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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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水と氷  その2

水と氷  その2

全宇宙は“いのち“の顕現です。

いや、顕現と言うと全宇宙と“いのち“との2つがあるように思われるかもしれませんが、そうではなくて、全宇宙が“いのち“そのものなのです。

前回のブログで存在の真実を「水と氷」という比喩(ひゆ)を使って説明するときに、「液体の水が何かの縁で固体の氷に変り、その固体の氷がまた何かの縁で液体の水に戻る」と書いたのは本当は必ずしも正確ではありません。

本質である“いのち“とそれが顕現した現象としての全宇宙があるというのは、いわば、説明上、本質と現象に分けて、そのように表現しただけのことです。

存在の真実は「本質イコール現象」です。

つまり、「全宇宙イコール“いのち“」です。

「全宇宙」、そして、「“いのち“」というのは同一のものの別々の名称です。

同一のものを一つの方向から捉えると全宇宙と見え、もう一つの方向から捉えると“いのち“であるというわけです。


明らかに知りぬ

心とは山河大地なり 日月星辰なり

と、昔の中国のある禅のマスターが言ったことも同じです。

「水と氷」に戻ると、液体の水も固体の氷も、さらには気体の水蒸気もそれぞれどのように変ろうと、そのままでH2O「エイチ ツー オー」です。

存在の真実は全宇宙、そのすべてはH20、つまり、“いのち“そのものです。

宇宙のすべてはどこまでも“いのち“に満ち満ちています。

この世界にはただ一つのものがあるだけなのです。

さらに、「本当の自分とは何か?」ということに戻れば、本当の自分はそのまま“いのち“であり、“いのち“はそのまま全宇宙です。

つまり、本当の自分は全宇宙そのものです。

これは、「このように考えていけば、このような結論になる」と言っているのではありません。

「事実がそうだ」ということです。

「大きな宇宙のなかに小さな自分という存在がある」というのは、能力の限られた五感に基づいて、二元相対的にしか認識のできないアタマによる錯覚、あるいは、妄想にすぎません。

この存在の真実を捉えることは、五感とアタマによる捉われを脱しさえすれば、決して難しいことではありません。

そのためのとても有効な方法は、思考に妨げられないまでの深い瞑想状態に入ることです。

そうすれば、いわば、「こころの眼」で存在の真実を見ることができるでしょう。

本当は、瞑想状態でなくても、アタマによる認識・思考による「個としての自分」という意識ちょっと横において、事実の世界を素直にありのままに見ることさえできればいいのです。

そうすれば、この世界のあらゆるものが自分であり、(他と切り離された小さな)自分などというものどこにもないことが分かるでしょう。

もし、「あらゆるものが”自分”である」という言い方が、これまでの感覚から、いまひとつしっくりこないようであれば、「あらゆるものが”自分の分身”である」と言い換えてもよいかもしれません。





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水と氷 その1

水と氷 その1

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて

水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず


これは江戸時代に生きた白隠禅師の『坐禅和讃』の冒頭の部分です。

私たちの多くは成長する過程で「自分とは何か?」という疑問にぶち当たるようです。

その疑問は簡単に答えが出ずに、どこかに引っ掛かった気持ちは残ったとしても、いつの間にか忘れられてしまうことが多いのではないでしょうか?

それでも、なかにはその疑問に対する答えを何としても見つけ出さずにはいられないという方もいらっしゃいます。

そのような方々の多くはその答えを哲学や心理学、あるいは、その他の精神世界について書かれた本やそれらをもとにした思索を通じて見い出そうとしたり、坐禅や瞑想などに取り組んでみたり、さらには宗教のなかに見出そうとされます。

僕自身もそのような一人でした。それでもなかなか答えが見出せず、とことん行き詰ってしまい、とうとうすべての努力を放棄せざるをえなくなってしまったときにその答えが奇跡的に与えられました。

それは自分にとっては実に不思議な現象でしたが決して神秘的なことではありませんでした。

そのときに気付いたことは、実に当たり前すぎるほど当たり前の事実でした。

簡単に言えば、「このままでよかったのだ」ということです。

それをもう少し詳しく表現してみると、上記の白隠禅師の坐禅和讃の冒頭の数行とぴったり一致するのです。

いま水の表面にいろいろな姿をした大小の氷が浮かんでいます。

ひとつ一つの氷だけを見ていると、それらはみんなバラバラに切り離され、それぞれが実にハカナイ存在であるかのように見えます。

でも、それぞれの氷はそれぞれの縁によって、いまそれぞれの姿をしながら、少しずつ変形しています。

いずれの氷もその本質はみんな同じ一つの水であり、それぞれの氷はある時を経過すると、再びもとの水に戻ります。

そして、また、時が経過して、再びいろいろな姿をした氷が現われてきます。

僕が「人は死なない」というのはそういう意味です。

私たちはどこまで行っても水(“いのち“)そのものなのです。

水であるときはもちろん、氷の姿になっているときも水に違いないのです。

そもそも、「どこまで行っても」という表現自体が正確ではありません。

私たちは(肉体が)死んでもどこにも行きません。

たとえ私たちが肉体を使って生きているときでも、その肉体が朽ち果てても、私たちは変らずずっと“いのち“だからです。

ですから、私たちはもともと生まれもしなかったし、死ぬこともないのです。

生きていくなかで、この自分の本質に、知的にだけでなく、体験的にはっきりと気がつくことが何より大切だと僕は思います。

存在の真実に気付くことは本当はとてもシンプルなことなのです。

アタマの思いをはずしてただ事実を見ればよいのですから・・・。






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大理石の中の女神  その2

大理石の中の女神  その2

どんな人のなかにも女神がいます。

人だけではありません。生きとし生けるもの、そしてこの世界の万物のなかに女神がいます。

女神というのははこの世界のすべてのものの本質である“いのち“(仏性・仏心)です。

「そんなものがあるのか?」と思う人もいるでしょうが、それはこの世界のすべてのものに働いて、すべてのものを成り立たせている一種のエネルギー(力)と言ってもよいでしょう。

赤ちゃんや幼子はそのままで光り輝いています。

それは赤ちゃんや幼子はまだ自我がほとんど形成されていないので、何ものにも妨げられないで“いのち“がそのまま現象として現われているからです。

それは動物や植物についても同じです。

ですから、たとえば、赤ちゃんや幼子、(人間にいじめられていじけているものは除いて)犬やネコたちはそのままで無条件で無邪気であり、何とも言えず可愛いのです。

いろいろな花や草などをじっと見ていると、何とも言えない清らかさを誰でも感じるのも同じです。

さらに言えば、私たちが大自然や大宇宙に対するとき、そこに見るのは大きな調和であり安らぎです。

もちろん、台風や地震などの自然災害はそこに生きる人間や動植物にとってはやっかいなものであることは事実です。

けれども、人間の眼を超えて宇宙大の大きな眼で見ると、そのような自然災害を何回も経て、今日の地球や大自然や大宇宙が形成されてきたことを考えると、それも大きな調和へのハタラキと言えるのではないでしょうか?

ここで話を私たち大人の人間について考えてみましょう。

私たちは成長するにつれて自我を形成していきます。

自我というのはアタマのハタラキにより、「すべての存在は切り離された存在である」と認識し、この世界を「自分という存在とそれ以外の存在」とに分けるところから生じます。

そこから、私たちはこの社会で育っていく中で、いろいろな間違った観念や妄想を抱くようになり、それらを通してこの世界を見るようになっていきます。

同時に、いろいろな間違った観念や妄想によって不自然なマイナス感情を抱くようになります。

赤ちゃんや幼子や犬、ネコなどは自我がほとんど形成されていないので、無邪気さや輝きがそのまま発揮されているのですが、私たちのこころの表面は間違った観念や妄想やマイナス感情を纏(まと)うことによって、大なり小なり曇ったり汚れたりしている可能性があると言えるでしょう。

(もちろん、自我の形成にはそれなりのプラスの意味はあるのですが、それについては別のところで書いてみたいと思います。)

けれども、それは私たちの奥にある本質である“いのち“がなくなったのでも、その輝きが少しでも失われたわけではないのです。

本当はどんな人でもそのままで光り輝いているのです。

ですから、その真実を自覚することほど大切なことはありません。

同時に、日々の生活において間違った観念や妄想やマイナス感情を努めて払拭することがとても重要です。






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大理石の中の女神

大理石の中の女神

皆さんはイタリアの非常に有名な彫刻家のミケランジェロという名前をご存知でしょう。


そのミケランジェロにこんな逸話が残っています。

彼が友人と二人で町の郊外を散策していると、あるところに苔むして、土で汚れた人の背丈ほどの大きな岩がありました。

それを見たミケランジェロは「この岩の中に女神が閉じ込められている。助けなければならない」と言いました。

友人には何のことかさっぱりわかりませんでした。

その足で急いで町に帰ったミケランジェロは人夫を手配して、その大理石を彼の工房に運んでもらいました。

それから彼は寝食を惜しんで、毎日毎日岩に向かって鑿(のみ)を振るいました。

数ヵ月後に彼はあの時一緒に散歩した友人に使いを出して工房に来てもらいました。

友人は工房に入って目の前にあるものを見て言葉を呑みました。

彼が目の前に見たものは一人の何とも気品があり優美でまるで生きているかのような女神の像だったのです。


この逸話を読んでみなさんはどのように思われましたか?

僕はこの逸話を聞いてとても感動しました。そして、さすがミケランジェロにふさわしい話だなと思いました。

おそらく、多くの優れた芸術家はこれと似たような体験を少なくとも何度かはしたことがあるのではないかと僕は推測するのですが、どうなのでしょうか。

みなさんも僕と同じような感想を抱かれた方も多いと思います。

でも、僕がここでミケランジェロのこの逸話をみなさんにご紹介したのは、もしかしたら、みなさんとは少し異なった視点からこの逸話を捉えることができるのではないかと思ったからなのです。

僕はあらためて、この逸話のなかの「ミケランジェロは自分自身であり、そして、その苔むした土で汚れた岩も自分自身である」と捉えてみたいのです。


そう捉えなおしてみると、「その苔むして土で汚れた岩の中に虜(とりこ)になっていた何とも言えず気品があり優美な女神こそ自分自身の本性である」と言えるのではないでしょうか。

この逸話をこのように捉えなおしてみると、「優れた芸術家の直感は素晴らしい」などという 一般的な 捉え方に比べて何十倍、何百倍もいっそう輝きを増すのではないでしょうか。

真実は、誰の中にも、たとえ表面がどんなに汚れていたりゴツゴツしていたとしても、美しい女神が潜んでいます。

私たちの人生の目的は、表面の汚れやゴツゴツしている部分をできるだけ払拭して、自分の本質である美しい女神が表に現われるようにつねにこころがけていくことにあります。

菩提本(もと)樹無く

明鏡も亦(また)台に非ず

本来無一物

何れの処にか塵埃を惹かん

           (慧能)


身は是れ菩提樹
 

心は明鏡台の如し
  

時時に勤めて払拭せよ
  

塵埃を惹かしむること莫れ

          (神秀)


自分自身だけのことではありません。

誰の中にも表面がどんなに汚れていたりゴツゴツしていたとしても、その美しい女神が潜んでいるのです。





誰でもその本質はそのままで輝いているのです。







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いまこそ平和大国を目指して

いまこそ平和大国を目指して

「大国」という言葉のもともとの意味は「大きな国。土地が広く国民の多い国。又、強大な国」です。

それから発展して、「経済大国」、「軍事大国」、あるいは、「ワイン大国」など「世界の国々の中で何かあるものが目立っている国」というような意味でも使われます。

僕は現在の日本、そして世界のいろいろな問題で行き詰った状況を乗り越え、本当に平和な日本と世界を実現するためには、いまこそ日本は「平和大国」を目指すべきだと思います。

ここで言う「「平和大国」という言葉の「平和」という意味は「武力によらず、平和的な手段・方策によって恒久の真実の平和な日本と世界を創造し維持する」ということです。

その意味で、現政権の唱える「積極的平和主義」の「平和」という意味とはまさに真逆、というか、まったく次元が違うのです。

「積極的平和主義」の「平和」というのは「武力を背景にした、あるいは、その行使による一時的な武力衝突のない状態」というような意味です。

「積極的平和主義」というよりも、「戦争主義」と言った方がその真意が分かりやすいのではないでしょうか。

それではいつまで経っても「本当の平和な日本と世界が実現することはありません。

世界では、ごく小さな国々を除いて、ほとんどの国は「戦争主義国家」です。

そのあげくが、混乱し行き詰った今日の世界の有り様です。

「戦争主義」によっては平和な世界は実現できないことは、人類の歴史が、そして、現在の世界情勢が明らかに事実として証明しています。

ですから、日本がいまさら世界の「戦争主義国家」の仲間入りしても、混乱を助長するだけで、意味がないどころか、まったく逆効果になるでしょう。

それは、現政権になって日中関係や日韓関係などが非常に険悪な事態になってきている事実を見れば明らかです。

そういう意味でも、いまこそ日本は世界の国々の在り方から「一抜けて」、真の「平和大国」を目指すべきだと思うのです。

人類の歴史上、「平和大国」はいまだこの世界に存在したことがありません。

だからこそ、日本が世界に向けて率先して「真の平和大国を目指す」ことを宣言し、未来の世界の国々のあり方を身をもって示すべきなのです。

世界の国々と同じであればよいのではありません。

どんな国にもその国ならではの特長があります。その特長を伸ばして、それが「特化」した国になることによって、その国は「世界にとってなくてはならない国」になることができます。

そして、そのような国はかならずどんな国からも大切にされるでしょう。

日本という国の最大の特長は「現行日本国憲法の前文と9条」です。

この特長を活かさないという手はありません。

それをもっともっと積極的に活かして「平和的手段によって世界の幸福と平和に全力を挙げて貢献する国」に特化させること、「真の平和大国を目指す」ことこそ、私たち日本人ひとり一人の人類史的使命です。

真の平和実現のカギはあなたの手の中にあります。





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上昇気流に乗って  その4

上昇気流に乗って  その4

上昇気流に乗り、その流れに任せて生きていくと、仕事や健康、家族を含めた周囲との人間関係など、いろいろなことが好転し始め、それはますます活発になって行きます。

その動きは周りの人々にも影響を与え、家族や周りの人々の問題もよりよい方向に向き始めます。

それによって、自分自身の生き方もますます軽やかになっていきます。

そして、それがまた周囲の人々により良い影響を与えるようになります。

こうして、自分自身だけでなく、周囲の人々も変り、互いに良い影響を与え合い、その動きはスパイラル的に上昇していくのです。

この動きは自分自身と周囲の人々だけでなく、少しずつ社会全体に広がっていくでしょう。

ですから、大切なことは自分がまず上昇気流に乗ることです。

では、どうしたら上昇気流に乗ることができるのでしょうか?

それは前にも書きましたように、こころを全開にしてまごころ丸出しで生きることです。

自我は「自分は他と切り離された存在だ」と思っていますので、どんな時でもその小さな自分を守ろうとします。

自我から出てくる思いはどこまでもケチなのです。

でも、それは存在の真実ではありません。

真実の自己は「出会うものすべてわが“いのち“」なのです。

他と切り離された自分などというのはまさに妄想の産物であり、そのちっぽけな“自分“にどこまでも固執して、ケチな根性に引きずられながら生きていくことほど愚かなことはありません。

ですから、上昇気流に乗るためには、存在の真実をはっきりと明らめて覚悟することが絶対的に必要です。

そして、ケチな根性に捉われないで、こころの翼(つばさ)を一杯に広げて生きていると、気がつくといつの間にか上昇気流に乗っている自分自身に気付くことができるでしょう。

こうして、自分だけでなく周りの状況もしだいに上向いて行きます。

繰り返しますが、まず自分が真実の自己を自覚することがすべての”よいこと”の始まりです。

真実の自己を自覚すると、身もこころも軽くなります。

そして、何の気負いもなく、生き方が軽やかで爽やかで活発になっていきます。

周りの人々との関係や周囲もしだいになごやかなものになっていきます。

このようにして、自分だけでなく周囲の状況も好転していきますので、生きることがますます楽しくなっていきます。

まさに「日日是好日」の真実がこの世界に日々より大きく顕現していきます。

世の中には、何かの修行をして、「自分は悟った」という方もいらっしゃいますが、もし、それでも上に書いてきたようなことが、自然に起こってこないとすれば、「その悟りとやらいうものは本物ではない」と僕は断言したいのです。

たとえそれで自分の気分がよくなったとしても、それだけであれば、何の意味もありません。

本当の悟りとは、間違ったすべての観念が完全に脱落し、ただひたすら“いのち“のハタラキに任せて、生きていくその生き様そのものだからです。







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明らめと覚悟

明らめと覚悟

今までは 人のことだと 思ふたに

   俺が死ぬとは こいつはたまらん

これは江戸時代に生きた狂歌師であり洒落本作家であった大田南畝(なんぽ)の辞世の句です。

これを読んであなたはどのように感じましたか?

よほど人生に絶望して自ら死を望むという方を除いて、たいていの方は「まさにそうなのだろうな」というような感じを抱かれたのではないでしょうか。

それでも、よほど老年にならないかぎり、やはり死は依然として他人事(ひとごと)であって、自分の死を身近に感じることはないのでしょう。

それはそうなのでしょうが、いよいよ自らの死に直面して、「こいつはたまらん」とジタバタしたとしても、誰でもそのジタバタごと「立派に」死んでいくのです。

自らの死に直面して泰然自若(たいぜんじじゃく)として死んでいくのも、ジタバタしながら死んでいくのもどちらも見事な死です。

泰然自若として死んでいくほうがジタバタしながら死んでいくことより立派だということでは決してありません。

“いのち“の世界は本質的には合格・不合格の世界ではありません。

ですから、「安心して」ジタバタしながら死んでいけばよいのです。

それはそうなのですが、死の問題は別として、その他のことについては、自分の望まない事態に直面したとき、できるだけ動揺したり、ジタバタしないほうがよいと思います。

そのほうが、自分も楽だし、起きてしまった事態はそれはそれとしてすっきり受け止めることによって、もし事態を好転させうる可能性がある場合には、事態をよりよく好転することができるからです。

そういう意味で、どんなに自分が望まない状況に直面しても、つねにその状況をまずすっきりと受け止め、こころを陽にして、よりよい状況を創造していくことこそ、最も人間らしい生き方だと思います。

そんな場合に、「起きてしまったことは仕方がない」と気丈に歯を食いしばって頑張ることも立派と言えば立派だと言えましょう。

けれども、そのような態度・生き方はとても前向きであるように見えて、実は、根底に後ろ向きの感情が潜んでおり、それでは本質的に苦しみからのがれられないと思うのです。

なぜなら、起きることは自分の思いを超えて、ただ起きているからです。

ですから、僕は「起きてしまったことは起きてしまったこと。事実は事実」とすっきり受け止め、“いまここ”の事態に爽やかに対応し、将来に向けて明るく方策を練ることこそ真実の生き方、“いのち“のハタラキに沿う正しい態度・生き方だと思うのです。

悲しんでも、悩んでも、悔やんでも何にもなりません。

それでは、こころを後ろ向きに使って、こころが消耗するだけです。

こころに何かを持って放せないと、それに引っ掛かって、物事をありのままに見えなくなります。

そのようにして、真実の世界、真実の自己を見失って生きることは本当にもったいないことだと思います。

真実を明らめ、それを覚悟して生きたいものです。






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上昇気流に乗って  その3

上昇気流に乗って  その3

私たちが生きていくなかでの思いや行いや経験は死んでも何一つなくなるものはありません。

それらはすべて私たちのいろいろな評価を超えて、この世界の進化に寄与していくのです。

何が起ころうとすべてはいずれ到達すべきところに到達するのです。

何一つムダになるものはありません。

ですから、私たちは、根底においては、大安心して生きていればよいのです。

そうはではあるのですが、私たちが生きていくなかでの思いや行いや経験には楽しいと感じるものもあれば、苦しいと感じるものがあります。


たとえば、アネハヅルがヒマヤラを通過して南インドに抜けるルートは大きく分けて2つあります。

一つはうまく上昇気流を捉えて、それに乗り上昇してヒマヤラの山々を越えて行くルート(A)です。

もう一つはうまく上昇気流を捉えられない場合に、山と山の間の谷などの低いところをすり抜けて行くルート(B)です。

どちらのルートでも目的地に到着することはできますが、この2つのルートを比べると、ルートBのほうが楽なように思われるかもしれませんね。

でも、実は、ルートBは低いところを長い距離ずっと自力でバタバタ羽ばたきしながら跳ばなければならないのでとても大変なのです。

それに対して、ルートAは上昇気流を捉えるまでは大変なこともあるかもしれません。

けれども、いったん上昇気流に乗ることができれば、羽を大きく広げ、すべてを気流に任せれば、自分であくせく頑張らなくても、自動的に山々を越えることができます。


そして、その後も風に乗り悠然と滑空して長距離を跳んでいくことができるのです。

ルートAとルートBのどちらが楽かということは明らかです。

アネハヅルはどうしてもルートA(楽な道)に乗れないときにのみルートB(苦しい道)を取っているようです。

では、私たち人間はどうでしょうか?

一般的言えば、私たちは「この人生には苦労がつきものだ」と思っているのではないでしょうか。

そして、少しでも苦から逃れて楽に生きられるようにと、あれこれ努力しながら生きていかなければならない、というのが私たちの人生の姿と言えるのではないでしょうか。

この生き方はルートはBしかないと思ってルートBに乗って生きているということです。

これは大変損な生き方です。

なぜなら、ルートBは妄想によって作り出されたものだからです。

というのは、この世界には明らかにもう一つの道、というか、“いのち“本来の道、あるいは、真実の道が厳然として存在しているからです。

ルートA、つまり、上昇気流をに乗ることができれば、私たちはこの人生をどこまでも楽にスムーズに生きていけるのです。

そのためには、羽を大きく広げ、“いのち“の風を感じて、それにすべてを任せればよいのです。

そうすれば、あなたはいつの間にか一切の苦もなく、どこまでも高く遠く飛翔している自分に気がつくでしょう。

上昇気流は“いまここ”に誰の目の前にもあります。











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