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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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不思議なガラス板  その3

不思議なガラス板  その3

五感と大脳を通すと、この世界は空間3次元・時間1次元の4次元の世界だと認識されます。

このように4次元として認識された世界の存在はもともとすべてバラバラで切り離された存在であると大脳は捉えます。

したがって、大脳による思考もそのために使用される言語も4次元世界においてすべてはバラバラであるということを前提として、すべてを二元相対的にしか思考することも、また、表現することもできません。

ところが、現代の進んだ物理学によれば、この世界は10次元の世界とも11次元の世界とも言われています。

それが存在の真実であるとすれば、これは私たちの通常の感覚や思考では捉えられない世界であり、私たちの通常の言葉では表現不可能であるということを意味しています。

現代物理学の話はともかく、存在の真実は、思考ではなく、深い瞑想状態にある時や、何かのきっかけで通常の思考が停止状態にある時に、一元絶対の世界を体験的に捉えることができるのです。

つまり、私たちの思考では存在の真実を捉えることはできないのであり、存在の真実は言葉によって正確に表現すること不可能であるということです。

そして、存在の真実を表現しようとすると、言葉による表現の限界そのものによって、存在の真実の姿がゆがんでしまうばかりでなく、思考さえもゆがめられて、ますます存在の真実から遠ざかってしまいます。

たとえば、「自分とは何か?」という問いを発する場合に、すでにその問い自身に間違い、あるいは、限界があります。

それは「自分」という言葉はすでに「他」というものを前提にして、「他とは別の」という意味を含んでいます。

存在の真実を徹見すると、「他とは別の」ものなど存在しないので、「自分」という言葉自体が存在の真実に反してしまい、「自分とは何か?」という問い自体が意味を成しません。

では、「自分はこの世界のすべてのものとぶっ続きである」という表現はどうでしょうか?

これも「自分」という言葉を使っているかぎり、せいぜい「他とは別の存在である“自分“という存在は何らかの形や意味いおいて、“自分“とは別の存在であるすべてのものと”繋がり“がある」という意味にしか取ることができません。

そもそも、「繋がり」という言葉自体が「複数の別々の存在がある」ということを前提として使われています。ですから、厳密に言えば、「もともと別々のもの間に何かの関係がある」という意味にしか解釈できません。

存在の真実においては、「自分」も「他」も「繋がり」も「関係」などというものも最初から存在しません。

たった一つのものが在るだけです。

それは“いのち“です。

この世界にはたった一つの“いのち“というものしか存在しません。

4次元的には、“いのち“がいろいろな綾模様のように見えていますが、この世界自体が一つの“いのち“であり、複数の異なる“いのち“が個として存在しているのではないのです。





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不思議なガラス板  その2

不思議なガラス板  その2

不思議なガラス板の左側の景色は五感と大脳によって捉えられたこの世界の姿です。

けれども、五感と大脳はこの世界を空間のタテ・ヨコ・高さの3次元と時間の1次元を合わせた4次元の世界であるとしか認識することができません。

五感はそれらを通して捉えた情報だけを大脳に伝達します。また、大脳は五感による情報に基づいて4次元の世界を認識・判断するようになっています。

つまり、大脳はこの世界の存在を二元相対的にしか思考することができません。

その結果、私たちは五感と大脳のハタラキによって、この世界は4次元の世界であり、この世界をもともとバラバラで別であるものを寄せ合わせた世界であると認識するのです。

それに対して、五感や大脳のハタラキに捉われずに、不思議なガラス板の右側からこの世界を見ると、五感で捉えたすべての存在はそのまま見えていながら、同時に、そのすべてがバラバラのものではなく、同じ一つのものであることが、理屈ではなしに、はっきりと見えます。

その同じ一つのものは何と表現したらよいのでしょうか? 私たちの大脳は二元相対的にしか働かないので、それをうまく表現できる適切な語彙が見つかりません。

それで仕方なく、和田重正先生にならって、僕も“いのち“という言葉を使っているわけです。

多分、仏教で使われている「空」や「心」も同じものだと推察しているのですが、私たち現代人にイメージが湧きやすいように、「(すべての存在の本質、あるいは、根源である無限の)エネルギー」とでも言えばよいのかもしれませんね。

「エネルギー」という言葉の代わりに、「気」という言葉でもいいかもしれません。

いずれにしても、五感や大脳を通してみるとこの世界のすべてのものはバラバラに見えて、いろいろたくさんのものがあるように見えています。

けれども、右側の世界から見えることは、この世界は一つの“いのち“で成り立っているということです。

いくつものものがあるのではありません。

いくつものものが、それぞれ個を保ちながら、すべて「繋がっている」、あるいは、「関連し合っている」ということではないのです。

たとえば、「自分」というものがあって、その自分が、実は、この世界の他のすべてのものと「関連し合っている」というのではありません。

「自分」なんてないのです。

「他」なんてないのです。

「自他がない」というのはそういう意味です。

要するに、“いのち“しかないのです。

にもかかわらず、この世界のなかの姿かたちの異なった人間がそれぞれ、五感と大脳のハタラキによって、「自分」、「他」などと意識しながら生きている事実には深い意味があるのだと思います。

この事実の意味を本当に理解したときに、はじめて私たちは「自分とは何か?」「自分は何のために生まれてきたのか?」「自分はどう生きればよいのか?」ということをはっきりと自覚することができるでしょう。




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不思議なガラス板 その1

不思議なガラス板 その1

僕はこのブログで存在の真実を皆さんがまず知的に理解すること、そして、できれば、それを一つの指標として、皆さんご自身がそれを体験的に捉え、自覚を深めることを願って、いろいろな角度から、自分なりにいろいろと工夫して書いています。

けれども、その作業は決して容易なものではありません。というのは、存在の真実は私たちの五感と大脳によっては充分に捉えることができないからです。

それどころか、多くの場合、それは間違ったものになってしまうからです。

そこのところを充分理解していただくために、今回は『もう一つの人間観』和田重正著 地湧社刊 の第二部にある『不思議なガラス板』という章の一部をご紹介します。

僕は「自分とはなにか?」ということをテーマとした本書は稀有の名著であり、万人に読んでいただきたいと思っています。

皆さんにはぜひ本書を購入していただき、何回も精読して、ぜひ和田先生の真意を読み取り、存在の真実への自覚に目覚め、それを深めていただきたいと思います。


不思議なガラス板

特殊なガラス板が立っている。

その右側からは左側の様子が最大も漏らさず透けて見えるが、左側からは右側の様子は全く見えない。従って、左側にいる人はガラスの向こう側には何もないと思っている。
ところが、実は右側には「意味」の詰まった“いのち“が充満しているのだ。この“いのち“の中からは左側の風景が手に取るようにわかる。

 近年、左側では物質科学というものが流行っていて、目に見える現象を研究している。

 (中略)

 物の存在の本質と真相は、左側にあってどんなに精密に観察してみても捉え得るところではない。所詮分断孤立を更に再分化するだけで、どこまで行っても不可分一体そのものの証明にはならない。

 近年、科学者であると同時に宗教者である人々が科学と宗教の融合点を指摘し、宗教所説の科学的合理性を立証しようと試みることがあるが、左側に立っての“推測”は右側に身を置いて得る“実感”とはまるで異なるものであることを無視しては誤りに堕ちる。
しかし、左側の風景は右側の内容と無関係でないことは勿論である。

人は、右側の世界に充満している“意味”を五感という特殊ガラスを透して、左側の時間空間の枠に具象化して投影したものを大脳が捉えて、「これは我」「あれは彼」と認めているのである。そして、その風景にのみ関心が集中しているわけだ。

もしこの理を納得したならば、誰でも直ちに右側の大調和の世界を体験し、すべてのこだわりを脱して自由を得るにちがいない。その自由の中でこそ、何億年かけてわれわれが単細胞時代以来の進化の途上で蓄積してきた無量の智慧が、われわれの現実の生活に発動するのである。

五感と大脳という特殊ガラス板を作った造化の妙。

このガラス板成立の進化論的意義を解明する人があるだろうか。―――そこから文明論が展開するのだが。

(以下略)





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人類史上最悪の惨事

人類史上最悪の惨事

人類史上最悪の惨事は毎日世界中でいまこの瞬間にも起きています。

それは一体何だと思いますか?

それは毎日世界中でタバコによって人が死んでいるという事実です。

「また、タバコか!」と思われた方も多いでしょう。

「自分はタバコは吸わないし、このブログで散々タバコについて読んだので、おかげでもうタバコについては充分すぎる知っているよ。ここは飛ばしてしまおう。それにしても、昇平というのは懲りないヤツだなあ」とでも思われたのではないでしょうか?

ちょっと待ってください。実は、だからこそこのブログをいま書いているのです。

すぐに読めてしまいますから、どうか最後まで読んでみてください。

WHO(世界保健機構)などによると、タバコを長年吸っている人の2人に1人がタバコに起因する病気で死ぬそうです。

(だからあ。自分はタバコを吸わないのだから、関係ないって!)

(でも、もうちょっと待ってください)

タバコに起因する病気で毎年死亡する人は日本でも10万人以上、世界では500万人以上だそうです。

500万人というのはどのくらいか? いまひとつ実感が湧きにくいですね。

つい数週間前にアルプスで旅客機が墜落して、乗員と乗客合わせて150人全員が死亡した事故があり、世界中で大ニュースとなりましたね。

毎年タバコで500万人が死亡しているというのは、毎日毎日世界中で150人乗りの旅客機が約90機墜落し、全員が死亡していることと同じなのです。

私たち人類は有史時代に入って以来、これほどの惨事を他に経験したことはありません。

そしてこれからも、全面核戦争の勃発、あるいは、毎年世界中で10基以上の原発が爆発でもしないかぎり、あるいは、地球に大きな隕石が衝突して大爆発でもしないかぎりこれ以上の惨事は起こらないでしょう。

それに、タバコを吸わない人の多くは「タバコを吸う人は自分で勝手に吸っているのだから、それで病気になったり死んでも自業自得だ、あるいは。仕方がない」と思っているようです。

でも、タバコを吸っている人たちは「将来タバコで病気になっても、タバコで死んでもいいや」と思ってタバコを吸い始めたわけではないのです。

彼らはせいぜひ「喫煙はちょっと不潔な習慣であり、タバコは吸いすぎに気をつけさえすれば大丈夫な嗜好品だ」と思って吸い始めたのです。

そうして、吸い続けるうちに多くの人が「タバコをやめたい」と思うのですが、止められないので、仕方なく吸っているのが実態なのです。

タバコには吸い始める自由はあっても、止める自由はないのです。

タバコは止めようと思っても、意志の力を使っても止めるのがとても難しいのです。

ですから、タバコは嗜好品ではなく、依存性の強い薬物(麻薬)であるといったほうが適切な表現です。

そして、スモーカーは自由意志で吸っているのではなく、タバコという強烈な麻薬の罠に落ちてもがいているあわれな犠牲者なのです。

僕は世界中のすべてのスモーカーを助けたいのです。

そもそも、それが31歳のときに僕がタバコを吸い始めた唯一の動機でした。

それ以来僕は自らを実験台として「誰にでもできる簡単にタバコをやめる方法」を研究してきました。

幸いにもその答えはずっと前に発見することができました。

その発見以来僕が取り組んできたことは、機会を見つけてはタバコの真実を人々に伝えることです。

現在は誰でも一読するだけで喜んで簡単にタバコがやめられる文章をA4版用紙1枚に収まるように書こうといろいろ工夫しています。

アタマだけで「自他一体が分かった」、あるいは、瞑想中に「自他一体を体験したとしても、その人の生き方自体が「生きとし生けるものへのあふれるばかりの親愛の情に基づいた生き方にならなければ自分自身が本当に幸福になることはできません。

「何事も他人事ではどこまで行ってもエゴの生き方だ」ということを自分自身の反省から強く思います。





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春秋

春秋

春と秋は10年ほど前に一緒に生まれた2匹の兄弟ネコです。

2匹はいつも一緒でとても仲良しでした。

でも、春と秋の姿形や性格、そして、鳴き声やいろいろな仕草は、お互いに兄弟ですからもちろん似たところもありましたが、それぞれかなり違っていました。

2匹は順調に成長していたのですが、1歳近くになったとき、秋がウイルス性のひどい風邪に罹ってしまいました。

春は心配なのか、いつも秋の周りで静かにうずくまっていました。

けれども、懸命な看病にもかかわらず、秋の様態はますます悪くなってしまいました。

とうとう、秋は静かに息を引き取りました。

そのとき!

春がすっと立ち上がって僕の方に寄って来て鳴きました。

「ミャーッ!」

その鳴き声は秋の鳴き声そっくりで、僕はびっくりしました。

その後、春の様子を見ていると、鳴き方も歩き方も顔の洗い方も、何から何まで秋にそっくりです。

どう見ても秋が春の体に入り、春の体を使って春と秋の2匹が仲良く生きているとしか思えないのです。

我が家のみんなも同じ意見です。

それからはみんな春のことを「春秋」と呼ぶようになりました。

正直に言って、何がどうなっているかは分からないのですが、我が家で生まれ育った数多くのネコたちの間では時々このような不思議な現象が起きます。

僕には「私たちの肉体が死んだ後も魂は生き続ける」、つまり、輪廻転生ということが本当かどうかは分かりません。

本当かもしれませんが、どちらかと言えば、輪廻転生説については僕の考えは否定的であり懐疑的です。

最近では臨死体験などを含めて、「大きな光を見た」とか「神様に出会った」などという神秘体験したという方も数多くいらっしゃるようです。

僕はそういう体験を実際に体験されたということは認めるとしても、それらはある種の極限状態で起きた脳内現象ではないかと考えています。

「自分の肉体が死んでも自分の魂は死なない」というのは、僕には本当かどうかは分かりませんが、「個である自分、他と切り離された自分」に執着するところから、そのような説にかじりついているようにも思えるのですが、どうでしょうか?

でも、真実は、自分は天地一杯の“いのち“であり、他と切り離された”個である自分”などないのです。

ただ、人が見かけ上個人としてこの世界に生まれてから死ぬまでのすべての思考体験や実際の体験のデータは決して消えてしまうわけではないように思います。

以下はあくまで僕の推察であり仮説にすぎません。

私たちの思考体験や実際の体験のデータは私たちの本質である“いのち“のデータバンクに何らかの形で保存されるようになっている。

そのデータを別の個体がこの世界に生まれてくるときに、それらを取り込んで生まれてきたり、それらのデータを別の個体がアクセスして活用できるようになっている。

このように考えると、生物の進化の仕組みや春と秋のことなどもある程度うまく説明できるように思うのです。





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豆助

豆助

僕の名前は豆助です。

僕はまだ生まれて6ヶ月の子ネコです。

この山の家には現在僕のほかにも親やお祖母さんや叔父さんや叔母さん、そして兄弟たち、全部で11匹のネコが暮らしています。

僕たちはみんな血が繋がった一つの大家族です。

他の兄弟たちはどう思っているのかよくわからないのですが、実は、僕はネコの姿はしていても、ネコと人間のハーフだと思っています。

つまり、僕はお母さんはネコですが、お父さんは間違いなく人間だと信じているのです。

お母さんは僕たち兄弟を生んでからも毎日何回も僕たちにミルクを飲ませてくれたり、おしっこの世話などをしてくれました。

だから、僕には生まれたときから、いや、まだお腹のなかにいたときから、お母さんが誰かということは分かっていました。

生まれて1ヶ月ほどまでは、まだ、足が弱くて上手に歩けなかったので、毎日ほとんどの時間をお母さんのミルクを飲んだり、お母さんや兄弟たちと一緒に寝て過ごしていました。

そうしているうちに、ベッドの周りを少しずつ歩けるようになってきたのですが、「僕のお父さんは誰だろう?」ということが気になってきました。

しばらくして、家の中を少しずつ少しずつ活発に歩けるようになってきました。

ある日よちよちテーブルのほうに歩いていったときに、ズボンを履いた大きな足にぶつかってしまいました。

その瞬間、僕はなんだかとてもなつかしい気持ちがしました。そして、「ずっと前から僕はこの足を知っている!」と思ったのです。

僕はまだ手足の力は弱かったのですが、勇気を出して、少しずつそのズボンを登り始めました。

その時、ズボンを履いたその人は「おやっ!」と思ったようです。

こうして何とか頑張ってイスに坐っているその人の膝まで登りました。

そうして、はっきりわかったのです。

「僕は生まれる前もいつもこの膝に坐って眠っていた!」

そして、その人の顔を見上げました。

「なぁんだ! お父さんだったのか!」

お父さんもそんな僕を見て、微笑みながら「やっと分かったようだなぁ」と言いました。

その時以来、その膝は僕の定位置になりました。

もちろん、僕は他の兄弟や叔父さん、叔母さんたちと一緒に追いかけっこしたり、家の外に冒険に出かけたりもします。

でも、やっぱりお父さんの膝の上が一番落ち着くので、しょっちゅうポンと飛び乗ってはお父さんの膝でくつろいでいます。

でも、一緒に生まれた他の兄弟は何となく「その人がお父さんだ」とは感じているようですが、僕のようにズボンを登っている様子はあまりありません。

そのうちに、アッピという大きいお兄さんも時々僕と同じようにお父さんの膝でくつろいでいることに気がつきました。

そこで、アッピ兄ちゃんに尋ねてみました。

アッピ兄ちゃんはびっくりしたような感じで言いました。

「そんなの当たり前だろ! 生まれるずっとずっと前から僕らのお父さんはお父さんだったんだから。」

それを聞いて僕はとても嬉しくなりました。

やっぱり、僕のお父さんは人間だったんだ!






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