ひどい病気になって死んでしまう確率はかなり高いと言えましょう。

これが心理学で言う”延期”という心理です。

僕は自分自身の苦い経験から、「絶対にそうしたほうがよい」と思うことを一日一日と先延ばしにすることによって、どれほど自分の人生を損なっているかということについて、心当たりのある方は 痛烈に反省をしたほうがよいと、こころから忠告します。

それと同時に、”延期”の根本原因の一つは「自分ではそうしたほうがよい、そうしなければならない」と分かっているつもりでも、その突き詰め方が往々にして甘いということにあります。

根本原因のもう一つは、”延期”することがクセ、あるいは、習慣になってしまっているということです。

ですから、まずは「どうすることが自分にとってもみんなにとっても本当の得になるか?」ということを徹底的に見極めることが大切です。

次に、本当にやったほうがよいと思うことについては、”延期”することの愚かしさを徹底的に見極めます。

そして、アタマのクセに捉われずに”果敢に”即実行に移し、持続すべきことは持続することです。

そうしていけば、人生が劇的に好転するでしょう。







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本当のあなた その2

本当のあなた その2


あなたは誰ですか?

あなたは家の外でしている音ですか?

違いますね。

なぜなら、あなたがその音を聴いているのですから、あなたとその音は別々のものです。

では、あなたはからだの感覚ですか?

違います。なぜなら、あなたがその感覚を感じているのですから、あなたとからだの感覚は別々のものです。

あなたは空に浮かんでいる雲ですか?

違います。なぜなら、あなたがその雲を見ているのですから、あなたと雲は別々のものです。

あなたは食べている魚ですか?


違います。なぜなら、あなたがその魚を食べているのですから、あなたと魚は別々のものです。

あなたは触っているパソコンですか?

違います。なぜなら、あなたがそのパソコンを触っているのですから、あなたとパソコンは別々のものです。

あなたは浮かんできた思いですか?

違います。なぜなら、あなたがその思いを意識しているのですから、あなたと思いは別々のものです。

ですから、あなたは音でも匂いでも思いでもからだの感覚でも魚でもパソコンでも、何でもありません。

でも、だからこそ、あなたは音であり、匂いであり、思いであり、からだの感覚であり、魚であり、パソコンであり、すべてであるのです。

なぜならば、

この世界に存在するものはすべて現われては、また消えてゆきます。

あなたはそれをそれらの奥にあって、すべてをただじっと優しく包んで見ています。

あなたはその他のすべてのように現われもせず消えもしません。ずっと存在しています。

あなたは何ものによっても影響を受けることもありません。

すべてが現われては消えてゆくのをただ静かに受け止めています。

どこまでも静寂で透明であり、どこまでも開けていて、どこまでも自由であり、平和そのものです。

あなたは大小を超越した完全に静寂で透明なスペースであり、そのなかであらゆるものがただ現われては消えていきます。

でも、それも人間の二元相対的な見方でしかありません。

真実は、あなたであるスペースとそのなかに現れては消えるすべてのものは同じものなのです。


あなたは静寂で透明なスペースです。

あなたのなかにすべてが存在してます。

あなたはすべてであり、同時に何ものでもありません。


でも、決してアタマで理解しようとしないでください。

事実を見れば、誰にでも容易に分かります。

ただし、先入観や固定観念に捉われないで、赤子のような気持ちで素直に事実をみることが絶対条件です。

そのためにも、僕がいつも推奨する瞑想の自然法や自観法などの瞑想法をできるだけ毎日実践していただきたいのです。

アタマでは存在の真実を捉えることはできません。

このブログに書いていることも月を指差す指にすぎません。


いま小鳥が鳴いています。

それをあなたが聴いています。


“いのち“が小鳥になって鳴いています。

“いのち“があなたになって聴いています。


あなたが小鳥になって鳴いています。

小鳥があなたになって聴いています。


事実は、小鳥もあなたもいません。

あるのはただ「チッ、チッ」という音だけです。







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本当のあなた その1

本当のあなた その1

“いまここ”にいろいろな音が現われては、また消えます。

あなたは何もする必要はありません。

“いまここ”に音がただ現われては、また消えます。

音は努力もなしに自発的に現われては、また消えます。

空の雲、風、音、匂い、思い、からだの感覚などなど、すべてがただ現われては、また消えます。

花、草、木などの植物、犬やネコ、鳥、人間などの動物、山、川、大地、海、星、太陽、月など宇宙のすべてただ現われては、また消えます。

いや、宇宙そのものも、ただ現われて、また消えてゆくのでしょう。

この世界はまさに“いのち“の世界であり、すべてが“いまここ”において、ただ起きています。

“いまここ”以外の時や空間で起きていることはありますか?

“いまここ”の他に何がかがありますか?

”昨日”は本当にありますか?

”明日”は本当にありますか?

”昨日”も”明日”も“いまここ”のアタマのなかにあるのです。

“いまここ”しかない。これが事実であり、これ以外の真実はありません。

でも、アタマで理解しようとしないで、ただ、その事実をすっきりと受け止めましょう。

ところで、瞑想の自然法や自観法をやっていると、“いまここ”において、現われては、また消えてゆく思いやからだの感覚や音など、起きているすべてを、それらのずっと奥のほうで、じっと優しく見ている何かがあることに気がつくのではないでしょうか?

でも、それは”何かあるもの”として、現われては、また消えてゆくのではありません。

なぜなら、それ自体は「現われては、また消えてゆく」ものの奥にずっとあり続けているものだからです。

その”何かあるもの”とも言えないものには時も空間もなく、何の因果関係も成り立ちません。

また、“自分“や“自分“の人生や“自分“の問題や精神的な探求などという思いで作り上げた “物語”ともまったく無関係です。

”過去や未来”という“物語”、あるいは、幻想を超越し、“自分からも超越しています。

なぜなら、“自分“というものも実体のあるものでなく、アタマで作り上げた“物語”にすぎないからです。

それは、あえて言えば、「ソレ」としか言えません。

ソレこそ唯一の実体であり、ソレはあらゆるものを超越し、何ものにも傷つけられることはありません。

ソレこそ世界のすべてのものの根源である“いのち“そのものです。

そして、ソレによってこそ、この世界のすべてのものはただ現われては、また消えるのです。

そして、ソレこそが自己の正体、つまり、真の自己なのです。

音、雲、自動車、木、人、匂い、味、からだの感覚、思い、痛み、からだ、すべてが現われては消えます。

そして、”現われては消えるすべてのもの”のずっと奥に”現われては消えない何か”があるのです。

それが本当のあなたです。






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すべてよし その3

すべてよし その3

この世界は常に変化しています。つまり、生きています。

この世界は“いのち“の世界であり、不生不滅の“いのち“が現われ、刻々に展開している姿です。

普通私たちはこの変化する世界にはさまざまな生滅する生命があり、それらはみんな別々だと思っています。

けれども、別々と見えているものもすべて、不生不滅のただ一つの “いのち“の現れです。

ですから、この世界のあらゆるものが姿かたちは別々であっても、その本質はみんな同じ一つの“いのち“なのです。

つまり、この世界は“いのち“という”大いなる生命“の現れであり、そこに現れているものの他に“いのち“があるのではありません。

ですから、存在の真実を求める、つまり、悟りを求めようとして、それが目前にあるものの他にあると思い探し回るのはまったく見当違いなのです。

二元相対的には、本質である“いのち“がこの現象世界を現して、展開させているように思えるかもしれません。

けれども、“いのち“が創造主で、”この世界“が被創造物というように、二つのものが別々にあるのではありません。

これらは“唯一なる”のものを異なる角度から見た時の見え方の違いでしかありません。

真実は “いのち“ = ”この世界“ で、同じ一つのものなのです。

たとえば、日は東より出て、西に沈みます。

ウグイスは「ホーホケキョ」、カラスは「カーカー」、スズメは「チュンチュン」と鳴きます。

空には白い雲が浮かんでいます。自動車の走る「ゴー」という音が聞こえます。

眼は横に、鼻は縦についています。

このように、“いのち“(存在の真実)はあるがままの世界に“事実丸出し”で現われており、その他にあるのではありません。

いずれにしても、この世界のすべては唯一絶対の大生命である “いのち“の顕現・展開する姿であり、この世界はあるがままですべて完璧です。

ですから、“個“としての私たちが悩んだり、迷ったり、あるいは、悟るのも、社会的にさまざまな深刻な問題が生じるのも、“いのち“がそうさせているのです。

つまり、私たちがどう思おうと、すべては “完璧”、つまり、“すべてよし”なのです。

ということは、生じているすべてのことを私たちは“すべてよし”と受け止めるだけで、それ以上何も判断してはいけない、また、何も自分の判断に基づいて行動してはいけない、ということなのでしょうか?

たしかに、生きて変化している物事の全体像を捉えずに、テレビの静止画像を見るように、一部だけを切り取り、平面的思考をすればそのような考えになるかもしれません。

でも、真実は、決してそうではありません!

私たちがいろいろなことについて判断し、それに基づき行動すること、それも含めて、この世界はどこまでも完璧であり、“すべてよし”なのです。

私たちはついつい平面的思考に陥り、事実をゆがんで捉えがちです。

事実を直感的に正しく捉えるためにもキチンと瞑想をしましょう。

最後に和田重正先生の詩をご紹介しましょう。


いのちの世界では

たのしみの中にも

苦しみのなかにも

悦びがある






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すべてよし その2

すべてよし その2

“いのち“はこの世界を現し、刻々に展開させています。

この世界のすべてのものは“いのち“によって生かされています。

といっても、“いのち“とこの世界のすべてのものが別々にあるということではありません。

“いのち“がこの世界のすべてのものとして現れ、自ら刻々に展開しているのです。

つまり、“いのち“=この世界のすべてのもの です。

でも、ここではわかりやすく「“いのち“はこの世界を現し、展開させている絶対なる大生命である」と言っておきましょう。

ですから、“いのち“の現れであるこの世界は、本来、すべてが不可分一体であり完璧なのです。

つまり、"いのち"ハタラキにはまったく間違い(ミス)はないのです。

その事実を私たちは、たとえば、大宇宙における太陽や月、星々などの規則的な運行、大自然、人体、原子その他のミクロの世界において、それぞれを構成する様々な要素が調和・循環する有様を観察することによって容易に推測することができるでしょう。

上記の例だけでなく、私たちはこの存在の真実をこの世界の“ほとんどすべて”の現象において見ることができます。

ところが、私たちのほとんどが、二元相対思考中心の大脳によって、存在の真実に対する誤った認識やそれに基づく誤った観念を持っています。

その代表は“バラバラ観“で、その他に、所有観念、優劣観念、差別観念、善悪観念、さらには、自由や平等や幸福や生死などについての間違った観念があります。

そして、それらに基づいた考え方や行いによって、いろいろな個人的、そして、社会的な間違いが生じます。

個人的な間違いというのは、たとえば、「悩みや迷い」であり、社会的な間違いというのは、「いろいろな深刻な社会的問題」のことです。

上記の“ほとんどすべて”というのは、「私たちの個人的、社会的な間違いを除いて」という意味です。

最初に述べたように、“いのち“の現れであるこの世界のすべては、本来、完璧であるはずなのです。

ところが、私たちの存在の真実に対する誤った認識、つまり、“妄想“によって作り出された個人的、社会的な問題だけがその完璧さから逸脱しているのです。

完璧な “いのち“が完璧でないものを生み出す?

これは絶対矛盾そのものです。でもそれが絶対的な事実です。

だとすれば、“完璧でないもの”は見かけ上そのように見えているだけで、本当は“完璧なもの”であるはずです。

どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?

そこにどのような“ヒミツ”があるのでしょうか?

実は、そこにこそ、私たち人間一人ひとりがこの世に生まれてきた根源的な理由とこの世で生きていく真の目的が隠されているのです。

どうか、ご自身で「自分は何ものか? 何のために生まれてきたのか?」と徹底的に検べ、"すべてよし"の深い深い真実に体験的に出会っていただきたいのです。






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すべてよし その1

すべてよし その1

この世界は一つの“いのち“(生命体)です。

“いのち“はこの世界として顕現し、刻々に個々の存在や現象として展開しています。

“いのち“の世界はすべてあるがままで完璧です。

この“いのち“の世界にあって、私たちはあれこれと悩み迷いながら生きています。

けれども、その悩みや迷いそのままに完璧なのです。

なぜなら、私たちが悩むのも、迷うのも、あるいは、悟るのも“いのち“のハタラキそのものだからです。

私たちが悩んだり迷ったりするのは、「私たちが不可分一体の“いのち“そのものである」ことに気がつかないで、「“自分“は他から切り離された存在だ。すべての存在は切り離されている」という”バラバラ観“に陥っていることから生じます。

でも、それも“いのち“自身のハタラキによるのですから、それで完璧なのです。

言い換えれば、“いのち“が“いのち“自身のために、私たちが悩んだり迷うことを望んでいるのだと言えましょう。

では、何のために“いのち“はそのようなことを必要とするのでしょうか?

誰も「それはこうだ」と客観的には言えないでしょう。でも、僕自身の体験から、次のように説明できるのではないかと思うのです。

私たちは「悩みや迷い」に直面することによって、それを根本的に解決しようとして、やがて「そもそも“自分“とは何か?」という人生の根本的な疑問にぶち当たり、それを徹底的に追求せざるをえなくなります。

そして、ついには「“自分“は“いのち“である」という真実に気がつきます。これが悟り(自覚)です。

そのために“いのち“は大脳の発達した私たち人間を生み出しました。

大脳は二元相対の思考しかできません。

そこから“バラバラ観“が生じます。

そのために、私たちは必然的に悩みや迷いを持つようになります。

その悩みや迷いを超克しようとするなかで、ついには、私たちはバラバラ観の誤りに気づき、不可分一体の真実の自覚を得るのです。

ですから、私たちがどう思おうと、悩みや迷いにも大きな役割があるのです。

社会的な苦しみや混乱も同じです。

それらも私たちのバラバラ観から生じます。

そして、私たちが社会的に行き詰れば行き詰るほど、それを根本的に超克しようとする機運が高まって行くでしょう。

その結果、いつの日か、ついには、すべての人間がバラバラ観の誤りに気づき、不可分一体の真理を自覚し、その真理に基づいた本当に幸福で平和な社会が実現するでしょう。

これこそが“いのち“自身の究極の望みであり、すべてはその実現のために“いのち“自身が仕組んだ壮大な”仕掛け“だと僕には思われます。

それが本当にそうかどうかはともかく、あらゆる個人的、社会的状況を含めて、"いのち"の世界ではそのすべてに意味と役割があり、あるがままで"すべてよし"なのです。

つまり、"いのち"の世界は本質的にどこまでも大安心の世界なのです。





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本日ただいま誕生

本日ただいま誕生

私たちは、通常、自分自身について、何年前に、どこどこで、これこれの両親のもとに生まれ、それから、こういうこと、ああいうことなど、いろいろなことがあって今日まで生きてきた、というふうに考えているようです。

それはそれで今日に至るまでの過去の因果関係として事実であることは間違いありませんが、それは事実の一面にすぎません。

なぜなら、自分は“いまここ”に生きている自分しかいないからです。

そこには、“いまここ”の事実として、過去は存在していません。

ということは、自分は“いまここ”に生まれたということなのです。

つまり、自分は“本日ただいま誕生”したのです。

“本日ただいま誕生”した自分はまったく新鮮(まっさら)で、何のしがらみもなく、完全に自由な存在です。

ところが、過去のコレコレのせいで、いま自分はこんなに苦しんでいる、などと思ったり言いながら、いつまでも過去のしがらみに捉われて、ウジウジと陰気に生きている方は意外に多いようです。

みなさんは生まれたばかりの赤ちゃんを見て、どのように感じますか?

そこにあるのは天真爛漫の無邪気さと輝くような可愛らしさだけではないでしょうか。

それは赤ちゃんや小さな子どもはまっさらだからです。

真実は、大人である自分も同じなのです。

過去のしがらみなどは自分のアタマの中に,自分が作り上げた物語、あるいは、妄想としてあるだけです。

それらの妄想はどこにも事実としては存在していないことをはっきりと確認すれば瞬時に消えてしまいます。

赤ちゃんだけでなく、自分も、事実としては、“本日ただいま誕生”したのです。

だから、“いまここ”に生きている自分は、真実は、何ものにも捉われることなく完全に自由で、天真爛漫で光輝く存在なのです。

多くの場合、苦しみの原因は比べるところにあります。

比べるこころのもとは自分が何年前に生まれたと思っていることです。

真実は、いま吸っている日一息だけしかないのです。そして、いま吐いている一息だけしかないのです。

真実は、本日ただいま生まれたのです。

たとえば、体に不具合なところがあったとしても、ただいま生まれたものにとっては、その不具合そのままですべてが完璧なのです。

生まれたばかりの赤ちゃんや小さな子どもはアタマで「ああだったら、こうだったら、あるいは、あのせいでこうなってしまった」などと物語(妄想)を作り出したりはしません。

自分に与えられた状況を100パーセント受け止め、“いまここ”を力いっぱい生きようとするだけです。

だからこそ、どんな赤ちゃんでも小さな子どもでも、あんなに天真爛漫で、可愛いく光輝いているのです。

イエス・キリストは「幼な子のようでなければ天国の門は入れない」と言われました。

でも、それは決して難しいことではありません。

なぜなら、真実は、ありのままのあなた自身は、まさに、生まれたばかりの存在だからです。





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