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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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死んでも何もなくならない

死んでも何もなくならない

本来、人間も他の動物や植物などの生物も死にません。

なぜなら、人間を含めてすべての生物の本体・本質は“いのち“だからです。

“いのち“が一時的に人間やそれぞれの生物の姿をとりながら活動しているのです。

それぞれの生物が時間とともに成長し、やがて年を取って、最後に朽ちてしまったとしても、“いのち“自身が消滅するわけではありません。

私たちの本体・本質である“いのち“は不生不滅なのです。

そうではあるのですが、私たち人間もいずれその肉体は老衰や、病気、事故その他の原因でそのハタラキを止め、やがて分解されて世界中に分散していきます。

肉体は消滅したのではなくて、他の形に変化していくのです。

「死んでもなにもなくならない」というのは、「肉体とそれに付随したアタマやこころのハタラキが停止したように見えても、本当はそれらのハタラキは消滅したわけではない」という意味です。

私たちは(通常の意味で)この世に生を受け、成長し、やがて死んでいきます。

その一生でいろいろな経験をします。

それらの経験はそれぞれ、「よい、悪い、成功、失敗」などいろいろに評価できるでしょう。

でも、そのどれもすべてに「なくてはならない意味がある」のです。

私たちひとり一人の思いや行いのすべてが私たちのいろいろな評価を超えて「“いのち“の世界の進化」に寄与しているからです。

簡単に言えば、私たちひとり一人の思いや行いには何一つムダになるものはありません。

私たちが(通常の意味で)死んでも、それまで生きてきたなかで思い、行い、経験したすべてのことは決して消滅するわけではありません。

それらは“いのち“の集合意識にデータとして保存され、そのすべてが必要に応じて進化に活用されていきます。

それは生物が水中から陸上に進出していく進化の過程を考えてみるとわかりやすいでしょう。

それらの生物は一足飛びに水中生活から陸上生活できるようになったわけではありません。

気が遠くなるほどの年月をかけて、最初は30分、そして、1時間、2時間、・・・・と、徐々により長い時間陸上に適応していくという過程を経て、ついにはなんとか陸上生活に適応できるようになっていったのです。

その過程で無数の個体が進化の途上で死んでいきました。

では、陸上生活進出を目指して、その途中で死んでいった1つ1つの個体の経験的データはどうなったのでしょうか?

消えてしまったら、他の個体に伝わらず進化というものは起こりません。

死んでしまったわけですから、遺伝子を活用して生殖などの手段で水中に生息している他の個体に伝わることはありえません。

それでも、どのようにしてか、それらの経験的データは全体に伝わり、どこかに保存され、それらを活用して進化が起こり、陸上生活に徐々に長時間適応できるようになっていったのです。

同じように、私たちが生きていくなかでの思いや、行い、経験は死んでも何一つなくなるものはありません。。

それらはすべて私たちのいろいろな評価を超えて、この世界の進化に寄与していくのです。








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上昇気流に乗って  その2

上昇気流に乗って  その2

上昇気流に乗る秘訣は「こころを全開にして生きる」ということです。

さらに具体的に言えば、「こころを全開にして、まごころ丸出しで生きる」ということです。


それは別の言い方をすれば、「すべてをこの世界の本質であり自己の本質である“いのち“のハタラキに任せて生きる」ということです。

私たちの身体は全体としても、また、身体を構成するすべての要素もつねに自らの不調や不具合を整え、すべてがたえず集合離散、循環を繰り返しながら調和と健康を維持しようと働いています。

大自然も大宇宙も同じです。

この世界では、すべてが集合離散、循環しながら調和を維持しています。

そのなかで、私たち人間がアタマの思いに基づいて作り出したこの世界はいろいろな不具合や問題点が生じています。

けれども、そのなかに、すべてを調和させようとする大きな力がつねにハタライています。

そして、この世界に起こっていることはすべてそのゴールに向かっているのです。

別の言い方をすれば、この世界はそのゴールに向かって進化しているのです。

そういう意味で、僕はこの“いのち“の世界を全面的に信頼して、根本のところでは大安心して生きています。

でも、それだけでは不十分なのです。

実は、人間が関わって生じたいろいろな不具合や不調和も、実は、そのゴールに向かって起きている進化の流れの一こま一こまとして必然的に起こっています。

ではあるのですが、現実の世界には多くの人々がいろいろな問題で苦しんでいることは事実です。

すべての人ができるだけ早くそれらの苦しみから脱却して幸福で平和に生きられるように私たちはこころがけて生きていかなければならないと思います。

お釈迦様はある時「生きることは苦である」と深く感じて、苦から脱却する道を求めて出家されました。

そして、いろいろな苦労の末に苦から脱却(解脱)し、その道を多くの人々に伝えられたそうです。

そのことがどういうことかよくは分かりませんが、僕も苦から脱却する道はたしかにあると確信しているのです。

そのためは、「もともと生きることは苦ではない」ということに気がつくことです。

たしかに、人間の妄想で作り出したこの世界はいろいろな苦に満ち溢れています。

でも、本来、この世界は“いのち“の世界であり、そこにはすべてを生かし調和させるようとする大きな力がハタライています。

いや、その力こそ“いのち“なのです。

“いのち“のハタラキ(力)を全面的に信頼し、それにすべてを任せて生きる、そのとき、自分のこころが全開になり、まごころ丸出しで生きて生くことができます。

自己の本質、そして、世界の本質は“いのち“であるからこそ、そのハタラキにすべてを任せることによって、すべてがスムーズに好転していくのは当然です。

これが僕の言う「上昇気流に乗る」ということです。

そして、“いのち“のハタラキを全面信頼するするときに、私たちのアタマも正しく本当に有効に機能するのです。







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上昇気流に乗って  その1

上昇気流に乗って  その1

あなたはアネハヅル(姉羽鶴)という鶴を知っていますか?

アネハヅルはモンゴルや中国北部などで繁殖し、ヒマヤラ山脈を越えてインドその他の南アジアで越冬することを毎年繰り返しています。

僕は10数年前にテレビで放映された、彼らの繁殖地からの旅立ちから、最後の難関のヒマラヤ越え、そして終着地の南インドに到着するまでの何千キロに及ぶ旅の実態を伝えるドキュメント番組を見たことがあります。

いまこのように書いているだけで、その光景が眼に浮かびあらためて感動が胸にせまってくるほどです。

おそらく彼らは数千万年、あるいは、数百万年前から毎年あのヒマヤラ越えを繰り返してきたのでしょう。

ヒマラヤの高い山塊を越えるときには、何回も失敗を重ねたあと、ついにうまく上昇気流を捉えそれに乗って、大きくスパイラルを描きながら、ぐんぐん高度を上げ、最後にはヒマヤラ山脈の山頂はるか高く、幾重もの波の形にも似た大V字編隊を組んで、悠然と南のインドを指して跳んでいく数千羽ものハネハヅルの美しい姿。

僕はそこに“いのち“の悠久のハタラキを実感し、その美しさと同時に、なにかとても崇高なものを感じ取ったのです。

“いのち“というのはもともとそういうものなのだと思います。

けれども、人間がアタマで妄想し描き出したこの現実社会の戦争や対立、過剰な競争、飢餓、環境破壊、格差、差別、動物虐待などなどの有り様は僕にはとても醜くくて、はかなく、頼りなく、また痛ましく感じられて仕方がありません。

社会的な問題だけではありません。

個人的にも多くの人々が自分自身を苦しめるだけでなく、他人を苦しめたり、人間関係で苦悩したり、あるいは、病気、貧困など様々な問題で苦しんでいます。

もちろん、それらの諸問題やそれに起因する苦しみの本来の意味を大きな眼で捉えれば、それらも“いのち“の要請によって起っているのであり、すべては進化のゴールに向かって必然的、そして、必要なひとこまひとこまではあるのでしょう。

けれども生身の人間としては、(たとえ、ゴールに到達するためであったとしても)できるだけそういう苦しみなしに生きて生きたいと思うことは自然の情だと思います。

そういう意味でも、一刻も早く社会的、個人的な諸問題を根本的に解決する方策を立てて実行していかなければならないのです。

そして、それこそが“いのち“がわたしたち一人ひとりに望んでいることなのです。

でも、盲滅法(めくらめっぽう)に問題に立ち向かってもほとんど効果はありません。

かえって逆効果になって事態が悪化する可能性もあります。


それで、わたしたちは問題をなかなか解決できずに苦しみ続けているのです。

では、困難な諸問題を乗り越えるためにはどうしたらよいのでしょうか?

そのためにはアネハヅルのように「うまく上昇気流を捉えて、その流れに乗る」ことがポイントです。

そして、そのための秘訣は「こころを全開にして生きる」ということです。







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ただ

ただ


Auguries of innocence


To see a world in a Grain of Sand

And a Heaven in a Wild Flower

Hold Infinity in the palm of your hand

And Eternity in an hour

(William Blake)


ただ


一粒の砂のなかに世界を見

一輪の野の花のなかに天を見る

それは、君の掌のうちに無限の空間があり

いまの一時(ひととき)のうちに永遠の時があるということだ


(詩:ウィリアム ブレイク  訳:昇平)


ウィリアム ブレイクは18世紀から19世紀にかけてイギリスに生きたロマン派の詩人であり画家です。


この詩は彼の思想を説明するのによく使われる全132行に及ぶ詩の冒頭の4行です。

この4行はこの詩全体のプロローグであると同時にその要約であると言えるでしょう。

さらに言えば、彼の思想全体がこの4行に集約されていると言ってもいいかもしれません。

この詩の邦訳はいろいろな方によってなされています。

それぞれ名訳だと思います。その一つを次に紹介してみましょう。


無垢の予兆


一粒の砂にも世界を

一輪の野の花にも天国を見、

君の掌のうちに無限を

一時(ひととき)のうちに永遠を握る


(対訳 ブレイク詩集 岩波文庫 松島正一編 より)


とてもすてきな訳だと思います。

僕は僕自身の実感に基づいて、上記のように大胆に意訳してみましたが、どうでしょうか。

僕の訳を読んで、ウィリアムはたぶんしかめっ面をして言うでしょう。

「俺はそんなことを書いた覚えはない!」と。

そういう意味では、彼には大変申し訳ないと思います。

どうか、みなさんも僕の意訳に惑わされずに、上記の詩集を岩波でも他の出版社のでも買って、どうぞ名訳をお楽しみください。

要するに、僕はウィリアムの詩集の一節を借りて、存在の真実についての僕自身の体験的事実を表現してみたかったのです。

つまり、彼のこの4行の詩がたぶん彼の思想の集約であるのと同様に、僕の意訳は存在の真実についての僕自身の体験的事実の言葉による表現の集約なのです。

そこで、もういちど、上記の拙訳をここに書いてみましょう。


ただ


一粒の砂のなかに世界を見

一輪の野の花のなかに天を見る

それは、君の掌のうちに無限の空間があり

いまの一時(ひととき)のうちに永遠の時があるということだ


                          (昇平)



* 以上で、これまでの「いのちの塾」のブログのなかから、有志のみなさんが「これはよい」と評価されたブログの上位20数編の再掲載を終わります。

あらためて読まれて、皆さんはどのようにお感じになられたでしょうか?

僕自身としては、再掲載することによって、みなさまの自己の本質への洞察が少しでも深まったとすれば再掲載した甲斐があると思うのですが、果たしてどうだったでしょうか?

毎回ブログを書くときには、とりあえず思ったことをざっと書いて、そのままネットにアップしています。

僕自身あらためて再掲載したブログを読み返して、誤字や脱字も多いし、文章としても繰り返しが多い、表現力が足りない、練れていないなど、いろいろと反省するところがありました。

今後は初稿をいくらかでも見直したうえでアップしたいと思います。

というわけで、次回からは新しいブログをアップしていきますので、よろしくお願いします。







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音のない世界が宇宙の実相

音のない世界が宇宙の実相

朝早く散歩に出かけようとすると、前日、前々日の澄み切った青空はうそのように一面の空を雲が覆い、雨がほんの少し降っていました。

そのまま傘もささずに森の中を散歩したのですが、鳥の声も風の音もなく、雨の音さえも聴こえません。

そこには音のない世界だけがありました。

しばらくすると、「キー」という鳥の声がしました。

それからだんだんいろいろな鳥の声が聞こえてきました。

遠くから車の走る音もかすかに聞こえてきます。

雨が少し強くなり、木々の葉っぱに当たる音も聴こえ、周りがだんだん賑やかになってきます。

そのとき、あらためてふと「こんな簡単なことなのに見失っているんだな」と思いました。

静寂は音と音の合間、あるいは、音の切れ目に現われるのではありません。

もともと音のない静寂の世界がずっと存在しているのであり、そのなかに現象として、いろいろな条件によって音が現われたり、続いたり、消えていったりしているだけなのです。

何かの音が鳴っているときでも、それらの現象とは別の次元において、音のない世界はそれらの音に乱されたり邪魔されることもなく、ずっと変らず完璧な静寂のまま存在し続けています。

このもともと存在し、どんな現象によっても乱されたり破れたりすることのない音のない静寂の世界こそが宇宙の実相なのです。

さらに言えば、このもともと音のない世界、つまり、静寂こそ自分自身の実相・本質なのです。

音のない静寂の世界の存在に気がつくのはこれほど簡単なことです。

たとえば、真夜中にそっと起きて耳を澄ませれば、もともと静寂の世界があるのであり、そこに何かの音がしていても、その音のために静寂が破られるわけではありません。

その証拠にその音が止んだとたんふたたび静寂の世界を感じることができるでしょう。

音のために静寂が乱され破られたと思うのはアタマの勘違いです。

音がどんなにしていても、それが静寂を乱したり、破ったりすることはできないのです。

ただ、そのように思う人にはそのように思えるというだけです。

それは青空と白い雲との関係に似ています。

白い雲が青空に浮かんでいるとき、白い雲は青空そのものを乱したり、破ったりすることは絶対にできません。

青空は白い雲が現われる前も、現われているときも、消えた後でも、ずっと変らず青空のまま存在しています。

雲が増えて空一面を雲が覆ったとき、青空はなくなったように思えるかもしれませんが、ただ、そのように思えるだけで、青空は雲の上にずっと変らず青空として存在し続けています。

音のない静寂の世界はこの青空と同じです。

瞑想の自然法はこの音のない静寂の世界、つまり、宇宙の実相、そして、自己の本質に戻るためのもっとも容易で効果的な瞑想法です。

瞑想の自然法に習熟してきたあとは、日常生活の中において、どんな状況においても、いつも本当の自分自身を見失わないように、常にこの音のない静寂にこころを据えて生きていけるように実践を深めていってほしいと思います。






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ダメな人間はいない

ダメな人間はいない

僕は日頃若い人たちに接する機会が多いのですが、そんな時によく感じることがあります。

それは、小さく縮こまっている感じの人が多いということです。

そのような方々と話してみると、どこかで「自分はダメな人間だ」と思っていると言うのです。

これはとんでもない間違いです。

僕はそのような方々に訊きたいのです。

あなたはどうして「自分はダメな人間だ」と言い切れるのですか?

そのように言い切れる根拠はどこにあるのですか?

あなたはあなた自身にそのように判断する能力があると言い切れますか?

自分で勝手に「自分はダメな人間だ」と決め付けているだけではないでしょうか。

たしかに、あなたには今できないことがたくさんあるのかもしれません。

けれども、それは必ずしも、これからもずっとできない、ということではありません。

あることが今はできなくても、工夫と努力によって、将来、それなりにできるようになる可能性は誰にもあるのです。

やればできるのです。

何ごとにおいても、自分で勝手に「自分はダメだ」と決め付け、自分の能力に勝手に限界を作っていることこそ、自分自身をもっとも粗末にすることではないでしょうか。

それは頑固、我執(エゴの固まり)そのものです。

人と自分との間に垣根を作り、孤立して生きるということにも繋がっていきます。

私たちは「どんなことでも、自分で勝手に自分の能力に限界をつけることはできない」という真実をはっきりと確認することが肝要です。

簡単に言えば、私たちの能力は無限なのです。

どんなに困難に思えるようなことでも、「かならずできる」という信念のもとに、できるように、できるように、たえず、やり方や方法を工夫し改良しながら、努力を積み重ねることによって、かならず克服できるのだと思います。

僕は人間は誰でもそのような能力を持っているのだと確信しています。

世の中には、個人的、社会的、あるいは、地球的規模のさまざまな困難な問題があります。

今日までこころある方々がそれらの問題を憂い、何とか解決しようとそれぞれの分野で懸命な努力を続けられています。

それらの方々の努力には本当に頭が下がります。

けれども、一方では、そのような困難な問題を解決するなんて自分にはとても無理だと考えて、何の努力もしようとしない方々があまりにも多いように思います。

でも、個人的、社会的、あるいは、地球的規模のさまざまな困難な問題のほとんどは私たち人間自身が作り出したものです。

だとすれば、それらの問題を私たち人間自身の手によって解決できないはずはありません。

ダメな人間などいません。やればできるのです。

今日、人類社会はあらゆる面で急速に行き詰まりに向かって突き進んでいます。

このような危機的状況において、一人でも多くの方が「理想は方法と努力によってかならず実現できる」という信念に目覚めるられることを願っています。






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手段ではない瞑想

手段ではない瞑想

瞑想には様々なものがあります。

そのほとんどの瞑想が何らかの効用を得るためにするのだとされています。

つまり、それらの瞑想は効用を得るための手段であるということです。

それはそれで大変結構なことだと思います。

ただ、ここで僕がみなさんにはっきり理解していただきたいことは、僕が勧めている瞑想の自然法をはじめとするいくつかの瞑想法は悟りを含めて何かの効用を得るための“手段としての瞑想”ではないということです。

では、“手段としての瞑想”ではないとすれば、一体どういう瞑想なのかと思われることでしょう。

僕が勧めている瞑想はそれ自体がそのまま“目的”なのです。

瞑想することがそのまま“ゴール”であると言ってもよいでしょう。

私たち人間は発達した大脳を持っているために、多くの方々はありのままの存在の真実をそのまま捉えるのではなく、存在の真実についてアタマで捉えたと思いを存在の真実であると勘違いしています。

でも、それは絵に描いた餅が実物の餅ではないのと同様に、実物の存在の真実ではありません。

どんなに理性的にアタマが働いて捉えたものであっても、実物そのものではなく、単なる映像のようなものでしかありません。

しかも、アタマの能力は非常に限られているだけでなく、そのハタラキそのものが狂っている場合も多く、それを通して捉えた像自体が歪んでいたり曇っていたりします。

このように、アタマではありのままの存在の真実をそのまま捉えることはできないのです。

本当は、存在の真実、言い換えれば、真の自己は思い以前に、すでに“いまここ”に生き生きと現成しています。

では、思いを無くせばよいのでしょうか?

でも、それは不可能です。

なぜなら、私たちは石ころのような単なる無生物ではないからです。

私たち人間は発達した大脳を持っています。

ですから、思いは自然に湧いてくるので、それを止めようとしても止めることはできないのです。

では、どうしたらいいのでしょうか?

湧いてくる思いを捉えようとしないで、次々に湧いてくる思いを手放し手放しにしていることです。

思いを手放しにして、坐相をキチンと維持しながら、ただ坐っているのです。

その際、思いを手放しやすいように、数息観など何かに集中したりしながら坐っていてもよいでしょう。

いずれにしても、そのとき、存在の真実が思いに邪魔されずに素通しになっています。

道元禅師の只管打坐(ただひたすら坐る)もまったく同じです。

坐るのは何かを得るためでも、悟るための手段でもありません。

存在の真実は思い以前にすでに“いまここ”に現成しているのですから、思いを手放しにしてただ坐っていること自体が存在の真実に身も心も任せているということです。

ですから、「ただ坐る」それで完結です。

ですが、そうしてただ坐っていると、あるときふと、“自分“という意識が消え、存在の真実だけがまざまざと現成していることに気がつくでしょう。







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執着しない

執着しない

執着とは「何かにこころを惹かれ、あるいは、何かを深く思い込んで、それに捉われること」です。

でも、執着というのは「何かを目標として、その実現に向かってあきらめずに努力し続けること」とはまったく異なります。

ほとんどの方が思い当たると思いますが、何かに執着することは、ただただ自分を苦しめ人を苦しめ、しかも、何の益もありません。

ですから、執着は捨てましょう。

「えっ!? それができるくらいなら、こんなに苦しまないよ」と言う声が聞こえてくるようです。

僕にも辛くて苦しかった記憶いくつもがあります。

自分では充分わかっていることなのに、どうしてもそれができないのですよね。

でも、ここで僕は断言します。

執着を捨てるのは簡単です。

「えっ!? どういうこと?」と言われるのですか?

執着を捨てるには、ただ捨てればいいのです。

「だからぁ。それが難しくてできないと言ってるんだよ」と言われるんですか?

どんなに難しくても、ただ捨てればいいのです。簡単です。

本当に執着を捨てたいのなら、たとえ、それがどんなに難しいと思ったとしても、ただ捨ててしまえば、捨てられるのです。

やれば、できたということです。それが事実です。

思いと事実はまったく別のものなのです。

たとえ、どんなことを思っているとしても、どんな気分だとしても、思いや気分には物事の実行を妨げる力はまったくありません。

この真実に気づきさえすれば「執着を捨てるにはただ捨てさえすればいい」ということがわかるでしょう。

アタマだけではダメです。

実際に何か自分が執着していることを思い出してください。

そして、それをただ捨てる(手放す)のです。

できたでしょう。

できない? その場合には、「自分が何かをするのを縛って妨げているものがあるか?」ということを徹底的に検べてください。

すると、多分あなたは「自分の思いが縛って妨げている」と言われるでしょう。

それこそがアタマに振り回されている証拠です。

思いや気分に実際にそのような力があると思っていることこそ思い込みなのです。

その思い込みを横に置いて、もう一度「本当はどうか?」と徹底的に検べてください。

そうすれば、「自分を縛っているものなんか何もない」ということにはっきりと気がつかれることでしょう。

あなたはもともと完全に自由なのです。

「こうしたい」と思えば、何でもすっとできるのです。

意志の力でガマンしながらやるのではありません。ただやればいいのです。

でも、もう一度繰り返しますが、アタマでそう思っただけではダメです。

いままで、「絶対にできないな」と思っていたことを実際にやってみることです。

(もちろん、「自分はもとより、人を傷つけたり迷惑になるようなことをやってみろ」などと言っているのではありません。)

そうすれば、「自分はもともと完全に自由だ。執着はただ捨てればいいのだ」ということが真実であることがわかるでしょう。


では、最後にもう一つあなたに問いかけますt。


あなたは、どんなことでも、すっきりと受け止めることができますか?






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思考の功罪

思考の功罪

存在の真実を体験的に自覚するためには思考を超えなければなりません。つまり、思考に邪魔されないことが必要なのです。

では、思考は私たち人間にはまったく必要がないということでしょうか?

そうではありません。

思考は存在の真実を自覚するためには邪魔になっても、生活するためにはとても役に立つという一面があることは事実です。

たとえば、思考は何かの仕事をするための道具として使われるときにはとても役に立ちます。

ところが、何も仕事をしていないときや、仕事が終わったあとでも、必要がないにもかかわらず、勝手に思考が活動し続けている場合が多いのです。

その場合には、思考の過剰な活動自体がマイナスの精神エネルギーを生み出してしまいます。

そして、精神的消耗や摩擦を引き起こし、アタマのはたらきが鈍くなり曇ってしまいます。

そうなってくると、自分ではまともに考えているつもりでも、事実は、思考活動自体が鈍化してしまっているのです。

それは、本人には自覚がなくても、お酒を飲んで酔っ払っている状態に似ています。

このような状態では、アタマはますます勝手に思考活動を続けようとします。

ところが、アタマ自体はつねに疲れていますので、論理的に思考を続けることができません。

そうなると、脈絡のない思い(や感情)が次から次に浮かんでくるようになります。

ところが、多くの方々は「思い(や感情)が自分である」と錯覚していたり、「思い(や感情)はとても大切なものである」と思って生きているので、それらの湧いてきた思い(や感情)に振り回されて生きることになります。

要するに、明晰な論理的思考をすることは仕事をきちんと成し遂げるためにはとても有用です。

ところが、仕事を成し遂げることに関係なく、思考が勝手に活動し続けると、精神の消耗につながり、曇った思考が物事を明晰に観ることを妨げるようになってしまうのです。

さらには、いつのまにか思考自体が自分のご主人様(のよう)になってしまいます。

つまり、本来、自分が主人として道具である思考を使うべきであるのに、いつの間にか、道具である思考が自分のご主人様になってしまっているのです。

簡単に言えば、アタマに振り回されて生きているのです。

そういう意味で、自分の人生を十全なものにするためには、いつでも思考をコントロールできるようにしなければならないのです。

そのために大変効果的な方法が僕の薦める瞑想です。

毎日、瞑想の自然法や自観法などの瞑想を続け、思考をとめることに習熟してくると、瞑想していない日常の生活においても、いつでも自由に思考をコントロールすることができるようになります。

さらには、日常生活において、いつでも絶対的に透明で静寂な “いのち”そのものである自分を実感しながら生きてゆけるようになるでしょう。







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こころの自然 その4

こころの自然 その4

これまで私たちの「こころ」について僕の思うところの一端を述べてきました。

そのほかにも快・不快の感情、幸福感や精神的苦悩などいろいろあります。

それらについてはあらためて別の機会に述べてみたいと思います。

ただ、基本的には、「こころ」を感情面に限って言えば、私たち人間に生存に不可欠なものとして備わっている本能的な感情と私たちのアタマが関与して作り出された感情があるようです。

実は、それらのこころ(感情)の奥には私たちの本心とも言うべき深く広大なこころの世界が広がっています。

それは私たちの存在の根源そのもの、あるいは、存在の根源そのものから静かに、そして、静かに湧き上がってくる感情です。

感情というよりも、むしろ、情緒とでも言ったほうがふさわしいのかもしれません。

それは誰にも存在しています。

きっと、あなたも時々アタマの働きが静まったとき感じることがあるのではないでしょうか。

でも、再びいつの間にかアタマの働きや表面的な感情に巻き込まれて、こころの内奥から出てくるもっとも根源的な感情を無視したり、軽視したり、見失ってしまってしまっているのではないでしょうか。

私たちは私たちの根源から出てくる感情をこそもっとも大切にしなければならないのです。

そのためには、表面的な感情に振り回されないで、アタマの働きを静めて、いつもこの根源的な感情がこころの表面に出てくるようにして、それに沿って生きてゆきたいものです。

そのためには、「瞑想の自然法」を日々実践することをお勧めします。

瞑想の自然法はムード的な瞑想や何かをイメージして、その気分に浸るというような瞑想ではありません。

ただすべてをあるがままに任せて何も求めないないのです。

ただ見ているのです。

ただいまここにいるのです。


そして、たまには町の喧騒を離れて、自然の中をのんびりと歩くことをお勧めします。

そして、空を見、雲を見、木々を見、花を見、川の流れをただただ見ましょう。

そのようなときに、あなたはあなたの内なる声をはっきりと聞き取ることができるでしょう。


内なる声。

それこそが自分をもっとも自分らしく導いてくれるのです。







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こころの自然  その3

こころの自然 その3

ここで、怒り、悲しみ、憎しみ、嫉妬などの感情について考えてみましょう。

これらの感情も私たちにもともと備わっている本能で、私たちが本当に幸福に生き、また、生存を確保するためになくてはならない機能なのでしょうか?

それはともかく、これらの感情に身を任せ振り回されていれば、個人的にも、また、対人関係においても大きな問題となってしまうことは確かです。

そういう意味で、「これらの感情は本能だから仕方がないのだ」と決め付けてしまうのは決して賢明だとは言えないでしょう。

これらの感情に振り回されているかぎり、私たちは決して幸せに生きることはできません。

これらの感情を克服する道を探求することは私たちにとってとても大切な課題なのです。

実は、これらの感情はいくつかの洗脳と間違った思い込みが原因となって生じます。

一つ目は、自分は他から分離した存在であるというバラバラ観です。

二つ目は、自分の思いと事実はかならず一致すべきであるという思い込みです。

三つ目は、私たちの社会ではほとんどの人が何かにおいて、腹を立てたり、悲しんだり、人を憎んだり、嫉妬したりしています。それを見て、これらの感情を抱くのはは当然のことなのだと深く思い込んでいることです。

いろいろと調べてみると、この広い地球上には、いついかなるときにも決して腹の立たない人々が結構いるのです。

また、愛する肉親や親しい友人などが亡くなった場合にも、決して悲しまない人々、あるいは、それを喜び祝福する人々さえもかなりいます。

僕は「腹を立ててはいけない、悲しんではいけない、人を憎んだり、人に嫉妬してはいけない」と道徳的に言っているのではありません。

また、「それらの感情が出てきたときにはそれを押さえつけてガマンしなければいけない」と言っているのでもありません。

僕が言いたいのは「私たちは自分の間違った思い込みにはっきり気づくことによって、これらの感情から完全に自由になることができる」ということです。

そのときにこそ、私たちは本当の幸せを手に入れることができるでしょう。

それを抜きにしてはアセンション(精神的向上)はありえません。

では、どうしたらそれらの間違った思い込みに体験としてはっきりと気づくことができるのでしょうか?

それは、日頃からそれを自分のこころの宿題として常に暖め続けることです。

そうすれば、ある時ふっと気がつくときがあるはずです。

とは言っても、実際にはなかなか難しいのも事実です。

僕のセミナーでは何日間もこのテーマに徹底的に集中して調べます。

そのことによって、多くの方々がこれらのマイナス感情から開放されて、どんな状況においてものびのびと人生を楽しんで生きています。

そういう意味では、自分一人でこれらのテーマを調べる場合には、少なくとも数日間は徹底的に集中する必要があるのかもしれません。

でも、やってみる価値は充分にあります。

本当の幸せを手に入れるために、ぜひ挑戦してください。






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こころの自然  その2

こころの自然  その2

恐怖感、不安感、緊張感、ストレスなどは、本来は、問題のある状況、あるいは、問題がありそうだと感じる状況にうまく適応するために、私たちに本能として備わっている大切な機能です。

ところが、これらの機能にアタマが関与してくると、いろいろと面倒なことが起こります。

たとえば、飛行機に乗るのが怖い、あるいは、何となく不安だと感じる方は結構いるようです。

「どうしてですか?」と尋ねると、「飛行機が落ちたら死んでしまうから」というのです。

それはそのとおりです。もし、飛行機が落ちたらた死んでしまう確率はかなり高いでしょう。

「では、自動車に乗るのは怖いですか?」と尋ねると、「自動車に乗るのは少しも怖くない」と答えます。

でも、これらの方々は一つの大きな誤解をしているのです。

事実は、いろいろな調査・統計によると、飛行機事故の起きる確率は自動車事故比べ圧倒的に小さいのです。

飛行機より自動車のほうが危険なのです。

飛行機がとても危険だと思えば、恐怖を感じるのは自然だと言えるでしょう。

でも、自動車に比べて飛行機は危険だということが事実ではないということが分かれば、もはや飛行機に乗るのは少しも怖くなくなるでしょう。

飛行機は危険だというのは、社会的な洗脳と誤解が原因です。

たとえば、ハリウッド映画などには飛行機が乱気流に巻き込まれたり、突然エンジンが停止したり、ハイジャックされたり、墜落するといったシーンがたびたび出てきます。

また、私たちはテレビのニュースで世界のどこかで起こった墜落の現場の映像を見ることもたびたびあります。

その結果、私たちはいつの間にか飛行機事故はしょっちゅう起きる、飛行機はとても危険だと思い込んでしまいます。

これは一例に過ぎませんが、そのほかのことでも私たちは事実を正確に把握することなく、不必要な恐怖感や不安感を抱いて苦しんでいるという場合が多いのではないでしょうか。

取り越し苦労や心配性と呼ばれる現象もほぼ同じです。

あることについて、これから先どうなるのか分からないといった場合、不安になったり、心配になったりする方々が多いようです

でも、こういうときこそ、不安な気持ちに浸っていないで、冷静に問題は何なのかということを明らかにすることが必要です。

それが明らかでないときは、よく分からないことで不安になったり、心配しても何にもならないと、すっきりその事実を受け止めればよいのです。

問題がはっきりした場合には、すっきりと事実を受け止めて、解決するために対策を立て実行します。

対策が思いつかないときには、それ以上不安になったり、心配しても仕方がないので、その事実をすっきりと受け止めるだけです。

最初は少し難しいかもしれませんが、これは訓練しだいです。

一瞬不安になることがあっても、訓練を重ねていくことによって、どんなときでも何も心配する必要がないということを体得することができるでしょう。







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こころの自然  その1

こころの自然  その1

あなたは恐れや不安、ストレス、緊張感などの感情をどんな風に思っていますか?

これらの感情についてはいろいろな捉え方があるようです。


それらの感情は決して心地よいものではないので、ないにこしたことはない。

それはそうなのだが、でも、人間だから仕方がないと思う。などなど。


では、例をあげて検討してみましょう。

今あなたはうっそうとしたジャングルの中を歩いているとします。そこには獰猛な動物が棲んでいるそうです。

あなたはどのように感じますか?

そうです。あなたは恐怖感に襲われるでしょう。それは気持ちのよい感覚ではありません。

では、気持ちのよくない感覚だからないほうがいいと思いますか?

こういう風に思ったことはありますか?

「恐怖感は何のために必要なのだろうか?」

実は、この場合、恐怖感は「ここは危険だよ」ということを私たちに知らせてくれているのです。簡単に言えば、警報システムです。

それは私たちにもともと本能として備わっているとても重要な機能なのです。

この機能があるからこそ、私たちは危険な状況を察知して、必要な処置をとることができるのです。


もし、危険な状況の中で、この警報システムが作動しなかったらどうなるでしょうか? あなたは猛獣に襲われるかもしれませんね。

このように、恐怖感そのものは私たちの生存にとってとても重要なものだということがわかります。

恐怖感があるからこそ、私たち人類は今日まで生き残ってこれたのです。

もちろん、ジャングルに入る前にあらかじめ十分に防備措置をとっていれば、少なくとも、大きな恐怖感は出てこないかもしれません。

あるいは、まったく恐怖感は出てこないかもしれません。それでも、緊張感はあるでしょう。

その緊張感に促されて、周囲の状況にぬかりなく気を配るのではないでしょうか?

そうです。緊張感も私たちにもともと備わっているとても大切な機能なのです。

緊張感は私たちに物事に的確に対処できるように集中力を呼び起こしてくれます。

不安感も「何か問題がありそうだ。気をつけて対処する必要がありそうだ」ということを私たちに警告してくれているのです。

また、現代社会では「ストレス」という言葉をしょっちゅう耳にします。

これまで、あなたは「ストレスは悪いものだ」と思い込んではいませんでしたか?

そして、「ストレスは何のために必要なのだろうか?」などとは思ってもみなかったのではないでしょうか?

でも、ストレスも私たちにはとても大切な機能の一つなのです。

ストレスは「何かがうまく行っていないよ」という警報システムなのです。

たとえば、「何か対処の仕方を工夫してみる必要があるのでは?」とか「体が疲れているので、少し休養を取ったほうがよいのでは?」などと知らせてくれているのです。

こうして調べてみると、恐怖、不安、緊張感、ストレスなどの感情はいずれも私たちの生活をスムーズにし、生存を確保するためには、なくてはならない機能であるということがわかります。


人間て何とすばらしい存在なのでしょう!






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いのちの世界

いのちの世界

私たちは自分だけの力で生きているのではありません。

私たちは「大いなるもの」に生かされて生きているのです。

それは瞑想の自然法や自観法をすれば誰にでも簡単に分かる事実ではないでしょうか?

いや、そんなものさえ必要はありません。

道を歩いている時でも、本を読んでいる時でも、ふと、自分自身に問いかけてみましょう。

いまこのようにしているのは、果たして自分だけの力でそうしているのでしょうか?


大自然を見てみましょう。

樹木も花も鳥もネコや犬もみんな生きています。

山も川も、海も、雲も、雨も、風も、水や空気も、そして、大地も空も生きています。

岩も石も砂も土も生きています。

大自然を構成するすべてのものが「大いなるものに」によって生かされて生きています。

大自然は生きているのです。

太陽や月、無数の星や星雲、そして、宇宙自身が「大いなるもの」によって、生かされて生きています。

ここで僕が「生きている」というのは、生物学的な意味の「生きている」ということだけではありません。

生物・非生物を問わず、すべてが存在しているということとそれらの相互的なハタラキを「生きている」と表現しているのです。

岩や石ころ、川、空気、水などの、いわゆる、生物でないものに「生きている」という言葉は適切でないと思う方もいるかもしれません。

でも、生物自身がそれらの非生物との間で活発で密接な相互関係にあります。

それらの非生物なしには生きることができません。

また、生物の存在とそのハタラキによって,非生物が変容していきます。

これらの事実を考えてみれば、非生物も「生きている」と表現してもよいのではないでしょうか。

要するに、生物・非生物というのは万物のその瞬間瞬間における一時的な姿でしかありません。

いずれにしても、この世界のすべてのものが「大いなるもの」に生かされて生きています。

この「大いなるもの」を僕は「(大いなる)いのち」と呼んでいます。

自分は「(大いなる」いのち」によって生かされて生きています。

でも、「(大いなる)いのち」と自分が別々なのではありません。

自分という存在自身が、そして、自分の体やこころのいろいろなハタラキ「(大いなる)いのち」そのものなのです。

この世界そのものが、すべての存在とそのハタラキが「(大いなる)いのち」そのものなのです。

ところで、”いのち”にはもともと大小はないので、いちいち「大いなる」と言うことも必要ないでしょう。

そうです。

この世界は“いのち”の世界なのです。

自分、そして、この世界のすべての存在とそのハタラキは“いのち”の顕れた姿です。


私たちはみんな一つの“いのち”を生きているのです。

1枚の木の葉が“いのち”であり、宇宙そのものです。

あなたが、そして、目の前のパソコンが“いのち”であり、宇宙そのものです。


明らかに知りぬ。

“いのち”とは山河大地なり、日月星辰なり。






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当たり前が素晴らしい

当たり前が素晴らしい

まだ若かった時、僕はいつも未来に何かを求めて生きていました。

高校に入った後、家が非常に貧しかったことから、生きていく上での主な関心は学校でできるだけよい成績を上げて、できるだけよいところに就職しようと思っていました。

ところが、20歳半ばのある日、突然、「自分はこの人生においてどう生きればよいのか?」という根本的な疑問にぶち当たってしまいました。

その答えを求めに求めたのですが、何年経っても埒(らち)が開きません。

そして、ある日とうとうトコトン行き詰って絶体絶命の状況に陥ってしまいました。

ところが、「もうだめだ」と思った瞬間、奇跡が起きたのです。

その奇跡とは、その瞬間、「未来に何かを求める」という意識がガサッと脱落するとともに、「他と分離した自分」という意識が脱落てしまったのです。

そうして、周りを見回してみると、すべてが「自分」です。

寒い灰色の冬空も、弱々しくしく照っている太陽も、木々にわずかに残っている木の葉も、それを揺らしている冷たい風も、キーッという鋭い鳥の鳴き声も、向こうからイヌを散歩させながら歩いてくる中年の男の人も、急ぎ足で歩き去って行く若い女の子も、通りの向こうの建物も、どこからか聞こえてくる自動車の音も、この体も、この体を暖かく包んでいるコートも、呼吸も、すべてが「自分」です。

すべてがただ当たり前にそこにあり、ただ当たり前に起きています。

そこには親愛の情と安らぎと、同時に躍動するエネルギーがあります。

そのとき僕はこころの底から「本当の自由と幸福が何であるか」が分かったのです。

家に帰り,自分の部屋に入ると机とイスがあります。

でも、その机とイスも他のものもすべて僕は今はじめて見ています。

“いのち“の世界ではすべてが一瞬一瞬において新しく生まれるのです。

あるがままですべて完結しています。

欠けているものなんか一つもありません。

もともと、そうだったのであり、何も求める必要はなかったのです。

「自分は他と分離した存在だ」と思い込んでいたために、いつも「自分には何かが欠けている」と思って生きてきたのです。


そう思うからこそ、いつも「いま自分の欠けているものを何かで満たさなければならない」と思い、“いまここ”にくつろぐことなく、いつもいつも 未来にその何かを求め続けてきたのです。

でも、何かが手に入って、「これで自分は満たされるはずだ」と思っても、それで満たされることは一度もありませんでした。

真実は、“いまここ”に展開する当たり前のことこそが“いのち“の躍動そのものであり、驚異と思えるほど素晴らしいものだったのです。

「何かを求めなければならない」と思って、“いまここ”の当たり前のことをアタマを通して見ると、実に、陳腐でツマラナイものに見えます。

でも、何も求めることなく、“いまここ”にくつろいでいると、もともと、みんな輝いていることが分かるでしょう。






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バラバラ観は存在の真実か   その5

バラバラ観は存在の真実か   その5

前にも述べましたが、一人一人の人間の生命は1個の受精卵から始まります。

その1個の受精卵から、何回も細胞分裂を繰り返され、結局60兆以上の細胞、各種の機能を持つ組織、器官が生み出され、それらの各要素が全体として、人間という一つの生命体を構成しています。

これらの細胞、組織、器官はもともと一つのものであり、人間の体全体が1個の受精卵の別の表現であると言うことができます。

なぜなら、最初の1個の受精卵の中にもともと一人の人間の体を創るすべての遺伝子情報、あるいは、能力が含まれているからです。

また、現在地球上に生存している全ての人間は共通の先祖を持つということについても前に述べました。ということは、私たちの最初の共通の先祖の中に、現在地球上のすべての人間を創る情報が含まれていたということになります。

そういう意味で、すべての人間はもともと一つの“いのち”であるのです。

さらに言えば、現在地球上に生存するすべての人間を含めた動物や植物はもともと一種類の単細胞生物が多様に進化したものです。

ということは、最初の一種類の単細胞生物の中に、現在地球上に生存するすべての人間を含めた動物や植物を創り出すすべての情報、あるいは、能力が含まれていたということになります。

ということは、地球上のすべての生物はもともと一つの“いのち”であるということです。。

この宇宙は137億年ほど前に、何もないところから、突然ビッグバンによって始まったと言われています。

一番最初に素粒子ができ、それからいろいろな過程を経て、今日の宇宙になったそうです。そして、その中に太陽系があり、その惑星の一つが地球です。

その地球に38億年ほど前に最初の生命が誕生し、最初の単細胞生物から長い年月の進化を経て、現在のこの大自然、その中に、動物や植物たち、そして、すべての人々が存在しているというわけです。

この宇宙が始まるまでは何もなかったと言われますが、まったくの空っぽということではありません。

眼には見えない無限のエネルギーがもともとあり、それが突然現象化して、この宇宙ができた、ということでしょう。

そして、宇宙自体が長い進化の過程を経て今日の宇宙の姿になったと言われています。

であれば、現在も変化し続けているこの宇宙に存在するものは、無生物であろうと、生物であろうと、すべてこの一つの無限のエネルギーの表れであり、ハタラキである、と言えるのではないでしょうか。

このように、この宇宙を創り、宇宙にはたらいている無限の力、あるいは、この宇宙自身の無限のエネルギーは、無数の星々を創り、大地や山や川、海などの大自然、すべての動植物、そして、私たち一人ひとりを生み出し、生かしています。

そのエネルギーを僕は“いのち”と呼んでいます。

要するに、この宇宙の中に存在するすべてのもの、すべてのハタラキは、もともと一つの “いのち”なのです。






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バラバラ観は存在の真実か  その4

バラバラ観は存在の真実か  その4

すべての存在は不可分一体の関係にあります。その中で「個と全体」の関係は、どのようになっているのでしょうか。

私たち人間の体について調べてみましょう。

一人一人の人間の生命の元は一個の受精卵です。

その受精卵がそのままではあまり精密な生命活動をすることができません。

そこで、1個の受精卵が細胞分裂の結果2個の細胞になり、それがまた分裂して4個となるというように、細胞分裂が無限回と言えるほど繰り返し起こります。

結局60兆以上の細胞が形成され、それらの細胞から、各種の機能を持つ組織、そして、器官が生み出され、それらが全体として一人の人間という生命体を構成しているのです。

では、それぞれの細胞や、それぞれの組織、それぞれの器官はバラバラでしょうか?
 
無関係なのでしょうか? 

「ただ繋がりがある」というだけの関係なのでしょうか? 

「密接な関係がある」という表現でお互いの関係を充分に説明しきれるでしょうか?

いずれも間違っています。

それぞれの関係は互いになくてはならない関係であり、互いに助け合い、補い合う関係にあります。

そして、それぞれが互いに循環し、それぞれの特性や役割を果たすことによって全体である一つの生命体(いのち)が生きています。

つまり、それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命体はそれぞれの個としても生きているのです。

「個と全体」の関係をもう一つ例を使って説明しましょう。

1987年に発表されたハワイのカン博士らの研究によれば、現在地球上に生存するすべての人間は20万年前にアフリカに生きていた一人の黒人女性を共通の先祖として持つそうです。

要するに、すべての人間はその女性の子孫であり、人類はみな兄弟・家族というわけです。

人類の共通の先祖が本当に特定されのかどうかは別として、すべての人類が、ある特定の共通の先祖を持ち、すべての人間がその子孫であるということには異論はないと思います。

それは「それぞれの人間はある共通の先祖から分かれてきた」と表現することもできるでしょう。

でも、実際には「分かれた」子孫の男女がまた結びついて、共通の子孫が生まれるということが今日まで無限大に近い回数繰り返し起こっているのです。

ということは、「分かれてバラバラになったかに見えて、それは無数の新たな結びつきを有機的に形成することに繋がっていくということです。

ということは、「バラバラで関係がなくなった」のではなく、一見バラバラに見えるイメージも不可分一体の姿の一つだということです。

このように、最初の人類から今日まで生きてきたすべての人間は、いわば、無限回に近い有機的な結びつきによって形成された立体的網の目のような関係になっています。

それは、その立体的な網自体が人類という一つの大きな“いのち”であるということです。

つまり、すべての存在の真実は、それぞれの個は個でありながら、同時に全体である。全体は同時にそれぞれの個であるということなのです。







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バラバラ観は存在の真実か  その3

バラバラ観は存在の真実か  その3

これまで述べてきたことを整理してみましょう。

この世界に存在するすべてのものにはいくつもの存在の階層(レベル)があります。

例えば、ミクロの世界では、いろいろな素粒子が集まっていろいろな原子ができ、いろいろな原子が集まっていろいろな分子ができています。

人体でもいろいろな分子が集まっていろいろな細胞構成物質ができ、さらに、それらの細胞構成物質によっていろいろな細胞ができます。

そして、いろいろな細胞によっていろいろな組織ができ、いろいろな組織によっていろいろな器官ができます。

そして、それらが集まって1個の人体が形成され、人体という不可分一体の「一つのいのち」を生きています。

さらに、人間は人間たちだけで単独に生きているのではなく、他の動物や植物、さらに、川、海、大地、空気、空、太陽、月、などなどと一緒に大自然を形成しています。

また、地球はその他の惑星と太陽とで太陽系を形成し、そして、2000億もの太陽のような恒星があつまって銀河系星雲を形成しています。

さらには、1000億個以上もの星雲によってこの大宇宙が形成されていると言われています。

この世界のそれぞれのレベルでその構成要素のすべてが自然の法則、あるいは、宇宙の法則に従って、関連しあい、作用しあい、補い合い、協力し合って、循環しながら、全体として調和した一段階上部の構成要素を形成しています。

つまり、それぞれのレベルの構成要素のすべてがその存在レベルにおいて不可分一体であり、一段階上部の不可分一体の「一つのいのち」を生きているということです。

そして、一段階上部の構成要素が集まり、同様にして、さらにもう一段階上部の構成要素を形成していっています。

要するに、それぞれの存在はバラバラではなく、また、「ちょっと関連がある」というような希薄な関係にあるのではなく、「私はあなた、あなたは私」「すべては私、私はすべて」とでもいう密接な関係になっているのです。

これを僕はバラバラ観に対して一体観と呼んでいます。

ここでもう一度、個と全体という観点から、一体観とバラバラ観について考えてみましょう。

というのは、私たち人間一人一人には確かに「自分」という意識、すなわち「個」という意識があるからです。

そして一人一人、あるいは、一つ一つの存在はバラバラであるというように見えているのも事実なのです。

これをどのように考えたらいいでしょうか? 

これは私たちの五感を通して見たり、感じるイメージとこの世界の本当の姿の違いであると考えられます。

この違いを一つの例えで説明しましょう。

太陽光線は無色であり一つのものです。

ところが、無色の太陽光線をプリズムに通すと虹のようにたくさんの色に分かれます。

これと同じように、すべての存在はもともとは一つのものなのですが、私たちの五感と大脳(とくに左脳)を通すとたくさんの「個」として見えてしまうのです。

けれども、これがとんでもない錯覚であることはこれまでの説明ですでに明らかでしょう。






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バラバラ観は存在の真実か  その2

バラバラ観は存在の真実か  その2

大宇宙

人間の存在が一つの不可分一体の小宇宙であるように、大宇宙そのものも不可分一体です。

たとえば、太陽の周りをいくつもの惑星が法則に従って規則的に整然と回っています。

また、いくつかの惑星の周りにも月や衛星が整然と回っています。

銀河系には私たちの太陽系のようなものが2000億ぐらいあるそうです。

そして、現代のもっとも性能のいい望遠鏡で観察したところ、銀河系レベルの星雲が最低でも1000億個以上あるそうです。

まさに私たちの宇宙は大宇宙であり、無限、無数とでも言うべき星や惑星系、星雲、星間物質などからできています。

しかも、それらがすべて法則にしたがって整然と循環し調和しながら動いています。

このように、大宇宙も法則に即して整然と運行する不可分一体の世界なのです。


ミクロの世界

ミクロの世界は小宇宙とも呼ばれます。

いろいろな原子では、それぞれ大きさの違う原子核の周りをそれぞれ一定数の電子が法則に従って乱れることなく飛び回って、一つの原子として働いています。

それぞれの原子核はいろいろな素粒子で構成されています。そして全体で調和しているのです。

分子は原子が結合したものですが、分子についても同じです。原子も分子も一体なのです。

大自然

大自然はいろいろな要素によって構成されています。

空、雲、雨、太陽、月、雪、川、海、山、土、砂漠、草原、鉱物、植物、動物、微生物などすべての構成要素が関連しながら循環し、全体として一つになっています。

このように、自然も調和した一体共生の世界なのです。

「調和した」という考えには異論もあるかもしれません。

例えば、ライオンが鹿を食べるのは弱肉強食の残酷な事実であり、地震や洪水などの自然災害を見れば、自然は調和しているとはとは言えないと言うのです。

しかし、それは人間の都合で物事をアタマで部分的に皮相的に見た相対的見方にすぎません。

自然の実相も調和した共生世界なのです。

植物と動物

例えば、植物は空気中から吸収した二酸化炭素と根から吸い上げた水を光のエネルギーによって光合成をすることによって体の成分を作ります。

同時に、植物は酸素を作り空気中に放出します。

その植物を、例えば、鹿などの草食動物が食べます。そして、それらの草食動物をライオンなどの肉食動物が食べます。

動物は呼吸によって植物が放出した酸素を吸収し、同時に二酸化炭素を作り空気中に放出します。

それを植物が光合成のために使います。

動物の吸収した酸素は食べた食物の分解や消化、あるいは、活動のためのエネルギーを作るのに使われます。

動物の体からの排泄物や、動物の死んだ体は微生物の食べ物として分解されて、結局は土や大気の中に分散されていきます。

土の中に分散していった成分は植物の養分となります。

植物自体も枯れて死んだら、微生物に分解されて再び土壌に戻り、次なる植物の養分になります。同時に、空気中にも成分が分散されていきます。

空気中に分散されたいろいろの成分は大気の循環によって、事実上、世界中を循環し、地球のあちこちで再び土や植物や動物に吸収され別の循環経路に入っていきます。

このように大宇宙も、大自然も、原子や分子などのミクロの世界も不可分一体の調和した世界なのです。







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バラバラ観は存在の真実か  その1

バラバラ観は存在の真実か  その1

これから何回かに別けて書いていくことは、これまでいろいろなところに書いてきたことと重複するものが多いのですが、「自覚と平和」というテーマを考えるうえでとても重要ですので、あらためてじっくり読んでいただきたいと思います。

バラバラ観は存在の真実か?

個人レベル、集団レベル、あるいは国家レベルを問わず、人間(人類)はいろいろな深刻な問題で悩み苦しんでいます。

これらの諸問題の根源的原因は結局のところすべて人間のもつエゴイズムにあると言ってよいでしょう。

ということは、もし、エゴイズムが人間の本質であるとすれば、それこそ、本質的に、人間の諸問題を解決することは不可能であるということになります。

したがって、エゴイズムが人間の本質であるかどうか?ということは実に重大なテーマです。

エゴイズムは「この世の中のそれぞれの存在はバラバラである」という「バラバラ観」から出てくる「自分さえよければ」という考え方、あるいは生き方です。 

では果たして、バラバラ観は「存在の真実」なのでしょうか? 

まず、もっとも身近な存在として、人間の存在について考えてみましょう。

一人一人の個人を考えてみても、人間の身体には60兆以上もの細胞があります。

一個の細胞を調べてみると、遺伝子、細胞液、細胞膜などいろいろな要素によって構成されています。

その細胞が集まって膜、血液その他の体液、筋肉などいろいろな組織が構成されています。

さらに、それらの組織が集まって胃、腸、心臓、肝臓、腎臓目、鼻、口、血管、骨などの器官が構成されています。

また、それらの器官が集まって頭部、首、胸部、腹部、手、足など身体の各部が構成され、さらに、それらの各部によって一個の人体が構成されています。

そして、人間の一個の存在は身体だけでなく感覚、知能、知識、思考、記憶、感情、心など各種の要素によって構成されています。

つまり、一個の人間の存在は、細胞や組織、器官、各部、さらに、知能、記憶、感情、心などレベルの異なるいろいろな要素によって構成されています。

しかも、それらの各要素は絶えず離散集合し、循環し、活動し、或いは停止したりしています。

つまり、それら要素はお互いにバラバラな存在ではなく、密接な関係がある、繋がりがあるというレベルをはるかに超えた、切っても切れない間柄であり、互いに補い合い、助け合い、循環しながら一個の人間のいのちを維持存続させています。

 このように、一人の人間の存在は一つの小宇宙であり、「すべての細胞や組織や器官、さらに知能、記憶、感情、心などがお互いになくてはならない存在」、「互いに生かし生かされあう関係」として存在し、循環・調和して機能しています。

別の言い方で言えば、All for one, one for all.、つまり、「すべては一つのために、一つはすべてのために」という関係です。

その状態は「バラバラに分けることができない一体の関係」と言う意味で、「不可分一体」と表現するのが適切でしょう。







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いまを微笑む

いまを微笑む

僕はまだ若かったとき、所詮(しょせん)人生は無常ではかないものだという思いを強く抱きながら生きていました。

自分はその時々にいろいろなことを思い、やりながら生きている。

でも、次の瞬間にはそれらはすべて消えてなくなってしまう。

たしかに、自分が思い、行い、経験したことの結果は次々と繋がっていくだろう。

しかし、その瞬間に思い、行い、経験したことはもはやどこにも存在していない。

100年後、200年後になってしまえば、この自分が生きていたということさえも誰も知っている人もいないだろう。

かりに社会的に何か素晴らしい功績を成し遂げ、それが歴史として語られることがあったとしても、それはあくまで過去の出来事であって、もはやどこにも存在していない。

このように考えていくと、「結局、自分の一生とは何なのだろう?」という思いに捉われて、何をやっていても、こころの奥で、むなしさを感じぜずにはいられなかったのです。

そのために、何をやっても、いつも「これでいいいのか?」というような思いや、どこか張り合いのなさのようなものを感じるのです。

「果たして、こんな自分が生きていていいのだろうか? 自分が生きていく価値や意味があるのだろうか?」という気持ちがいつもあって、何か足下が頼りないような気持ちで毎日を生きていました。。

ところがある日、飼っていた一匹のネコと庭で遊んでいたとき、突然、「いまがすべてだ。いまは永遠なのだ」ということに気がついたのです。

そう思って、周りを見回すと、花が咲き、鳥が歌い、空には白い雲が浮かんでいます。

すべてが“いまここ”に存在しています。

そこには過去、現在、未来という人間のアタマで作り出した時間軸という“物語”を超えて、事実として、永遠の“いまここ”という実在だけがありました。

これは、26歳のある時自己の本質を垣間見るという体験の直後に起きた気づきです。

この真実に気づいてからは、もはや、いっさい無常感に襲われることもなくなりました。

そして、今日まで、何をやるにしても、力いっぱいやって生きていけばよいのだという気持ちで、足下をしっかりと踏みしめながら、生きていけるようになりました。

たとえどんなことがあっても、こころの奥ではいつも生きていくことそのものが楽しいのです。


真実は、誰にとっても、生きることは悦びそのものであり、いまの一呼吸、いまの一歩がすべてであり、永遠です。

この真実に気がつきさえすれば、誰でも、何の努力をすることもなく、自然に、いまを微笑みながら生きていけるようになるでしょう。

考えてみれば、この人生のなかで、いま微笑まないで、いつこころから微笑むことができるというのでしょうか。

いまここを微笑んで生きる。

これ以上大切なことはありません。

そして、そのカギは自分のこころのなかにあるのです。






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